• 検索結果がありません。

社会科学(横組)19号 CID/04 饗場先生     P035-086

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2021

シェア "社会科学(横組)19号 CID/04 饗場先生     P035-086"

Copied!
52
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

ルワンダにおける1994年のジェノサイド

―― その経緯,構造,国内的・国際的要因 ――

(徳島大学総合科学部) ジェノサイドの「土壌」:フツ・ツチの民族的分断と対立 植民地化以前のフツとツチ 植民地化以後のフツとツチ ハム仮説人種観,差別的制度,暴力の応酬 ジェノサイドの「土壌」:人口,経済,政治,内戦 人口の過密・食料不足 経済の悪化 国内の政治的対立・混乱 内戦 ジェノサイドの「計画」 ジェノサイドの首謀者 ジェノサイドの動機と民族問題の利用 大量殺害の準備とプロパガンダ ジェノサイドの「実行」 ジェノサイドの期間と規模 大量殺害行為の行われ方 民衆からの共鳴,参加 国際社会,国連による対応の失敗 ジェノサイドに対する分析力の弱さ,理解の遅れ UNAMIRの展開とその非力 各国の政治的思惑 国際社会が取るべきだった方策と政治的意思 示唆される教訓と課題 ― 35 ―

(2)

1994年にルワンダで起きたジェノサイドでは,フツ(Hutu)とツチ(Tutsi) の対立を背景に1,わずか3ヶ月間に主にツチの人々約80万人が殺害され た。人が大量に殺される事態は古くからあるが,ジェノサイドという言葉・ 概念自体は比較的新しく,ナチスドイツのホロコーストの直後,ポーランド 出身のユダヤ人法学者,ラファエル・レムキンが創ったとされる。ルワンダ の大量殺害のケースは,オスマントルコにおけるアルメニア人虐殺,ナチス ドイツにおけるユダヤ人虐殺に続いて20世紀3例目のジェノサイドと言われ る。本稿では,このルワンダのジェノサイドがなぜ起きたのか,その発生の 経緯,構造,要因について包括的な考察と分析を試みる。 本稿ではその分析の枠組として,図1で図示している次元を設定して考え る。まず縦軸として空間的認識を考え,ルワンダ国内を「政府レベル」と「民 衆レベル」に分割,さらにその外側に「国外レベル」の次元も設ける。横軸 は左から右に進む時系列であり,ジェノサイドの進行過程を大きく「土 壌」,「計画」,「実行」の3段階の次元に分ける。ルワンダのジェノサイドは, こうした縦軸,横軸からなる構成により説明でき,各次元においてジェノサ イドの発生につながった因果関係としての要因群が特定できる。そうした一 連の総体的な流れをジェノサイドの構造として把握することができる。 以下,まず1節で,ジェノサイドの土壌における基!層!の部分を形成する, フツ・ツチの民族的分断と対立の関係に注目する。両民族の分断・対立関係 が生成された経緯,要因を検証する。2節では,ジェノサイドの土壌を構成 するその他の要素,つまり土壌の表 ! 層 ! の部分を形成する,人口の過密,経済 の悪化,国内政治の対立・混乱,内戦という要素について考察。3節でこう した土壌が誘因となってジェノサイドが政府レベルにおいて計画される過程 を分析し,4節においてジェノサイドの実行段階における実態を検証,5節 で国連など国際社会の対応が失敗した経緯を分析する。最後に6節で示唆さ れる教訓と課題を摘出する。 ― 36 ―

(3)

国 外 レ ベ ル 政 府 レ ベ ル 民 衆 レ ベ ル ジェノサイドの「土壌」 ジェノサイドの「計画」 ジェノサイドの「実行」 国境の外側 国境の内側 国際社会・UNによる対応の失敗 表層の土壌 基層の土壌 政府レベルでの 殺害の実行 民衆レベルでの殺害の 実行(しだいに拡大) 大 量 殺 害 の 完 成 大 量 殺 害 の 拡 散 ・ 増 幅 民 衆 か ら の 共 鳴 民 衆 に 対 す る 煽 動 ・ 動 員 権力をめ ぐる動機 民族問題 の政治化

ジェノサイドの「土壌」

:フツ・ツチの民族的分断と対立

ジェノサイドの構造,要因の中には,まず「ジェノサイドの土壌」と呼ぶ べき次元がある。ジェノサイドの土壌は,ジェノサイド発生の因果関係を説 明する要因群の中の一つであるが,これは図1で示すように,ルワンダ国内 の政府レベルと民衆レベルの双方に存在し,ジェノサイド進行プロセスにお 図1:ルワンダのジェノサイドを引き起こした要因と,その構造, メカニズム(筆者作成) ― 37 ―

(4)

ける第一段階としての意味を持つ要因群である。 この土壌としての諸要因は,!長期的に生成され最も根底にある土壌,つ まり基層としての要因と,"比較的新しく生まれ表層の土壌として存在する 要因とに分けられる。基#層#の要因としてはフツ・ツチの民族的な分断・対立 関係であり,表 # 層 # の要因としては人口の過密,経済の悪化,国内の政治的対 立・混乱,内戦の発生を指摘できる。このうち1節では前者を,2節で後者 を扱う。 まず,最も根本の要因として指摘できる,フツとツチの間の分断・対立関 係である。80万人の被害者は大半がツチであり,加害者の側はフツの人間で あったことから,フツとツチという二つのエスニックグループの対立がジェ ノサイドの発生に密接に関係しているのは論をまたない。 しかし,こうした民族的な対立関係はルワンダ以外の国・地域にもある。 そうしたところでいつもジェノサイドや大量殺害が起きているわけではない し,ルワンダにおいても大規模な虐殺が始終,頻発してきたわけではない。 その意味で,フツ・ツチ間の民族対立の要素はそれのみでただちにジェノサ イドを引き起こすような要素ではない。そこに「引火」する外部条件が加わ るか否かが,ジェノサイドや大量殺害の発生にとっての重要な焦点になる。 ではこうした,何かのきっかけがあれば容易に火がついて,ジェノサイド のような形で爆発しかねない,火薬のような性質がある要素としての民族対 立は,ルワンダではどのようにして形成されたのか。 植民地化以前のフツとツチ 現在のルワンダには主に3民族が住み,一般的にはフツが8∼9割,ツチ が1∼2割,さらにトゥワが1%ほど占める,とされる2。いずれもバンツ ー系の言語である同じルワンダ語(キニャルワンダ)を話し,同じ領域に混 在して住みついている。こうした民族性の由来と実態は,植民地化以前の時 代については諸説分かれ,議論がある。 従来の定説では,植民地時代より以前,東アフリカ・大湖地域には,先住 民のトゥワがいて,そこに農耕民のフツが住みついた後,13∼15世紀ごろに ― 38 ―

(5)

牧畜民のツチが北方から来てトゥワとフツを支配,ツチの王国という形で一 帯が治められていたとされる3。したがって94年のジェノサイドもこうし た,先に来たフツと後から来たツチによる500年におよぶ部族紛争とみる発 想が流布したが,最近の研究ではツチが移住してきた証拠はないこと,10世 紀前後に生じた地域内の社会変容により農耕を生業とする集団と牧畜を生業 とする集団に徐々に分化したこと,ツチの王国はあったが王宮支配は中心部 に限られ,周辺部ではフツ,ツチの意識は希薄であったこと,などが指摘さ れている4。つまり元から明確に異なっていたエスニック集団としてフツ, ツチが存在していたのではなく,むしろ,肥沃で住みやすい大湖地域をめぐ って競争,定着する人々の中で農耕(フツ)と牧畜(ツチ)という生業集団 が現れてきたと考えられる5 そうした農耕を担う集団と,牧畜に携わる集団との関係は,財やサービス を交換する経済的な関係として基本的に対等であったとみられるが,19世紀 に入り,しだいにツチを中心にした王国が形成されていくと,ツチによる支 配の仕組みとそのイデオロギー,支配集団としてのツチのアイデンティテ ィ,それ以外の人間としてのフツのアイデンティティがそれぞれある程度生 成していったという6 しかし,こうしたアイデンティティはあいまいでかつ一部地域に限定され ており,後にジェノサイドまでに発展する条件としてフツ・ツチのアイデン ティティが明確化,先鋭化していくのは19世紀末以降の植民化の過程によっ ている7 植民地化以後のフツとツチ 1899年から1919年までルワンダとブルンジはドイツ領東アフリカに編入さ れ,第一次世界大戦後の1919年から1962年の独立までは,ベルギーの統治下 に置かれた。宗主国はフツを組織的に権力構造や教育組織から排除し,ツチ による独占的な統治を促進,「宗主国!ツチ!フツ」という統治構造を定着

