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日系アメリカ作家と強制収容所
原 田敬 一
1 日系アメリカ文学とその背景 日系アメリカ文学という言葉を聞いて一般の人々はもちろんのこと,アメリ カ文学研究者でも戸惑いを感じる人が多いようである。それも無理からぬこと であって我が国のアメリカ文学史でこの分野を扱っているものは皆無であるし, この研究者たちが依存している英米で発行されてきたアメリカ文学史,文学論 でも,日系どころかアジア系アメリカ文学について論じているものはきわめて 少なかったからである。この間の事情について,フィリッピン系アメリカ人ジ ェシカ・ハゲドーン(Jessica Hagedorn)は次のように語っている一「私の高校 の授業ではHawthorne, Poe, Melville, Dostoevsky, Dickens,そして時折 Emily DickinsonとかBront6姉妹を読んだ。しかし, Sui Sin Far, Richard Wright, John Okada, Lawson lnada, Gwendolyn Brooks, James Baldwin, Toshio Mori, Carlos Bulosanなどはカリキュラムには存在しなかった」 (Hagedorn xxiv)。カリキュラムのなかに「存在しなかった」,これらの作家た ちはそれぞれ中国系,日系,アフリカ系,フィリッピン系のアメリカ入作家た ちであるが,この状況はこの当時の大学,大学院でのアメリカ文学カリキュラ ムでも同様であった。 しかし,彼女が高校を卒業した1967年頃からアメリカ文学にたいする考えは 少しずつ軌道修正がなされるようになる。そのきっかけとなるのは1960年代の アメリカ社会の大変動であろう。1954年から21年中も亙ったベトナム戦争はア メリカ社会,政治を揺り動かし分裂させた。1960年代に入るとケネディ大統領 (1963),マルカム・X(1965),マーチィン・ルーサー・キング牧師(1968)などの血なまぐさい暗殺があい続いた。それと平行して黒人の権利と平等を主張する 戦闘的なBlack Panther, Black Powerなどの活動が起こり,同様に長年に亙 って各地の居留地などに閉じ込められていた先住民族のインディアンたちによ る自己主張の運動が起こる。また長年に亙り黒人たちと同様の差別と蔑視の扱 いを受けてきたアジア系アメリカ人,ヒスパニック系アメリカ人たちの社会的, 政治的,経済的平等を求める運動が台頭してきた。このことはまたこのような 次元に止まらず,文化的な次元での自己主張を呼び起こし,アメリカ文化をそ れまでのようなヨーロッパ系聞入中心のものではなく,多文化,多民族遺産か らなるモザイックとして捉えようとする意識が高まり,「るつぼ」(melting pot) としてではなく,「サラダ・ボウル」(salad bowl)という比喩で表わするように なる。いわゆる,multi−culturalism, multiethnicityという考えの出現であり, 白人,特にWASPが主流であった社会の中で「はみ出し」的存在であった少数 民族グループの主流への参画という発想へと発展をしてゆく。mainstream対 marginalityの力学関係であり,文学ではMELUS(Multi−Ethnic Literature of the United States)の運動へと発展をしていくのである。 こういう趨勢の中にあって,アジア系アメリカ人の運動は注目に値するもの があった。特に1960年代から始まった,日系三世を中心とする,第二次世界大 戦中に「敵性外国人」として日本人,日系アメリカ人が強制収容されたことに 対する政府の公式謝罪と賠償金を請求する運動は多くの若い日系人たちを団結 1) させることとなった。同時にこの運動は日本人よりも早くからアメリカに移住 をしてさまざまな差別と苦難を強いられてきた中国系アメリカ人,またアフリ カ系アメリカ人たちとの連携を強めることともなり,アジア系アメリカ人の自 意識が高まっていった。 この自己主張とアジア系アメリカ人の連帯が文学,芸術,演劇などの分野で 大きな展開と飛躍を示すきっかけとなるのは,3人の中国系アメリカ人と1人 の日系アメリカ人が1974年に編纂,出版をした.4iiieeeee!というアンソロジー であった。この二つの民族はそれぞれの祖国では第二次世界大戦前及び大戦中 から侵略者と被侵略者という関係にありはしたけれども,他方アメリカにあっ
日系アメリカ作家と強制収容所 3 ては両者ともさまざまな排斥法によって白人たちからの迫害を受けるという経 験を共有しており,またそれぞれがChinatown, Japantownなどの共同社会を 作り独自の文化を保ってきたが,そのためにWASPたちから両者ともに黄色 人種として侮蔑の対象となってきた。そしてこのことがアジア系アメリカ人の なかにあってこの二つの民族を特に近ずけるようになったようである。このア ンソロジーのタイトルの意味について編者たちは「白人系アメリカ人たちは, 黄色人種とは傷ついたり,悲しんだり,起こったり,罵ったり,疑ったりする ときにAiiieeeee!という悲鳴や大声を挙げたり,叫んだりする連中だと考えて いる。長い間無視され,アメリカ文化への創造的文化から締め出されてきたア ジア系アメリカ人はまさに傷つき,悲しみ,怒り,罵り,疑っている。そして これがかれのAiiieeeee!なのだ。しかしそれは悲鳴や,大声や,叫び声以上の ものなのだ。それは50年にわたる我々の声のすべてなのだ」と説明をしている (Aiiieeeee ! vii−viii)
