﹃階
書
﹄
西
域
伝
、
﹃
周
書
﹄
異
域
伝
(
下
)
の
訳
注
小
谷
仲
男
菅
沼
愛
語
目 次 訳者 のまえがき 52 ﹃階書﹄ 巻八十 三西域伝 56 ﹃ 周 書 ﹄ 巻 五 十 異 域 伝 ( 下) .. .. 5152 訳者 の ま え が き ﹃新 唐 書 ﹄ 西 域 伝 ( 小 谷 ・ 菅 沼 二〇 一 〇 、 二〇 一 一 ) に ひ き つ づ いて 、 今 回 は ﹃ 階 書 ﹄ 西 域 伝 と ﹃ 周 書 ﹄ 異 域 伝 ( 下 ) の訳 注 を 作 成 し た 。 ﹃階 書 ﹄ (唐 ・ 魏 徴 等 撰 ) と ﹃ 周 書 ﹄ (唐 ・ 令 孤 徳? 等 撰 ) の編 纂 は ほ ぼ 同 じ こ ろ に 着 手 さ れ 、 貞 観 十 年 ( 六 三 六 ) 同 時 に完 成 し た 。 ﹃北 斉 書 ﹄ (唐 ・ 李 百 薬 等 撰 ) も 同 時 に完 成 し た が 、 西 域 に 関 す る 列 伝 は 作 成 さ れ て い な い。 北 周 の統 治 は 西 暦 五 五 六 ∼ 五 八 一 年 、 階 は 五 八 一 ∼ 六 一 八 年 と 次 の唐 朝 約 三 百 年 と 比 較 す れ ば 、 短 命 な 王 朝 で あ った。 こ の両 朝 は 中 国 中 世 の長 い分 裂 時 代 の 最 後 に位 置 す る。 中 国 の国 内 が 分 裂 し 、 内 部 で対 立 し あ う こ と にな れ ば 、 対 外 政策 は ど う し ても 消 極 的 に な らざ る を 得 な い。 こ の分 裂 か ら統 一への過 渡 期 に お い て、 西 域 政 策 そ し て西 域 の歴 史 が ど のよ う に変 化 す る か は 興 味 深 い 。 北 周 、 北 斉 が華 北 を 二分 し て交 戦 し て いた 時 、 両 国 と も 北 方 遊 牧 民 族 の突 厥 に 支 援 を も と め 、 競 って多 額 の贈 物 を 提 供 し 、 皇 女 を 差 し 出 し て婚 姻 関 係 を 結 ん だ 。 当 時 の突 厥 他 鉢 可 汗 は ﹁ た だ 、 わ が 南 方 に 二 人 の孝 行 息 子 が いる か ぎ り 、 ど う し て物 の不 足 を 憂 う こ と が あ ろ う (但 使 我 在 南 両 箇 児 孝 順 、 何 憂 無 物 邪 ) ﹂ ( ﹃ 周 書 ﹄ 突 厥 伝 ) と 豪 語 し た と い う 。 し か し 、 ま ず 北 周 が 北 斉 を 併 合 し て 華 北 を 統 一 ( 五 七 七 年 ) 、 つ いで 北 周 を つ いだ 階 が 南 朝 の 陳 を 併 合 す る と (五 八 九 年 ) 、 ふた た び 中 国 に 政 治 的 統 一 が も た ら さ れ た 。 中 国 に統 一 王 朝 が 出 現 す る と 、 東 アジ ア に お け る 南 北 の力 関 係 は 次 第 に変 化 し は じ め る 。 し か し ま だ 全 国 統 一 し た ば か り の階 は 、 南 北 を つな ぐ 大 運 河 の改 修 、 万 里 の 長 城 の改 築 な ど 統 一 維 持 の た め の大 事 業 を 抱 え て いた 。 武 力 を 行 使 し て 突 厥 を 圧倒 す る余 力 は な か っ た 。 階 の文 帝 と煬 帝 、 そ の も と で外 交 を 担 当 す る 斐 矩 と は 、 む や み に 武 力 を も ち いず 、 策 略 に よ って 突 厥 勢 力 を 分 断 す る 方 針 を と っ た 。 そ のた め に は 情 報 収 集 が 必 須 で あ った 。 斐 矩 は 辺 境 視 察 の た め 、 何 度 か 張 掖 、 敦 煌 に 派 遣 さ れ た 。 そ う し た な か で製 作 さ れ た のが 斐 矩 撰
『階 書』 西 域 伝 、 『周 書 』 異域 伝(下)の 訳注 53 ﹃西 域 図 記 ﹄ 三 巻 と 章 節 撰 ﹃ 西 蕃 記 ﹄ であ っ た 。 ﹃ 階 書 ﹄ 巻 六 七 斐 矩 伝 、 ﹃ 旧 唐 書 ﹄ 巻 六 三 斐 矩 伝 に は 次 の よう に記 さ れ る 。 大 業初 ( 六〇 五∼ 六年 )当 時、 西域 諸 国 の人び と は張掖 ( 甘粛省 ) の 中 国人 城塞 を 訪 れ、交 易を し て い た。 煬帝 は斐 矩を 張 掖 へ 派遣 し て交 易事 務 を管 掌 さ せた。 斐 矩 は皇 帝 が将 来、 対外 政 策 を拡 大 し (遠 略 ) 、 北方 遊 牧 民族 を平 定 した い (欲呑 併夷 狭 )と 考え て いる ことを 知 り、 そ の 機 会 に西 域諸 国 の 風 俗 、地 理 ・ 地 勢 (山 川険 易 ) 、君 長 や名 族 、物 産 や服 飾 に つい て聴 取 ・ 観 察 した。 そ れ にもと づき 、 ﹃西 域 図記﹄ 三巻 を 著述 し、 皇帝 に献 上 した ( ﹃旧 唐書﹄ 巻 六 三斐矩 伝) 。 な お そ の序 文 に よ ると 、 取 り 上 げ た 国 数 は 四 十 四 、 そ れ ぞ れ の 国 の服 飾 儀 礼 、 国 王 ・ 庶 民 の容 貌 を 模 写 し た 彩 画 図 を 付 し 、 そ れ と は ま た 別 に 戦 略 上 の 要 害 を 印 し た 地 図 を 作 成 し た と い う 。 ﹃ 西 域 図 記 ﹄ の完 成 年 に つ いて は 正 確 な 記 載 が な いが 、 内 田 吟 風 の研 究 に よ れ ば 、 大 業 二年 ( 六 〇 六 ) と す る の が妥 当 で あ る (内 田 吟 風 一 九 七 三 " 一 二 二) 。 残 念 な が ら 本 書 は 宋 代 に は 散 逸 し てし ま い 、 現 在 で は 若 干 の断 片 が 引 用 文 献 か ら 知 ら れ る の み であ る。 た だ 、 そ の序 文 全 体 は ﹃階 書 ﹄ 斐 矩 伝 に 載 せ ら れ て お り 、 同 書 ﹁ 西 域 伝 ﹂ 序 の冒 頭 も そ の 一 部 で あ る。 し た が って本 書 が 西 域 伝 の主 要 な 材 料 にな っ た こと は 明 ら か であ る 。 同 じ く ﹃階 書 ﹄ 西 域 伝 の主 要 な 情 報 源 に な っ た も のに 、 章 節 の ﹃ 西 蕃 記 ﹄ が あ る 。 し か し こ の 書 も 散 逸 し 、 ﹃通 典 ﹄ 辺 防 な ど に 一 部 分 が 引 用 さ れ 、 保 存 さ れ る に と ど ま る。 ﹃階 書 ﹄ 西 域 伝 の序 に ﹁ 煬 帝 時 、 遣 侍 御 史 章 節 、 司 隷 従 事 杜 行 満 、 使 於 西 蕃 諸 国 ﹂ と 記 し て いる の が そ れ であ る 。 た だ 、 章 節 と 杜 行 満 ら の出 発 ・ 帰 国 が 煬 帝 治 世 の何 年 で あ っ た か の 明 言 が な い。 煬 帝 は 大 業 六年 (六 一 〇 ) に 西 方 巡 行 に出 か け 、 そ こ で 西 突 厥 可 汗 の処 羅 と 面 会 し よ う と 試 み 、 そ れ は 実 現 し な か った 。 そ の時 、 章 節 が 可 汗 のも と に 招 致 に 派 遣 さ れ て いる の で 、 そ の こ ろ、 か れ ら は 西 域 への出 発 準 備 中 か 、 そ の途 上 に あ った の で は な いだ ろ う か 。 斐 矩 の ﹃ 西 域 図 記 ﹄ の情 報 に も と づ き 、 実 地 検 証 の旅 に出 た と 考 え ら れ る。
54 ﹃ 陪 書 ﹄ 西 域 伝 の波 斯 国 (サ サ ン朝 ペ ル シ ア ) 条 に は 、 煬 帝 が 朝 貢 を 促 す 使 者 と し て李昱 を 派 遣 し た こ と が 記 さ れ て い る が 、 李 豊 も 章 節 と 同 じ 一 行 の メ ン バ ー であ っ た 可 能 性 が あ る。 一 行 は そ れ ぞ れ 分 担 し て ペ ル シ ア やイ ン ド を 含 む 西 域 諸 国 を 歴 訪 し 、 情 報 の収 集 にあ た っ た と お も え る。 ﹃通 典 ﹄ 辺 防 、 轍? (掲 但 ) 条 に つぎ の よう な ﹃ 西 蕃 記 ﹂ の 一 文 が 引 用 さ れ て いる 。 ﹁ 章 節 ﹃西 蕃 記﹄ 云 。 親 問 其 国 人 、 並 自 称 把 聞 。 ( 章 節 が そ の国 の人 た ち に直 接 た ず ね る と 、 み な ロ を そ ろえ て自 分 た ち は エフ タ ル (把 關 ) であ る と いう 。 ) ﹂ エ フ タ ル に つ い て さ ま ざ ま な 漢 字 表 記 、 出 自 説 が あ り 、 章 節 は 現 地 で エ フ タ ル人 を つか ま え 、 当 人 た ち が 実 際 に 何 と 発 音 し て いる か確 か め た の で あ ろ う 。 ( ア フガ ニ スタ ン の西 北 部 バ ダ フシ ャ ン に は 現 在 に も ヤ フ タ ル と い う 地 名 が 残 って い る。 小 谷 仲 男 一 九 六 六 " 四 〇 〇 ∼ 四 〇 二 ) ﹃階 書 ﹄ 西 域 伝 に は そ の よう な 現 地 に 赴 い て収 集 し た 材 料 が 含 ま れ てお り 、 そ の内 容 に は 前 代 に 見 ら れ な い新 鮮 さ が あ る。 し か し 、 そう し た 情 報 収 集 の第 一 の目 的 は 先 に 述 べ た と お り 、 北 方 の遊 牧 民 族 、 と り わ け 突 厥 の動 静 を さ ぐ る た め のも の で あ っ た 。 次 に ﹃ ( 北 ) 周 書 ﹄ 異 域 伝 に つ い て述 べ る 。 北 周 書 の外 国 伝 に 関 す る 列 伝 は 巻 四 十 九 、 異 域 ( 上 ) と 巻 五 十 、 異 域 ( 下 ) のみ であ る 。 東 夷 、 南 蛮 伝 に相 当 す るも のが 異 域 ( 上 ) 、 北 秋 、 西 戎 ・ 西 域 伝 に相 当 す る も の が 異 域 ( 下 ) に 載 せ ら れ る。 