• 検索結果がありません。

小田原先生にお世話になったこと(小田原利光先生追悼文)

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2021

シェア "小田原先生にお世話になったこと(小田原利光先生追悼文)"

Copied!
6
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

I

,) ' . < J ゑ先生{ 二川{ ごいミ

小田原先生にはいろいろと親身にお世話して頂 いた 。私が日本甲殻類学会に加入したのは1974年 である 。小田原先生が日本甲殻類学会について雑 誌にお書きになっていたものを偶然に見る機会が あ り,入会の 申 し込みをした 。私は それま で 日本 甲殻類学会に ついて何 も知らなかっ たのである 。 当時は学会の事務は小田原先生が引き受けて お ら れた 。医師としてのお忙しい業務の合間に会計処 理に加え,大会の世話,会誌の編集に関したお仕 事もなさっていた。小田原先生からすぐに返事が 届き,会員にして頂いた。 甲殻類学会大会にも参 加 させて頂くようになり ,酒井恒先生,鈴木博, 村岡健作,酒井勝司さんらとも接触ができる よう にな った。私の場合, 小 田原先生に特別なお世話 を

2

回して頂いている 。 また, 小 田原先生ご自慢 の小 田原甲殻類博物館を見学させて頂いたり ,お 蕎麦をご馳走になったりもした 。小田原先生は, 私の勤務先の天草にある熊本大学の合津臨海実験 所にも 2 回お見えになっている 。 特 別 な お 世 話 の 第 1 回は 1986年 の こ と で, オ ラ ン ダ の ホ ル ト ハ ウ ス

(Prof

. Dr.

Li

pke

B. Holthuis) 先生の日 本への招聴に関してで あった。 ホル トハウス先生 は ライデンに あ るオラ ンダ国 立自然、史博物館の甲殻類部門の研究者で あるが, 甲殻類に関して多数の論文 (500編以上 あ る) を 発表されており,世界的権威の一人とし て高名 である 。 また,シーボルトに非常に深い関 心 が あり,九州大学の江崎悌三 (1899 - 1957) ともそ のことで接触があった 。江崎悌三は昆虫学者とし てだけでなく,書誌学に関した豊富な知識の持ち 主として知られ,シーボル トについても重要 な考 察を行っている 。ホル トハウス先生は,また 酒井 恒先生と極めて親しか った。酒井先生もシーボル トに関心が深かったので,お 二人は共著として , 1970年に大著「シーボルトと日本動物誌一日本動 物史の饗明」を刊行している 。 私は全く偶然にホルトハウス先生と接する機会 山 口 隆 男 があり ,それがきっかけになってシーボル ト収集の 動物と植物の標本の調査をすることになった 。当 初は数年で終わるはずであったが,調査すべきこ とが次第に増えてしまい いつまでたっても終了 できないでいる 。2005年 3 - 4 月にも第31回目と なる標本調査 をオラン ダのライ デンで実施した 。 第1 回目の調査は 1985年であった 。文部省の海 外学術調査という項目で予算を貰ったのである 。 当時はまだ日本から海外に出る人は現在と比較し てはるかに少なかった。予算の内容も今とはまる で違うものであった 。海外学術調査の場合,最初 の年は現地調査,次の年はその成果の取りまとめ になっていた 。必要があれば,第

2

年度に現地の メンバーを日本に招鴨して共同研究をしても差し 支えないという 制度であった。1986年10月に法政 大学がシーボルト国際シンポジウムを開催するこ とにな っていた 。法政大学から私に対して,シン ポジウムで講演をして欲しい,また,ホルトハウ ス先生にもシンポジウム参加 ・講演を依頼して欲 しいという要請があった 。そのおかげで,条件を 整えることができ , 日本へ3週間ホルトハウス先 生を招科することが可能 になった 。せっかくの機 会であるから,日本のいろいろな甲殻類研究者に 会っ て頂く ,ま た,観光 に最適な時期なので, 日 本の美も楽しんで頂こうという盛りだくさんの計 画になった 。3週間の聞に国際シンポジウムに 出 席,講演をして,静岡県の戸田村,熊本,沖縄, 長崎,福岡,下関,岡山,京都,奈良, を訪問す るという忙しい日程になったのである 。私たちが シーボル ト国際シンポジウムにおいて講演したの は10月19 日であった。20 日に新宿の科学博物館を 訪問して武田正倫さんに会った 。戸田関連では村 岡健作, 安原健允,熊本では馬場敬次,沖縄では 諸喜田茂充,福岡では松浦修平, 三宅貞祥,下関 では林健一,岡山で酒井勝司,京都では今福道夫, さらに東京では大森信の諸先生,諸氏に会い,お 世話になったのである 。

