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現代詩の表現と生活指導--特に死へのリビドーについて---香川大学学術情報リポジトリ

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現代詩の表現と生活指導

T特牢死へのリビドーについて一

笹 本 正 樹 具体的な芸術が入ってくるところでほメランコリ・− ほ、黒いため息のつまった灰色のスーツ・ケースをひ きずって、そそくさと出ていく。 −ジャン・アルプー 1 最近、ひとりの青年がやってきた。詩をつくる青年で、関西のある私立大学 を中退して家業をついでいるのであるが、誰に・もある青春の挫折と苦悩をもっ て、それを詩に表現する習慣ができていた。詩がうまいかどうかほ別に・して、 詩に表現することはカタルシスであるから、創作すること自体が教育的に・は意 味をもっていると言えよう。 それ故、わたしは(教育学老として二)詩をいかに.うまくつくっているかより も、詩に吐きだされた心理の方に重点をおくし、また多分にそちらに興味をも っている。それは生活指導とかカウニ/セリングと言ったものと関係をもってく るからである。 また、詩の表現内容の問題であるが、古い写実的なものよりも、現代のアブ ストラクトの傾向をもったもゃはど、心理的現象を分析するのに関心がある。 なぜならば、いわゆる難解であるといわれる現代詩や、現代絵画ほそれをよく 注意してみれば、それほ.全くその人の内部の暗号として表現されでおり、この 暗号解読をするのがまたこの上なく楽しいからである。 ノ、−バ・− ト・リー・ドほ最後の大作「芸術と疎外」という本の中で≒テクノロ ジ」・社会と非合理芸術、との関連を述べている。(1)これは.自然性を喪失した (1)Herbert Read:Art andAlienation.,1968.P.50「■それからマルクーゼほ現代

のテクノロ汐⊥・時代の芸術について独創的論争的解説をすすめる。すなわち、発展■す るテクノロジ一的現実は伝統的形式のみならず芸術家精神の基盤を侵害する」

(2)

高度の管理社会、能率社会では人間が病的心理にかたむき、抽象芸術やグロテ スクなものを作ったり、好んだりしていくこ.とを示している。 それ故、わが国のような社会では、芸術を通して、われわれの心理的な病状 も知りうると言うことに.なろう。ところで、わたしほ詩の技法に・おける比喩の 問題に..以前から関心があるのであるが、(2)それに.ついてわたしの考えている ことはとくに生活指導とからんでくる。そこで心理診断に・役立つと思われる 「擬物イヒ」の比倫紅ついて■主として叡り上げてみること粧する。 さて、A青年のもってきた詩は次のようなものであった。それは25才の青年 に.してはよくできていた。(8) 追憶線の過去駅の白いベンチ 悲しい唐草の風呂敷に包まれて 寒々と僕を待っていたのほイ可だろう 思い出村 思い出番地の 暗い質屋の窓から僕を呼び止めたのは 一体何だったのだろう 徒労も恋も、さよならで片付くのだろうか 失えば その透明な 貴重品は戻ってこない まるでちっぽけな 忘れもののように∵−− <遺失物> 踏み切りの警報器は 村ぢゆう 祭の鐘の連打に.似て 夜ふけの長い貨物列車を知らせているけれど (2)「現代短歌の技法とその焦点」昭55・11「詩と深層心理」昭54・5「擬人化と叔物 化」昭54.1「言語心理と短歌」昭55.5「現代短歌アレゴリ・−の分析」喝55.9など白 秋系同人誌−たかむら、紅発表した。 (5)北圭介「夜汽車」昭49・占(その後、朝日新聞全国版「最近の詩集から」に掲載さ れた。昭49.8・21)

(3)

知らせもなく 僕のなかを どんな列車が通り過ぎたのだろう まるで後遺症のようにその後になって 僕は打ち鳴らされている く哀の余韻> これらふたつの詩をみるに、その表現がなかなかたくみで、自己の悩鼻や傷 みを適切に.表現しているのがわかる。さて、誌の技法としての面をよくみると 比喩性において、前の詩と後の詩でほ、たがいに異質であることがわかる○ 前者でほ凝人化の比喩を使っているが、後者では擬物化の比喩を使っている からである。これは比喩としては性質がたがいにh逆方向をむいているものであ る。(普通、おおまかに.ほ擬人化のなかに擬物化も入れてしまったりする場合

もあるようであるが、厳密には擬人化と擬物化は区別する必要がある)。(4)