今 回 、 訳 注 し た の は 異 域 (下 ) の突 厥 を 除 いた 残 り の吐 谷 渾 か ら 波 斯 国 (サ サ ン朝 ペ ル シ ア) ま で の 十 力 国 で あ る 。 突 厥 を 除 いた のは 、 そ れ が 北 秋 に 属 す る の と 、 す で に 山 田 信 夫 ( 一 九 七 二 " 二九 ∼ 三 八 ) の 訳 注 が 存 在 す る か ら で あ る。 な お、 異 域 伝 全 体 に付 さ れ た 序 と 、 巻 末 の ﹁ 史 臣 日 ﹂ は今 回 の 訳 注 に加 え た 。 ﹃周 書 ﹄ の 取 り 上 げ る 西 域 十 力 国 は 、 ﹃階 書 ﹄ 西 域 伝 の 二 十 三 力 国 に 比 べ て半 数 にも 満 た な い 。 や は り 中 国 中 世 の 分 裂 状 況 を 反 映 し た と いえ る 。 そ の 中 に あ って ﹁ 吐 谷 渾 ﹂ が 他 国 に 比 べ て 詳 細 な の が 特 異 であ る 。 階 が 南 朝 最 後 の 陳 を 滅 ぼ し た 時 ( 五 七 七 年 ) 、 一 番 大 き な 打 撃 を 被 る の が 吐 谷 渾 で あ る。 吐 谷 渾 は 青 海 地 方 に 拠 点 を 置 く 牧 畜 生 活 の 民 族 で、 地 の 利 に よ って 青 海 か ら 都 善 ( ロ ー ラ ン) へ 、 ま た 青 海 か ら 河 西 回廊 (甘 粛 ) へ 、 さ ら に そ こ か ら 江 南 の南 朝 へ と 通 ず る 独 自 の交 易 ル ー ト を 開 拓 し 、
『階書 』 西 域 伝 、 『周 書 』 異 域伝(下)の 訳注 そ れを 掌 握 し て いた 。 河 西 回 廊 か ら 北 朝 に行 く こ と も 容 易 であ った 。 背 後 に は のち の 吐 蕃 ( チ ベ ット ) が 控 え て いた は ず で あ る が 、 吐 谷 渾 が 健 在 で あ る限 り 、 シ ル ク ロー ド 交 易 には 参 加 でき な い 。 北 魏 か ら 北 周 の時 代 が 吐 谷 渾 の全 盛 期 で あ った 。 こ の吐 谷 渾 に 深 い思 い 入 れ を 持 って 歴 代 正 史 の吐 谷 渾 伝 を 英 訳 し た の が ζ o す Ω 鋤 訂 一① 一冨 (一 〇 刈 O ) であ る 。 そ こ に は ﹃ 北 史 (周 書 ) ﹄ 、 ﹃階 書 ﹄ 吐 谷 渾 伝 の 訳 注 が 含 ま れ る。 ま た 、 ﹃ 周 書 ﹄ 異 域 ( 下 ) に つ い て は 、 ζ臼Φ 5 国 o く ︾口 脅 ① 妻ω ( 一 ㊤ $ ) の英 訳 が あ る 。 そ れ は 異 域 ( 下 ) の突 厥 、 吐 谷 渾 を 除 く 、 残 り 九 力 国 に つ い て訳 注 し た も の で あ る。 護 濠 N は 翻 訳 に 取 り 組 ん だ 理 由 を 、 中 国 人 が 書 き 記 し た 西 域 諸 国 の 珍 し い 記 事 そ のも のよ り も 、 そ こ に 反映 す る中 国 人 の伝 統 的 歴 史 観 の ほ う に よ り 興 味 が ひ か れ る と 説 明 す る。 私 た ち も 中 国 正 史 の西 域 伝 を 訳 注 し な が ら 、 そ れ が 私 た ち 外 国 人 に と って 中 国 人 の 歴 史 観 や世 界 観 を 、 ま た そ の変 化 を 知 る格 好 な 史 料 で あ ると 実 感 す る の で 、 そ の見 方 に は 同 感 であ る 。 ≦ 濠 N が 翻 訳 の底 本 に し た の は百 柄 本 であ っ た 。 テ キ スト の校 勘 に苦 心 し た と いう が 、 ま だ 中 華 書 局 の ﹃ 周 書 ﹂ が出 版 さ れ て いな か っ た 時 期 で あ る。 今 、 中 華 書 局 本 ﹃ 周 書 ﹄ 異 域 ( 下 ) の校 勘 記 と ﹃階 書 ﹄ の そ れ と 比 較 す る と 、 ﹃周 書 ﹄ 校 勘 記 の ペー ジ 数 が 圧 倒 的 に多 い こと に 気 づ く 。 今 回 の訳 注 にあ た って私 た ち が 使 用 し た テ キ スト は 前 回 と 同 様 に 中 華 書 局 出 版 の標 点 本 (階 書 一 九 七 三年 版 、 周 書 一 九 七 一 年 版 ) であ る。 そ の ほ か ﹃歴 代 各 族 伝 記 会 編 ﹄ 第 二 編 下 、 中 華 書 局 出 版 一 九 五 九 年 、 ﹃中 西 交 通 史 料 彙 編 ﹄ 第 五 冊 、 世 界 書 局 一 九 六 九 年 、 余 太 山 撰 ﹃ 両 漢 魏 晋 南 北 朝 正 史 西 域 伝 要 注 ﹄ 中 華 書 局 出 版 二 〇 〇 五年 を参 照 し た 。 55
56 ﹃階 書 ﹂ 巻 八 十 三 西域 伝 ﹃階 書﹄ 西域 伝訳 注細 目 11 10 9 8 7 6 5 4 3 2 1 西 域 伝 序 吐 谷 渾 (と よ く こ ん ) 党 項 ( タ ン グ ー ト ) 高 昌 ( ト ル フ ァ ン) 康 国 ( サ マ ル カ ン ド ) 安 国 ( ブ ハ ラ) 石 国 ( タ シ ュ ケ ン ト ) 女 国 焉 誉 (カ ラ シ ャ ー ル ) 亀 弦 (ク チ ャ) 疏 勒 (カ シ ュガ ル) 干 閲 (ホ ー タ ン ) 23 22 21 20 19 18 17 16 15 14 13 12 鐙 汗 ( フ ェル ガ ナ ) 吐 火 羅 (ト カ ラ ) 抱 但 ( エ フ タ ル ) 米 国 ( マイ ム ル グ ) 史 国 ( キ ッシ ュ) 曹 国 ( イ ス テ ィ ー カ ー ン ) 何 国 ( ク シ ャ ー ニ ー ヤ ) 烏 那 局 ( ア ン フ オ イ ) 穆 国 ( ア ー ム ル ) 波 斯 ( ペ ル シ ア ) 漕 国 (カ ー ピ シ ー ) 附 国 (プ ー 、 ピ ャ ー ユ ル )
『階 書』 西 域 伝 、 『周 書 』 異 域伝(下)の 訳 注 57 西 域 伝 序 前 漢 の時 代 にな って 、 初 め て 中 国 と 西 域 と の通 交 が 開 か れ た 。 当 初 、 西 域 諸 国 は 三 十 六 国 であ った が 、 そ の後 、 五十 五 の王 国 に 分 立 し た 。 前 漢 は 西 域 に 校 尉 と 都 護 の官 職 を 設 置 し 、 鎮 撫 に あ た ら せ た 。 王 葬 が 帝 位 を 纂 奪 す ると 、 西 域 諸 国 と の 通 交 は 杜 絶 し た 。 後 漢 時 代 に な る と 、 班 超 が 通 交 を 開 いた 西 域 諸 国 は 五 十 国 あ ま り と な り 、 西 は 西 海 ( イ ン ド 洋 ・ 地 中 海 ) に ま で達 し 、 東 西 は 四 万 里 、 そ の間 の諸 国 が み な朝 貢 に や ってき た 。 そ こ で 再 び 都 護 お よ び 校 尉 を 設 置 し 、 共 同 し て西 域 の統 治 に あ た ら せ た。 そ の後 、 西 域 と の 通 交 は 杜 絶 し た り 、 開 通 し た り の不 安 定 な 状 況 と な り 、 後 漢 朝 廷 は 西 域 と の通 交 が 中 国 に と って重 荷 と な る こ と か ら 、 西 域 の官 職 も 時 に廃 止 し 、 時 に は 復 活 さ せ ると い う 事 態 と な っ た 。 魏 晋 以 降 にな る と 、 西 域 諸 国 は 互 いに 併 呑 、 攻 滅 し あ い、 詳 細 に 記 述 す る こ と が で き な い ( ﹃西 域 図 記 ﹄ 序 、 ﹃階 書 ﹄ 巻 六 七 斐 矩 伝 引 用 ) 。 階 煬 帝 の治 世 (六 〇 四 ∼ 六 一 八) に な ると 、 煬 帝 は侍 御 史 の章 節 と 司 隷 従 事 の杜 行 満 を 西 域 諸 国 に使 者 と し て派 遣 し た 。 か れ ら は 厨 賓 (ガ ン ダ ー ラ ・ カ シ ミ ー ル) に 至 って瑪瑙 杯 を 入手 し 、 王舎 城 ( ラ ー ジ ャ グ リ ハ ) で は 仏 教 経 典 を 入 手 し た 。 ま た 史 国 (キ ッシ ュ) で舞 女 十 人 、 師 子 ( ラ イ オ ン) 皮 、 火 鼠 毛 ( ア ス ベ スト ) を 入手 し て帰 還 し た 。 煬 帝 は ま た 聞喜 公 の斐 矩 に命 じ 、 武 威 と 張 掖 の間 を 往 来 し 、 そ こ を 訪 れ る 西 域 の 人 々を 中 国 へ 誘 致 さ せ た 。 当 時 、 西 域 に は 君 長 (国 王 ) を 有 す る 国 が 四十 四 存 在 し た 。 斐 矩 は そ れ ら の使 者 が 中 国 に朝 貢 す る さ いに多 大 な 利 益 を む さ ぼ ら せ 、 朝 貢 が 有 利 で あ る こと を 互 いに言 い ふら さ せ た 。 大 業 年 間 ( 六 〇 五 ∼ 六 一 七 ) に は 、 連 れ だ って朝 貢 に 訪 れ る諸 国 の使 者 が 三 十 鯨 国 に の ぼり 、 煬 帝 は西 域 校 尉 を 設 置 し て使 者 の応 接 に あ た ら せ た 。 そ の後 ま も な く 、 中 国 は 大 乱 状 態 と な り 、 朝 貢 は つ いに 途 絶 え て し ま っ た 。 し か も 西 域 関 係 の記 録 が 多 く 亡 失 し 、今 、 記 録 の存 在 す る も の は 二 十 国 の み で あ る。