(2)

小田原先生と一緒に

10

21

日に東京駅から新幹 線で三島に行き,安原健允さんの車で戸田村に向 かった。安原健允さんはタカアシガニの生態の研 究者であり,戸田村の方々とも親しか った。 この 小旅行には小田原先生の他に鈴木博,村岡健作さ んも加わっていた 。最初に戸田港で漁獲を終えて 帰ってくる漁船を待った。漁獲の対象はアカザエ ピであり,タカアシガニではなし、。 しかし,副産 物として漁獲されてしまうのである 。漁船に積み 込まれていたタカアシガニを観察し,次にタカア シガニの調理の実際を見せてもら った。水っぽい から,茄でるのでなく,蒸すのである 。釜の上の 蒸し器に入れて,かなり長い間蒸すのだというこ とであ った。そうすれば,少しは味が良くなると いう説明であ った。それから, 戸 田村の国民宿舎 に泊まり,大広間で豪華なご馳走を頂いたのであ る。主役は当然にタカアシガニで,太〈長い脚に たっぷりの肉が詰まったものが盛られていた 。 し かし,科学博物館で武田正倫さんから教わ った通 りで,水 っぽく,食欲をそそるような物で、は無か っ た。長く茄でられて,味が良くな っていたはずで、 あったが,アカザエピとは比較にならなか った。 小田原先生が「このように味が悪いことはタカア シガニの保護のためには良いことだ」としみじみ とお っ しゃっ ていたことが耳に残 っている 。小田 原先生は一方で、はタカアシガニ標本の収集者で, 締麗で大きな標本をいくつも持 っておられた。 し かし,味わ ったことはそれまで、なか ったみたいで ある 。 戸 田村訪問に必要だった諸経費は小田原先生が すべてを負担して下さ った。天候も良く,すばら しい快晴に恵まれて,姿が美しく,かっ鮮明な絵 はがきのような 富士の姿も見ることができて,ホ ルトハウス先生も大満足であった 。3週間の招聴 旅行の最後は東京であった 。

10

8

日には酒井先 生のお墓参りをしたが,その夜に,小田原先生か ら招待して頂いた。赤坂の皆美という料亭で,松 江の料理をご馳走になったのである 。スズキの御 奉書焼きであった。その他 にも東京駅の地下街で 小田原先生からウナギをご馳走にな っている 。け やきという名のレストランであ った。11月9日に 素晴らしい菊の展示が行われている新宿御苑を見 物し,東京水産大の大森信さんに会い,日本にお ける全ての予定が終わった。次の日にホルトハウ ス先生は離日した 。私が獲得した海外調査の

1986

年度の予算は金額があまり多くなく,ホルトハウ ス先生の招鴨に加えて報告書の刊行もしなければ ならなか った。私は 当時は住宅ローンの負担が大 きく,家計のゆとりが乏しかった 。 また,前年度 の現地調査では赤字が生じていた。 しかし,小田 原先生,諸氏,諸先生の協力のお陰で, 素晴らし く充実した内容で,ホルトハウス先生 に心から満 足して貰えた日本旅行が実現したのであ った。天 候にも恵まれた 。招聴期間中は概して好天が続い ていた 。京都見物に関しては,小田原先生の奥様 にいろいろと助言 をして頂いた 。それに従 って, 京都訪問の時期をなるべく遅くするようにスケ ジュールを組み立てたのであ った。お陰で,京都 近郊の紅葉の名所に,丁度良い時期に行くことが できた 。神護寺,嵐山の紅葉は全く素晴らしいも のであ った。オランダのライデンにはシーボルト 由来の日本のイロハモミジもある 。 しかし, 気候 の関係で,締麗に紅葉することができない。 ホルトハウス先生にはその後日本に来る機会は 無か った。