すなわち、擬人化の比喩ほ<物→人>という方向であり、子供の詩的表現な どに多い。それに対して、擬物化は<人→物>という方向であって、前者とち がいむしろこれほ.エネルギー・の固化にむかうものである。それ故、わたしは前 者を生に.むかうリビドーをもっているとするの紅対し、後者は死の方向へのリ ビドーをもっていると見ている。 そうだとすると「’遺失物」を書いたときのこの青年の心理は、突ほ悲しいよ うでも、その深層はわりあい健康で生きたいと思っているのである。だが「哀 の余韻」では、擬物化すなわち、カピドーー・は死にむかっている。この心理ほ多 分紀要傷とみなければならないことになる。 2 ではこの分折原理をわかりやすくするため、グェルレ−・ヌの「落葉.」で説明 してみることにしよう。 秋の日の ゲィオロンの (4)晋莞苧莞訳「想像力の問題」昭46(J・Sartre:L・imaginaiIelI1940)

(4)

ためいきの 身に.しみて ひたぶるに うら悲し。 (中略) げにわれは うらぷれて ここかしこ さだめなく とびちらふ 落葉かな 前節では、ブィオロンがためいきを吐いて小ることで、擬人化の比喩となっ てごいる。後節では、われが落葉となることで、擬物化の比喩である。 ブィオロンーーーー→ためいき=物−−・・−−ヰ人=擬人化(生の衝動、エロス) ヴュルレー・ヌー→>落葉=人一一一>物=擬物化(死の衝動、タナトス)(5) それ故、この図式により考えてみると、前節でほ悲しいと言っても、その表 現はリビド−・が生(エロス)紅むかっているのであり、後節ほリビドー・が死 (タナトス)にむかって:いると解釈されることに・なる。あるいほ、ノ・−スロツ プ・フライの見方をあてはめるならば、前者に.は「’楽園回復」の希望があるが、 後者ほまったく「楽園喪失」が、原型(archetype)としてある、と言うことに なるのかも知れない。(6) (5)讐ち至学祭苧パルト「クロノス・エロス・タナトス」昭45(MarieBonapaIte: Chronos,Eros,Thanatos,1952) 南博訳 H.マルク−ゼ 「エロス的文明」昭55(HerbertMarcuse:ErosandCivilizotion・ 195占) 前田耕作訳 ガストン・バVユヲ−ル「火の精神分析」昭44(GastonBachelard:LaPsycha・ nalyseduFeu.)1958) り)ヲ聖警譜賢苧雪誓イ「教養のための想像力」昭44(NarthropFrye:TheEdu− CatedImagination・1%4)159貢

(5)

ともかく、ダニルレーヌはこの詩をかくに.あたって、最初は浅い感傷的なも のから入ったに.しても、最後には哀切感が深まっていたと、その創作心理を分 析することができる。 5 さて、以上が分析原理である。こ.のことは.いろいろな詩や、物語、寓話、と くに近代詩に適用できる場合が多い。(7) フランスの詩人を引用したついでに.、かの有名なグールモンの詩集ー−シモオ ン」の一節をとりあげてみよう。 レモオン 雪はお前の襟足のように白い。 シモオン 雪はお前の膝のように㌧白い。 シモオン お前の手ほ雪のように.冷たい。 シモオン お前の心は雪のように.冷たい。(8) こ.れは恋人に.呼びかけている詩であり、四行とも同じようなことに.見えるけ れども、そのリビドーの方向ほ、前二行と、後二行とでは全く逆である。 雪→襟足、膝=物→人 お前の手、心→雪=人→物 いうまでもなく、前者が擬人物であり、後者が擬物化である。後者での心の いたみは深いこ.とに.なる。 次にわが国の詩人のものを例に.あげてみることに.しよう。 (7)芳雪雲挙;警田敬作訳「転身物乱昭41(Ovidius:Metamorbhoses・A・D・7) 例え.ば「月樹樹に・なったタブネ」「葦になっキジュリンクス」「花紅なったヒエアキン トクス」「泉紅なったリュソクス」「島紅なったぺリメレ」「狼に.変身したリュカオン」「白 鳥に.なったキュクヌス」「ほろほろ鳥紅.なったメレアグロスの姉妹」「海豚に.なったテ・ユ レニアの水夫」「星に・なったアルカス」など。これらギリシャ神話濫・タナトス系の比喩 の多いことを、もう一一度考えなおさなくてはならない。 崇慧写実訳「変身」(FranzKafka:DieVerwandlung・・1916)昭27・5真「’ぁる朝 グレゴオルグムが不安な夢からふと覚めてみると、ベットのなかで自分の姿が−・匹ゐ 身の毛のよだつやうな巨きな毒虫に.変ってゐるのに気がついた‥…・」(角川文庫) (8)世界名詩集大成Ⅱ(フランス)昭57.411貢

