禪宗の登場と社會的反響 : 『浄土慈悲集』に見る
北宗禪の活動とその反響
著者名(日)
伊吹 敦
雑誌名
東洋学論叢
号
25
ページ
1-30
発行年
2000-03
URL
http://id.nii.ac.jp/1060/00003193/
Creative Commons : 表示 - 非営利 - 改変禁止 http://creativecommons.org/licenses/by-nc-nd/3.0/deed.ja(1) 慈懲一二蔵慧日(六八○’七四八)は、唐中期における重要な思想家の一人である。十八年間に亙ってインドに滞在し たにも拘わらず、蹄國後は全く佛典の翻諏を行なわず、専ら蹄途で蹄依した却王教の流通に努め、承遠(七一一T八○ 二)や法照(生硬年未詳)へと綱く浄土教の鍬流として後世に大きな影響を残した。しかし、その歴史的な誼要性に反 して、その思想の解明は、従来、必ずしも卜分に行われてきたわけではなかった。その大きな原因は、その著作が断 片的な形でしか側わっていないというところにある。主著と言うべき『鰍T工慈悲災』(『略賭經強念佛法門往生淨工災』)に (2) してJD、完本としては僻わらず、大正年間に朝鮮で發見された上巻の一部が現存するに過ぎないのである。 それでも『浄土慈悲集』が慧日の思想を窺う根本資料たることに相違はないのであるが、特に、この文献において 注目されるのは、その所々に常時の鰍の動向を窺わせる興味深い絞述を認めることができるということなのである。 というのは、『郡士慈悲染」の綱成は、慧日の言葉を借りれば、 「夫立宗者。先破後立。何以故。若不催邪。難以顕正。所以初巻先絞異見。以教及理逐遺知非。次第二巻贋引聖
輝宗の登場と社會的反響
l『淨土慈悲集」に見る北宗禰の活動とその反響
はじめに伊吹敦
1(3) 教。成立淨土念佛正宗。次第一二巻脅稗諸教古今疑浦。校最諸行出離遅疾。」 というものであったようであるから、今日仰えられている部分は、正しく、慧日の時代に世に行われていた「異見」 を掲げ、その誤りを指柳した部分に相槽するのであるが、その批判のほとんどが、揃時、勃興しつつあった椰宗を標 的としたものと見ることができるのである。そして、その中には、他には全く仰えられていないような記述や、他の 資料と對照することで、繩の質態が浮かび上がってくるものなどが含まれており、濁自の思想と行動様式を持った諏 宗の中原への進出と、それが社會に對して引き起こした波溜とを理解するうえで非常に貴重な同時代資料となってい 慈感三蔵慧日の批判が、初期顧宗の内のどの一派を念頭に置いたものであるかについては、従来から様々な意見が 提出されているが、おおよそ次の四つに鯛めることができるようである。 従って、これまでも『浄土慈悲典』は、しばしば加宗との關聯において論じられてきたのであるが、それにも拘わ らず、今日に至っても、なお多くの問題が解決されずに残されているように思われる。例えば、慧日の批判が諏宗の どの一派を念頭に置いたものであったのかというような基本的な事柄についても、いまだに意見の一致を見ていない し、常時の諏宗の在り方に閲して『浄土慈悲集』が提起してくれる様々な黙についても、十分な吟味がなされていな いというのが資情だからである。そこで、以下において、初期の諏宗史に封して多少なりとも新たな知見を加えるべ く、こうした猪問題について考察して行こうと思う。 るのである。
、慧日の批判の對象についての諸説
2①の場合、その根磁として掲げられるのは、『浄土慈悲典』の成立時期と諏宗の展開状況との鯛係である。懸日の活 (8) 動の中心は中原にあったと考えられるが、南雪不の中原への進出は、荷澤神曾(六八四’七五八)が宋馴に請われて洛阻 (9) に入った天賛四載(七四五)に始まるとされている。これは慧日示寂のわずか一二年前のことであるから、時期的に見て、 南宗を『浄土慈悲集』の主な批判對象と見倣すのは困離であるというのである。 この主張は、一睡、もっともであるが、ただ、神樹が南宗諏の正統性を公言したのは、開元二十年(七二二)の柵盛 の宗論に始まるものであるし、また、洛陽への進出もそれ以前に神倉の評判が高かったために迎いないから、犬費四 戦以前に南京繩の存在が中原に全く知られていなかったとは言い得ないであろう。