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「複雑さに備える」

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海幹校戦略研究

JAPAN MARITIME SELF-DEFENSE FORCE COMMAND AND STAFF COLLEGE REVIEW

特別号(通巻第12号) 2016年11月

巻頭特別寄稿 海上防衛戦略の新たな時間と空間 海上自衛隊の戦略的方向性とその課題 米国の拡大抑止と東アジア 米国にとっての「航行の自由」 (Freedom of Navigation) - FON 報告書の分析を中心に - 新たな相殺戦略に向けて - 米国のグローバルな兵力投射能力を取り戻す ために長期的優位事項を活用する - 英文要旨 執筆者・翻訳者紹介 編集委員会よりお知らせ 表紙:28年度海上自衛隊幹部候補生練習艦隊遠洋航海 ロンドン・タワーブリッジを背景に後進出港する「かしま」 P r in t edition: ISSN 2187-1868 Online edition: ISSN 2187-1876

2 16 45 64 86 93 98 99 武居 智久 後瀉 桂太郎 八木 直人 石原 敬浩 ロバート・マーティネッジ (訳者:松本 裕児) 巻頭特別寄稿ならびに後瀉の投稿について、英語全文翻訳を海上自衛隊幹部学校戦 略研究会ホームページにおいてPDF ファイルとしてダウンロード可能です。

Full text of opening special contribution and USHIROGATA’s article translated in English, and it is possible to access and download these PDF files in the JMSDF Command and Staff College Website.

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巻頭特別寄稿

海上防衛戦略の新たな時間と空間

武居 智久

“大王(注:趙王)が秦国にお仕えなされます以上は、秦は必ず宜陽と成皋の城を ほしいと申しましょう。今年それをさし出せば、明年はまだそのうえに土地を 割譲せよと申しましょう。与えようとて、もはややるべき土地はなく、与えね ば、これまでのことはむだになって、やがてわざわいを受けます。(中略)合戦 もなされいで、土地は削られていきまする。”(『蘇秦列伝』)1

はじめに

平成 28 年度の防衛白書は南シナ海問題に前年度以上のスペースを割い た。南シナ海における中国による国内法を国際法に優先させる傍若無人な 振る舞いと、ASEAN 諸国などと領有権について係争中の島嶼部において 埋め立てなどの活動を活発化させていること、そしてフィリピンが提訴し たハーグ仲裁裁判所の判決が当事国のフィリピンと中国ばかりでなく、周 辺国や世界の耳目を集めたことも理由であろう。 中国はスプラトリー諸島にある 7 つの地形2を急速かつ大規模な埋め立 てによって人工島化している。周囲に何もないサンゴ礁を埋め立て、乾い た陸地を作り出すには膨大な労力と時間、そして経費を必要とする。スプ ラトリー諸島のうち、最も中国大陸に近いスビ礁でさえ、海南島から510 海里(約 950km)のかなたにある。また、一般的な埋め立てであれば長期間 をかけて行う地盤安定化のプロセスをとらずに、埋め立て直後から飛行場 を含む複数の施設建設を一気に進め、軍事化している。 ファイアリークロス礁では、中国は埋め立て開始から約2 年間で 3,000m 1 小川環樹・今鷹真・福島吉彦訳「蘇秦列伝」『史記列伝(一)』岩波書店、1975 年 6 月16 日、128 頁。蘇秦は、強国の秦の侵食から国を守るために南北方向(従:た て)に並ぶ6 国が連合(合従)することを説いた。 2 ジョンソン南礁、クアテロン礁、ガベン礁、ヒューズ礁、ファイアリークロス礁、 スビ礁、ミスチーフ礁。このうちファイアリークロス礁、スビ礁、ミスチーフ礁で は飛行場の建設が進んでいる。『平成28 年版日本の防衛-防衛白書-』平成 28 年 8 月発行、57 頁。

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級滑走路及び付帯施設の建設を完了し、2016 年 1 月 2 日に民間機を使用 した試験飛行を実施したことを発表。この行為をベトナム政府は主権侵害 であると抗議した3。仮に、ファイアリークロス礁と同規模の人工島(面積 2.74km2×埋め立て 5m)を造成し、3,000m 級滑走路を舗装し、航空障害灯、 誘導灯など必要な付帯施設を有する飛行場を建設する場合、単純に日本の 代表的な例から逆算すれば約2,400 億円の経費を必要とする4。中国はファ イアリークロス礁と同様の土木工事を同時に6 か所で行い、また急速に埋 め立てを行うために一か所に数隻の浚渫船やポンプ船を集中投入している。 中国のこうした活動は南シナ海の実効支配を目的とした一方的な現状変更 であるとして、周辺国ばかりでなく日本やアメリカをはじめとする国際社 会から、法の支配に基づき平和的な手段で問題を解決すべきことが提起さ れている5 東シナ海の尖閣諸島周辺では、今年(2016 年)8 月 5 日から 9 日にかけて 中国漁船200 から 300 隻が操業するなかで、最大 15 隻の中国公船が接続 水域に入域し、延べ15 隻が 12 海里の領海内に侵入した。通常、尖閣諸島 周辺接続水域に展開する中国公船は3 から 4 隻であり、これまでと大きく 異なる隻数と領海侵入の数にかんがみ、日本政府は外交ルートを通じ中国 政府に重ねて厳しく抗議した。中国による領海侵入は 8 月 5 日に始まり、 9 日の中国公船 4 隻を最後に、中断、その後の8月中の公船による領海侵 入としては、同月17日の4隻、21日の4隻であった。この過去に例を 見ない事案について、特に最大値を記録した8 月 9 日を境に領海侵入がな くなった不自然な状況から、多数漁船の尖閣諸島周辺海域への展開と領海 侵入は、中国政府の統制のもとで行われたとの指摘もある。 以上の南シナ海と東シナ海における事案から次の二つが明らかとなる。 第1 に、中国は大規模かつ膨大な経費を要する海洋土木工事を国連海洋 法条約違反や国際社会の懸念表明を顧みず短期間に複数個所で同時に行え る大きな国力を持ち、また中国共産党の一党独裁体制は多数漁船の統制と 公船の大量投入を自由に実施できる可能性があるということである。 そして第2 は、スプラトリー諸島の埋め立てや尖閣諸島での事案はとも 3 『朝日新聞』2016 年 1 月 4 日朝刊。 4 港湾土木工事(浚渫、護岸)約 992 億円、陸上工事(敷地造成、発電所等)約 53 億円、 飛行場関連工事(コンクリート舗装、各種灯火設置、発電設備等)約 38 億円、合計 1,083 億円に離島工事費指数(海南島から約 1,200km)220%を乗じ、約 2,382 億円と 試算。庁舎、隊舎、管制塔、格納庫、燃料タンク等の陸上施設は算出外。 5 例えば、「アジアにおける最近の情勢に関する G7 外相声明」 (http://www.mofa.go.jp/mofaj/files/000189834.pdf)

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に中国の海洋戦略の一環と考えられるところ、大きな国力と政治体制によ って、中国はこの海洋戦略を実施する速度(時間)と規模(空間)を柔軟に変え られるということである。 国力と政治体制は国ごとに異なる。アジア太平洋地域に中国ほどの国力 と特殊な政治体制を持つ国はほかになく、当然ながら海洋戦略を実施する 時間と空間の自由度は低い。しかし、安全保障環境を考えるとき、往々に して我々は相手が自分と同じ時間や空間を使っているとミラーイメージす る錯誤を犯してきた。 今回の『海幹校戦略研究』では、新たな海上防衛戦略のための萌芽とも 言える試みを紹介する。巻頭言としては冗長となるが、それらの参考とな るように現在の我が国を取り巻く安全保障環境を時間と空間の観点から考 察してみたい。