させた。この分割統治(divide and rule)はルワンダに限らず見られるが,植 民地住民の反発を分散し,円滑に植民地を経営するためには有効であったも

(6)

のの,ベルギーはこれによりジェノサイドにつながる「将来の紛争の舞台を 提供した」ことにもなった8 欧州の宗主国がツチによる支配構造を作った根底には,当時の欧州におけ る人種観があった。ツチ,フツ,トゥワの中でツチが最も欧州人に似ている, したがって最も優秀と見られ,ヨーロッパ人がアフリカ人を支配するのと同 じように,優れたツチが劣ったフツやトゥワを支配するのは当然と考えられ ていた9。ツチの資質は白人に似ており,ツチを文明化をもたらす外来のハ

ム的支配人種とみなすこの発想は「ハム仮説(The Hamitic Hypothesis)」と

呼ばれた10。この仮説を元にした統治理念が導入されたことにより,もとも と人種的区別が曖昧だったルワンダ社会に人種概念が形成され,それによる アイデンティティと人種差別・民族差別意識が後の対立,暴力に奉仕するこ とになった11 ベルギーは行政職や高等教育をツチに限定するに際して,住民のアイデン ティティを区別する必要があったが,フツ,ツチの区別は当時必ずしもはっ きりしなかったため,結局,1930年代に各人に所属の民族を申告させ,以後 その登録された記録に基いて個々の所属が特定され,民族名を書いた ID カ ードの携行も義務付けられた12。それまでルワンダ社会ではフツの個人がツ チの地位に上昇したり,ツチの個人がフツの地位に下降したりする社会的仕 組みがあったが,この住民登録により「ルワンダ国家史上初めてフツ・ツチ のアイデンティティが永続的に固定化」された13 この人種観による統治は宗主国とカトリック教会の「共同事業」として促 進され,宣教師らはツチを「黒い肌のヨーロッパ人」などとみなし,布教活 動や学校教育の中でこの人種観を浸透させた14 ツチはフランス語を始め教育の面,雇用の面など社会的に優遇され,首長 職の95%と官職の88%,耕作可能な土地のほとんどを占めていたという15 その結果,ツチはエリート意識と既得権の維持,フツは不公正感と被害者意 識などの感情をそれぞれ共有するようになり,それぞれの集団内で連帯感, 絆が強まると同時に,両者間の分断は深刻化し,かつ固定化されていった。 ベルギーは1950年代までツチを支持してきたが,国際的に植民地解放の機 ― 40 ―

(7)

運が高まってくると,しだいにフツをバックアップする立場に変化。危機感 を抱いたツチは多数派支配(フツによる統治)が確定する前に宗主国を放逐 しようと独立志向を強め,他方,フツは植民地独立よりもむしろツチによる 抑圧からの解放を目指す立場を取った16。59年に親ツチ,反ベルギーを唱え るルワンダ最初の政党「ルワンダ国民連合(UNAR)」が発足,フツは「フ ツ解放運動党(PARMEHUTU=パルメフツ)」を作り,年末には両者による 大規模な武力衝突にまで発展,数百人が死亡し,ベルギーはその後地方行政 当局のおよそ半数をフツ人に交代させた17。カトリック教会も59年にフツ支 持を打ち出した18。この59年から62年の独立にかけての動乱,政治・社会構 造の変革は「社会革命」「フツ革命」などと呼ばれた。 数的に有利なフツは61年の議会選挙でパルメフツの圧勝をもたらし,レフ ァレンダムでも圧倒的多数で王制廃止に同意,62年,中南部ギタラマ出身の フツであるグレゴワール・カイバンダ大統領のもと,共和制国家として独立 を果たした。 ツチの多くは独立前後の武力衝突とフツ政権による迫害から逃れて,ウガ ンダやブルンジなどの周辺諸国に流出,一部は国外からルワンダへの反攻を 始めた。カイバンダ政権はこれに対し,国内在住のツチも含めて強固な弾圧 政策を取り,59年から67年の間に約2万人のツチが殺され,約20万人のツチ が難民として国外に逃れた19 こうした経緯を経て,植民地化以前のあいまいであったフツとツチのアイ デンティティは明確になり,両者の関係が敵対化することで民族対立に発展 していった。 ハム仮説人種観,差別的制度,暴力の応酬 民族問題研究のアプローチにおいては,アイデンティティや民族性は歴史 的に継承される生得的な固有性,不変性,本源性があるという「原初主義 (Primordialism)」「本質主義(Essentialism)」などの考え方と,アイデンテ ィティや民族性はある目的の手段として外部的,後天的に作られ,操作され るものとみる「道具主義(Instrumentalism)」「構築主義(Constructionism)」 ― 41 ―

(8)

などの観点があるが,ルワンダの植民地化過程における民族問題は,「道具 主義」「構築主義」の視点からのほうが説明しやすい。 民族対立が発生するには,まず前提条件としてそれぞれの民族グループに 「われわれ」,「やつら」としてのアイデンティティが存在しなければならな い。こうしたアイデンティティは,ひとつには言語や宗教,文化など原初的 に存在する客観的な「差異」によって生成されうる。 しかしルワンダの場合,フツとツチの間では,言語(ルワンダ語),宗教 (カトリック),文化などはほぼ共通しており,その点においては客観的に 集団間の差異を認識できにくい。体形,顔つきなど身体的な差異について は,もともとは存在したらしく,統計的に言えばツチのほうが長身で,まっ すぐで高い鼻,長い指を持つといったような特徴が言われるが20,ここ数十 年では両者間の通婚が進み,必ずしも外見では判断できないようになってい る21。このように客観的な差異が乏しいのに,ジェノサイドにつながるよう な明確なアイデンティティが生成されたのは,「ルワンダのアイデンティテ ィは原初的なものではなく,……社会的に作られたもの」であり22,植民地 化政策以後,外部的,後天的に差異が導入されたためと考えられよう。 具体的には,!ベルギーによってもたらされたハム仮説の人種観,"統治 制度として導入されたフツ・ツチ間の差別的な仕組み,#フツ・ツチ間の暴 力の応酬,の3点がアイデンティティ,対立関係の形成に大きく寄与したと いえよう。 ベルギーが持ち込んだハム仮説は,フツ・ツチを分断,区別する差異をイ デオロギー面から提供することになった。また同時にそうした人種観からツ チによる統治を促進,定着させようとして支配体制を整備したのであるか ら,社会制度の面でもフツ・ツチを分断,区別する差異が形成された。こう してイデオロギー的にも制度的にもツチだけが優位に立つ社会構造が作られ て行くと,それにより不利益を受けるフツの側としては,必然的に被害者意 識で結ばれた連帯感を通して,アイデンティティが強まる。ツチの側も,フ ツの反発を受けその特権構造が脅かされてくると現状を維持しようという意 識を共有して,帰属意識,団結が高まる。そうして次第に相互の対立が激化 ― 42 ―

(9)