従って、欝時の状況のみから、そ (、) の對象を北宗と断定するのは危険であると二一四わればなるまい。『浄土慈悲集』には常時の爾宗の主張がかなり詳しく描 寓されているのであるから、少なくとも、それらと北宗文献の對比は、判断の前提として絶對に必要な作業であろう。 しかし、少なくとも常時の状況から見た場合、慧日の批判の對象として先ず想定すべきものが北宗であったことは 否定できないはずである。にも拘わらず、多くの學者は、②③④に見るように、さしたる根撞も提示しないままに、 敢えて(系統はともかく)南宗系の人々をそれに富てようとするのである。そして、北宗鰯の全盛期であるという當時 (Ⅱ) の形勢との矛盾は、悪日が廠州に旅した一」とがあるという師資を根撞に、南方で懸能の弟子たちの活動に仮接飼れⅣ (脳) たと兇倣すことで解消せんとするのである。しかし、これが剛なる想像に過ぎない》」とは明白である。いったい、慾 ③南宗(南繊悩錘の
④洪州宗・保唐蒄
①の場合、その根磁と‐ (4) ①北当娠(符寂・挺綱一派) (5) ②南菅派(凹溪懸能の一派) (6) ③南吉不(南繊悩錘の一派) 3このように、従来、慧日が批判した耐宗の一派の検討すら十分に行われてこなかったのであるが、更に問題なのは、 これまで多くの學者は、懲日の批判對象を柳そのものというよりも、騨宗内の誤解、即ち「邪見の徒」を問題にした ものだと児倣してきているということなのである。例えば、小野玄妙氏は、 「然るに是の大乗佛教の填商義に通達しない無學の諏徒になると、遂に是等の祖師の腫意を掴むことが出来ず、 「心」の言葉を以て吾々の思凰念想の個心に引き富てて来るものであるから、淺薄至桶な空理を捉へて悟道とし、 最後には學問も爲なくても善い、戒も守るに及ばぬ、善行も修せなくても善いなどといふ、途方も無い外道鰯が 流行することになる。慈慰三蔵が力を喝して諏斥したのは、是れ等一部の誤解償諏の徒輩であって、稗そのもの (Ⅱ) でも無ければ、薊吉不そのものでも無い。」 と述べているし、o目己已①一一氏や句:『の氏も、 「口凹⑪の○・宮〔言いの①|{.、『一二、厨冒『8目員{ラョ、ヨ.、Pョ、己。『出昌’一三の、『三,一⑫ョ⑫sご富□の弓。{の○・モミ {『・ョO豈・昌一扇の|[:二一のぐ一の。m[〔。。⑩⑦ミヨC○二一望の|巴己且[○房9.自己:【めすこ[す且三・、冨二 能の一派が碩南において、ある程度の勢力を持っていたことは確かであるにしても、中原で柵威を確立していた北宗 を無視して、そうした地方勢力を批判の主たる對象とすることなどありうるであろうか。 恐らく、こうした無即な並張がしばしば唄え出された根抵に、慾日の批判する諏宗の思想が南宗のものに近いとい う認識があったことは間迎いないであろう。もちろん、その南京理解が正しいものであれば何ら問題は生じないので あるが、賞際にはそれは、傅統的な「南頓北漸」説に強く影響されたものであるかのどとく見受けられるのである。 しかし、こうしたドグマの虚機性が明らかになりつつある現在、それらの説が容易には受け入れ難いものであること (n) は否定しがたい。 4
私は、以下において、先ず「浄土慈悲集』の記述が北宗文献のそれといかによく合致するか、即ち、慧日の批判對 象が、言うところの「北京碑」それ自髄に外ならないということを示そうと思うが、それに先だって『浄土慈悲災』 に描かれている騨宗の人々の主張を整理しておこう。 あるといえるのである。 『淨土慈悲集』では、當時行われていた「異見」を批判するに富たって、彼らの修行の様子を簡軍に描寓した後、そ の薙本的な主張を掲げている。次のごとくである。 のものに批判を加えたと見倣すべきなのであって、その批判の激しさは、認の持つ革命的な新しさの直戯的な反映で る。つまり、慧日は、卵宗内部の一部の人々の逸脱を批判したのではなく、新たに登場してきた騨宗の基本的立場そ (常然、それは北米文献である)に、慧日の批判と完全にパラレルな表現や思想をいくつも見出すことができるからであ などと述べているのである。しかし、これは正しくない。何故なら、後に見るように、常時の股も代表的な諏宗文献 凹巨四ヨヨのロ(・zl Rの再ゴCくの已冒]■『 (旧) 己の。、く一○『」(、三 「エ巳ユ】⑫田 (応) 胃いの一(」(司四こ『の)