このアンソロジーの出版から17年後に同じ編者たちによってThe Big
Aiiieeeee!という中国系及び日系アメリカ人作家の小説だけを収録したアン ソロジーが出版された。また1993年にはアジア系作家の小説だけのアンソロジ ーCharlie Chan Is Deadが出版された。この3冊のアンソロジーを眺めてみ るといくつかの興味ある事実が浮かんでくる。最初のAiiieeeee!では収録され ている作家は14人で,フィリッピン系が3人,中国系が6人,日系が5人であ る。The Big・A iiieeeee!では26人の収録作家のうち17人が日系,あとは中国系 となっている。Charlie Chan ls Deadでは中国系が18人,日系が12人,フィリ ッピン系が9人,韓国系が3人目インド系が2人,シンガポール系,パキスタ ン系,ベトナム系が各1人となっている。つまりこの17年の間にこれだけ多様 性のあるアジア系アメリカ人作家が出現しているのである。しかも,ここに挙 げた数字はアンソロジーという限られたスペースに収録されたものであって, 実際に作家,劇作家として活躍しているアジア系アメリカ人の数はおびただし いのもがある。加えて,この間に目立った現象として特記すべきことはかって は無視,乃至は軽視されてきた女性作家たちの活躍ぶりである。これは1960年代以降のフェミニズム運動によるところが多いことは言うまでもないことで, アジア系アメリカ人の問だけの現象だけではなく,アメリカ文学見直しの亡き 2) な流れに沿うものである。また,アジア系アメリカ文学の台頭に関して重要な 契機のひとつに出版社(者)の問題がある。Aiiieeeee!を出版したのはWashin− gton, D.C.にある名門黒人大学Howard大学出版局であった。このアンソロジ ーがこの大学の出版局から出版されたいきさつは詳らかではないが,1974年に この種のアジア系アメリカ文学の出版に興味を示す商業出版社はあまりなかっ たであろうことと,高まりつつあった少数民族間の連帯意識と黒人の公民権運 動との繋がりに応えようとする同出版局の意欲がそこにあったのではないかと 思われる。1980年後半を過ぎるころから,大手の商業出版社がアジア系アメリ カ作家に対する関心を示し始めるが,他方商業出版社が自分たちに目お向ける のを待つことはできないと感じたこれらの作家の多くは,互いに団結をして自 分たちの出版社を設立することによってその成果を世に問い,自己主張をする 途を選んだ。そして,今に至るまでこの傾向は続いている。しかし,今や,例 えばThe Big A iiieeeee!及びCharlie Chan ls Deadは両者とも,英米二国に わたっての最大手の出版社のひとつであるPenguin Groupsから出版されてい る。またCharlie Chan Is Deadはアメリカの高級読書人たちのブッククラブ であるReader’s Subscriptionのセレクションとなっているし,近年はいろい ろのブッククラブのセレクションに選ばれたり,さまざまな文学賞を受けるア 3) ジア系アメリカ作家が増えている。このように最近になって大手の商業出版社, またNew Yorkerのような雑誌もアジア系アメリカ人作家に興味を示してい る現象の背後には当然のことながら彼らの作品にたいするアメリカの読者たち の関心が向けられているという意味での市場性が拡大してきたことを示してい る。(このことは,かつてはまったくと言ってよいほど無視されてきた先住民族 アメリカ・インディアンの作家たちにもあてはまる)。 このような状況が生じてきた背景に大学,学会の地道な努力があったことは 見逃すとができない。1960年代以降のアメリカ社会全般への見直しの機運のな かで学問,教育制度の見直しと改革が要求されるようになってきた。特に少数
日系アメリカ作家と強制収容所 5 民族,女性のさまざまなグループの運動,圧力によって,大学の内部でも新し い制度,カリキュラムが導入された。それはアメリカ研究のすべての分野に亙 っての軌道修正ともつながり,人文,社会科学では特にその傾向は強く,歴史 の分野では新歴史主義(New Historicism)が叫ばれ,文学研究では長い間傑作 とされてきた作品,アメリカ文学を代表すると考えられてきた作家たちの位置 付けの再評価,つまりCanonの見直しへと発展をし,marginalとされてきた作 家の主流への組み入れが論議の対象となった。多くの大学ではアフリカ系アメ リカ研究(African American Studies),女性研究(Women’s Studies),アジア 系アメリカ研究(Asian American Studies)などの研究所や講座が設置され始 めた。特に,アジア系の学生,教員が多い西海岸の諸大学ではアジア系アメリ カ研究を選択必修科目に指定している所も多く,これが前述のアジア系アメリ カ文学のアンソロジーや作品の市場性と拘わってくる。この分野の学部は以前 から多くの著名な大学に存在はしたが,1960年代以降ではその内容,問題意識 数の点からみて以前とは格段の相違がある。大学が中心になって発行される学 術雑誌も出現するようなった。