し,ついに暴力沙汰に至ってしまうと,対立関係には一種の質的変容が生じ る。従来の対立の理屈に加え,暴力で生じた怨恨,報復という新たな対立の 理屈が生じ,それによりそれぞれの集団は,いっそう連帯感,アイデンティ ティが先鋭化される。こうした「道具主義」のメカニズムを分析すれば, 「差別と暴力が民族をつくる」という一つの帰結が説明できるが,ルワンダ の場合もこうしたプロセスを経て,フツ・ツチの民族対立が顕著化していっ たと理解できる。 こうしてできた民族の分断・対立は,政府・民衆の区別なく今も継続して 定着し,これがジェノサイドを生む最も根本の要素,つまり「基層の土壌」 となっていると,みることができる。

ジェノサイドの「土壌」

:人口,経済,政治,内戦

前節でみたフツ・ツチの民族的分断・対立関係は,ジェノサイドの「基層 の土壌」となる要素であるが,これ以外にもジェノサイドの誘因となったい くつかの要素が,「表層の土壌」として指摘できる。その要素として,人口 の過密・食料不足,経済の悪化,国内の政治的対立・混乱,内戦などがあげ られる。これらの要素は,民族の分断・対立という植民地時代以来の根深い 要素よりは新しいものだが,民族の分断・対立も含めて全体としてジェノサ イドが起こる「土壌」を形作っていると言える。 人口の過密・食料不足 丘陵地が多いため「千の丘の国」とも呼ばれるルワンダは,赤道直下にも かかわらず標高が高いため快適な気候に恵まれ23,マラリヤなどの熱帯病も 少ない。「アフリカのスイス」とも呼ばれたこの国は,元々土地も肥沃で, 希少種のマウンテンゴリラをはじめ自然豊かな環境にあったが,近年その荒 廃が著しい。紛争の直接的原因は政治的側面から考察されることが多いが, 環境の側面から紛争を分析する視点も注目される。ルワンダの民族対立,ジ ェノサイドも環境的な観点が一つの重要な鍵概念になっている。 ― 43 ―

(10)

ルワンダの風土は人の生活には好条件であったが,土地自体はもともと広 くなく24,次第に人口が増していくと必然的に,土地不足の問題が派生して いった。 ルワンダの人口は1948年に188万7千人だったが92年には750万人と4倍に 達し,アフリカで最も人口密度の高い国となった25。その分,一人当たりの 土地は減少していき,60年代に1世帯当たり2ヘクタールあった土地が90年 代には0.7ヘクタールと縮小26。さらにこの減った土地は,59年の「革命」 によって導入された,公平に土地を分配する制度のため相続の際,細分化さ れることになり,他方,有力者がそうした土地の買占めを行ったため,富農 と貧農の差の拡大にもつながった27 農地の減少を補おうと傾斜地の無理な開墾や樹木の伐採を行ったため土地 の浸蝕が起き,また休耕しないで過剰な耕作を行ったため土壌が疲弊し,生 産性は向上しなかった。樹木は燃料として薪を得るためにも伐採され,いっ そう立ち木の消失が進んだ28 こうした結果,食糧生産が需要に追いつかず,80年代から自給自足できな くなり,80年代半ば以降,食料の被援助国に転じた29。さらに事態は悪化 し,90年には国民の6分の1が飢餓状態とも伝えられた30 ルワンダの農業環境相(1990∼92年)を務めたジェームス・ガサナは食料 エネルギーと暴力事件発生の間の負の相関関係を指摘し,1991∼92年におい て食料エネルギーが1日一人当たり1500カロリーを超えた市町村では暴力事 件が起きておらず,体力が徐々に衰えると自暴自棄で暴力に走りやすいと言 う31 ムバヤは,こうして発生した農村における相互の不信感や攻撃性は「いつ でも無条件な敵対関係に入って,例を見ない暴力をふるう可能性」があると して,ジェノサイドとの連関を示す32 ただ,こうした食料不足から生まれた民衆の不満,苦悩は当初,政府,あ るいは政府権力に浴した一部エリート・富裕者に向けられており,農民自身 は民族問題というより,政府の失政,社会体制の不備が招いた貧富の問題と みていた33 ― 44 ―

(11)

経済の悪化 1970年代から80年代にかけてルワンダの経済は発展した。一人当たりの国 民所得は62年にはルワンダより低い国は世界で2カ国しかなかったが,87年 までに18カ国に増え,平均寿命や保健・医療,就学率などの指数も向上34 外国からの支援で道路,電話,電気などインフラ整備も進み35,87年までル ワンダは周辺諸国の中で,最も低い負債,最も低いインフレ率,最も高い GNP成長率を示した36 こうした発展は外国からの援助の他,73年に発足したハビャリマナ体制の 政策にもよっている。ハビャリマナ大統領は75年,立法,行政,司法を統括 する一党独裁的な組織として「国家開発革命運動(MRND)」を結成し,す べての国民を加入させ,知事や市長もその幹部が任命されるといった堅固な 中央集権化を推進。ルワンダは貧しいから政治論議にかまけている暇はない といった「開発独裁」の手法が経済的に奏効した面があった37 またツチは少数派として周縁化されていたが,政治活動に関与しない限り は弾圧されず,むしろ経済活動は推奨され,政府と良好な関係を持つツチの 有力ビジネスマンも出現した38。フツ・ツチ間の通婚も進み,両者は共存し ていた。こうして民族問題の政治化を回避したことも国内の安定的発展に寄 与した一因と考えられる。 しかし次第に状況は暗転していく。まず,国家全体としては発展が認めら れるとはいえ,国内的,ミクロ的にみれば,貧富の差が拡大していた。政府 関係者や政府系企業の経営者,その職員,官僚,軍人らは豊かになったが,90% 以上を占める農民は貧しいままで,むしろ上述した人口・土地問題により逆 に貧困化が進みつつあった39 またマクロレベルにおいても,経済の悪化が80年代後半から始まった。ス ズは外貨獲得の15%ほどを占めていたが,85年に最後のスズ鉱山が閉鎖さ れ,また外貨収入の3分の2以上を稼いでいたコーヒーは,その国際価格が 86年から92年にかけて75%も下落した40 ルワンダ政府は国際通貨基金・世界銀行による構造調整プログラムを受け 入れ,90,92年に通貨の切り下げを行ったが,その効果はコーヒー価格の低 ― 45 ―

(12)

下で相殺されてしまい41,社会政策の後退・公共料金の値上げも招くなど, 構造調整プログラムは他のサブサハラ・アフリカ諸国と同様,むしろ経済の 混乱を導く結果になった42 89年に GDP は5.7%のマイナスになり,以後続けて低下,一人当たりの GDP も85年には約330ドルと推定されたのが,89年には約200ドルに激減した43 さらに90年から始まったツチとの内戦で軍事的支出が増え,GDP に占め る軍事費は89年の1.9%が92年には7.8%になるまで急増44。これも大きく国 家経済の足を引っ張った。 また,人口の過密と経済悪化は多数の失業者を生み出し,特に農村では職 がないため結婚できない若者層が増えるというジェンダー問題も派生,こう した青年層がその後,民兵組織に加入してジェノサイドの尖兵となった45 国内の政治的対立・混乱 62年に独立したルワンダは,中南部ギタラマ出身のフツであるカイバンダ 大統領が統治したが,73年に北部ギセニ出身であるフツの,ハビャリマナ将 軍によるクーデターで排斥され,同将軍が大統領に就任,以後,94年のジェ ノサイド発生当日に暗殺されるまでハビャリマナ大統領の時代が続いた。 両大統領時代に共通していたのが,パトロン ― クライアント関係の政治 である。パトロン ― クライアント関係の政治は,一種の「ひいき主義」「地 域主義」であり,権力を握る一部のエリートが自らの家族や縁戚,同郷出身 者らに利権を優先配分する引き換えに,強固な支持と服従を確保する仕組み だが,その結果もたらされた政治的不安定・対立がジェノサイドにつながる 一要素となっていた。 北部出身のハビャリマナによるクーデターは,中南部出身のフツを優遇し たカイバンダ大統領に対する「北部出身フツによる復讐」としての意義があ り46,ハビャリマナ大統領は一転して北部のフツを重用,優先する政策を実 施。国家の政治エリートは主に北西部のギセニ,ルヘンゲリ両県出身者で占 められ,11ある県の内,ギセニ,ルヘンゲリ,キガリ(首都)の三県だけで 地域開発予算の半分以上を占めた47。海外留学の奨学金も17∼88年はギセ ― 46 ―

