• 検索結果がありません。

アスリートの脳を解明し鍛える

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2021

シェア "アスリートの脳を解明し鍛える"

Copied!
7
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

DOI: http://doi.org/10.14947/psychono.39.5

アスリートの脳を解明し鍛える

1

柏 野 牧 夫

日本電信電話株式会社コミュニケーション科学基礎研究所

Understanding and shaping the athlete’

s brain

Makio Kashino

NTT Communication Science Laboratories, NTT Corporation

In sports, a variety of brain functions hold the key to winning, such as grasping current conditions, strategizing against one’s opponent, and making instantaneous decisions under pressure. Most of these functions, however, are implicit brain functions that the athlete is not even aware of. The NTT Sports Brain Science project was established in January 2017 to conduct research with the aim of understanding superior implicit brain functions in top athletes, identifying the factors in winning, and improving the performance of athletes based on research findings. Two ex-amples of findings, both on visuomotor strategies of elite baseball/softball batters, are introduced.

Keywords: interactive sports, implicit brain function, cognitive-motor strategy, visuomotor processing

近年,スポーツに関する科学や技術の発展にはめざま しいものがある。まず,運動生理学,バイオメカニク ス,栄養学といった身体に関する科学の進歩により,ト レーニングに関する旧来の常識が塗り替えられ,より効 果的な方法が広く実践されるようになった。さらに,プ ロスポーツを中心に,スポーツアナリティクス(実戦で のプレイヤーの動きやボールの挙動などの計測と,それ らの膨大なデータの統計解析)が導入され,戦略立案, 選手評価などの方法が大きく変わってきた。トップレベ ルのスポーツでは,こうした科学技術をいかにうまく活 用するかが勝敗を左右するようになっている。 このような変革期にあって,いささか取り残された感 があるのが,スポーツの認知的側面である。スポーツに おいては,アスリートの身体的な能力だけでなく,様々 な認知的能力が決定的な役割を果たす。試合における瞬 時の状況把握や意思決定,身体各部の巧みな協調,相手 や味方の意図の理解,強い心理的圧力の下でのパフォー マンス発揮といった点で秀でていなければ,いかに頑健 な身体を持っていたとしてもレベルの高いアスリートに はなり得ない。しかし,このような点に関しては,実戦 やそれに準じる状況での定量的な計測や解析はほとんど 行われていない。科学的な知見に基づいた体系的なト レーニング法も確立されておらず,トップアスリートの 現場でさえ,主観と経験則に基づいた指導がまだ主流で ある。裏を返せば,スポーツの認知的側面の科学的理解 が進めば,スポーツの世界に新たな革新をもたらす可能 性を秘めている。 スポーツにおける潜在脳機能 スポーツの認知的側面において,我々が特に注目してい るのは,無自覚的な(意識に上らない)脳情報処理であ る。これを我々は「潜在脳機能(implicit brain function)」 と呼んでいる。例えば,プロ野球の野手が難しい打球に 神業とも言うべき反応を見せて捕球するとき,その脳内 では,打球の動きを視覚で正確に捉え,到達位置とタイ ミングを予測し,それに合わせて膨大な要素からなる筋 骨格系の動きを計画して実行するといった複雑な情報処 理が瞬時に行われている。しかし,この一連のプロセス を本人が逐一意識することはない(できない)。まさに Copyright 2020. The Japanese Psychonomic Society. All rights reserved.

1 本研究の一部は,科学技術振興機構 (JST) 戦略的創造 研究推進事業 (CREST) 「人間と調和した創造的協働を 実現する知的情報処理システムの構築」 領域 「潜在ア ンビエント・サーフェス情報の解読と活用による知 的情報処理システムの構築」(課題番号 JPMJCR14E4, 研究代表者渡邊克巳)の助成を受けた.

