人身売買文書と謡曲隅田川
棚 橋 光 男 本誌14号談話室欄催.,㍉紙背軋徹す〟なる小文を書いた。それは古文書とい うものに.ついて簡単な紹介を行なうという趣旨であったが,ここでほ県内のあ る中世文審に例をとって古文書解釈の叫実例を示すこととしたい。その記述す るところは,かつて『日本史研究』203号に「人身売買文審二点をめぐって」と 適して論じたところと遥庭がないが,香川県にあって日本の中世史全体に意義 をもつ史料のことでもあり,また香川大学に於ける歴史教育にも聯かの関連を 有するものかと考え.,敢て.−掲載することとした。大方の御叱正を得れば幸いで ある。 (1) 本年の2月,筆者ほ大学での古文書講読の一環として,かつて史料紹介を行 なった‘‘釘三豊郡仁尾田丁・賀茂神社凌訪れ学生と共に所蔵文書を見学させていた だいたが,その折,次の如き文沓が新たに見出だされた。 (端袈) 「l二二= 讃岐国草木御庄住人藤六・姫夜叉女池波 遊子息童放券文事合臥者芸諾霊
宛直銭伍簡文 即時請取畢 買人同国詫間御庄仁尾村平地大隅殿 右件童,餓身にハつふられ候ぬ,身命 たすけかたく間,加様.三.池波進侯,身命た すからんかためにて侯,くち■一 ̄、てんかうハ 三月,逃亡ハ夫妻限命終,か.」り進可侯,門 若何なる権聞勢家離御領,沙汰被
棚 橋 光 男 し■∴iさ\ 取運可候,身類兄弟況他人妨不可有候, 又父云主云人,出来人候者,公方より可為罪 科者也 かやうに餓身ヲ助からんかためにて侯 (脱アルカ) 上,此童も助かり,ワか身ともに助かり侯うへノ、, 仇為後目沙汰,詔文之状如件, 元徳二年三月廿五日 藤六(略押) 母娘夜叉女(略押) 78 本文書法最ほ縦30.8糎×横47.5糎,料紙ほ中性一般に文書包紙などに使われ る底意な緒紙である。筆勢はやや弱いが文書の真実性に疑いをいれる程でほな く,「亡_】や「況」の字体などからみて中世のものと判断して誤りあるまい。内 容ほ,元徳2(1330)年3月25日に,石清水八幡宮儲草木庄@(現在の三豊郡仁尾 町域南半部を庄域とする)の住人藤六。姫夜叉女なる夫妻が,隣接する九条家 領詫間庄◎(現在の仁尾町域北半額及びこれに東接する詫間町域を庄域とする) 内仁尾村の平地大隅殿庵る者に対して,八鹿になる子息千松童を麿銭500文紅 て永代売り(この時代,売農に永代売りと年季売りとがあった)した売券であ
る。異人の平地大隅殿とは,6年まえ元亨4(1324)年6月の同じく賀茂神社 くもんだい 所蔵・公文代英注進状案(その内容ほ詫間庄の作人及び作田数,さらに作田数 のうち厨番を奉仕すべき田数を書き上げたもの)に,作田の項に.「大隅,一丁 (歩) 一反六十卜」,厨番次第の項に」 ̄大隅,三反七十卜」と記された着であって,「’平 地大隅」なる通称やl ̄殿嶋lなる敬称からして,この在他に於て強剛名主化ない し小領主化しつつある階層と目しうるのではあるまいか。 本文中,「若何なる.」.以下1▼可為罪科者也」までの表現ほ,かかる人身売買文 書の担保文言として極く普通のものであるが,しかしt ̄くち/、」以下「かゝ り進可候_iまでの文言のうちl ̄逃亡ノ\夫妻限命終」との特約文言ほ他に.類例の ないものといってよい。 史料上,元徳2年がとくに.大飢盛年であったことは確認できない。勿論この 年が飢餓年でなかったとほ.断定できないが,むしろ平常年に.於ても常に.,かか る農民家族が飢餓線上にさらされ得る社会的要因がこの時期潜在的に.存在して
いたと考える方がこの際妥当であろう④。当時,人の売買は概ね2男.叉で行わ
れていた。8鹿の子供を使役しうる労働の種類に.は自ら限りがあったであろう が,藤六。姫夜叉女の窮迫が余程のものであったことほl ̄直践伍百文」なる記 載からもうかがえよう。われわれほこ.の文書紅ついて,売券として−の定型外の 表現にむしろ注目すべきであるし,三度びも繰り返された1 ̄身命助からんがた め」との言葉の中に.,窮迫に耐えかねて心ならずも壷を売らねばならなかった藤六・姫夜叉女の貴情をみるべきであろうかと考え.るのである◎。
