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リルケの<死>とツヴェターエワ(水地宗明教授退官記念論文集)

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269

リルケの〈死〉とツヴェタ目皿ワ

金  子  孝  吉

1  1926年12月29日午前3時半,ライナー・マリーア・リルケは,スイス,ヴォ ー州テリテのヴァル=モン療養所で白血病のため息を引きとった。51歳であっ た。翌1927年1月2日一よく晴れた,しかしひどく寒い日だったといわれる 一,詩人の亡骸は,彼がしたためた遺書どおり,ヴァレー州の「プロンの古 い教会のそばの,高台の墓地に埋葬」された。会葬したのは,彼の作品の出版 者キッベンベルグ夫妻,晩年の彼を援助したナニー・ヴンダリー=フォルカル トとヴェルナー・ラインハルト,画家ルル・アルベール;ラザール,詩人レギ        1) 一ナ・ウルマン,そのほかわずかな友人・知人たちだけであった。埋葬のさい, 教会の鐘の音が鳴り響くなか,スイスの著名な批評家十一ドゥアルト・コロデ ィが次のような告別の辞を述べた。「詩人は生前,無数の人々に愛されていまし たが,いまこの墓のほとりに立っているのは私たち数人にすぎません。彼の謙 譲な心は,遠く離れている人たちばかりでなく,つい近くの人たちさえも,墓        2) のそばへ呼び寄せることを肯んじなかったのでしょう……。」  このように葬儀自体は参列者が少なく,いささか寂しさを感じさせるもので あったが,リルケ死去の知らせば,新聞などを通じ,ただちにヨーロッパ各地 に伝えられ,数多くの人々が彼の死を悲しんだ。詩人と交友のあったフーゴ・ 1) Leppmann, Wolfgang : R. M. Rilke. Leben und Werk. Bern und MUnchen : Scherz, 1981,S. 452.[邦訳:W・レップマン『リルケー生涯と作品』(小島,田口,小松原,稲 田,金子訳)河出書房新社 1991年,630頁.] 2) Salis, Jean Rudolf von: Rilkes Schweizer Jahre. Frankfurt/M : Suhrkamp, 1975, S. 286.

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フォン・ホーフマンスタール,ハンス・カロッサ,アンドレ・ジッド,ロマン ・ロランなどの作家は,詩人の言為報に接して深い衝撃を受けた。ウィーンをは じめとしてあまたの都市で,リルケの死を悼む集会が開かれた。U一ベルト・ ムージルはベルリンで,シュテファン・ツヴァイクはミュンヒェンでそれぞれ,        3) たぐい稀な詩人の死を悼んで,感動的で共感に満ちた追悼講演をおこなった。 リルケの晩年特に親しい関係を結んだポール・ヴァレリーも,「親愛なるリル ケ,私が彼のなかに見,そして愛したのは,この世の最も繊細で,最も精神に 満ちあふれた人,あらゆる精神の神秘に最も多く見舞われていた人であった」        4) という真情のこもった追悼文を発表した。また,過去にリルケと親交のあった 人たち,とりわけ彼を愛し,または庇護した数多くの女性たちは,荘然として 悲嘆に暮れ,詩人の葬儀に立ち会えなかったのを悔やんだ。長年リルケを母親 のように優しく見まもり続けたマリー・フォン・トゥルン・ウント・タクシス 侯爵夫人や,晩年近くにリルケと一時情熱的な関係にあったバラディーヌ・ク ロソウスカなどは,遠く離れた地でひとり悲しみに沈むしがなかった一。  こうして,1926年末にリルケが死んだとき,彼と親しかった人たち,彼の文 学を高く評価していた人たちは,公の場で,あるいは私的に,またその人なり の仕方で,詩人の死を悼んだ。彼らがリルケを哀悼するにあたってどんな言葉 を述べ,いかなる行動をとったかは,リルケを回想した数多くの書物や彼につ いての伝記などから,私たちにはずいぶん以前から親しいものになっている。  しかしながら,1926年末にパリに亡命者として暮らしていたひとりの女性詩 人,熱烈にリルケを「愛していた」ロシア人女性が,リルケの死に,これまで 述べてきた人たち以上に一というよりむしろ,まったく別種の  激しい衝 3) Musil, Robert: Rede zur Rilke−Feier in Berlin am 16. Januar 1927. ln: Musil, Robert : Gesammelte Werke. Hamburg : Rowohlt, 1978, Bd. 8, S. 1229−1242 ; Zweig, Stefan : Abschied von Rilke. Rede im Rahmen einer Gedachtnisfeier am 20. Februar 1927. ln : R. M. Rilke und Stefan Zweig in Briefen und Dokumenten. Hrsg. von Donald A. Prater. Frankfurt/M・: lnsel, 1987. 4) Valery, Paul: Adieu a Rilke, Les Nouvelles Litteraire, 2 Janvier 1937. [一: Gedenken und Abschied. ln : >Der Querschnitt〈, Jahrgang 7, 1927, Heft 2.]

