最終講義 〔東女医大誌 第58巻 第3号頁 360∼364 昭和63年3月〕
微生物学の世界は宇宙に通ずる
東京女子医科大学 ヨシ オカ吉 岡
微生物学教室 モリ マサ守 正
(受付 昭和62年10月14日) 微生物学microbiologyはその名のごとく単細 胞生物のなかでも1/1,0001亜目の1nicronを単位 とする生物の中味を学問の対象とするので,話は 大変細かいのは当然でありますが,これがウイル スともなると更に単位は1/1,000のnlnの単位と なります. 1本の試験管の中であっと言う間に地球上の人 類の総数を軽く凌駕してしまうという単一微生物 の純培養手技は微生物学だけに留らず,化学療法, 分子生物学,遺伝工学等に多大の貢献をしており ます. 43年前に私が大学を卒業して以来,内科を1年 勉強した以外は兎にも角にも微生物学を専攻して まいりましたが,その足跡を辿っても,常に悔悟 の連続で胸を張ってお話するようなキラメクもの は持たないという思いがいたします.アカデミッ クな部分の2/3位はすでに東京女子医科大学学会 卓説ならびに特別講演でお話してありますし,雑 誌に載っておりますので,本日この与えられた機 会にアカデミズムからはみ出た部分について感想 を述べさせていただくことにします. 私がこの道に,というのは専門の道に入った当 時の微生物学・免疫学は戦前からの流れが主体で ありまして,ペニシリンの研究が始まったといい ますか輸入されたことが僅かに新しい時代の到来 を思わせた頃でありました.私に与えられた仕事 は実験チフス症の免疫の研究の一端を荷なうこと でありました.この実験チフス症というのは昭和 5年頃恩師小林六造先生が着手されて以来,途切 れることなく綿々として受け継がれてきた私の母 校の慶応の細菌学教室のテーマでありました.今 でこそ細胞性免疫cell−mediated immunityとい う言葉は医師はもとより,医学系の方でも珍しく ない言葉でありますが,昭和5年およびそれ以後 の当時といたしましては,全く他の学会では言わ れていない言葉でありました.私が若輩であった 頃は,リンパ球の役割については全く知られてお りませんでした.胸腺リンパ体質status thymi・ colymphaticsという言葉がありまして,医者の逃 げ口上として原因不明の異常体質に使用されてい たきらいがありますが,今にして思えば最も先端 的な用語ではないかと思います. 実験チフス症とは人の腸チフス,結核,野兎病, リステリア症など組織学的に単核球の弓造を来た す亜急性ないし慢性の全身病に似た感染症を実験 小動物に作らせることでありました.その免疫は 死菌のワクチンでは達せられず,病原性を弱くし た弱毒生菌免疫でしか達成されないこと,またそ の免疫には抗体が関与しないことから,小林先生 は細胞免疫が本体であることを夙に提唱し,伝染 病研究所(現 医科研)細谷省吾博士と学会で大 きく対立していたものであります.われわれは, この細胞免疫でいう細胞がリンパ球であることを 掴めずに言わば外濠ばかり埋めていたとも言える のですが,当時細胞免疫という概念を外の専門家 達で真剣に採り上げようとしたものは,まずおり ませんでした. 私はここで細胞性免疫の話をする意図は毛頭あ Morimasa YOSHIOKA〔Department of Microbiology, Tokyo Women’s MedicaIcrobiolog玉cal world leads to the universe
College〕:Mi・
りませんで,研究していて次の2つのことに興味 を懐いたことを申し上げたいと思います.その1 は,細胞性免疫は非特異免疫を生ずること,第2 は急性敗血症において非特異的に防御されること であります.どちらもマウスの実験であります. 免疫とは元来特異的なもので,共通抗原があれ ばともかく,抗原構造の全く違う微生物の感染症 の間では防御能があるとしても,その際免疫とい う言葉を使うことさえ疑われる程のことでありま した.しかし事実として我々の教室の先輩らも, 細胞性免疫が成立する実験感染症の間で非特異的 免疫が強弱の差はあるけれども実証しておりまし た.結核を耐過した人はらいに罹りにくいという 話もありました.今にしてみれぽリンパ球活性の 充進作用が動きだしますと細胞障害T cellなり macrophageなりが,他の抗原を有する微生物の 感染で類似の感染経過をとる場合には作用すると いうように理解されておりまして,やはり免疫機 序の一環として捉えていいのであろうと思いま す.現在結核菌体から抽出された成分を悪性腫瘍 の治療に使う試みがなされておりますが,細胞性 免疫が癌細胞障害に重要な役割を演ずるのであれ ぽ,根拠のある治療法と言えるでありましょう. 2番目の興味点の急性敗血症というのは,人間 ではなかなか起こりまぜんが動物では球菌でも桿 菌でも極めて多数の菌を導入してやりますという と1∼2日で敗血症を起こして死亡します.病原 性は強くても,強くなくても菌数が多ければ,一 様に敗血症を起こします.ある菌を殺してワクチ ンと致しまして,マウスに接種して1∼2日以内 に抗原の違う他の生菌を大量に注射すると,もし 前処置していなけれぽ敗血症死するわけですが, この際多くのマウスは外観的に弱ることもなく生 き続けるという現象にぶつかりました.