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〈講演録〉これからの経済学 : 講演録 学部将来構想検討委員会講演会

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(1)

経済学とは何だろうか  それでは、ご覧のようなタイトルにつき、私の思 うところを忌憚なくお話しさせいただきます。  「経済学とは何か」ということから始まるわけで すが、「経済」という言葉は、中国から漢語のまま 日本に入ってきたのではなくて、日本人が発明した 言葉なのです。葛洪という中国の賢人が「経世済 民」といいう四文字熟語をつくったのですが、その 意味するところは「世の中を治め、人民の苦しみを 救う」ということです。「経世済民」の「経」と「済」 を取って「経済」という言葉を日本人がつくったの です。  経済とは何かと言うと、市場を通じての財・サー ビスの取引のことです。市場メカニズムのことを価 格メカニズムと言いますが、価格が取引の決め手 となります。需給が均衡するように価格が決まるの です。さらに、政府が提供するサービスの受益と、 その見返りとしての納税の仕組み、それらの背景 にある金融の仕組みと要約されます。  経済学には、新古典派、ケインズ派、そしてマル クス派の経済学が鼎立していますが、新古典派経 済学とは、アダム・スミスに始まる古典派経済学 を数学的に精緻化したものです。アダム・スミスの テーゼと呼ばれる「個々人が私利私欲を追求する に任せておけば、国全体の福利(

welfare

)は最大 限達成される」という命題を数学的に証明するの が、新古典派経済学の基本的課題であり、自由で 競争的な市場経済が「効率的」であるということを 前提に理論が構築されています。  市場に委ねておくのが最善である。人間が経済 を計画することは不可能を要求するに等しいという 人間の限界を弁えれば、市場に委ねておくのが次 善の策であるというのが、新古典派の言わんとする ところなのです。 講演録

【学部将来構想検討委員会講演会】

これからの

経済学

佐和隆光 Takamitsu Sawa 滋賀大学 / 学長 [講演日時] 2010.11.04[木]/16:00–18:30 545共同研究室 2010.11.04[木]、545共同研究室において、 「学部将来構想検討委員会」主催による講演会の 内容を収録しました。

(2)

 アダム・スミス、デヴィッド・リカード、ジョン・ス チュアート・ミルが古典派経済学の

3

大巨人です。 他方、アダム・スミスの流れをくむ新古典派経済 学は、物理学に飽きたらなさを覚えた物理学者た ちが、オーストリアのウィーンを中心に、

19

世紀の 後半になってから、物理の論理で経済の仕組みを 解き明かそうという動機から始まったのです。   その意味で、新古典派経済学(

neoclassical

economics

)のことを

armchair economics

と言う 人もいます。つまり、物理学者が安楽椅子にもたれ て、単なる知的興味から作り上げた経済学という わけです。  失業のような不均衡、景気循環のような不安定 を市場は解消できないという前提のもと、財政金 融政策を駆使して、不均衡や不安定を解消するの が政府の役割であるとするのが、ケインズの経済 学なのです。  資本主義経済の歴史的法則を解明することを ねらいとし、資本主義は生産力と生産関係の矛盾 により自己崩壊すると予言したのがマルクスの経 済学です。   科学と非科学  科学哲学者カール・ポパー(

Carl Popper

)が 『歴史主義の貧困』(

The Poverty of Historicism

という書物を

1958

年に著したのですが、その書の 中で、資本主義経済の歴史的法則の解明を目指 すマルクス経済学は「歴史が一回生起的であるこ とからすれば、『非科学』と断罪されなければなら ない」と書いたのです。本当にそうなのかと問われ れば、私自身は必ずしもそうは思いません。  他方、新古典派経済学やケインズ経済学は部 分工学(