(13)

ニ出身の学生に3分の1以上が向けられ,海外からの援助の多くが大統領と 大統領の妻の一団に吸い上げられたという48 こうした露骨なひいき主義・地域主義とそれに伴う不正・汚職は,MRND 下の独裁的な統治体制とあいまって,ひいき関係から外れた大多数の人々の 間に反発と抵抗を招来し,経済が悪化し始めるといっそう批判が高まった。 反発する論拠は地域的な側面とイデオロギー的な側面の二つがあり,前者は 北部以外の地域への利権の移動を求め,後者は政治,経済体制のリベラル化 を求める立場であった。しかしこの時点での対立は,権力側も批判勢力側も 民族的な発想に依拠したのではなく,地域問題の方が民族問題より格段に引 火しやすい問題になっていた49 さらにハビャリマナ時代の政治として特徴的であり,かつジェノサイドと 因果関係があるのは,90年代初めからの民主化であった50。ハビャリマナは 91年には憲法を改正して多党制を公認,その結果,パルメフツやカイバンダ 大統領支持派の流れをくむ「共和国民主運動(MDR)」,ツチの多い南部ブ タレを基盤にインテリ層やリベラル派の支持がある「社会民主党(PSD)」, 都市部のビジネス界の支持を中心にした「自由党(PL)」,さらに92年には 与党急進派によるフツ至上主義を掲げる「共和国防衛同盟(CDR)」など, 多数の政党が結成された。また91年には報道の自由も法律で定められ,メデ ィアの活動が活発化していった。 この時期に民主化が進んだ背景には,一つには国内の反ハビャリマナ勢力 による改革要求に押された面もあるが,国際社会からの民主化圧力も強かっ た。国内経済の悪化に伴い,食料をはじめ外国への依存傾向が高まる中,冷 戦構造が崩壊した国際社会では民主化が大きな流れとなっており,ハビャリ マナとしては支援と引き換えの民主化要求に抗することは困難であった。 これらの改革は一部には歓迎されたが,深刻な副作用も併発した。すでに 政権などに対する不満,批判が強い中,野党の結成や報道の自由を促進する ことは,反対勢力が組織力,動員力を増し,批判や宣伝のトーンが上がる状 況を招き,対立関係がいっそう激化する結果になった。 レインツェンスらが指摘するように,こうした新党は支持基盤などに違い ― 47 ―

(14)

はあるとはいえ,根底には「ルワンダ国内の限られた資産にアクセスするた めに政治権力を掌握しよ う と す る」動 機 が 共 通 し て 横 た わ っ て お り51 MDR,PSD,PL などの有力政党は連合政権に参加して政府ポストの一部を 獲得するなどハビャリマナ政権の権力基盤を蚕食し始めた。 大統領・与党 MRND 支持率は一部では50%しかないとも言われた危機的 状況を受け52,MRND 側もこうした野党の台頭に対抗意識が高まり,与野党 間で政治的嫌がらせ,政治暴力が発生し始めた。与野党はそれぞれ青年部も 組織化したが,若者の行動が暴力的傾向に拍車をかける面があり,そうした 青年部は次第に民兵組織へと変質していった。 与党側は権力を濫用する形で野党の台頭を抑えようとしたため,統治機構 自体の正当性,信頼性が失墜し,特に司法制度の機能低下により政治目的の ための暴力は処罰されずに,むしろ当然とみなされる「不処罰(impunity)」 状況も出来,社会が無法化していく中,一般犯罪も増えた53 内戦 90年10月,隣国ウガンダなどを拠点にした亡命ツチ勢力による武装組織, 「ルワンダ愛国戦線(RPF)」がルワンダ北部に侵攻,以後,94年7月に RPF を中心にした政府が樹立されるまで,ルワンダは RPF・ツチ勢力と,政府・ フツ勢力との間で内戦状態になった。 80年代後半までに国外のルワンダ難民(ツチ)は60万人になり,RPF は 難民帰還とハビャリマナの追放,民主的政府の樹立を掲げて軍事行動を開 始54,ウガンダのムセベニ大統領の協力を得た RPF は士気が高く,訓練も行 き届いていたため,ルワンダ政府軍にとって応戦は容易でなかった55。ハビ ャリマナ側は,フランス語圏確保の観点からルワンダ駐留を続けていたフラ ンス軍の支援を受ける一方,RPF 側は反ハビャリマナの立場を取る野党の フツ勢力とも連携する作戦を取り,状況は拮抗,複雑化した56 93年はじめにかけて軍事的な決着は困難になり,国際社会や周辺諸国の圧 力,協力もあり,93年8月,アルーシャ和平協定が調印された。 協定ではまず,権力の分有が規定された。新しい移行政府は RPF を受け ― 48 ―

(15)

入れて形成され,従来の与党だった MRND が5閣僚,RPF も5閣僚,他党 も閣僚ポストを得る形になり,大統領はハビャリマナが就いたまま,移行期 終了時に大統領選挙,議会選挙を行うとされた。暫定国会も MRND,MDR, PSD,PL,RPF がそれぞれ11議席を占め,他の公認政党が数議席ずつ取る形 で構成されるようになった。軍については完全な停戦と RPF の国軍への統 合が合意され,RPF は全軍の40%,士官ポストの50%を占める割合で任命 されることになった。ただ,フツの急進派政党,CDR は暫定政府のポスト, 暫定国会の議席を得られず,アルーシャ協定から排除される形となった。 しかしこの合意は,ほとんど実施に至らないまま結局,94年4月からジェ ノサイドが始まり,同時に RPF も軍事行動を再開し,再び内戦状態になっ てしまう。 その根本的な理由は,この合意内容をめぐってルワンダ国内の政治勢力が 一段と分裂し,特に急進派勢力の強い反発を買ったためであった。協定によ り RPF は政府,国会,軍などの組織において現政権側とほぼ対等の位置を 占めるようになり,それはフツ強硬派から見れば,大きな危機感をもたらす ものだった。和平協定失敗の最大の要因がルワンダ国内の政治情勢に帰せら れるのは明白であった57

ジェノサイドの「計画」

1,2節でジェノサイドの「土壌」を考察したが,次にこの土壌が誘因と なり,ジェノサイドが「計画」される段階がある。留意したいのは,この土 壌の存在が自動的,直接的にジェノサイドの発生につながるのではないとい う点である。この土壌を前提に,ジェノサイドの計画者による,言わば「引 火」作業があることでジェノサイドが発生したとみることができる。逆に, 「引火」作業があってもこの土壌が存在しないならジェノサイドは発生しな い,との仮説もありえる。 20世紀における大量殺害の諸ケースを俯瞰すると,「すべて,国内で合法 的に権力を行使する公認の政府によって組織されている」と指摘されるよう ― 49 ―

(16)