ワクチン を接種して1∼2日といいますと免疫応答はまだ 端緒についたぽかりで,抗体はもちろん産生され ておりません.したがって特異免疫も成立してい よう筈がありませんのに非特異的に敗血症死を防 ぐのであります.この実験は教室の流れとは別個 のものとして打捨てられまして,大変惜しいと 思っておりますが,私は今だにその解を知らない のであります. ところで免疫学の進歩は目をみはるものがあ ります.20年前,10年前および現在のJ.Im− munologyという雑誌の厚さを比べてみただけで 一目瞭然であります.Bcellの抗原レセプターが 免疫グロブリンであることは周知の事実でありま すが,Tcellの抗原レセプターが明らかにされつ つあります.複雑なのはリンパ球同志が認識し, 制限しあうというnetworkで,複雑すぎてついて ゆき難いという現在でありますが,いずれもう少 し理解し易いようにスッキリした姿に整理される のではないかと楽しみに待っている次第でありま す.それにしても人間を含めて生物とはよく造ら れた有機物でありまして,微生物とはちがって個 体差が非常に激しいものであります.免疫能は自 然から与えられた生体の防御機構でありまして, 炎症やアレルギーは局所で犠牲にしても全体とし ては肉体を救うものであるというように我々はか つて学んだものであります.それでは自己免疫病 も同じカテゴリーかと申しますと,私にはそのよ うに思えません.自己抗原に免疫応答を起こさな いように働いていた抑制機構が局部的に綻びると ころまで防御機構に含めるというのは無理だと思 われます.両親から仔ネズミが生まれるわけです が,この親のリンパ球を取りまして,仔ネズミに 注射をします.そうしますと,このリンパ球を仔 ネズミは受け入れまして,リンパ球は生き残って 増えていきます.ところが,このリンパ球はhost である仔ネズミと遺伝的に違うわけであります. そうしますとリンパ球はこのhostに対して反応 致しまして,分化して免疫応答を起こします.そ のためにhostであるこの仔ネズミが艶れて死ぬ
という,いわゆるgraft versus host reactionと
いうのがございます.この親ネズミにあらかじめ 仔ネズミの組織を注射しておいて,tderanceの 状態にしておけぽ,仔ネズミは別にこの反応を起 こさないという一つの現象がございます(図1). 自己免疫病では明らかに免疫現象が介入しており ますが,発病によって諭すなわち禍を免かれるこ とは必ずしもなく,むしろ禍いを呼んでおります. ということは免疫は自然現象であって完全な合目
AA
● o燃丁
● ∠ BB AB ・・ 驚鞭AB
● ●露
A 内降
図1 Graft versus host reaction
一二 的性を有するものではないということになりま す.、それとも免疫能とは善意を以て祖先から承け 継がれてきたものであるけれども,あらゆる面倒 をみるレベルまでにはまだ進化していない,生存 の途中免疫異常または免疫変調を来した者は範時 外の現象として見放されるものであるかどうか, これについては私は知りません. 遺伝学に自然突然変異および選択説がありまし て,微生物を用いてそれが事実であるということ が証明されております.例えばブドウ球菌が1個 の祖先から次々に分裂していきます.この子孫の あるものは突然変異を起こし,これはmutantで ありますが,このmutantは調べてみるとセフェ ム剤に対して耐性があるが,元のcloneはセフェ ム剤に対して感受性であります.このmutantは セフェム剤が作用したから耐性になったのではな くて,セフェム剤が存在する前から耐性の性質を 持っていたのであります.ということはセフェム 剤が菌のメタボリズムに作用するそのpathway に対するバイパスを作る機能を,このmutantは 持っているということであります.これがいわゆ
るspontaneous mutation selection theoryとい
われるものであります.この自然突然変異は約 1/106∼9の割合で起こることが知られております. 言葉を換えると1個の祖先から生じた遺伝形質が 完全に等しい子孫が100万から10億の数になりま すと,ある形質についての塩基配列がどこかで 違った変異を1個生ずるというものであります. リンパ球が抗原レセプターを備えるのは原則と して出産後であって,個々の抗原を認識する能力 は親から遺伝するものではありません.あらゆる 抗原に対応できるようになるのは,速やかな分裂 を繰返すリンパ球の突然変異によるとされており ます.対応する抗原に遭遇すると刺激を受けて幼 若化し分化するという選択が働きます. 太平洋戦争直後,連合軍が日本に上陸して直ち にしたことの一つはDDTを日本人に頭から噴霧 してノミ,シラミを駆除し,また飛行機からも散 布しました.莫大な量のDDTを使用したのであ りましょうが,それによって,その後2年間位住 宅地から蚊がいなくなって大変助かったことを記 憶しております.しかし,やがてDDT耐性の蚊が 選択されてまた,街には蚊がウヨウヨするように なりました.