1 新たな安全保障環境の「時間」

アメリカのベトナム内戦への本格的な軍事介入は1964 年 8 月のトンキ ン湾事件に遡り、1972 年のパリ和平協定まで約 8 年間に多大な戦死傷者 を出した。当時のアメリカの軍事力は革命政府側を圧倒しており、武器の 質と量の双方においてアメリカが革命政府軍に敗れることはありえなかっ た。永井陽之助は、『時間の政治学』のなかで、アメリカがベトナムで「何 が何に敗れたか」について次のように述べている。 “結論的に言えば、現代の工業・技術社会を基盤とした大都市勢力が、原始的な 農業生産を基盤とする土着の解放勢力に敗れたという、冷厳な世界史的事実に 注目したい。それは、常識的な意味での軍事的「能力」の闘争から「意志」の................. 闘争への転換......を意味するものであり、「能力」の闘争が基本的に空間的量的闘争 であるのに対して、「意志」の闘争は、そのシステムのもつ持久力-「時間」に........................... よ っ て 測 ら れ る 犠 牲. . . . . . . . .( 代 価 ) の 大 き さ で 決 定 さ れ る 紛 争. . . . . . . . . . . .だ と い う こ と で あ る。”6(傍点著者) つまり、アメリカは、時間の経過とともにアメリカ国内に蔓延した厭戦 気分によって戦争遂行の意志を消耗し、時間によっても変わらなかった革 命政府の戦争遂行の意志に敗れたということである。 6 永井陽之助『時間の政治学』、昭和 54 年 10 月 25 日、中公叢書、60 頁。

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また、永井は、一般に解放勢力が政府軍に対して有利に働く二つの非対 称性に注目している。それは、解放勢力にとっての「聖域」の存在が政府 軍に対して勝たなくとも敗けない状況を可能としたこと。そして、現状変 更勢力である解放勢力が現状維持勢力である政府軍に対して「常にイニシ アティブを持つ」ということである7。ベトナム戦争は大都市勢力(アメリ カ)と解放勢力が戦う非対称紛争であった。解放勢力は中国やソ連から支援 を受けた北ベトナムという聖域を持ち、聖域から南ベトナム国内に対して 随意にゲリラ戦を仕掛けるイニシアティブを持っていた。解放勢力が二つ の非対称性を長期にわたって活用し、勝たなくとも敗けない戦いを粘り強 く続けていけば、やがて大都市勢力側が戦争に倦み疲れて継戦の意志を失 って撤退する時が訪れる。解放勢力にとっては、あたかも熟柿が落ちる時 を待つ「時熟の戦略」が戦略となった8 「時熟の戦略」を用いたベトナム戦争やアルジェリア戦争に代表される 民族解放戦争は現代世界には存在しないが、その変形として、イラク・レ バントのイスラム国(ISIL)の無差別テロを挙げることができる。 ISIL はテロリストを中東地域からの難民に偽装して欧州に渡航させる など非人道的な行いだけでなく、ソーシャルメディアによって世界各地に プロパガンダを仕掛け、テロを呼びかけるなどしてその暴力的過激主義を 拡散させている。また、シリア内戦とリビアの国内混乱によって十万人単 位で欧州に流入し続ける難民は、繰り返されるテロ行為とあいまって難民 への警戒心を増幅させ、欧州連合の難民政策を根本から揺るがす事態を惹 き起こしている。ISIL の無差別テロの目的は、欧州をはじめ ISIL を国家 として認知せず攻撃を加える国家とその国民の戦意を無差別テロによって 挫かせ、ISIL の勢力を誇示することにある。この目的において、ISIL の 無差別テロは一つの「時熟の戦略」と言える。 ロシアによる「ハイブリッド戦」9を通じたクリミア半島の違法な併合や ウクライナ東部における衝突、そして中国の南シナ海の地形の一方的な埋 め立てには、国家主体による「時熟の戦略」の特徴を見ることができる。 まず、現在のウクライナ情勢をめぐっては、ロシアが「ハイブリッド戦」 の展開を通じて現状変更を試みたとみられている。対するウクライナ東部 と国境を接するロシアは国境付近にはNATO 非加盟のため集団防衛を期 待できず、一国の軍事能力において圧倒的にロシアに劣るため、ロシアに 7 永井『時間の政治学』、62-65 頁。 8 同上、80 頁。 9 『平成 28 年版日本の防衛-防衛白書-』平成 28 年 8 月、71 頁。

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占拠されたクリミアを独力で奪回することができない。また、ウクライナ 東部と国境を接するロシアは国境付近に約4万人の部隊を配備していると される。あわせて、ロシア国内世論はプーチンのウクライナ政策を高く支 持しており10、プーチンとしてはウクライナが原状回復をあきらめるまで、 負けない戦いを続けつつ時間をかけて待つことができる。 中国による南シナ海の地形の埋め立てと港湾施設、飛行場施設の建設、 そして軍事化は、岩礁の実効支配を確実なものとしつつあり、すでに時熟 の段階に入っている。 2016 年 7 月 12 日、ハーグ仲裁裁判所は 9 段線の内側の中国の管轄権を 否定し、スプラトリー諸島に島はなく、すべては岩か低潮高地であると裁 定した。この裁定に従えば、中国が実効支配を固める7 か所の地形のうち の4 か所は岩であって、12 海里の領海は持つが排他的経済水域(EEZ)及 び大陸棚を有しない。残り3 か所のスビ礁、ヒューズ礁、ミスチーフ礁は 干潮時のみ海面から顔を出す低潮高地とされ、これらがEEZ の中にある 場合、人工島の設置を含めて沿岸国が排他的な権限を有する。しかし、7 か所の約半数11は、フィリピン、ブルネイ、マレーシアから200 海里の内 にあるものの、他はどの国のEEZ にも属さない公海のなかにある。南シ ナ海のEEZ の境界は未確定であることに加え、7 つの地形以外の多くの地 形の帰属についても複数国が主張し合い、一部については小規模ながら埋 め立てを行うなど、実力での支配を図っている。 また、中国が実効支配を強める7 か所は、すでに埋め立て前の岩礁へと 原状回復できる段階を遥かに超えているばかりか、中国公船が周辺におい て外国漁船等の近接を阻んでいる。中国海軍と中国公船の規模は、地形の 帰属をめぐって係争関係にあるベトナム、マレーシア、フィリピンを合わ せた量を大きく上回り12かつ増強を続けているため、交渉のためには中国 が望む二国間交渉ではなく関係国が一致した行動をとるべきであろうが、 法的拘束力のある行動規範についても中国と経済的に強い結びつきある一 部国家の反対があってASEAN の一致した行動を妨げている。 かように先が見通せない南シナ海の混沌とした情勢は、結果として中国 10 「全ロシア世論調査センター」が、ロシアのクリミア併合後の 2014 年 3 月 20 日に発表したデータでは、プーチン・ロシア大統領の支持率は、過去5 年間におけ る記録値となる75.7%に達した。『ラジオ・ロシア 3 月 20 日』 11ミスチーフ礁、ヒューズ礁、ジョンソン南礁の3岩礁

12 Ministry of Defense, ”China’s Activities in the South China Sea”, 22 December 2015.

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優位に働いているばかりか、すでに仲裁裁判の当事国であるフィリピンの 意志は揺れ始めたかに見える。ドゥテルテ大統領は、2016 年 9 月 13 日、

この年4 月に米比両国が合意した南シナ海での共同哨戒活動にフィリピン

は参加せず、上空からの偵察活動は今後領海内に限定すると表明し13、ま

た9 月 28 日には訪問中のベトナムにおいて、中国が希望しない米比合同

軍事訓練(War Game)を 10 月 4 日から行われる年次両用戦訓練 PHIBLEX 33 を最後に中止し、今後は中露との経済関係を強めると発言した14 したがって、今後中国のとるべき戦略は、仲裁裁判所の裁定を「法律の 外装をまとった政治の茶番劇」(王毅中国外交部長)15と無視し、人工島周辺 を中国公船で守るなど実効支配を強化しつつ、経済援助や輸出入制限など の経済的手段を使い分けて関係国の譲歩を迫り、やがて関係国があきらめ るまで、人工島に居座り続けることに尽きる。 ロシアとの比較において、中国の「時熟の戦略」は、世界第2 位の経済 力と特殊な政治体制によって、より柔軟に時間をかけて実施されてきた。 中国が南シナ海において、ロシアがクリミア併合で行ったことと同じよ うに、明確で強圧的な手段を最初からとったとすれば関係国は激しく反発 したであろう。中国の手法は、関係国の警戒心を刺激しないように時間を かけて瀬踏みし、アメリカやロシアが域内から撤退したことによって生じ た力の空白に乗じるように現状変更に着手し、圧倒的な物量を投入して短 期間で後戻りのできない状況を作り出し、あとは関係国が譲歩するまでゆ っくりと時間をかけて待つことであった。要するに、中国は戦略を実施す るに当たって、時間を長くも短くも柔軟に変更できたということである。