m 注 (1 ) 斐 矩 に つ い て は ﹃ 階 書 ﹄ 巻 六 七 斐 矩 伝 を 参 照 。 彼 の 著 述 し た ﹃ 西 域 図 記 ﹄ 三 巻 (宋 代 に 散 逸 ) に つ い て は 、 内 田 吟 風 一 九 七 三 " = 五 ∼ 一 二 八 を 参 照 。 吐 谷 渾 (と よ く こ ん ) 吐 谷 渾 は 、 も と も と 遼 西 の鮮 卑 の徒 河 渉 帰 の子 で あ る。 渉 帰 に は 二 人 の子 が あ り 、 長 男 が 庶 子 の吐 谷 渾 、 嫡 子 が次 男 の若 洛 魔 で あ った。 渉 帰 が 亡 く な っ た 後 、 若 洛? が 継 承 し て 部 衆 を す べた 。 こ れ は 慕 容 氏 であ っ た 。 吐 谷 渾 と 若 洛 魔 は 仲 が 悪 く 協 力 でき な か った の で、 吐 谷 渾 は 西 に移 動 し 、 朧 (朧 山 ) を 越 え て 、 甘 松 山 ( 甘 粛 省 ) の南 、 挑 水 の西 、 南 は 白 蘭 山 に 限 ら れ る数 千 里 の 地 に と ど ま った (現 在 の青 海 省 東 部 ) 。 そ の後 、 吐 谷 渾 の名 を と って 国 名 と し た 。 北 魏 か ら 北 周 に か け て の時 代 に 、 吐 谷 渾 は は じ め て 可 汗 を 称 し た 。 伏 侯 城 を 都 と し た 。 そ れ は 青 海 の西 十 五 里 の地 に あ っ た 。 城 に は 城 郭 は あ っ た が 、 吐 谷 渾 人 は そ の中 に は 住 ま ず 、 水 と 草 を 追 い 求 め て移 動 し た 。 官 職 に は 王 公 、 僕 射 、 尚 書 、 郎 中 、 将 軍 が あ っ た 。 国 王 は 黒 絹 の帽 子 を か ぶ り 、 妻 は 金 の花 を 頭 に 戴 い た 。 そ の武 器 ・ 衣 服 は 中 国 と ほ ぼ 同 じ であ っ た 。 王 公 や貴 人 は多 く 罧 羅 ( べ き ら ) を 頭 に か ぶ り 、 婦 人 は 裾襦 ( パ ン タ ロ ンと 丈 の短 い 上 着 ) を 着 て 辮 髪 に し 、 珠 貝 を つ つ って髪 を 飾 っ た 。 そ の国 に は 常 税 が な か っ た 。 殺 人 を 犯 し た も のと 馬 を 盗 んだ も のは 死 刑 に 処 さ れ 、 そ れ 以 外 の罪 を 犯 し た も の は 物 を 徴 発 さ れ て瞭 罪 し た 。 風 俗 は 突 厥 と 非 常 に似 て い る。 喪 服 の制 度 が あ り 、 葬 儀 が終 わ る と 服 喪 の期 間 も 終 了 し た。 吐 谷 渾 人 の性 格 は み な 貧 欲 で残 忍 であ っ た 。 大 麦 、 粟 、 豆 を 産 し た 。 青 海 は 周 囲 が 千餘 里 で、 そ の湖 中 に 小 山 が あ り 、 そ の国 の 習 俗 で は冬 に な る と 雌 馬 を 小 山 の上 に は な ち 、 龍 種 の駒 を 得 る と 言 わ れ た 。 吐 谷 渾 は か つ て波 斯 ( ペ ル シ ア) の草 馬 を 手 に 入 れ て青 海 に は な ち 、 そ れ で 騙 (あ し げ ) の 駒 を 産 ま せ た 。 そ の 駒 は 一 日 に千 里 を 行 く 事 が
『階書 』 西 域 伝 、 『周 書 』 異 域伝(下)の 訳注 59 でき た 。 そ れ で こ の駒 を ﹁ 青 海 馳 ﹂ と 言 った 。 葎 牛 ( ヤ ク ) が多 く 、 饒 銅 、 鉄 、 朱 沙 (朱 ) を 多 く 産 し た 。 そ の土 地 は 郵 善 ( ロ ー ラ ン) 、 且 末 ( チ ェル チ ェ ン) を 兼 併 し て いた 。 西 北 に は 流 砂 が 数 百 里 あ り 、 夏 に は 熱 風 が 吹 い て、 旅 人 を 傷 つ け 死 亡 さ せ た 。 砂 風 が吹 く 時 、 老 いた ラ ク ダ が あ ら か じ め こ れ を 察 知 し 、 首 を 引 い て、 いな な く と 、 他 の ラ ク ダ が 集 り 、 口 と 鼻 を 砂 の中 に埋 め る 。 人 は こ れ を 見 て熱 風 の到 来 を 察 し 、 絨 毯 で 口 と 鼻 を お お って 熱 風 の災 いを 避 け た 。 吐 谷 渾 の王 の呂 夸 (位 臼 五 三 五 ∼ 五 九 一 ) は 、 北 周 時 代 に し ば し ば 辺 境 に 侵 攻 し た 。 階 の 開皇 初 年 に も 兵 を 率 い て弘 州 (甘 粛 省 ) に侵 攻 し た 。 高 祖 (文 帝 楊 堅 ) は 、 弘 州 の地 が 広 漠 と し て いて 人 も 荒 々 し い の で 、 弘 州 を 廃 止 し た 。 そ し て 文 帝 は 上 柱 国 の 元 譜 に歩 兵 ・ 騎 兵 数 万 を 統 率 さ せ て吐 谷 渾 を 討 伐 さ せ た 。 賊 ( 11 吐 谷 渾 ) は 国 中 の兵 を 徴 発 し て こ れ こ を 迎 え 撃 っ た が 、 曼 頭 か ら 樹 敦 に 至 る ま で吐 谷 渾 の甲 騎 ( 11鎧 づ く め の騎 兵 ) が と だ え な か った 。 吐 谷 渾 の河 西 総 管 、 定 城 王 の鍾 利 房 、 太 子 の可 博 汗 が 、 あ い 前 後 し て 応 戦 し 、 階 の軍 勢 を 拒 んだ 。 元 譜 は何 度 も 吐 谷 渾 軍 を 撃 破 し 、 捕 虜 ・ 斬 首 は 甚 だ 多 か っ た 。 呂 夸 は 大 いに 恐 れ 、 親 衛 隊 を 率 い て遠 く に 逃 亡 し た 。 吐 谷 渾 の名 王 (異 姓 の 王 族 ) 十 三 人 は 、 各 々 の統 べ る と こ ろ の部 落 を 率 い て降 服 し た 。 文 帝 は 、 高 寧 王 の移 薙 哀 が 吐 谷 渾 人 の人 望 を 得 て いた の で彼 を 大 将 軍 と な し 、 河 南 王 に 封 じ て 降 服 し た吐 谷 渾 人 を 統 べ さ せ た 。 そ の 他 の吐 谷 渾 人 にも そ れ ぞ れ官 職 ・ 賞 与 を 与 え た 。 し か し 、 こ れ よ り 何 ほ ど も 経 過 し な いう ち に 吐 谷 渾 が ま た 侵 攻 し た の で 、 旭 州 刺 史 の皮 子 信 は 出 撃 し て こ れ を 食 い 止 め た 。 け れ ど も 賊 ( 11 吐 谷 渾 ) に よ って撃 破 さ れ 、 皮 子 信 は 戦 死 し た 。? 州 総 管 の梁 遠 が 、 精 鋭 を 率 い て吐 谷 渾 軍 を 撃 破 し 、 千 絵 の首 級 を あ げ る と 、 吐 谷 渾 は 奔 走 し た 。 し か し 吐 谷 渾 が ま た 廓 州 に侵 攻 し た の で 、 廓 州 の 兵 が こ れ を 撃 退 し た 。 呂 夸 は 吐 谷 渾 王 の位 に あ る こ と 百 年 であ っ た が、 し ば し ば 喜 怒 哀 楽 に よ って太 子 を 廃 し て 殺 害 し た 。 そ の 後 、 太 子 は 廃 さ れ る こと を 恐 れ 、 呂 夸 を 捕 え て 階 に降 服 し よ う と 謀 り 、 階 の辺 吏 に 援 軍 を 要 請 し た 。 秦 州 総 管 の河 間 王 弘 は 兵 を 率 いて吐 谷 渾 太 子 に 呼 応 し よ う と 許 可 を 求 め た が 、 文 帝 は これ を 許 さ な か っ た 。 太 子 の陰 謀 は 露 見 し 、 父 の呂 夸 に 殺 さ れ
60 た 。 呂 夸 は末 子 の嵬 王訶 を 太 子 に し た 。 畳 州 刺 史 の杜粲 は 、 そ の隙 に 乗 じ て吐 谷 渾 を 征 伐 し た いと 請 願 し た が 、 文 帝 は こ れ も 許 さ な か っ た 。 開 皇 六 年 (五 八 六 ) 、 鬼 王 詞 は 父 親 か ら誅 殺 さ れ る こ と を 恐 れ 、 部 落 一 万 五 千 戸 を 率 い て階 に 帰 順 し よう と 謀 り 、 使 者 を 朝 廷 に 派 遣 し 、 軍 隊 を 出 し て迎 え に来 て く れ る よ う に 請 願 し た 。 文 帝 は侍 臣 に向 か って 、 ﹁ 吐 谷 渾 の風 俗 は 中 国 と 異 な る 倫 理 観 で あ り 、 父 に は慈 愛 の心 が な く 子 も ま た 不 孝 で あ る。 朕 は 徳 を も って人 に 諭 し て いる 。 どう し て悪 逆 を な す も のを 助 け よ う か 。 私 は 当 然 、 道 義 を も って彼 ら を 教 化 す る だ け で あ る ﹂ と 言 っ た 。 そ し て、 鬼 王 詞 の使 者 に 向 か って言 っ た 。 ﹁ 朕 は 天 よ り 命 を 受 け 、 四 海 を 撫 育 し て き た 。 す べ て の人 民 を 仁 義 に よ って、 お 互 い に向 き 合 わ せ る事 が 朕 の 望 み であ る 。 ま し て 、 父 子 と し て の天 性 が あ れ ば 、 ど う し て互 いに 親 愛 し な い こと が あ り え よう か 。 吐 谷 渾 の王 は嵬 王訶 の父 であ り 、嵬 王訶 は吐 谷 渾 の 太 子 であ る 。 父 親 に 不 正 が あ れ ば 、 子 が こ れを 諌 め る べ き であ る。 も し 子 が 諌 め ても 父 が 従 わ な い の であ れば 、 近 親 や親 戚 や内 外 のも の に 命 じ て遠 ま わ し に 諭 さ せ る べき で あ る 。 そ れ で も だ め な ら 、 泣 い て 王 を 導 く べ き で あ る。 人 に は み な 情 が 備 わ って お り 、 必 ず 感 じ 入 り 悟 る は ず で あ る。 密 か な は か り ご と や 非 法 に よ って 、 不 孝 の名 を受 け る べ き では な い。 あ ま ね く 広 が る 天 のも と 、 みな 、 す べ て朕 の臣 妾 で あ る 。 各 々 が善 事 を な せ ば 、 朕 の 心 に叶 う ので あ る。嵬 王 はす で に 親 愛 の情 が あ って、 朕 に 投 降 し た いと 望 ん で い る。 朕 は た だ 、 嵬 王 を 教 化 し て臣 下 ・ 父 子 と し て の法 を な さ せ た いだ け であ る 。 遠 方 に 軍 隊 を 派 遣 し て悪 事 を 助 け る よ う な こ と は で き な い。 ﹂ 文 帝 の言 葉 を 聞 いて 、嵬 王訶 は 階 への帰 順 を や め た 。 開 皇 八 年 (五 八 八 ) 、 名 王 の拓 抜 木 彌 が 千 絵 家 を 率 いて帰 化 し た い と 請 願 し てき た 。 文 帝 は 言 った 。 ﹁ あ ま ね く 広 が る 天 のも と 、 み な 朕 の臣 下 であ る 。 荒 遽 を 服 属 さ せ た と い っ ても 、 い ま だ に 風 教 を 知 ら な い 。 朕 の撫 育 は 仁 と 孝 を 根 本 に し て い る。 吐 谷 渾 の 賊 は 暗 く 狂 って いる 。 妻 子 は 恐 怖 を い だ き 、 と も に階 への帰 化 を 希 望 し 、 自 ら 危 亡 を 救 お う と し て いる 。 し か し 、 夫 に叛 き 父 に背 く も のを 受 け 入 れ る わ け に は いか な い 。 ま た 、 そ の本 意 が 、 ま さ し く 自 ら 死 を 回 避 す る こ と に な る な ら ば 、 も し いま 拒 め ば 、 こ れ も ま た 不 仁 であ