piecemeal engineering

)であるという意 味で科学である。例えば、インフレを抑えるために、 いかなる財政金融政策を講じればよいのかについ ての処方箋を書く。その効果の有無は検証可能で すから、新古典派とケインズ派の経済学は科学で ある、とのお墨付きをポパーから頂いたのです。  カール・ポパーの科学論について、日本の経済 学者はほとんど無関心だったのですが、故安井琢 磨大阪大学名誉教授が、理論計量経済学会の初 代会長になられたとき、就任講演の中でポパーの 科学論を披露され、大喝采を浴びました。  経済学の理論は、水面上に浮かんでおり、それ を水面下で支える思想構造が存在するのです。日 本の経済学者は、水面上に浮かぶ理論にしか関 心がなく、水面下の思想構造には無頓着というか、 その存在にすら気づいていない。経済学は科学で あるからには、思想とは無縁であると信じている。

1950

年代から

70

年代半ば過ぎにかけては、ケイ ンズの経済学が主流派でした。その後、

70

年代末 から

80

年代にかけて、ケインズの経済学を根源的 に批判する、合理的期待形成学派、サプライサイ ド経済学、マネタリズムなどが表舞台に躍り出ま した。これら反ケインズの経済学は、保守主義、効 率重視の立場に立ち、思想面でケインズの経済学 とは真っ向から対立するのです。  

1990

年代から

2000

年代にかけては、ソビエト 連邦の崩壊という追い風を受けて、保守主義を思 想構造とする新古典派とその亜流が、確固たる主 流派に躍り出た。主流派経済学の変遷は、折々の 政治情勢、社会情勢と整合的な思想構造の変遷 に由来するのです。にもかかわらず、主流派経済学 の変遷を理論の「進歩」と錯覚する。日本の経済 学者には、自らの思想信条とは無関係に、経済学 の流行り廃りに安易に追随する人が多いのです。  他方、アメリカの経済学者は、思想構造をも含 めて、新古典派かケインズのいずれかを選択する。 『選択の自由』(

Free to Choose

)の著者として有名 なミルトン・フリードマンは、典型的な保守派経

(3)

済学者ですが、彼はケインズ派全盛期の

1960

年 代から

70

年代にかけての頃、孤立無援でケインズ 経済学を批判し続けていた。  ところが、

1980

年代半ばごろには、イギリスでは サッチャー政権の下、アメリカではレーガン政権 の下、そして日本では中曽根政権の下、新保守主 義改革が推し進められ、「小さな政府」を望ましい とするフリードマンの経済学が主流派となり、ケイ ンズは過去の遺物呼ばわりされるようになった。 とはいえ、クライン、トービン、ガルブレイスらは、 新古典派全盛期の

1980

年代から

2000

年代初頭 にかけてもケインズ派の立場を一貫して貫いた。 時代の思潮がどう変わろうとも、ぶれないのがアメ リカの経済学者、時代に迎合するのが日本の経 済学者なのです。 日本の経済用語の特殊性  話は変わりますが、日本語の経済用語のほとん どが英語の翻訳ですよね。例えば、「市場」は本来 「いちば」と読むのですが、経済用語としては「し じょう」と読む。英語では市場(いちば)も市場(し じょう)も

market

ですよね。  最近の子どもは、市場(いちば)という言葉を知 らないかもしれませんが、市場(しじょう)という言 葉はもちろん知らない。けれども、スーパーマーケッ トというように、「マーケット」という言葉は知って いるはずです。  アメリカでは、市場(しじょう)も市場(いちば)も 「マーケット」なのです。ですから、「マーケット」と いう言葉は市場(いちば)と訳すべきだったのです が、「市場(いちば)経済」とか、「市場(いちば)メカ ニズム」というのではあまりにも品がないということ で、あえて市場を音読みすることにしたのです。  「プライス」という英語は、値段なのですが、や はり「値段メカニズム」というのも品がないというこ とで、あえて「価格」という、子どもたちには理解で きない言葉を経済学者は使うようになったのです。 ですから、経済学の用語は、日本語の文脈の中で は余りに非日常的なため、経済学を不必要に取っ 付きの悪いものにしているのです。  経済人(