(6)

逝いた私の時たちが 私の心を金にした 傷つかぬやう傷は早ぐ優るやうにと 昨日と明日の間紅は ふかい紺青の溝がひかれて過ぎてゐる。 <夏の弔ひ>(9) これは天逝詩人、立原道道の作品であるが、微妙紅擬人化と、擬物化の比喩 が織りなされている。そこでは病んでいるのは肉体だけでなく、深層心理のな かでも、生軋むかい死にむかうリビドー・の方向が、天逝をした人らしく繊細に 動揺していることがわかる。 時が逝いた = 擬人化 心を金にした = 擬物化 昨日と明日の間は紺青の薄 = 擬物化 すなわち、こ.こでは微妙な音楽性と共に、その比喩性も極めてデリケートで

ある。擬人化とほ、物さえも生命を学んでいるという見方であるが、擬物化ほ

生命あるものさえもただの物に帰っていくという見方である。ここでは.後者の 技法の藍が多いことになる。 精神分析でほ、生にむかうリFドーせ1ife−Wishとか1ife−instinct,erOSな どと呼んでいる。死に.むかうリビドーをdeath−wish,death−instinct,thanatos などと呼ぶ。そして、,エロス系ほ人間対象にむかうとセックスになるが、事物 対象にむかうと創造力として作用する。タナトス系は外部紅むくと暴力とな り、内部すなわち自己にむくと自殺となる。 立原道道の詩のなかには、この擬物化の比喩がしばしば擬人化の比喩よりも 多くみられる。それはこ.の詩人が天逝したことと深い関係をもっている。彼の 場合、死の本能(タナトス)は内部紅むかっているとみられるからである。 さらに現代詩人のものをあげると、次のような場合がある。ここに.も強いタ ナトスがある。 )「立涙道造詩集」(角川文庫)昭27

(7)

ぼくに.さよならを下さい そうしたらポール箱へつめて 舐ひもでくくって ハドソン川へ捨ててきて−あげよう く一番みじかい抒情詩>(10) さよならという抽象的なものをゴミ.屑かなにかのように.、物として扱ってい る。これほあきらかに.擬物化であって、しかも人間→事物でほ.なく、抽象 (心)・−→事物という比喩であるので淋しさや虚無感は更に.深いことに・なる。 ただ、この詩人の場合、死へのリビドーが内部に.はむかって居ちず、外部にむ かっているようなので(例えば唐十郎座との喧嘩)自殺はしないとみられる。 そうしたわけで、同じタナトス系の比喩でも、立原道道と、寺山修司のもの は内向性と外向性の差で、詩のスタイルからくる印象もずいぶんちがっている のである。 4 かの放浪の画家、竹久夢二といえぼ数年前までは絵かきのはしくれにもおか れないような評価を受けていたが、現在でほ彼の作品は非常な人気をもってい るようである。彼ほ幸徳秋水事件以来、特高紅つけられていたとか、平民新聞 に挿絵を書いてル、たなどと言うこともあって、も愛と革命の詩人画家、という ことに祭り上げられたからでもあろう。 それはともかく、巷でまだよく歌われるものに.次の「■宵待草」がある。 まてどくらせどこぬひとを 宵待草のやるせなさ こよいは月もでぬそうな 夢二 これは詩としてこはたいしたものでほ.ないのかも知れぬ。しかし、比愉を分析 してみると、第二行で、死へのリビドー・、タナトスがふくまれているのであ る。こ.れがやほり、多くの人々を引きつけるのである。(野口雨情の「船頭小 (10)「寺山修司詩集」(角川書店)昭48

(8)