『階書 』 西 域伝 、 『周 書』 異 域 伝(下)の 訳注 61 る。 も し 、 も う 一 度 請 願 し てく る な ら ば 、 朕 は た だ 慰 撫 す る にと ど め よ う 。 そ し て 彼 ら 自 身 で 解 決 す る こ と に任 せ 、 軍 隊 を 出 撃 さ せ て応 じ る 必 要 は な い 。 吐 谷 渾 王 の妹 の夫 や 甥 が 自 発 的 に 来 た いと 望 む な ら 、 そ の意 に任 せ る のが よ い。 こ ち ら か ら 進 ん で亡 命 す る よう に 誘 わ な い。 ﹂ こ の年 、 河 南 王 の移 弦 哀 が 亡 く な っ た の で 、 文 帝 は河 南 王 の弟 の樹 帰 に命 じ て河 南 王 の衆 を 統 べさ せ た 。 階 が 陳 を 平 定 す る (五 八 九 年 ) と 、 そ の 後 、 呂 夸 は 階 の こ と を 大 い に恐 れ 、 険 要 の 地 に 逃 亡 し 、 決 し て階 に侵 攻 し よ う と は し な か っ た 。 開 皇 十 一 年 ( 五 九 一 ) 、 呂 夸 が 亡 く な り 、 息 子 の世 伏 が 即 位 し た 。 世 伏 ( 位 " 五 九 一 ∼ 五 九 七 ) は 兄 の子 の無 素 を 派 遣 し 、 表 を 奉 って 藩 屏 と 称 し 、 特 産 物 を 献 上 し て 娘 を 後 宮 に 献 上 し た いと 請 願 し てき た 。 文 帝 は、 傍 に いた 縢 王 に 向 か って 言 っ た 。 ﹁ こ れ は 至 誠 (ま こ と ) で は な い。 た だ 計 を 急 い で いる だ け であ る 。 ﹂ そ れ か ら 文 帝 は 無 素 に 言 った 。 ﹁ 朕 は 吐 谷 渾 の王 が 娘 に命 令 し て 朕 に仕 え さ せ た が って い る こ と を 知 って い る。 し か し 、 も し 、 吐 谷 渾 王 の請 願 を 認 め て 娘 を 後 宮 に 入 れ た な ら ば 、 他 の国 も こ れ を 聞 い て、 こ の よう な や り 方 を 真 似 し よ う と す る であ ろ う 。 一 つを 許 し 、 一 つを 却 下 す る 。 そ ん な こ と を し た ら 不 公 平 と い う も の であ る 。 も し 、 み な の請 願 を す べ て 許 し た な ら ば 、 こ れ は 良 い方 法 で は な い 。 朕 の希 望 は 、 彼 ら が 安 養 に自 在 に生 き る こと に あ る。 どう し て娘 を 集 め納 め 入 れ て後 宮 を 満 た す こと が で き よ う か 。 ﹂ そ う 言 って文 帝 は と う とう 無 素 の請 願 を 許 さ な か った 。 開 皇 十 二年 (五 九 二 ) 、 刑 部 尚 書 の宇 文 轍 を 遣 わ し て吐 谷 渾 を 慰 撫 し た 。 開 皇 十 六年 ( 五九 六 ) 、 光 化 公 主 を 世 伏 に 降 嫁 さ せ た 。 世 伏 は 上 表 し 、 公 主 のこ と を 天 后 と 称 し た いと 言 っ た が 、 文 帝 は 許 さ な か っ た 。 翌 年 、 吐 谷 渾 内 で大 乱 が お こ り 、 国 人 は 世 伏 を 殺 害 し て弟 の伏 允 を 吐 谷 渾 王 に し た 。 新 王 の伏 允 (位 u 五 九 七 ∼ 六 三 五 ) は 使 者 を 派 遣 し 、 王 を 廃 立 し た こと を 陳 述 し 、 専 命 の罪 を 謝 し 、 彼 ら の風 習 に 従 って 光 化 公 主 を 妻 に し た いと 請 願
62 ヱ し て き た の で、 文 帝 は こ れ を 許 可 し た 。 こ れ 以 後 、 吐 谷 渾 か ら の朝 貢 は 毎 年 行 わ れ 、 国家 (階 ) の様 子 を 聞 き た だ し て き た の で、 文 帝 は そ の こ と を 非 常 に 憎 んだ 。 煬 帝 が 即 位 す ると 、 伏 允 は息 子 の順 を 入貢 さ せ た 。 こ の こ ろ 、 鉄 勒 ( テ ユル ク ) が 塞 を 攻 め てき た の で 、 煬 帝 は将 軍 の爲 孝 慈 を 敦 煌 か ら 出 撃 さ せ 、 鉄 勒 の襲 撃 に 備 え さ せ た 。 爲 孝 慈 は 、 戦 っ た が 敗 北 し た 。 鉄 勒 が 使 者 を 派 遣 し て煬 帝 に 謝 罪 し 降 服 を 願 っ た の で 、 煬 帝 は 黄 門 侍 郎 の装 矩 を 遣 わ し て鉄 勒 を 慰 撫 さ せ 、 そ し て鉄 勒 に 吐 谷 渾 を 攻 撃 し て 誠 を 尽 く す よう 遠 ま わ し に 諭 さ せ た 。 鉄 勒 は そ れ を 承 諾 し 、 兵 を 率 いて吐 谷 渾 を 襲 撃 し て 大 い に こ れ を 打 ち 破 っ た 。 伏 允 は 東 に 逃 走 し 、 西 平 の国 境 地 帯 を 保 持 し た 。 煬 帝 は ま た 観 王 雄 を 澆 河 よ り 出 撃 さ せ 、 許 公 の宇 文 述 を 西 平 か ら 出 撃 さ せ て観 王 を 援 護 さ せ て大 い に伏 允 を 破 った。 伏 允 は 遁 走 し 、 吐 谷 渾 の部 落 のう ち 来 降 す るも の は十 万 飴 人 、 六 畜 は 三 十 絵 万 頭 に も 及 ん だ 。 宇 文 述 は 時 を お か ず に伏 允 を 追 撃 し た の で 、 伏 允 は恐 れ 、 南 に 逃 走 し て 山 谷 の 間 に 逃 げ 込 ん だ 。 こ のた め 吐 谷 渾 の故 地 は空 と な り 、 西 平 の臨 完 城 以 西 、 且 末 以 東 、 祁 連 山 以 南 、 雪 山 以 北 の、 東 西 四 千 里 、 南 北 二千 里 は 、 み な 階 す の領 地 に な っ た 。 煬 帝 は そ の地 に 郡 県 と 鎮 戍 を 設 置 し 、 天 下 の罪 の 軽 い 罪 人 達 を そ の地 に 移 し て 住 ま わ せ た 。 煬 帝 は 、 順 を 階 に 留 め て吐 谷 渾 に 帰 さ な か っ た 。 一 方 、 逃 亡 し た 伏 允 は自 分 で食 料 を 調 達 す る こと が で き ず 、 部 下 数 千 騎 を 率 い て党 項 ( タ ン グ ー ト ) に亡 命 し た 。 煬 帝 は 順 を 立 て て吐 谷 渾 の王 と し 、 玉 門 ま で順 を 送 り 出 し て、 吐 谷 渾 の余 衆 を 統 べ さ せ た 。 ま た 、 大 寶 王 の 尼 洛 周 を 補 佐 役 に任 じ た 。 し か し 、 順 の 一 行 が 西 平 にま で 来 た と こ ろ で部 下達 が 尼 洛 周 を 殺 し た の で 、 順 は 帰 国 す る こと が でき な か っ た 。 大 業 の末 、 天 下 が 乱 れ た の で 、 伏 允 は そ の隙 に吐 谷 渾 の故 地 を 回復 し 、 し ば し ば 河 西 に侵 攻 し た 。 そ のた め (煬 帝 の置 いた ) 郡 県 は これ を 防 御 す る事 が でき な か った。
吐 谷渾王 の 系 図 (在位年 ) 世 伏 (五 九 一 ∼ 五 九 七 ) 呂 夸 ( 五 三 五 ∼ 五九 こ 伏 允 ( 五 九 七 ∼ ∼ 六 三 五 ) 順 ( 六 三 五) 63 『階 書』 西域 伝 、 『周書 』 異 域伝(下)の 訳注 す 宮!ラ ト6写?写!一 2↑一. ラ主 ) ) ) ) ) ) ) ) ) ﹃晋書﹄ 巻 九 七吐谷 渾伝 では ﹁ 慕容? ﹂ 。 ﹃ 周書﹄ 巻 五 〇吐谷 渾伝 では ﹁ 必要 な時 には 富豪 や商 人 に課税 し た﹂ とあ る。 曼 頭 と樹敦 は 、青 海 の南 にあ る曼頭 山と 樹敦 城 のこ と 。佐 藤長 一 九七 八 の 第 五図 ﹁ 吐谷 渾 関係略 図 ﹂ 後 藤 勝 一 九 五 六 " 二七 、佐 藤長 一 九 七 八 の 第 三章 ﹁ 吐 谷 渾 におけ る諸根 拠 地﹂ ( 二三五 頁) を参 照。 世伏 の 名 は、 太宗 李世 民を 忌 み、 ﹁ 伏﹂ とな っ て いる 。 ﹃ 資治 通鑑﹄ 巻 一 七 七 によ れば 開皇 十 一 年 (五九 一 ) のこと。 ﹃資 治 通鑑﹄ 巻 一 七 八 よれ ば開皇 十 七年 (五 九七 ) のこと。 ﹃資 治 通鑑﹄ 巻 一 八 一 によ れば大 業 四年 (六 〇 八) のこと。 ﹃階 書﹄ 巻 二四食 貨志 、 巻 二九地 理志 にも 見え る 。 党 項 ( タ ング ー ト) を 参 照 。 党 項 羌 は 、 三 苗 の後 裔 であ る 。 そ の種 族 に は 、 宕 昌 、 白 狼 が あ り 、 み な? 猴 ( サ ル) の族 であ る と 自 称 し て いた 。 東