homo economics

)とは市場に登場する、 私利私欲を追求する利己主義者のことですが、ア マルティア・セン(

Amartya Kumar Sen

)という経 済学者が『合理的な愚か者』(

Rational Fools

)と いう本の中で、人間は、私利私欲の追求に勝ると も劣らず、コミットメント(使命感)とシンパシー(他 人への思いやり)を自らの行動規範としているのだ と言い、合理的な経済人という概念は、経済学者 がつくった「愚か者」に過ぎないと断じたのです。   科学の制度化  「経済学の制度化」という言葉を、私は『経済学 とは何だろうか』(

1982

年)の中で提起したのです が、もともと科学の制度化(

institutionalization

」 という概念は、科学史家の広重徹に由来します。  どういう文脈で「科学の制度化」という言葉を 使ったのかといいますと、

1867

年の明治維新以降、 日本は極めて短時間で近代西欧の育んだ科学に キャッチアップした。それはなぜなのか。その理由 は、

19

世紀の半ばまで、欧米では科学が制度化さ れていなかったからだと広重は言うのです。科学 者は、貴族のサロンに招かれる知的芸者のような ものだったそうです。つまり、科学者という職業は 存在しなかったのです。科学が職業化したのは

19

世紀の半ばになってのことだったのです。古典力 学の開祖アイザック・ニュートンにしても、ケンブ リッジ大で哲学を学び、自然哲学の教授職に就き、 『プリンキピア』を書くのですが、その後、造幣局 長に就任するなど、科学者としての職にはありつけ なかったのです。

(4)

 明治維新までの日本には、科学の萌芽すら認め られなかったのです。なぜかというと、科学が芽生 えるためには、数量的認識と要素還元的なものの 見方が不可欠だったからです。  要素還元的なものの見方は、社会思想としての 個人主義が徹底しているヨーロッパにおいてしか 芽生えなかった。日本のみならず、東洋においては、 個人主義という社会思想はまったく芽生えなかっ たからこそ、自然現象を要素に還元して「科学」す る契機が決定的に欠落していたのです。  数量的認識が人知に備わるには、商品経済の 発達がなくてはならないのです。商品経済が発達 して初めて、数量的な認識というものが人間の頭 脳の中に備わるようになるのです。ヨーロッパでは、

17

世紀には商品経済が成熟の域に達しており、そ れゆえ数量的な認識が人知に備わり、

17

世紀末に ニュートン力学が誕生したのです。  とはいえ、科学が職業化されたのは、

19

世紀に 入ってからのことだったのです。科学の制度化の 具体的内容の一つは科学者という職業が生まれ ることなのです。二つ目が教科書化、すなわち易か ら難へと秩序だった教科書が整うことです。三つ 目は専門化、すなわち科学者が専門家とみなされ るようになることです。四つ目が、その有用性が政 府によって認知され、多額の研究費を政府が拠出 することです。 アメリカにおける経済学の制度化  以上の四つの条件を満たすことが、制度化の意 味内容なのですが、私は

1970

年にアメリカのスタ ンフォード大学に

1

年間滞在して、研究に従事した のですが、そのとき発見したことの一つが、アメリ カでは経済学が見事に制度化されていることだっ たのです。  アメリカでは、エコノミストはプロフェッショナ ルなのです。例えば、日本で言うところの国勢調査 の職業欄に、エコノミストという項目があります。 「あなたの職業は何ですか」との設問に対し、日本 人なら会社員と答える代わりにエコノミストと答え る人が十数万人もいる。  アメリカでは、経済学は秩序正しく教科書化さ れていました。標準的な教科書があり、易から難 へと段階的に教科書が整備されている。そして、な んと経済学の入門的教科書が毎年