Corresponding address: Kashino Diverse Brain Research Laboratory, NTT Communication Science Laboratories, 3–1 Morinosato Wakamiya, Atsugi, Kanagawa 243–0198, Japan. E-mail: [email protected]

(2)

「身体が勝手に反応した」という感覚であろう。いわゆ る「メンタル」と呼ばれる側面についても同様で,大観 衆の声援やここ一番の重圧などで日頃以上の力が出る (あるいは出ない)のも,脳,自律神経系,内分泌系な どが意識によらず「勝手に」働き,感覚運動系の作動を 調節しているからにほかならない。 潜在脳機能は,スポーツに限らず,生活のあらゆる場 面で重要な役割を果たしている(下條,2008; Kahneman, 2011)。一般に,自覚的な(意識に上る)プロセスは処 理容量が小さく,処理速度も遅い。一方,潜在脳機能 は,大量の情報を高速に並列処理できる。それゆえ,一 瞬のうちに多種多様な情報を処理する必要のあるスポー ツ場面においては,潜在脳機能の比重が特に高いと考え られる。しかし,無自覚的であるということは,できる 人に尋ねても,なぜできるかわからないということでも ある。何かを答えたとしても,それが客観的事実と一致 している保証はない。まして,できない人は,なぜでき ないのかわからない。さらに,潜在脳機能のうち,本人 が自覚的,随意的に制御できる部分はごく限られている ので,仮にどうすべきかがわかったとしても,実際にで きるとは限らない。理想的なフォームはバイオメカニク スの研究で明らかになるかもしれないが,それを実現す るにはどうイメージすればよいかというのはまた別問題 である。「メンタル」も同様で,落ち着こうと思っても 緊張は止められない。このように,関係する脳機能の潜 在性のゆえに,主観 (自覚や意図) と客観 (実際の動作 や状態) とが乖離していることが,日頃のトレーニング やコーチング,試合でのパフォーマンスの様々な面を難 しくしている。潜在脳機能の解明は,スポーツの方法論 にブレークスルーをもたらすと期待される。 一方,心理学や認知神経科学の基礎研究の立場から見 ると,スポーツは魅力的な対象であると同時に,きわめ て挑戦的な,アプローチしにくい対象でもある。基礎研 究者は,問題を単純化し,要素に分解し,厳密に統制し た実験によって現象の背後にあるメカニズムに迫ろうと するのが常である。しかし,実際のスポーツはあまりに も複雑すぎる。まず,状況が刻々と変わり,再現性が低 い。そして,未知のものも含む多数の要素が複雑に相互 作用しており,それらを切り分けることは至難の業であ る。逆に言えば,個別の要素がいくつか特定できたとし ても,実際の試合でそれらがどのような効果を持つかは わからない。さらに,試合における,ひとつ間違えば命 にも関わりかねないという緊張感の下での挙動は,実験 室内で多少の(倫理的に許される範囲の)心理的圧力を かけた場合の実験結果から単純に外挿することはできな い。結果として,「論文にはなるが,リアリティがない」 か,「リアリティはあるが,論文にはならない」かとい うジレンマに陥りがちである。 このようなギャップを埋めるためには,スポーツ現場 の当事者にとって重要な問題に対して,その本質を損な わない程度にリアルな状況の中で,基礎研究ならではの 分析的な発想や厳密な手法でアプローチすることが求め られる。 スポーツ脳科学プロジェクト このような問題意識から,我々はここ数年(正式には 2017年1月から),「スポーツ脳科学プロジェクト」を進 めている(柏野,2019)。このプロジェクトでは,情報 通信技術(ICT)を最大限に活用して,スポーツに関わ る潜在脳機能を解明し,その知見に基づいたスポーツ上 達支援法を開発することを目指している。 このプロジェクトは,技術的にみると,大別して3つ の要素から構成される。第1の要素は,スポーツを行っ ている最中に,アスリート個人,あるいは集団の,脳と 身体で起きていることを包括的に捉えることである。潜 在脳機能の顕在化と呼ぶこともできよう。近年のウェア ラブルセンサやコンピュータビジョン(映像解析)の急 速な発展により,実戦中あるいはそれに近い実験状況に おいて,アスリートにさほど負荷や妨害を与えない形で の計測が可能になってきた。計測対象は,心電位,筋電 位,呼吸,脳波,身体各部の運動,眼球運動など多岐に わたる。スポーツ動作中の脳波を計測することも,実戦 中というわけにはいかないが,ある程度は可能である。 第2の技術要素は,計測された多種多様なデータから, パフォーマンスの良し悪しに関連するエッセンスを抽出 することと,その背後にある脳の特性やメカニズムを推 定することである。これらは基本的に逆問題を解くこと になるので,一筋縄ではいかない。例えば,試合中のあ る時点で心拍数が上昇したというデータが得られたとし ても,それが運動負荷によるものか,心理的緊張による ものか,はたまた別の要因によるものか,それだけでは 区別できない。我々は,このような問題に対して,同時 に計測された種類の異なるデータの解析,機械学習的な 手法の導入,神経科学的な知見に基づくモデルの利用な どによってアプローチしている。 第3の技術要素は,パフォーマンスを最大化するよう に脳や身体の状態を調整することである。潜在脳機能の 特性の1つは意識的に操作することが難しい(わかって もできない)ということなので,それに働きかけるため には,言語や論理ではなく,直感的に誘導するような手