64 は臨 挑 、 西 平 に 接 し 、 西 は 葉 護 ( 西 突 厥 ) と 対 立 し た 。 そ の 地 は 南 北 の長 さ 数 千 里 で、 山 谷 の間 に 暮 ら し て いた 。 姓 ご と に 分 か れ て 部 落 を な し 、 大 き い部 落 は 五 千 餘 騎 、 小 さ い部 落 は 千 餘 騎 であ った。 楚 牛 ( ヤ ク) の 尾 や 粘 握 ( 羊 ) の毛 を 織 って家 屋 ( テ ン ト ) を 造 った。裘 褐 (皮 衣 と 粗 い繊 維 の着 物 ) を 着 用 し 、 毛 織 物 を は お って上 着 に し て いた 。 そ の 風 俗 は 武 力 を 尊 び 、 法 令 が な く 、各 々が 生 業 を な し て いた が 、 い っ た ん 戦 争 が あ れ ば 、 互 いに 集 っ て き た 。 夫 役 と 租 税 が な く 、 お 互 いに 往 来 し な か っ た 。 楚 牛 ( ヤ ク )・ 羊 ・ 猪 ( ブ タ ) を 飼 育 し て食 用 と し 、 農 業 を 知 ら な か っ た 。 そ の風 俗 は淫 ら で卑猥 で、 上 も 下 も 淫 乱 で 、 諸 蛮 の 中 では 最 も 甚 だ し か っ た 。 文 字 が な く 、 た だ 草 木 の成 長 を 観 察 し歳 月 を 記 し た 。 三 年 に 一 度 集 会 を し 、 牛 と 羊 を 殺 し て 天 を 祭 った 。 人 が 八 十 歳 以 上 で亡 く な れ ば 、 立 派 な 死 に方 を し た と いう こ と で親 戚 も 泣 か な か った 。 し か し幼 く し て 死 ぬ と 、 大枉 と い っ て 親 戚 達 が 一 緒 に悲 し ん で泣 いた 。 楽 器 に は 琵 琶 ・ 横 笛 が あ り 、 缶 を 叩 い て節 を と っ た 。 北 魏 か ら 北 周 に か け て 、 党 項 は し ば し ば 中 国 辺 境 を 襲 撃 し た 。 高 祖 (文 帝 楊 堅 ) が 北 周 の 丞 相 であ っ た 時 、 中 原 に事 変 が 多 く 、 こ れ に 乗 じ て党 項 は 大 いに 略 奪 を 行 っ た 。 蒋 公 の梁 容 は 、 す で に 王 謙 を 平 定 す ると 、 軍 隊 を 還 し て党 項 を 討 伐 し た いと 請 願 し た 。 し か し 高 祖 は 許 可 し な か った。 開 皇 四 年 ( 五 八 四 ) 、 党 項 の 千 餘 家 が 階 に 帰 化 し た 。 開 皇 五 年 ( 五 八 五 ) 、 拓 跋 寧 叢 ら が 各 々部 衆 を 率 い て 旭 州 ( 甘 粛 省 ) に 至 り 、 内 附 し た 。 高 祖 は 拓 跋 寧 叢 に 大 将 軍 の位 を 授 け 、 部 下 達 に も そ れ ぞ れ 官 職 を 授 与 し た 。 開 皇 十 六年 (五 九 六 ) 、 党 項 は ま た 会 州 ( 甘 粛 省 ) に侵 攻 し た。 高 祖 は 詔 を 下 し て 朧 西 の軍 隊 を 出 動 さ せ て こ れ を 討 た せ 、 党 項 を 大 い に打 ち 破 った 。 党 項 は ま た 、 互 いに 部 衆 を 率 い て降 服 を 請 願 し 、 階 の臣 妾 に な り た いと 願 い、 子 弟 を 派 遣 し て入 朝 さ せ て 高 祖 に 謝 罪 し た 。 高 祖 は彼 ら に向 か って 言 った 。 ﹁ 帰 って 、 な ん じ ら の父 兄 に語 る が よ い 。 人 と し て 生 き るた め に は 定 住 し て、 老 人 を 養 い子 供 を 育 て る 必 要 が あ る。 郷 里 に戻 っ た と 思 っ た ら 出 てま た 行 き 、 そ のよ う な こ と で 郷 里 に 恥 じ な い のか 。 ﹂ と 。 こ れ 以 降 、 党 項 の朝 貢 は 途 絶 え な か った 。
注 (1 ) ﹃北 史 ﹄ 党 項 伝 は ﹁ 開 皇 元 年 ﹂ に な って い る 。 『階 書』 西 域 伝 、 『周書 』 異 域 伝(下)の 訳 注 65 高 昌 ( ト ル フ ァン) 高 昌 国 は 、 前 漢 の車 師 前 王 庭 の こ と で あ る。 敦 煌 を 去 る こ と 十 三 日 の行 程 で あ る。 東 西 は 三 百 里 、 南 北 は 五 百 里 で、 四 方 に は 大 き な 山 が 多 く あ る 。 昔 、 前 漢 の武 帝 が 軍 隊 を 派 遣 し て 西 方 を 討 伐 し た 時 、 軍 隊 が疲 弊 し て、 そ のう ち の最 も 困 窮 し た も のが 、 高 昌 の地 に 定 住 し た の であ っ た 。 こ の 地 に は 漢 の時 代 の高 昌 塁 が あ り 、 そ れ に よ って 国 名 と し た 。 初 ユ め 、 和 平 元 年 ( 四 六 〇 ) 、 蠕 蠕 ( 柔 然 ) が 閾 伯 周 を 擁 立 し て高 昌 王 と し た 。 太 和 初 (四 七 七 ) 、 伯 周 が 死 ぬ と 息 子 の義 成 が 立 った が 、 従 兄 の首 帰 に殺 さ れ た 。 首 帰 は 自 立 し て高 昌 王 に な った が 、 ま た 高 車 ( テ ユル ク ) の阿 伏 至 羅 に殺 さ れ た 。 そ こ で 、 高 昌 の人 々 は 敦 煌 の 人 の張 孟 明 を 主 君 と し た 。 太 和 二 十 年 ( 四 九 六 ) 、 孟 明 が 国 人 に殺 さ れ た の で、 馬 儒 を 王 と し 、 輩 顧 と 麹 嘉 の 二 人 を 左 右 の 長 史 に し た 。 太 和 二 十 一 年 ( 四 九 七 ) 、 馬 儒 は ま た 北 魏 に遣 使 し て 帰 順 を 請 願 し た 。 北 魏 に帰 順 し た 人 は 、 し か し 、 み な 故 国 を 恋 し が って東 に 移 動 す る こ と を 願 わ ず 、 と も に 馬 儒 を 殺 し 、 麹 嘉 を 王 と し て 擁 立 し た 。 麹 嘉 は字 を 霊 鳳 と い い、 金 城 郡 楡 中 ( 甘 粛 省 蘭 州 ) の人 で あ っ た 。 即 位 す る と 、 ま た 茄 茄 (柔 然 ) の臣 下 に な っ た 。 茄 茄 の王 が高 車 に殺 さ れ ると 、 ま た 麹 嘉 は 高 車 に 臣 従 し た 。 丁 度 そ の と き 、 焉 耆 ( カ ラ シ ャー ル ) が 掘 恒 ( エ フタ ル) に 打 ち 破 ら れ た 。 焉 耆 の民 は自 ら 統 治 す る こ と が で き ず 、 麹 嘉 に 主 君 に な る べき 人 物 を 派 遣 し て ほ し いと 請 願 し た 。 麹 嘉 は 第 二子 を 派 遣 し て 焉 耆 王 と な し た 。 こ れ 以 降 、 麹 嘉 は 初 め て強 大 と な り 、 ま す ま す 国 人 が 服 従 す る よ う に な っ た 。 麹 嘉 が 死 ぬ と 、 息 子 の堅 が 即 位 し た 。 高 昌 の都 城 の周 囲 は 千 八 百 四 十歩 の大 き さ であ っ た 。 宮 殿 の居 室 に は 、 魯 の哀 公 が 孔 子 に 政 治 に つ い て問 う て いる場
66 面 が描 か れ て いた 。 国 内 に は 十 八 の 城 が あ っ た 。 官 吏 に は 、 令 サ が 一 人 、 そ の次 に 公 が 二人 、 次 に左 右 の衛 、 次 に 八 人 の長 史 、 そ の次 に 五 人 の 将 軍 、 そ の 次 に 八 人 の 司 馬 、 次 が 侍 郎 、 校 郎 、 主 簿 、 従 事 、 省 事 が いた 。 大 事 は 王 が 決 し 、 小 事 は 、 王 の長 子 と 公 が 評 議 し て決 め 、 文 書 は使 用 し な か っ た 。 男 性 は 胡 服 を 着 用 し 、 婦 人 は裾 儒 ( パ ン タ ロ ンと 丈 の短 い上 衣 ) を 着 け 、 頭 上 にま げ (髷 ) を 結 っ た 。 高 昌 の風 俗 や 政 令 は 中 国 と ほ と ん ど 同 じ であ っ た 。 そ の地 は 石 磧 が 多 く 、 気 候 は 温 暖 で 、 穀 物 や 麦 が 一 年 のう ち に 二 度 稔 り 、 養 蚕 に適 し 、 五 果 (果 実 ) を 多 く 産 出 し た 。 羊 刺 (刺 蜜 ) と いう 名 の草 が あ り 、 そ の上 に蜜 が 生 じ 、 味 は と ても お い し い 。 朱 の よう な 赤 塩 を 産 し 、 白 塩 は 玉 のよ う であ った 。 ブ ド ウ ( 葡 萄 ) 酒 を 多 く 産 し た 。 こ の国 の俗 は 天 神 に仕 え る と 同 時 に仏 法 を も 信 仰 し た 。 国 中 の羊 馬 は 、 人 に 知 ら れ な い辺 鄙 な 場 所 で放 牧 し、 外 敵 の略 奪 を 避 け た 。 そ の場 所 は 高 昌 の貴 族 し か知 ら な か っ た 。 北 に は 赤 石 山 が あ り 、 山 の北 七 十 里 の所 に は貧 汗 山 ( ボ グ ド ・ オ ラ ) が あ り 、 夏 でも 積 雪 が あ っ た 。 こ の山 の 北 が 鉄 勒 ( テ ユル ク ) と の 境 界 で あ っ た ( ﹃ 魏 書 ﹄ 巻 一 〇 = 局昌 伝 、 ﹃北 史 ﹄ 巻 九 七 高 昌 伝 ) 。 武 威 の西 北 か ら 近 道 が あ り 、 砂 漠 千 絵 里 を 越 え る と 、 四 方 は 荘 然 と し 、 小 道 の形 跡 も な い 。 行 き た いと 望 む も のは 、 人 畜 の白 骨 を 目 印 に し て進 む 。 道 中 で は 、 あ る 時 に は 歌 声 や 泣 き 声 が 聞 こえ る が 、 旅 人 が こ れ を 頼 り に進 ん で行 く と 、 そ の多 く は 死 ぬ か行 方 知 れず と な った。 お そ らく 、 こ の歌 声 や泣 き 声 は 、 魑 魅 魍 魎 の た ぐ いで あ ろう 。 そ こ で、 商 人 達 は 往 来 す る 時 に は 、 そ の多 く が 伊 吾 ( ハミ ) 路 を 利 用 し た。 開 皇 十 年 ( 五 九 〇 ) 、 突 厥 が 高 昌 の 四 城 を 打 ち 破 った の で 、 高 昌 か ら 二 千 人 が 中 国 に 逃 げ て き て帰 順 し た。 麹 堅 が 死 ヨ ぬ と 、 息 子 の伯 雅 が 即 位 し た 。 伯 雅 の祖 母 は も と も と 突 厥 可 汗 の娘 で あ っ た 。 父 親 が 死 ん だ の で 、 突 厥 は そ の風 俗 に従 う よ う に命 令 し た が 、 伯 雅 は 長 い こと 、 突 厥 の命 令 に 従 わ な か った。 突 厥 が強 要 し た ので 、 伯 雅 も やむ を え ず 、 こ れ に 従 っ た 。