二、『淨土慈悲集』に見る禰宗の主張
旨]■ご竜【吋四 (nコ■つつ堅]) 口ごく一吋四』一二○二m’ zのぐ①『ニゴの一のいい。戸 凹巨四○丙一己的 諄『ず凶戸豈のいの①⑩、叩の〆【『句【。{⑫(。⑦ご旨ご○こいつ。。[一ゴのロ『、。ごnの○『○三口。■ロ、コロ。( ● ● ]いめ■『の一○の画望〔。、{O二・四コ】oCpCn-m⑰ヨ凶己○m一○m■ロ②。(⑫巨旦。⑦三由言四ヨヨの二( の色『の晩巨妙『。⑫四己二○『(のロの口。○こ『四mの已巨ロ。。ごくの再三C己昌、ご旦巨ご○厨。-つ一一二の。 5ここからは、「異見」の瓶が、 イ.醐物を空虚で虚妄なものと棚ぜしめる「渦淨」なる修行仏を唄逝し、 ロそれ故、經典や佛にすら執われてはならない(翻輕や念佛も不要)と主張し、 へ「稗定」によって「肴淨」を質現することを究極の悟りと兇倣し、 一「「稗定」のみが修行すべき「無爲法」であり、 ホ.それ以外の全て、例えば、波羅蜜行や寓經、造像、寺院の建立などは、執着に基づく「有爲法」に過ぎない から、解脱には全く役立たないと説く。 といった特異な主張を行っていたことを知ることができる。『浄土慈悲染』は、この後の部分でも、しばしば「異見」 を掲げて批判しているが、それらの中にも、次のように、これと共通するものを見ることができるから、こうした主 張が、彼らの思想を代表するものと見られていたことが分かる。 A・「然於佛法唯異見者。或有出家在家男女四衆。柵帷死苦。厭悪俗塵。或住山間。或依聚落。或居寺舍。或復 (イ) (イ) (イ) 在家。腔輔相仰。教人石淨。趣Ⅲ窓悩睡眠。夜乃哲時繋念。見世空寂。都無一物。將爲究寛。.苞一切諸法。 (ロ) (イ) ‐■
猫如麹毛。亦如兎角。本無灯燗。雛常雄減。無普邨修。擁悪可噺。心所取相。及以純佛。雅常迎離。但令内心
行門。悉皆虚妄。即如念佛調經。求生浄土。布施持戒忍辱精進。乃至智慧。寓經造像。建立塔廟。恭敬麗拝。
「■I 遠見世尊。亦不假念佛調繩爲出離囚。 (口) 唖養父母。奉事師長等。是生死因c非解脱因・何以故・見善可修但見悪可薗く浬纈不可欣く生死司 即此卵定。是無風法。是可修法。是速疾法。是出離因。除此之外。諸餘 (*) (苧一) 例・白: (小) 湿者。」 6ホ・「諏師復言・造像有爲功徳・非成佛因者電
「脚師復言・書寓經律・著相虚妄・非成佛囚者載)
これらにおいて、慧日は「異見」の主を「諏師」と呼んでいるが、思想の面から見ても、「諏定」のみを絶對視し、 それによって悟りを得たと公言するなど、關宗に特有の思想が窺われ、従来から指摘されているように、慧日の批判 習。髄有柵、益 ホ.「諏師復言。 「脚師復言。 これらにおいて、 ロイ● 「又復説言。學無生観者。護此一生。更不受生。」 一「「又六度三学皆是有爲。諏定即是六度三票随一所攝。 '、 ■ 「如是等繩。贋説諸行是成佛因。非但六度。如何稗師確執關定。罐 (叩) 正因。餘皆助縁。即如華巌縄第十一一一一室。.…:進此縄文。智鳳第一。 「又諏定者。 此罪。何以故。「醐師亦説・一切虚妄・空無一物垂
「受佛依廠・不思報恩・順佛蝋經・不念不諏堕
「諏師似高・讃緬大乗經典・著相虚妄。非成佛因者亟
「不肯讃緬聴朋解説・然然坐者亟
「然今道俗柑高u識者・未委證何節定璽
-1 「若執己見。不依蛾教。高無爲法許可修習有墹益者L2,
上人之法。賀米證得。言已得者。蒋約戒結・罪犯波羅夷。撞經識。亜随墹上慢。然今坐省。多犯
「 師資互讃皆云。己得已證故。復言。坐者。 L25i-夕 L笏 ̄〆 如何確執是無爲耶 即於此身。證悟聖果。永噺生死。更不受生 成佛正因。非除度耶。然諸聖教説智勝。成佛 如何偏讃繩定爲勝 邑宏~〆 L2fi LZ3 7對象が新興の脚宗の人々であったことは疑い得ない。 このほかにも、『浄土慈悲集』には、次のごとき「異見」を掲げているが、思想的に通ずるものがあるから、これら も同一の人々を指したものと見倣すことができる。 B・自分の内に佛を求める「看心」という修行法を弟子らに指導する(これは、次のCと結びつくことで、先の「看淨」