2005

6

月で

84

才。オランダ国立自然 史博物館の名誉館員として日曜日以外は毎日出勤 して今も研究活動をしておられる 。国立自然史博 物館にはタカアシガニの展示用標本としては酒井 勝司さんが寄贈したメスの標本しかなか った。長 大なハサミ脚があるのはオスであるから,国立自 然史博物館はオスの標本を欲しが っていた 。国立 自然史博物館にはシーボルト収集のオスのタカア シガニ標本もある 。 しかし,タイプ標本なので, 展示に用いることが許きれない。小田原先生は国 立自然史博物館の要望に応えて,オスの標本を送 料を負担して寄贈なさ った。その剥製標本を製作 したのは日本甲殻類学会会員の田口道夫さんであ る。大きく 美麗な襟本は来館者を驚かせ, 喜 ばせ ている 。 特別にお世話になった第2回は,オランダにお けるシーボルト収集甲殻類の標本調査の成果報告 書の刊行である 。 日本は世界的に見て甲殻類が豊 富であり,シーボルトの収集品も内容が多彩で、充 実していた。オランダの国立自然、史博物館には無 脊椎部門担当の研究者としてデ ・ハーン

(Wilhem

de

H aan

1801

- 1855)

がいた。 デ ・ハーンは見

(3)

虫が専門であったが,日本から送られてきたシー ボルトによる素晴らしい甲殻類標本類にす っかり 魅せられてしまった。シーボル トは国立自然史博 物館の館長のテンミンクと交渉し,日本産の動物 を扱ったファウナ ・ヤボニカ

(Fauna Japonica

, 日本動物誌) を刊行することにしたのである 。標 本の研究と執筆は国立自然史博物館のスタッフが するが,刊行のための経費はシーボルトが工面す ることになった 。 また,シーボルトは執筆者には かなり高額な謝金を支払 っている 。 デ・ハーンは優れた動物学者であ った。彼が担 当したフ アウナ ・ヤポニカ ・甲殻類編では多くの 日本産甲殻類が新種として記載されたが,それだ けで、はなかった 。新属,新亜属が設けられており, デ ・ハーンは実に的確な分類を行 った。そのため に,甲殻類分類における基本的文献として不朽の 価値を持つ素晴らしい著作にな ったのである 。 私と馬場敬次氏が甲殻類の標本調査を担当し た。 シーボルトが収集してデ ・ハーンが調べた標 本は実際にはどの ようなものであり ,現在どうい う標本が残っているのかを突き止めることにした のである 。1993年にシーボルト収集甲殻類を扱 っ た報告書 「シーボルトと日本の博物学 甲殻類

