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最適労働所得税理論と日本の所得税制

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新しい最適所得税理論と日本の所得税制:アップデート(未定稿) 2009.11.11 1 一橋大学国際・公共政策大学院 国枝繁樹 1.はじめに 我が国においては、80 年代半ば以来、数次にわたる税制改革が実施され、税制体系は大 きく変化を遂げてきた。特に個人所得税については、最高税率の引下げが繰り返され、所 得税の累進構造は大きく緩和された。 表1 1980 年代以降の所得税・住民税の最高税率 改正年 所得税最高税率 住民税最高税率 合計 18% 1984 年 70% 88%(ただし、賦課 制限あり) 60% 18% 78% 1987 年 60% 16% 76% 1988 年(抜本改革) 50% 15% 65% 1989 年(抜本改革) 15% 65% 1995 年(税制改革) 50%(最高税率適用 最低所得の引上げ) 37% 13% 50% 1999 年 40% 10% 50% 2006 年 こうした累次の最高税率引下げの理由としては、政府税制調査会においては、「勤労意欲、 事業意欲の維持・向上の観点、個人所得課税と法人課税の税率バランス等の観点」(政府税 制調査会1999 年度税制改正答申)から累進構造の緩和が望ましいとの説明がなされてきた。 政府以外においても、いわゆるサプライサイド経済学に基づいた減税の必要性を説く主張 が多くなされてきた。 その後、経済格差の拡大の可能性が国民の注目を集めるようになって、逆に、我が国の 税制が所得再分配機能を十分果たしていないのではないかとの疑問が呈されるようになっ た。2009 年度経済財政白書においても、我が国の税制の所得再分配機能が OECD 諸国中、 最も弱いことが指摘されている(図1参照)。 税制の所得再分配機能を充実させる方策としては、1980 年代半ば以降の税制改革の方向 1 本研究に当たり、文部科学省科学研究費(基盤研究A)「税と社会保障の一体的改革-格 差問題と国際化への対応」の支援を受けている。ここに感謝したい。

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とは反対に、税率の累進構造を強化することが考えられる。昨年末に麻生内閣が示した「 中期プログラム」においては、個人所得課税に関し、所得再分配機能の回復の観点から最 高税率などの調整や給付付き税額控除などを検討するとされ、所得税の所得再分配機能回 復の方針が示されたが、他方、民主党マニフェストでは、所得税の最高税率引上げについ ては特に言及がなかった。 所得税の累進度強化の動きは、経済格差拡大への対処や経済危機で悪化した財政赤字の ための財源確保が求められている先進諸国においても見られる。例えば、米国のオバマ政 権は、景気回復後に所得税の最高税率の36%および 39.6%への引上げ等を通じ、高額所得 者への増税を中心とする財政再建の方針を明らかにしている(オバマ政権の税制改革につ いては、国枝(2009)参照。)英国等の欧州諸国も財政赤字圧縮の必要性もあり、最高税率の 引上げを実施・検討している。しかし、所得税の累進度の強化は、税制を通じた所得再分 配を促進するが、同時にインセンティブを低下させる可能性がある。従って、政府は、両 者のトレードオフを考慮しつつ、社会厚生を最大化する所得税制を検討していく必要があ る。 一定の税収を確保しながら、社会厚生を最大化する所得税制を考察する枠組みとしては、 Mirrlees (1961)により導入された最適所得税理論に基づく分析がある。最近では、Diamond (1998)や Saez(2001)等の新しい最適所得税理論の枠組みにより、能力の分布、労働供給ま たは課税所得の弾力性等に基づき、より現実的な形で最適な所得税制を導出することがで きるようになった。Saez の研究は、学界でも高い評価を受け、米国経済学会のジョン・ベ イツ・クラーク・メダルを受賞するとともに、オバマ大統領の所得再分配機能強化の政策 にも影響を与えている。 我が国については、國枝(2007)が、新しい最適所得税理論の枠組みを用いて、我が国の最 適な最高限界税率について推計を行った。推計を行う際に必要な労働供給の弾力性につい ては、別所(2006)の推計値を用い、高額所得者の分布については、1982 年までの高額所得 者番付を用いた溝口(1987)のパレート係数の推計値を利用し、最適な最高限界税率を導出し た。推定された最適な最高限界税率は、多くの場合、現行の我が国の国税・地方税合計の 最高税率 50%を上回るものであった。ただし、最適な最高限界税率の導出に利用した溝口 (1987)の推計は、1975 年から 1982 年の古いデータに基づくものであり、最近の我が国に おける所得分布の状況は当時とは異なっている可能性がある。また、Feldstein(1999)は、 労働供給の弾力性よりも課税所得の弾力性の方が課税の経済厚生を考える上で適当である と主張しており、課税所得の弾力性に基づいた最適な最高限界税率の推計も検討すること が望ましい。 そうした点を踏まえ、本稿においては、2003 年の高額納税者番付により新たに高額所得 者の所得分布のパレート係数を推計した上、我が国の課税所得の弾力性の実証研究のこれ までの成果に基づき、新しい最適所得税理論の枠組みを用いて、最適な最高税率を推計す る。第2節では、我が国の高額所得者分布について、パレート係数の新しい推計を行う。

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第3節においては、課税所得の弾力性についての過去の実証研究につき概観する。第4節 において、新しい最適所得税理論の枠組みにつき説明した上、第5節において、我が国に おける最適な最高税率を推計する。第6節において、課税ベース、源泉徴収・年末調整制 度と課税所得の弾力性の関係について論じ、最後に本稿の結論を簡潔に述べる。 2.我が国の高額所得者の所得分布 (1) 米国における高額所得者の所得分布 我が国の高額所得者の所得分布を見る前に、米国における先行研究を見てみる。米国に おける高額所得者の所得分布については、Saez(2001)がパレート分布として近似するのが 適当なことを示している。 具体的には、ある能力水準w0以上のwの分布が、次のパレート分布に従うと仮定する。 α α

α

+

=

(

10

)

)

(

w

w

w

f

(1) ここで、αは、パレート係数である。高額所得者の所得分布がパレート分布に従う場合、 αが大きいほど、所得分配は平等と考えられる。パレート分布においては、次の(2)式の値 は1/αで一定となる。

α

α

α α α

1

]

)

(

)

(

[

)

(

)

(

)

(

1

1 0 0

=

=

⎛ −

+

w

w

w

w

w

w

f

w

w

F

(2) Saez(2001)は、1992 年および 1993 年の税務申告データを用い、米国の所得分布において、

⎛ −

)

(

)

(

1

w

f

w

w

F

が労働所得20 万ドル以上の範囲において 0.5 周辺で一定であることを示して いる。これは、米国の労働所得 20 万ドル以上の所得分布をα=2 のパレート分布で近似す ることが適当であることを示している。

もっとも、高額所得者の分布状況は、時代によって変化しうる。Feenberg and Poterba (1992)は、パレート係数が、1970 年代初めの約 2.5 から 1980 年代後半には約 1.5 に低下し たと指摘し、高額所得者への所得集中が進んだことを指摘している。さらに長期間の米国 の高額所得者の所得分布を分析したPiketty and Saez(2003)は、1970 年代からスーパーリ ッチへの所得集中が始まったことを明らかにしている。同推計に基づき、Saez(2004)にお