「又猪諏師・励猪近俗・向内求佛・不假外佛爲諜知識者・亦曜不假柳師教導・同解滑心亟
C・全ては眞如に外ならないという、一顧の「如来蔵思想」を説く。「復説。|切諸法・眞如随一・湛然常住・不生不滅・無有初念後念可得壁
(卿) ,.『金剛鰹』などの「凡所有相。皆是虚妄」という經文を「看心」「看淨」という修行法の根磁とする。 「間日。惨菩薩行。錐皆取相。必能爲因。而非妄者。何故。金剛波若。梼伽等經云。凡所有相。皆是虚妄。今言有相非虚妄者・與此璽教・豈不相迩鍾)
E、いわゆる「心浄土郡」説によって、念佛による極樂往生を否定する。「翻師又云・念佛生浄土者・著相修習・足虚妄法・非成佛因者壁
「如来法門八風四千。随宜爲説c散在諸教。無智慨怠。不能週寛。執自愚見。以爲究寛。迷昧捷徹。迂路傾心。 有。但令心淨。此間即是。何虚別有西方浄土。奇哉罪業。不信聖教。豈佛世尊虚妄説耶。〕 「祇愚鯉衆生不知恩徳。反生誹誘。段呰不信。愛著三界。六道袷廻。不樂往生安樂世界。或有發心。脈生死苔。 速求解脱。不遇警友。於椰土門。多慨猶豫。不能決定。叫心趣向。随逐衆迷。翻空撒有。笥倫朝夕。循環火宅。 三界往来。不求見佛。哀哉可懲。顛倒衆生。 という勝一〃圧となる)。 豈有遠離諸佛如来得成佛耶。或有一類男女道俗。於彼淨土都不信・奇哉罪業・不信聖教。豈佛世尊虚妄説耶壁
8慧日の時代が北宗剛の全盛Mであったことは先に鯛れた通りである。貸際のところ、慧日の肺柵(七一九)後の二十 年間は、神秀の二人の高足、普寂(六五一-七二九)と義柧(六五六-七つ二』ハ)によって南京の廓が代災されていた時期 に常たっている。もっとも、肢晩年の頃には、荷浮神倉の活動も目立ってきたはずであるが、北宗の人々は、やがて、 それを流罪に追い込む(七五三)ほどの勢力を維持していたのであるから、常時、「稗」といえば、|股に神秀系の北宗 醐を指したことは間述いのないところである。従って、隷日が批判の對象としたのがこれらの人々であったという一」 (銘) (鋼) とは1分に考えられるのであるが、質際のところ、彼らが奉じた一つの綱要件、即ち、『大乗無生力便門』と『鰯心総』 の中に、「浄土慈悲集』の記述と非常によく合致するものを認めることができるのである。 先ず、『大乗無生方便門』を見てみよう。次の引用は全髄の序に當たる部分であり、下線部が『浄土慈悲集』と共通 する箇所である(括弧内の紀驍は、前節のそれに對應する)。 (A-c 以上、『派上慈悲集』で「異見」として掲げられる諏宗の人々の主張を検討したので、次に節を改めて、これと初期 の剛宗文献との照合を行うことにしよう。
和一百。一切相。總イ得取。[所]以金剛繩云。凡所有杣。呰足虚妄。肴心若淨。名淨心地。莫巻縮身心。野腿身
心。放麟遠看。平等肴。韮虚空者。 「問。佛子。心撚然不動。足没舟淨。佛子。諸佛如来付人道人力便。一念淨心。甑超佛地。和畷木。一時念佛。 (ハーィ)〈D) (ハーィ、〃、c)圧性沈浮亟
三、『淨土慈悲集』と北宗文献の照合
9方便門』に見える一 めることができる。 (日) 畷。是即解脱。不見六根相。澗淨無有相。常不間断即是佛。」 上のごとく、前節で検討した『浄土慈悲集』の「椰師」の北張のうち、 便門』に見えることが知られるが、更に、『齪心論』では、次のように、 常令不間断。従此永離障。眼根消淨。眼根離陣。耳根澗淨。 和。向前遠看。同越 然身心調。用無陣磯。 和。身心得離念。不見心心如。心得解脱。不見身色如。身解脱。如是長時無断用人苞虚空無一物。清浄無何相。 又問。云何云一法能攝諸行。答日。心者萬法之根本也。一切諸法。唯心所生。若能了心。則寓行倶備。猶如大 子云。是佛。 (A-c 和言。三黙是何。 (ハーイ) l 和。答。一物不見。 和間。見何物。 和言。無陣磯肴。 和。看淨細細肴。即用淨心眼着。無避無涯際遠看。 和間言。見何物。 (Alイ) 子一玄。一物不見。 (ハーイ) 向後遠看。四雄上下。一時平等肴。識虚空石。長用淨心眼着。英間断。亦不限多少肴。使得者。 。耳根離陣。如是。乃至六根澗浄。六根離陣。一切無
璽