『階書 』 西 域伝 、 『周 書』 異 域 伝(下)の 訳 注 67 ざ 煬 帝 が 帝 位 を 継 承 す る と 、 諸 国 を 勧 誘 し て朝 貢 さ せ た 。 大 業 四 年 ( 六 〇 八 ) 、 高 昌 は 遣 使 朝 貢 し 、 煬 帝 は 高 昌 の使 者 を 非 常 に 丁 重 に待 遇 し た 。 翌 年 、 伯 雅 が 来 朝 し た 。 伯 雅 は高 句 麗 遠 征 に 従 軍 し 、 中 国 に帰 還 す る と 宗 室 の娘 華 容 公 主 を ら 嬰 った 。 大 業 八 年 ( 六 一 二) 冬 、 伯 雅 は 高 昌 国 に帰 り 、 国 中 に命 令 を 下 し て 言 っ た 。 ﹁ そ も そ も 、 国 を 治 め 、 人 を 養 う のは 、 保 全 を も って貴 き と し 、 国 を 安 寧 に し 、 政 治 を お さ め る のは 、 万 民 を 救 う 事 を も って 偉 大 と な す 。 か つて わ れ わ れ は 荒 野 に 暮 し 、 国 境 は 檸 猛 な 夷 秋 に 連 な り 、 人 々は な ん ら 怪 し む こと な く ( 同 人 無 答 ) 、 蛮 族 の風 俗 に 従 って 被 髪 左 妊 し た 。 いま 大 いな る 階 帝 国 が 統 治 し 、 天 下 は 統 一 さ れ 、 あ ま ね く 天 と す べ て の地 は 、 等 し く 同 化 に向 か わ な いと こ ろ は な い。 私 は す で に そ の和 や か な 風 に浴 し 、 大 き な 感 化 を 共 有 に し た いと こ いね が う 。 庶 人 以 上 は み な 、 辮 髪 を 解 き 、 左 妊 を や め る べ き であ る 。 ﹂ 煬 帝 は 伯 雅 の言 葉 を 聞 く と喜 び 、 こ れ を 非 常 に良 い事 で あ る と 考 え 、 詔 を 下 し て言 っ た 。 ﹁ 徳 を 顕 彰 す る こと は 聖 人 や 哲 人 の 尊 ぶ と こ ろ で あ り 、 誠 を 明 ら か に し善 を 遂 行 す る のは 、 古 典 の尚 書 が 後 世 の人 々 に 教 え 示 す と こ ろ であ る。 光 禄 大 夫 ・ 弁 国 公 ・ 高 昌 王 の伯 雅 は 、 見 識 と 度 量 に 遠 大 な 経 略 が あ り 、 気 持 ち は 寛 容 で あ る 。 そ の忠 誠 心 は す で に著 し く 、 清 ら か な 節 義 は 遠 方 ま で 行 き 渡 っ て い る。 伯 雅 は も と も と 中 華 か ら 出 て、 西 方 の地 で歳 月 を 送 る こ と に な っ た 。 過 去 に は 多 く の 困 難 が あ り 、 猿 戎 ( 匈 奴 ・ 柔 然 ) に迫 ら れ 、 し ば し ば 窮 し て冠 冕 を 壊 し 、 髪 を 切 って胡 服 を 着 用 し た 。 わ が 大 階 が 天 下 を 統 一 す ると 、 階 の教 化 は 多 く の夷 秋 た ち を な び か せ 、 徳 は 四 方 に 加 わ っ た 。 伯 雅 は 砂 漠 を 越 え 、 険 阻 を も の と も せ ず 、 贈 物 を 奉 って 朝 廷 に や って来 た 。 古 の制 度 に 礼 儀 正 し さ を 見 、 威 儀 の盛 典 を 慕 った 。 こ こ に お いて か れ は 冠 冕 の紐 を 重 ね 、 辮 髪 を 解 き 、 左 妊 を や め て裳 裾 を 引 き ず っ た 。 蛮 族 の風 習 を 改 め 、 中 華 の風 習 に 従 い、 そ の 仕 義 は 前 載 (前 の記 録 ) よ り 輝 いた 。 そ こ で、 ( 高 昌 に ) 衣 服 と 冠 の 具 を 賜 い、 製 造 の規 格 (式 ) を 頒 布 し よ う 。 階 は 使 者 を 派 遣 し て そ れ ら を 部 領 し 、 送 り 届 け よう 。 綾 絹 の服 を 着 た姿 や 車 服 のき ら び や か な さ ま を 見 れ ば 、 人 々 は夷 秋 の藍 毛 の服 を 脱 ぎ 捨 て、 ふ た た び 中 国 のよ う な 礼 儀 正 し い冠 帯 の国 に も ど る で あ ろう 。 ﹂
68 し か し伯 雅 は 以 前 か ら 鉄 勒 ( テ ユル ク ) に 臣 従 し て お り 、 鉄 勒 は 常 に 重 臣 を 派 遣 し て高 昌 国 に滞 在 さ せ て、 商 胡 ( ソ グ ド 商 人 ) が 商 売 の た め に高 昌 を 往 来 す る と 、 こ れ に 課 税 し 、 徴 集 し た 税 金 を 鉄 勒 に 送 って いた 。 従 って伯 雅 が 国 民 に 下 し た 命 令 は 中 国 を喜 ば せ は し た が 、 高 昌 は 結 局 、 鉄 勒 を 恐 れ て、 決 し て風 俗 を 改 め な か っ た 。 こ れ 以 来 、 伯 雅 は 毎 年 使 者 を 派 遣 し て特 産 物 を 朝 貢 し た 。 注 ( 1)年 号は ﹃魏書 ﹄ 巻 一 〇 = 局 昌伝 と ﹃北 史﹄ 巻九 七高 昌伝 より 補 っ た。 ( 2) 李 錦繍 ・ 余 太 山 二〇〇 九 二 〇 〇は 、 ﹃通 典﹄ 巻 一 九 一 辺 防七 車師 伝 に ﹁太 和 二年 ﹂と あ る の を ﹁ 二十年 ﹂ の 誤 りと 考 え て いる。 ( 3) 嶋 崎昌 一 九 七七 b n 三 三〇∼ 三 三 一 。 ( 4) 嶋 崎昌 一 九 七七 b " 三 三二。 ( 5) 麹 伯 雅 は大業 八 年 (六 一 二) 三月、 煬帝 に従 って第 一 次 高句 麗 遠征 に 同行 し ( ﹃資 治通 鑑﹄ 巻 一 八 一 ) 、 同年 十 一 月 、 華容 公主 を嬰 っ た ( ﹃階 書﹄ 巻 四煬帝 紀 ) 。 ( 6)高 昌 国王 の麹伯 雅 は息 子 の文泰 を 伴 って階 に入朝 し、 約 四年 間、 中国 に 滞 在 し、 華 容公 主 も降 嫁 され た。 伯 雅 は帰 国 す るや、 国を 挙げ て 遊 牧 民族 の風 俗を 廃止 し 、中華 の風俗 に従 う よう にと命 令 を 下し た ( 延和 十 二年 11 六 =二 年 ) 。 そ れ が ﹁ 解 辮 削妊 令 ﹂ であ る。 階 の煬 帝 は詔を 出 し てま でそ れを称 賛 す る。 西域 諸 国 から徐 々に 北方 遊牧 民 族を 閉 めだ そ う とす る、 煬 帝、 斐矩 な ど の意 図が 読 み取 れ る。 し かし 鉄勒 の 支 配 力 が勝 っ て、 こ の改 革 は失 敗 した。 ト ル フ ァン 文 物 の 研究 者 であ る呉 震 (呉 震 一 九 八 一 ) は、 現在 忘 れら れ て い る高 昌 国 の義 和年 号 (六 一 四∼ 六 一 九年 ) を ト ル フ ァン出 土 の墓 誌、 文書 か ら復 元 し、 そ の間 に は改革 に失敗 し た麹 伯 雅父 子 が家 臣 の 張 雄 らと とも に、高 昌 国を 出奔 し て西突 厥 の
統葉 護 可汗 のも と に亡命 し て い た と推 定 す る。張 雄 の 墓 誌 から 六 一 九 (延 和 十 八)年 に西 突厥 の 後 ろ盾 によ っ て、麹 伯 雅 が復位 し たと推 定 す る 。 そ の 後 、義 和 の 偽 年 号 は消去 され 、延 和年 号 に戻 され た形跡 が あ ると い う 。 69 『階書0西 域伝 、 『周 書 』 異 域伝(下)の 訳注 康 国 ( サ マ ルカ ン ド) 康 国 は康 居 の後 裔 で あ る。 か れ ら は 絶 え ず 移 動 し て生 活 し た の で、 一 定 の住 地 が な か っ た 。 し か し 漢 代 以 来 、 途 絶 え る こ と な く 存 続 し た。 そ の王 は 本 来 の姓 が 温 であ り 、 月 氏 人 で あ っ た 。 か つて は 祁 連 山 の 北 方 の昭 武 城 に居 住 し た が 、 匈 奴 に撃 破 さ れ た た め に 葱 嶺 ( パ ミー ル高 原 ) を 越 え て西 方 に 遷 移 し 、 そ の地 で 国 を 保 持 す る こと と な っ た 。 昭 武 の支 庶 た ち は そ れ ぞ れ 独 立 し て王 と な り 、 そ れ ゆ え に康 国 (サ マル カ ンド ) 周 辺 の諸 国 は みな 昭 武 を 姓 と し 、 そ の出 自 を 忘 ユ れ な いよ う に し て いる 。 康 国 王 の字 は 代 [ 世 ] 失 畢 (シ シ ュ ピ ー ル) で あ り 、 そ の人 柄 は温 厚 、 寛 大 で 、 よ く 民 衆 の心 を 掌 握 し て いる 。 そ の 妻 は 突 厥 の達 度 ( タ ルド ゥ) 可 汗 の娘 で あ る 。 薩 宝 水 (ザ ラ フ シ ャ ン 河 ) に臨 む 阿 禄 迫 城 が 康 国 の 都 城 であ り 、 城 内 は 人 ロ稠 密 で あ る。 三 人 の大 臣 が お り 、 共 同 し て国 政 に携 わ る。 そ の王 は 索 髪 ( 辮 髪 ) に し 、 そ の 上 に 七 宝 金 花 の冠 を 戴 く 。 衣 服 は 綾 羅 、 錦 繍 の白 畳 を 着 る。 王 妃 は 讐 を 結 い、 そ の上 を 黒 い スカ ー フ で覆 う 。 一 般 男 子 は 勇 髪 (断 髪 ) し 、 錦 抱 を 着 る 。 康 国 は 強 国 と し て有 名 であ り 、 西 域 諸 国 の 多 く が康 国 に 帰 順 す る 。 米 国 ( マ イ ム ルグ ) 、 史 国 ( キ ッ シ ュ ) 、 曹 国 (イ ス テ ィ ー カ ー ン ) 、 何 国 ( ク シ ャ ー 二ー ヤ ) 、 安 国 (ブ ハ ラ ) 、 小 安 国 、 那 色 波 国 ( ナ サ フ) 、 烏 那 易 国 ( ア ン フ ォ イ ﹀ 昌 α 聾 色 、 穆 国 ( ア ー ム ル ) が み な 康 国 (サ マ ル カ ン ド ) に 従 属 し て いる 。 康 国 に は 胡 律 ( ソグ ド 語 の法 典 ) が存 在 し 、 厭 祠 (ゾ ロ ア ス タ ー 教 寺 院 ) に 安 置 さ れ てお り 、 裁 判 の際 に 取 り 出 し て 判 決 を 下 す 。 重 罪 は 一 族 を 死 刑 に、 次 に 重 い 罪 は 本 人 を 死 刑 にす る 。 賊 盗 は 足 切 り に処 す 。