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いては、パレート係数として、1.6 が用いられている。 (3) 日本の高額所得者の所得分布:高額納税者番付に基づく推計 ① 先行研究 日本の高額所得者の所得分布についての研究は、高額所得者に関するデータ自体が少な いこともあり、筆者の知る限り、非常に限られている。先行研究としては、まず1977 年の 「家計調査」の調査結果に基づきパレート係数を約1.3 とした青木(1979)があるが、最近の 実証研究の推計値と比較して非常に小さい値となっており、高額所得者層のカバレッジに つき十分だったかについては、疑問がある 、2 國枝(2007)においては、溝口(1987)の推定結果等を用いて、我が国の最適所得税制につき 推計を行った。具体的には、溝口(1987)は、国税庁が毎年公表していた高額所得者のデータ のうち、トップ3000 の標本を用いて、1962 年~1982 年の間のパレート係数の推計を行っ ている。そのうち、比較的新しい 1975 年から 1982 年の推計値の単純平均を取ると、α =2.5406 となり、國枝(2007)ではこの値を最適な最高限界税率の推計に用いている。このパ レート係数は、米国(α=2 または 1.6)に較べて、高額所得者の所得分布がより平等(す なわち、スーパーリッチの比率が少ない)であることを示している。 最近では、岩本・濱秋(2008)が、1997 年・2000 年・2003 年の「国民生活基礎調査」の 所得表の個人の総所得を用い、分析を行っている。具体的には、各観測値につきそれ以上 の所得者の平均所得と当該者の所得比を計算し、総所得が2,000 万円台以上で、1.5 前後の 値でその比率が推移する傾向を見出している。(ただし、米国のSaez(2001)の研究では、同 比率は2 に収束しつつあるように見えるが、岩本・濱秋(2008)のデータでは、徐々に低下し ている。)パレート分布の下では、同比率は、α/(α-1) (ここでαはパレート係数) に等しい。しかし、同論文でも指摘してされているように、「国民生活基礎調査」には十分 な数の高額所得者が含まれていないという難点がある。

他方、Moriguchi and Saez (2008)は、マイクロデータではなく、国税庁統計年報の所得 階層別の統計に基づき、1886 年から 2005 年までの高所得者の所得分布の分析を行い、1970 年代以降、スーパーリッチへの所得集中が進んだアングロサクソン諸国と異なり、我が国 においては、ヨーロッパ大陸諸国と同様に、スーパーリッチへの所得集中が進んでいない 2 青木(1979)においては、1977 年の「家計調査」の調査結果に基づき、「標本集団の全家 計のうち上位30%程度の階層にたいしてはパレート関数はほどよいフィットを示す」(同 書65 ページ)と指摘し、その場合のパレート係数αの値は約 1.3 としている。α=1.3 とい うパレート係数は比較的小さいもので、当時の日本の高額所得者の所得分布が(高額所得 者層の密度が高いという意味で)より不平等であった可能性を示しているが、一般的な家 計調査は高額所得者層につき十分な標本を収集しているか、疑問が残る。

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ことを指摘している。もっとも、同論文の分析結果(同論文第4図)を精査すると、アン グロサクソン諸国ほど急激ではないが、1980 年代以降、我が国の高額所得者の所得の占め るシェアは徐々に増加しつつあるように見える。(例えば、戦後しばらく約12%で安定して いたトップ1~5%の高額所得者のシェアは、2001 年には約 16%に増加している。)しかし、 同論文は、マイクロデータに基づく分析ではなく、国税庁統計年報の所得階層別の統計に 基づくもので、マイクロデータに基づく分析に較べると、限定的な分析となっていること は否めない。 ② 高額納税者番付に基づく高額所得者の所得分布の分析 本稿においては、いわゆる高額納税者番付を用いて、我が国の高額所得者の所得分布に ついて新しい推計を行う。高額納税者番付は、課税所得の高い納税者のランキングである 高額所得者番付と異なり、納税額の高い納税者のランキングである。1982 年までは、課税 所得額が公表されていたが、1983 年以降は、課税所得額の代わりに、納税額が公表される ようになった。(溝口(1987)が、1982 年の所得まで分析対象としていたのは、このためであ る。)いわゆる高額納税者番付は、国税庁により公表された納税者および納税額をマスコミ その他の機関が集計し、作成したランキングのことを言う。しかしながら、高額納税者公 示制度については、そのデータが犯罪等に利用される可能性があること、また、2005 年 4 月の個人情報保護法の趣旨に照らし問題があること等の理由で、2004 年分の高額納税者の 公示をもって、廃止されることとなった。 本稿においては、高額納税者公示制度廃止の1年前の2003 年分の所得に係る高額納税者 番付を利用して、高額所得者の所得分布について考察する。具体的には、国税庁(税務署) が(旧)所得税法233 条に基づき 2004 年 5 月 17 日に公示した高額納税者(2003 年中の 所得に係る所得税納税額が 1,000 万円超の個人)のデータを収録した、総合法務保障有限 会社の「ザ・長者番付!」(2004 年度版統計用)データベースを利用する。(同データベー スは、公示日(2004.5.17)を基準に年度を付しているため、2004 年度版となっているが、内 容は、2003 年の所得に係る所得税納税額に関するデータである。) 同データベースでは、 73936 名の納税額が収録されている3。国税庁(税務署)で公示されたデータは、各納税者 の納税額のほか、氏名・住所・所管税務署であるが、プライバシー保護の観点から、同デ ータベースには、氏名や詳細な住所までは収録されていない。 さらに、同データベースにおいては、独自に納税額から課税所得の推計を行っている。 具体的には、推定所得(推定課税所得)は以下の計算式により求められている(単位は千 3 国税庁発表の公示件数は、全国 73959 名である。個人情報保護法に基づき、完全削除が 求められた件数が4 件なので、「ザ・長者番付」収録の件数との間には若干の乖離があるが、 各税務署からの公示内容を、番付作成会社が集計する形を取るため、そうした若干の乖離 は避けられないと説明されている。(「ザ・長者番付」ご利用の手引き参照)

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円)。 [推定所得(推定課税所得)]=([納税額]+2490 + 250)÷ 0.37 (3) 2003 年の 3,000 万円超の所得に対する所得税制においては、税率が 37%、控除額は 249 万円、定率減税額が25 万円(上限額)であるため、上記のような計算式により一般的な推 定所得(推定課税所得)が算出されるとしている。その際、税額控除については個々人に より大きく異なるため考慮していない。(従って、配当控除額等が大きい場合は、実際の課 税所得よりも推定額は小さく計算されることになる)。 ただし、これはあくまでもおおまかな推定所得(推定課税所得)であり、実際の課税所 得とは異なっている場合がありうる。また、推定課税所得にさらに所得控除額を加えた所 得は、一般的に課税所得よりも大きくなる4。(以上の説明は、「ザ・長者番付」ご利用の手 引きの記述による。) こうした問題があるものの、各個人の所得の内容が公示されていない以上、納税額のみ から各種控除を含めた所得を正確に推計することは不可能であり、本稿では、上記の(3)式 で推計された推定所得に基づき、所得分布を考察する。 所得分布のパレート係数αについては、観測値から次の(4)式に基づき、不偏推定量を求 めることができる(蓑谷(1998)) 1 1 min

ln

)