(3)

段をとるのが有効であろう。その 1つは感覚フィード バックである。パフォーマンスの状態を,視覚,聴覚, 体性感覚などを通じてフィードバックすることにより, 直感的な把握を促す。我々はこれまで,マルチアングル での遅延映像フィードバックや,身体の動き(あるいは 筋活動)を音のパターンに変換する可聴化システム(柏 野,2020)などを開発してきた。もう1つはヴァーチャ ル・リアリティ(VR)やオーギュメンテッド・リアリ ティ(AR)である。これにより,現実には困難な状況 でのトレーニングを実現することができる。我々は,野 球やソフトボールのバッティングに関して,VRを用い て打者の特性を評価したり,トレーニングを行ったりす るシステムを開発している(三上他,2018)。 このような研究を進めるうえで重要なのは,トップレ ベルのアスリートおよびチームの協力である。彼らの直 面する課題をすくいあげることが,本質的な問題設定に つながる。データの質としても,再現性の高い,人間の ほぼ上限と思われるパフォーマンスのデータが得られ る。さらに,得られた知見を現場にフィードバックし, その効果をみることによって,知見の有効性を実地で検 証することができる。幸いなことに,野球,ソフトボー ル,ラグビー,スノーボード(ビッグエア),eスポーツ (格闘ゲーム)などのトップアスリートの協力を得て, データの取得や知見のフィードバックを行っている。例 えば,プロ野球や社会人野球のオープン戦で,選手に ウェアラブルセンサを装着し,実戦中の生体情報を計測 している。また,我々の開発した VR打撃システムは, メジャーリーグ球団やソフトボール日本代表チームなど でトレーニングに活用されている。 現在研究を進めている項目は,視覚–運動系と,心身相 互作用という2つの領域に大別できる。前者には,目付 け(視線制御や注意による視覚情報の取り込み),予測, 意思決定,協調運動,錯覚などのトピックスが含まれる。 後者には,本番でのアガリやフロー(いわゆる「ゾーン に入る」),調子の変動,イップス(「プロゴルファーが パットだけ打てなくなる」といった,エキスパートに生 じる,直接的な身体的原因によらない,特定状況での運 動障害),応援やヤジの効果,チームメイトや相手との 相互作用などのトピックスがある。ここでは,視覚−運 動系の研究の中で,野球やソフトボールのバッティング に関するものを2つ紹介しよう。 スイングは一級品なのに通用しない? バッティングフォームやパワーは申し分ないのに, トップレベルでは通用しない打者は珍しくない。打てる 打者は何が違うのだろうか? 実戦におけるバッティングは,認知課題としてみた場 合,極めて難易度が高い。まず時間的制約が非常に厳し く,野球でもソフトボールでも,球がリリースされてか らホームベースを通過するまでの時間(time-to-contact; TTC)は400 msに満たないこともある。これは全身単純 反応時間と比較するとほとんど余裕がない。しかも,投 球の球種,速度,コースは一定ではなく,次が何である か明示的には知らされない。中には打つべきでない球も ある。したがって打者は,スイングするか否か,すると したらどのタイミングでどのようにスイングするかを瞬 時に判断し,それに応じて全身の動作を精密に調節しな ければならない。我々は,このような認知能力と実戦で の成績の関係を分析するために,女子ソフトボール一部 (トップ)リーグチームの現役選手 (野手17名,うち4名 は日本代表経験者)を対象として,投手と打者の対戦形 式の実験を行った(Nasu et al., 2020)。 実験では,投手は,速球と遅球(チェンジアップ)の 2種類をランダムに投げた。打者はどちらが来るかを知ら されず,どちらであってもストライクなら強打し,ボー ルなら見送ることを求められた。この「勝負」に臨んで いる投手と打者の全身の動きを,慣性センサ式のワイヤ レスモーションキャプチャスーツを用いて計測した。 Figure 1に,典型的な2名の打者(左: 主力選手X,右: 控え選手Y)の打撃動作(各1打席の例)を示す。濃淡 のパターンは,速球と遅球に対する身体各部位の相対速 度の時間変化(濃いほど速いことを表す)を表している。 横軸は時間で,0はリリース時点である(TTCを破線で 示す)。主力選手Xは,速球と遅球のTTCに応じてスイ ングのタイミングをきれいにシフトさせている。一方, 控え選手Yは,両方に対してほぼ同じタイミングでスイ ングを開始し,遅球に対してはコンタクトのタイミング が合わずスイングが崩されて空振りしている。この選手 は,ティー打撃(静止したボールを打つ条件)でのスイ ング速度は参加者中トップクラスであったが,緩急を混 ぜられたこの課題では,平均打球初速は下位にとどまっ た。これではせっかくのパワーを生かせない。一方の主 力選手Xは,ティー打撃のスイング速度は選手Yより約 20 km/h遅かったが,平均打球初速は10 km/h近く速かっ た。タイミングを合わせて的確にコンタクトできている ため,強振せずとも速い打球が打てると考えられる。 このような観察から,球速変化への対応力が高いと, 速い打球が打て,空振りが少なくなり,結果として実戦 での打率が高くなると考えられる。球速変化への対応力 の指標として,速球と遅球に対するスイングの平均開始