動物にしろ,植物にしろ,遺伝子を 有するものが,地球上に現われて以来,約35億年 たちます.その間に絶え間なく変異を行い,環境 に適合しないものは淘汰され,進化してまいりま した.約380万年前アファル猿人Afar hominids に発するといわれている人類といえども生物であ る以上,変異の洗礼を避けることはできません. 環境に耐えられる遺伝質を有する者が子孫を作る ことが可能で,何らかの欠陥を持って生まれてき た者の多くは生後いくぼくもなくして淘汰されて まいりました.われわれの体内で何兆という細胞 が分裂する場合に,無数の自然突然変異が起こる ことになります.核酸修復機序が働いて正常に復 することが数多く存在するに相違ありませんし, 変異による細胞の生化学機構の変化のため生活々 性を失ってその細胞は死滅し排除される場合も多 いでありましょう.代謝異常,免疫異常あるいは 奇形を伴って出産してくる場合もありましょう. 変異誘導作用が働けば変異率は一段と上昇するも
のであります.このようにして地球は,あるいは 生物は,あるいは人間は現在に至ったわけであり ます. 医学の進歩,生活環境の改善は健康人に大いな る幸いをもたらしましたが,医学の未発達あるい は環境不良の地域にあったら命を長らえることの できないハンディをもつ人々に対しても,幸いを 与えました.と同時に逆にそのために本人ならび に家族の苦しみが果しなく続くcaseもふえて来 ております. 世界的な規模でもって国連があらわした1950年 から55年の幼児の死亡率を,1975∼1980年の死亡 率と比べてみると,日本は非常に低くなっていま す.スカンジナビアのノルウェー,スウェーデン も非常に低くなっており,他の地域でもそれぞれ 下っています.さらに2020∼25年頃になりますと, 一段と死亡率は世界的な規模で減ってきていると いうことが予測されているわけです.平均寿命は 世界的に伸びています.特に低かった地域では急 速に伸びております.世界における新生児,乳児 の死亡は総人口に大きな影響を及ぼしておりま す.先進諸国のみならず,発展途上国においても 新生児,乳児の死亡率はここ30年の間に大きく改 善されました.これは特に疾病対策が与って力あ るものと思われます.紀元前400万年頃から,人類 の歴史の99%では,ほとんど人口の増加はありま せんでした,これまでの歴史のうちの1%の間に 人口は急激に増えております.この増えている間 にもペストだとか,疫病の流行だとか,飢謹だと か,いろいろなことがありまずけれども人口は増 えてきております.現在世界の人口は48億位とい われておりますが,これ,が2025年には82億に達す るものと推定されております.ただし,人口増加 率はその勢いを2000年頃から低下させる’烽フとい う予測があります.その原因の主なものは食糧で あります.微生物の増殖は栄養が不足し,環境が 悪化すると停止し,速やかに死滅の道を辿ってお ります. 人間は地球のあらゆる資源を急速に澗渇させつ つあります.日本だけの繁栄はいつまでも長続き する筈はなく,多産の民族を救済するという福祉
図2 Refugees from terra
図3 1mmunonuorescence staining of a hair folli・ cle&surrounding tissue infected rabies virus
の増強と裏腹に,地球は人類の危機を迎えること にならねぽよいがと願っております.穀物の消費 の割合をみてみますと,先進国では穀物消費の 70%を家畜に食べさせています.そして家畜を肥 らせて,それを人間が食べております.ところが, 途上国では87%を人間が食べている.それでいて 人口の割合は25%が先進国だということです.日 本で家畜飼料に消費する穀物量は,アジアの全子 供に食べさせる量に相当するそうです.このよう にして食糧は増々洞渇するのではないかと思われ ます.もしこのようにして自然淘汰を回避しよう とするならば,そしてもし人類を滅亡させたくな ければ,人口制御を効果的に行なうかあるいは植 一363一
民の道しか残されていないように思えます.それ には地球の資源を幾ら節約してみても先が見えて おります.太陽系を含む銀河には20,000億の星が 直径約10万光年,厚さ(中央)約3万光年の空間 に散在しています.また宇宙には1012個以上の銀 河があります.数百億光年以上のこの宇宙のわず か約200万光年離れたところにM31星雲いわゆる アンドロメダ星雲があります(図2). 狂犬病のウイルスを感染させたマウスの毛嚢を 蛍光抗体法で染め出してみますと,毛嚢のまわり に狂犬病ウイルスrabies virusが光ってみえま す.これは先程のアンドロメダ星雲に似てみえま す(図3).これが私の題にかろうじて合致するも ので,微生物の道は宇宙に通じるということです. 科学,医学が進歩して人類が退化しなけれぽよ いがというのが,私の最大の杞憂であります。 本日このような席で多様なお話をしましたの は,常々,私が大変気にしているところを皆様に 知って頂こうと思って敢えて,申し上げました. これまでの私の研究を助けてくださった大勢の 方々に厚く感謝致しまして終ります. 一364一