2

(

− =

⎟⎟

⎜⎜

=

n i i

w

w

n

α

(4) ここで、wminは、観察値wi中の最小値。n は観測値数である。 「ザ・長者番付」データベースの収録件数のうち、トップから n 番目までの高額所得者 の所得金額wi (i=1~n)を対象に、パレート係数αを推計する。様々な n について、パレー ト係数αを推計した結果は表2 のとおりである。 4 「ザ・長者番付」ご利用の手引きの説明によれば、基礎控除 38 万円分は確実に大きくな るほか、一般的には250 万円程度の所得控除があることが多いとされる。さらに、これに 特別控除額等を加えた利益金額は、所得の種類により場合によってはかなり大きくなる可 能性がある(居住していた不動産の売却・収用や特定中小会社の新規公開株式譲渡の場合 など)。

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表2 トップ n 人の高額所得者の所得分布のパレート係数(2003 年) 対象人数(トップ n 人) 最低所得金額 wmin (千円) パレート係数α の推計値 100 773865 2.396 200 517251 2.021 300 434324 2.105 500 342284 2.106 1000 241795 2.053 2000 172651 2.053 3000 144311 2.114 4000 125689 2.105 5000 113392 2.118 10000 83576 2.190 20000 61857 2.246 30000 52054 2.281 40000 45722 2.264 50000 41389 2.260 60000 38014 2.239 70000 35373 2.249 (出所)筆者作成 トップ 100 人については、他の場合と比較して、パレート係数の推計値が特別に高くな っているが、トップ200 人からトップ 5000 人までの間では、パレート係数の推計値は、2.1 前後で変動している。より多くの高額納税者をカバーしたトップ10000 人から 70000 人に ついては、パレート係数は少し高めで、推計値は約2.2 前後から 2.3 の近くまでの間になっ ている。 トップ100 人の場合を除き、対象者内の最低所得金額 wminに対し、パレート係数αの推 計値をプロットしたのが、図2である。最低所得金額wminが1億円を超えたあたりから、 パレート係数の推計値は、α=2.1 前後で安定している。従って、本稿では、パレート係数 α=2.1 の場合を基本ケースとして、最適な最高税率を推計する。また、上述のように対象 人数が大きい場合(トップ10000 人から 70000 人)では、推計値は約 2.2 前後から 2.3 の 近くになっていることに鑑み、参考にパレート係数α=2.25 の場合についても、最適な最 高税率を推計する。 この結果を、1984 年以前の高額所得者番付データを利用して、高額所得者の所得分布の パレート係数を推計した溝口(1987)と比較してみる。溝口(1987)においては、最大でトップ 3000 人のデータによる推計がなされていたが、1962 年から 1982 年まで、トップ 3000 人 のデータから推計されたパレート係数の抜粋は、表3のとおりである。

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表3 溝口(1987)のパレート係数の推計値(トップ 3000 人) 年 パレート係数の推計値 1962 2.224 1963 2.180 1964 2.219 1965 2.235 1966 2.300 1967 2.519 1968 2.305 1969 2.064 1970 2.197 1971 2.291 1972 2.417 1973 2.849 1974 2.482 1975 2.176 1976 2.672 1977 2.563 1978 2.615 1979 2.651 1980 2.528 1981 2.743 1982 2.488 (出所)溝口(1987) 表4 2003 年の高額納税者番付に基づいたトップ 3000 人についてのパレート係数の推計値は、 α=2.114 であるが、これは、溝口(1987)の 1962 年から 1982 年の間の推計値と比較し ても、2番目に低い値である。特に、國枝(2007)で用いた直近の 1975 年から 1982 年の 平均値α=2.5406 と比較すると、0.4 以上小さい値となっている。今回の推計値は、高 額納税者番付の納税額データに基づき、単純な推計式で計算した課税所得の分布につき 推計したものであるのに対し、溝口(1987)の推計値は、高額「所得」者番付の所得デー タ自体から推計したものであり、直接比較はできないものの、2003 年の高額納税者番 付に基づき推計されたパレート係数が、1980 年代初めまでの推計値と比較して、より 小さい値になっていることは、我が国の高額所得者の間においても、1980 年代以降、 より上位のスーパーリッチに所得が集中した可能性を示している。そうした見方は、上 述した Moriguchi and Saez (2008)において、1980 年代以降、我が国のスーパーリッチの 所得の占めるシェアが徐々に増加しつつあるように見えることと整合的である。

なお、高額所得者の属性も現実の高額所得者への課税を考える際には、重要である。國 枝(2007)においては、2004 年の高額納税者のトップ 100 につき、パチンコ関連、消費者金 融関連、マルチ・レベル・マーケティング(MLM)、またはネットワーク・ビジネス等の規

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制のすき間に生じる一種のレントに基づき、高所得を得ていると見られる者が少なくない ことを指摘している。そうしたレントについては、高率の課税を行うことが経済効率上の 観点からも望ましい。 3.課税所得の弾力性 (1) 米国等での課税所得の弾力性の推計値 米国における課税所得の弾力性に関する推計の嚆矢は、Lindsey (1987)による課税所得の 弾力性の推計である。Lindsey(1987)は、1981 年のレーガン第1次税制改革前後の税務申 告のデータを用い、課税所得の弾力性を推計し、1.6~1.8 を中心とした高い弾力性を見出 した。また、Feenberg and Poterba (1992)は、課税所得で見た場合、1980 年前半には高額 所得者の所得のシェア増大のスピードはそれほど大きくないのに、1986 年税制改革以降の 1987 年・1988 年に急増しており、税制改革の影響と見るのが自然との指摘を行なった。さ らに、Feldstein (1995)は、1986 年税制改革前後の高額所得者と平均的な所得者の課税所得 の変化率の差をパネルデータを用いて調べ、減税幅の大きかった高額所得者の課税所得の 変化率が大きいこと示し、税率低下に対する課税所得の弾力性につき、1 から 3 以上という 非常に大きな推計値を得ている。 こうした大きな推計値については、所得階層別に所得増加のトレンドが異なる可能性を 勘案していないとの批判がなされた。1980 年代以降、技術革新やグロバーリゼーションを 背景に、高額所得者の所得が他の所得階層よりも高い成長を示したことが知られており、 そうした事実を勘案しないで、単純にdifferences in differences を適用すると、課税所得 の弾力性は過大に評価される。また、一時期だけ急に高い所得を得た者の所得が、次の期 には減少する傾向にあるという平均の回帰(mean reversion)の影響も勘案する必要がある ことが指摘されている。 さらに、Slemrod(2000)は、課税所得の変化において実質的な反応よりも、租税回避の手 段の一つであるインカム・シフティングの影響が大きいのではないかと指摘している。例 えば、法人税と個人所得税の格差の変化に対応して、通常の C 法人から個人所得税の対象 となるS 法人に課税上の法人形態を変更したことがあげられる。また、Goolsbee(2000)は、 課税所得の変化の中には、ストックオプションの増税前の行使など、タイミング上の反応 によるものも多いのではないかと指摘した。増税前にストックオプションの行使が増えれ ば、増税後のキャピタルゲイン所得が一時的に減少するので、増税によりキャピタルゲイ ン所得が減少したように見えるが、長期的には影響は少ないとの指摘である。 その後も課税所得の弾力性につき議論が続けられているが、過去の推計結果を踏まえな がら、課税所得の弾力性の推計を行なったGruber and Saez (2002)は、課税所得の弾力性

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を約0.4 (0.396)と推計した。他方、課税所得ではなく、各種の控除の前の段階の総所得(broad income)についてははるかに小さな弾力性(0.071)を見出している。このことは、課税所得の 反応の多くは実質的な反応というよりも、租税回避のための反応の側面を有することを意 味するものと考えられる。