J

を共著として作成,刊行した 。 日本甲殻類学会か らの刊行物という体裁を取らして頂いたが,印刷 費は小田原先生がかなりの部分を負担して下さっ た。先生から 100万円を頂いたが,刊行後に, 50 万円の追加があり,計150万円を頂いたのであっ た。 また,水産無脊椎研究所からも 100万円を 別 に頂いたので,計250万円の資金を活用できる こ とになり,豪華な姿で刊行し,博物館,大学図 書館に 寄贈し,また,日本甲殻類学会の会員諸氏 にも 差 し上げることができたのであ った。 この報 告書 は700ページ余りあるだけではなく,内容も 多彩である 。私も甲殻類の研究者であるから,特 に入念に調査を行った 。 シーボルト収集の甲殻類 の標本はライデンのオランダ国立自然史博物館だ けにあるのではない。標本交換あるいは売却とい うことで, 一部ではあるが,日Ij の博物館にも移管 されている 。そうした標本についても追跡調査を 行 ったのである 。 たとえば,タカアシガニの標本はロンドンの大 英博物館の自然史部門 (現自然史博物館) にも売 却されているが,それに付着していたヒメ エボシ をダーウインは研究したのであった 。 ダーウイン はフジツボ類の研究者でもあり,モノグラフを刊 行している 。ダーウインが研究した標本も調べて, その報告書で写真 を示した 。 ごく少数であるが, 日本にもシーボルト収集甲殻類の標本がある 。そ れらも村岡健作,武田正倫氏に協力して頂いて, 撮影し,紹介している 。万事にそうしたことをし たので,手間と時間と費用がそれなりに必要とな り,研究報告書 は自分でも驚くほどに分厚いもの にな った。 自分の専門の甲殻類が対象で,小田原 先生と水産無脊椎研究所から貴重な援助を頂くこ とができたから,可能にな ったのである 。別の動 物群たとえば, 鳥に関しても,同様に入念なシー ボルト関連の調査を実施し,内容豊富で豪華な姿 をした研究報告書の刊行をしたいとは思うの であ るが, 実際問題として,不可能で、ある 。 このように二つのことに関して小田原先生に 非常なお世話になったのであるが,小田原先生 に依頼されたのに, どうしても果たせなか ったこ とがある 。私は 1987年に第 2 回目の海外学術調査 を実施することになった 。その準備で 上京 し,小 田原先生にお目にかかった時に,ヨーロ ッパで何 かカニに関した良い物を入手して欲しいと依頼さ れた 。前年に大層なお世話にな っていたから,も ちろんお引き受けしたのであ ったが,そうした物 を見つけることがどうしてもできなか ったのであ る。1987年の場合,予算も多か ったの で,私は5ヶ 月間もヨーロッパに滞在した 。調査のために,ロ ンドン,ノTリ,フランクフルトにも出かけている 。 そして,各地で工芸品とか土産品を扱う庖を入念 に見て回 ったのであ ったが,コ ップに小さなカニ の絵があるものを見つけることができた程度で, 小田原先生に満足して頂けるような品物を入手す ることはついにできなかった 。 ヨーロ ッパでは星占いが日常のことにな ってい る。生まれた月に応じて黄道上の 12の星座のどれ かが定められる 。新聞には今日の運勢が必ず出て いる 。12星座の一つはカニ座なのである 。従 って, カニを扱 った工芸品,陶磁器などいくらでもあり そうであるが,実際にはまるで無い。そうした物 はザリガニ類で置 き換えられている 。新聞の運勢 のところには,カニではなく,ザリガニの絵が示

(4)

されている 。ザリガニに関した物は豊富であり, 工芸品も陶磁器もかなり容易に見つけることがで きる 。 しかし,カニに関した物は見あたらない。 あまりにも奇妙なことなので,ホルトハウス 先生に事情を聞いてみた。 ヨーロ ッパではカニ は愛すべき動物では無いのである 。気持ちが悪い 動物ということになっているらしい。ホルトハウ ス先生はクモと同様な気味の悪い動物とされてい ると説明して下さった。そして,新聞記事の切り 抜きを見せて貰った 。オランダに生きたまま輸入 されていたアメ リカ産のワタリガニ類のアオガニ

(blue crab, Callinectes sapidus) が何かの事情で,

l

匹逃げ出して道路にいた。そこに女性が通り合 わせて大騒ぎになり,警官隊が出動して恐る恐る 近づいてようやく捕獲して 一件落着 になったとい う内容なのである 。 日本ではガザミが1 匹路上に いたからとい って警官を呼ぶというようなことは ないと思う 。新聞記事になるはずもない。しかし, ヨーロッパでは事情が異なるのである 。ザリガニ はヨーロッパでは重要な水産物であり,高級レス トランのメニューにも登場している 。その一方で、, ヨーロ ッパには 美味なカニは存在していない。食 用になる種もいることはいるが, 日本みたいに重 要な水産物ではない。 アカテガニみたいに,陸上 にも進出して人々に親しまれているようなカニは いない。そうしたことのために,カニ類に関した 工芸品とか陶磁器が存在しないのである 。 ホルトハウス先生によると,小田原先生ご自身 もオランダに来たことがあり,アムステルダムで カニ関連の物を熱心に探された。 しかし,良い物 を見つけることはできなかったということであっ た。私の場合, 一度だけカニを扱 った,感じの良 い品物を見たことがある 。 シーボル ト収集の魚類 標本が数十点ベルリンの自然史博物館に移管され ていることが判り, 2002年の5月に調査を実施し た。その際に,カニが浮き彫りにな った小皿をベ ルリンの骨董市で偶然に見たのである 。 しかし, 結局買わなかった 。その産地が本当にヨーロッパ なのかどうかは っきりしなか ったのと,あまりに も高価だ ったためである 。 ヨーロ ッパと反対に東 南ア ジアではカニを題材にしたいろいろな物が作 られている 。そうした品物かも知れないと思われ た。 また,小皿なのに

