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19世紀初頭の経済学と地質学--J. B. サムナー『天地創造の記録』の考察---香川大学学術情報リポジトリ

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香 川 大 学 経 済 論 叢 第72巻 第l号 1999年 6月 271-291

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世紀初頭の経済学と地質学

一 一

J.B

。サムナー『天地創造の記録』の考察一一

柳 沢 哲 哉

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.

l'天地創造の記録』 18世紀後半の産業化による伝統的な生活様式の終鷲は,地域的な紐帯を希薄 にさせ,国教会からの離脱や宗教的無関心を生み出すことになった。こうした 状況の中で宗教の復興運動として登場してきたのが,メソディストをはじめと した福音主義であった。1850年までには国教会聖職者の3分のlが福音主義者 であったとされている。福音主義は精神的にも大きな影響力を持ち,ヴィクト リア朝になると時代の精神と呼べるほど人々の聞に浸透していたと言われてい る。例えば,社会史家のオールティックによれば r功利主義と福音主}義」とい う「二つのイデオロギーが初期・中期ヴィクトリア朝の社会的・文化的生活の モデルを形作ったJ (オールティック [1998J,p.170)のである。 本稿で考察するサムナー(John Bird Sumner: 1780-1862)は, 1810年代から ヴィクトリア朝中期にかけて福音主義の高位聖職者として活躍した。聖職者で あった父ロノ,¥,-トの子として生まれたサムナーはキングズ・カレッジを卒業後, イ一トン校のフエローなどを経てチェスター主教区の主教となった。この当時 のチェスター主教区はマンチェスターやリパプーノレを含んでおり,産業化の 真っ只中で聖職者としての生活を送った。さらに 1848年には国教会の頂点であ るカンタペリー大主教に任命された。また, 1832年に設置された救貧法改正の 王立委員にマルサス~の高位i聖職者として任命されることで,その改正に直接 関与した。 (1) サムナーの伝記的事実については,唯一のまとまった伝記である Scotland[1995Jを 参考にした。この時代の福音主義を研究したベピントンによれば,カンタペリー大主教で

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272- 香川大学経済論叢 272 筆者の関心はマルサス『人口論』の社会的な受容のコンテクストにある。社 会史研究者のポインターは同時期のマルサス派のうち数少ない重要な論客とし てサムナーを評価しているが(Poynter[1969], p.. 229),これまで主題的に論じ られることは少なかったように思われる。しかし,マJレサス『人口論』の受容 という観点からは,サムナーを逸することはできない。というのは,サムナ一 流に解釈されたマルサス像は広く流通し,社会的影響力を持っていたからであ る。サムナーの社会思想を取り上げたデルは rサムナーの態度は疑いもなく 1830年代に広まっていたJ(Dell[1965], p..198)とする。サムナーの主著は1816 年に出版された『天地創造の記録』である。それはマルサス『人口論』をベー スにおきながら,利己心と私有財産制度にもとづく商業社会を神学的に弁護し たものである。マルサス自身がキリスト教と人口論あるいは経済学との接合と いう問題意識を持っていたわけであるから,サムナーの視角がオリジナノレとい うわけではない。しかし,商業社会が生み出す倫理あるいは行動様式から文明 の発展を導き,またマルサスが語った人口法則の悲観的側面を緩和することで, 『言己録』は当時の支配層やキリスト教陣営にマルサス『人口論』の受け入れを 容易にさせる役割を果たしたのである。 『言己録』は出版直後から肯定的に迎えられた。 1816年に『ブリティッシュ・ クリティーク』において「創造主の包括的で無限の賢明さの証明を与えた」と 評されたのをはじめ, 1817年に『ブリティッシュ・レビュ- J,Wクオータリー・ レビュー.D, rクリスチャン・オブ持ザーパー』などにも肯定的論評が掲載された (Waterman[1991], p“151)0w記録』が1850年までに6版を重ねたことからも, あったにもかかわらず,福音主義者は低く評価されていたために近年までサムナーの伝 言己がなかったという。 (2 ) 以下,書名は『記録』と略記する。フルタイトJレは次のとおり。A Treatise on the Record旨

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the Creation, and on the Moral Attributes

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the Crea品or,with Particular Reference

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PopulatiOn ωith the Wisdom and Goodness

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the Deity 本稿ではGoldsmithLibraryに収録さ れている第2版 (1818)を用いた。引用箇所については巻数を付して言己録』第一巻を R1と表記した。 ( 3) rクオータリー・レビュー』におけるマルサス像にサムナ!ーが与えた影響について柳沢 [1997Jも参照されたい。