100

万冊以上 も売れる。入門的教科書は幾つもありますが、内 容はほぼ統一されています。日本でも有名なサ ミュエルソンの

Economics

は、アメリカの大学の新 入生には難し過ぎるということで敬遠され、もっと 易しい教科書が売れ筋のようです。毎年

100

万冊 以上の入門書が売れるということは、大学の新入 生のうち

100

万人以上が経済学の入門コースを選 択することを意味します。経済学の

ABC

を知って いるということが、アメリカ社会を上手に生きてい くための必要条件だと考えられているからなの です。  次に経済学の専門化についてですが、査読付き 専門誌というのがあって、経済学者の評価は専門 誌に採択され掲載される論文の数によって下され ます。それから、連邦科学財団(

National Science

Foundation

)が多額の研究費を経済学の研究に 拠出しています。経済学が「有用」であることが社 会的に認知されているからです。  そこで問われなければならないのは、日本でも 経済学は制度化されているのか否かです。日本で 経済学が職業化しているかと問われると、私は 「否」と答えざるを得ません。エコノミストを自称す る人は多いけれども、その多くは理科系学部の出 身者であり、経済学を基礎的入門から専門的なと ころまで、きっちりと勉強してこられたわけではなく、

(5)

大学の工学部を卒業して、エコノミストを自称して、 シンクタンクで働いている人が多いのが実情です。  よくテレビのニュースなどに登場する、シンクタ ンクのチーフエコノミストなどの肩書の人の過半 が理科系学部の出身者ではないでしょうか。実際、 エコノミストを自称する人の大部分が経済学会に 所属していません。アメリカ経済学会と日本経済 学会の会員数には

10

倍もの開きがあります。  次に、教科書化に関してですが、確かに、標準 的教科書が整い始めていますが、その多くが翻訳 書です。日本人が日本語で書いた教科書で「標準 的」と言うにふさわしいものは少ないのではないで しょうか。  有用性についてはどうでしょうか。少なくとも建 前として、経済学の有用性が認められているからこ そ、それなりに巨額の科学研究費が拠出されるよ うになりました。とはいえ、本当に有用性が社会的 に認知されているのかと問われれば、私自身、答え に窮します。経済学者の言説に実務家たちが真摯 に耳を傾けるかというと、決してそうとは思えませ ん。要するに、政治的な利用価値の有無により、経 済学の有用性の判断がなされるように見受けられ ます。  計量経済学を例にとれば、「

2020

年までに

CO

2 を初めとする温室効果ガスの排出量を

25%

削減 する」という鳩山イニシアチブの可否をめぐって、 計量経済モデルが誤用・悪用されました。

2020

年 までに温室効果ガス排出量を

90

年比で

25%

削減 しようとするならば、家計の可処分所得が

22

万円 減少し、光熱費が

14

万円増加するといったモデル 予測の数字が、鳩山イニシアチブ批判の根拠とし て挙げられる。  しかし、考えてもみてください。来年の経済予測 ですら全然当たらないのが実情ですよね。いわん や、

10

年先に

25

パーセント排出削減すれば、家計 の可処分所得が

22

万円減少するなどといった予 測が当たるはずがありません。今後

10

年間に何が 起こるか分からないにもかかわらず、

10

年先の予 測値が独り歩きする。  一見、経済学の有用性が認められているようだ けれども、結果的には、政治に利用されているだけ かもしれない。例えば、政府の審議会などでも経 済学者の発言は、ほとんどないがしろにされがち です。以上のような次第で、経済学が正真正銘有 用だと認知されているかについては、疑問を呈せ ざるを得ません。   反証し難い経済理論  経済学は科学なのかという設問に答えるために は、科学とは何かについて了解しておかねばなりま せん。まず仮説があって、そこから出発して、多くの 場合は数学的な演繹を行い、何らかの命題を導く。 その命題をデータと照らし合わせて、その真偽を 確かめる。もし命題がデータと整合しなければ、仮 説の体系としての理論は反証されることになります。  新古典派経済学の仮説には、家計は所得制約 の下で効用を最大化するように行動(消費)する、 企業は所与の技術の下で利潤を最大化するよう に行動(生産)する、と言ったようなものがあります。  家計は所得制約の下で効用を最大化する、限 界効用は逓減するという二つの仮説から出発して、 例えば牛肉の需要曲線は右下がりであるという命 題が導かれます。牛肉の需要関数が右下がりであ るという命題の当否を、データと照らし合わせて 確かめる。  データと照らし合わせて検証可能、あるいは反 証可能な命題のことを有意味な定理(