2 新たな安全保障環境の「空間」

時が熟すのを待つ過程において、イニシアティブを取る現状変更勢力側 にとって重要となる課題は、相手の原状回復への動きをいかに抑止し、譲 歩を引き出すかである。 13 「米軍と共同哨戒せず=南シナ海で中国に配慮-比大統領」、時事通信社、配信 2016/09/13 23:42 国際。

14 “Duterte:2016 PH-US military exercises will be the last”, ABS-CBS News, Posted at Sep 28 2016 10:37 PM

(http://news.abs-cbn.com/news/09/28/16/duterte-2016-ph-us-military-exercises-will-be-the-last)

15 “Remarks by Chinese Foreign Minister Wang Yi on the Award of the So-called Arbitral Tribunal in the South China Sea Arbitration”,

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現代史において、ナチスドイツのチェコスロバキアのズデーデン地方の 割譲は、相手の譲歩を効果的に引き出した例である。ナチスドイツは東欧 諸国を蚕食(サラミスライス)し、ミュンヘン会議(1938 年)にてドイツ人が 多く居住するとの理由で英仏等にズデーデン地方の割譲を迫り、戦争回避 と引き換えに宥和を引き出す。この背景には、膨大な数の戦死傷者を出し た第一次世界大戦の戦禍の癒えぬ記憶が、特に長く戦闘が膠着した東部戦 線で戦った英仏等の国民世論を戦争忌避に導いたことがあろう。この事実 は、ミュンヘン会議から帰国したチェンバレンを、空港を埋め尽くした群 衆が英雄として迎えた16ことがよく物語る。 永井は、ヒトラーがサラミ作戦を成功に導いた遠因として、ヨーロッパ 内陸部において地理的・経済的相互依存関係が緊密化され、国家総力戦の 形態となる開戦に向かっていったん動きだした歯車は止められないという、 政治と軍事の双方において空間と時間が冗長性を失っていたこと、そして 情緒的大衆世論の圧力が政治家の政策決定過程に介入し始めたことを挙げ ている17。大衆世論の圧力とは、相手の軍事的な脅迫に強く反応すれば再 び悲惨な戦争になるかもしれない、という強迫観念である。チェンバレン の宥和政策には、チェコスロバキアを犠牲にしても、欧州を再び戦争の惨 禍に巻き込まないという動機があったと考えられる。 現在社会はインターネットと通信電子技術の発達によって、マスメディ アが地球の裏側の事件を隣町の出来事のように伝える時代である。また、 ヒトラーの時代とは比較にならないほど世界の経済相互依存体制は深化し、 国家関係を緊密化している。その結果、ひとたび戦端が開かれれば、戦争 が影響を及ぼすであろう空間の冗長性は政治的にも経済的にもさらになく なっている。 仮に、GDP において世界第 2 位と 3 位の中国と日本の間で軍事力を用 いた不測の事態が生起した場合、地域が限定された事態であっても、世界 経済や国際情勢に与える影響は想像する以上に大きくなることは間違いな い。 こうした戦略環境では、現状変更勢力がイニシアティブを発した時点で すでに政治的な意志について一線を越えているのに対して、現状維持勢力 側は軍事力や警察力など強制力を用いて現状変更に応じることに心理的な 抑制が働きやすい。また、現状変更勢力は常にイニシアティブを発揮でき

16 ENCYCLOPEDIA BRITANICA Volume 5, ENCYCLOPEDIA BRITANICA, INC.1963, p249.

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るため、現状維持勢力が強制力の使用に踏み切るレベルを超えないように、 増減を繰り返しつつ政府公船の数を徐々に増やしていく、あるいは軍艦や 軍用機の活動海空域を少しずつ地理的に拡大し活動の頻度を上げていくと いった手段を取ることが可能である。 人間の感覚には閾値がある。騒音を聞き続けると次第に騒音が気になら なくなったり、針で皮膚を突かれ続けると痛みが鈍くなったりするように、 時間の経過とともに感じ方の閾値は高くなっていく。巧妙に繰り返され拡 大されていく現状変更も同様であり、現状維持側が無為無策でいれば、や がてはマスメディアや国民がその状態に慣れ、感じ方の閾値を高くしてし まう。 現状変更勢力が繰り出す平時におけるサラミスライシングは、知らず知 らずのうちにスライスされた痛みを感じる閾値を上げているのではないか。 現状変更勢力のイニシアティブに対して現状維持勢力が何のアクション も起こさなければ、それは現状変更を暗示的に受け入れ宥和したことに他 ならない。また、相手の変化を促すべく関与しているつもりであっても、 相手によっては宥和と受け取られかねない場合があることにも注意すべき であろう。 一つの宥和は次の宥和を呼ぶ。現状維持側にとって、宥和の連鎖をいか に断ち切るかが大きな問題である。

3 新たな時間と空間への対応はあるか

新たな安全保障環境における時間と空間への対応を考えていく上で、ロ シアに対するNATO 等の動向が参考になるであろう。 第1 は、現状維持側の「空間」を緊密化することによる現状変更勢力へ の抑止力の強化、具体的には北欧中立国とNATO との安全保障関係の緊密 化である。 1994 年に英米露ウクライナは「ブダペスト覚書」(Budapest Memorandum)を結び、ウクライナの主権と領土保全(territorial integrity)を約束する代わりにウクライナに核兵器を放棄させた。同覚書 には、ロシアをはじめとする署名国は、ウクライナの領土保全あるいは政 治的独立を、武力を用いて脅かさないと明記されている18。しかし、ロシ

18 General Assembly Security Council, “Letter dated 7 December 1994 from the Permanent Representatives of the Russian Federation, Ukraine, the Kingdom of Great Britain and Northern Ireland and the United States of America to the

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アは2014 年 3 月にクリミアを違法に併合したばかりか、5 か月後の 8 月 27 日にウクライナ東部にも侵入したことが同地域で拘束されたロシア兵 士の存在によって明らかになった19。クリミア半島とウクライナ東部はロ シア系住民が多く居住する地域である。ロシアは、クリミアでは「共和国 政府」による「住民投票」の違法な実施を受けて併合し、ウクライナ東部 では武装勢力が地方行政府組織を占拠したことを受け、ウクライナ政府軍 と武装勢力の戦闘が開始された20。国際法に反した力による現状変更であ った。 ロシアの動きに対してNATO は、ロシアの行為は国際法に違反しており、 ウクライナ東部を不安定化させていると非難し、ロシアのクリミアからの 撤退と法の支配に基づく国際的義務の遂行を繰り返し求めている21。2016 年7 月に開催された NATO ワルシャワ首脳会議のコミュニケによれば、ロ シアが欧州安全保障環境を不安定化させているとNATO が見なす行動及 び政策は、不法・非合法なクリミア併合、力による主権国家の国境の侵害、 東部ウクライナの故意の不安定化、大規模な抜き打ち演習、バルト海、黒 海及び地中海東部を含むNATO 国境付近での挑発的な軍事活動等、多岐に わたる22 スウェーデンは、軍事非同盟を外交政策の基本とする一方で、2009 年に は多国間安全保障協力を推進する立場を明確化し、欧州安全保障協力機構 (OSCE)等を通じて各国との防衛協力と交流を推進してきたが、ロシアに よるクリミア併合のあと2014 年 9 月には、非加入であるものの NATO と のホスト国支援に関するMOU に署名し関係強化に努めるほか、重層的な 二国間の防衛協力を積極的に進めている23。最近では、2016 年 6 月 8 日、 スウェーデンのフルトクヴィスト(Peter Hultqvist)国防相は、2014 年のイ United Nations address to the Secretary-General – ANNEX I”, A/49/765* S/1994/1399* , 19 December 1994. 19ウクライナ軍報道官は2014 年 8 月 27 日、ロシア兵士 10 名を拘束したと発表し、 ロイター通信は写真付きで報じた。「ロシア軍が再びウクライナ東部に侵入、緊張 緩和に水」、ロイター通信、2014 年 08 月 28 日 07:31. JST (http://jp.reuters.com/article/ukraine-russia-soldier-idJPKBN0GR29E20140827) 20 外務省「ウクライナ基礎データ」 (http:/www.mofa.go.jp/mofaj/area/Ukraine/data.html) 21 例えば、イギリスは NATO、EU、国連とともにロシアへの説明を求め、EU 諸 国と共にロシアへの制裁の圧力をかけると記述している。National Security Strategy and Strategic Defence and Security Review 2015, November 2015,pp.53-54.