(4)

時点の差(Δonset)を用い,全17名のデータについてパ ス解析を行ったところ,この仮説の妥当性が確認された (Figure 2)。この実験における平均打球初速と空振り率 で,2017年シーズン公式戦打率の個人差の2/3を説明す ることができた。 では,球速変化にうまく対応できた選手は,どのよう な視覚情報に基づいて球の挙動を予測,判断したのであ ろうか。主力選手Xの場合,速球に対しては約250 msで 始動し,その時点では遅球に対しては反応していない。 この時点で反応の差が見られるということは,その判断 に用いられた視覚情報は,視覚入力から運動出力への処 理に要する時間を考慮すると,おそらくリリース後約 100 ms程度までに得られたものであろう。可能性として は,リリース直後の球の挙動か,あるいは,リリース前 からの投球フォームの違いが考えられる。実験に参加し た選手たちに尋ねると,「この投手の場合はフォームで はまったく違いがわからない」との返事であった。しか し,無自覚的な情報処理の重要性という観点からすると, 自覚はしていなくても,何らかの情報を脳が捉えている 可能性もある。 そこで,この点をさらに追求するために,VRを用いた 実験を行った (Kimura, Nasu, Yamaguhi, & Kashino, 2018)。 打者はヘッドマウントディスプレイを装着して打席に立 ち,コンピュータグラフィックスで生成された投手の投 げる球に対して,実打と同様にバットをスイングした。 課題は実打実験と同じであり,打者の身体とバットの動 きを慣性センサで計測した。投手は,実打実験で計測し た投手の骨格の動きを正確に再現したアバターであり, その投球フォームには,速球と遅球を投げる際のこの投 手の細かい癖も忠実に含まれていた。球の挙動も,実打 実験での投球を忠実に再現したものであった。ここで, 2種類の条件を設け,ランダムに混ぜてテストした。1つ は,投球フォームと球の挙動が実際の通りになっている もの (一致条件),もう1つは,投球フォームと球の挙動 Figure 1. Examples of body movement patterns (relative velocity of body parts as a function of time) during softball batting

against fast (upper panels) and slow (lower panels) balls. Dotted lines indicate TTC (time-to-contact). Left: Player X, a lead-ing player in Japan Softball League (women’s top league), Right: Player Y, a substitute player in the same league.