70 康 国 の人 び と は み な 彫 り の深 い顔 立 ち で (深 目 高 鼻 ) 、 ほ ほ 、 あ ご の ヒ ゲ (髪 、 髭 ) が 濃 い 。 商 業 に 長 じ て お り 、 諸 外 国 の商 人 た ち は 交 易 の た め に こ の 国 に 集 ま って く る。 康 国 の楽 器 に は 大 小 の太 鼓 、 琵 琶 、 五弦 、 笙 篠 、 笛 が あ る。 婚 姻 、 葬 制 は 突 厥 と 同 じ で あ る 。 国 家 の祖 廟 が 建 立 さ れ て お り 、 六 月 に 祭 礼 を 行 う 。 こ のと き は 周 辺 諸 国 も み な 祭 礼 に 参 加 す る 。 康 国 は 習 俗 と し て仏 教 を 信 仰 し 、 ソ グ ド 文 字 ( 胡 書 ) を 使 用 す る 。 気 候 は 温 暖 で、 五 穀 (麦 、 米 、 粟 、 黍 、 豆 ) の栽 培 に適 す る 。 人 び と は 菜 園 で 農 作 業 に精 を 出 し 、 果 樹 も 繁 茂 す る。 家 畜 に は ウ マ、 ラ ク ダ 、 ラ バ 、 ロ バ、 コブ ウ シ が あ り 、 黄 金 、 鏡 沙 ( 砲 砂 、 塩 化 ア ン モ ニ ュウ ム系 薬 石 ) 、 甘 松 香 、 阿 薩 那 香 、 念 悪 、 廉 皮 (大 鹿 の皮 ) 、 概 髭 ( 毛 織 の 敷 物 ) 、 錦 、 畳 を 産 出 す る。 ブ ド ウ ( 葡 陶 ) 酒 が 豊 富 で あ り 、 富 家 で は 千 石 の量 を 醸 造 す る 。 そ れ ら は 何 年 た って (3 ) も 腐 敗 す る こと は な い。 大 業 年 間 に は じ め て使 者 を 派 遣 し 、 特 産 品 を 献 上 し た が 、 そ の後 は 途 絶 え てし ま っ た 。 注 ( 1) ﹃ 階書 ﹄西 域伝 ﹁康 国 ﹂ は、 それと ほ ぼ同 じ文 章 が ﹃ 北史﹄ 西 域伝 ﹁康 国 ﹂ に、ま た ﹃北史 ﹄ から 転載 した ﹃魏 書﹄ 西 域伝 ﹁康 国 ﹂ にも 採 用さ れ てお り、 そ れぞ れ の テキ ス ト に若 干 の異同 が あ る。 ﹁ 昭武 ﹂ に ついては 、 ﹃新 唐書 ﹄ 西 域伝 訳 注 (小 谷 ・ 菅沼 二〇 = 二 四 二) の 康 国 条注 6を参 照 。 そ の後、 吉 田豊 は ﹁ 昭 武﹂ に つ いて の 自 説 を ﹃ ソグド 人 の美 術と 言 語﹄ (吉 田 二 〇 一 一" 五 三∼ 五 五 ﹁ 昭 武 の 謎 ﹂ ) のなか で要約 す る。 ソグド 人 が甘 粛省 祁 連山 の北、 昭武 城 か ら匈 奴 によ っ て追 放 され 、葱 嶺を 越 え て現在 の住 地 に遷移 し たと いう のは 、大 月 氏 の西遷 の歴史 を 借用 し た中 国側 の作り 話 で、 歴 史的 事実 では な い 。 吉 田豊 が 推定 す る よう に、 ソグド 人 が ﹁ 昭武 ﹂ と い う発 音 に近 い名前 の祖先 あ る い は 英雄 を 共通 に伝 承す る こと から、 そ れを 中国流 に解 釈 した も のであ ろう 。 こ の 説 の 初 見 は ﹃階 書﹄ で あ る 。 ( 2)王 名 の ﹁ 代失 畢 ﹂ は 唐太 宗 の 李 世 民 の諦を 避 け て表 記 す るも の で 、 本 来 は ﹁ 世 失畢 Q。 旅 O 旨﹂ であ る。 上 記 の ﹃ 北史 ﹄ ﹃魏書 ﹄ では ﹁ 世夫 [失] 畢﹂ と表 記す る。 岡本 孝 一 九 八四 u 八〇 ∼ 八三を参 照 。
『階書 』 西 域伝 、 『周 書』 異 域伝(下)の 訳 注 71 ( 3 ) ﹃ 通 典 ﹄ 巻 一 一 三 西 戎 伝 、 康 居 国 条 に は 、 煬 帝 に よ って 西 域 に派 遣 さ れ た 章 節 の 報 告 書 ﹃西 蕃 記 ﹄ 中 の康 国 伝 が 引 用 さ れ て い る 。 ﹃ 西 蕃 記 ﹄ は 散 逸 し て 現 存 せ ず 、 階 代 ソ グ ド 人 の習 俗 を 伝 え る 貴 重 な 遺 文 な の で 以 下 に 翻 訳 し て 補 足 す る 。 章 節 ﹃ 西 蕃 記 ﹄ に 言 う 。 康 国 人 は み な 商 業 に長 け て お り 、 男 子 が 五 歳 に な る と 、 読 み 書 き を 学 ば せ る。 少 し 理 解 で き る よ う に な る と 、 商 売 の や り 方 を 習 わ せ 、 利 益 を 得 る こ と が 最 善 で あ る と 教 え る 。 彼 ら は 歌 舞 、 音 楽 を 好 む 。 六 月 一 日 を 一 年 の 始 ま り と し 、 正 月 に な る と 、 王 お よ び 庶 民 は み な 晴 着 に き か え 、 散 髪 し 、 髭 を 剃 る 。 都 城 の 東 の 林 間 に お い て 、 七 日 間 に わ た っ て 騎 射 の会 を 催 す 。 最 終 日 に 的 上 に 一 枚 の金 貨 を 置 き 、 射 当 て た 者 が 一 日 だ け 王 位 に つく こ と が で き る 。 彼 ら の 習 俗 は 天 神 を 信 奉 し 、 熱 心 に崇 拝 す る 。 か れ ら は 神 の 子 が 七 月 に 死 ぬ と い い、 そ の 骸 骨 が 見 つか ら な い た め 、 信 者 た ち は そ の 月 に な る と 、 み な 襲 のあ る 黒 衣 を ま と い、 は だ し で歩 き 、 胸 を 打 ち 、 大 声 で 泣 き 、 涙 を 流 し て 悲 し み あ う 。 男 女 の 大 人 た ち 三 百 か ら 五 百 人 が 野 原 に 散 ら ば っ て、 神 の子 の 骸 骨 を 探 し ま わ る 。 七 日 目 に そ の 儀 式 を 止 め る (訳 者 注 " こ れ は 古 代 メ ソ ポ タ ミ ア 起 源 の ↓ 鋤 旨 旨⊆ N神 の 死 と 復 活 の儀 礼 で あ り 、 ペ ン ジ ケ ン ト 壁 画 の ﹁ 哀 悼 図 ﹂ が そ れ を 表 現 す る と さ れ る ) 。 都 城 の 郊 外 に は ま た 別 に 二 百 戸 余 り の集 落 が あ り 、 そ こ に住 む 人 び と は も っぱ ら 葬 儀 を 取 り 扱 う 。 特 別 に 囲 い の あ る 大 き な 建 物 ( 院 ) が あ り 、 そ の な か に イ ヌ を 飼 育 す る 。 死 者 が 出 る た び に、 出 か け て行 って 死 体 を 引 き 取 り 、 そ し て 院 内 に 運 ん でイ ヌ に 食 べ さ せ る 。 肉 が 食 べ つく さ れ る と 、 骨 を 集 め て 、 埋 葬 す る 。 棺 、 郭 は 使 用 し な い。 安 国 (ブ ハラ ) 安 国 は 、 漢 の時 の安 息 国 ( パ ル チ ア) で あ る 。 王 の 姓 は 昭 武 氏 で、 康 国 王 と 同 族 で あ る。 王 の字 は設 力 登 で、 妻 は 康 国 の王 女 で あ る 。 都 城 は 那 密 水 ( ザ ラ フ シ ャ ン河 ) の 南 に あ り 、 城 壁 は 五 重 であ り 、 周 囲 を 流 水 が 巡 って い る。 宮 殿 は
72 み な 平 屋 根 で あ る。 王 は 黄 金 の ラク ダ の 玉 座 (金 駝 座 ) に坐 り 、 そ の高 さ は 七 、 八 尺 であ る。 王 は政 務 に 臨 む と き 、 つ ね に 妻 と 向 か い合 って 坐 り 、 大 臣 三 人 が 国事 を 評 定 す る 。 風 俗 は 康 国 と 同 じ であ る が 、 た だ 姉 妹 や母 ・ 娘 を 禽 獣 のよ う に 互 い に妻 と す ると こ ろ が 康 国 と は 違 う 。 煬 帝 が 即 位 後 、 司 隷 従 事 の杜 行 満 を 西 域 に 派 遣 し 、 杜 行 満 は 安 国 に至 り 、 五 色 の塩 を 得 て 帰 国 し た 。 安 国 の 西 百 餘 里 の 所 に 畢 国 ( パ イ カ ン ド ) が あ り 、 お よ そ 千 餘 家 。 畢 国 に は 君 長 が お らず 、 安 国 が 畢 国 を 統 治 す る。 大 業 五 年 ( 六 〇 九 ) 、 使 者 を 派 遣 し て 朝 貢 し た が 、 そ の 後 、 朝 貢 は 途 絶 え た 。 石 国 (タ シ ュケ ン ト ) 石 国 は 、 薬 殺 水 ( ヤ ク サ ル テ ス 河 、 現 在 のシ ル ・ ダ リ ア) の そ ば に位 置 す る 。 都 城 は 四 方 十 餘 里 であ る 。 王 の姓 は 石 、 名 は 浬 であ る 。 国 城 の東 南 に 家 屋 を 建 て、 そ の中 に台 座 を 置 く 。 正 月 六 日 と 七 月 十 五 日 に は、 王 の父 母 の火 葬 し た 遺 骨 を 黄 金 の甕 に 盛 り 、 台 座 の上 に安 置 し 、 そ の周 り を 巡 り 、 花 や香 、 色 々 な 果 物 を そ の上 にま き 散 ら す 。 王 は 臣 下を 率 い て祭 礼 を と り お こ な う 。 こ の儀 式 が終 わ ると 、 王 と 夫 人 は 家 屋 か ら 出 て別 の帳 ( テ ン ト ) に入 る 。 臣 下 た ち も つづ い て 入 り 、 並 ん で座 り 、 宴 会 が 催 さ れ 、 そ し て祭 礼 は 終 了 す る 。 粟 と 麦 を 産 出 し 、 良 馬 を 多 く 産 す る 。 こ の 国 の習 俗 は好 戦 的 で 、 か つて 西 突 厥 に叛 き 、 そ の た め 射 置 可汗 は 軍 隊 を 出 動 し て 石 国 を 滅 ぼ し た 。 特 勤 の旬 職 に 石 国 の統 治 を 行 わ せ て いる。 石 国 の南 六 百 里 の所 に 鐙 汗 国 ( フ ェル ガ ナ ) が あ り 、 東 南 六 千 里 のと こ ろ に瓜 州 (敦 煌 ) が あ る。 旬 職 は 大 業 五 年 ( 六 〇 九 ) に 使 者 を 派 遣 し て朝 貢 し た が 、 そ の後 、 ふ た た び 朝 貢 し て は来 な か った 。 注 ( 1) 西突 厥 の射置 可 汗 (六 一一 ∼六 一 九) のこ と であ る が、 石国 を 滅 亡 さ せた のは、 か れが 処 羅 可汗 ( 五八 七 ∼六 一 一 ) の小可 汗 と し て石国 の北 ( 千泉 ) に駐 屯 し て いた時 、 つ まり 西 突厥 特 勤 の旬 職 によ る大 業 五年 ( 六〇 九) の 朝 貢 以前 の