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273 19世紀初頭の経済学と地質学 273 こうしたサムナーの見解が広く支持されたことが分かるであろう。救貧法改正 の主体を考察したマンドラーの見解によれば,当時の支配層はサムナー経由で マノレサス『人口論』を支持していったのであり,その意味で『記録』は 1834年 救貧法改正の遠因にもなったのである。 19世紀前半のキリスト教と経済学との関係については,改革を志向しながら もベンサマイトらとは一線を画する「クリスチャン・ポリテイカル・エコノミー」 のグループに焦点、を当てたウォーターマンに代表される研究がある。マノレサス やサムナーはまさにこのグループの一員ということになる。ウォーターマンに よれば,クリスチャン・ポリテイカノレ・エコノミーは「知的ではないにせよ, 19世紀の終わりまでポピュラ、ーであった思考を支配するイデオロギーの体系 の主要な特徴を形成した。それはキリスト教保守派の聞では今日まで影響力を 保っているJ(Waterman [1983J, p..243)。この通俗的な思考の一源泉は,サム ナーにあるといってよい。彼は,経済学や人口論のポピュラライザーとしてき わめて重要な地位を占めていたのである。 サムナーの社会思想の詳細は別稿で論ずることにして,本稿ではその準備作 業として『記録』における地質学への言及を中心に考察したい。『言己録』は二つ の巻からなっている。人口論をはじめとした社会思想は第二巻で論じられてお り,第一巻では創造と旧約聖書に見られる神の摂理が論じられている。第一巻 の第一付論は「地質学の諸発見とモーゼ、の歴史とは矛盾しないこと」というタ イトノレのもとに,地質学の知見を擁護する議論を展開しているのである。本稿 ではこの付論を中心に考察する。 (4) Mandler [1990]コプルストンやホェートリーなどオクスフォード大学オリエJレ・カ レッジ周辺にいた「ノエティクス」と呼ばれるグループをマンドラーは重視する。彼らは 進取の気風に富み,論理学を重視する集団であった。オクスフォード大学に逸早く経済学 を取り入れたのがノエティクスたちであった(Checkland[1951],p.54, 57)。彼らが経済 学を受け入れるにあたって,サムナーの影響が大きかったことをマンドラーは指摘する。 ちなみに,この時代の論理重視の風潮に対する反作用であるかのように,1840年代になる とオリエル・カレッジは高教会派さらにはカトリックよりのオクスフォード運動の牙城 となる。この運動は皮肉なことに,福音主義の高位聖職者であったサムナーを苦しめるこ とになる。

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-274ー 香川大学経済論議ー 274 社会科学と自然科学という違いはあるものの,経済学と地質学は当時のキリ スト教陣営に相似的な関係にある課題を投げかけていた。前者の経済学につい て言えば,経済学が肯定的に擁護しようとした商業社会は,利己心を編成原理 とした貧富の格差を内包する社会であった。この商業社会は,旧来のキリスト 教的価値観からは受け入れがたかった。とりわけ,

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世紀初頭の経済情勢から 市場に対する楽観論は適用しにくくなっており,そうした中で商業社会を神学 的文脈の中でどのように受け止めていくのかが問われていたのである。『記録』 の第二巻は市場メカニズムを分析した経済学というよりは,むしろ人口論の観 点からではあるが,この課題を論じたものである。 同じ時期にキリスト教陣営に問われていたもう一つの課題が,地質学の知見 と従来の聖書的歴史観との矛盾をどう説明するのかという問題であった。

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世 紀のピューリタン派神学者ジェイムズ・アッシャーは聖書から紀元前

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年ご ろに創造が行われたという結論を導いており,それが

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世紀はじめまで国教会 公認の年代学として使われていた。しかし,一方では,化石や地層の研究から, 地球の誕生をもっと古い時期に求める見解が提起されていた。また,ノアの大 洪水の証拠として使われてきた化石も,その多様性と発見される地層の違いか ら種類によって数千年の聞きがあるのではないかと考えられはじめていた。こ うした地質学の知見と神学との整合性をはかることが言己録』第一巻の一つの 目的でもあった。すなわち W'言己録』は経済学と地質学がキリスト教陣営に投げ かけたこつの課題に応えていることになる。これらの課題は共通点が多い。そ れゆえ,サムナーの地質学への対応を検討することは,社会思想を考察するの に有効な手掛りを与えてくれるのである。地質学の受け止め方を通してサム ナーの社会思想、の一側面を明らかにすること,これが本稿の第一の目的である。

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世紀初頭の経済学と地質学との対比を取り上げた研究は多くはないが, ザーリン・ラシドによる先駆的な業績がある

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。ラシドは主に方 法論的な視角から,これら二つの学問の類似点と相違点を扱っている。ラシド の研究の中心はチャールズ・ライエノレの『地質学原理~

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に置かれている。 ラシドの論稿はきわめて興味深いものであるが,地質学の扱いについて若干の

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そこでライエルとウィリアム・パックランドの位置付けに ついて簡単に触れておきたい。旧来の地質学史においては,宗教から地質学を 脱却させる上でライエノレが決定的な役割を果たしたとされており i近代地質学 しかし,松永が指摘しているように i科学的地質学は ライエル自身のでっち -275 19世紀初頭の経済学と地質学 275 問題を含んでいる。 J J i l i l -i ! の父」と呼ばれてきた。 ライエ/レによって確立したという, ハットンに始まり, 1レドウイツ 上げたハットン・ライエル神話J (松永 [1996J,p叶59)に対しては, クなどが否定的な見解を提出している。今日ではライエノレの地質学も自然神学 ウィリアム・ノてックランドの 地質学は聖書に固執する非科学的なアナクロニズムとして低く評価されてきた が i実際には,地質学を独立した科学として確立したのはパックランドJ (松 永 [1996J,p,,69)と見なければならない。 に支えられていたとしなければならない。逆に, ラシドも1レドウィック論文を参照し ているにもかかわらず,大まかに言えばまだ「ライエノレ神話」の枠内での議論 ラシドはパックランドにはほとんど言 及していないし,科学的地質学のライエノレに対して,神の摂理を問題にしたス クロープなどの経済学陣営の後進性を指摘するという構えになっている。また, ライエノレを中心に置いているために, エルに直接影響を与えたスクロ}プや,地質学者と密接な関係を持っていた帰 になっていると言ってよい。それゆえ, ラシドが主に取り上げる経済学者はライ ライエノレ登 納主義のジョーンズなど1830年代以降となっており, 1816年に聖書と地質学 を問題にしたサムナーへの言及はない。松永の指摘を踏まえつつ, 場以前のサムナーを扱うことでラシドの論稿を補完することが本稿の第二の目 的である。 (5 ) ライエル神話については,本稿が多くを負っている松永[1996J第2章を参照されたい。 その指摘を簡単にまとめれば以下のようになる。従来の地質学史においては,後に言及す る聖書地質学と聖書の地質学的解釈論とが混同されており,地質学における自然神学の 役割が低く評価されてきた。また,実際には聖書と地質学を結び付げていなかったウエル ナーが聖書地質学として扱われたり,自然神学と切り離されたライエル像が不当に高く 評価されてきた。ライエルを相対化し,パックランドを再評価する動きについてはGiI -lispie[1996Jへのルプケによる序文も参照されたい (pp"ix-xii)。

