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『そうだったんだ!日本語 黒船来航 日本語が動く』

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Academic year: 2021

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目  次

はじめに ︰︰︰︰︰︰︰︰︰︰︰︰︰︰︰︰︰︰︰︰︰︰︰︰︰︰︰︰︰︰︰︰︰︰︰︰︰︰︰︰︰︰ v

第一章 最初の出会い

︰︰︰︰︰︰︰︰︰︰︰︰︰︰︰︰︰︰︰︰︰︰︰︰︰︰︰︰︰︰︰︰ 1 一 浦賀沖、 ﹁黒船﹂現る 2 二 本格交渉の当事者たち 13 三 条約文作成の経緯 21 四 正文の不在 26 五 各版の間にある表現・内容上の差異 32 六  ⅵ 黒船﹂が突き付けた課題 40

第二章 

長崎口﹂の蘭通詞たち

︰︰︰︰︰︰︰︰︰︰︰︰︰︰︰︰︰︰︰︰︰︰︰ 41 一  ⅵ 四つの口﹂での言語と通訳 42 二 蘭通詞たち 55 目  次

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三 蘭通詞の語学力 62

第三章 オランダ語﹁正文﹂の時代

︰︰︰︰︰︰︰︰︰︰︰︰︰︰︰︰︰︰︰︰︰ 83 一 漢文の排除 84 二 オランダ語の時代へ 98 三  ⅵ 誤訳﹂問題の発生 114 四 正文としてのオランダ語版 123 五 当事国言語への志向 131

第四章 条約文と近代日本語

︰︰︰︰︰︰︰︰︰︰︰︰︰︰︰︰︰︰︰︰︰︰︰︰︰︰ 145 一  ⅵ 条約﹂を結ぶということ 146 二  ⅱ 候文 ⅲ から ⅱ べし文 ⅲ へ 152 三 入り組んだ仮定的な条件を示す条文 164

第五章 主役たちの交代

︰︰︰︰︰︰︰︰︰︰︰︰︰︰︰︰︰︰︰︰︰︰︰︰︰︰︰︰︰︰ 181 一  ⅵ オランダ語の時代﹂の終わり 183 二 主人公たちの退場 188 xvi

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三 明治新政府と﹁不平等条約 ⅶ 194 四  ⅵ 黒船﹂が日本語にもたらしたもの 201 参考文献 ︰︰︰︰︰︰︰︰︰︰︰︰︰︰︰︰︰︰︰︰︰︰︰︰︰︰︰︰︰︰︰︰︰︰︰︰︰︰︰︰︰︰ 203 あとがき ︰︰︰︰︰︰︰︰︰︰︰︰︰︰︰︰︰︰︰︰︰︰︰︰︰︰︰︰︰︰︰︰︰︰︰︰︰︰︰︰︰︰ 207 目  次

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 日本開国の命を帯びたペリー提督 ( Matthew C albraith Perry 、一七九四∼一八五八 )率いるアメリカ 東インド艦隊が江戸湾の入口、浦賀沖に姿を現したのは、嘉永六年六月三日 (一八五三年七月 八日。以下、カッコ内は西暦 )未明のことである。 ﹁異国船渡来﹂の注進を受けた浦賀奉行所は、 与力・中島三郎助 (一八二一∼一八六九 )以下をペリーの黒船艦隊に向かわせる。ここから、翌 春の﹃日米和親条約﹄の締結に至る日米間の交渉が始まる。

一 浦賀沖、

﹁黒船﹂現る

﹁ 旗艦 ﹂ を目指して   ⅵ 泰平のねむりをさます上喜 (蒸気船 ) たった四はいで夜も寝られず﹂と歌われる通り、 この時の黒船艦隊は四隻だったが、実際に蒸気船だったのはサスケハナ Susquehanna とミシ

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シッピ Mississippi の二隻だけで、他の二隻は 帆船であった。  上に掲げた図で、右側の大きな二隻には当時 の蒸気船の推進装置であった水車型の外輪が白 い円形で描かれているが、左側の二隻にはそれ が無く、きちんと描き分けられている。蒸気船 のうち、中央マストの上に旗がたなびいている のが﹁旗艦﹂サスケハナである。中島ら浦賀奉 行所の面々を乗せた幕府船は、その旗艦サスケ ハナに迷わず接近した。  彼らの報告﹃六月三日浦賀表米船対話書 ⅴ ( ﹃幕末﹄一、一 棚 号 )中には、 ﹁通詞共﹂が米艦隊 中に﹁ウインブル ⅶ ( Wimpel か ) という旗を掲げ た船を見つけ、それが﹁主役﹂の船だと述べる 一節がある。 相州久里浜にて米書 請取の図(部分,江戸東京博物館蔵) 3