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      リルケの〈死〉とツヴェターエワ  271 撃を受けていたことは,最近までほとんど知られていなかった(リルケの読者 や研究者たちにとってはとくにそうであった)。その女性詩人の名は,マリーナ ・ツヴェターエワ(1892年一1941年)。ソ連時代に長いあいだ,〈反革命〉の詩 人として彼女の存在と文学は無視・冷遇されつづけ,その名と作品の真価を知 る人はごく少数の人々に限られていた。だが,近年続々と彼女の作品が完全な 形で一なんらの検閲も受けることなく,また包括的な作品集の形で一出版 されるようになってからは,ロシア国内のみならず,世界的に高い評価を受け るようになり,いまでは20世紀最高のロシアの女性詩人とさえ見なされている。 現在でも彼女の作品や書簡はさまざまな形で出版され続け,それらのドイツ語, 英語,フランス語などへの翻訳も数多くなされており,また彼女に関する伝記, 研究書も急激に増加している。それらのなかでも,リルケとツヴェターエワと ポリス・パステルナークの三詩人のあいだで交わされた書簡集が,ロシアのゲ ルマニストであるK・アザドフスキーらの編集により,ほぼ完全な形で一ド        5) イツ語版が1983年,ロシア語版は,雑誌『諸民族の友好』に掲載されたものが       6) 1988年,単行本は1990年一発表されたとき,私たちは,詩人としてのツヴェ タ一隅ワの生涯で最も重要な〈事件〉の全貌を興奮をもって眺めることができ たのだった。ついで1992年一ツヴェタ一一ワ生誕100年の記念すべき年に一 同じくアザドフスキーの編集により,リルケとツヴェターエワの往復書簡(原 文はドイツ語)に加えて,ツヴェターエワのナニー・ヴンダリー=フォルカル ト宛の書簡(原文はやはりドイツ語)や,ツヴェターエワがリルケについて書       7) いた作品(原文はロシア語)などが周到に集成された書物がドイツで出版され ることによって,私たちはいつそう詳細に,20世紀を代表するふたりの詩人の 5) Rainer Maria Rilke/Marina Zwetajewa/Boris Pasternak : Briefwechsel. Hrsg. von Jewgenij Pasternak, Jelena Pasternak und Konstantin M. Asadowski. Frankfurt/M : Insel, 1983. 6)ロシア語単行本:paMHep MapMA p湖bKe/BopHc HacTepHaK/MapvaHa UBeraeBa:nhcbMa l g26 roAa.,IVtocKBa: 1〈Hgra, 1990. 7) Rainer Maria Rilke und Marina Zwetajewa. Ein Gesprtich in Briefen. Hrsg. von Konstantin M. Asadowski. Frankfurt/M und Leipzig:Insel, 1992.[以下Ru.Z.と略記.]

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関係について知ることができたのである。これらの書を読むとき私たちは,彼 女にとって,リルケの「突然の」死が,それ以後の彼女の人生と創作を根本的 に変えてしまうほど決定的な出来事だったことがわかる。ツヴェターエワのい わば〈リルケ体験〉は,彼女のその後の生涯と作品に消しがたい痕跡を残した のである。もちろん,生前のリルケと長年個人的に親しい関係を結んでいた人 たちにとっても,リルケの死は同じように大きな打撃であり,彼らのその後の 人生に少なからぬ影響を及ぼしたことはいうまでもない。だが,ツヴェターエ ワの場合,彼らとは違った意味で,リルケの死はきわめて衝撃的なものだった のであり,その衝撃の〈質〉が他のリルケの友人・恋人たちとはずいぶんと異       なるものだったということができるのである。  そもそも,ツヴェターエワとリルケの「交際」からして,リルケの他の友人        8〕 たちの場合とはかなり様相が違っていた。ツヴェターエワがリルケと交際を始 めたのは,やっとリルケの死の年の春のことであった。ツヴェターエワは,ポ リス・パステルナークの紹介によってリルケと文通するようになったのだが, 最初はドイツ語圏を代表する詩人として深い尊敬の眼差しで仰ぎ見ていたリル ケを,次第にひとりの男性としても熱烈に愛すようになる。リルケのほうも彼       9) 女から送られてきた手紙のあまりの素晴らしさに「圧倒され」,その詩人として の天才的な力量に感嘆し,彼女と書簡を交わし合うことに大きな喜びを覚える ようになる。しかし,リルケがその年の暮れに死んでしまうことによって,こ のわずか数ケ月虹に始められたばかりの交際はあっけなく終焉を迎えてしまう。 結局,ふたりは実際に会ったことは一度もなかったのであり,書簡を数通交換 しただけの関係にすぎなかったともいえるのである。だが,交際期間も短く, 8)ツヴェターエワの場合と似たような交際がまったくなかったわけではない。例えば,1914  年におけるピアニスト,マクダ・フォン・バッティングベルクとの交際である。『神様の話』  を読んで感激した彼女が賛辞の手紙をりルケに送ったのをきっかけに,ふたりは短期間の  あいだ集中的に情熱的な手紙の交換をおこなった。しかしこの関係は,実際の出会いもあ  り,またその後まもなく相互の幻滅によって終わっている。双方の書簡の文学的な質の高  さとその悲劇性の深さの点で,リルケとツヴェターエワの場合は,やはり他と比較できな  い独特な避遁と別離だったといえる。 9)Rilkes Brief an Zwetajewa vom 10.5.1926. R.u.Z. S. 52.