その後、Giertz(2007)は、Gruber and Saez(2002)の手法を 1971~2001 年までのより大 きなパネルデータに適用し、課税所得の弾力性は1990 年代には 0.20 と、1980 年代の数値 の約半分に低下していることを指摘している。他方、各種の控除前の粗所得(gross income) の弾力性は、1980 年代は 0.12、1990 年代は 0.15 と増加している。これは、Kopczuck(2005) が指摘したように、税制により課税所得の弾力性自体が変化しうることを示唆している。 例えば、活用することのできる控除の数が制限されれば、租税回避の余地は少なくなり、 課税所得の弾力性は低下すると考えられる。 以上のように、米国においては、課税所得の弾力性につき様々な実証研究がなされてい るが、そうした実証研究のサーベイを行ったSaez, Slemrod and Giertz (forthcoming)は、 課税所得の長期の弾力性に関する信頼できる推計値は、0.12~0.4 と結論づけている。 (2) 我が国における課税所得の弾力性の推計 課税所得の弾力性に関する実証研究は、我が国においてはきわめて少ないが、内閣府政 策統括官(2001)は、differences in differences の手法を用いて、課税所得の(税引き後)賃 金に係る弾力性を、0.074 と推計した。具体的には、1995 年の所得税減税につき、「国民生 活基礎調査」の94 年と 96 年の個表データを用い、同減税で適用限界税率が引き下げられ た者をtreatment group、適用限界税率が引下げとならなかった者を control group とし、 differences in differences の手法で、課税所得の弾力性の推計を行い、(1-限界税率)に 対する弾力性として、0.074 の値を得ている。この数値は、米国の実証研究による推計値と 比較しても非常に小さいものである。1995 年の税制改正は、累進度緩和のための高所得層 に有利な減税であったため、treatment group に高所得者が多く含まれると考えられるが、 所得階層ごとの所得増加のトレンドの影響を除去する等の手法は用いていない単純な推計 であり、経済格差拡大のトレンドを除去した場合、課税所得の弾力性はさらに小さくなり うる。 他方、八塩(2005)は、1999 年(および 1995 年)の所得税・住民税合計の減税が、事業 所得者の課税所得に与えた影響について分析している。具体的には、「税務統計から見た申 告所得税の実態」(国税庁)の各所得階層の集計データから所得の分布関数を独自の方法 (詳細は八塩(2005)参照)で推計した上、上位2万人(treatment group)とその次の4万人 (control group)の2つのグループに対応する課税所得と税額を計算する。両者の間で所得増 加のトレンドが異なる可能性を考慮し、Goolsbee(1999)に従い、second order differences in

(11)

differences の手法を用いて、課税所得の(1-税率)に対する弾力性を推計している。1995 年および1999 年の両方の税制改正の効果を合わせて見た推計値では、トレンドを無視した 推計では、課税所得の弾力性は、0.322 であったものが、トレンドを勘案した推計では、0.053 とずっと小さな推計値となっている。その場合、上位2万人とそれに次ぐ4万人の所得の トレンドの差は年率2%程度ずつ拡大していることになる。八塩(2005)の分析は、内閣府政 策統括官(2001)の個表データに基づく分析に比較すると、集計データに基づく推計であり、 また税務統計データの制約から弁護士・医者等の税務統計上、「その他事業者」と分類され る者のみを対象としているという問題点はあるものの、所得階層ごとの所得増加のトレン ドの差異の可能性を勘案している点で優れている。 さらに、最近の北村・宮崎(2009)は、「全国消費実態調査」の 1994 年・1999 年・2004 年の個票データを用いて、繰り返しクロスセクション・データによるdifferences in differences 分析を行い、課税所得の弾力性を 0.18 程度とした。具体的には、1995 年およ び 1999 年の税制改正に着目して、上位 0.25%、0.5%および 1%の所得階層をtreatment groupとし、他方、上位 2-5%、2-50%および 6-50%をcontrol groupに設定し、differences in differencesの手法で課税所得の弾力性を推計している。ただし、課税所得の中には、利子・ 配当所得も含まれている。また、所得階層による所得増加のトレンドが異なる可能性につ いても考慮している5。推計された課税所得の弾力性は、treatment groupの設定によりか なり変化するが、そのうち、上位0.25%の所得階層をtreatment groupとした推計が最も適 切として、0.18 程度を課税所得の弾力性の推計値としている。0.18 の弾力性の推計値は、 我が国の先行研究と比較すると大きいが、Saez, Slemrod and Giertz (forthcoming)が、米 国における課税所得の長期の弾力性に関する信頼できる推計値とした 0.12~0.4 の範囲に 含まれている。 以上のように、これまでの実証研究は、我が国の課税所得の弾力性を比較的小さい0.053 ~0.18 と推計している。データの制約から、パネルデータに基づく分析がないなど、今後 のさらなる研究が求められる点もあるが、本稿においては、既存の研究で得られた推計値 に基づき、我が国における最適所得税制を考察する。 4.新しい最適所得税理論の基本的枠組み (1) 新しい最適所得税理論の枠組み 最適所得税理論においては、各個人の効用水準に基づく社会厚生関数を最大化する所得 税制をもって、最適な課税とする。具体的には、wの能力を有する個人が分布関数

F

(w

)

に 5 パネルデータの場合に問題となる平均への回帰の影響については、北村・宮崎(2009)では、 繰り返しクロスセクション・データを用いた分析のため、問題とならない。

(12)

従って0 から∞の範囲に分布していると仮定する。6 各個人は、効用関数u(Y-T(Y), L)を有 しており、所得Y(=賃金水準w×労働時間L)から所得税T(Y)を差し引いた額の消費から 効用を得て、同時に労働時間Lから不効用を得る。能力wの個人が効用最大化により選んだ 労働時間をL(w)とすると、能力wの個人の支払う所得税額はT(Y)=T(Y(w))=T(wL(w))とな り、効用水準は、wの関数 u(wL(w)-T(wL(w)), L(w))で示されるが、これをU(w)と定義する。 その上で、社会厚生関数(

W

=

G

(

U

(

w

))

dF

(

w

)

)を想定し つ(す なわち、

T

(

wL

(

w

))

dF

(

w

)

R

(ここ 与の税収額))、社会厚 生関数を最大化する所得税関数T(Y)を導出する。 ∞ 0 で、R 、一定の税収を確保しつ は必要とされる所 ∞ 0 Diamond (1998)の論文は最適所得税理論の基本的枠組みに従っても、現実の U 字型の税 率構造に似た税率構造が最適となる可能性が大きいことを示し、注目を浴びた。Diamond (1998)は、明確な形で最適な税率構造に関する結論が出せるよう、quasi-linear な効用関数 u(C, L)=C – v(L)を仮定し、最適所得税率の公式を導出した。(この効用関数の下では、消 費からの限界効用が一定で、労働供給の所得効果はゼロとなることに留意。)導出された公 式は以下のとおりである。なお、導出の詳細については Diamond (1998) および Salanie (2003)を参照されたい。

Y

T

Y

T

'

(

)

1

)

(

'

(5)

C

B

A

×

×

=

ここで

⎟⎟

)

(

1

Y L

w

ε

⎜⎜

+

= 1

A

⎟⎟

)

(

)

(

Y Y

w

f

w

F

⎜⎜

⎛ −

=

1

Y

w

B

⎟⎟

⎜⎜

=

)

0

(

)

(

1

D

w

D

C

Y wY : Y=Y(wY)を充たす w εL: 労働供給の(税引き後)賃金に対する補償弾力性

w

G

U

x

f

x

dx

w

F

w

D

'