嗅」≒おれは河原の枯れすすき、も同様である)。しかも、月がでないことで、 内部紅むかうタナトスの方向であり、自殺を暗示していること紅なる。 夢二はここまでしかつくらなかったが、その後、西条八十がこのあとをつく ったのであった。(11) 琴れて河原に・星一つ 宵待草の花が散る 更けては風も放くそうな 八十 八十が追加した第二節は、残念なこと紅大衆が歌ってくれないのである。な ぜであろうか。それは比喩を分析してみると「■風が泣く」、擬人化で、生へのリ ビドーを学んでいるからである。また、このエロスは外部に.むいているとみら れる(風が吹く)ので、開放的になる。字づら上ほ悲しくとも、その深層心理 は楽しいこ.とになる。あるいほ.酒席でつくったのであろうか。 さすが流行歌の名手も、感動していないのに.歌詞をつくれば、やはりこのよ うな不党をとるのであろう。 夢二が死へのリビドーーの内向するものを、そこに.歌いこめたのに対し、八十 は生へのリビドーの外向するものを追補したのである。これでほん、くらお人よ しの大衆としても歌う気はおこらない。いや、大衆の深層心理こそ真の淋しさ や哀しさを知っていると言わなければなるまい。 西条八十はもっと慎患に擬物化の表現をなすべきであったのである(もっと も真の感動がなければこれほでてこないが)。「つくりものには匂いなし」の格 言どうり、八十の宵待草は失敗作となってしまったのであった。 5 広い意味で詩といわれるもののなかには短歌や俳句もある。次に早稲田大学 教育学部にいたころの寺山修司の短歌をみること紅しよう。その頃、彼はネフ ローゼであったので、この表現のなかに生にむかうリビドーと、死にむかうリ (11)秋山清「郷愁論 【 竹久夢この世界一−」昭舶「語呂あわせとしてならこれで致し 方もないか知れぬが、詩語としてはも風も泣くそうなモはあまりにミゼラブル、いう べき言葉もない」118貢

(9)

ビドーが混入していて面白い。 ○ わが夏をあこがれのみが駈け去れり麦藁帽子被りて眠る △ 胸病めばわが谷緑ふかからむスケッチブック閉じて眠れど ○ わが影のなかに蒔きゆくにんじんの親しき種子ほ地を見つめおり △ 撃たれたる小鳥かえりくるための草地ありわが頭蓋のなかに ○ 青空紅おのれ奪いてひびきたる猟銃音も愛に渇くや △ 空のない窓が真美のなかにあり小鳥のごとくわれを飛ばしむ ○ 愛すとき夏美がスケッチして来たる小麦の緑みな声を喚ぐ △ 木や草の言葉でわれら愛すときズボンに木洩れ日がたまりおり ○ 木がうたう木の歌充ちし夜の野に真美がまきし種子太るべし △ 太陽のなかに蒔きゆく種子のごとくしずかにわれら頬燃ゆるとき(12) これら十首の短歌ほ、一見ただ青年のロマンチックな表現にしかみえない。 しかし、この病める青年の心状の深みほ、リビドーがたえず不安定である。 なぜならば、○の歌は生へのリビド−が示されているのに対し、△の歌はリ ビドー・が死に・むかっているからである。すなわち、擬人化と擬物化の比喩が繰 り返されて−深層心理は不安定であることがわかる。 とくに最後の歌などみると・−・般に.、病状は元気な方向に.むかっていると錯覚 しやすい。「太陽」とか「頼燃ゆる.」という表現があるからである。しかし、 「われらの頻」一ヰ「種子.」(擬物化)ということで、技法に現われたとこ.ろ からは、精神分析でいうタナ・トスが認められるのである。 また、そ・の他現代若者たちの短歌の表現のなかにほ、みたされざる性の屈折 や、また性の敗北感が示されているものが多い。そこでは表現がアブストラク トに.なればなるはど、無意織の世界が示されてくる。 ここ.に.、次のような例がある。最初にでてくるものが女子の作品であり、後 のものが男子の作品である。 はは 父の愛われより豊かに求め屈む美しきけものめきたる駄母よ (12)「−寺山修司全歌集」昭舶

(10)

とげとげの桃の冬芽に.触れてみる解けがたき愛の議論ののちに・ きぞの嘘あばかむとするに青もなくあふれくる白き樹液をみたり 灰色の桃のおさなき芽の先を越えきし蝶の記憶うつくし こ.のBという女子学生ほ、後妻をむかえた父をもっている。そして若い継母 と共に.、父の愛を奪いあうということで、フロイ†の言うエレクトラ・コンプ レックスが顕著に.でている。そして、そのあとの三首に應いては言うまでもな く、自己の性へのナルシ1ンズムが深まっており、必要以上に自己の過去を美化 しよ.うとしているところがみられる。そして擬物化の傾向がすべて:にわたって いる。