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      リルケのく死〉とツヴェターエワ  273 文通のみによる繋がりだったにもかかわらず,ツヴェタ一戸ワにとって,この 「書簡」による「交際」は,彼女の生涯のなかでもっとも重要な〈事件〉とな る。  そうなったのは,じつは彼女のもっていた独特な世界観,文学観と深い係わ りがある。実際に会って話しをしたわけでもなく,身体を触れ合ったわけでも なく,ただひたすら「書簡」を通じて「言葉」のみによって繋がっていた愛の 関係,それがリルケの突然の死で終わってしまった。リルケの死の直前に彼の 秘書をつとめていたロシア人女性E・チェルノスヴィトワに宛てて,ツヴェタ ーエワは,リルケの死は,彼女にとっては「存在していなかった人の喪失」で あったと述べている。 私はリルケと一度も会うことがありませんでした。ですから彼の死は私にと って  精神の内部における喪失でした。あなたにとってはそれは,存在し ていた人の喪失です。でも私にとっては一存在していなかった人の喪失な   10) のです。  この一度も会うことのないまま突如として愛する人を喪失した二重に悲痛な 体験を,ツヴェターエワはその独特の文学観によって乗り超えようとする。そ の過程を見ていくことで,私たちはツヴェターエワの世界観・死生観をよく理 解することができる。この小論では,従来知られることが少なかったりルケの 死をめぐるツヴェターエワ独自の対応を,彼女特有の世界観・死生観の解明を おこないつつ見ていき,リルケの死がツヴェターエワのその後の人生と文学に どのような影響を及ぼしたかを検討することにしたい。 II  まず取りあげるのは,「死後のリルケに宛てた手紙」である。リルケが危篤状 態に陥っているのを知らずに,来る日も来る日もリルケのことを想い,彼から 10) R.u.Z., S.99−100.

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手紙が届くのを待ち続けていたツヴェタ一志ワは,12月3!日の夕方,リルケの 死の知らせを耳にする。突然の悲報に荘然としたまま,その日の晩遅く彼女は リルケに宛てて手紙を書く。この「死後のリルケに宛てた手紙」は,もちろん リルケに送ることができるはずはなく,またリルケが読むこともできるはずの ないものである。それにもかかわらず,ツヴェターエワはリルケに手紙を書く。  年が明けます。あなたの死とともに。あなたの終わりとともに。いいえ, あなたの新たなる始まりとともに,ですわ。最愛の人よ,私にはわかります, あなたが,一ライナー,いま私は泣いています  あなたがいまはもう郵 便がなくても私の手紙を読むことができるのを,そしていままさに読んでい         らっしゃる最中だということが。愛する人よ,あなたが死んでしまったいま, もう死は存在しなくなったのです。生も生ではなくなりました。……  私はあなたからいただいたお手紙を読み返そう(もう一度!読もう)とは 思いません。なぜなら,そうすれば,私は「生きよう」とは思わず(「生きる ことができなくなる」というべきでしょうか?たとえすべてのことができた としても,何の意味もありません)一あなたのもとへ行こうとし一この 世にとどまりたくなくなるでしょうから。ライナー,私にはわかります,あ なたが私のすぐ右側にいらっしゃるのが。あなたの輝かしい頭が本当に感じ られるほどです。あなたは私のことを思い出してくださったかしらP  あすは新年です,ライナー一1927年。7。あなたの好きな数。一だか らこそ1875年にお生まれになったのですね。  (雑誌によれば?)51歳?の若さ。  かわいそうなあなたの孫娘,彼女はあなたに一度も会わなかった。  かわいそうな私。  けれど  悲しくはありません!今夜12時に私はあなたと乾杯するので すから(ああ,そっと静かに。騒がしいのは私たちふたりとも嫌いでしたか ら)。  最愛の人よ,ときどき私にあなたの夢を見させてください。  この世で顔を合わせることがあろうとは私たちのどちらも信じてはいなか った,いまここで会うようには  そうではありませんか? あなたは私よ りひと足先に逝って,部屋を  いえ,家を  いえ,風景を整えてくださ