張のうち、Alイ、Alハ、B、C、Dが『大乗無生 あように、他のAlロ、Al一一、Alホ、Eなども翌 (ハーイ) (ハーイ、AlC 10虚乎。故經日。凡所有相。皆是虚妄。又云。若以色見我。以音聾求我。是人行邪道。不能見如来。以此観之。乃 名義懸殊。在口日調。在心日念。故知。念從心起。名爲覺行之門。禰在口中。即是音聾之相。執相求福。終無是 (D) 住微妙色身。非有爲敗製之法。若人求道。不解如是鱒寓眞容。患何靭然言成就功徳 (Alロ、B、E) 爲修諸覺行。肪像如来。豈道鐵寓金銅之作也。是故。求解脱者。以身爲鐘。以法爲火。智慧爲功匠。三聚淨戒六 澗淨虚。着氷除三蒜。常淨六根。身心湛然。内外沿淨。是則名爲修伽藍。又鐵形像者。即是一切衆生求佛道。所 極功徳。皆成佛道。若唯翻心。惣攝諸行。説如是事。聴虚妄也。答日。佛所説有無且方便。以一切衆生鈍根狭劣。 又問。如經所説。至心念佛。必得解脱。此一門即鹿成佛。何假観心。求於解脱。答日。夫念佛者。樹須正念。了 蜜者。即六根。漢言達彼岸。以六根清浄。則不染世塵。即出煩悩。可至菩提岸也。故名六波羅蜜。」 (AI一一、A-土、B) 樹。所有枝條及諸花菓。皆悉因根生長。栽樹者。存根而始生。伐樹者。去根而必死。了心修道。則省力而易成。 (弧) 三楽淨戒者。則離三懸心。成無皿善。聚者會也。以制三毒。即有三無磯善。普曾於心。故名三楽浄戒也。六波羅 (蛇) 「又問。經中所説。佛令衆生修造伽藍。鏡寓形像。焼香。散花。燃長明燈。査夜六時遜塔行道。持齋。鐙拝。種 「又問。藤薩摩珂薩。巾持三衆淨戒。行六波羅磁。方成佛道。今令駆者。唯只翻心。イ修戒行。埜何成佛。答H◎ 自然成就眞容之像。所謂究寛常
徳堕
11つまり、基本的には、「浄土慈悲集』で批判の對象となっている椰宗の教説の全てを、我々は『大乗無龍方便門』『掴 (頓) 心論』という、股も代表的壮一一つの北宗卵文献の中に見出すことができるのである。こうしたことは偶然ではありえ ないであろう。偶然でないどころか、慧日は明らかに、これらの文献に基づいて『浄土慈悲集』を著わしたのである。 そうでなければ、どうして門外漢たる慧日が稗宗の思想を理解し、批判することなどできようか。つまり、これらの 文献は、當時、それほどにまで庇く流布していたのであって、こうした事賞は、後に述べる、諏宗に對する富時の人々 の唖倒的な人氣と正しく榊臓するものであると言えるのである。 慧日の批判は、ある意味では、新興の諏宗に對する箇来の佛教徒の立場を代辮するものということができるである (楯) (仰) う。従って、その分析は、卵のもつ革新性を理解するうえで多くのヒントを與一えてくれるはずである。もちろん、慧 而沙 論功 心徳0o i11t禰 拠椰 少莊 分殿 L2Ui。 之修學。徒日疲労。背正蹄邪。昨高獲拙。但能攝心内照。蝿齪常明。絶三灘永使消亡。 已迷他。未解術塊。何曾覺悟。見有蝿。勤釛執着。説於無相。兀兀如迷。且貧目下之小慈。不覺常来之大苦。此 (AlC 鰯見今時淺識。唯執輔相爲功。廣賀財賓。多損水陸。妄誉像塔。虚役人夫。積木型泥。岡丹壷緑。傾心鑑力。損 (AI*) 自心生。三界輪廻。亦從心起。心爲出世之門戸。心是解脱之關津。知門戸者。豈慮難成。識關津者。何憂不達。 知事相非眞正也。故知。過去譜佛所修功徳。皆非外説。唯只論心。心是衆善之源。心是萬悪之主。浬桑淨樂。由
四、慧日の批判と櫛の革新性
(B) 燃敵法門。悉呰成就。超凡澱蝦。目撃非遥。悟在須奥。何煩麟首。 閉六賊不令侵擾。日然世 怯門幽秘。寧可具陳。略 12「余頗尋三蔵。推求事理。観彼向来輝師所見。錯謬彌甚。違純反理。乖背佛意。豈有凡夫。但住空門。不断不修
慨怠圃堕・而得解脱者絃璽
つまり、彼らの主張は甚だしい誤りで、經典にも道理にも合わないというのである。では、どこが問題なのか。私 見によれば、慧日の批判は次の三つの鮎に向けられているように思われる。 a・柳定のみが絶對的な修行怯であり、それは「無風」であると主張する。 b・諏定以外の修行法は、全て「有爲」「虚妄」であるから、悟りに直結しないとして、その個値を否定する。 c・諏定によって得られる「看淨」の境地こそが究極の悟りに外ならないと説く。 先ず、aについては、慧日は次のように批判している。 「若執己見。不依聖教。言無爲法許可修習有増益者。即無爲法。便有生滅。何以故。許有増益故。夫有増益者。 皆有生滅。許有生滅。便同有爲。亦足虚妄。