に58,ジェノサイドにはなんらかの国家権力の介在が認められる。ルワンダ の場合も,「虐殺を命令,煽動した者たちは明らかに政権あるいは国家権力 の中枢との結びつきがあ」り,総体的,本質的にはルワンダのジェノサイド は「国家による犯罪だった」とみる結論は59,研究者の間で基本的に共通し ている。本節では,そうした国家レベルにおける首謀者による「引火」作業 の過程,つまりジェノサイドの計画という局面について考察する。 ジェノサイドの首謀者 90年に RPF の侵攻が始まると,反ツチの動きが広まった。その中で政党, 組織などを横断して強硬なフツ至上主義を掲げる人々の集まり「フツ・パワ ー(Hutu Power)」が台頭し,その急進派の一部がジェノサイドの計画,実 行に及んだ。彼らは政権に近い政治的,軍事的,経済的エリートであり,多 くがジェノサイド発生直後に作られた臨時政府のメンバーとなっている。「ル ワンダ国際刑事法廷(ICTR)」では当時の閣僚ら多数のフツ政権幹部をはじ め,軍人,高官,ジャーナリスト,教会関係者ら約70人がジェノサイド,人 道に対する罪などで拘束されている60。特にジェノサイド時,首相に就いて いたジャン・カンバンダは自らジェノサイドの画策,実行を認め,98年9 月,有罪判決(終身刑)を得ている61 ジェノサイドの計画をめぐっては,ハビャリマナ大統領も重要な関連を持 つ主体であった。ハビャリマナは,従来不活性化していたフツ・ツチの民族 要素を政治的対立の構図の中に導入,利用しようとした点において,ジェノ サイドと直接的な因果関係を持つ。ハビャリマナ自身は当初ジェノサイドま では考えていなかったようだが,RPF の侵攻後,極端な暴力によってツチ を排除,弾圧の対象とし,そのために流布,構築したイデオロギー・組織の 中で,彼自身もコントロールできない「ジェノサイドの怪物」が生まれてい くことになった62。ハビャリマナ自身はジェノサイド発生の直前に暗殺され るのだが,フツ急進派には彼の側近や,縁戚の人間が多くおり,特に「アカ ズ(小さな家)」と呼ばれたハビャリマナ夫人を中心にするグループがジェ ノサイドに密接に関係した63 ― 50 ―

(17)

ジェノサイドの動機と民族問題の利用 ジェノサイドが計画された過程,背景を検証すると,いわば「火薬」であ る土壌それ自体のみでジェノサイドが自動的に発生したのではなく,そこに 「引火」させる外部要因が介在したことがわかる。ジェノサイドの首謀者ら がその「引火」作業を行ったのであるが,それは大きく2段階に分けられ る。RPF に対抗するハビャリマナ大統領の動きと,アルーシャ協定に反対 するフツ急進派の動きである。それぞれどういう経緯があり,その動機は何 なのか。 まず,ハビャリマナ大統領が RPF に対抗する文脈における,「引火」の過 程をみる。ジェノサイドの実行時には「ツチの殲滅」という極端な民族主義 が国内を席巻したのであるが,ジェノサイドに至る経緯を振り返ると,ある 時期まではこのフツ・ツチの民族問題は表面化していなかったことがわか る。フツ・ツチの民族問題が必ずしも常時,活性化していたわけではないと いう状況は,ひとつには,カイバンダ政権(1962∼73年)とハビャリマナ政 権(1973∼94年)の政策の相違によっている。 植民地時代におけるハム仮説による人種観はツチを外来の優秀な人種とみ なす発想であったが,カイバンダはこのイデオロギー構造を継承し,反転さ せる形でツチに対応した。つまりツチは外来の人種であるからルワンダの民 ではなく,フツのみが土着の農民・正当な住人であり,したがってルワンダ はフツが支配し,ツチはルワンダから排除,弾圧するという政策であった64 ハビャリマナは,こうした前政権の「国家的フツ主義(national Hutuism)」

をやめ,フツとツチの「和解政策(a policy of reconciliation)」を志向,つま

りカイバンダのツチ政策はツチを「人種(race)」とみるイデオロギーに基 いていたが,ハビャリマナの場合はむしろツチを「民族(ethnicity)」ととら え,ツチもルワンダに住める「固有の(indigenous)」民族とみなした65。こ れにより国内のツチは少数民族として受け入れられる基盤ができ,政治分野 に関与しない限り過剰な抑圧はなかったため,ハビャリマナ就任以来,90年 の RPF 侵攻までの間,ツチに対する大きな政治暴力は起きず,民族問題は 国内の次元においては沈静化していた66 ― 51 ―

(18)

民族問題はこのように90年まで表面化せず,沈静化していたが,ハビャリ マナ大統領による意図的な「民族問題の政治化」政策により一変する。 2節で示したように,ルワンダの国内状況は一時,良好であったが,80年 代後半ぐらいから次第に暗転していく。人口増によって生じた土地不足,食 料不足が深刻化し,さらに経済も停滞する。小さくなったパイをめぐる争い が激しくなり,他方,その分配は伝統的なパトロン ― クライアント関係に よる不公正な手法によっていたため,特権,利権を持つ政府関係者,有力者, 富裕者に対する反発と,得をする者・割を食う者の間の対立が激化,農村で は暴力的風潮も醸成されていった。さらにこうした悪状況は,90年代初めか らハビャリマナが導入した民主化により,逆に拍車がかかる結果になった。 しかしながら,このようなルワンダ国内の政治的混乱,対立は,あくまで国 内のフツ勢力が,利権,権力をめぐって政権・エリート集団に挑戦,対立化 した構図であり,そこではフツ・ツチの民族問題は直接,関係がなかった。 この状況が変質するきっかけとなったのが,90年10月の RPF の侵攻と内 戦の発生であった。RPF の侵攻は,国内の対抗勢力の台頭に苦慮していた ハビャリマナにとっては追い打ちをかけるような難題であり,内憂外患の苦 境に陥った。そこでハビャリマナは,RPF の撃退と,国内統治の安定化と いう一挙両得に資する政策として「民族問題の政治化」政策を導入する。つ まり,それまでの国内ツチに対する融和的な態度を変更し,反ツチという民 族イデオロギーを前面に出す政策をとる。反ツチのイデオロギーは,RPF が亡命ツチ人で構成されている以上,RPF を撃退するには必然的に必要で あるが,同時に反ツチのイデオロギーは,国内における分裂し政府に反抗す る諸勢力を,外敵撃退という共通の旗印のもとに統合させ,政府への求心力 を生ませる効果も見込めた67。それでも政府に対抗する国内の野党・反対勢 力に対しては「RPF の手先だ」などと批判し,抑圧,弱体化を図った68。さ らに,反ツチを言うことで,RPF 以外の国家の不安定要因すべてをツチの せいにして政府の失政から目をそらすという,スケープゴートによる責任転 嫁の効果ももくろめた。こうした民族問題の政治化政策は,従来もともと存 在してきたフツ・ツチの対立・分断関係と,政治・政府への不満とあいまっ ― 52 ―

(19)

て,過激な反ツチ主義として次第に拡散,それに伴い90年から93年にかけて 4件,国内ツチに対する大量殺害事件が発生し,94年にジェノサイドが起き る前にすでに合計で約3000人のツチが犠牲になった69 このように,ハビャリマナは RPF の撃退と国内統治の安定化のため,反 ツチを掲げる「民族問題の政治化」政策をとったのだが,それは突き詰めれ ば自らの権力基盤の立て直しとその継続という動機があったためであった。 ハビャリマナ自身はジェノサイドまで意図していなかったとみられるが,過 激な反ツチ主義を活性化させた点において,土壌を「引火」させる外部要因 を提供したことになる。 また,もう一つの「引火」作業は,アルーシャ協定に反対するフツ急進派 の動きである。90年代初めから国内政治は大統領派,反大統領派,対 RPF 強硬派,対 RPF 融和派などに分裂,交錯し,政治暴力が頻発した。政府は エジプト,フランス,南アフリカなどから武器を購入し,民間防衛の趣旨で 市民にも武器を配布,各勢力も民兵組織などを形成して暴力的傾向はいっそ う深まっていった70 しだいに RPF との内戦がフツ側にとって劣勢となり,アルーシャ協定に おいて RPF との権力分有が合意されると,フツ勢力間の分裂・対立は決定 的になり,特に急進派にとってそれは「二重の敗北」つまり,ツチとの戦争 に負けたことと,さらに RPF 融和派など対抗する国内フツ勢力に対する敗 北でもあった71 また,隣国ブルンジではフツ出身のメルシオール・ンダダエが初の民主的 に選ばれた大統領として就任していたが,93年10月に暗殺された。この暗殺 はフツ急進派からみれば明らかにツチの仕業とうつり,93年8月のアルーシ ャ協定における「敗北」とあわせて今こそ行動を起こすときという決断を与 えるきっかけになった72 こうして,フツ・パワーの急進派は「最終的解決(final solution)」として73 ツチの抹殺とアルーシャ合意に肯定的な融和派フツ勢力の殺害に及ぶのだ が,そのジェノサイド首謀者の動機の根本にあるのは「権力」と「恐怖」で あった。90年代初めの国内の政治的混乱と暴力的傾向の醸成は,資源・利権 ― 53 ―