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276-- 香川大学経済論叢 276 II.二つの新興科学 経済学は物理学や天文学と対比されることが多かったが,ラシドによれば「こ のような対比にとっては地質学の方がふさわしい科学」である

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, p.726)。福音主義者の社会思想を扱ったヒルトンも,経済学と最も密接に関連 している科学は地質学であるJ

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と指摘している。ここで は主にラシドによりながら,密接な関係にあったとされているこの時代の経済 学と地質学との関連を概観しておきたい。 経済学も地質学も古代ギリシャにまで遡ることができる。学問の起源を設定 することは恋意的操作であることを免れないが,経済学においては

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年の 『国富論』を一つの画期とすることができる。これに対して

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世紀のイギリス 地質学はドイツやフランスよりも遅れていた。火成論で知られるイギリスの ジェームズ・ハットンよりも,水成論で知られるドイツのアブラハム・ウェJレ ナーの方が活躍した時期は早い。しかし,イギリス地質学に限定するならば, ハットンの『地球の理論.~ (1

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を地質学上の画期とすることが許されよう。 ハットンはエジンパラで研究を行い,地質学的現象を地下の熱から説明する火 成論を提唱した。このように,地質学と経済学はほぼ同じ時期にスコットラン ドで画期を迎えたことになる。制度面について見れば,

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年にロンドンで経 済学クラフ、が,そして

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年にロンドン地質学協会が設立されている。後者は イギリス地質学の中心となり,その後の地質学の発展方向を決定づけた。地質 学が制度化されていった時代はおおよそ

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年から

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年にかけてであり, 地質学の「黄金時代」とも呼ばれている。それはスミスからリカードウへの古 典派経済学の成立の時期とほぽ一致する。したがって,

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世紀後半に登場して きたこつの新興科学は同時代に市民権を得つつあったと言ってよいだろう。 また,このこつの学問は急速に一般に受け入れられていった点でも共通して いる。

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世紀前半において,経済学はイングランドで最も人気のあった社会科 学であり,他方,地質学は最も人気のあった自然科学であったJ

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, p引727)。事実,マーセットやマルティノの経済学の啓蒙書が幅広く読まれたのと

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277 19世紀初頭の経済学と地質学 -277 -同じ時期に,ライエルの『地質学原理』も版を重ねていたのである。レビュー 誌は当時の主要なメディアであったが,その代表である『エジンパラ・レビュー』 や『クオ}タリー・レビュー』には経済学に関する記事と同様に地質学に関す る数多くの記事が掲載されている。そして,経済学においてイギリスがこの時 代の最先端にいたのと同様に,イギリス地質学も急速に発展を遂げていった。 イギリスは地質学の先進国であるフランスやドイツを

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世紀中に追い抜いて いったのである。 時代的な類似性だけでなく,興味深いことに多くの経済学者が地質学に興味 を示している。最も有名なのがポーレット・スクロープである。スクロープは 火山論によってライエノレに新しいアイディアを導いたことが知られており,地 質学史にその名前を残している。これは別格としても,DゎN..Bなどでは地質学 者と位置付けられているから当然のことかもしれないが,ジョセフ・タウンゼ、 ントはロンドン地質学協会の創設時のメンバーであった。また,リカードウ, フランシス・ホーナー,ハッチンズ・トラワなども地質学協会のメンバーであっ た。リカードウは自ら鉱物収集を行い,協会の会合には定期的に出席し,その 管財人も務めていた。アカデミズムにおいては,ケンブリッジ大学のジョーン ズが地質学に大きな関心を寄せていた。帰納主義者ジョーンズにとって観察に もとづく地質学の方法は自らの研究方法の手本でもあった。他方,オクスフォー ド大学周辺の人物の中では,コプルストンがウィリアム・パックランドの地質 学書を対象にした書評を書いているし,ホエ}トリーはパックランドによる地 質学の講義に出席していた。 これとは逆に,地質学者が経済学に興味を示している事例もある。ケンブリッ ジの鉱物学教授であり,ロンドン地質学協会会長も務めたヒューエノレは,ジョー ンズと親しい間柄でもあったが,彼はリカードウ経済学の数学的定式化を試み たことで知られている。また,地質学者ライエルはマカロックの経済学の講義 に出席していた。こうした事例から,経済学者と地質学者の関心は重なりあっ ( 6 ) Gillispie [1996]はレビュー誌に掲載された地質学の記事を対象にしている(chap3, 4)。

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-278- 香川大学経済論叢 278 ていたと見てよいであろう。地質学協会の中では,定期的に経済に関する話題 が議論され,マルサスの穀物法関連のパンフレットなどが取り上げられたこと もあったという(J