meaning

theorem

)と言います。有意味な定理を導くことが 出来ること、それが科学の条件だというのが、ごく 標準的な科学の定義であります。

(6)

 経済学の世界では、複数個の理論が共存して います。例えば、ケインズ経済学者とマネタリスト は、マクロ経済に関して、まったく逆の命題を導く のですが、これら二つの経済学の黒白をデータに よって付けるのは不可能に近いのです。だからこそ、 いつまでたっても二つの理論が共存し続けている。  なぜそうなのかというと、経済学の理論とは仮 説の体系なのですが、仮説の中には本質的な仮説 と、防御帯(

protective belts

)としての仮説がある。  新古典派ならば、家計と企業の行動に関する仮 説は本質的な仮説です。防御帯としての仮説とは、 それを適当に修正しても、理論を覆すことはない 仮説のことです。収穫不変といった仮説は、防御 帯仮説の典型例です。この仮説を織り込んで導か れた命題がデータにより反証されたとします。そこ で収穫不変の仮説を収穫逓減の仮説で置き換え る(防御帯を取り換える)ことにより導かれた命題 がデータと整合的であれば、新古典派経済理論 は反証を免れるのです。その結果、複数個の理論 が共存し続けるのです。  パラダイムシフトという言葉があります。パラダ イムすなわち理論がデータにより反証されて、新し いパラダイムすなわち理論に置き換わることを意 味します。例えば、

19

世紀末になって、量子レベル の現象を古典(ニュートン)力学によって説明でき ないことが分かり、その結果、古典力学から量子 力学へのパラダイムシフトが生じたのです。  経済学に関しては、その折々の主流派経済学を パラダイムと呼ぶのだとすれば、パラダイムは数十 年ごとにシフトする。長らくケインズ経済学がパラ ダイムだったのに、

1970

年代の後半になると、ケイ ンズ経済学が完全に否定され、合理的期待形成 学派、サプライサイド経済学、マネタリズムが主 流派の座に居座ったかと思えば、わずか数年後に、 新古典派経済学にその座を奪われた。 効率と公正、そして幸福  経済システムの良し悪しの判定基準としては、 効率と公正の二つが挙げられます。市場経済は 「効率的」だが「公正」ではない。公正を担保する のは政府の役割であるというのが、常識とされて います。  問題は、私たちの目指す「豊かな社会」とはどん な社会なのか。「豊かさ」と「幸せ」のどこがどう違 うのか。「豊かさ」は「幸せ」の必要条件なのか。  ヒマラヤの西側にブータンという人口約

60

万人 の小さな国があります。ブータンでは、前の国王が、 国民 総 生 産(

GNP

)の 代 わりに 国民 総 幸 福 (

GNH

)を経済発展の物差しとすべきであると言 い、注目を浴びましたが、やはり最終的に追求す べきなのは「幸せな社会」ではないでしょうか。国 内総生産(

GDP

)の大きな社会が「豊かな社会」 なのかどうかも疑わしい。  日本は一人当たり

GDP

競争で、

1993

年に世界 で第

3

位だったのが、今は

23

位ぐらいまで落ち込 みましたが、

1993

年と今を比べて、日本人は「豊か さ」を失ったのでしょうか。あるいは、不幸せになっ たのでしょうか。決してそうではないと少なくとも私 自身は考えます。  経済も人間と同じように健全に成長することも あれば、病に冒されることもある。市場経済は、病 から回復する力、復元力を持っているというのが、 新古典派の考え方なのです。実際、