こと であ る。 西突厥 の 小 可汗 制 に つ いては ﹃階 書﹄ 巻 八十 四西 突厥伝 、 処羅 可汗 の 条 を参 照。 『階 書』 西 域 伝 、 『周書 』 異 域伝(下)の 訳注 73 女 国 女 国 は 、 葱 嶺 ( パ ミ ー ル ) の南 に あ り 、 代 々女 性 が 王 と な る 。 王 の姓 は 蘇 蹴 ( ス ン パ ) 、 字 は 末 羯 で 、 王 位 に あ る こ と 二十 年 であ る。 女 王 の夫 は 、 金 聚 ( スヴ ァル ナ ゴ ト ラ) と 号 し 、 政 治 に は 関 与 し な い。 国 内 の成 年 男 子 は 、 た だ 戦 争 に 従 事 す る こと だ け を 務 め と す る 。 山 上 に 城 を 築 き 、 四 方 は 五 ∼ 六 里 で あ り 、 戸 数 が 一 万 あ る 。 国 王 は 九 層 の楼 閣 に住 み 、 侍 女 数 百 人 が 仕 え 、 五 日 に 一 度 政 務 を 執 り 行 う 。 ま た 小 女 王 が お り 、 共 同 で国 政 を 担 当 す る。 そ の俗 は 婦 人 を 尊 び 、 男 性 を 軽 んず る が 、 性 格 は 嫉 妬 深 く な い。 男 女 は みな 顔 に 色 を 塗 り 、 一 日 のう ち 数 回 、 塗 り か え た 。 人 は み な 被 髪 し (ざ ん ば ら 髪 ) 、 皮 革 で靴 を つ く り 、 課 税 は 定 ま って いな い 。 気 候 は 全 般 に 寒 く 、 弓 矢 に よ る狩 猟 を 生 業 と す る 。 真 鍮 (鍮 石 ) 、 朱 沙 (朱 ) 、 癖 香 、 葎 牛 ( ヤ ク) 、 駿 馬 、 蜀 馬 を 産 す る 。 と り わ け 塩 の産 出 が 多 く 、 常 に 塩 を 天 竺 に 運 ん で 販 売 し 、 数 倍 の利 益 を 得 る 。 ま た 、 し ば し ば 天 竺 ・ 党 項 と 戦 争 を す る。 女 王 が亡 く な ると 、 国 中 か ら 金 銭 を た く さ ん集 め 、 そ の金 銭 で亡 く な っ た 女 王 の 一 族 の 中 か ら 賢 女 二人 を 求 め 、 一 人 を 女 王 と な し 、 も う 一 人 を 小 女 王 と す る 。 貴 人 が 死 ぬ と 、 そ の皮 膚 を 剥 い で、 金 の屑 (金 粉 ) を 遺 体 の骨 や肉 と 混 ぜ 合 わ せ て瓶 の中 に置 き 、 そ れ を 埋 葬 す る。 一 年 た つと 、 ま た 皮 を 鉄 器 に入 れ て埋 葬 す る 。 こ の国 の俗 は 阿 修 羅 神 ( ア シ ュラ ) に仕 え 、 樹 神 を 祭 る 。 正 月 に は ヒ ト あ る いは サ ルを 犠 牲 に し て祭 祀 を お こ な う 。 祭 り が 終 わ る と 、 山 に 入 って 祈 る 。 す る と 雌 雑 の よ う な 鳥 が や ってき て手 の ひ ら に の る。 そ の腹 を 破 り 、 腹 の中 を 調 べ見 て 、 粟 が あ れ ば 、 こ の年 は豊 作 であ る が 、 砂 石 な ら ば 、 こ の年 は 災 厄 が あ ると 言 う 。 そ れ を鳥 占 い と い う 。 開 皇 六 年 ( 五 八 六 ) に 使 者 を 派 遣 し て朝 貢 し た が 、 そ の後 は途 絶 え た 。 ( ﹃ 新 唐 書 ﹄ 西 域 伝 、 ﹁ 東 女 国 ﹂ と そ の 訳 注 ︹小 谷 ・ 菅 沼 二 〇 一 〇 H 九 二∼ 九 四 ︺ を 参 照 )
74 焉 耆 (カ ラ シ ャー ル) 焉 耆 国 は 、 白 山 (天 山 山 脈 ) の南 七 十 里 の と こ ろ に都 城 を 置 き 、 漢 代 以来 の旧 国 で あ る 。 国 王 の姓 は龍 、 字 は突 騎 と い う 。 都 城 は 二 里 四 方 で 、 国 内 に は 九 つの城 が あ り 、 勝 兵 千 餘 人 を 擁 す る。 そ の国 に は 大 綱 ( 法 律 ) が な い。 そ の 国 の 俗 は 仏 典 を 奉 り 、 婆 羅 門 ( イ ン ド 人 ) に似 る 。 婚 姻 の 礼 は 中 国 と 同 じ 。 死者 は 火 葬 に付 し 、 服 喪 の期 間 は 七 日 間 で あ る 。 男 性 は 髪 を 切 る ( 勇 髪 ) 。 魚 、 塩 、 蒲 ( が ま ) 、 葦 (あ し ) を 売 って 利 益 を 得 る 。 東 は高 昌 ( ト ル フ ァン) か ら 九 百 里 、 西 は亀 弦 ( ク チ ャ) か ら 九 百 里 の距 離 に あ る。 周 囲 は み な 砂 漠 であ る 。 東 南 は 瓜 州 (敦 煌 ) か ら 二 千 二百 里 の距 離 に 位 置 す る 。 大 業 年 間 中 に使 者 を 派 遣 し て 特 産 物 を 献 上 し た。 亀 薙 (ク チ ャ) 亀 弦 国 は 白 山 ( 天 山 山 脈 ) の南 、 百 七 十 里 のと こ ろ に都 城 を 置 き 、 漢 代 以 来 の旧 国 で あ る 。 国 王 の姓 は白 、 字 は蘇 尼 唖 と い う 。 都 城 は 六 里 四方 で 、 勝 兵 数 千 人 を 擁 す る 。 風 習 と し て殺 人 を 犯 し た 者 は 死 刑 、 強 盗 は 片 腕 、 片 足 を 斬 る。 習 俗 は 焉 耆 (カ ラ シ ャー ル) と 同 じ 。 国 王 は 頭 に緑 帯 を 巻 き 、 そ れ を 後 ろ に垂 ら し 、 黄 金 の師 子 座 に 坐 る。 土 地 に は稲 、 粟 、菽 ( マメ) 、 麦 、 饒 銅 、 鉄 、 鉛 、 廣 皮 ( 大 鹿 の皮 ) 、 概 號 (毛 織 の敷 物 ) 、 鏡 沙 、 塩 緑 ( 石 緑 、 天 然 の眼 病 薬 ) 、 雌 黄 (顔 料 、 丹 薬 ) 、 胡 粉 、 安 息 香 、 良 馬 、 封 牛 ( コブ ウ シ) を 多 く 産 す る 。 東 は焉 耆 か ら 九 百 里 、 南 は 子 關 ( ホ ー タ ン ) か ら 千 四 百 里 、 西 は 疏 勒 ( カ シ ュ ガ ル ) か ら 千 五 百 里 、 西 北 は 西 突 厥 の王 庭 ( 牙 ) か ら 六 百 餘 里 、 東 南 は 瓜 州 (敦 煌 ) か ら 三 千 一 百 里 の距 離 に 位 置 す る 。 大 業 中 に 使 者 を 派 遣 し て特 産 物 を 献 上 し た 。
注 (1 ) 当 時 の ク チ ャ国 王 蘇 尼 姪 の本 名 は ブ ラ ー フ ミ ー 文 字 の ↓ o 葺 惹 で あ ろ う 。 そ れ は キ ジ ル千 仏 洞 第 六 六 ∼ 六 七 窟 か ら 出 土 し た ブ ラ ー フ ミ ー 写 本 中 (H しO 島 Φ 同 ω 一 〇 ω O " N 刈 ) や キ ジ ル 千 仏 洞 第 二 〇 五 窟 の ク チ ャ 王 夫 妻 像 に 付 さ れ た ブ ラ ー フ ミ ー 文 字 の 題 辞 で確 認 さ れ る。 ま た そ の 王 妃 の名 が Qり く 昌 p ぢ嘆 筈 冨 で あ る こ と も 判 明 し た 。 (} く o づ い ① O o ρ 俸 中 妻 巴 房 畠 巨 鼻 一 ゆ G。 ω " N O。 -N O ) 「階 書』 西 域 伝 、 『周 書 』 異域 伝(下)の 訳 注 75 疏 勒 ( カ シ ュ ガ ル ) 疏 勒 国 は 、 白 山 ( 天 山 山 脈 ) の南 百 餘 里 の と こ ろ に都 城 を 置 き 、 漢 代 以 来 の旧 国 で あ る 。 そ の王 の字 は 阿 彌 厥 で 、 手 足 の指 は み な 六本 あ る 。 子 供 が 生 ま れ 、 指 が 六 本 な い と 育 てな い 。 都 城 は 五 里 四 方 で あ り 、 国 内 に は大 き な 城 が 十 二、 小 さ な 城 が 数 十 あ り 、 勝 兵 二 千 人 を 擁 す る。 王 は 黄 金 の師 子 冠 を か ぶ る 。 そ の土 地 は 稲 、 粟 、 麻 、 麦 、 銅 、 鉄 、 錦 、 雌 黄 (顔 料 、 丹 薬 ) を 多 く 産 出 し 、 毎 年 、 常 に そ れ ら を 突 厥 に 献 上 す る 。 南 に は 黄 河 が あ り 、 西 は葱 嶺 ( パ ミ ー ル) に 沿 い、 東 は亀 茲 ( ク チ ャ) か ら 千 五 百 里 、 西 は 鐙 汗 ( フ ェル ガ ナ ) か ら 千 里 、 南 は 朱 倶 波 ( カ ル ガ リ ク) か ら 八 ∼ 九 百 里 、 東 北 は 西 突 厥 の王 庭 ( 牙 ) か ら 千 餘 里 、 東 南 は 瓜 州 (敦 煌 ) か ら 四 千 六 百 里 の距 離 に位 置 す る。 大 業 年 間 中 に 使 者 を 派 遣 し て特 産 物 を 献 上 し た 。 干 聞 ( ホ ー タ ン) 子 關 国 は 、 葱 嶺 ( パ ミ ー ル) の北 二百 餘 里 のと こ ろ に都 城 を 置 く 。 王 の姓 は 王 で、 字 は卑 示 閉 練 であ った 。 都 城 は 八 ∼ 九 里 四方 で あ り 、 国 に は 大 き な 城 が 五 つ、 小 さ な 城 が 数 十 あ り 、 勝 兵 数 千 人 を 擁 す る。 そ の国 の風 俗 は仏 法 を 尊 び 、