Figure 2. Structure of cognitive-motor processes in softball batting. The path diagram is shown with standardized path coef-ficients. e1–3 are the error terms. The model had good fit (χ2 test, p=0.46; CFI=1.00; TLI=1.04; RMSEA=0.00), and all the path coefficients were significant (**p<0.01).

(5)

の対応を入れ替えたもの(不一致条件)である。例えば, 速球のフォームで遅球が来るといった具合である。この 操作をしたことは,選手たちには前もって知らせなかっ た。また,実験後に尋ねても,この操作に気づいた選手 はいなかった。それにもかかわらず,一致条件でうまく 打ち分けた選手たちが,不一致条件ではタイミングをと れなくなった。このことは,投球フォームの情報を無自 覚のうちに使ってタイミングの予測をしていたというこ とを意味している。 このことは,投手にとっても示唆的である。打ちにく い投手とは,打者が予測しづらい投手ということである。 特に,投球フォームや,リリース後 100 ms程度までの 軌道で打者に情報を与えなければ,打者は圧倒的に不利 になる。球速自体は速くなくても,打者は反応が遅れる ので,「差し込まれた」「球が速い」という感覚になる。 逆に,早めに情報を与えてしまうと,球そのものは優れ ていても,一流の打者には通用しないし,そこまでレベ ルの高くない打者でも打てる確率が高くなる。 このように,投球速度や打球速度といった計測では捉 えられず,本人も気づいていない認知特性を知ることに より,レベルアップのきっかけが見えてくる可能性があ る。例えば控え選手Yは,いくらバットを振り込んでも 無駄であり,球を見極めて予測する能力を磨くことが向 上の鍵ということがわかる。こうして,個人の特性と状 態に応じた合理的なトレーニングへの道筋が拓ける。 球を最後までよく見ろ? 前節では,一連のバッティング動作の中でも,スイング を開始するまでの予測や判断といった比較的早いフェー ズに注目したが,スイングを開始した後も,球の挙動変 化に応じて動作を修正する余地は残されている。実際, 前節の実験に参加した選手の中には,遅球に対して,速 球のタイミングでスイングを開始した場合でも,途中で 「タメ」を作ってコンタクトのタイミングはうまく合わ せるというタイプも見られた(選手 Xはその代表例)。 予測にせよ調整にせよ,球の挙動を視覚で正確に捉える ことが前提となる。野球の指導では,「球を最後までよ く見ろ」などとよく言われるが,優れた打者はどのよう に視覚情報を得ているだろうか。 我々は,現役プロ野球選手 (一軍野手3名,二軍野手3名) を対象として,投手と打者の対戦形式の実験を行い,視 線の挙動を分析した (Kishita, Ueda, & Kashino, 2020)。投球

には,あらかじめ球種を教えられる速球 (known fastball) と,球種を教えられない速球(unknown fastball)および カーブ (unknown curveball) という3種類があり,元プロ 野球投手がそれらをランダムに投げた。打者は球種によ らず,ストライクなら強打し,ボールなら見送ることを 求められた。その際の打者の眼球運動を小型ハイスピー ドアイトラッカーで,頭部運動とバットの軌跡を光学式 モーションキャプチャシステムで計測した。 Figure 3に,典型的な2名の打者(左: 一軍選手Z,右: 二軍選手W)の測定結果(known fastball条件,各1打席 の例)を示す。横軸はコンタクトを0とした時間,縦軸 は打者の位置から見た水平角度である。打者から見た球 の角度は,最初はあまり変化しないが,打者に近づくと 急激に変化が大きくなる。いずれの打者でも,視線は最 初のうちは球を忠実に追跡しているが,途中から球より 先に進み,コンタクトの直前に到達すると予測される点 に先回りする(予測的サッカード)。クリケットなどの バウンドする球を打つ競技では,バウンドする位置への

Figure 3. Examples of gaze behavior during baseball batting. Horizontal angle of 90° corresponds to the pitcher-home plate direction. Left: Player Z, a top league player in Nippon Professional Baseball (NPB), Right: Player W, a farm player in NPB.