2001

年の就任 直後、小泉首相(当時)は「構造改革なくして経済 成長なし」とおっしゃり、市場をより完全なものに 近づけ、つまり市場の不完全性を取り除いて、長 期低迷に陥った日本経済を再活性化させようとし た。小泉元首相は、生粋の新古典派経済学の実 践者だった。つまり、市場経済は病から回復する 自己復元力を持っている。今の市場経済は不完 全だから、その不完全さを取り除いてやりさえす

(7)

れば、景気低迷から立ち直ることができるというの が新古典派の考え方なのです。   財政金融政策の有効性  経済を生命体とのアナロジーとして見るのが新 古典派だとすれば、機械とのアナロジーとして見る というのがケインズ経済学なのです。  つまり、経済はブラックボックスのようなもので あって、そこに税率、公共投資、政策金利などの外 生的な変数をインプットする。それに応えてアウト プットとして出てくるのが、

GDP

、失業率、物価上 昇(下落)率、貿易収支などです。政府がインプッ トを操作することにより、アウトプットを望ましい 水準に自在に調整できるという考え方なのです。  いわゆる財政金融政策で経済を制御できるか どうかが、争点の一つなのです。制御可能性は現 実経済の発展段階に依存するというのが、私の考 えるところなのです。実際、

1960

年代から

70

年代 にかけての日本では、財政金融政策はよく効いた。 戦後初の国債を発行して公共事業をやることに よって、昭和

40

年不況をたちどころに「底入れ」さ せることができたのです。ところが、

1991

3

月に 始まったバブル崩壊不況に際しては、財政金融政 策の効果は無きに等しかったのです。経済構造の 変化のせいだとしか言いようがありません。  日本の政府は「やるべきでないこと」をやり過ぎ ているとの批判があります。立ち上げは政府がや らなければならないがけれども、その後、民営化さ れる産業のことを、私はネットワーク産業と呼ぶの ですが、具体例としては、鉄道、電信電話、電力、 高速道路などが挙げられます。これらは、いずれも 公社として立ち上がり、順次、民営化されました。 電力の場合、送配電網は国営企業としてスタート し、その後、発電会社を吸収して、地域独占を許さ れた民営企業になりました。そして、電力の卸売り に始まって小売りまでもが参入自由となりました。 郵便三事業もまたネットワーク産業の一種に数え られます。小泉政権の下、郵政三事業は郵政公社 となり、その後、日本郵政株式会社として民営化さ れました(ただし、株式は国が保有)。  とりわけ日本の場合、ネットワーク産業には「全 国津々裏々」にサービス網を張り巡らせることが 義務付けられます。それだけ初期投資に膨大な費 用がかかるため、立ち上げ期には国の力に頼らざ るを得ないのです。   ポスト工業化社会へ  製造業が経済の中枢部を占めている社会のこ とを、工業化社会と呼ぶとするなら、今日の日本経 済はポスト工業化社会へと向かいつつあると見て よいでしょう。高度情報化技術を取り入れ、生産・ 経営プロセスを抜本的に改編して、製造業がよみ がえる。つまり、高度情報化技術を梃子にして製 造業が復活するわけです。これがポスト工業化社 会の一つの側面であります。  もう一つの側面は、金融、通信、情報、医療、法 務、教育、シンクタンクなどのソフトウェア産業が 経済の中枢部に躍り出る。ポスト工業化社会には、 こうした二つの側面があるのです。  ポスト工業化社会の問題点は、次のとおりです。 一つは、個人間の所得格差が拡大すること。二つ は、リスクと不確実性が増大すること。実際、金融 が経済の中枢部に居座るような経済社会では、リ スクと不確実性が高まることは否定できません。三 つは、自由競争の結果が一人勝ちになりやすいこ とです。一例として、パソコンの基本ソフトでのウィ ンドウズの一人勝ちを挙げておきましょう。四つは、 不正会計が横行する可能性が増大することです。 数年前、アメリカの電力卸売会社エンロンが不正 会計をやっていることが発覚し、倒産に追い込ま