22 Warsaw Summit Communique, article 10, 09 July 2016. 23 外務省「スウェーデン王国基礎データ」

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ギリスに引き続き、アメリカのカーター(Ashton Carter)国防長官との間で 両国の防衛協力の強化に関する共同声明に調印した。両国間に相互防衛義 務はないが、具体的な協力項目として、相互運用性の強化、訓練演習を通 じた能力と態勢の強化、装備品協力の深化、研究開発に関する協力の前進、 多国間協力分野での共通課題への取り組みを挙げた24 フィンランドにもスウェーデンに似た動きがある。フィンランドはロシ アより独立した1917 年以降も、国境を接するロシア(ソ連)と良好な関係の 維持に腐心し、隣国スウェーデン以上に軍事的な中立を保つことを外交方 針としてきた。例えば、1948 年にソ連との間で締結した友好協力相互援助 条約はソ連崩壊後の1992 年に破棄したが、代わりにロシアと基本条約を 締結している。しかし、1995 年の EU 加盟後は「信頼に足る防衛力を基盤 とした軍事的非同盟」政策へと転換し、ロシアのクリミア併合のあと、非 加盟ながら2014 年に NATO とのホスト国支援に関する MOU に署名し、 関係強化を図った25。また、2016 年 7 月 9 日、NATO ワルシャワ首脳会議 に連接し、ニーニスト(Jussi Niinistö)国防相とイギリスのファロン (Michael Fallon)国防相は二国間の防衛協力協定(Declaratory Expression of Intent)に調印した26。報道によれば、この協定では危機におけるフィン ランドとイギリスの相互支援義務は生じないが、協力の枠組みは設置する 27。また、ニーニスト国防相は、これに先立つ8 月 22 日に、ロイター通信 に対して、アメリカとの間でも防衛協力協定締結に向けた交渉をしている ことを明らかにしている28 スウェーデンとフィンランドが外交防衛政策を転換し、NATO や英米と の関係強化に急速に乗り出した背景には、ロシアが「ハイブリッド戦」の 展開を通じ行ったクリミアの非合法な併合とウクライナ東部において続く 軍事衝突に加え、バルト海周辺でNATO とロシア双方の軍事活動の顕著な 活発化が動機として働いたと考えられる。

24 “Minister of Defence Peter Hultqvist signed US-Swedish Statement of Intent (http://www.government.se/articles/2016/06/minister-of-defence-peter-hultqvist-signed/)

25外務省「フィンランド共和国基礎データ」

(http:/www.mofa.go.jp/mofaj/area/finland/data.html) 26 “Finland, Britain sign defense protocol”,

(http://www.finlandtimes.fi/national/2016/07/11/28476/Finland,-Britain-sign-def ense-protocol/)

27 “Finland, Britain sign defense protocol”,

(http://www.finlandtimes.fi/national/2016/07/11/28476/Finland,-Britain-sign-def ense-protocol/)

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歴史が繰り返すとすれば、プーチン・ロシアの矛先(サラミスライス)が 次に北欧に向く可能性を否定できない。独力では国を守れない中小国家の とりうる外交政策の選択肢は、歴史的に見て宥和政策をとるか、二国間あ るいは多国間の同盟政策による集団防衛体制をとるかという二つしかない。 特に、フィンランドがロシア革命によってくびきを解かれて以降も長くロ シアの影響下に置かれた経験からロシアとの関係に微妙なかじ取りをして きたところ、このたびロシアと距離を置く方向に転向したことは、ウクラ イナ情勢が与えた衝撃の大きさを如実に物語っている。 第2 は、軍事力の持つ「時間」の即応性を改善することによる抑止力の 強化、具体的にはロシアと国境を接するバルト三国とポーランドへの戦闘 部隊の展開である。 前述の2016 年 7 月の NATO ワルシャワ首脳会議では、カナダ、ドイツ、 イギリスそしてアメリカが主管国となって、2017 年初頭以降、バルト三国 (エストニア、ラトビア、リトアニア)とポーランドに 4 個大隊規模の戦闘 群を前方展開することを決定した。合わせて、NATO の南方地域、ルーマ ニアへのプレゼンスを増大させる目的で統合訓練の改善等を決定した29 バルト三国は、ロシア革命(1917 年)と第一次世界大戦後に沸き起こった 民族国家独立の世界的風潮のなかで1918 年に独立したが、独ソ不可侵条 約(1939 年)に付随する秘密議定書によってソ連がバルト三国を併合して 独立は消滅し、再び独立を勝ち得たのはソ連が崩壊したあと1990 年から 91 年にかけてであった。ポーランドも秘密議定書に従ってナチスドイツと ソ連によって分割占領され、第二次世界大戦での犠牲者は総人口の5 分の 1 を数えた。ルーマニアに対するソ連によるベッサラビアの割譲要求も秘 密議定書に基づくものであった。 再独立後のバルト三国、冷戦後のポーランドとルーマニアは、ロシアと 良好な関係維持に配意しつつも、被侵略の歴史に根差したロシアへの警戒 心はことのほか強く、NATO や EU との関係強化に努め、特に安全保障に ついてはNATO 加盟による集団的自衛権獲得に注力してきた30 ロシアとの関係において長く悲惨な歴史を持つ国々が、自国民保護を目 的にクリミアを併合し東部ウクライナに侵入したプーチン・ロシアから主 権と独立を守ろうと、NATO の集団防衛体制の実効性を高めるため国内に NATO 戦闘部隊の展開を求めることは自然である。特に、国民の約 4 割が

29 Warsaw Summit Communique, article 40-41, 09 July 2016. 30外務省「エストニア共和国基礎データ」等

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ロシア系であり、直接ロシアと国境を接するラトビアにとって、次は自国 かもしれないという危機感は他の国々よりも深刻であろう。ロシアとの間 にベラルーシを挟むエストニアもロシア系住民が約3 割と多く、また、ウ クライナと国境を接するポーランドも独ソによる分割の歴史を思い、相当 の危機感を募らせていることは想像に難くない。 ただし、軍事力を前方展開しただけでは、抑止力としては不十分である。 アーロン・フリードバーグは、中国のアクセス阻止/エリア拒否(A2/AD) 戦略への米国の対応として軍の計画立案者たちが直面する最も難しい選択 は、どのような軍事力を持つかということよりも、相手国の本土に対して 米軍事力を「どの程度積極的に使うか」という点にあると説く。危機に際 して、米側に相手本土に対して軍事力を使用する能力や意志がないことに 相手が気づけば、その国の指導者は反撃による報復を恐れず、攻撃によっ て生じる戦争勃発のリスクを過小評価し、国家資源を防御よりも攻撃によ り多く投入するようになる31 フリードバークの考えを今後の東欧情勢に当てはめてみれば、ロシアの 新たなサラミスライスの試みに対して、NATO 側にロシア国内に対してさ えエスカレーションを恐れず軍事力を使用して報復する具体的な計画や意 志がないとロシアに映ったとき、ロシアが新たにサラミスライスに着手す る意志を抑止できないということである。 バルト三国へのNATO 戦闘部隊の展開は、もっぱらロシアの次の行動を 抑止する目的で行われていると考えられる32。ロシアに対してNATO 戦闘 部隊はエスカレーションの危険を冒して反撃するのか。いままさにNATO の存在意義が問われているといえよう。 新たな安全保障環境における時間と空間への上記二つの対応、すなわち 「空間」の緊密化と「時間」の即応性は、いずれも新たなサラミスライシ ングを防止する方策である。では、すでに現状変更が半ば固定化し、時熟 のフェーズに移っていると考えられる状況を回復する方策はあるのであろ うか。 クリミア半島に関してはロシアの行為の違法性に疑いの余地はないもの の、他方でロシアは国連常任理事国として安保理決議を妨げる権利を持ち、 また核兵器を含む軍事力においてウクライナをはるかにしのぐ現実を踏ま 31 アーロン・フリードバーグ『アメリカの対中軍事戦略 エアシー・バトルのさき にあるもの』平山茂敏監訳、芙蓉書房出版、2016 年 5 月 20 日、182-183 頁。 32 NATO「Warsaw Summit Communique」