1971年にはYale大学のアジア系アメリカ研究 学会(Yale Asian American Studies Association)が機関紙Amerasian lozar− nalを発行(現在はUCLA Asian American Studies Centerが発行している), 1974年には多民族・多文化アメリカ文学研究専門雑誌MEL USが発行されてい る。加えて,アメリカでは商業出版社と肩を並べるほどの影響力をもつ大学出 版局の多くがアジア系アメリカ文学作品の出版にカを入れており,特に Hawaii, Washington, California, Indiana, Princeton, Cornellの各大学の活躍 ぶりが最近は顕著である。また学会でもアメリカ現代語学文学協会(Modern Language Association of America−MLA)はかねてから,これらの分野につ いて各種の委員会を設置して研究を続けその成果の刊行により研究者たちに問 4) 題の所在について注意を喚起してきた。 II 日系アメリカ文学の特性と太平洋戦争 日系アメリカ人の文学を考えるとき,以上のような枠組みと背景を念頭に置
く必要があるが,その特殊性にも注目せねばならない。その文学の殆どは他の 移民の文学と同様,祖国を後にして新しい国アメリカで運命を開拓する人々の 姿を描いているが,それは彼らが胸に抱いていやってきた「成功の夢」が無残 に砕かれる体験がその主なものであった。大多数の移民たちはハワイ,カリフ ォルニアに渡った人たちであったが,特にカリフォルニアでの彼らを待ってい たものは打ち続く差別であった。1882年の中国人移民の禁止の後を受けてアメ リカ全土に移住した日本人は1900年の時点で2万4千人強であったが,彼らの 低賃金と勤勉に脅威を感じた白人たちの圧力によって,1906年にはサンフラン シスコ教育委員会による日本人及び日本人児童にたいする差別,1908年には日 本人男子の移民制限が施行された。1908年には外国人土地所有禁止法(Alien Land Act)が公布され,アメリカ国籍をもたないものには土地の所有が禁止さ れた。更に,1922年には合衆国最高裁により,日本人及び他のアジア人は人種 的理由から帰化が禁止された。これにより日本人は土地を所有する夢を打ち砕 かれ,土地の貸与すら認められなくなった。このため農業に従事する日本人移 民の多くは,渡り鳥のように雇い主を変えて移動する生活を余儀なくされた。 しかし,1940年越でには日系人の62,7%までがアメリカ生まれで占められるよ うになり,一世たちの多くは自分の息子たちに土地を所有させることが可能と なった。 だが,1941年の日本軍による真珠湾攻撃のため,日系人たちの運命は一転し た。開戦と同時に日本人指導者と目される人々のうち1,291名がFBIによって 逮捕され,排日団体,反日マスコミなどの扇動により,H本人商店,住宅の多 くが襲撃されたり,殺人,強姦事件が頻発した。翌1942年2月19日にはローズ ベルト大統領は悪名高い「大統領令9066号」に署名をし,3月2日には西部防 衛司令官DeWittの権限により,西部沿岸各地の日本人一世,二世の即刻立ち退 きの命令が出され,こうして約12万人の日系人たちが財産をただ同然で売り払 い,殆ど着のみ着のままで10の強制収容所へと送られることとなった。収容所 の殆どは馬小屋などを仕切って改造したバラックで,夏は酷暑,冬は厳寒と寒 風に吹きさらされる生活であった。同じ「敵性国民」であったドイツ人,イタ
日系アメリカ作家と強制収容所 ア リア人たちは収容所に送られることがなかったことや,DeWittの日本人,日系 人はどこに居ようと“AJapisaJap”だと言ったことなどが後に伝えられ, この処置が日系人にたいする人種偏見に基ずくものであるという認識が蔓延し ていった。収容所におけるアメリカ市民権をもった二世たちの多くはは,後に 政府の忠誠宣誓(loyalty oath)の要求に答え,かの有名な二世部隊である,442 戦闘部隊(442nd Infantry Regiment)1こ参加しフランス及びイタリア戦線で戦 い,嚇々たる戦果を上げた。それは収容所から脱出をする唯一の手段でもあっ た。祖国日本と戦うことになるかもしれない息子たちを見送る,アメリカ市民 権を持たない一世たちの気持ちは複雑であった。なかには二世としてのアメリ カ市民の権利を躁醸したアメリカ政府の理不尽なやりかたに抗議をして宣誓に 署名することを拒否し,牢獄に入れられたものたちもいた。これがNo−No Boy たちである。こういう息子たちを持った一世たちは,大多数の忠誠派の一世, 二世から非国民扱いをされ,また村八分の扱いを受けて,恥を忍び,肩身の狭 い思いをしたのであった。日系人の文学作品の殆どが何らかの形でこのような 5) 強制収容所での体験に触れているのは当然のことであろう。 III モリ,ソネ,オカダ 本稿では太平洋戦争と日系アメリカ人の体験に触れている彩しい数の作品の なかから,既に古典的地位を占めてい三人の作家とその作品を扱うことにする。 日系アメリカ人の文学を論ずるとき,その高い文学士と先駆者としての重要 性から見てトシオ・モリ(Toshio Mori.1910−81)を無視することはできない。 彼はカリフォルニア州Oakland生まれの二世で若いころから文学を志し,家業 の花卉栽培に従事しながら短編小説を書きつずけた。1970年代には彼の短編小 説の多くが多数のアンソロジーに収録されるようになり,その名声は高まって いった。彼の母の生涯をもとにして書いた長編小説Woman from Hiroshima (1980)は1981年忌国際婦人平和・自由協会賞を受けている。最初の短編集 Yokohama, Calzfornia(1949)は1930年代,40年代のカリフォルニアの日本人及