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。経済学も地質学も,観察は可能である が,実験は不可能である事象を対象にしているという点では共通している。こ のことが両者の関心の重なり合いの一因と言えるかもしれない。しかし,ラシ ドが指摘しているように,ハットン=ウェルナー論争以降,地質学では次第に 観察を重視するベーコン的方法に特化していったのに対して,経済学における ベーコン的方法はジョーンズやスクロ}プといった少数派にとどまっていたと いう相違がある。それゆえ,経済学者と地質学者が互いの分野に関心を持った ということは,新興の学問に対する個人の資質による部分も大きいと言えるで あろう。 さて,

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世紀から

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世紀にかけてイギリスにおいて経済学が進展した理由 は,産業革命あるいはそれにともなう商品経済の発展といった経済的要因に求 めることができょう。それと同様に,一見,鉱物資源の利用といった経済的な 要因が地質学を発展させた要因であるように思われるかもしれない。確かに, ロンドン地質学協会設立の背景には,先行していたドイツの鉱山学に対する対 抗という目的があった。しかしながら,ポーターの指摘によれば,必ずしも当 時の地質学者は実際に応用可能な技術を目指したわけではなかった。むしろ純 粋科学としての地質学を追求していったのである。それゆえ,地質学が発展し た理由は別のところに求めなければならない。その理由として松永は,イギリ スで展開されていたペイリーなどに代表される自然神学の潮流を指摘する。「イ ギリスの地質学はドイツとフランスの地質学の導入によって始まったが,

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年ころには世界の地質学をリードするまでになった。このイギリスの地質学の 発展を支えていたのが

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世紀以来の自然神学であったJ(松永

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。 そこで,福音主義と科学の親和性について見ていきたい。 (7) ロンドン地質学協会よりも実用的な目的のもとに BritishMineralogical Societyが 1799年に創設されたが,あまり成功を収めなかった(Porter[1973J,p引328)。経済学者の 地質学協会への関わりについては, James [1979J, pp..208-9も参照されたい。

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279 19世紀初頭の経済学と地質学 -279-ー III.穏健福音主義 福音主義はきわめて多様である。宗派的に見ても国教会から非国教会にまで 及んでおり r多くのボトルに注がれた同一のワインのように,多様な制度的形 態の中に表れている」などとも言われている。また,宗派だけではなく信条的 にもかなり幅がある。ヒルトンの分類に従えば,

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世紀の福音主義は二つに分 けることができる。キリストの再臨を千年王国後であるとする後千年王国説の 立場に立つ穏健派

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世紀福音主義の主流は穏健派であった。それを代表するのは

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世紀から 続いてきたクラパム・セクトである。その中には奴隷解放で知られるウィリア ム・ウィルパーフォース一一一ちなみにサムナーの母ハンナはウィルパーフォー スのいとこであるーーや紙券信用論』で知られる経済学者のへンリー・ソー ントン,歴史家マコーリーの父であり実業家で人道主義者のザカリー・マコー リーなどがいた。後千年王国説をとるために,彼らの中には「新しいエルサレ ム」の建設に向けて活動を行うべきであるという意識があった。

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世紀に人道 主義的活動や布教などを目的とした様々な団体が結成されたことはよく知られ ているが,それらの多くに穏健派福音主義が関与していた。後千年王国説の信 念が,社会改良の可能性と義務感を彼らに与えたのである。サムナーの伝記を 書いたスコットランドが明らかにしているように,サムナーもこの穏健派に属 しており,多くの実践活動にたずさわった。例えば,

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年には「チェスター 主教区教会建築協会」を設立し,チェスター主教在任中に

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以上の教会を建 設させたり,日曜学校の普及団体である国民協会の活動を熱心に支援して,多 くの学校の新設に協力した。また,わが国では聖公会宣教協会

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が帝国主 義と「文明化」という観点からしばしば取り上げられるが,この

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にもサム ナーは積極的に関与している

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。これらの団体以外にも, 内外聖書協会や安息日道守協会など数多くの協会でサムナーは重要な役職につ いている。

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2S{}-ー 香川大学経済論叢 280 もう一方の極端派は 1820年代に登場し, 1830年代に雑誌『レコード』を中心 に勢力を増していった。極端派はキリストの再臨が近いことを強調した。彼ら は「最後の日の兆候」として,時には災害でさえも歓迎したのである。また, 再臨後に千年王国が到来すると考えていたために,社会の改良は再臨まで不可 能であると信じていた。それゆえ,穏健派と違って実践活動から遠退いていっ たのである。このように穏健派と極端派との聞には大きな相違がある。 ベピントンは福音主義に共通する4つの特徴を指摘している (Bebbington [1989J, pp刷会17)。それは,(1)回心(conversionism),(2)行動主義(activism), (3)聖書主義(biblicism),(4)十字架主義(crucicentrism)である。科学と宗教とい う観点から『記録』を検討する場合には,とりわけこの聖書主義が問題となる。 福音主義者の間には,聖書は神によってインスパイアされたという合意がある。 ただし,ここで言うインスピレーションが何を含意しているかについては福音 主義者の間でもかなり相違があり,自然科学に対する態度の相違を生み出すこ とになる。福音主義であるから聖書を重視するのは当然であるが,穏健派は字 義通りの解釈(biblicalliteralism)を唱えていたわけではない。旧約聖書の予言 なども字義通りにではなく,精神的に(spiritually)解釈するという立場であっ た。これに対して,極端派は旧約聖書の予言を字義通りに解釈しようとした。 一般に福音主義は不合理なものと見なされており,その結果19世紀前半の科学 の発展に対して否定的であったと考えられがちである。確かに,極端派は自然 法則を普遍的なものと見なかったために,科学的な知見に順応しようとはしな かった。しかしながら,穏健派の多くは自然法則の発見が創造主の賢明さを明 らかにすると考えたために,科学を肯定的にみる傾向があった。聖書との整合 性が問われていた地質学に対しては,両者の相違はとりわけはっきりとしてい る。 r1830年代を通じて顕著となってきた極端派は地質学に対してあまり寛容 ではなかったが,穏健福音主義者は概して建設的な態度をとった」のである (Hilton [1988J

p" 149)