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えれば、結論として、ウクライナが不法占拠された土地を短期間で回復す ることは困難と考えられる。ウクライナにとって唯一とりうる戦略は、相 当の時間を要することを覚悟しつつ、事態の時熟を進めないように国民の 意志を維持しつつ、多国間の枠組みのなかで粘り強く交渉を継続していく ことであろう。 洋の東西を問わず、中小国にとって、大国に現状変更をさせないために は、事態が回復不能な状態に陥る前の段階で、兆候を察知した都度リアク ティブに原状回復を繰り返していくこと、また相手に付け入るすきを与え ないように同盟国等との関係を強化し、望ましい国際世論を喚起するなど プロアクティブに行動し相手を抑止していくことが基本的な戦略と考えら れる。特に、NATO のような集団防衛体制を持たない地域において、同盟 に代わる国家間の協力関係の緊密化は、抑止を改善する意味から重要であ る。 リアクティブにしてもプロアクティブにしても基本的な属性は動的であ って、保持するだけの静的な軍事力では意味をなさない。とりわけ武力行 使の閾を超えない強度の抑えられた平時のサラミスライス戦略に対応して いくためには、警察力や防衛力が適時適切に動的に運用されてこそ抑止も 対処も可能になるということである。

おわりに

現代の拡大する軍事力の「空間」は、国際法や規範に則らない不法な現 状変更であっても、現状維持勢力側に安易な軍事力の使用をためらわせる。 しかし、いざというときにはエスカレーションを恐れず軍事力を使用する 計画を持ち、かつ計画を発動する政治の意志があることが、巧妙に現状変 更が行われる新たな安全保障環境には必要であって、そして何よりも現状 変更勢力が「時熟」の段階に移行する前に原状回復を図ることが事態をエ スカレートさせずに沈静化させるための鍵となる。 この時も尖閣諸島周辺海空域には海上保安庁の船艇が領域保全のために 展開し、海空自衛隊の艦艇と航空機は周辺海空域で警戒監視を強化してい る。尖閣諸島の所有権が政府に移転されて以来4 年を経た今も、東シナ海 情勢に対するマスメディアの関心は高く維持され、海上保安庁が日々公表 する尖閣諸島接続水域の中国公船の活動状況を報道し続けている。国民が 現状を知ること、それは、国民の尖閣諸島への関心を維持することにつな がり、ひいては尖閣諸島の保全に対する政治や国民の閾値を上げさせない

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効果がある。こうしたマスメディアの報道姿勢が、中国による一方的な現 状変更の進行、つまり時熟を防止することに大きく貢献していることは言 うまでもないであろう。 ここまで我が国を取り巻く安全保障環境を時間と空間の観点から考察し てきた。言うまでもなくそれは単純な軍事的合理性のみによって説明でき るようなものではなく、多くのアクターの認識あるいは行為が複雑に重な り合い、影響し合った結果である、ということは明らかである。今回の『海 幹校戦略研究』では執筆陣が各々のアプローチによって複雑に絡み合った 糸を少しでも解きほぐすことを試みている。後瀉は海上自衛隊の今後の戦 略的方向性について試論を展開し、八木は東アジアにおける米国の拡大抑 止について論じる。また、石原は米国の主張する「航行の自由」を分析す るとともに、松本は「第3の相殺戦略」に関するシンクタンクのレポート について、その要旨を翻訳した。読者の皆様に対し、我が国の安全保障と 今後の海上防衛戦略について、何らかの示唆を与えることができれば幸甚 である。

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海上自衛隊の戦略的方向性とその課題

後瀉 桂太郎

序 論 -変革の必要性-

国際システムにおける多極化と価値観の多元化が進行する過程におい て、国際社会は完全な平和、あるいは高烈度の戦争状態のいずれにも該当 しない「対立」と「紛争」の狭間で揺れ動いている1。現在の安全保障環境 を俯瞰したとき、大戦争が起こる確率は低いが、完全な平和も期し難いと いう不安定なバランスの上に立っていると見做せるのである。このような 国際情勢の下、我が国は世界秩序を巡るグレートゲームの中で、これまで 自由世界に平和と繁栄をもたらしてきた国際システム、あるいは自由・人 権・民主主義・法の支配等の国際規範を維持する側にある。よって現状の 国際秩序を力によって変更・阻害しようとする国家・非国家主体(アクタ ー)に対し、その意図を達成するための行動を起こさせないことが安全保 障上きわめて重大な目的となる。 冷戦後、国益の実現と安全保障環境の安定を求めるにあたり、日本は自 国一国のみの安定を求めるのではなく、同盟・友好国との協力・役割分担 によってこれを具現してきた。国家安全保障戦略では、国家安全保障の基 本理念を以下のとおり定めている2 「平和国家としての歩みを引き続き堅持し、また、国際政治経済の主要プレーヤ ーとして、国際協調主義に基づく積極的平和主義の立場から、我が国の安全及びア ジア太平洋地域の平和と安定を実現しつつ、国際社会の平和と安定及び繁栄の確保 にこれまで以上に積極的に寄与していく。」 1 本論で「対立」とは軍事力の直接的行使までに至らない国家関係、「紛争」を国家 間における低烈度の力の行使、すなわち法執行機関など非軍事部門の衝突あるいは 地理的・時間的に限定的な軍事衝突と位置づけている。この点に関連し、本論では 全く対立等のない状態を「平時」とする一方で、現実にはここに記す低烈度の対立 あるいは紛争状態が継続する状況が長期的に継続しているとみなし、このような状 況を「平素」と呼称する。 2『国家安全保障戦略』、平成25 年 12 月 17 日国家安全保障会議決定、同日閣議決 定、3 頁。

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今後このようなトレンドは多極化・多元化の進行に合わせて一層重要度 を増すと考えられる。したがってわが国の安全保障を大局的視点に基づい て検討する際、国民及び国土の防衛が最も重要であることは明らかである が、一方で我が国の安全保障は地理的に限定された本土防衛のみによって 完結することはなく、「広く国際社会に寄与し、その結果として我が国の安 全保障環境を改善する」という視点をあわせ持つことが求められるのであ る。 冷戦後の海上自衛隊は、安全保障における日本の役割拡大の先駆けであ り続けてきた。活躍の主たる舞台となってきた、中東から日本に至るイン ド・アジア太平洋地域における不安定化の要因は、冷戦後主としてイラク・ 北朝鮮といった国家主体とテロリスト・海賊といった非国家主体の両方に 求められる。北朝鮮は国際的孤立と引き換えに核ならびに弾道ミサイル開 発を進めており、また宗教的過激主義等に起因するテロリズムは引き続き 深刻な被害をもたらしている。 加えて、最近数年間に生起した事象は国際システムにより重大な影響を もたらし得る課題を提示している。たとえば欧州ではロシアのクリミア併 合問題、アジア太平洋では中国の急激な海洋進出といった国家主体による 力による現状変更の試みを通じ、冷戦期と同様に国家間対立が国際社会の 主要な課題として再びクローズアップされることとなった。中国は 20 世 紀末以降急速な経済発展を背景に主として海空軍を中心とした通常戦力を 急激に増強し、その意図と目的の不透明性が指摘されてきたが、特に近年、 領域主権と海洋資源確保に関して強硬な主張と力による現状変更が顕著と なっている。これまで日米は中国の行動に懸念を抱き、これまで関与とヘ ッジの両面で対応してきたが、中国の行動は抑制的となるのではなく、む しろ露骨なものとなっている3