び日系人のコミュニティーの人々とその生活を描いた22の短編を集めたもので ある。それぞれの作品はその詩的な香り高さ,ペーソス,人間にたいする深い 洞察に満ちている。当時の有名な作家であり,彼自身もアルメニア系の移民の 子供であったWilliam Saroyanはモりの才能を高く評価し,この短編集に序文 を寄せたほどである。また,この本の1985年版に序文を書いている二世詩人の Lawson Fusao lnadaはそのなかで,これは「最初の,本物の日系アメリカ人 の作品」であり,「記念碑であり,古典である」と述べている(lnada. New Intro. Yokohama, Calzfornia. v.)。彼の作風は彼自身も認めているように,20 世紀アメリカ文学のモダニズムに大きな影響力をもったSherwood Anderson に負うところが大きい(Mori. Counteηpoint 477)。 Andersonの世界がWines− bergという架空の空間であるとすれば,彼の世界は日系人の現実のコミュニテ ィーであり,その重点は戦前のコミュニティーにありDavid R. Mayerの言う ところのneighborhood novelを作り上げているが(Mayer 55−77),モリは一見 限られた狭い世界にもかかわらずそれに普遍性を与えることに成功している。 戦時中彼はユタ州のTopaz収容所に送られ苦難の体験をしたのだが,彼は後に 続いた他の日系作家たちのような抗議文学を書かなかったことがその特徴であ る。戦時中の経験についての彼の態度は「子供達よ,明日がくるのだよ」 (“Tomorrow Is Coming, Children”)という短編によく現れている。この6ペ ージたらずの物語のなかで,日米間が風雲急を告げているとき,親類縁者の反 対を押し切ってアメリカにいる夫のもとにやってきた「おばあさん」が,収容 所のなかで孫たちに自分の過ごしてきた生涯と自分の信念を語って聞かせる。 夢にまで見た「金の都会」サンフランシスコ,英語しか通じない世界,孤独な 淋しさに悩むアメリカ人,言葉は通じなくても慰めあえる人間の世界,どのよ うなことが起ころうとも人生は過ぎていくものだ,とおばあさんは孫たちに語 る。そしてこの物語の最後で彼女はこう語る一「人生にはとてもきびしいこと があることが,やがておまえたちにもわかるだろう。戦争はつらいものだよ。 もし戦争がなかったら,わたしたちはこうして収容所に隔離されていることは なかっただろうね。...ほんとうに戦争というものはこわいものだよ。ひとの
日系アメリカ作家と強制収容所 9 生活や希望をめちゃめちゃにしてしまうんだから。でも,戦争にもいいところ はあるんだよ。 どんなふうにだって,ジョニー?それはね,戦争になると,いろいろなこと がすぐにわかるということなんだよ。...どっちつかずでいることはできな くなって,どちらかに決めなければならなくなるんだよ。戦争のおかげで,お ばあちゃんは,自分の心がどこにあるのかがわかったのだよ。... でも,わたしはもう年なんだよ。おまえたちが,わたしに取って代わるのだ よ。大きくなって,お役に立つのだよ。ここはお前たちの世界なんだから。 さあ,いい子にして早くお休み。...明日がやってくるのだよ」(Yollohama 21)o このおばあちゃんの言葉を通してモリは,「二つの祖国」の間で揺れ動いてて いた多くの日系人たちが日米戦争をきっかけとして,アメリカを自分の生きる べき国としてはっきりと選択をした現実を描いている。また彼は収容所での逆 境の生活を描くかわりに,この戦争が終わった後で初めてやってくる本当の日 系人の可能性を子供達に託している。戦争や収容所の生活はやがて過ぎ去って ゆく思い出となる歴史の一帯だとい促え方である。モリは自分が収容されてい たTopazの生活を“The Travelers”(1943),“The Man With Bulging Pockets” (1944), “Unfinished Message”(1947) , “The Long Journey and the Short Ride”(1959)などの短編でも描いているが,それらすべての底流にこのよ うな姿勢が貫かれている。“The Travelers”はTopazの収容所から,何人か が憲兵の厳重な監視と点検を受けてバスに乗り込む情景で始まる。一時外出で 買い物に行く者,子供の教育のため,就職のため,軍隊に志願をして入隊をす るため収容所から出ることを許された二世たちが乗客である。収容生活が大分 経って,カリフォルニア州ではなく,東部へ移動ことは許されるようになった のである。乗客のすべてが「旅人」なのである。年配の女性が独り言を言う, 「旅人一わたしたちはみなこの世の旅人なのよ」(The Chauvinist 129)。ま た同じバスに乗り合わせていた母は小さい娘に向かって,「ね,メァリー。すぐ に,もう見えなくなるのよ。トパーズは思い出になってしまうのよ」と語りか