(6)

予測的サッカードが報告されている(Land & McLeod, 2000)。一方野球では,予測的サッカードはまったく見 られないか(Higuchi, Nagami, Nakata, & Kanosue, 2018), プロの一部の試行で見られるのみ(Bahill & LaRitz, 1984) とされていた。しかし本研究では,参加した全選手がコ ンタクトの約80–220 ms前に常に予測的サッカードを示 した。投手との対戦という認知的な負荷の高い状況で, トップレベルの選手の視覚戦略を分析したのは本研究が 最初であり,それが結果の差に表れた可能性がある。予 測的サッカードの開始タイミングは,球種を知らされた ときの方が,知らされないときよりも有意に遅かった。 視線の挙動は認知的情報処理の内容に依存することがわ かる。 一軍と二軍の選手を比較すると,いくつかの違いが見 られた。まず,予測的サッカードの開始タイミングが, 一軍の方が有意に遅かった (unknown条件で,一軍は平均 約120 ms前,二軍は個人差が大きいが平均約180 ms前)。 理論上,球を長く見た方が情報が蓄積される分だけ軌道 の推定は正確になるが,視覚入力から運動出力には時間 がかかるので,長く見すぎると動作が間に合わなくなる。 視覚刺激に対する腕の単純反応時間は200–250 msである が,ターゲットに向けた腕運動の途中で突然ターゲット が動いた場合の無自覚的な腕の応答は110 ms程度で生じ

うる (Brenner & Smeets, 1997)。このことを考え合わせる と,一軍打者は,打撃動作を修正できるぎりぎりのとこ ろまで球を視線で追跡していると考えられる。レベルの 高い投手には,打者の直前で小さく変化する球を操る投 手がいるが,サッカードのタイミングが早いと対応は難 しくなると推測できる。 さらに,眼球と頭部の使い方にもレベルによる差が見 られた。コンタクトの瞬間のバットの位置と頭部の方向 にはすべての打者で正の相関が見られたが,一軍打者は, バットの位置と眼球の方向には相関が見られなかった。 優れた打者は,視線の方向ではなく,頭部の方向を利用 してコンタクトの位置を脳内で符号化している可能性が ある。 打席で投手や球をどう見ているかと参加者に尋ねると, このような計測結果とはほとんど一致しなかった。優れ た打者は,無自覚的に,視覚情報の取り込み戦略を最適 化しているのである。一方で,二軍レベルの打者には, まだ最適化する余地があると言える。実際,この実験に 参加した二軍打者の1人は,結果のフィードバックを受 けて球の見方を変えたところ,打撃成績が向上して一軍 に上がることができた。それがそのフィードバックのお かげであるという証拠はまだないが,少なくともきっか けにはなったかもしれない。 お わ り に トップアスリートの潜在脳機能の特徴を探る研究のう ち,ここでは視覚–運動系にかかわるものを2つだけ紹 介した。プロの一軍と二軍のように,選び抜かれたエ リート層の中であっても,認知運動戦略の最適化という 観点ではレベルに応じた明確な違いが見られることが明 らかになった。心身相互作用についても,試合中の生体 情報とパフォーマンスの関係などの解析を進めている が,その詳細はまた機会を改めて紹介したい。 このような営みを通じて得られた知見は,アスリート 自身も自覚していないものであったり,現場の定説とは 異なるものであったりすることも珍しくない。潜在脳機 能のメカニズムを基盤として,従来よりも合理的なコー チング,トレーニング,評価,戦略立案の方法論を確立 することができると期待される。基礎研究としても,従 来ほとんど扱われてこなかった状況や参加者層を対象と することにより,複雑性や多様性について射程を広げる ことができる。これまでのところ,対象をトップアス リートに絞っているが,得られた知見は,ジュニアから 高齢者まで,また初心者から上級者まで,さまざまな層 に展開可能である。それぞれが自分の能力を伸ばしてい く手助けとなれば,基礎研究者としては大きな喜びであ る。 引用文献

Bahill, A. T., & LaRitz, T. (1984). Why can’t batters keep their eyes on the ball? American Scientist, 72, 249–253.