2

万円を上回る価格であっ た。 日本だ ったら同様な物は高くても

5

分の一程 度で買えるであろう 。今から思うと,疑問はあ っ ても,やはり購入して,小田原先生に差 し上げる べきだ ったのであるが。 カニ関連の品物に関しては小田原先生のご期待 に添えなか ったが,

I

燦蝦類写真 (かいかるいしゃ しん

)J

に関しては 責任を果たすことができた。 これはシーボルトが江戸で1826年に入手した甲殻 類の図譜である 。高名な自然史研究者で,幕府の 奥医師の栗本瑞見からシーボルトは貰ったのであ る。デ ・ハーンがファウナ・ヤボニカ・甲殻類編 の執筆にあたって,参照した重要な文献の一つで ある 。 しかし,印制物ではなく,手書きの図譜で あるから,実際にどういう内容の物なのか,さ っ ぱり判らない。酒井恒先生は1976年にオランダで それを自ら調査する機会を得た。そして,何とか して復刻して出版したいと思うようにな った。美 麗であり,内容も豊富で,興味深い図譜なのであ る。 しかし,実現することなく酒井先生は他界さ れた 。酒井先生の意を継いで、,小田原先生も「鵬 蝦類写真」に関心をお持ちで,印刷費は負担す るから,調査をして刊行の準備をして欲しいと 依頼された 。詳しい事情は省略するが,

r

蝶蝦類 写真j の調査研究は実は極めて厄介で,私のシー ボ、ルト関連の調査研究の中でも特に手間のかか っ たものとな った。結局,判明したのは,

I

螺蝦類 写真」は残念ながら架本瑞見の自筆図ではなく, 模写ということであった 。従って,多額の費用を 投じて原色版とし て刊行するだけの学術的価値は 持ち合わせていないという結論になった 。そのた めに,小田原先生からの援助は辞退させて頂くこ とになった。私が勤務していた合津臨海実験所か らの刊行物 (C

A l A N

U S特別号3,181ペー ジ。 2001) として,内容の紹介を行ったのである 。 し かし,モノクロではあ ったものの,全部の図版を 紹介したし,それぞれの図について考察をし,解 説をしている 。酒井先生の念願を実現したことに なったので,結果として小田原先生のご期待に添 うことができたと思う 。 小田原先生はしばしば中沢毅一先生の話をされ た。私には具体的なことは判らないのであるが, カニに興味を抱くようになったき っかけは中沢 毅ー との接触にあ った。私は中沢毅ー という方の

(5)