ける(The Chauvinist 128)。モリはこのように最も辛く,痛みに満ちているは ずの収容所の体験をも,すべての人間の営みが一一t£の夢にすぎず,思い出とな るだけのものとして捉えているように思われる。これは彼の考えの中を流れる 仏教的なもの,ピサエ・ヤマモトの言葉を借りれば“Zen flavor”(「禅的なも の」)であるのかもしれない(Hisaye Yamamoto Intro. The Chauvinist 10)。 しかしまた,彼は一切が無情で無為なものと観じているのではなく,日系人と 人類の希望をこれからの世代に託しているようであって,このことは「子供ら 6) よ,明日がくるのだよ」の結びのおばあさんの言葉から察することかできる。 日系アメリカ人の本格的な自伝小説としてすでに確固たる地位を占めている モニカ・ソネ(Monica Sone)はIVisei Daughterのなかで,自分が生まれ育った ワシントン州シアトルでの日本人社会の生活を描いている。彼女の父は栃木県 生まれで,東京で法律を学ぶが,なお「機会の国」アメリカのミシガン大学で 法律の勉強を続けるべく渡米をする。学資を稼ぐ為,鉄道工夫,土地の開墾, ジャガイモ畑での労働船のコックなどをするが,大学への夢はかなえられず, ついにはクリーニング屋となり,のちにシアトルのSkidrowといわれるドや街 でホテルを経営することになる。母は栃木県の組合派教会の牧師の娘で,父と ともにアメリカに渡ってきて,父の命令によりモニカの父と結婚をする。 彼女が子供時代を過ごすこのホテルの周辺には古着屋,飲み屋,カフェ,床 屋,バーレスク・ハウス,たばこ屋などあらゆる商売の店でにぎわっている。 近くにはトラック運転手組合の事務所がありいつもアジ演説が聞こえてくる。 また救世軍も近くにあって太鼓をたたいて行進をする。日本人たちの小さな店 は日本人のほかにもフィリッピン人がたくさんだむろしており,そこを過ぎる と中国人街がある。モニカが小学校に上がると親から日本人学校にも行くよう に命ぜられるが,彼女は自分はヤンキーだと信じているから「ヤンキーと日本 人と同時になるなんてできない。まるで二つの頭をもって生まれたみたいだわ」 と考える(Sone 18−19)。日本人学校では,アメリカの小学校とは全く違う厳し いしつけと日本的礼儀作法を強要され,あまっさえ,教育勅語まで覚えさせら
日系アメリカ作家と強制収容所 11 れるが,モニカは勿論アメリカ人としてものを考え,振舞う。これは両親にと っては嘆きの種であり,また一世と二世との間の越えがたい溝のもととなる。 そして,この溝は殆どの日系人作家の作品に共通して扱われるテーマでもある。 この小説はこのようにシアトルでの日本人社会を克明に描き続け,やがては 真珠湾攻撃,それに伴って日本人たちの指導者と見なされていた父が突然FBI によって逮捕される。1942年の大統領指令9066号は西海岸地域に住むすべての 日本人のこの地域からの移動を命ずるものであったが,アメリカ国籍をもつ二 世たちの抗議の声は,「どんなにスライスをしてみたところで,ジャップはジャ ップだ。ジャップの子にアメリカの出生証明書をやっただけで,アメリカ人に なれるはずはない」というような反日右翼たちの声にかき消されてしまう (Sone 158)。大統領指令にもとずくDeWitt将軍の移動命令の内容もソネは記 しており,この作品は自伝小説でもあり,また正確なドキュメントともなって いる点でも,日系人の作品としてはユニークなものである。この家族はアイダ ホ州のMinidoka収容所に送られることとなるが,ソネは収容所での日常生活, 他の日本人,日系二世たちのあいだの人間関係なども詳細に述べている。この 物語は彼女がインディアナ州の大学に行くために収容所を出るところで終り, 若い彼女は希望と自信をもって「わたしのなかの日本人とアメリカ入がいま一 つになったのです」と結んでいる(Sone 238)。ソネはこれらの話を淡々とした 口調で語っているようではあるが,その底にはアメリカ政府のとった処置に対 する憤りが流れている。1979年頃ワシントン大学から再版されたこの小説への 序文の次の言葉にそれはよく表れている一「日系人たちはいま1943年のことを 国民に語りつつある。その年は彼らが何の罪もなく,裁判を受けることもなく, 自分たちの政府の手で囚人にされた年である...Robert Jackson判事は少 数意見として述べている一『最高裁判所は刑事訴訟において人種差別という原 理を有効と認めてしまった』と」(Sone xvi−xvii)。 ジョン・オカダ(John Okada)のNo−Aro,Boyは強制収容,政府による忠誠宣 誓にたいしてNoという意思表示をした日系人をに降りかかった運命を描いた
物語であり,また日系人による最初の長編小説である。「25歳の誕生日から二週 間後,イチP一はシアトルの二番街とメイン通りでバスを降りた。彼は4年間 留守をしていた。そのうち2年は収容所で,あと2年は牢獄だった」,という書 き出しでこの小説は始まる(Okada 1)。イチローが家に向かって歩いて行くと, 旧友のエトーに声をかけられる。懐かしがったエトーは自分が最:近除隊になっ たとばかりだと述べ,イチローはいつ除隊になったのかと尋ねる。これにたい して返答を渋っているイチローの言葉の端々からエトーは事実を思い出す。 「ノー,ノー・ボーイだったな?」と彼は言い,懐かしそうだった態度はたちま ち消え去る。「くさった野郎め。糞でもくらえ」と彼は罵声を浴びせかける。彼 はこれにたいして怒り,屈辱感を覚えるかわりにかえって緊張感から解放され, すがすがしい気分にすらなる。