(

(

))

(

)

)

(

1

1

)

(

:[w, +∞]の区間における G’の平均 この公式においては、望ましい限界税率(T’(Y))を決定する3つの要因 A,B,C という明 6 能力は、skill とも呼ばれる。能力は個人の労働生産性を意味し、各個人の能力は、その 賃金水準wに正確に反映されると仮定する。

(13)

確な形で右辺に現れる。まず、右辺のAの値は、労働供給の弾力性(εL)が高い場合には小さ くなる。労働供給の弾力性が高い場合には、同じ税率でもより大きな厚生損失が生じるこ とを考えれば、労働供給の弾力性が最適所得税率の有力な決定要因であることは容易に理 解できる。 Bの分子である(1-F(wY))は、ある賃金水準wYよりも高いwを有している個人の割合を示 している。あるwYに対する限界税率が引き上げられた場合、その賃金水準以上の賃金の個 人の所得税額も増加する。従って、1-F(wY)が大きければ、所得税額が増加する納税者の数 が増え、限界税率の引上げにより多額の税収が得られるため、より高い限界税率への引上 げが望ましくなる。他方、限界税率の引上げは、その限界税率に面した個人のインセンテ ィブを引き下げ、労働供給を減少させる可能性がある。それによる税収減の総額は、Aに ある労働供給の弾力性のみならず、賃金水準wYおよび限界税率の増加に直面する個人の数 (労働供給自体の密度関数 f(wY)が対応する。)にも依存する。従って、Bの分母に当たる wf(wY)が大きい場合には、対応するwYについての限界税率は(他が同じであれば)低い方 が望ましいこととなる。 さらにCの値は、社会厚生関数の限界的な増分の、ある賃金水準wY以上の能力を持つ個 人のみについての平均(D(wY)に対応)と個人全員についての平均(D(0)に対応)の2つの平 均の比(D(wY))/D(0))に依存する。一般に社会厚生関数において、より裕福な者に相対的に大 きなウエイトが付されることは考えられないため、この比の値が1より大きくなることは 考えられない。逆に、社会厚生関数において、裕福な者により小さなウエイトが付される (すなわち、相対的に貧しい個人により大きなウエイト)を付すと、この比は1よりも小 さくなっていく。従って、この比の値を1から控除することで得られるCの値は、相対的 な貧しい個人により大きな社会厚生関数上のウエイトを付される場合に大きくなり、望ま れる限界税率もより大きなものとなる。極端なケースとしては、ロールズ型の社会厚生関 数の場合には、最も能力のない個人の効用最大化のみを考えるので、最下限の w の個人以 外について(D(wY))/D(0))=0 が成立し、Cの値は1となる。 結局、①労働供給の弾力性がより低い場合、②考察している限界税率の対象である個人 よりも能力が高い個人が多い場合、③考察している限界税率が適用される個人の数が少な い場合、④社会厚生関数において、貧しい個人により相対的に大きなウエイトが置かれる 場合に、最適な限界税率は高くなることとなる。 上述の4つの要素のうち、労働供給の弾力性と社会厚生関数における貧しい個人に付さ れるウエイトは、それぞれ個人の効用関数の形状や社会厚生関数の形状により決まってく る。これに対し、②および③については、個人の能力(およびそれに対応した賃金水準) wの分布具体的な形状により、決まってくる。 ここでは、特に高額所得者に対する課税を中心に考察する。まず、賃金水準の上限値wmax が存在する場合を考えよう。この場合、定義によりwmax を上回る能力を持つ個人は存在し ないので、1-F(wmax)=0 となり、(5)の2番目の括弧内の値が 0 となり、望ましい限界税率

(14)

は0 となる。(この結論は、Sadka(1976) や Seade(1977)により指摘されている。)しかし、 上限値が存在しないような個人の能力分布を前提にすると、そうした単純な含意は得られ ない。賃金水準w が増加していくと上限値はないとしても、(5)式の B の分子である 1-F(w) は次第に減少し、0 に近づいていく。しかし、他方、賃金水準 w の分布は一般に単峰型で あり、wが増加するのに伴い、B の分母に含まれる f(w)も減少し、0 に近づいていくため、 (5)式のBの値が逓増するのか、逓減するのかは、具体的な分布の形状に依存する。従って、 高額所得者につき最適な限界税率は逓増的なのか、逓減的なのかも、具体的な分布の形状 がわからないと結論が出せないこととなる。 従来のシミュレーションにおいて、Mirrlees(1971)の論文以来、一般的によく仮定されて きたのは、対数正規分布であったが、一般に高額所得者の所得分布については、パレート 関数に従う所得分布となっていることが知られている。7(元々、パレート分布自体がPareto による高額資産家の資産額の分布の研究から見出されたものである。)従って、高額所得者 に対する最適所得税を検討する際には、対数正規分布ではなく、パレート分布を前提に分 析を行なうことが適当と考えられる。パレート分布の場合、(2)式で示したように、(5)式の Bの値は、1/αで一定となる。 仮に、労働供給の弾力性εLも一定だとすると、(5)式の A の値も一定となる。従って、望 ましい限界税率がw の増加に伴い、増加するか、減少するかは、(5)の C の値の動向によっ て決定されることとなる。社会厚生関数において、個人に対して付された社会厚生上のウ エイトが当該個人の賃金 w が増加するにつれ、徐々に減少する場合には、あるw以上の個 人に付されたウエイトの平均に対応する D(w)も、w の増加に伴い、減少していく。D(w) が減少してければ、C の値は、次第に増加し、1に近づいていく。この場合には、(5)式よ り、最適な限界税率は、高額所得者につき逓増的なものとなる。このように、従来の多く の分析と異なり、高額所得者の所得分布につきより現実的なパレート分布を想定すること により、現実の所得税制と同様の逓増的な限界税率が望ましいことが明らかになった。こ の点が、Diamond(1998)の重要な貢献である。 最適な限界税率の具体的な値を導出するには、労働供給の弾力性およびパレート分布関 数に加え、社会厚生関数についての仮定が必要となる。Diamond (1998)に倣い、社会厚生 関数において最も能力の高い個人に付されるウエイトを示す次のパラメーターgを定義す る。

))]

(

(

'

[

)

(

'

w

U

G

E

G

g

=

(6) この定義よりすぐにg = D(∞)/D(0)である。労働供給の弾力性εLが一定であり、高額所得者 7 そもそも、所得分布(すなわち、w×L(w)の分布)が、能力wの分布と一致するのかとい う問題があるが、ここではその問題は捨象して分析を進める。

(15)

の能力の分布がパレート係数αのパレート分布に従うとすると、g を用いれば、最適な(漸 進的な)最高限界税率 T’(∞)は、次の簡単な公式で示すことができる。(Diamond(1998), Salanie(2003))

)

1

)(

1

(

)

1

)(

1

(

)