研究業績のことはほとんど知らない。動物学雑誌 にカニに関した論文を発表 している 。 また,シー ボルトのフ ァウナ ・ヤポニカの復刻版が1934に刊 行された時に甲殻類編の解説を担当 したのは中沢 毅ーであ った。 とにかく,小田原先生はよほど大 きな影響を受けたらしく,何回も何回も同様な話 をなさ っている 。中沢毅ーの感化によ って小田原 先生がカニに特別な興味を抱くようになり,つい には 自宅に博物館を設置し, 日本甲殻類学会を設 立することになり,そのパトロンになって運営を 行い,将来も持続できるだけの基礎を築いたので あった 。つまり ,中 沢毅ー は小田原先生を通じて 日本の甲殻類研究を促進したということになる 。 出会いというものは大切であり,全く意外な結果 をもたらすものだと思う 。 初期の甲殻類学会の会誌には酒井恒先生による 新種のカニの美麗なカラー図版が毎号含まれてい る。現在はカラー図版の印刷費はかなり安くなっ ているが,以前はそうではなか った。会員数も少 なく, 当然のことであるが,学会は赤字運営だ、っ たのである 。赤字は小田原先生が工面して補って いた 。日本甲殻類学会は今でもまだ規模が小さい。 しかし,それだけに学会の存在の意義が大きい。 学会の大会は研究の成果発表の場であると共に, 親睦,情報交換の場として貴重である 。論文や著 書 によ ってお互いに名前は知ることはできても, 学会の大会のような場が無ければ,直接に会うの は容易ではない。そういう場が存在していること は有り難いことである 。私はシーボルト関連の研 究もしているが,シーボルトに関しては組織とい えるようなものは何も存在していなし、。それぞれ の研究者が全く別々に好きなことをしているだけ であり ,Jiいの連絡も無い。成果発表の場なども ちろん存在していない。洋学史学会 という組織は あるが,性格が異な っており,シーボルト関連の 情報交換の場にはな っていなし、。学会とまではい かなくても,せめて研究会がシーボルトに関して あれば良いのにとっくづく思うのである 。しかし, 誰か親身に世話をする人がいないと,会は維持で きない。それに ,世話をする人は日本の中 心の東 京にいないとだめなのである 。地方ではどうしよ うもない。 日本の甲殻類研究において,小田原先 生のような方がおられたことは全 く幸運なことで あった。 そうしたことができたのは 一つには先生が人格 円満で、,いろいろな人々と広く 上手に 交際なさ っ ていたことにもよる 。研究者は概して個性的で あり,社交性が不十分なことが多い。性格が様々 に異なる研究者諸氏に協力して 貰っ て,組織を 作るためには, 笑みを絶やさない円満で、明るい人 柄が必要で、 あった。私に対しでも,ざ っ くばらん にいろいろなお話をなさった 。 シーボルトの甲殻 類標本についての報告の取り まと めをしていた頃 に何回かお会いしたが,その頃は日本は狂乱的バ ブル状態のピークから崩壊が始ま った期間であっ た。 どこそこでは地価が今はどのく らいにな って いる 。地価下落の兆候がある 。危なくな っている というようなことをかなり具体的にお話 しなさ っ た。 また,ご自宅をピルに建て替えて,賃貸の高 級マンションになさ ったときにも,建築費がどの くらいかか ったとか,相続税対策なのだなどと私 みたいな者にもお話をなさった 。そうした内輪の ことは,通常は内密にして外部の人には知られな いようにするのであるが,先生には秘密というよ うなことはなか った。 とにかく 気 さくだ‘ ったので ある 。 また,好奇心旺盛で、,気持ちが若かった。小田 原先生のような方が今後に現れることはもう無い のである 。 これだけ多くの人が地球上で生活して いて,日本にも人がひしめいていても,小田原先生 に替わる方が出現するとは思えない。ベートーベ ンとかモーツアルトの曲は日常的に聴くことがで きるが,では,そうした偉大な人と同様な音楽を 作曲 し,同様に人を感動させ,楽しませることがで きる作曲家が一体どこにいるのだろう 。 どこにも いないし,今後に現れることは無いのである 。優 れた教育者の中沢毅ーは小田原先生に大きな影響 を及ぼした 。中沢毅ーの教えを 受けた人は多数い たはずで、ある 。その中で、ただ一人小田原先生だ、けが 甲殻類学会の設立と維持に大きく 貢献することに なった。小田原先生が特別な方だ、っ たからである 。 先生は85才で亡くなられた 。昔なら人が羨 む 長寿である 。 しかし,今は違う 。せめて 三宅先生 のお年までと思わざるを得ない。先生のあのほほ えみが大会の会場から姿を消したのは残念である し,悲しいことであ った。

(6)

2002

年の

11月9

10

日に熊本大学で第

40

回大会が行われた 。 その年には脳出血をなさったが,幸いに も手術が成功して,完全に回復なさ った。参加された頃は大層お元気で、あった。そ のお元気なお姿を紹 介している 。

11月1 0 日のパネル講演の会場。非常に熱心に見て回られた。2 枚の写真共に,見 ておられる講演は p 2 6で,琉球 大学の成瀬さんらによる「ミヤザキサワガニの分類学的再検討」である 。右の写真で,先生の右にいる人は鈴木博会長。

参照

関連したドキュメント

(野中郁次郎・遠山亮子両氏との共著,東洋経済新報社,2010)である。本論

自体も新鮮だったし、そこから別の意見も生まれてきて、様々な方向に考えが

しかしながら、世の中には相当情報がはんらんしておりまして、中には怪しいような情 報もあります。先ほど芳住先生からお話があったのは

巣造りから雛が生まれるころの大事な時 期は、深い雪に被われて人が入っていけ

今回、新たな制度ができることをきっかけに、ステークホルダー別に寄せられている声を分析

[r]

彼らの九十パーセントが日本で生まれ育った二世三世であるということである︒このように長期間にわたって外国に

単に,南北を指す磁石くらいはあったのではないかと思