(20)

をめぐるフツ勢力同士の権力争いによっており,そこに発生した RPF の侵 攻は,そのフツ側の権力そのものにとって大きな脅威となった。フツにとっ てみれば植民地時代から続くフツ・ツチの対立関係を想起すれば,ツチの再 来はフツの権力喪失と同時に,フツへの復讐という大きな恐怖も伴うもので あり,それらの点を決定的にしたのがアルーシャ協定であった。そこで規定 されたツチとの権力分有は,一部のフツにとっては「権力の喪失」と「恐怖 の切迫」の現実化であり,これに対抗するにはジェノサイドによるツチその ものの消滅とツチに融和的なフツの殺害しかないという発想がフツ・パワー の一部急進派に生まれたとみられる。 ジェノサイドにおける首謀者の動機については,たとえばスミスは,!復 讐のため,"軍事的征服のため,#物質的利得のため,$権力独占のため, %イデオロギーの実現のため,という五種の区分を示しているが74,ルワン ダのケースをみるなら首謀者であるフツ急進派の動機は,文脈としては人種 観に基くイデオロギーや,長年の対立による復讐感情,特に民衆レベルで発 生した略奪にみられるような物質的利得といった面も関連するが,最も核心 的な動機としては$の権力独占と言えるだろう。その点は,ハビャリマナの 動機にも共通している。結局,ルワンダのジェノサイドは国家権力の周辺に おける「権力の維持」をめぐる争いの中で,民族問題が利用された結果,土 壌に「引火」したという構図でもって説明されえよう。 大量殺害の準備とプロパガンダ 国軍の拡充や,大統領警護隊,民兵組織,殺人集団の設置,民間人への武 器の配布といった暴力装置の整備は90年の RPF 侵攻以降,大統領,与党 MRND,急進派政党 CDR などの勢力により促進されていくが,これは RPF に対抗するためと,国内のフツの政敵に対抗するために使われ,94年以前に すでにツチの殺害,政敵の暗殺などが発生し,国連の報告書が警告していた ようにジェノサイドに近い状況もあった75。こうした暴力装置やそれに伴う 暴力的風潮は当初はジェノサイドを意図したものではなかったが,結果的に ジェノサイドにおいても大量殺害を進める有効な道具として機能した。 ― 54 ―

(21)

フツ・パワーは,RPF の侵攻が進むほどに,支持を拡大していったが, その支持拡大に奏効したのが,メディアを使ったプロバガンダであった。彼 らは新聞『カングラ』(90年創刊),「ミルコリンヌ(千の丘)自由ラジオ・ テレビジョン(RTLM)」(以下,千の丘ラジオ,93年設立)を作り,その中 でツチへの対抗・排除を促すメッセージを大衆に送った。識字率が高くない ルワンダ社会では,とくにラジオによる影響力が強く,殺害の現場にはたい ていラジオがあったという。 メッセージは,「国内外のツチが一体化してルワンダ社会に浸透しようと しており,彼らはフツを大量に殺害して過去のツチ政権の再現を狙ってい る。数世紀前にツチの侵略で被害を受けた我々,無実のフツは,団結して自 衛のためツチの排除にあたらねばならない」といった趣旨で語られ76,ツチ をナチスやゴキブリ,ヘビ,ばい菌になぞらえる中傷も伴って人々に浸透し た。 “殺しの理屈”の要旨は,!フツかツチかというアイデンティティを唯一 の判断基準とする,帰属の絶対化,"フツとツチは敵同士であり,ツチはフ ツから権力を奪おうとしているとする,対立の絶対化,#こうしたツチに対 抗するために暴力が肯定されるとする,暴力の正当化 ―― の3点から成っ ていた77

ジェノサイドの「実行」

こうしてフツ急進派が計画したジェノサイドは次に実行段階に移る。まず 大量殺害の着手にあたるのは政府レベルの首謀者である。その後,民衆レベ ルにも殺害の実行行為が移行して,規模が加速度的に拡大していく局面があ るのが,このジェノサイドの一つの特徴と言えよう。したがって,ジェノサ イドは基本的に国家権力の介在する「上からの」計画による犯罪であるが, 同時に「下からの」民衆レベルからの「共鳴」「参加」がなければ成功しな かったとも指摘される78。この民衆レベルからの共鳴,参加もジェノサイド の重要な要因の一つを構成する。 ― 55 ―

(22)

600,000 550,000 500,000 450,000 400,000 350,000 300,000 250,000 200,000 150,000 100,000 50,000 4 7 414 421 428 55 512 519 526 62 69 616 623 630 77 714 時間の推移 ジェノサイドの期間と規模 ジェノサイドとしての大量殺害は,ハビャリマナ大統領らの乗った飛行機 が撃墜された94年4月6日の夜から始まった。このジェノサイドの特徴の一 つはそのスピードにある。被害の80%は4月の第2週から5月の第3週まで の6週間の間に集中していたという79ジェノサイドとしての大量殺害は7月 にはほぼ収束するので,その意味では期間は約3ヶ月間と言える(図2参照)。 しかし,ジェノサイド開始と同時に RPF による反攻が始まり,その中で ツチ勢力によるフツに対する殺害も同時に起きていたし,7月以降も95年に かけ,政権を奪取したツチ勢力と敗走するフツ勢力の間で殺害行為は継続し ツチの生存者数 図2:ルワンダのジェノサイドにおけるツチの死者数の推移(Alan J.

Kuper-man, The Limits of Humanitarian Intervention― Genocide in Rwanda ―,

Washington, D. C. : Brookings Institution Press,2001, p.21.) ― 56 ―

(23)

ていた。つまり,ジェノサイドと内戦が並存していたのであり,概念的には 両者は分けて理解されるべきだが,実態としては混在して大量殺害が進展す る展開だった。 この間の被害者の規模は正確には特定できず,統計的な推定でしか調べよ うがない。たとえばプルニエは,ツチの死者は約80万人,さらにフツ穏健派 などツチ以外で殺された人を1∼3万人とみて,死者の総計は80∼85万人に なると言う80 これに対してクーパーマンなどは,過去の国勢調査などのデータも参照し ジェノサイド直前のツチの人口は約65万人であり,ジェノサイド後,援助団 体などにより確認されたツチの生存者約15万人を引くと,ツチの犠牲者は約 50万人になるとみる81 フツの犠牲者数の推定は1万から10万人まで幅が大きいが,この中にはフ ツ急進派に殺されたフツ穏健派なども含まれ,さらに,反攻した RPF など ツチ勢力により報復的に殺されたフツも含まれる。RPF によるフツの犠牲 者も特定できにくいが,94年4月から8月の4ヶ月間で2万5千∼4万5 千,あるいは6万人が殺されたとする推定がある82 ルワンダの人口を比較した統計によると,94年4月と95年春の間で110万 人の差があるとも指摘されるが83,これには,!フツによるジェノサイドの 対象となったツチ,"同じく穏健派のフツ,#RPF による反撃,報復を受 けたフツ,$難民キャンプなどで病死したツチ,フツなどを含んでいる84 近年は国連文書をはじめ,ルワンダのジェノサイドの死者数に関しては80 万人という数字がほぼ定着しているが,統計の信頼度,期間の取り方,被害 者の区分の仕方などによって小さくない誤差が生じることになる。 大量殺害行為の行われ方 大量殺害は大統領機が撃墜された日,4月6日の夜から始まり,首都キガ リでは組織化された迅速な殺戮が展開された。最初の2日間に狙われた被害 者の大多数は,フツ急進派に対抗する勢力の政治家,高級官僚,実業家,あ るいはフツ急進派に批判的,または民主的な立場のジャーナリスト,人権活 ― 57 ―