中国人民解放軍(People’s Liberation Army: PLA)は、中国沿岸域から 我が国周辺海域をはじめとする北西太平洋の一部において日米に対する局 地的な軍事的優越を獲得することを企図し、アクセス阻止・エリア拒否 (Anti-Access/Area-Denial: A2/AD )戦 略 を 発 展 さ せ て い る 。 同時 に 3 「関与」ならびに「ヘッジ」という用語は政策文書等で頻繁に見られる一方、厳 密な定義/用法が確立しているわけではない。本論では「関与」を「相手に対し、 我にとり都合の良い存在へと変革するよう働きかけること」、「ヘッジ」は「「関与」 が機能しなかった際に対応できるだけの意図と潜在的能力を保持しておくこと」と 定義する。

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ASEAN 諸国に対し軍事的に圧倒的優位に立つ南シナ海において、中国の 独善的な国家実行はさらに顕著であり、法と秩序によることなく、力の誇 示並びに力を背景とした領域主権に関する現状変更の既成事実化を推し進 めている。 中国の軍事戦略目標ならびに戦略目標が達成された最終状態(endstate) が地理的にみてどのようなものであるのかは不明確である。南シナ海の状 況を看過した場合、東シナ海、あるいはマラッカ海峡を越えてインド洋方 面についても、その独善的な国家実行が拡大する懸念は拭えない。2015 年の中国国防白書「中国軍事戦略」には中国人民解放軍海軍(PLA Navy: PLAN)に関し、「PLAN は従来の近海防御(offshore water defense)か ら、近海防御と外洋作戦能力(open seas protection)のコンビネーション へと徐々にシフトする。そのために複合・多機能かつ効率的な洋上戦力構 造を構築する。PLAN は戦略的抑止、反撃能力、洋上機動、海上統合作戦、 包括的防御能力/後方支援能力を向上させる」という記述が見られ、今後 も海洋権益ならびに海外権益保護のため、外洋展開能力を拡充させるもの と考えられる4 冷戦後、我が国の安全保障にとり切迫した脅威とは北朝鮮の核・ミサイ ル開発と不法行動である。一方で現代のアジア太平洋の安全保障環境に対 し、パラダイムシフトにつながる大きなインパクトをもたらしているのは 中国である5。さらに、これまで日本の繁栄をもたらしてきた海上交通路な ど海洋における安全確保及び広範な地域における、より安定した安全保障 環境の構築について、その重要性が色あせた訳ではない。ソマリア及びイ エメン情勢のように沿岸国(地域)の不安定化が、引き続き国際的な海洋 利用の自由を阻害する要因となるほか、大量破壊兵器の拡散、気候変動の 影響、大規模災害、感染症など、トランスナショナルな不安定要因は存在 し続けている。 海洋国家としての国益を守るにあたり、海上自衛隊は、我が国の最も重 4 なお、中国がどのエリアまでを軍事的に「近海」と見做しているのかは明らかで ない。 The State Council Information Office of the People’s Republic of China, White Papers: China’s Military Strategy, May15, 2015, Chapter IV “Building and Development of China’s Armed Forces.”

5 序論で我が国の安全保障環境を論じるにあたり、周辺諸国・地域情勢について包 括的に説明しているわけではない。多極化のトレンド、特に米国の相対的国力低下 と中国の躍進が我が国にとって最大のインパクトを与えており、それが海上自衛隊 の戦略的方向性を変革する要因となっているのであるから、序論ではこの点に絞っ て思考を進め、第5節において地理的なコミットメントについて示すこととする。

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要な戦略的ツールの一つである。海上自衛隊の戦略性は、防衛力整備とい うハードウェアの調達・戦力化と、平素の活動、そして有事への備えとい った組織の態勢、これを支える人的要因といったソフトの両面が一体とな って機能する。

すなわち、日々の我が国周辺における練成訓練、警戒監視任務、海賊対 処 や 人 道 支 援 ・ 災 害 派 遣 (Humanitalian Assistance/Disaster Relief: HA/DR)、さらには進出帰投の過程で部隊が示すプレゼンスに至るまで、 その任務は単なる平時のルーティンワークではない。今後見通せる限りの 間、全面戦争勃発の可能性が極めて低い一方で完全な平和もまた遠く、対 立と紛争が継続する安全保障環境のもと、これらの任務は我々の活動を注 視するすべての周辺諸国に対して国家意思を示す戦略的メッセージであり、 我が国の安全保障と国際秩序の維持に対し直接的に影響を及ぼす、極めて 重要な活動である。 他方で近年の厳しい財政事情を踏まえれば、海上自衛隊の資源が有限で あることは明らかであり、資源配分の方向性ならびに優先順位を再設定す ることが必要である。したがって、今「海上自衛隊は何をすべきか、何が できるのか」を再検討する時期にあたり、戦略的アプローチの変革を必要 としている。係る状況を踏まえた上で、本論は現在から概ね 20 年程度、 すなわち 2030 年半ばまでを見据えた海上自衛隊の戦略的方向性を検討す るにあたり、本論全般の方向性を規定する「法と秩序の維持」ならびに「抑 止」という概念を整理し、この概念整理に沿って安全保障環境と戦略目標 (Ends)を検証した上で、目標達成の方策(Ways)、さらに方策実現の手 段(Means)を示す。

1 抑止という文脈

(1)抑止概念の定義 本論では現在安全保障上最も重要な課題である「法と秩序の維持」は、 現状(status-quo)を維持するという観点において抑止と表裏一体の概念 をなす、という前提にたっている。そして抑止とは、「軍事的意図と能力を 示すことで衝突を未然に防ぐ」という軍事的に限定された概念ではなく、 「国際社会の平和と安定を可能とし、また我が国に繁栄をもたらしてきた 既存の国際秩序を力によって改変させない」というより広義の文脈で使用 する。つまり抑止には軍事的手段のみならず、政治的・経済的手段等も含

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まれることになるが、抑止を現状維持の方策として規定する考え方は従来 から純軍事的要素に限定されてきたわけではない6 抑止とは、相手に現状変更させない、つまり現状維持を目的としている、 ということであり、このことは冷戦期を通じ比較的厳密な共通認識であっ た。この理解を援用すると、抑止とは広く安全保障環境において我にとり 好ましい「現状」を維持すること、と定義することができる。そしてこの 概念は我が国の安全及びアジア太平洋地域の平和と安定の実現という国家 目的を追求する際に極めて重要な方向性を示唆する7。「法と秩序の維持」 とは外交上の諸問題を力によることなく国際社会がこれまで合意してきた ルールセットに基づいて解決することを意味し、それは多分に規範的な観 念であるが、それをリアリズムの観点から説明すると「これまで形成され てきた現状を維持する」という抑止の文脈が適合する。つまり規範的な観 念である「法と秩序の維持」と、リアリズムにおける「抑止」とはいわば コインの表裏なのであり、意図するところは基本的に同一である、と理解 することが可能である。 (2)「関与とヘッジ」から「抑止」への変換 2015 年 8 月に米国防省が公表したアジア太平洋海洋安全保障戦略 (Asia-Pacific Maritime Security Strategy: APMSS)は、米国の安全保 障上のコミットメントについて中国の海洋進出を念頭にアジア太平洋地域 に特化して示したものである。APMSS はその序章において3つの目的を 掲げる8 6 ジョージ(Alexander George)は、「非軍事戦略」の一環として抑止と強制外交 (coercive diplomacy)を峻別するとともに強制外交をタイプAからCまで3分類 し、以下の4つのカテゴリーに基づいて抑止と強制外交を定義する。 抑 止:敵に行動を開始しないよう説得する タイプA:敵が目的を達する前に行動を中止するよう説得する タイプB:敵に行動を起こす前の状態に原状回復するよう説得する タイプC:敵の政治体制を変革するよう説得する

Alexander George, “Coercive Diplomacy: Definition and Characteristics,” Alexander George and William Simons ed, The Limits of Coercive Diplomacy Second Edition, Westview Press, 1994, p.9.