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       リルケの〈死〉とツヴェターエワ  275 コ口です,私を歓迎してくださるために。  私はあなたに口づけします。唇に? それともこめかみにかしら? 額に かしらP やはり唇にですね,ちゃんと生きている人にするように(あなた は死んではいらっしゃらないのだから)。  最愛の人よ,ほかのすべての人たちにするのとは違う仕方で,そして彼ら よりもっと多く私を愛してください。怒らないでくださいね,一私という ものに慣れてください,私はずっとこんなふうでしょうから。  ほかにも何かいうことがあったかしら?  もしかして,あなたはもうあまりに高いところへいってしまわれたのかし ら? いいえ,高くもなく,遠くもない。……まだまだ,すぐ近くにいら っしゃいます,額を私の肩に当てて。        コ   の   リ    サ   コ        コ   ロ   ロ  私の愛する偉大なあなた一ライナー,私に手紙を書いてください!(ま ったく愚かしいかしら,こんな頼みは?) 歓ばしい新年と,そして天国の新年の素晴らしい風景を。       マリーナ  ベルヴュー,1926年12月31日10時  ライナー,あなたはまだこの地上にいらっしゃいますね,まだ24時間たっ          ll) ていないのですから!  これを読むと,最愛の詩人であり,恋人でもあったリルケを突然失った女性 詩人の痛切な悲しみがよく伝わってくる。この手紙からまずわかるのは,ツヴ ェターエワが彼岸の世界の存在を露も疑わず,自明のものと見なしていること である。彼女は,「素晴らしい風景」が広がる「天国」,来世においてリルケと 会えるのを信じている。いや,そもそも彼女にとっては,リルケの「死は存在 していない」ようだ。彼はいまでも生きているのであり,彼女はなおも彼と会 い,対話をおこない,彼を愛し続けることができるのである。これは,愛する 人を失った女性なら誰しもが抱く願望・空想にすぎないのだろうか。いや,そ れは詩人ツヴェターエワの世界観から必然的に導き出された確信なのである (これについてはまたのちほど詳しく検討することにしよう)。次に「私にあな 11) ,,Postumer Brief“. R.u.Z., S.92−93.

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たの夢を見させてください」という表現に注目しておきたい。なぜなら,ツヴ ェターエワの考えによれば,愛する者どうしが,かりそめではなく,真に永遠 の結びつきを成就することができるのは,虚偽と偏狭さにみちた現実の世界で はなく,人間の「魂」がなにものにも拘束されずに,自由に羽ばたくことので きる「夢:」の世界においてだからである。たとえば彼女は,1922年11月19日付 のポリス・パステルナーク宛書簡で述べている。 私の最も愛する意思疎通の形式は,遠い来世に,夢のなかにあります。だれ かを夢みることなのです。もう一つの方法は文通です。手紙は来世での意思 疎通の方法です。夢ほど完壁ではないにしろ,同じ法則に支配されているの  12) です。 現実の世界で肉体が出会ったとしても,それはたいていはうわべだけの関係に 終始する。それよりも夢の世界のなかで,あるいは,手紙=言葉の交換によっ て「魂」どうしが語り合うことによってこそ,より深い結びつきが生まれるの であり,そうやってのみふたつの魂は,確固とした,永遠の融合を成し遂げる ことができる。これが,ドイツ・ロマン主義に深く傾倒していたツヴェターエ        13) ワの信念であった。彼女のリルケ宛の書簡,さらにリルケの死後に彼女が彼に ついて書いた作品は,つねにこういつた視点から読まれなければならない。 III  さて,次に,ツヴェターエワが,リルケの死を知った1926年12月31日に書き 始め,リルケの死の40日後の1927年2月7日に完成させた一「彼の日に」と        14) ツヴェターエワはいう,なぜなら7は彼の好きな数字だからである一とされ 12)カーリンスキー,サイモン『知られざるマリーナ・ツヴェターエワ』(亀山郁夫訳)晶文 社1992年,208頁. 13)ツヴェタ一色ワにおける「魂」と「愛」の関係については,リルケ宛1926年8月2日付  書簡(R.u.Z., S.82ff.)参照。 14)Rilkes Brief an Zwetajewa vom 10.5.1926. R.u.Z., S.52. Vgl. auch R.u.Z., S. 2ユ7。  (Anmerkung 32 zum Briefwechsel Rilke−Zwetajewa).