(24)

動家らで,ほとんどはフツの人間であった85。殺害はテオネステ・バゴソラ 大佐が指揮する,1500人前後の大統領警護隊や,インテラハムエ,インプザ ムガンビなどの民兵集団により行われ,アガト・ウィリンジィマナ首相はじ め,その警護の国連 PKF 兵士10人,憲法裁判所長官,農相,情報相もその 被害者だった。あらかじめリストアップされていた政治家などの標的の他, 一般の市民もツチの人間は RPF の「一味・ぐる」とみなされたのでツチと いうだけで殺害の対象となり,また急進派に共感しないフツも同じ「一味・ ぐる」としてツチと同じく消される対象として扱われた86 地方には7日以降,ほぼ全国的に殺害行為が拡散していった。千の丘ラジ オが,大統領機撃墜を RPF や国連のせいにして,「ゴキブリであるツチ」の 一掃を呼びかける放送を開始87,多くのフツ民衆が民兵に導かれて近隣のツ チの家々を襲い,殺害,レイプ,略奪,放火を繰り返した。フツとツチは外 見だけではわからないこともあるが,長年隣り合って住んできた地方の村で は,誰がツチで誰がフツかは住民同士でわかっていた88 また,道路には検問所を作り,ツチの身分証明書を持つ者や,身分証明書 を持っていない者,あるいはフツの身分証明書を持っていても外見上ツチら しい特徴が認められる者を拘束し,殺害した89 殺害が始まって1週間目の時点では,フツの実行犯らはナタ(マチェーテ) やこん棒などの武器しか持たず,ツチは教会や学校,病院などに集団で避難 したため,被害の割合は比較的小さかったが,1週間後ぐらいから国軍,大 統領警護隊,警察部隊など高度に武装したフツ勢力がツチの避難場所に到着 したため一気に殺害が進展した。まず避難場所内に手榴弾などを投入し,中 に踏み込んで機関銃などを乱射,さらに逃げるツチを民兵や群集が襲撃する ような形で,数百から数千人のツチがその場で抹殺された90。こうして4月 21日ごろまでにツチの避難場所の大半が破壊され,おそらく約2週間で約25 万人のツチが殺されたという91 ブタレ県のみはツチの知事がいたため当初,例外的に平穏を保ったが,し かし4月18日に更迭された以降は,同様の殺戮が広がった。 カトリック教会はジェノサイド阻止にほとんど無力であり,むしろ,多く ― 58 ―

(25)

の聖職者が暴力行為に加担した。教会として公にジェノサイドを許可したわ けではなかったが,独裁的で分断化されたルワンダ社会の構築に教会も大き く関与していたし,大司教が MRND 中央幹部会のメンバーになるなど教会 は権力機構の中核の一つとして組織化され,当時のフツ政権の体制を護持す る立場であった点で,ジェノサイドの共犯者とみなされる92。多くのキリス ト教徒はツチ殺害に加わることが教会の意思に沿うことと信じていた93 ルワンダのジェノサイドは量的に特筆されるが,殺害の質的な面でも衝撃 が大きかった。ナタでずたずたに切られて殺されるので金を渡して銃で一思 いに殺すように頼んだ,女性は強姦された後に殺された,幼児は岩にたたき つけられたり汚物槽に生きたまま落とされた,乳房や男性器を切り落とし部 位ごとに整理して積み上げた,母親は助かりたかったら代わりに自分の子ど もを殺すよう命じられた,妊娠後期の妻が夫の眼前で腹を割かれ,夫は「ほ ら,こいつを食え」と胎児を顔に押し付けられた ―― といった行為が多発 した94 ジェノサイドのきっかけとなった大統領機撃墜事件については,真相が判 然としない。フツ急進派が,アルーシャ協定に同意してツチに融和的な態度 を取ったハビャリマナ大統領を見限って暗殺し,これをツチのせいにするこ とでツチ攻撃の口実も作ったという一石二鳥説がある一方95,アルーシャ協 定の進展に非協力的なハビャリマナ大統領にツチ勢力側が業を煮やし同大統 領を暗殺,内戦に戻して戦闘により決着をつけようとしたとも推測されてい る96 ジェノサイドが約3ヶ月間で収束したのは,RPF の軍事進攻によるとこ ろが大きかった。RPF の支配地域が拡大するにつれフツ急進派と殺害にか かわったフツの人々が敗走し,彼らによる大量殺害行為は沈静化していっ た。ただし同時に RPF による報復的な殺害,処刑,人権侵害行為もかなり 併発していた97 国連・国際社会はアルーシャ和平合意の成立を受けて停戦や協定の履行を 監視する PKO「国連ルワンダ支援団(UNAMIR)」を派遣しており,ジェノ サイド発生時も駐留していたが,後述するようにそのマンデートや能力の問 ― 59 ―

(26)

題,国連事務局の対応ミス,安保理の消極姿勢などにより,ジェノサイド防 止,中止のために対応することはできなかった。 民衆からの共鳴,参加 ジェノサイドの殺害行為には,フツの一般民衆が参画しており,確かに, 「数百,数千人のナタを持った市民の暴動による大量殺害がなければ,ジェ ノサイドはなかった」という面もあるが98,この見方は慎重な受け止め方を 要する。ナタとラジオを写すニュース映像などから先進国の人々の間には, 無知蒙昧な民衆がラジオを鵜呑みにして大挙して蛮行に走ったというステレ オタイプ・イメージが強いが,それは必ずしも適切ではないからだ。民衆側 からの共鳴,参加については限定的にとらえる視点も必要になる。 実際にどの程度の人間がジェノサイドに参画したのかは特定できにくい。 あるツチの生存者の証言によれば,フツの一般民衆は約40%が進んで熱心 に,20%はいやいやながら,30%は強要されて拒めずに,それぞれ殺害を行 い,10%の人がツチを助けようとした,という99。それなら自発的にせよ, 強制的にせよ,9割のフツ民衆が殺害に手を染めたことになる。 他方,たとえばミューラーは逆に,中核的な殺人実行犯は約5万人で,こ れは13歳以上のフツ男性の割合では2%に過ぎないと言い,殺人に協力した 共犯(ツチの居所を教えたり,検問活動に参加するなど)を入れても約20万 人で,9%にしかならないと指摘する100 いずれにせよ,フツの一般民衆の大 ! 多 ! 数 ! が ! 積 ! 極 ! 的 ! に ! 殺害を行った,という ことではない点は共通している。他方それでもなお,少なくとも数万人以上 のフツ民衆は殺害に参加したことになり,割合ではなく,絶対数としては依 然大きな衝撃を与える。 この民衆の共鳴,参加を促す手段として効果的だったのがラジオを中心に したメディアの煽動・動員であった。フツ至上主義を浸透させるプロパガン ダは RPF の侵攻後,ジェノサイド発生以前から行われており,ジェノサイ ド発生後は直接民衆を殺害行為に駆り立てる内容のメッセージが伝えられ た。このメッセージに民衆が応じる過程としては,強制的な側面と自発的な ― 60 ―