若許虚妄。便述聖教。及害己宗。若不許者。興理相違。何以故。目 許無爲有生滅等故。又六度三竿呰是有爲。卵定即是六度三學随一所綴。如何確執足無爲耶。進退徴誌。逃鼠無虚。 日にとって諏宗批判は焦眉の問題であった。念佛による往蛎を否定する諏宗の人々の主張が日らの教義を縦める上で 重大な障害になるであろうことは明白だからである。従って、慧日の批判にそうした浄土教家としての立場が多分に Ⅸ映されていたということは否定し難いが、その絞述そのものは、佛教の基本的立場からの諏宗の逸脱を指郷するよ うな議論が中心となっており、客観的な視座に立脚するという態度に貫かれているように見受けられるのである。あ るいは、その根抵に十八年間に亙ってインドの佛教の状況をつぶさに見てきた經騒があったのであろうか。 さて、慾日は『浄土慈悲典」の口頭近くで、諏宗の人々の避本的な主張(前掲のA)を示した後、次のように述べて い る 。 13無明厚函。我慢山高。執自己兇。強連理教。|何迷昧。但學坐者。無間道俗。心多闇塞。鰯徒抵滞。不閑聖教。
語多疎失。確執阿縛多羅三税三菩提。及彼諏定菩提四智等有爲之法。竝是無爲。凝然常住。却説無風常住之法。
許可修習。髄有増益。若如此者。無爲之法。便成有爲。有爲之法。翻作無爲。此即説無爲有。説有爲無。常與無
常・竝被廻換・執此謬解・以之爲正・縦引聖教・暁彼迷情・令歸正蝿・反堆誹誘・亦不信受国)
即ち、諏宗の人々が「廊定」を「無爲」だと言っておきながら、その賞践を勧めるのは、「無爲」という一一m葉の意味
からして矛盾であるし、「諏定」自髄、「六波羅蜜」や「三學」の一部であるのに、他を無視して「禰定」のみを特搬
化せんとするのは理に合わないというのである。 更に慧日は、「六波羅蜜」の中で股も重要なものは、「諏定」ではなく、「般若」Ⅱ「智」であるとして、次のように も言っている(この文章は既に引用した)。「如是等綴。廣説諸行是成佛因。非但六度。如何諏師確執諏定。成佛正因。非餘度耶。然諸聖教説智勝。成佛正
(叩) 因。餘皆助縁。即如華厳經第十二一云。……進此縄文。智爲第一。如何偏讃脚定爲勝。」 一方、bについては、次のように批判する。 「然諸聖教説虚妄者。不過此四。智者尋文。宜識經意。虚妄言寛。有無倶遍。各繊一義。與教何違。若言世尊説 渚有爲。定如空華。無有一物。名虚妄者。虚妄無法。非解脱因。如何世尊。教諸弟子。勤修六度。萬行妙囚。常 (華)誰菩提浬藥之果。】旱有智者。讃乾閏婆城。堅賞高妙。復勤諸人。以兎角爲梯。而可畢捗者哉。由此理故。錐是凡
夫。發菩提心。行菩薩行。誓断生死。趣大菩提。所修諸行。錐然有漏。著柤修習。是賞是正。有値虚妄。非如鉱 毛。空無一物。説爲虚妄。若能如是解繩怠者。常行於相。相不能磯。連山生死。速得解脱。迷情局執。於教不適。雌求離相・憧被相拘・欲求解脱・反沈生死③
14上に見たような懲日の批判は、側統的な佛教教理からすれば、全て正常なものである。「諏定」のみを特棚化しよう とする諏宗の人々の主張が、いかにそれから逸脱した突拍子のないものであるかを、慧日の批判はよく示してくれて いる。もちろん、卵宗の人々もそれはよく蝦激していたに述いない。しかし、それにも拘わらず、そのような無謀と もいえる主張を敢えて行ったのは、恐らく、その填賞性を確信せしめるものI「悟り」を思わしめる清浄なる髄駿l が現質に諏定修行の際に立ち現れていたからに外なるまい。そして、それは、他のあらゆるものが意味を失ってしま うほどに素哨らしいものであったのである。 従って、彼らにとって「諏定」とは、後の印におけると同様、その内に「悟り」Ⅱ「般若」Ⅱ「智」を含むもので (靴) あったはずである。それ故、六波羅蜜の第一は「智」だという慧日の批判は、廊一不の人々には必ずしも説得的ではな かったであろう。しかし、それにしても、その金胞を引っ括めて「繩」と呼んだのは、明らかに僻統的な佛教教理か (鉱) らの逸脱であるときロわればならない。 しかし、慧日の批判は、教理上の矛盾に止まらなかった。cに見るように、卵宗の人々が「悟り」であると確信す る、その富の「看淨」の境地にも向けられたのである。 「然猪椰師。亦復如是。共僻虚侭邪僻之法。綱爲眞賞。各自保愛。歓喜而行。若有智者。依譜聖戦。爲税佛法。 眞賞顧定。修學行門。殴而不信。葉間恩修三慈善心。取無記心。不漸不修。以爲眞賞。此即謬中之謬。無過此也。 有爲であっても、解脱に近。{ |視することは許されない。 有爲であっても、解脱に近づくという結果を必ず腐すものである。従って、それを全く空虚な存在逼汁所執性)と同 なものであろうI佛道修行は、どんなものであっても、縁起的存在(依他起性)として存在しているから、侭に有堀、 慧日は、この直前で三性(皿成育性、依他起性、遡計所執性)の説明を行っているから、恐らく、彼の考えは次のよう 15