鎌倉幕府法追加,第112,延応元(1239)年4月17日の法令に, (1231) 一・ 覚書三年餓死之比,為飢人於出来之弾着,就養育之功労,可為主人計之 由,被定置畢,凡人倫売買事,禁制殊乱 然而飢饉之年計者,被免許欺 (下略).とする⑥如く,寛沓の大飢饉などの時を除いて,鎌倉時代紅は公家法・幕府法
とも紅人身売買.を強く禁制するところであった。勿論,在地社会に.於て人身売 買が少なからず行われてこいた事は事実であるが,かかる禁制の厳然たる存在や, また人身売買文菖が事の性質上,請け戻しの瞭や効力を失なったとき棄被され 抹消される確率の最も高い文書であったこと等から,鎌倉時代の年紀をもつ人棚 橋 光 男 80
身売買文書の現存するものは極めて少ない。磯貝富士男戌の調査比よっても,
鎌倉時代の人身売買を示す文書は全国に僅か4点を数えるにすぎず,そのうち
した丈二 3点は訴状や他の形式の史料紅於て人身売買の事実が間接的に.認められている
ものであるから,人身売買文書そのものとして存在するのは僅かに1点,金沢
文庫古文書所収・元亨4(1324)年11月19日しん二郎・つロロ女子売券が知られるのみということに.なる①。従ってここで紹介した仁尾町賀茂神社の文書は,
鎌倉時代の年紀をもつ人身売買文書として,全国で2通めの貴重なものといえ.
よう。また従来,中世文書の】 ̄ヵレム相伝」「がしんどし.」「がしんたのこめ」また
「がしんたれ」等の語源としては「’餓死」の転靴「−餓死ム」「−餓死ン」をあて−る説 が行われているが,本文苔i ̄餓身」はかかる語源説に眉カな一異説を提供する ものであろうことを付言しておきたい。 (2) 次に,人身売買文書に.於ける日付の問題について少しく考えてみよう。 既往の諸研究⑧に列挙された人身売買文沓の日付けを検討してこみると,それ が10月から3月まで,即ち冬季。春季に.集中しているこ.とが明らかである。勿 論,人身売買は一の極限状況の中で行われるものであるし,飢鰻状況を形成す る要因も早損・風水損・冷害・虫害など多様であるから,個々の具体的なケ・− ス紅即して綿密な事例検討を行わねばならず,安易な・一般化は慎しむべきであ るが,しかし,概数として人身売買が上の期間に集中していることもまた動か し難い事実である。 こ.のばあい,冬季に.ついてはその年の凶作紅よって直ちに生活の資が欠乏す るときであり,就中,11月を中心とする時期は年貢の納期であることが考慮さ れねばならない。また春季については,前年からの飢謄状況が持ち越されて金 程が払底した上に,とくに2・3月にあっては春時の耕作開始のための農料準 備や農耕用具・農業施設の補充・整備なども焦眉の急を告げる時期として理解 されよう。まして,前年の飢館が打撃的な影響をもたらしたとすれば,全ては 2・3月からほじまるその年の農作如何にかかっていたはずである。人身売買文書に.於ける2・3月の日付けはかかる意味をもった日付けとして理解されよ う。 中世・近世初期の文学作品に.も,直接間接に.人身売買を材にしたものが多く, このようなものとして,われわれは直ちに,御伽草子の酒頗童子,説経節のさ んせう太夫,謡曲の隅田川・自然居士・三井寺・信夫・浜平直・婆相天などを あげることができよう。 幽玄の能を代表する優作・隅田川では,人買いに.拐かされた梅若が隅田川の はとりで力尽き,遂に.命をおとした日として3月15日の日付けが記され,この もくほ 日に.はいまも梅岩忌が墨田区木母寺紅て営まれて‥いることをわれわれは知って いる。管見の限り,曲中に目付けを記した謡曲ほ50数番に.上るが(尤も,全て の謡曲が何らかの季節感を背景に.したものであることは改めて言うまでもない が),このうち史実に材をとった日付(粛清の寿永3年3月下旬など。但しその 史実が正確なものであるか否かは問わない)・特定の神事仏事の日付け(和布 じしよう 刈の12月晦日和布刈神事など。