また、次のCという男子学生の場合は、性に対する挫折感とか、敗北感、あ

るいほ劣等感が表現されている。 家の中から異音な靡ゆるゆると伸びゆき月の面を撫ぜる 青ざめた月を小脇にさしはさみ小さな男坂逃げてゆく レ㌧−ルの上に轢断された首二つゆらゆらあかい月を見ている これらの作品は少し怪奇的な面をもっているが、この学生は早くから両親の ない、孤独な青年であった。この歌の相手がどういう女性かはもちろんわから ないが、この第三首目で、その性愛ほ完全に・敗北していることがわかる0 しか し比喩ほどちらかというと擬人化である。これらの解釈についてほ、フロイト の「夢の解釈」が参考に.なる。暗号解読のためのキーワー・ズ(13)はわたしなり に考えるところでは、次のようになる。 月 = buttock 小さな男 = penis 坂 == Vagina 首二つ = teSticle 轢断 二= SeXualir托ef・COu‡■光

(15)雪讐苧字訳「夢判断」(上、中、下)昭32(SigmundFreud:DieTraumdeutung・

1900)

(11)

ただ、わたしほ.精神分析に・深い知識をもっているわけでほないので、これら のコードが全く適切かどうかはわからない。解釈のための手づるとして示すも のである。 また、リビドーが異性でなく、同性に.むかった例としてほ、現代前衛短歌の 金字塔をたてた塚本邦雄がいる。彼は男性を対象に歌った場合が多い。 わかものの腎繁れるを抒情詩のきはみに.おきて夏あさ 男の胸は鋼のひかりもて鎧ふべし 血のなかの塩いたきかな カエザル 羅馬皇帝のごとかへらざれ 密色の捲毛を腕に.かざりゐしかど レオナルド・ダ・ダインチと性を等しうし然もはるけく蕗煮る勾ひ アトランテス われは重き明日に耐へつつ底ひかり男像柱のゆする腹部(14) そうした意味で、ここでほ倒錯的な心理を示している。彼の生長過程におい て、超自我の形成期に、強烈な父への意識があったものとみられる。(なお、彼 ほ「エデンの西」という表現を好む。エデンの東が、兄弟の殺しあいであった のに対し、エデンの西とは、父子閤の相剋を意味するのである)。(15)それがリ ビドー・を同性にむけなけれはならない要因となったのだと思われる。 6 さらに、いわゆる前衛俳句といわれるものを少し取り上げてみよう。(1¢) 1.青年へ愛なき冬木日曇る 鬼房 2.風の奥青いちじゅくが個を深む 白菜女 5.犬交る街へ向けたり限の模型 飛旅子 4.友の死へ雨の裸灯でありたい俺 青湖 5.果樹園がシャツ・−・枚の俺の孤島 兜太 d.水のような冷たい革もつ電話器とる 秀一 ここでほ前二句が、擬人化の表現であり、後四句が擬物化である。そして、 われわれはどちらかと言えぼ後者に現代性を感ずる。それは現代人が、人間疎 (14)「短歌」昭44.12(特集、塚本邦雄の世界) (15)塚本邦雄「序破急急」喝47.(27−50頁) (1る)金子兜太「今日の俳句」昭40

(12)

外の環境のなか紅いるから、死にむかうリビドーの方に反応しやすいのであろ う。しかし、やほり生きたいという意志はもっているから、生のリビドーをほ らむ比喩に.も感動はするわけである。

⑧ 自分の限→模型(人一物)

④ 俺一・−・一斗裸灯(人−一物) ⑨ 果樹園−・→孤島(物−一物) ⑥ 水一・一一斗電話器(物叫一物) 六つの俳句のうち、後の四句が擬物化であり、さらに.それを正確に分析すれ ば、その四句も人から物への擬物化と、物から物への擬物化とに区別されるの である。そして\現代詩の比喰において、この物から物への比喩はもっとも現代 人の人間疎外を物語っているクールな表現なのである。 こ.のように、擬物化の比喩はむずかしい、それが自然に.作品のなかにもられ るためには、相当の訓練や才能が必要であるとわたしほみている。 現代的な前衛作品はでたらめだという人がよくいる。その人ほ芸術教育とい うものを認めていないことにもなる。芸術作品は素直な心でむかえばわかるも のとほ限らない。優れた作品で、思考したり、分析したりしなければ深く味わ えないものもあるからである。 ただ、難解であればよい詩だというわけでもない。技法と共紅、感動が創造 の核となっていなければならないこ.とほ言うまでもない。かの錬金術的なマニ エリスムをわたしは主張しているわけではない。真実の心なくしてはやほり詩 ほ人を感動させることほない。 7 最後に、詩と生活指導の関係であるが、詩が病的心理や疎外感やトラウマ(心 的外傷)をもっているものの必然的な叫びであるとすれば、詩的表現ほ大いに 奨励されてよいであろう。ただ、そうした心理は−・時的である場合と、生涯ぬ ぐい切れない深い傷痕をもっている場合とある。(17〉