即ち、慧日にしてみれば、彼らが尊んでいるものなど、叩なる「無記心」、即ち、善でも悪でもない、ただぼんやり (卿) とした心境に過ぎないというのである。この批判は、仰》永の人々にしばしば投げかけられたものらしく(あるいは、師 求内部でも、そのように誤解するものがいたからかもしれないが)、『修心要論』や『導凡趣聖心決』といった初期の廊宗文献 (弱) にも、「無妃心」に止まってはならないという誠めの一四両葉を見ることができる。 更に、慧日は、それが悟りではないということを示すために、 「此六通即是定果。然今道俗言己證者。未委證何脚定。若證有漏定者。除漏壷通。得餘五通。若證無漏定者。感 得六通。故法鑛縄輔一側云。又兇祷薩。常虚空閑。深修諏定。得丘神通。聖教明文。必ボ虚説。回廊円卓流。木 曾川有證且適者。況六通耶。通義尚未能了。焉知諏定。證與非誼。但行欺詐。諦無浄土。輕蔑聖教。埋没世尊。 噸揚己徳。閲提無信。何異此也。夫求騨定。先持齋戒。齋戒爲因。万能引定。故月燈三昧縄第一個室。功用無駄
〃御成・若深観此能得定・無物能將此定来・必巾淨戒之所起電
などとも一一一回っている。つまり、諏宗の人々のように戒律を無視して正しい輝定に入り得るはずはないし、もし賞際に 醐定に熟達しているのであれば、糟然、神通を示し得るはずだというのである。 上に見るように、慧日の批判は、常にインド以来の佛教の傅統的教説に沿った形で行われている。つまり、基本的 には、インド的な枠組みを一歩も出ていないのであって、慧日が自らの主張が正富であることを示すために、しばし (釘) ぱ郷典を「取教凪」として引用しているのもそのためである。懸日にとってみれば、經典に合致しないということは、 何以故。夫無記者。“ 二何果。況彼解脱。」執不移・豈不謬乎麺
二何果。況彼解脱。出川妙果。而能鐙耶。側思修慧。解脱正因。何不安住。日利利他。腰縛相傅。住熊犯心。砿 何以故。夫無記者。非善非悪。中庸之心。不從分別。思慮而起。随逐因縁。任連劔故。髄性嵐劣。不能爲因。感 16慧日の批判の對象が北宗諏であったことは、時代背景から見ても、その思想内容から見てもほとんど疑う除地がな
いのであるが、『浄土慈悲集」には、鐡時の諏宗の貨態に側する極めて興味深い絞述がしばしば見えるのであって、これらは、北宗翻、というよりも新興の鯏宗の活動と、それが引き起こした反響の大きさを側えるものとして、非常に
重要な意義を有している。次に、こうした諸黙について考察を加えてみたい。 先ず、布教對象と修行法についてであるが、既に引いた文章に、「然於佛法生異見者。或有山家在家男女四衆。棚生死苦。脈慈俗幽。或住山間○或依聚落・或居寺舎。或復在家。
展輔相傅。教人看淨。遜則窓愉睡眠。夜乃暫時繋念。見世空寂。都無一物。將爲究寛。」
佃値を附與したのである。 なことすら平氣で行うような人々であったからである。 らは、『槻心論』などに見るように、繩典に説かれた教説を濁自に理解することで、逆に自らの思想に奉仕させるよう そのまま、それが正しくないということであったのであるが、諏宗の人々においては必ずしもそうではなかった。彼 しかし、このことは、(慧日は正しくそのように理解しているのであるが)必ずしも諏宗の人々が不滅質であったことを 意味するのではない。そうではなくて、その思想的立場が従来には見られなかった全く新しいものであったというこ とを示すものなのである。一般の佛教者が、佛陀が説いたとされる經典によって、その思想を理解し、それを身につ けようと励んだのに封して、彼らは、自らの抑定佃聡と、それに基づく濁自の思想を絶對祝して、それに鰹典以上の五、『淨土慈悲集』に見る北宗禰の活動と社會的反響