(8)

れました。一言でいえば、電力の架空の取引をでっ ち上げ、売上高を偽るという不正会計を行ったの です。電線で運ばれる電力の取引は目に見えませ ん。そのため、会計監査法人とグルになれば、架 空の取引をでっち上げることは、いとも簡単だし、 発覚しづらいのです。通信会社の場合も同じです。 何ビットの情報が送られたのかは目に見えない。 架空の取引を自在にでっち上げることができるとい う点もまた、ポスト工業化社会の問題点の一つな のです。  日本は今、ポスト工業化社会の入り口に向かい つつあります。私たちはポスト工業化社会の経済 の仕組みを正確に理解し、さまざまな変化に対し て迅速かつ的確に「適応」する用意を怠ってはなり ません。  工業化社会を経て後、ポスト工業化社会へと向 かうのは歴史的必然のようなものなのです。ポスト 工業化社会がどんな問題をはらんでいるのかにつ いては、すでに見たとおりですが、多くの人びとに とって、ポスト工業化社会は決してユートピア(理 想郷)ではありません。個人間、国家間の格差は 拡大するし、自由競争の結果が一人勝ちに終わり がちであり、リスクと不確実性が増大し、不正会計 が横行しかねない社会。これがポスト工業化社会 の実相なのです。  これまでの経済学は工業化社会を前提としてい ました。生産関数を例にとりましょう。労働力と資 本設備を生産要素とし、付加価値を生み出すのが 在来型経済学の想定する「生産」なのです。こうい う考え方自体、工業化社会を前提としているのは 無論のことですよね。農業生産もまた、こういう想 定に当てはまりますよね。  ところが、バブル崩壊不況とその後の長期低迷 のゆえんを説明する諸説が紛々としていること自 体、工業化社会を前提に据える在来型経済学の 無力を物語って余りあるのではないでしょうか。ケ インズ主義的な財政金融政策は無効に成り果て ましたし、新古典派的世界観も古臭いと言わざる を得ません。ゼロ金利になっても、企業は設備投 資しようとしないし、個人も住宅投資しようとしな い。先々のことを考えると不安感が拭えないから、 消費せずに貯蓄ばかりしているため、財政金融政 策の内需誘発効果は乏しくなった。そこで、新しい 経済学の必要性が叫ばれているのですが、目下の ところ、その登場の兆しは認められない。 第三の道  イギリスの社会学者アンソニー・ギデンズが「第 三の道」を唱えています。菅直人もまた「第三の道」 を唱えていますが、ギデンズないしブレア元英首 相の「第三の道」とは、まったく意味合いを異にし ています。小泉元首相の市場万能主義と田中角栄 元首相の公共事業主導型経済政策を、それぞれ 「第一の道」、「第二の道」として、消費増税による 雇用拡大を「第三の道」とするのが、菅直人の言う 「第三の道」なのです。ギデンズの言う「第三の道」 とは次のような意味です。  第一に、これまでの福祉社会は、弱者に生活費 を支給するという意味で、ネガティブ福祉社会だっ た。職業訓練などに資金を投じて、弱者に働く機 会を提供できるポジティブ福祉社会を目指そうと いうのが、ギデンズの言う「第三の道」なのです。  第二に、教育、医療、福祉などの公共サービス、 働く場所などから排除(

exclude

)される人の数を できるだけ少なくするのが、「第三の道」の目指すと ころです。したがって、失業率の低い社会を目指す のが「第三の道」の要諦の一つなのです。  民主党内閣の掲げる政策のうち、子ども手当、 高校教育の無料化などは、ギデンズの言う「第三 の道」に近い政策だと見て差し支えないでしょう。