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       リルケのく死〉とツヴェターエワ  277 る詩『新年の手紙』を取りあげたい。リルケに宛てた「手紙」でもあり「詩」 でもあるこの作品は,亡きリルケに捧げるレクイエムである。また,リルケが       15) 1926年6月8日にツヴェターエワに献呈した「悲歌」に対する返礼の意味もこ の作品には込められているように思える。この詩のシュルレアリスティックな 語り口,極度に凝縮された言語表現,通常のシンタクスの大胆な無視,思い切 った語呂合わせ(Wortspiel)の多用は,この作品を私たちにとって容易には近 づきがたい,暗号めいたものにしている。が,彼女がリルケに寄せる熱い想い がどの行からも溢れ出ているのは,間違いなく誰もが感じとることのできるも のである。(この詩はその性質上翻訳不可能ともいえる作品であり,以下の私の 抄訳は,内容を理解し易く伝えるのを第一に考えて試みたことを断っておく。) 新しい年をお祝いします!新しい年 新しい光一新しい故郷に! これは最初の手紙一いまやご自分の本当の家をお持ちになったあなた宛の。 一屋根と壁のある家。そこは一真実の庭園ですね? 私のあらゆる一大好きな  想い, あらゆる言葉は ただひとつのことを求めています あなたのなかに入り込むことを,あなた 愛する人よ(Du, Lieber), どの言語で願おうがかまわないのです(ドイツ語はロシア語より 豊か一それは私にとってより親しい言葉, 天使の言葉と比べてさえも!)一あなたがいらっしゃらない場所, それは あなたのお墓。けっして一瞬たりとも一いらっしゃらなかった。 一あなたは私に言葉をかけてくださらないのかしら,一言もP そちらでの気分はいかがですか?まわりはどんなふうですか?ライナー! もうすぐ新年。私はなにに乾杯しましょう? だれと乾杯するのかしら? なにを飲みましょうか? シャンパンの泡の 代わりになるのは 綿の切れ端ぐらいかしら。12時の鐘が鳴っています。 私が生きている理由など ほとんどありません。 15) R. M. Rilke : ,,Elegie an Marina Zwetajewa−Efron“. R.u.Z., S. 71−72.

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       人々は新年を祝って騒いでいます。       ライナ     にんだ でもそんな音で私の心の内部で<PatlHep−yMep>と         響き続けている韻が かき消されることはありませんわ。 あなたの眼は 閉じ,あなたは いなくなってしまわれた。 でも 生きているからといって,それが 即 生きていることではないし,      「死んだ」というのは 決して一消滅することではありません。 それはたんに  暗いということ。あなたのもと そこへいけば, 私にはわかるでしょう一死もなく 生もなく  あるのは第三のもの,       新しいものだということが。 わたしはあなたといっしょに とても大きなテーブルについて そっとグラスとグラスを合わせ 乾杯したい! 生徒のころ 教室の椅子に座って なんど思いを馳せたことか, そこには どんな山があり どんな河があるのか と。 観光客がいないから一風景は ずっと美しいはずですね? そうではありませんか,ライナー,  天国というのは 雷が轟く山岳なのね! とり残された寡婦にとってはあまりに高すぎますわ。 それに ひとつの天国の上には また別の天国がある一そうでしょう? テラスのようになっているのですね! タトラ山地のことを思い浮かべると, 天国は 古代の円形劇場みたいなものなのかもしれない。  (幕はもう一誰のためなのでしょう?  降ろされています・…一)        新居でも 詩を書き続けていらっしゃいますか? あなたが在るというのは 詩が在るということ。あなたご自身が一 詩なのですから! 高いところで書くには どんなふうになさるのかしら? 腕を置く机も 手に握るペンも一考える額もなしで。        私にとっては  きっと暗号みたいなものね! ごきげんよう! 私たちが会えるかどうか 私にはわかりませんが,でも いっしょに

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       リルケのく死〉とツヴェターエワ  279 歌いましょう一そうですとも!私には未知の土地とともに, ライナー,海とともに一私が海になります!     と わ けれど 永久の別れはいやです       16)       すぐに天国から手紙を落としてくださいね!  この詩は,内詩的には「死後のリルケに宛てた手紙」と多くの点で重なりあ っているということができる。新年の祝い,天国の風景,リルケへの愛,彼と の乾杯のモティーフ,生と死の関係についての考察などである。来世の実在は, ツヴェターエワにとっては疑いようもない事実とされ,死んだりルケは,けっ して消滅したのではなく,いま,素晴らしい眺めをもつ,「テラス」のようにな っている天国を一段一段高いところへ昇っているのだとされる。ツヴェターエ ワは,リルケに向かって,彼が生きていたときと同じように語りかけ,文通を これからも続けていくことを願う。彼女は,通常人々が抱いている〈死は終わ りである〉という考えを否定する。死は,「新しい」「始まり」なのであり,リ ルケの死は,「天国」  現世よりも高度な,永遠の世界,人間の本来の「故 郷」,「真実の庭園」一の上昇にほかならないというのである。  それにしても,この『新年の手紙』に漂う他に例を見ない〈親密さ〉の感情 は,驚くべきものであるといえよう。リルケ存命中にツヴェターエワが書き送 った手紙以上に,ここではリルケへの彼女の熱い心情がなんの遠慮もなしにス トレートに吐露されている。この作品を公にする以上,リルケの家族をはじめ として彼と親密な関係を結んだ人たちへの配慮が少しはあってもしかるべきだ と思われるが,そういったものはここには見られない。おそらくツヴェターエ ワは次のように考えていたにちがいない。リルケが生きていたときには,現実 の人間としての彼と誰かが,特権的・排除的な関係一たとえば彼の妻とか恋 人とかの関係一を結んでいたとしても仕方がない。しかし彼が死んで,その 肉体が消え失せ,魂が解き放たれ,無限の自由を獲得し,いたるところに同時 16)Ru.Z,, S.109−115.[vシア語単行本:HHcbMa l 926 rona. C.221−225.]