ここで聖書解釈と地質学との関係を見ておきたい。従来の地質学史の中では 必ずしも明確に区分されてこなかったが,聖書の記述から地球の歴史を理解し

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281 19世紀初頭の経済学と地質学 281-ょうとする聖書地質学(ScripturalGeology)と,地質学をもとに聖書を解釈し ようとする地質学的解釈論(GeologicalHermeneutics)とを区別する必要があ る。つまり,地質学の議論の中に聖書が使われているからといって,それが必 ずしも聖書地質学であることを意味しないのである。「イギリスの地質学は神学 を共通の土台としていたが,これは聖書に基づく聖書地質学ではない。自然神 学による地質学と聖書地質学は敵対していたのである…代表的地質学者の多く は,地質学を基に聖書を解釈する地質学的解釈論の立場をとっていたJ(松永 [1996J, pゎ95)。ヒルトンによれば,一般的には福音主義聖職者の多くは聖書 地質学に属し,より穏健で知的な部分が地質学的解釈論に属する。しかし,福 音主義の雑誌で区分すれば wクリスチャン・ガーディアン』が聖書地質学の立 場に立っていたのを除けば,クラパム穏健派の『クリスチャン・オフ、ザーパー』 など他の大多数の雑誌は地質学的解釈論に立っていたという (Hilton[1988J, p..23)。結論を先回りして言えば,穏健派サムナーは地質学的解釈論の立場から 地質学を擁護したのである。

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w記録』における地質学 サムナーの議論はペイリーの流れをくむ自然神学の枠内にある。それゆえ, 「宇宙の構成の中と,とりわけ人聞に関わる法律(the laws)の中に,神格 (deity)が最も包括的で先見のある賢明さを示してきたJ(R2, p..19)とか,ある いは i私が主張するのは,自然界の構造の些細なアウトラインでさえも最も包 括的な賢明さの証明となっていることであるJ(R2, p..24)と述べている。そし て『記録』の結論部分では i神が我々の世界を組織するのに用いた賢明さの, そして一般的なデザインに世界の様々な部分を従わせるように指図するのに用 いた賢明さの,注目すべき証拠を指摘しようと努めたJ(R2, p.. 419)と述べてお り,デザイン論の中にいる。といっても,啓示神学と対立するような狭い意味 での自然神学に立っていたわけではない。それゆえ,

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年前ならばペイリーの 論文は書かれなかったであろうが,しかし「古代人の科学は不完全であったげ れども,彼らも宇宙の調和とデザインについては十二分に理解していたJ(R1,

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-282- 香川大学経済論叢 282

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と論じているのである。そして,自然神学の神は「哲学的な有神論

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の活動しない神格」であると,その限界も認めている。「自然神学の本当の利用 は,啓示が明らかにしている真なるものの強力な可能性

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を示すこ とであるJ(R1,p“xi)。つまり,世界の構造と人聞社会の構造から神の存在の付 加的な証明を与えられると見ているのである(Dell[1965],p195。これがサム ナーの考える自然神学の役割である。 r言己録』第一巻付論で対象とされた地質学者はフランスの地質学者キュヴィ エである。世代的に言えばサムナーは,キコビィエ (1769-1832)より 10年ほ ど後に生まれ,そのキコビィエを継承してイギリス地質学の基礎を築くことに なるパックランド(1784-1856)とほぽ同時代人ということになる。キュビィエ の著書のうち版を重ねたのは地球表面の革命についての論説.!(1812)であっ た。これはさまざまな言語に翻訳され,イギリスでも『地球の理論』というタ イトルのもとに 1813年にロパート・ジェームソンによる注釈付、きの英訳書が出 版された。サムナーが『記録』で取り上げたのは,キュヴィエのこの英訳書で ある。パックランドの最初の論文は1817年であるから,サムナーの『記録』は それよりも早いことになる。後に見るように,パックランドはキュヴィエを導 入する際に,サムナーの議論を利用しているのである。 それでは r記録』の付論を見ていくことにしよう。まずサムナーは問題の所 在を説明する。地質学は,地球上で跡づけることができる様々な天変地異

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を「機械的作用」によって説明しようとする。 「こういった哲学の結果は,創造主の干渉を視野の外におくことにあるJ (R1, (8 ) 一見すると,サムナーは啓示神学の補完という役割jのみを自然神学に与えているよう にも思われる。しかしながら,ペイリーを引き合いに出して自然神学に普遍性のメリット を認めている。そこから,キリストの名前を聞いたことがない人間の嫡罪の可能性といっ た問題に一定の回答を与えるのである (R2,pp..411-412)。これは CMSによる海外への布 教活動の背景にあった考え方とも結び付くであろう。 (9) rこの注釈でジェームソンは,キュビィエの説は『創世記』の記述と一致しており,キュ ヴィエのいう最後の革命とはノアの洪水にほかならないと述べている。イギリスでは ジェームソンの解説を通してキュビィエが理解されたために,キュヴィエのような偉大 な科学者も地質学と聖書のー致を説いていると誤解されることになってしまったJ(松永 [1996]

p引68)