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⒆ 四隻の米艦隊が投錨しているのを見て ⒇ 右四 煥 の内、何れへ乗付け候方 可 然 哉 しかるべきかな と申合候処、 通詞共より、中 ちゅう 檣 しょう ⒆ 中央の高い帆柱 ⒇ へウインブル (旗名 )を掲げ候蒸気船相見え候、右は外 国之法にて、主役の者乗組み居り候標章に付き、其船に乗付け然るべき旨申出で候間、   ⅵ 通詞共﹂とは蘭通詞たちのことで、元々は長崎奉行配下の地役人であった彼らは、この 頃には江戸や浦賀にも派遣され、常駐するようになっていた。この時、ペリー艦隊に接近す る船上にあったのは、浦賀詰の小通詞・堀達之助 (一八二三∼一八九四 )と江戸天文台詰となっ ていた小通詞並・立石得十郎 (一八二九∼? )の両名である。彼らは、 ﹁外国の法﹂では司令官 が乗る艦艇に特定の旗が掲げられること、すなわち﹁旗艦﹂の存在を知っていたのである。 一方、同乗していた中島ら幕府の役人は、それを知らなかった。 フランス語で書かれた巻物  ペリー艦隊の公式の報告書である﹃ペルリ提督日本遠征記 ⅴ ( 以下、 ﹃遠征記﹄ ) は、彼らと 日本側との最初の接触を、以下のように伝える。   ⒆ 艦隊は、日本側が繰り出した数多の防備船に囲まれ ⒇ やがて一隻の防備船が旗艦の舷側 ⒆ 側面 ⒇

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に横付けになった。船中の一人が紙の巻物を手にしているのを認めたが、サスクェハン ナ号の士官はそれを受け取るのを拒絶した。しかし彼等はミシシッピ号の舷側でその巻 物を開いて高く捧げて読めるようにしてくれた。それはフランス語で書かれた文書で、 貴艦は退去すべし、危険を冒してここに碇泊すべからずという趣意の命令が書かれてい るのを発見した。 ( ﹃ペルリ提督日本遠征記﹄ 、三九五頁 )  日米両者の間での最初の言語的交流は、意外にも、フランス語で書かれた文書で行なわれ ている。幕府側は、フランス語が当時の西洋社会での外交関係における第一の公用語である ことを承知し、それで書かれた退去命令書をかねてから用意していた。 I c an speak D utch あるいは It a lkD u tc h  大艦上のペリー一行と小船に乗った幕府側との間では、その後、ちょっと奇妙な応酬が続 いた。両者の記録を見よう。アメリカ側の記録は﹃遠征記﹄から、日本側のは堀と立石が自 ら記した﹃通弁手続書 ⅴ ( ﹃幕末﹄一、一七号 )から、それを窺わせる部分を引く。  支那語通訳ウイリアムス氏と和蘭 オランダ 語の通訳ポートマン氏に命じて、その役人に対して 第 1 章 最初の出会い 5

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次の如く云わせた。即ち提督は最高の役人以外の何人をも引見せず、貴下は帰還すべし と。日本語で話を進めることが困難だと見た時、横付けにした防備船上の一人は甚だ立 派な英語で﹁余は和蘭語を話すことができる﹂と語った。 ( ﹃ペルリ提督日本遠征記﹄ 、同頁 )  其船に乗付け、何国の船にて、何用有之 これあり 渡来致し候哉、蘭語を以て相尋ね候ふ処、不 通の様子に付き、和蘭語相弁じ候者に無之 これなき 哉と、アメリカ語を以て相尋ね候処、和蘭語 相 弁 わきまえ 候ふ者参り候に付き、 ( ﹃通弁手続書﹄ 、 ﹃幕末﹄一、一七号 )  この記念すべき最初の英語発言を、 ﹃遠征記﹄の原文は I can speak Dutch とするが、前 掲引用中にも登場するペリー一行の首席通訳官ウィリアムズ Samuel Wells Williams (一八一二 ∼一八八四 )が記した﹃ペリー日本遠征随行記 ⅴ ( 以下、 ﹃随行記﹄ ) には I talk Dutch とある。 日本側の報告ではもっと長い発言であったように思える。  どうやら、アメリカ側は﹁日本語﹂で、日本側は﹁蘭語﹂で呼び掛けを試みたが、互いに 互いが相手側の言語を用いているとは思い至らず、しばし空しく怒鳴り合う中、日本側が叫 んだ Dutch という英語の一言が辛うじてアメリカ側の耳に届いた、というのが実情らしい。