家路への途中イチローはかつて日本人コミュニ ティーがあったジャックソン通りがいまは黒人街となっているのを発見する。 そこを通って行く彼に対して黒山たちは「ジャップ!ジャップ!」と罵る。「か つて迫害された連中の迫害だ」と彼は思う(Okada 5)。 軍の命により,僅かな猶予期間しか与えられずに退去を余儀なくさせられた 日系人の殆どは,長年に亙って築き上げてきた家財道具や財産を二束三文で売 り払わざるを得なかった。そして彼らが収容所に入れられている間に彼らの家 の多くは,黒人やメキシコ人たちによって占拠されてしまっていた。戦後収容 所から解放された日系人で西海岸に戻らず,中西部や東部に新天地を求めた人 達が多かった理由の一つである。こうして戦争は日本人社会を崩壊させた。 イチローがやっと帰りついた家はぼろぼろの雑貨屋で,父は妻に振り回され ている飲んだくれの無気力な人間であり,母は昔どうりの頑固者で,日本精神 にこり固まって,今に至っても日本の勝利を疑わない。イチローが日本は負け たのだと,どのように説明をしても母はそれを受け付けない。その証拠は彼女 が後生大事に持っている,ブラジル・サンパウロの「勝ち組」からの手紙であ った。戦後のB本の親類たちからの手紙,ヒロシマ,ナガサキの写真もすべて アメリカ政府のでっちあげだと彼女は信じている。母はイチV一がアメリカ政 府に対して取った態度を誇りに思い,それは自分が彼に与えた日本人としての
日系アメリカ作家と強制収容所 13 教育の成果だと信じている。弟の廿日ーはアメリカを裏切った兄に対してよそ よそしく,兄が自分および家庭にもたらした汚名をそそぐためにはアメリカの 軍隊に志願することだと信じている。日本人社会とともに彼の家庭も崩壊した のである。 社会復帰を目指すイチローは自分と同じノー・ノー・ボーイで,自分より早 く釈放されてシアトルに戻っているフレディを訪ねるが,彼が社会から受け入 れられず自暴自棄の生活を送っていることを知る。彼はまた昔の友人ケンジと 出会う。ケンジはオールズモビールの上等の車を乗り回し,気ままな生活をし ているようである。だが,それは彼が軍隊に志願をし,ドイツ軍との戦闘の結 果片足切断ということになり,その結果アメリカ政府からの武勲賞とともに貰 ったものであることが分かる。しかも彼は手術の結果が思わしくなく,あと僅 かな命であることを知りながら自分の運命に男らしく直面をしょうとしている。 そのような彼を苛酷な運命に耐えながら支えようとする女性エミがいる。 オカダの小説の特徴は登場人物の対話に見られるリアリズム,フラッシュバ ック,内部独白の流れるような独特の文体だといえるが,イチローの錯綜した 心の揺れと動きは,例えば次のようなフラッシュバックに見られる。あのとき, ある者は判事を前にしてこう言った一「判事,あなたは正義の代弁者というこ とになっています。一万人の人の生活,家庭,農場,商売,夢,希望を,この 一万人の人が一万人の日本人だから,そしてあなたがたが戦争をしている国が 日本だから,忠誠心のある日本人は存在し得ないという理由で破壊をしてしま うことは正義ですか。だとしたら,日本人とまったく同様にあやしいドイツ人, イタリア人はどうなのですか。でなければ,われわれはドイツやイタりアと戦 うことはしないでしょう。彼らを駆り集めなさい。彼らの家,車,ビール,ス パゲッティを取り上げて収容所ほうりこみなさい。それから,生命,自由,幸 福の追求のためにある国の軍隊に彼らを徴兵するとしたら,彼らは何と言いま すか?...」 (“You, Mr. Judge, who supposedly represent justice, was it a just thing to ruin a hundred thousand lives and homes and farms and businesses and
dreams and hopes and because the hundred thousand were a hundred thousand Japanese and you couldn’t have a loyal Japanese when Japan is the country you are fighting and, if so, how about Germans and ltalians that must be just as questionable as the Japanese or we wouldn’t be fighting Germany and ltaly? Round them up. Take away their homes and cars and beer and throw them in the camp and what do you think they’11 say when you try to draft them into your army of the country that is for life, liberty, and the pursuit of happiness ?”) (Okada 31−32) イチローの問題は彼がNoといったとき,上に引用した人物のようにはっきり とした根拠に立っていたのではないことだった。そしてそれが彼の心を八つ裂 きにし,混乱に陥れていたのだった。その彼を支えてくれたのが,同じNo−No Boyだったフレディではなく,彼とは反対の立場に立っていたはずのケンジの ような人物だった。 