7 冷戦期の抑止理論において、抑止(deterrence)とは相手に現状を維持させるた めの働きかけとして定義され、力によって相手の行動を変更させることを意味する 強要(compellence)と峻別される。Robert J. Art, “To What Ends Military Power?,” International Security, 1980 Spring, p.9.

8 U.S. Department of Defense, Asia-Pacific Maritime Security Strategy, August 2015, pp.1-2.

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① 海洋における自由の擁護 ② 紛争と強制の抑止 ③ 国際法・国際秩序遵守の促進 ここから読み取れるのは「公共財としての海洋の自由という国際秩序を維 持し、力ではなく国際法に基づいて国際問題が解決されるよう、紛争を抑 止する」という姿勢である。 しかしながら「法と秩序の維持」は、残念ながら外交交渉あるいは国際 法上の手続きによってのみ促進されるわけではない。2016 年 7 月 12 日、 国連海洋法条約に基づく仲裁裁判所は南シナ海における中国の実効支配強 化に関連し、中国が造成を進める岩や低潮高地が「島」であるとは認めら れず、また中国が歴史的権益として主張する「九段線」について国際法上 の根拠がない、という判決を下した9。これに対し中国が判決を受け入れる 兆候はなく、力による現状変更が法的判断によってどこまで抑制できるの か、という点について悲観的とならざるを得ない。ピルズベリー(Michael Pillsbury)は 1971 年のニクソン米大統領訪中以来、米国の対中政策が一 貫して「脆弱な中国を援助してやることで、我々と(価値観や思考を)共 有する指導者に率いられた中国は地域、ましてやグローバルな支配的地位 への野望を示すことなく、民主的で平和な大国となる」という信念に基づ いていたと指摘し、そして「それらの信念に基づいた仮説は、すべてが危 険なまでに誤りであった」と述べる10。ピルズベリーをはじめとする米国 の対中政策立案に携わった人々が、永らく中国の発展に一定のヘッジをか けつつも、中国を民主的で平和な国家へと変革させる、いわゆる関与を基 調とした政策に重きを置いてきたこと、そして現在その方針に明確な疑義 を生じているのであり、つまるところ中国の政治指導者達にとり、米国の 対中政策は「関与(engagament)」ではなく単に「宥和(appeasement)」 として認識されているのかもしれない。 係る状況を踏まえれば、日米が従来と同様に、「関与」の観点から対応

9 In the Matter of an Arbitration (the Republic of the Philippines and the People’s Republic of China) PCA Case No.2013-19,(12 July 2016), paras. 202-209, 278, 382-384.

10 Michael Pillsbury, The Hundred-Year Marathon -China’s Secret Strategy to Replace America as the Global Superpower, Henry Holt and Company, 2015, pp.6-7. (マイケル・ピルズベリー『China 2049 秘密裏に遂行される「世界覇権 100 年戦略」』野中香方子訳、日経 BP 社、2015 年。)

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を継続したとしても成果(中国が国際規範に従うような形に変化すること) が得られるとは考えづらく、また、中国の行動に影響を受ける周辺諸国か らの信頼を得られるとも考えられない。 中国の海空戦力が、量的に自衛隊を大きく凌駕しつつあり、質的にも急 速に向上していると見做される現状では、我が国が独力でヘッジすること を追求したとしても、それは人的・財政的に極めて深刻な負担を強いられ ることを意味する。さらに付言するならば、脅威対抗の観点に基づいて日 本独力で抑止することを念頭においたとしても我が国の人的・財政的規模 ならびに「戦略守勢」という我が国の防衛体制からみて、戦略目標の達成 は極めて困難である。 多極化する世界の中で我が国のみによってなし得ることは限られるの であるから、我が国は自身の努力に加えて日米共同を基調とし、自由世界 に平和と繁栄をもたらしてきた国際システム、あるいは自由・人権・民主 主義・法の支配等の国際規範を維持する必要がある。そして我が国にとり 望ましい環境とは、これらの国際システムと国際規範、そしてその基盤と なる海洋秩序が維持されることとなる。したがって我が国の海上防衛が最 も力を注ぐべき努力とは、これらを不安定化させる因子の出現を抑止する ことなのであり、この思考が次節以降の議論展開における中心的概念をな す。 なお、抑止が機能するためには、自身の優位を相手に認識させ、相手に 現状変更を目的とする行動をとらせないことが重要である。そのため、我 にとって好ましくない行動をとった場合、相手が痛みを感じるコストを生 じさせ、あるいは相手の資源投資を分散させることで、我にとって重要な エリアに投資可能な資源を減少させるとともに、相手が望まない分野への 投資を強要し、最終的には相手を疲弊させ、長期にわたる競争に打ち勝つ ための努力が重要である11 11 マンケン(Thomas Mahnken)は「抑止の対象に対し、平素からコストを強要 する」ことを「コスト強要(cost imposing)」と定義し、経済・外交・軍事など幅 広い分野で適用される、と述べる。Thomas Mahnken, “Cost-Imposing Strategies: A Brief Primer,” Center for a New American Security, November 2014.

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2 安全保障環境

-事態エスカレーションに焦点をあてた「垂直的」観点から-

冷戦終結から四半世紀が経過し、中国、インドを筆頭としたインド・ア ジア太平洋地域諸国等の台頭により、米国の相対的国力は低下傾向にあり、 冷戦直後の米国一極世界は多極化世界に移行しつつある。この傾向は予見 し得る当面の間継続する公算が高い。そして米国及びその同盟国の持つ予 算、人的資源といった安全保障領域に投資できる資源は相対的に潤沢とは いえない。 冷戦後から現在まで大国間で核戦争の危機が生じたことはなく、多極化 した世界においても大国間での核抑止は機能していると考えられるが、北 朝鮮のように、新たに核兵器を保有しようとする国々との間の核抑止のメ カニズムは不透明である12。我が国は核の脅威に対し拒否的抑止力である ミサイル防衛、国民保護等に力を傾注する一方、懲罰的抑止については米 国の拡大核抑止に期待している。 核抑止、人権意識の高まり、国際政治における法秩序の浸透と国家実行 に関わる正統性・合法性の担保といった点から、国家間の問題解決に対し て軍事力を行使するハードルは高くなってきており、このため、先進国・ 大国間の全面戦争が生起する可能性は極めて低い。しかし、全面戦争生起 の公算が低いということは、例えば領土を巡る小規模な紛争や武力を背景 とした相手国に対する強要が発生しない、ということを意味するわけでは ない。特に、先進的な軍事技術の世界的拡散により、高度な情報収集・警 戒監視(intelligence, surveillance and reconnaissance: ISR)能力と長距

離精密攻撃力、隠密性に優れた潜水艦といった武器体系により A2/AD 戦 略をはじめとする対抗策を講じることが可能となっている。これは米国の 12 多極化世界において核保有国の増加がどのような影響を及ぼすのか、という議論 について結論が見出されたわけではない。サガン(Scott Sagan)は核保有アクタ ーの増加が国際システムに不安定と悪影響をもたらし「数の増加は事態を悪化させ る(More will be worse)」であると主張したのに対し、ウォルツ(Kenneth Waltz) は「もし核兵器が攻勢側を利し、あるいは恫喝的な国家による脅迫の強要性を高め るのであれば、核兵器がより多くのアクターに拡散すればするほど世界に悪影響を もたらすだろう。一方でもし核兵器の拡散によって国家防衛と抑止が容易となるの であれば、全く反対の結果を期待することもできる」とし、核拡散が必ずしも良い 影響をもたらすと断言しているわけではないが、「数の増加は良いことなのかもし れない(More may be better)」と核拡散の影響の評価について留保する。 Scott Sagan and Kenneth Waltz, The Spread of Nuclear Weapons -A Debate Renewed-, 2003, W.W. Norton & Company, Inc., pp.6, 46.