(

'

g

g

T

L L l

+

+

+

=

ε

αε

ε

(7) 従って、高額所得者の所得分布のパレート係数αおよび労働供給の弾力性εLがわかれば、あ とはふさわしいgを想定すれば、最適な最高限界税率が計算できることになる 。8 (2) 課税所得の弾力性と最適所得税 過去においては、労働所得税の厚生分析を行う際に問題にされたのは主に労働供給(通 常、労働時間で測定されてきた)の弾力性であったが、多くの実証研究(Hausman(1981) 等の一連の研究を除く)においては、男性労働者(primary male worker)の労働供給の弾力性 は小さいことが知られ、労働所得税による厚生低下は必ずしも大きくないのではないかと 考えられていた。これに対し、労働所得税のディスインセンティブ効果としては、労働時 間だけではなく、労働の強度(intensity)も重要であり、それが賃金率に反映されるとすれば、 課税所得(=賃金率×労働時間)への影響を見る方が望ましいとの批判があり、上述の Lindsey(1987)を嚆矢とするいくつかの実証研究は、課税所得の弾力性が大きいと指摘し、 やはり労働所得税のもたらす厚生低下は大きいと主張した(Feldstein(1995)) しかし、上述のように、Slemrod、Goolsebee らの実証研究により、課税所得の弾力性は 一時的なものであるか、あるいは租税回避行動によるものが中心であり、労働の強度への 影響は必ずしも重要でないことが明らかになり、Feldstein(1995)らの主張に疑問が呈され た。 こうした批判に対し、Feldstein (1999)は、仮に課税所得の変化の中心が租税回避による ものだとしても、経済厚生を論じる上では、課税所得の弾力性に着目するのは正しいと主 張した。すなわち、租税回避行動も個人の効用最大化に基づく行動だとすれば、労働所得 課税強化により租税回避行動が誘発されるならば、それも労働所得税のもたらした歪みの 8 (7)式は、効用関数が quasi-linear であり、労働供給の所得効果が存在しないことを前提 にしているが、現実には一定の規模の労働供給の所得効果が存在すると考えられている。 この点を踏まえ、Saez(2001)は所得効果がある場合の最適な(漸進的)最高税率が以下の 公式となることを示している。

)

1

)(

1

(

)

(

)

1

)(

1

(

)

(

'

r

g

r

g

T

u L u L u l

+

+

+

+

=

ε

ε

α

ε

εLu : 労働供給の賃金に対する非補償弾力性 r : 所得効果

(16)

一つであり、経済厚生への影響を考える上では、租税回避行動の影響も含んだ課税所得の 弾力性に着目した厚生分析が、労働供給の弾力性のみに着目した厚生分析よりも適切であ るとの考え方である。國枝(2007)においては、主に労働供給の弾力性の推計値に基づき我が 国における最適所得税率を推計したが、こうした考え方を踏まえれば、課税所得の弾力性 に基づく最適所得税率の推計も行うことが望ましい。本稿においては、上述の課税所得の 弾力性の推計を用いて、我が国の最適所得税率を考察する。 ただし、Slemrod (2000)が強調するように、その場合の課税所得の弾力性は、税制全体 への影響および時間を通じた影響を含めた弾力性でなければならない9。また、課税所得の 弾力性が租税回避行動への影響を中心に反映しているとすれば、課税所得の弾力性は課税 ベースや税務執行のあり方により変化しうるものであると考えられる。上述のように、米 国における実証研究も課税所得の弾力性が税制改革を反映して、年代により異なることを 示しており、そうした見方を裏付けている。その場合には、最適税制の研究においては、 最 適 な 課 税 ベ ー ス や 税 務 執 行 の あ り 方 も 含 め て 考 察 す る 必 要 が あ る こ と に な る (Kopczuk(2005))。 また、Chetty(2009)は、税制の経済厚生を考慮する際に課税所得の弾力性に基づく経済 厚生分析が適切とするFeldstein(1995)の主張に対し、租税回避の費用の一部は他の者の所 得に転じただけにすぎないものも含まれていること、個人の中には租税回避の費用を過大 評価している者もいること等から、課税所得の弾力性のみに基づく経済厚生の評価は、経 済厚生の低下を過大に評価している可能性があることを指摘している。 こうした課税ベースおよび税務執行まで含めた議論については、第6節で論じることと する。 5. 我が国における最適な最高限界税率の推計 (1) 米国における最適な最高限界税率の推計 上述の新しい最適所得税理論の枠組みに従い、Saez(2001)は、一定の効用関数を仮定 した上で、米国における最適な最高限界税率を推計し、補償弾力性が0.25 の場合には 81%、 0.5 の場合には 69%となることを示した。Gruber and Saez (2000)は、所得階層ごとに推計 した課税所得の弾力性を用い、所得階層ごとの最適限界税率を推計しているが、その最適 な最高限界税率は、弾力性の低い総所得に対する税率では、73%、弾力性のより高い課税所 9 例えば、個人所得税の引下げにより、通常の法人から個人所得税の課税対象になるS法人 へのシフトが起こった場合、個人所得税の税収増のみならず、シフトに伴う法人税の減収 分まで含めて、税収への影響を見る必要がある。また、ストックオプションで増税直前の オプション行使により税収増があった場合は、増税直後にオプション行使の数が一時的に 減少することまで含めて、増税の影響を考える必要がある(Slemrod (2000))。

(17)

得に対する税率では49%となっている。(所得階層別では、高額所得層ほど弾力性が高い推 計となっているので、限界所得税率構造全体は、U字ではなく、逆U字に近くなっている。 ただし、巨額の定額の所得移転を前提にしているので所得税制全体としては、非常に累進 的になっている。)

(2) 日本における最適な最高限界税率の推計

我が国においても、入谷(1984)、山田(1988)、Atoda and Tachibanaki (2001)等による最 適な最高限界税率の推計が存在したが10、Diamond(1998)およびSaez (2001)で示された新 しい最適所得税理論の枠組みを本格的に適用したものではなかったため、國枝(2007)は、新 しい最適所得税の枠組みに基づき、最適な最高限界税率を推計した。その際、高額所得者 の所得分布の仮定においては、溝口(1987)の高額所得者番付を用いた推計を用い、また、労 働供給の弾力性の仮定においては、別所(2006)の推計値を用いた。その結果、低所得者に対 する社会厚生関数のウエイトが低い場合(g=0.25 未満)を除くと、最適な最高限界税率は 50% 以上であり、現行の我が国の所得税+住民税の最高税率である 50%の引上げを考慮する余 地があることを指摘している。 また、岩本・濱秋(2008)においては、上述の「国民生活基礎調査」に基づく実証結果も踏 まえ、パレート係数をα=2.5、課税所得の弾力性ε=0.2 と想定したときの最高税率が 67% となることを指摘している。 本稿においては、國枝(2007)と異なり、高額所得者の所得分布のパレート係数として、上 述の 2003 年度高額納税者番付に基づき推計した新しい推計値(基本値α=2.1、参考値α =2.25)を用い、また、Feldstein(1995)の指摘を受けて、労働供給の弾力性の推計値εLの 代わりに、我が国の課税所得の弾力性に関する先行研究の推計値εを代入した(7)式により、 我が国における最適な最高限界税率を推計する。具体的には、高額所得者の所得分布のパ レート係数については、基本ケースのα=2.1 を用い、課税所得の弾力性の推計値εについ ては、値の小さい方から、八塩(2005)の 0.053、内閣府政策統括官(2001)の 0.074 および北 村・宮崎(2009)の 0.18 を用いる。最も能力の高い者に対する社会厚生上のウエイトを示す g については、価値判断の問題であり、適宜、想定するしかないが、國枝(2007)と同様に、 g=0, g=0.25 および g=0.5 の3つのケースにつき考えると、最適な最高限界税率は、以下の