間もなく,狂信的なイチローの母は自殺をし,ヶンジも病院で息を引き取る。 彼は母の葬儀に来てくれたフレディに誘われるままにバーに行き,そこでやけ になっているフレディの喧嘩に巻き込まれる。フレディはその結果自動車を暴 走させ死んでしまう。イチm一のこれからはどうなるのかについて読者は知ら されない。この小説のいたるところに描かれている救いようのない人種偏見, 差別,憎しみが満ちたアメリカ社会の姿からは彼の明るい将来は期待できない。 1923年にシアトルに生まれ,ワシントン大学,コロンビア大学に学んだオカ ダはNo−NoBoyではなく,戦時中はアメリカ陸軍の軍人として,太平洋諸島 の日本軍に降伏を呼びかけるビラの作成に携わった。47歳で心臓麻痺で死去し た彼が残した唯一の作品がNo−No Boyであった。1957年に出版されたこの小 説は当時,日系人の恥部をさらけだしたものとして,初版1,500部はほとんど売 れなかった。1976年に再販が出版されたとき事情は異なっていた。それ.につい てNo−No Boyとして,政府の処置の不当を裁判で争い続けたGordon Hir− abayashi教授は「!>b−IVo Boyという小説の存在を知った日系アメリカ人はそ の出現に当惑し,それを激しく退けた。それは1950年代のことだった。しかし,
日系アメリカ作家と強制収容所 15 1970年代になってアジア系アメリカ文学が目に見える形で現れるにつれて,そ れは再発見されたのだ」と述べている。No−No Boyはやっと1992年頃から日 系人の間でその歴史的意義が本格的に議論され始められるようになったが,こ の小説の辿った途は日系アメリカ文学の今後を示唆するひとつの指標となるで あろう。 注 1)この運動は1987年9月17日の合衆国下院が補償決議をし,1991年9月29目には上院が,ま た1992年9月17日には下院が認めた「市民の自由法」(Civi1 Libereties Act.強制収容補償 法HR 4551)の成立によって,実を結ぶこととなった。 2)アジア系女性作家のみを収録したアンソロジーの幾つかの例としては以下のようなもの が挙げられる一Aaian Women United of California, ed. Making VVaves’An Anthology of VVritings by and about Asian Amen’can uromen(Boston: Beacon, 1989); Velina Hasu Houston, ed. The Politics of Lzfe: Four Plays by Asian Amen’can Vl)romen(Philadel− phia: Temple U P, 1993); Juliet S. Kono and Cathy Song, eds. Sister Stew: Fiction and Poet?s, by Women(Honolulu: Bamboo Ridge P, 1991); Shirley Geok−lin Lim, Mayumi Tsuta一 kawa, and Margarita Donnelly, eds. The Forbiden Stitch: A n Asian Amen’can VVomen’s Anthology(Corvallis, Galaxy, 1989); Sylvia Watanabe and Carol Bruchac, eds. Home to Stay: Asian American Women’s Fiction(Greenfield Center, NY: Green− field Review P,1990)。 また,アジア系を含めた多文化を代表する女性作家のアンソロジ ーとしてEdith Blicksilver, ed. The Ethnic Amen’can Women’Problems, ProtestS, Lzfestyle(Dubuque, lowa: Kendall/Hunt, 1978); Mitsuye Yamada and Sarie Sachie Hy!kema, eds. Sowing Ti Leaves: Wntings by Multi−Cultural VVomen(lrvine, CA: MCWW,1990)などがある。 3)例えば,日系三世の小説家Cynthia KadohataのThe。.Floating World(Viking,1989), 同じく日系三世の詩人・小説家David MuraのTurning fapanese(Atlantic Monthly P, 1991>はともにQuality Paper Back Clubのセレクションに,中国系のFrank ChinのThe Chinaman Pacipc&F露∫oo R.、R. Co,(Coffee House P,1988)はAmerican Book Award を受け,Amy TanのTheノのLuck Club(Putnam,1989)はNational Book Award, National Book Critics Award, Bay Area Reviwers Award for Fictionなどを受け,映 画化された。 4)MLAの出版物としては, Three Amen’can Literatasres:Essays in Chicano, Native Amen’can, and Asian−Amen’can Literature for Teachers of Amen’can Literature. Ed. Houston A. Baker, 1982; Asian American Literature: An Annotated BibliograPahy. Eds. King−Kok Cheung and Stan Yogi, 1988; Redefining American Litera2y Histoi y. Eds. A. Lavonne Brown Ruoff and Jerry W. Ward, Jr.,1990.があり,その他Emma