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に存在するようになったいま,リルケはもはや特定の誰かのものではなく,み んなのものになったのだ,と。リルケが生きていたとき,彼はツヴェターエワ から遠く離れた地に,彼女以外の女性たちの近くで生きていた。だが,いまや 遍在する魂となったリルケは,彼女のすぐそばにいるのであり,ついに彼女の 手の届くところにやってきたのである。リルケの死はむろん限りなく悲痛であ る。しかし逆に,それによって彼女と彼との間にあった距離は一挙に解消した のであり一リルケは彼女の部屋を訪ねてきて「そっと乾杯」さえする  , すぐ近くで言葉を交わすことができるようになったのである。(「死後のリルケ に宛てた手紙」のなかの「あなたはいまはもう郵便がなくても私の手紙を読む ことができる」という表現は,そのような意味で理解しなければならないだろ う。)彼女が自己の心情を,リルケの生前よりもその死後に,はるかに率直に表 現するようになったのは,以上のように考えるべきだと思われる。

IV

 ツヴェターエワの代表作に数え入れられるこの傑出した詩を生みだしたあと, 今度は彼女は,リルケの死を主題にした散文を書く。『あなたの死』と題された エッセイ風の作品である(これも,完成したのが1927年2月27日とされていて, 7という数字に関係づけられている)。これは,リルケの死についてだけでな く,「死」一般についての思索ともいうべきものが展開されている作品だが,私 たちは,ツヴェターエワがリルケの死をどのように受けとっていたかをはっき りうかがわせてくれる個所だけを,次に見ることにしよう。  あなたの死について,私はあなたに(自分にも)言います。そもそも私の 人生においてあなたの死は存在しなかった,と。なぜなら,ライナー,私の 人生においてはあなた自身も存在しなかったからです。いままでもそうでし たし,これからもずっとそうです。……  また,私はあなたに言います。一瞬たりとも私はあなたが死んだと感じた ことはないし一また私が生きていると感じたこともない,と。もしもあな

(13)

       リルケのく死〉とツヴェターエワ  281 たが死んでいるのなら,私もまた死んでいるのであり,もしも私が生きてい るのなら一,あなたも生きているのです。……  でも,もうひとつ私はあなたに言います,ライナー一あなたは私の人生 において存在しなかっただけでなく,そもそも生のなかに存在することがな      17) かったのです。 ツヴェターエワ特有の漸層法と絶妙な転調を用いた,実に音楽的な語り方であ るが,この文ほど彼女の死生観を如実に示しているものはないといえる。彼女 がここでいいたいのは,詩人リルケは,生きていたときからすでに現実の肉体 から離れ,霊魂となって死の世界にも入り込んでいた。いわば,生きていると 同時に死んでもいた。だから,彼がく死んだ〉というのはありえない。つまり, もともと死んでいる人間が改めてわざわざ死に直すことなどありえないという のである。リルケが「そもそも生のなかに存在することがなかった」とはそう いう意味である。リルケの死  そのようなことは,彼女にとっては存在しな いのであるから,リルケがく死んだ〉といって悲しむのは間違っている,とツ ヴェタ一口ワはいいたい,あるいはそう思おうとしているようだ。真の詩人, 生きているときからすでに「魂」となっている詩人にとっては,生と死の区別 は存在しない。真の詩人とは,死の世界と生の世界を自由に行きつ戻りつする オルフォイスのような存在である  詩人ツヴェターエワの死生観を一言でい い表すならば,そうなるだろう。そしてこのような死と生についての考えは, また,『ドゥイノの悲歌』で「生きている者はみな/あまりにきびしく(生と死        18)を)分つ過ちをおかしている」といい切ったりルケの考えでもあった。『オルフ ォイスへのソネット』においてもリルケは,生と死の対立を軽々と超越して万 物のなかに遍在するオルフォイスを高らかに称賛していた。すなわち,ふたり とも,現代において〈オルフォイス的世界〉を甦らせることを第一にめざして いたのであり,両詩人の死生観は見事に一致していたのである。そして,リル 17) R.u,Z., S.143. 18) R. M. Rilke : Sammtliche Werke. Frankfurt/M : lnsel, 1955−1966, Bd. 1, S. 688.