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283 19世紀初頭の経済学と地質学 -283ー 印刷340-341)。つまり,地質学の議論は神による創造ではなく,地球が過去から ず、っと存在してきたとする議論と両立してしまう。サムナーは,これが地質学 と創世記との根本的な矛盾であり,地質学が不信仰とされる理由であるとする。 しかし,神による創造を自明視しているせいか,この創造の問題に明確な回答 を与えてはいない。 問題の所在に続いて,自然科学と聖書との一般的な関係に言及する。「モーゼ によって与えられた創造の説明は,地球の物質が現実の形態や状態となる様式 の体系的で精密な詳細を与えるなどと広言してはいないJ(R1, p.. 342)。創造さ れた世界が従っている法則を探求することは理性の賢明な行使である。しかし, それは「啓示が目的としている非常に高い利害とは全く無関係であるJ(ibid)。 このように,聖書に書かれていることと学問との関係を明らかにする。そして, 「聖書の言葉を字義どおりに解釈することで,学問的探求の前進に干渉すべき であると考えることの愚かさ J(R1,p 343)を,ガリレオやニュートンを引き合 いに出して説明する。「啓示を信じる人の譲歩は…先見のある創造主の賢明さに 関する崇高な発見によって十分に埋め合わされた。その賢明さは天文学の知識 における前進によって次第に開示されてきたのである J(R1, p..343)。地質学に おいてもニュートンのような人物が現れて,この学聞に特有な障害を乗り越え るならば,地質学がもたらす将来の結果に同じような信頼を置いてもよいとす る。 次に,サムナーはノアの大洪水とキュヴイエの議論とを重ね合せようとする。 まず創世記を

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点に要約する。(l)神は万物の本源的な創造主である。

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地球の 形成期には,全物質が混沌と混乱の状態であった。

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千年以上前ではないあ る時期に,地球全体が天変地異に見舞われた。その時,神の直接的な作用によっ て完全に地球は水没し,種を維持するための生き物を除けばみな死滅した。こ れに対応するキュヴイエの見解を r最も高い権威のある自然哲学者」の結論と して 3点引用する (R1,pp.. 345-346)。第一に rある時期,あるいは他の時期に 海は全平原を覆っていただけではなく,長い期間,平穏な状態でそこにとどまっ ていたにちがいない」。第二に r我々の時代に先行して,少なくとも一回は海

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284 香川大学経済論叢 284 の海盆に変化があった。つまり,少なくとも一回は変革を経験している」。第三 に[""地球のある部分が,最後の海退によって海から現れ,干上がった。その時, その部分が,晴乳類,鳥類,植物,あらゆる種類の陸生動物を生み出した」。サ ムナーによれば,こうしたキュヴィエの結論とモーゼ、の説明は完全に両立する。 そして,キュヴィエの議論から洪水の普遍性

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に不確実なところ はないとして[""地質学は最も強力な確証を彼〔モーゼ〕の歴史に与える… J(Rl, p..347)と結論づける。地質学と聖書は別の領域を扱っているわけではないが, その目的は異なると見ているのである。それゆえ,合理的な博物学者は創世記 に語られていることから,地球の形成のプロセスを記述しようとはしない。他 方[""創造主の作用

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を認めることで,創造主が用いたこ次的な道具を指 摘しようと試みているだけのいかなる理論に対しても,合理的な神学者は敵意 を示そうとしないJ(Rl, p.. 356)。このように地質学の知見が及びえない範囲を 示すことで,逆に聖書による地質学への拘束を解いたのである。 もちろん,今日の視点、から見れば,サムナーの見解は宗教的に歪曲されたも のに見えるであろう。事実,地質学の理論は次々に崩壊していくが,聖書だけ は確実に言及できる唯一の記録である,といった言い方もしている。そもそも, キュヴイエは聖書と地質学の一致を問題にしておらず[""洪水が世界的に一斉に 起きるのではなく地域的な現象と見なしていた」のであるから,そこからして 宗教的に偏っていることになる。キユヴィエの議論をノアの大洪水と結び付ザ る見解はパックランドにも見られるが,それは『地球の理論』の英訳者ジェー ムソンの付した注釈によって広められたものであった(松永日

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。サ ムナーもこの注釈に依拠した議論を展開したわけである。しかし,地質学の知 見を創世記の証拠として使つてはいるが,聖書から地質学を論じようとした聖 書地質学の見解とは全く異なっている。 「たとえ,神聖な歴史家によって書き表されなかったとしても,地質学者 たちの諸発見からその種の出来事の確実性は明らかであろうJ(Rl, p.. 357)

このように地質学的な証拠からノアの大洪水の存在を認めたのであって,聖

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285 19世紀初頭の経済学と地質学 -285-書の記述から大洪水の存在が認められるとする立場ではなかった。これは明ら かに地質学的解釈論に立っていたことを示している。 サムナーは,地球上の天変地異や変革を機械的作用因に帰してしまうことを 一種の不信仰であるかのように語っているし (R1,p..340),大洪水の原因につい ては,通常の作用ではなく「超自然的な干渉J(R1, p..349)によるものと述べて いる。こうした見方は,大洪水に神の作用を認めようとする,聖書地質学が好 んだ激変説の議論に近いものと言えなくもない。しかし,サムナーは不確かな 推測であると断った上で, 200にものぼる火山の存在から推定される地下の火 に,大洪水の原因が求められるかもしれないという見解を述べている。地質学 が明らかにできるのは創造主の「二次的な道具」にすぎないが,それでも水や 火の作用から天変地異を引き起こす作用を明らかにしうる可能性を認めてい る。したがって,天変地異や変革を強調していても,それを直ちに神の作用に 帰着させているわけではない。 興味深いことに,付論の末尾では世界の複数性論を肯定する発言も行ってい る。世界の複数性論は, トマス・ペインが『理性の時代』の中でキリスト教と 矛盾する考え方として提起したものであった。世界の複数性についてはIr言己録』 刊行前年にそれがキリスト教と矛盾しないことをチャーマーズが講演の中で 語っている(松永[1996],p..275)。それゆえ,サムナーの見解が特に珍しいと いうわけではないが,神学的にではなく天文学の知見から世界の複数性を肯定 しているのである。洪水が複数回あったというキュヴィエの議論を擁護するた めに,世界の複数性論をサムナーは持ち出している。 r(創世記以前の世界の〕 存在を信じることは合理的な可能性と両立するし,世界の複数性に関しては天 文学の諸発見によってある程度確証されているJ(R1, p..