弱法師などの2月時正の日もこれに食める)・ 展物の日付け(紅柴狩の長月 ̄H」日あまりなど)を除くと,残るものは千人伐の 元革3年3月3日,婆相天のかうおう3年8月日,隅田ノ11の3月15日の僅か3 例に過ぎない。千人伐で如何なる理由から元手年号が選ばれたかは明らかでな いが,作者の関心は3・3・3の重ね合せと千という数そのものに.あったと思 う。)うゝうおう=康応は2年までで3年というとしほ存在しないが,康応2(1390) 年とその翌年は世上大飢鰹であり,婆相天申の人身売買文書に康応年号が用い られているのはこの飢鯉の実感に訴えるためのものであったであろう(それが 8月日であることに.ついては考察の余地を残す)。 では,隅田川の3月15日紅ほ如何なる意味がこめられているのであろうか。 すでに粗阿弥元摘の段階を経過した,その子息元雅の時点に.於て,作能の前提 となった社会的現実は農村的現実そのものではなかったはずである。しかし一 方,自ら家領和泉国日根野庄の在地に4年近くにわたり下向して庄務を執り行 なった九条政基の『政基公旅引付』に.よっても知られる如く,南北朝・室町期 に於てほ.,能楽の都市的享受者の一つの梅であろう九条家嫡流さえも農村的現
棚 橋 光 男 82 実と無関係では.ありえず,まして飢饉状況はそのあらわれ方の質的差異はあ れ,都市と農村とを選ばぬ現象であった。 隅田川の作者。元雅軋とって3月15日とほ幾つかある日付けのうちの一つで ほ恐らくなかったであろうし,よしその選択が元雅に.於て無意識のものであっ たとしても,その選択をなさしめたものほこの時期の社会の集団的潜在意徹そ
のものだったのではあるまいか◎。
「草茫々としてただ,しるしぼかりの 浅茅が原と,なるこそ あほれなりけ れ_lという潜条たる隅田川の情景描写と,人身売買/を必然的に惹き起こす飢餓 状況が3月15日という口付け紅よって結び合わされたとき,この日付けほ.新た な高い次元に於けるリアリティーを獲得したのではあるまいかと考えるのであ る。 仁尾町賀茂神社の文書からほじまって,述べるところ謡曲隅田川に.まで及ん だ。推測を重ねる結果となったが,博雅の衛示教を仰ぐことを得れば率いであ る。 ① 拙稿「素膏乱紅関する−史料−−−−−讃岐国仁尾浦神人等言上状−−」(『日本史研究』192 号,1978年)。 ⑧ 保元3年12月3日官宣旨び平安遺文』2959号)など。 ⑨ 建長2年11月日九条道家惣処分状(『鎌倉追文』7250号)など。 ④ 問題のかかる側面虹ついては.,磯貝富士男「■寛喜の飢蛙と貞永式目の成立」(『歴史と 地理』276号,1978年)参照。 ㊥ 当時に於ける売券の文面が−・般に.買主に.よって作成され売主の同意を求めるものであ った(笠姶宏至「中世在地裁判権の−・考察」,宝月圭吾先生還暦記念会『一日本社会経済 史研究』中世編,吉川弘文館,1967年)としても,なおかく考える余地は残されていよ う。 ⑥ 佐藤進一‥池内義資編『中世法制史料集』第一魔・鎌倉幕府法(岩波沓尽1955年) 所収。 ⑦ 磯貝富士男「百姓身分の特質と奴隷への転落をめぐって」衷Ⅰ(Ⅲ977年皮歴史学研究 会大会報告・民族と国家』所収)。 ⑧ 石井良助「中世人身法制推考」(『法学協会雑誌』56の8∼10,1938年),水上一久「中 世に.おける人身売買」(同氏『中世の荘園と社会』,吉川弘又館,1969年),牧英正『日永 法史に.おける人身売買の研究』(有斐閣,1961年),同『人身売買』(岩波醤店,1971年), 河音能平「下人的隷属の二段階」(同氏『中世封建制成立史論.F,東京大学出版会,1971年),小山靖意「紀州名草郡和田庄の『人身売買』文書について」(『歴史手帖』3の3, 1975年)他。 ⑨ 梅若流離譜がすでに存在していて,それを前提に.隅田川が作られたのか,その道か, いずれとも決し難いが,両者いずれにせよ,本稿の記述に変更を要さない。なお,関束 各地では今も,梅岩サマ・梅岩ゴトなる供養の行事が旧暦3月15日(現,4月15日)に