10 Atoda and Tachibanaki(2001)は、Diamond (1998)の指摘を受け、能力の分布につき、 パレート分布および指数分布の前提での推計も行なっている。しかしながら、能力の分布 を実際のデータから推計しているため、① 標本調査の性格上、高所得者のデータが十分 でないおそれが強く、その点について特に配慮がない、② 実際のデータを用いているた め、能力の上限値が存在しており、上限値の存在を想定しないDiamond (1998)の議論には 直接対応していないという問題点がある。その意味では、Atoda and Tachibanaki (2001) の分析も従来の非線形の最適所得税のシミュレーションの延長線上にある研究と位置付け られよう。

(18)

とおりに推計される。 表4 最適な最高限界税率の推計値(α=2.1) 課税所得の弾力性εの仮定 八塩(2005) 内閣府(2001) 北村・宮崎(2009) ε=0.053 ε=0.074 ε=0.18 90.04% 87.36%% 75.74% gの g = 0 仮定 87.65% 83.83% 70.07% g = 0.25 82.25% 77.65% 60.95% g = 0.5 (出所)筆者計算 八塩(2005)および内閣府政策統括官(2001)の課税所得の弾力性の推計値に基づいた場合、 最適な最高限界税率は、70%代後半~約 90%という非常に高い値になる。北村・宮崎(2009) の比較的高い課税所得の弾力性の推計値に基づいた場合、高額所得者に対し、社会厚生上 のウエイトが付されていない場合には、約 75%の高い税率だが、社会厚生上のウエイトが g=0.5 の場合には、60%を若干上回る最高限界税率が最適となる。 参考までに、α=2.25 の場合の最適な最高限界税率の表は次のとおりとなる。αの増加に 伴い、最適な最高限界税率は減少しているものの、大きな変化はない。 表5 最適な最高限界税率の推計値(α=2.25) 課税所得の弾力性εの仮定 八塩(2005) 内閣府(2001) 北村・宮崎(2009) ε=0.053 ε=0.074 ε=0.18 89.83% 86.58% 74.45% gの g = 0 仮定 86.88% 82.9% 68.60% g = 0.25 81.53% 76.33% 59.30% g = 0.5 (出所)筆者計算 本稿で推計した最適な最高限界税率は、國枝(2007)での推計値と比較して、一般に高くな っているが、これは①我が国における課税所得の弾力性の推計値が、別所(2006)の労働供給 の弾力性の推計値よりも小さいこと、②2003 年の高額納税者番付に基づいて推計したパレ ート係数が溝口(1987)のパレート係数よりも小さいこと(高額所得者内でも所得集中が進ん だことを示す)等によるものである。

(19)

現行の我が国の所得税・住民税合計の最高税率は 50%であるが、本稿の最適な最高限界 税率の推計値は、ほとんどの場合、60%以上であり、高額所得者に対する社会厚生ウエイト を高くした場合についても、50%を大きく超えている。 ただし、労働所得に対する課税としては、所得税・住民税のみならず、消費税が存在す る。消費税率をtとすれば、所得税率に換算すると、t/(1+t)となる。現行の 5%の消費税は、 約4.8%の所得税に換算できるので、消費税も含めた労働所得に対する最高税率は、約 54.8% になり、やはり本稿で推計した最適な最高税率よりも低い 。 11 いずれにせよ、上記の推計に基づけば、我が国の所得税の最高税率については、若干の 引上げの余地があるものと考えられる 。12 6.検討 (1) 我が国の課税所得の弾力性が比較的小さい理由 我が国における課税所得の弾力性の推計値が比較的小さい理由の一つとして、米国と比 較して、租税回避を誘発するような各種控除があまり多くないことが考えられる 。 13 米国の課税所得自体の算出方法を見ると、次のとおりである。米国の場合には、総所得 (broad income)から控除等の調整を経て、課税所得(taxable income)が算出される。具体的 には、賃金・給与所得、利子所得、配当、純営業所得、純賃貸料所得およびその他所得の 合計が総所得(broad income)とされる。総所得から、個人退職年金勘定(適格 IRA)・自営 業者用の年金制度への拠出金、離婚手当、自営業者税の1/2 および自営業者が自分自身およ び家族のために支払う健康保険拠出金の一部を差し引いた金額が、調整済総所得(Adjusted Gross Income, AGI)と呼ばれる。調整済総所得から課税所得を算出するためには2つの方 法がある。一つは、単純に、調整済総所得から、標準控除(standard deduction)および基礎 控除(basic exemption)を控除して算出する方法である。もう一つは、住宅ローンの支払利 子、州・地方税としての所得税・財産税、調整済総所得の7.5%を上回る医療費、慈善寄付 金(charitable contribution)、転勤費用、雇用者経費(所得の 2%を超える金額)、偶発損失 11 なお、実際には、消費税は(労働所得税としての)課税所得の弾力性は比較的小さいと 考えられ、小さめの課税所得の弾力性に基づく最適な最高限界税率の導出が必要となろう。 12 岩本・濱秋(2008)においても、同様の結論が得られている。 13 課税所得の弾力性は、税率変化に対する経済主体の実際の行動の変化(労働供給の変化 等)および租税回避のためのタイミングや所得区分の変更という2つの要素を含んでいる。 そうした観点からは、内閣府政策統括官(2001)および八塩(2005)の課税所得の弾力性の推計 値については、先行研究(別所(2006)等)での労働供給の弾力性の推計値よりも小さいとい う問題がある。ただし、我が国の労働供給の弾力性の先行研究については、問題点も指摘 されており(Kunieda (2005))、推計値の妥当性を論じるには、我が国における労働供給の 弾力性と課税所得の弾力性に関する実証研究がさらに蓄積されることが必要である。

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および基礎控除を差し引いて、課税所得を計算する方法である。

米国の実証研究においては、総所得(broad income)の弾力性は非常に小さい(Gruber and Saez (2002))では、0.071)が、課税所得の弾力性については、より大きな値(Gruber and Saez (2002))では 0.396)になると指摘されている。その理由としては、所得税率が高くな る場合、総所得から課税所得の算出の際、慈善寄付金その他の諸控除の活用による租税回 避が図られるからではないかと見られている。ほとんどの納税者が標準控除を選んでいれ ば、租税回避の余地は限定的だが、米国においては、標準控除を用いない納税者も多いた め、慈善団体への寄付額を変える等により課税所得を減らすことが可能である。実際、 Gruber and Saez (2002)は、標準控除を選択しない納税者(itemizer)の課税所得の弾力性の 値は大きいのに、標準控除を選択した納税者(non-itemizer)の課税所得の弾力性は、負でし かも統計的に有意でないことを見出している。 米国において、標準控除を選択しない割合は、所得水準によって異なり、調整済総所得 (AGI)が 7 万 5,000 ドル未満の納税者のうち、25%のみが標準控除を選択しないのに比較し て、7 万 5,000 万ドル以上の納税者の 85%は標準控除を選択しないとされる(Slemrod and Bakija (2008))。課税所得の弾力性は高額所得者ほど高くなると見られており、高額所得者 ほど標準控除を選択しないことは、課税所得の弾力性が控除の活用による租税回避の程度 により決定されるとの見方と整合的である。 一方、我が国においては、各種所得のうち、給与所得については、給与所得控除が利用 されるのが一般的で、精緻な源泉徴収・年末調整制度の下、租税回避の手段は非常に限ら れている。特定の支出につき、給与所得控除を超える部分につき実額を控除する特定支出 制度も存在するが、控除の対象となるのは、通勤費、転任に伴う転居のための引越費用、 研修費、資格取得費および単身赴任者の帰宅旅費に限られる。現在、2000 万円超の給与収 入の場合は年末調整ではなく、確定申告を行う義務があるが、その場合でも給与所得控除 の利用が一般的である。特定支出控除の利用人数はきわめて少なく、2004 年分全体で 9 件 に過ぎない。租税回避の手段が限定的とすれば、我が国における給与所得の課税所得の弾 力性が、米国の総所得の弾力性に近い非常に小さい弾力性を示したとしても不思議はない。 他方、営業所得、農業所得等については、一般に、各種控除適用前の所得計算において は、様々な手段により租税回避を図っているのではないかと考えられてきた。例えば、自 営業者が交際費の中に私的消費分を含める等の方法で租税回避を図ることが考えられる。 しかし、米国と比較した場合、S法人のような制度が存在せず、法人税率と個人所得税率 の差に反応して、現実の事業形態を変更することなく、簡単に所得区分を変更することは 難しい。むしろ、個人事業者については、給与所得控除による税額圧縮を目的として、法 人化する「法人成り」が、事業形態選択の問題として注目されてきた。事業形態の選択と 税制の関係について研究した田近・八塩(2005)は、我が国の法人の選択比率が、法人税と個 人所得税の限界税率ではなく、給与所得控除の規模に影響されることを示している。これ は、個人事業者についても課税所得が個人所得税率に対し、あまり弾力的でないとの八塩