(27)

側面が存在する。 まず,民衆は恐怖と自己防衛のため殺害参加を余儀なくされた面がある。 武器を持った民兵集団らによる恐怖支配の下,一般のフツ人の選択肢は,殺 害に加わるか,加わらないでツチの共犯とみなされるかの二者択一しかな く,後者の場合が死を意味する以上,「中立はありえず,……すべての人が 戦争(殺害)に貢献しなければならなかった」101 自発的な殺害の動機としてはいくつか指摘される。まず,ツチに対する社 会的な嫉妬,物欲があるという。ツチ抹殺の指示を受けて即座に殺害に及ん だ数万人のフツは,「『やつらを全滅しよう』と道路で気勢を上げ……しばし ば良心の呵責なく嬉々として」ツチを殺したが,こうした熱狂的な殺人者の 多くはルワンダの9割を占める貧困層出身の人間であり,無職青年,国内避 難民,ブルンジからの難民も多かった102。植民地時代から優遇されてきたツ チは裕福な家が多く,多い人口,狭い土地,経済状況の悪化という状況の 中,社会的な嫉妬としてそうしたツチの金品,土地を狙う物欲が殺害の動機 にもなった103

しかしそうした「貪欲(greed)」だけでなく,「信念(belief)

」と「従順(obe-dience)」もまた民衆の自発的参加を促す要因であった104 「信念」は,フツ至上主義のイデオロギーである。1節で考察した,長年 にわたるフツ・ツチ間の反目,暴力により生じた対立と断裂の「土壌」は, 民衆の側にも根付いており,ラジオの煽動は,その昔からの反ツチ「神話」 をよみがえらせる「触媒」として働くものだった105。触媒で活性化されたフ ツ至上主義の信念が,民衆の自発的な殺害の基礎にあったと言えよう。すで に民衆の側にもフツ・パワーのイデオロギーに共鳴する基礎の部分が存在し ていたのでラジオの煽動に呼応したのであり,したがって単に民衆がラジオ を鵜呑みにしてゼロから洗脳されたという単純な構図ではない。 また,一般の民衆の間では,国家やコミュニティの長,教会関係者ら権力 者,権威者に対して服従する傾向があり,その「従順さ」が殺害への参加を 促す要素として作用したともみられる。農奴制の「ウブハケ」制度は1959年 に廃止されていたが,依然,農民には封建的なメンタリティが残り,ヒエラ ― 61 ―

(28)

ルキーにおける上位者に無抵抗に迎合,同意する傾向が強かったと言われ る106。ジェノサイドを生き残ったルワンダ人は「この国では体制順応が深く 進行している。ルワンダの歴史を見れば,みなが権力や権威に従順だったこ とがわかる。人々は権力を崇め,十分な教育は受けてない。貧しくて無知な 人々に武器を与えて『これがお前の分だ,殺せ』と言えばみなその指示に従 う」と証言する107 この従順さに依拠して殺害の指示を伝えた経路として,中央集権的な行政 機構があった。複数のジェノサイドを比較したチョークらは,ジェノサイド の前提条件の一つとして中央集権機構の存在をあげているが108,ルワンダで も,県知事,市長などは大統領の任命制であり,政府の命令は知事,市長と 下り,各町村では会合を開いて一人ひとりに指示を伝達,「仕事」(=ツチの 殺害)を「道具」(=ナタ)を使って行うよう伝えられた109 教育の普及の遅れも指摘されよう。1990年のルワンダの非識字率(15歳以 上)は46.6%で,サブサハラ・アフリカの域内では平均的な数値だが,世界 平均の24.8%と比べると遅れが大きい110。ジェノサイドの首謀者らは留学経 験や博士の学位を持つなど高い教育を受けているが,民衆,特に農村部では 識字率も下がる。ラジオの煽動的な内容に対し批判的,自立的に思考できる ほどの教育環境には至ってなかったとみられ,その点からも民衆のジェノサ イド参加への「従順さ」を促したと言えよう。

国際社会,国連による対応の失敗

これまではジェノサイドが起きた国内的な経緯,要因をみてきたが,国連 など国際社会がジェノサイド防止,中止のために有効な対応を取れなかった のは明らかであり,その意味で国際社会の関与のあり方という国外要因もジ ェノサイドの因果関係として大きな論点を構成する。 国連がジェノサイドを傍観したことは議論と批判を招き,アナン事務総長 は「国連を代表して失敗を認め,深い自責の念を表明する」と強い反省の意 を示した111。また,国連以外には米国,フランス,ベルギー政府の外交にも ― 62 ―

(29)

それぞれジェノサイドとの関係で責任を問われうる点があった。 国外の観点からジェノサイドが起きた要素を考えるなら,図1で示すよう に,直接的な意味では二つの次元があるだろう。一つは大量殺害の起きる前 の「計画」段階で事前に予防するのに失敗したという次元と,大量殺害が始 まった「実行」段階でそれを中止させることに失敗したという次元であ る112。ここではこうした観点から,ジェノサイドにおける直接的な国外要因 を検証してみる。 ジェノサイドに対する分析力の弱さ,理解の遅れ 国際社会がジェノサイドの予防,中止に失敗した理由の一つは,ルワンダ の事態に対する分析が弱く,その理解が遅れたという点がある。ニューヨー ク・タイムズをはじめ多くのメディアが当初,ルワンダの混乱を「破綻国 家」と「数世紀前からの部族紛争」の概念に依拠して報道し,米国をはじめ 各国の政策決定者にもそうした理解があった113「破綻国家」の概念は時期 的にも地理的にも近いソマリア内戦のイメージに基くが,ルワンダの統治機 構は破綻どころか,殺害の指示,動員を国内各所に行き渡らせるほど“効果 的に”機能しており,また「部族紛争」という軽蔑を含んだステレオタイプ の理解も,先述したようにフツ・ツチの歴史的経緯や権力をめぐる政治的抗 争という背景を洞察すれば,的外れであった。しかし「破綻国家」における 「部族紛争」とみなしてしまえば,ソマリアの失敗もあり,これは手におえ ないと消極的になる面も出てしまう。 事態の把握が適切でなかったため,アルーシャ和平協定への対応も思慮が 不足していた。西側諸国は,和平協定に消極的なフツ政府に圧力をかけ署名 を促したが,実際上ツチへの権力委譲を意味する和平協定へのサインはフツ のエリートにとって死活問題であり,ジェノサイドなどの極端な手段にまで 追い込んでしまいかねないという洞察が乏しかった114 また大量殺害発生後も,通常,外交官は戦争はよく扱うがジェノサイドに は慣れていないため,ルワンダの大量殺害も内戦の副産物とみてしまい,し たがって事態は内戦による被害であり,停戦の仲介が解決につながると考え ― 63 ―

参照

関連したドキュメント

地方創生を成し遂げるため,人口,経済,地域社会 の課題に一体的に取り組むこと,また,そのために

therapy後のような抵抗力が減弱したいわゆる lmuno‑compromisedhostに対しても胸部外科手術を

 彼の語る所によると,この商会に入社する時,経歴

それに対して現行民法では︑要素の錯誤が発生した場合には錯誤による無効を承認している︒ここでいう要素の錯

 今日のセミナーは、人生の最終ステージまで芸術の力 でイキイキと生き抜くことができる社会をどのようにつ

人間は科学技術を発達させ、より大きな力を獲得してきました。しかし、現代の科学技術によっても、自然の世界は人間にとって未知なことが

当社は、 2016 年 11 月 16 日、原子力規制委員会より、 「北陸電力株式会社志賀原子力発

洋上環境でのこの種の故障がより頻繁に発生するため、さらに悪化する。このため、軽いメンテ