(14)

ケがく死んだ〉とき,彼女はそのく死〉を,まさにリルケ的でもあり,同時に     の   コ   コ   コ       コ       コ       ロ   コ   リ       コ ツヴェターエワ的でもある死生観によって乗り超えようとした。これこそ,リ ルケのく死〉にさいしてツヴェターエワがとった,他に例を見ないまったく独 自の対応であったということができるだろう。

v

 ツヴェターエワは,リルケの「死」を,以上のような詩人としての信念から 生涯「認めようとはしなかった」。彼女は1932年1月24日,リルケの娘である ルート・ジーバー=リルケ宛の書簡でも述べている,「私は彼の死があったとは       19) 思いたくない」》lch will nicht dass sein Tod gewesen ist.《と。彼女は,リル ケの死後も,あたかも彼が生き続けているかのように,彼とのく対話〉を続け ていく。そのさい彼女は,〈死んだ〉リルケと対話するために,さまざまな方法 をとる。そのひとつはもちろん,すでに言及したように,死んだりルケに向か って手紙を書くことである。詩『新年の手紙』の場合もそれであり,彼女はそ れを世界に向けて公表することによって,いまや世界に遍在するリルケに読ん でもらおうとするのである。だが,そのほかにも,さらにいくつかの,〈死んだ〉 リルケとの対話の方法を彼女はもっていた。それを以下に見ていくことにした い。  まず,ツヴェターエワが考えていたのは,リルケの「夢をみる」という方法 である。すでに触れたが,夢の世界は,彼女によれば,人間の真実の姿である 「魂」にとっての故郷にほかならない。そこに,いまや魂となったリルケは住 んでいる。夢のなかにいるときには,彼女もまた魂となっているのであり,彼 女はそこで,憧れ望んでいたリルケとの選遁を果たし,彼と対話することがで きるのである。実際彼女は,1927年2月7日(またも7!)から8日にかけて リルケをめぐる長い夢をみたことを,パステルナーク宛の手紙(2月9日付)で         20) 詳しく報告している。 19) R.u.Z., S. 188, 20) R.u.Z., S. 100ff,

(15)

       リルケの〈死〉とツヴェターエワ  283  または,リルケと親しかった人たちと「文通する」ことによってである。ツ ヴェターエワは,リルケの〈死〉後,できるだけ多くのリルケの親族・友人・ 知人たちと努めて接触をもとうとする。たとえば,すでに名をあげたが,ルー ト・ジーバー=リルケ,E・チェルノスヴィトワ,ナニー・ヴンダリー=フォ ルカルト,さらには作家シャルル・ヴィルドラック,画家レオニード・パステ ルナークらと文通を交わすのである。ツヴェターエワは,それらの手紙のなか で,その人たちに向かってリルケのことを情熱をこめて語る。だが,本当は, 彼女は,彼らに向かってではなく,リルケに向かって語りかけているのである。 リルケについてのエッセイのなかで,ツヴェターエワは書いている。「私は彼に 向かって話しかけたい。……私はけっして話しかけるのをやめない。それを 他の人たちが聞くのであってもかまわない。私はリルケのことを彼らに向かっ        21) て話しているのではない  彼に向かって話しているのだ」と。そのことが一 番はっきりわかるのが,彼女のナニー・ヴンダリー=フォルカルト宛の書簡で ある。ツヴェターエワは,リルケ臨終のさいその場に立ち会った唯一の人物で あるナニー・ヴンダリー=フォルカルトと,1930年春から1933年秋にかけて, ドイツ語を使って「文通」した。ツヴェターエワのほうからは13通の手紙を書      22) き送っている。これらの書簡を読む者はすぐに,彼女の天才的なドイツ語能力 が自在に駆使されたきわめて音楽的な言語表現,その精妙で陰影に富んだりズ ムとテンポ,大胆かつ繊細な語り口などから,これらの手紙の文体が,1926年        の    夏にツヴェターエワがリルケに書いた手紙のそれとまったく同じであることに 気づく。ツヴェターエワはこれらの手紙で,ナニー・ヴンダリー=フォルカル トに向かって語っているのではない。リルケに向かって語っているのである。  さらなる対話の方法は,彼女がリルケの作品や書簡を「読む」ことである。 それらを読みながら,彼女は彼の書いた文のなかに無心に深く入り込んでいく。        23) そんなとき,今度は「彼のほうから  彼女に向かって語りかけてくる」ので 21) .Einige Briefe von R. M. Rilke“. R.u.Z., S. 147. 22) R.u.Z. S. 161−186. 23) ,,Einige Briefe ’von R. M. Rilke“. R.u.Z., S, 148.