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軍事的優越を担保してきた兵力投射能力を拒否し、戦域内の前方展開基地 を無力化し得る能力であり、結果として米国の軍事的優位が一部戦域で脅 かされつつある。すなわち、我が国の抑止力の一端を担ってきた米国の通 常戦力による拡大抑止が挑戦を受けており、我々は米国と連携して立ち向 かう必要があることは明らかである13 ところで、領土主権や資源を巡る民兵や公船が主体となった低烈度の紛 争は一見、高烈度の通常戦争を念頭においた防衛力整備と関係の薄い現象 として立ち現れているように感じられるが、そうではない。高烈度の通常 戦力、さらには核戦力といったエスカレーションラダーの垂直構造におけ るより上位の能力が担保されているからこそ、それより低い烈度における 国家実行を決断できるのである。そして核戦争をはじめ高烈度の戦争に備 える軍事力は、その使用に関するハードルが高すぎるため、低烈度の領土 主権を巡る紛争、あるいは対立を抑止できないというジレンマをもたらす 14。よって生起する公算が低い高烈度の紛争も含め、複雑で多層化するエ スカレーションの各階層において優位に立つ能力を確保すること(エスカ レーション・ドミナンス)が要求される15 13 現在拡大抑止が担保するのは核戦力のみではなく通常戦力等を包含する、と考え られるが、その定義は現時点で厳密になされているわけではない。現在米国が提供 すべき拡大抑止とは、経済制裁から核戦力までを含む「フルスペクトラムな形態で ある」という主張も存在する。Robert Manning, The Future of US Extended Deterrence in Asia to 2025, Atlantic Council, and Brent Scowcroft Center on International Security, October 2014.

14 エスカレーションラダーの高位において抑止が機能し、均衡することによって 「事態のエスカレートがないという予測」が導かれ、その結果低位のラダーにおけ る不安定を惹起する、という状況は冷戦期にも見られた。これは「安定-不安定の パラドクス」と呼ばれる状態であり、この概念を提唱したスナイダー(Glenn Snyder)は「戦略レベルでの恐怖の均衡が安定すればするほど、そのエスカレーシ ョンラダーの下位レベルの安定性は低下する」と述べる。Glenn Snyder, “The Balance of Power and the Balance of Terror,” Paul Seabury eds, Balance of Power, Chandler Publishing Company, 1965, pp.198-199.

15 スローン(Elinor Sloan)は、冷戦期の欧州戦域における北大西洋条約機構(North Atlantic Treaty Organization: NATO)の抑止は、通常戦力、戦術核、戦略核とい う各階層において優位を保つことによって達成された、とする。Elinor Sloan, Modern Military Strategy -An Introduction-, Routledge, 2012, p.101. (エリノ ア・スローン『現代の軍事戦略入門』奥山真司・関根大助訳、芙蓉書房出版、2015 年。)

なお、カーン(Herman Kahn)によれば、エスカレーション・ドミナンスは「エ スカレーションラダーにおける所与の領域において、一方がアドバンテージを発揮 することを可能とする能力」と定義される。Herman Kahn, On Escalation -Metaphors and Scenarios, Frederick A. Praeger, 1965, p.290.

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総括すると、全面戦争生起の公算が極めて低いことと同様、完全な平和 もまた遠い存在であり、スミス(Rupert Smith)が述べるとおり、長期間 にわたって国際関係は「対立と紛争が際限なく繰り返される16」と予想さ れるのであり、海上自衛隊は先進的軍事技術に担保された高烈度の通常戦 争から、軍事力の直接的行使に至らない低烈度の紛争・対立にわたる、幅 広いエスカレーションラダーを見据えた上で平素の任務を遂行する必要が ある。

3 海上防衛における戦略目標(Ends)とその優先順位

広範な地域において多様な任務の遂行を通じて国益を実現するために は、それらに適応した戦略目標を設定し、これに沿った方策ならびに手段 を検討する必要がある。我が国の海上防衛戦略において達成すべき戦略目 標とは、①我が国の領域及び周辺海域の防衛、②海上交通の安全確保17 ③より望ましい安全保障環境の構築であり、冷戦終結以降、その優先順位 は概ね一貫している。 「我が国の領域及び周辺海域の防衛」は我が国の安全保障の最終担保と して自衛隊にしか担えない役割であり、本質的に最も重要な目標である。 我が国周辺に重大な脅威が存在するか、あるいは脅威が拡大しつつある、 と認識する場合、海上防衛力は一義的に国家としての生存あるいは現状維 持を目指し、他の戦略目標を妥協してでも「我が国の領域及び周辺海域の 防衛」を最優先することとなる。冷戦期がその典型であり、海上自衛隊は 対ソ有事に際して戦略的要衝である宗谷・津軽・対馬という三海峡の封鎖 等、我が国の周辺海域の防衛と米軍来援基盤の確保を優先的な戦略目標と していた。 一方、冷戦終結直後「平和の配当」がうたわれた時期は、一般に我が国 の存立に関わる大規模で差し迫った脅威が存在しないと認識されていたた め、国益拡大を企図して「海上交通の安全確保」あるいは「より望ましい

16 Rupert Smith, The Utility of Force: The Art of War in the Modern World, Penguin Books, 2006, pp.181-182. (ルパート・スミス『軍事力の効用』山口昇監 訳、佐藤友紀訳、原書房、2014 年。)

17 「海上交通の安全確保」は「海上交通路(sea lines of communication: SLOCs)」 に関連し、線形のイメージで捉えられるきらいがあるが、本論では我が国の資源供 給ルートあるいは有事におけるロジスティクスなどを包含する、面的に広がる海域 を指す。

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安全保障環境の構築」を相対的に重視することが可能であった。我が国で は国際社会における責務の分担を出発点として、湾岸戦争後の海上自衛隊 のペルシャ湾への掃海部隊派遣に始まり、「国際社会との協調」という観点 から経済大国としての責任を果たすため、冷戦の終結を境に積極的な取り 組みが始まり、海上自衛隊の活動領域は飛躍的に拡大した。このようなト レンドは 21 世紀に入ってからの「テロとの戦い」における有志連合の支 援など、原則として一貫している。 また、1990 年代以降、北朝鮮は国際社会からの働きかけを受け入れるこ となく、核とその運搬手段である弾道ミサイル等の開発・実験を継続して おり、我が国にとり差し迫った脅威となっている。しかしながら北朝鮮の 脅威とは、極言すれば核ならびに弾道ミサイルと、工作船などによる我が 国領土への侵入・不法行動に限られるのであり、脅威対象となるアセット ならびにその規模は限定的である。このため、弾道ミサイル防衛をはじめ とする一定程度の資源配分という措置を取りつつ、前述した「海上交通の 安全確保」あるいは「より望ましい安全保障環境の構築」を相対的に重視 することは可能であった。 しかしながら今日、冷戦期と類似した国家間対立が国際社会の主要な課 題として再び立ち現れつつある。そして多くの国家が経済発展に合わせて 軍事力を質量の両面で向上させている。冷戦後、全世界において米国の軍 事的優越が国際システムの安定化に最も大きな影響を及ぼしてきたが、こ の状況は徐々に変化しつつあり、局地的な軍事的優越ならびにこれを背景 とした力による現状変更に対応する必要が生じている。 そして、このような近代的で洗練された軍事力への対抗手段と、平素の 国際任務遂行の間で防衛力整備の方向性は競合する部分が立ち現れる。例 えば隠密性・低視認性にすぐれたステルス機や潜水艦は脅威下で作戦行動 が可能であるが、その特性ゆえに平素の活動においてプレゼンスを示す場 合に成果を挙げることが困難である。このような観点に立てば、オールマ イティな軍事アセットなどというものは存在しない。そのため、限られた 資源の配分をいかに最適化するかが問題となる。なお、3つの戦略目標を 達成する方策と手段は明確に区別できるわけではなく、第4 節に示すとお り相互に関連する部分が生じる。

参照

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