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(2005)と整合的である14。いずれにせよ、自営業者や農家の租税回避の実態と税率変更への 反応については、今後、十分な実証研究の蓄積がなされることが望まれる。

(2) 課税ベースと最適所得税制

Slemrod and Kopczuk(2002)は、課税所得の弾力性は課税ベースによって変わりうるも のであり、従って、最適税制の検討に当たっては、租税回避を招くような控除の廃止・縮 減等の課税ベースの改革についても検討すべきであることを示した。1986 年の米国の税制 改革は、税率構造のフラット化だけでなく、課税ベースの拡大を図った税制改革であるが、 Giertz(2007)は課税所得の弾力性が 1980 年代より 1990 年代の間に大きく減少したことを 見出しているのは上述のとおりである。課税ベースの拡大により、課税所得の弾力性が低 下すれば、新しい最適所得税理論からは、より累進的な所得税による所得再配分の強化が 望ましくなる。従来の税制改革の議論においては、課税ベースの拡大は必要な税収や実質 的な公平を確保しつつ、税率構造をフラット化し、労働供給の促進等を図ることに目的が 置かれていたが、新しい最適所得税理論においては、租税回避の余地を小さくすることで、 効率性を大きく損なうことなく、所得再分配の強化を図ることができるという新たな意義 が、課税ベースの拡大に付されることは大変興味深い。課税ベースの変更まで含めた最適 課税理論としては、Kopczuk(2005)がある。 消費税についても、労働所得税として見た場合には、課税所得の弾力性は小さいと考え られる。(ただし、消費税の納税義務者が脱税や租税回避を行う問題は多く指摘されてい る。)消費税は一般に逆進的との批判を浴びることが多いが、消費税の課税所得の弾力性が 小さいことを考慮すれば、消費税増税は、租税回避の余地をなくし、高額所得者への課税 強化を可能にする効果を持つことに留意すべきである。 (3)源泉徴収・年末調整制度および給与所得控除と最適所得税制 我が国の給与所得においては、源泉徴収制度および年末調整制度の存在により、一般の 雇用者は確定申告を行うことなく、納税を済ましているケースがほとんどである。これに 対し、源泉徴収制度および年末調整制度が納税者に税負担を認識させず、このため、納税 者による税の使途の関心を低下させているとの批判があり、政府支出の効率化を図るため にも、確定申告中心の納税への移行が望ましいとの主張が古くから存在する。例えば、2005 14 内閣府政策統括官(2001)においては、Feldstein (1995)やそれに先行する Lindsey (1987) の課税所得の弾力性の推計等に基づき、我が国の課税所得の弾力性が米国並みだった場合、 1995 年の個人所得減税により最大 2.6 兆円程度の超過負担が減少したとの試算を示してい るが、Feldstein (1995)や Lindsey (1987)の推計は、S法人へのインカム・シフティング等 の米国特有の租税回避行動の影響を十分勘案していないものであり、そうした推計を我が 国に当てはまるのはミスリーディングと言わざるをえない。

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年の政府税制調査会基礎問題小委員会「個人所得課税に関する論点整理」においては、「給 与所得者が自ら確定申告を行うことは、社会共通の費用を分かち合う意識向上の観点から は重要である。給与所得控除の見直しとあわせ、特定支出控除の範囲が拡大されることと なれば、こうした機会は増大すると見込まれる」と指摘されている。また、連合は、給与 所得控除につき、給与収入 2,000 万円程度を目途に上限を設けるとともに、特定支出控除 につき、職務上の慶弔費・自動車関係費、能力開発のための費用、周辺機器を含めたパソ コン購入費、通信費、書籍購入費、労働組合費等を対象項目として追加・拡大することを 求めている(連合「2010-2011 年度 政策制度 要求と提言」)。 しかし、一方で、源泉徴収・年末調整制度および比較的寛大な給与所得控除の存在は、 多くの(給与収入 2000 万円以下の)納税者の申告を不要とし、納税コストを大幅に引き下げ ている。Slemrod and Bajika(2008)は、日本や英国のような納税者による申告を必要とし ない所得税制度が納税コストを大きく引き下げる点につき、高く評価している(Slemrod and Bajika(2008), pp.294-295)。

また、源泉徴収・年末調整制度の下では、労働者が企業に誤った情報を伝えて租税回避 を図ろうとする場合、当該情報が虚偽であることが企業に知られた場合に企業からの付加 的なペナルティが課されるおそれから、労働者の租税回避のインセンティブは抑制される。 さらに、最近のKleven, Kreiner and Saez (2009)が指摘したように、仮に企業・労働者が 結託して租税回避を図ろうとしても、大企業においては各労働者の労働状況についての情 報が業務上の必要性から保存されているため、そうした情報を用いれば、租税回避を見破 ることが容易である15。従って、源泉徴収・年末調整制度は、労働者の租税回避を困難にす る重要な効果を有していると考えられる。 また、給与収入2000 万円超の給与所得者は確定申告の義務があるが、その場合も、給与 所得控除を利用し、特定支出控除を利用しないのが一般的で、現行制度の下では、特定支 出控除を用いた租税回避はきわめて限定的である。 租税回避の余地があまりなければ、課税所得の弾力性は小さくなる。課税所得の弾力性 が小さければ、新しい最適所得税理論によれば、経済厚生をあまり損なうことなく、所得 再分配を行うことが可能となる。執行制度まで含めた最適な所得税制(Slemrod(1990)のい う”optimal tax system”)を考えた場合、課税所得の弾力性を低下させる執行制度と累進度の 高い所得税制の組み合わせは、社会厚生を最大化させる所得税制となりうる。 他方、最近では、特に給与所得控除につき圧縮を求める主張も多くなってきている。上 述のように、比較的寛大な給与所得控除の存在が、「法人成り」を促進している側面もあり、 給与所得控除の圧縮により、そうした歪みを軽減しようとの考え方は理解しうるものであ る。ただし、給与所得控除の見直しと同時に特定支出の対象拡大を求める主張も多いが、

15 ただし、Kleven, Kreiner and Saez (2009)は、モデルの中で第三者通報制度の存在を仮 定しているが、我が国においては、第三者通報制度は、1947 年に導入されたが、1954 年に は廃止されている。

参照

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