Brenner, E., & Smeets, J. B. J. (1997). Fast responses of the hu-man hand to changes in target position. Journal of Motor

Behavior, 29, 297–310. doi:10.1080/00222899709600017

Higuchi, T., Nagami, T., Nakata, H., & Kanosue, K. (2018). Head-eye movement of collegiate baseball batters during fastball hitting. PLoS ONE, 13, e0200443. doi:10.1371/journal. pone.0200443

Kahneman, D. (2011). Thinking fast and slow. New York, NY: Farrar, Straus and Giroux. (カーネマン,D. 村井章子 (訳) (2012).ファスト&スロー あなたの意思はどのよう に決まるか? 早川書房) 柏野牧夫(2019).アスリートの脳を解明し鍛える 人 工知能,34, 525–530. 柏野牧夫(2020).可聴化による身体運動の表現と調節  日本音響学会誌,76, 385–391.

Kimura, T., Nasu, D., Yamaguhi, M., & Kashino, M. (2018). Availability of pitcher’s motion information in batting timing control revealed by virtual reality. Neuroscience 2018 (The

Annual Meeting of Society for Neuroscience), San Diego, U.S.A.,

(7)

Kishita, Y., Ueda, H., & Kashino, M. (2020). Eye and head movements of elite baseball players in real batting. Frontiers in

Sports and Active Living, 2, 3. doi: 10.3389/fspor.2020.00003

Land, M. F., & McLeod, P. (2000). From eye movements to ac-tions: How batsmen hit the ball. Nature Neuroscience, 3, 1340–1345. doi:10.1038/81887

三上 弾・高橋康輔・西條直樹・五十川麻理子・木村聡 貴・木全英明 (2018). VRイメージトレーニングシステ

ムの実現と野球への適用 NTT技術ジャーナル,30,

22–25.

Nasu, D., Yamaguchi, M., Kobayashi, A., Saijo, N., Kashino, M., & Kimura, T. (2020). Behavioral measures in a cognitive-motor batting task explain real game performance of top athletes. Frontiers in Sports and Active Living, 2: 55. doi:10. 3389/fspor.2020.00055

下條信輔(2008).サブリミナル・インパクト――情動 と潜在認知の現代―― ちくま書房

Figure 2. Structure of cognitive-motor processes in softball batting. The path diagram is shown with standardized path coef- coef-ficients
Figure 3. Examples of gaze behavior during baseball batting. Horizontal angle of 90 °  corresponds to the pitcher-home plate  direction

参照

関連したドキュメント

We present sufficient conditions for the existence of solutions to Neu- mann and periodic boundary-value problems for some class of quasilinear ordinary differential equations.. We

Analogs of this theorem were proved by Roitberg for nonregular elliptic boundary- value problems and for general elliptic systems of differential equations, the mod- ified scale of

Then it follows immediately from a suitable version of “Hensel’s Lemma” [cf., e.g., the argument of [4], Lemma 2.1] that S may be obtained, as the notation suggests, as the m A

Definition An embeddable tiled surface is a tiled surface which is actually achieved as the graph of singular leaves of some embedded orientable surface with closed braid

Correspondingly, the limiting sequence of metric spaces has a surpris- ingly simple description as a collection of random real trees (given below) in which certain pairs of

While conducting an experiment regarding fetal move- ments as a result of Pulsed Wave Doppler (PWD) ultrasound, [8] we encountered the severe artifacts in the acquired image2.

“Indian Camp” has been generally sought in the author’s experience in the Greco- Turkish War: Nick Adams, the implied author and the semi-autobiographical pro- tagonist of the series

[r]