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  Dutch 発言の主は、蘭通詞の一方、堀達之助である。 ﹃遠征記﹄によれば、彼の英語力 は﹁これだけ云うのが精一ぱい﹂だったが、オランダ語には﹁熟達﹂しており、その後の会 話は、ペリー側のオランダ人通訳ポートマン Anton L . C . Portman (生没年不詳 )との間で、オラ ンダ語によって進められた。  彼の英語はこれだけ云うのが精一ぱいらしかったから、ポートマン氏は和蘭語で彼と 会話を始めた。けれども彼は和蘭語に熟達していると見えて、矢つぎ早やにいろいろな 質問を浴びせかけた。 ( ﹃ペルリ提督日本遠征記﹄ 、同頁 ) オランダ語による交渉  この時のペリー艦隊は、十日間ほど滞在しただけで、フィルモア大統領からの親書 ( ﹃幕末﹄ 一、一一四号。英文本文に漢文訳と蘭文訳とが添えられていた )を渡し、翌春の再訪を予告して、六月 一二日 (七月一七日 )には江戸湾を離れていった。  親書の授受等をめぐる交渉の際にも、媒介となったのは、専らオランダ語であった。浦賀 来航の翌日、日本側の﹁最高の役人 ⅶ ( ﹃遠征記﹄ ﹃随行記﹄共にそう記し、日本側で最も地位の高い役 人だとするが、実際には浦賀奉行配下の与力に過ぎない )として折衝に当たる香山栄左衛門 (一八二一 第 1 章 最初の出会い 7

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∼一八七七 )が初めて登場した会談の様子を伝える以下の記述でも、堀のオランダ語能力には 、 高い評価が与えられている。  会談に臨んだこれら日本人の態度は、風格もあり、冷静そのものであった。 ⒆ 香山 ⒇ 栄 左衛門は澄んだ声で語り、 ⒆ 堀 ⒇ 達之助はそれをオランダ語に通訳してポートマンに伝え た。私 ⒆ ウィリアムズ ⒇ は栄左衛門たちが話すことはほとんど理解できたが、あんなふうに しゃべるにはかなりの練習が必要であろう。私が日本語を知っている以上にオランダ語 をよく知った者が彼らの中に一人いたということは、意志の疎通が十分に行なわれるよ うになると考えられるので、ありがたかった。 ( ﹃ペリー日本遠征随行記﹄ 、九五頁 )  この引用から窺える通り、ウィリアムズは日本語が理解できたが、それを交渉の正面に出 すことはしていない。それでも、数日後には日本語でのおしゃべりも楽しむようになってい た。以下は、滞在七日目の﹃随行記﹄に見える一節である。   ⒆ 日本側の役人との会談の後で ⒇ 私も今は練習の甲斐あって、いっそう日本語の会話に熟達 したので、かなり脇道にそれたおしゃべりもした。 ( ﹃ペリー日本遠征随行記﹄ 、一一四頁 )

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 一方、堀も急速に英会話の腕を上げていった。今度は滞在六日目の記事、 ﹃遠征記﹄から の引用である。もっとも、 Want to go home と言ったくらいで褒められているのだから、 それほどの実力だったとも思えない。  首席通訳堀達之助は明かに外国語に熟達する異常な才能を有していて、 ⒆ 協議後の ⒇ 退 艦の際には、英語を寄せ集めて非常にはっきりと、 ﹁帰りたいと思います﹂ Want to go home と語った程であった。 ( ﹃ペルリ提督日本遠征記﹄ 、四二五頁 )  このように、日本語と英語は、公式の交渉言語とはなっていないものの、双方のちょっと した会話の際には用いられた。  ここに登場した通訳たち、すなわち、アメリカ側のウィリアムズとポートマン、日本側の 堀と立石は、翌年の﹃日米和親条約﹄締結のための本交渉の際にも重要な働きをすることと なる。ちなみに、本交渉の場では日本側の首席通訳として大活躍する森山栄之助 (一八二 棚 ∼ 一八七一 )は、ペリー来航の知らせを受け、急遽、長崎から江戸に向かうが、到着した時には ペリー艦隊は既に浦賀を去っており、この初来日の折の交渉には参加していない。 第 1 章 最初の出会い 9

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唐通事の存在  ところで、香山による﹃香山栄左衛門上申書 ⅴ ( ﹃幕末﹄一、一五号 )は、日米の他の文書には 見えない、以下のようなエピソードを伝えている。 ⒆ 最初の日、日本側がペリー旗艦に乗り込んだ際に ⒇ 唐通詞 ⒆ 頴川 ⒇ 君平と申す者、亜船へ乗組み居 り候支那人へ、渡来の次第承り申すべしと、聊 いささ か通弁に及び候処、亜の士官体の者罷出 で、厳 きび 敷 しく 相制し候様子にて、支那人を追退け申し候、   ⅵ 唐通詞 (通事 )﹂とは、これも長崎での貿易相手である中国商人との交渉に従事していた 中国語通訳のことである。浦賀奉行所では、蘭通詞だけでなく、唐通事も配下に置いてペリ ー来航に備えていた。その唐通事が米艦内に中国人を見つけて話しかけたが、アメリカ人士 官に阻止されてしまったと言うのである。  ウィリアムズは、出航の際には﹁先生﹂と呼ぶシエ Sieh という中国人を助手として伴っ ていたが、老齢のアヘン常用者であった彼は、日本に到着する前の船中で亡くなってしまう。 だから、この場面に出てくる中国人は、交渉の場に立つ通訳や助手ではなく、水夫か何かで

参照

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