(9)

医療に関しても、アメリカでは、先進国では唯一、 医療保険が民間の保険会社任せだったのですが、 オバマ政権が医療保険をやり始めたのは、「第三 の道」を志向する政策転換だと評価することがで きます。  日本の経済学者の多くが、福祉のことをセーフ ティネットと表現しますが、それは大きな誤解なの です。セーフティネットという言葉は「サッチャリズ ム」の下での福祉を意味します。労働生産性の低 い人、能力の劣っている人を最低賃金で雇うのは、 企業にとって害あって益なしである。したがって、 能力の劣る人には、国が必要最低限の生活費を与 えて、セーフティネットの上で惰眠をむさぼっても らっておいた方が、社会的には得策である。これが セーフティネットの意味するところなのです。  要するに、セーフティネットとは社会的弱者を蔑 視する意味あいの言葉なのです。弱者にはセーフ ティネット上で惰眠をむさぼっていて欲しい、食べ るだけのお金は国が差し上げますからというのが ネガティブ福祉なのです。  ポジティブ福祉はセーフティネットではなく、ト ランポリンでなければならない。つまり、いったん 落ち込んだ人を、もう一度、上に上げる手助けをす る。例えば、職業訓練を国がやって、失業者をもう

1

度有業者にするといったことです。  排除される者のいないポジティブ福祉社会が、 これから経済学の目指すべきところだと思います。

1885

年、アルフレッド・マーシャルがケンブリッジ 大学の経済学の教授に就任した際の記念講演会 で「冷静な頭脳と温かい心情(クールヘッド・アン ド・ウオームハート)を持ち、そして社会的苦悩を 克服するために、自らの最善の能力を進んでささ げようとする人々の数を一人でも多くすることが、私 の念願であります」と言っています。  小泉元首相は、冷静な頭脳の持ち主だったかも しれないけれども、ウオームハートからは縁遠い 方だった。経済学者そして政治家は、クールヘッド とウオームハートの持ち主でなければならないと 私は考えます。   これからの経済学  最後に、これからの経済学の在り様について考 えてみましょう。一世を風靡した市場万能主義は、

2008

年の国際金融危機と世界同時不況の襲来 のせいで破綻したと見ていいでしょう。他方、政府 万能主義も破綻したと言わざるを得ません。先進 国における財政金融政策の有効性の顕著な低下 がその証です。  歴史主義の復権の兆しを私は感じます。歴史を 抜きにして経済について語れないという当たり前 のことが意識されるようになりつつあります。イデ オロギーというか思想を再構築して、それに基づく 経済学をこしらえていく必要があります。効率と公 正のバランス、社会的弱者の救済、被災に対して ロバストな経済構造の構築などが、視野に組み込 まれなければならない。  予測に関しては、高速コンピューターを用いれば、 経済予測が可能であるとの幻想を払拭しなければ なりません。神ならざる人間にとって、定性的な予 測は可能だが、定量的な予測は不可能だというこ とをはっきりと認識すべきなのです。その理由とし ては、経済現象の非線形性、非連続性などが挙げ られます。  これからの経済学は、新古典派、ケインズ、マル クスを統合したもの、言い換えれば、数理経済学 の限界を弁えた上で、理論を水面下で支える思想 を再構築し、歴史主義的思考と政治経済学的思 考を取り入れ、更には、自然科学、工学などとも連

(10)

携する経済学でなければなりません。したがって、 経済学を学ぶためには、数学、自然諸科学、歴史、 哲学、思想史、社会諸科学といった、きわめて幅 広な知識の持ち主でなければなりません。こうした バランスのとれたオールラウンドな能力を養うこ とによりはじめて、経済学の面白さを実感できるの ではないでしょうか。 (講演終了)

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