(16)

ある。ツヴェターエワはリルケの〈死〉後,彼の書いたものを可能なかぎり手 に入れ,それらを座右に置き,日々読み耽った。それらを読めば,彼女はいつ でもリルケの〈声〉を好きなだけ聞くことができたのである。  いまひとつは,リルケの書いた文を「翻訳する」ことによってである。彼女        24) によれば,リルケを翻訳するというのは「リルケが一私を通して語る」とい うことなのである。実際彼女は,1929年2月に,リルケの『若い詩人への手紙』 のなかの4通の書簡その他をロシア語に翻訳して,雑誌「ロシアの意志」に発 表している。  こうしてツヴェターエワは,リルケの〈死〉後も,彼と対話を続けていくの である。

VI

 1926年の晩春から盛夏にかけて,最:愛の詩人であったリルケとようやく言葉 を親しく交わすことができたのも束の間,その年の暮れにリルケは死んでしま う。この幸福の絶頂から突如として奈落の底につき落とされたようなまさに悲 劇的な体験は,ツヴェターエワの〈詩人としての人生〉においては,その分水 嶺をなす最も重要な事件であったといってよい。なぜなら,愛するリルケの死, そしてそれを乗り超えようとする試みのなかで,ツヴェターエワは,彼女にと        コ   コ   む   サ     っての文学上の最大テーマであるく愛〉とく死〉の問題に,いわば決定的な解 答を与えた あるいは与えざるをえなかった,というべきか  のであるか ら。すなわち,リルケへの愛と彼の突然の死は,愛と死について彼女が育んで きた独自の思想を,いやおうなしに最終的に完成させることを彼女に強いたの である。そうしなければ,彼女は,最愛のリルケの死によって生じた,自己の 存在の大きな危機を乗り超えることができなかったからである。  ツヴェターエワの〈リルケ体験〉は,彼女にとって生涯の転回点をなすもの であった。「1926年は,ツヴェターエワにとって栄光の年であった。これ以後, 24) Ibid., S.156.

(17)

       リルケの〈死〉とツヴェターエワ  285       25) 詩人としてツヴェターエワは急速に衰えを見せはじめた。」実際,彼女はリル ケの死後詩よりも散文を書くほうが多くなっていくのである。あるいは,彼 女は1929年12月31日,パステルナークに宛てて告白している,「あのとき(=リ ルケが死んで)以来,私の人生には何ひとつありませんでした。もっと単純に       26) いえば,私は誰も愛さなかった  ただ歳月  歳月が流れただけでした」と。  ツヴェターエワは,1939年,政治状況が急速に緊迫していくなか,異郷での 長い亡命生活を終え,リルケの書簡や彼から贈られた詩集を大切に抱いて,17 年ぶりに祖国に帰る。だが,彼女がそこで見たのは,スターリンによる粛清の 嵐であった。1941年,ツヴェターエワは,戦争の混乱を避けるために疎開した タタールの小さな町エラブガで,極度の困窮と憔惇のなか,8月31日,自殺に よって48歳の生涯を閉じた。葬儀には知人はひとりも立ち会わず,埋葬された 正確な場所もわかっていない。  たしかに悲劇的な死である。だが,ツヴェ ターエワにとっては,そうもいえないのではないか。なぜなら,1926年の末, りルケが死んだとき,彼女もまたすでに死んでいたのであるから。すなわち, そのとき彼女は「一瞬たりとも自分が生きていると感じたことはないし,あな た(=リルケ)が死んでいるのであれば,私も死んでいる」(『あなたの死』)と 書き,また「あなたが死んでしまったいま……生も生ではなくなりました」 (「死後のリルケに宛てた手紙」)と述べていたのであるから。リルケ死後の彼 女の生は,文字通りもはや〈余一生〉でしかなかった。彼女は自ら命を断つこ とによって,ついに純粋な魂となったのであり,リルケが「ひと足先に逝って」 彼女を待っている「天国」の風景のなかにやっと完全に入り込むことができた のではないか。そして今度こそ本当の意味でリルケと永遠に続く対話ができる ようになったのではないか。詩人マリーナ・ツヴェターエワの死は,彼女の死 生観に私たちが忠実に従うならば,そのように受けとることを許すようにも思 われる。      (1993.11.30.) 25)亀山郁夫「欲望の海一M・ツヴェタ心内ワ」,雑誌『ヘルメス』第41号,岩波書店 1993  年,171頁. 26) R.u.Z., S. 30.

参照

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