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。このようにサム ナーは自然科学の知見を肯定的に受げ止めようとしたのである。 サムナーは科学の方法論をまとまって述べているわけではないが,方法論を 示唆する箇所を指摘しておきたい。例えば,地層の説明について rキュヴィエ が収集してきたような事実の蓄積,および未知種の化石の記述が,興味深い思 索の課題を形成するJ(R1,p“

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と言っていたり,あるいは r非常に仮説的な

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-286- 香川大学経済論叢 286 考え方や,パリ近郊のチョーク層といったきわめて部分的な帰納にもとづく考 え方」を怠慢だと見ている

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。したがって,ごく大雑把に言えば,観 察の積み重ねにもとづく帰納的な方法を認めていると言うことができる。 1817 年のマルサス『人口論』に対するレビューの中では次のように述べている。 「自然哲学の公理と同じように,経済学の公理も経験と反復される観察 からのみ導出できる」。 ここでは明確に自然科学も社会科学も帰納的方法に基礎を置くことが述べら れている。帰納を重視している点では,地質学を重視したスクロープやジョー ンズにサムナーも連なるのである。スクロープやジョーンズは科学の妥当性を 根拠づけるのに直接聖書に訴えることはなかった。しかし,その背後には自然 の法則の背後に神の法則を見出そうとする動機があった(Rashid[1981J, p. 737)。神学的色彩に濃淡の違いはあっても,サムナーにおいても全く同様であ る。「チャーマーズやサムナーは,社会の経済的作用の中と同じように,岩石の 形成や天体の運動の中に作用している神の手を明らかにしようと切望したので あるJ(Hilton [1988J, pれ23)。サムナーにとって経験と反復される観察は神の手 を見出すための作業であった。そして地質学はまさに経験と観察を積み重ねて 行く学問分野であった。キコヴィエによってノアの大洪水が証明されたと考え たところに,サムナーが地質学を擁護した最大の理由があると言・ってもよいで あろう。しかし,このような地質学の方法そのものが,サムナーの肯定する科 学のあり方に合致していたことも擁護した一つの理由であったと考えられる。 r記録』における地質学への言及が,どのような影響力を持ったかを見てお きたい。地質学史においてサムナーが言及されることは多くはない。例えば, この時代の地質学と自然神学との関係を検討したギリスピーは,チャーマーズ に言及してはいるがサムナーには言及していなし=。しかし,ヒルトンは顕著な 「聖書地質学者」としてチャーマーズに加えてサムナーの名前も挙げている。 (10) Quarter~y Revi仰,, 1817, Ju!y, No.. XXXIV..

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369-370. 人口論の成立には統計 データの収集が必要であったので,学問として設立するためには文明の発展が必要で あったとも述べている。また,このレビューでは実際にリックマンの統計データを用いて マJレサスの擁護を試みている。

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世紀初頭の経済学と地質学 -287-ヒルトンによれば,パックランドはサムナーら福音主義者たちによって多くの 庇護を受けていた。そしてパックランドは

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年にオクスフォード大学の地質 学の助教授就任講演を行ったが

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土也質学の弁明』として翌年に出版されたその 講演は,サムナーに忠実に従ったものであった

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。松 永によれば,「隔たり理論に関連してチャーマーズ以上に言及されたのが後のカ ンタペリー大主教サムナー」であった。付論末尾で地球以外の世界の存在を認 めている箇所は r実質的にこの〔隔たり〕理論を意味するものと理解され,イ ングランド教会が地質学を容認している証拠として地質学者が好んで引用し たJ(松永

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という。したがって,サムナーは地質学の普及そ のものに貢献したわけではないが,国教会の側から地質学の発展を容認したと いう点では間接的にポピュラライザーの役割を果たしたと言えよう。 最後に,時代は下るが,晩年のサムナーの科学に対する態度を示す『論文と 評論~ (Essays and Reviews)を巡る騒動に言及しておきたい。『論文と評論』は 自由主義的見解を強く打ち出した論文集で,サムナーがカンタペリー大主教在 任中の

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年に刊行された。ちょうど

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種の起源』が出版された翌年である。 『論文と評論』では地質学の知見なども引き合いに出しながら,聖書も他の書 物と同列に解釈すべきであるとか,創世記は科学的なものと理解されるべきで はないとか,ダニエノレを歴史上の人物と考えることはできない, といった主張 が行われた。内容もさることながら,ベンジャミン・ジャウェットをはじめと して執筆者の多くが国教会の聖職者であったことに世間は驚かされた。あらゆ る方面から,とりわけ高教会派と福音主義者から激しい非難の声が上がった。

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論文と評論』をめぐる騒動は,十九世紀後半のイングランド教会で最大の事 ω 件といってよいものであるJ (松永