(17)か

「治療教育学」昭48(HansAsperger:Heilpadagik”1965) 「発達のカはしばしば重症な病的な状態俊を驚くはど回復させるものである。教育学 的な情熱なし紅は治療教育学の効果はあがらない」14貢

(13)

生活指導の立場からみれば、前者は一・時的に.詩作するが、健康な心理状態に なるように.指導すれば、そうした表現から離れていく。それ故、生活指導的に は詩をつくる必要がなくなるまでが大事である、という逆説めいた原理がでて くる。 そうした意味でわたしほ子規とか茂吉などのような写実的な作品の傾向紅は あまり関心をもたない。栢神分析や深層心理学のメスをふるう必要性がはとん どないからである。前衛的なよい芸術作品のなか紅ほ、かならずその人間の無 意識の深渕がのぞかれるのである。 さて、最初にのべたA青年ほ父親とのいさかいもあってか家業をやめて、そ の後昼間の仕事に就職し、時間に追われる生活に入った。彼の詩の表現からは、 あの陰うつなものほなくなった。擬勧化の表現は消えた。生活指導面ではこれ でよいとしても、文学的紅は哀しむぺきことなのかも知れない。(最近、職を やめて第三詩集をだすことに.なった。) 次のBさんは、のち結婚をしてしばらくして短歌をつくらなくなった。それ ほ.生活に.追われる日常となったのか、愛を得られて満足した状況になったかの どちらかであろう。ここでも何か惜しい気がするが、教育的に.ほ.喜ぶべきこと なのかも知れない。心理的に.健康人となったというこ.とで−・。

さて、C君はみるからに痩せて、デカタン的な風体もみえたが、のちアルバ

イトなどの世話もあったことで、少し財力もついたが、体格もよくなってい き、それと共に短歌ほアララギ的自然詠の傾向がつよまっていった。それ以後 ほ抽象作品とか前衛の表現をとっていない。 こうした例に.反して、現代抽象芸術家に.おいては狂気とか自殺にごく近く追 いこまれることにより、よい作品を残すというこ.ともあるであろう。(王8)その ことに.より感受性がますます鋭敏に.なるからである。 ただ、わたしは教育指導とか、生活指導といった面から言えば、学生や青年 のこの病的なもの、頓廃的なものや心理的疎外感を排除してやりたいという頗 いをもっている。それ故、わたしにおいては教育することと、芸術家紅するこ (18)内村祐之「天才と狂気」昭27「天才が体質的に.持っていた特別な感受性、脆弱性、 神経質、その他の内因拘束因のため紅、狂気が起ったと考えるのが本当である」11貢

(14)

ととは、全く相矛盾していることになるのである。 わが国のような高度な資本主義社会では、すべての人がなんらかの意味で疎 外感をもち病的心理状態におちいりやすい、とすれば誰でもが叫びを必要とす るし、誰でもが芸術家となる要素をはらんでいるのかも知れない。 また、人間ほ生長の過程紅おいて、いろいろな葛藤や相剋があるので(エデ ィプス・コンプレックス、愛情喪失、劣等感、逃避)、完全に健康な心理をもっ ていると自信をもって言える人はいないことになるのかも知れない。 すべての人が詩人とか芸術家的要素はあるにしても、創造的表現をする人ほ 限られている。それ故、ここで述べることほ−・般人的な生活指導の原理とほな りがたいが、わたしの経験から現代詩的な表現には、その人の深層心理がきわ めて一明瞭に示されているものだというこ.とを一応述べておきたかった。 それは対話・面接によるカウンセリングとか、心理テストと同等に、あるい はそれ以上に深く人間洞察ができるからである。とくに.注意すべきは表現に死 へのリビドーがでているかどうかに注意しなければならない。これは外にむか えば暴力、内紅むかうと自殺になるおそれがあるからである。 しかし、振りかえってみるとわたしは切角現代的詩をつくろう とする人間 を、詩をつくる必要のない人間へと生活指導しようとしてきたのではないか と、最近、内心では反省してみたりするのである。

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