北川 弘教授退官記念論文集(第294号) Gee, ed. CounteiPoints: PersPectives on Asian Amen’ca. Los Angeles: Asian American Studies Center. UCLA, 1979; Elaine H. Kim, Asian American Literature: An Introducton to the Wn’tings and Their Social Context. Philadelphia: Temple UP, 1982. また,アメリカ文学史ではColumbia Litera2y His to ry(∼f the United States. Ed. Emory Elliot(New York:Columbia UP,1988)がこの種の大部の文学史では初めて“Asian American Literature”の章を設けた。 5>「強制収容所」のことを,収容当時のアメリカ政府の呼称にしたがってRelocation Cen− ter, Detention Campと呼ぶ日系人がかつては多かった。これが時が経つにつれ当時の実態 が明らかになって,Internment Camp,現在では二世,三世の作家たちの殆どはConcentra・ tion Campと呼んでいる。捕虜収容:所やナチスのユダヤ人の強制収容所の呼称である。日系 人たちの意識の変化がこの呼称によって察せられる。 6)多くの日系作家の作品の中で,アメリカで苦労を耐え忍ぶのはすべて子供達のためだと いう発想を一世の特徴として扱うものが多いのは興味がある。文学作品ではないが,ハワイ の日系人の歴史を扱ったDennis M. Ogawaが編纂したアンソロジーはその表題が Kodomo no tameni’For the sake of the children(U of Hawaii P,1978)となっており, この言葉が一種の合言葉であり,また日系人の悲願でもあったことが窺われる。カナダのバ ンクーバー生まれの日系カナダニ世のジョイ・コガワ(Joy Kogawa.1935一)は,第二次大戦 中,ブリティシュ・コロンビアから内陸部のアルバータ(Alberta)の荒野へと強制的に隔離 された,5歳になるネオミ・ナカネ(Naomi Nakane)とその家族の苦難の物語を名作 Obasanの中で描いているが,この小説の情緒的中心人物となり,子供達の支えとなってい るネオミの伯母,オバサンは,伯父の死んだときその埋葬にやってくる。そのときの状況が 次のように描かれている一(“Obasan....looks at me unsteadily, then hands me the ID card with, Uncle’s young face. What ghostly whisperings 1 feel on the air as 1 hold the card. Kodomo no tameni一一for the sake of the children一一gaman shi masho一一let us endure.’ The voices pour down like rain but in the middle of the downpour 1 still feel thirst.” (Obasan 245). 引 用 文 献 Chin, Frank, Jerry Paul Chan, Lawson Fusao lnada, and Shawn Wong, eds. Aiiieeeee ! Washington, D.C,: Howard UP, 1974; 1983. , The Big A iiieeeee ! New York: Meridian, 1991. Hagedorn, Jessica. lntro, Charlie Chan ls Dead. 一, ed. Charlie Chan ls Dead: An A nthology of ContemPora7 y Asian Amen’can Eiction, New York: Penguin, 1993. Kogawa, Joy. Obasan. 1981; Boston: David R. Godine, 1982. Mayer, David R. Door StooPs and Windowsills: PersPectives on the Amen’can Neighbor− hood IVovel, Kyoto: Yamaguchi Shoten, 1992. Mori, Toshio. Yoleohama, Caltfornia. 1949; Seattle: U of Washington P, 1985.
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