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。サムナーは主教たちをラ (11) マルサス派のチャーマーズが最初に提起し,r創世記』冒頭の「始めに」と創造の6日 聞の関には大きな時間的隔たりがあるという解釈」を,松永は「隔たり理論(GapTheory ; Interval TheorY)Jと訳している。それは聖書と地質学の知見との整合性をはかるために 考案された考え方である。ちなみに,松永は,サムナーがライエルの地質学会会長就任晩 餐会に招待されたエピソードを,教会が地質学を支持していたことを示すアピーJレとし て紹介している。

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r論文と評論』の概要と反響については松永

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章を参照されたい。

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-288- 香川大学経済論叢 288 ンベスに招集して議論した。その結果は主教たちとの連名の書簡によって rこ れらの見解が一貫してわれわれの教会の信条に誠実な忠誠をつくしていると考 えることはできない」とする見解として公表された(Moore[1988J, pp..435-6)。 その後論文と評論』執筆者のうちウィリアムズとウィルソンについて裁判が 起こされ,枢密院司法委員会で判断が下されることとなった。結局二人とも無 罪となるのだが,聖書解釈についてはサムナーは判決に同意しなかった。した がって,この科学と宗教との対立において,サムナーは宗教の側から『論文と 評論』を批判したことになる。しかし,穏健派福音主義であったサムナーは, 『論文と評論』に激しい非難を向けたサミュエル・ウイノレバーフォースのよう に r直接的で誇大な反応を示さなかったJ(Scotland [1995J, p..156)のである。

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むすびにかえて サムナーの伝記作家スコットランドは次のように述べている。「彼は聖書地質 学と連携しなかった。最も若い時の著作では,彼は創世記における創造の説明 を象徴的な仕方で解釈した。サムナーは聖書を神の言葉として語ったが,しか し聖書を誤りのない(inerrantor infallible)ものとする考え方に明確な好意を 示すことはなかったJ(Scotland [1992J, p..73)0~.記録』にもこうした態度が貫 かれていると言ってよい。キリスト教陣営に課せられていた聖書と地質学との 整合性という問題に記録』は地質学的解釈論の立場から回答を与えたのであ る。松永の言うようにパックランドが「イギリス地質学の基礎を築いた」とす るならば,サムナーはキュヴィエとイギリス地質学との橋渡し役の一端を担っ たことになる。もちろん,地質学にオリジナリティーのある貢献をしたわけで はない。国教会の側から地質学を容認する論拠を与えたにすぎないが,その役 割を無視することはできないであろう。サムナーはマJレサス『人口論』のポピュ ラライザ}の役割を果たしたが,地質学においてもほぽそれに相当する役割を 果たしたと言ってよい。 社会思想、との関連について簡単に言及しておこう。すでに見たように社会科 学にも自然科学にも経験と観察という方法をサムナーは適用しようとした。サ

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289 19世紀初頭の経済学と地質学 -289-ムナーも自然の法則と社会の法則を単純に同一視しているわけではない(R2, p..26)。しかし基本的には rいく分奇妙なことであるが,自然界の中に見出され る神の賢明さと,人間や社会関係の中に見出される神の賢明さとを区別しよう とはしなかったJ(Scotland[1992J, p“62)と言える。自然科学ならば観察を通 した自然法則の探求ということになろう。しかし,社会科学の場合には,社会 のうちに神の意図を読み込むことで合理化の作業になっていきかねない。パッ クランドやチャーマーズが執筆した『ブリッジウォーター論集.D (1833-36)を 評して,ギリスピーは「自然史,地質学,経済学そして工場制度は必然的であ ると証明されるかもしれないーーとりわけ教育のあるものにとってJ(Gillispie [1996J, pれ216)という皮肉めいた言い方をしているが,それは『記録』にもあ る程度あてはまるのである。というよりも,神学に支えられた自然科学と社会 科学の集大成である『ブリッジ・ウォーター論集』に見られる基本的な論点を, 『言己録』は予示していたと言える。ただし,一言付け加えておけば W.言己録』第 二巻は現状肯定だけを目的にしているわけではなしあるべき社会の姿も提示 しようとしたのである。サムナ}の社会思想について詳しくは別稿で論じたい。 サムナ}周辺の経済学と地質学の接点に限定しでも,本稿で論じ切れなかっ た問題がある。最後に,それを指摘しておきたい。帰納主義に立脚し,地質学 への貢献もあったスクロープは,強硬な反マノレサス論を展開しつづけた。また, ケンブリrツジ帰納主義者のジョーンズやヒューエルもマノレサスに否定的な見解 を示している。逆に,サムナーに共鳴したとされるオクスフォードのノエティ クス派は論理学重視の立場をとっており,少数の理論からの演揮によって経済 学を構築しようとした。したがって,帰納主義もしくは地質学への関心という 観点じマルサスの受容という観点から見た場合には,ある種のねじれが存在 することになる。それゆえ,例えばノエティクス派のコプルストンはクリスチャ ン・ポリテイカル・エコノミーの一角に位置するが,彼の地質学についての言 及の内容などが検討されなければならないであろう。別の角度から言えば,自 (13) オールティック [1998]に表明されているのは,いく分戯画化されてはいるが,自然神 学に対する一つの代表的な見方と言ってよいだろう (pp.146-149)

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-290-ー 香川大学経済論叢 290 然科学を中心とした「ケンブリッジ・ネットワーク」と,経済学や論理学を中 心としたオクスフォードのネットワークとの対比と接点を探ることが必要にな ると考えられる。これらの問題点については他日を期したい。 参 考 文 献 Bebbington, 0.. W. [1989J, Evangelicalism in Modern Britain A H ." istory斤omthe 17305 to the 1980s, Unwin Hyman

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参照

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