17慈悲梨』には、ほかにも、 に、夜に襯法を行う唾 肯けることであろう。 「今時道俗。亦復如是。怖畏生死。各求出離。迷一生路。棄而不修。傾心迂遁。長劫路中。繋念翻空。苛倫朝夕。
衆迷共執・以爲捷樫・不知更有方便要津壁
などと、批判對象に在家者を含むことを明示している場合がしばしば見られるが(次に引く齋戒に関する文章も同像であ る)、これらは、常時、加宗が一般の人々の強い關心を引いており、在家の人々の中にも賞際に坐諏の賞践を行うもの が敵多く現われたことの反映と兇倣すべきであろう。王維(七○一-七六一)のように一族を鼎げて脚を信奉する人々が現わ輌一侯莫陳麺(六六○’七一四)や陳楚翫)(生硬年未詳)のような大きな影轡力をもつ居士が活踊したのも、この
時代であって、これら『浄土慈悲集』の記述は、そうした事賞とよく呼慰するものと一一昌える。 また、上の文章は「看心」の修行が主に夜間に行われていたことを伴えるが、これは恐らく、稠神を集中するのに 都合がよかったことが、その大きな理由であろう。『修心饗論』や『頓悟填宗金剛般若修行達彼岸法門要決』には、特 (“) に、夜に襯法を行う際の注意事項が北口かれているが、これなども、夜間における閲の修行が一般化していたとすれば、 とが知られる。そして、彼らは、「山間」「聚落」「寺舎」「家」等において指導や修行を行ったのである。 と見えることにより、「出家在家男女四衆」、即ち、比丘、比丘尼、優婆塞、優婆夷に對して庇く布教を行っていたこ ここで注目されるのは、聚落や家において修行する在家の男女がわざわざ言及されているということである。『浄土 このほか、『浄土慈悲集』は、諏宗の人々の特徴ある生活態度についても鯛れている。先ず注目されるのは次の文章語多疎失壁
「無明厚誼。我慢山高。執自己見。強連理教。|何迷昧。但學坐者。無間道俗。心多闇塞。鰯徒抵滞。不閑聖教。 18「然坐諏者。於彼齋戒。心全慢緩。多分不持。以何爲因。而得諏定。何以得知。學坐之人。不持蘭戒。以現鼠知。 非比知也。出家者。過中藥食。稲倣干般。恋情遜足。在家者。三時飽食。持齋何在。酒適薬分。廟穫令補。病服 (現) 鳥残。及自死者。淨戒安存。以此理推。不持齋戒。但養見身。誼修来報。口錐説空。行在有中。以法訓人即一一三。
萬事皆空・及至自身・一切皆有・不能亡鰯拘道・齋戒一時・日夜資持・唯愁不活・此乃行参幽俗・沙門之義遠英鞄
つまり、「齋戒」に對しては等閑で、口では「空」を主張しながら、質生活では自分の身髄を大切にしてばかりいる というのである。耐師たちが「但だ現身を養う」のみであったかについては疑問なしとしないが、先に見たように、 彼らは「看心」のみを絶對視し、それ以外のものには二次的な価値しか認めなかったのであるから、彼らが戒律にあ まり蝋を配らなかったということは十分に考えられることである。賞際、『翻心論』の次の文章は、「持齋」を諏定髄 験に解消せんとするものであり、そうした見方を支持するものと言える。 「又持齋者。當須會意。不達其理。徒爾虚功。齋者齊也。所謂齊整身心。不令散飢。持者護也。所訓戒行如法護 持。必須禁六情制三毒。勤覺察淨身心。了如是義。所[以]名鳳齋也。又持齋者。食有丘郁。一者法寓食。所調依 如来正法。飲喜奉行。二者闘悦食。所謂内外澄寂。身心悦樂。三者念食。所謂常念諸佛。心口相鰹。四者願食。 所謂行住坐臥。常求善願。五者解脱食。所荊願心常澗淨。不染俗幽。此之淨食。名爲齋食。若復有人。不食如是五味消淨食・躬昌持齋者・無有是虚壁
(味) 更に、これと鯛聯する事柄であるが、次の『淨士慈悲集』の文章によると、函吉不の人々は經典を讃んだり、師につ いて學問を修めたりといったことをほとんど行わなかったらしい。 「故博學者。嶽才無磯。寡聞者。辞理倶瀞。何不擢伏人我。聴所未聞。屈節於師。諮風未悟。貢高我慢。不肯菓 である。 19ここで「悲泣一園眠。捨命求乞一言」と言われている「|司」がいかなるものであったかは、これのみでは判然とし ないが、常時の諏宗の人々に特徴的な言説を指すものであることは間違いないから、司切伽師資妃』に「指事間義」と (田) (刀) して掲げられているような謎めいた「一一口葉や、『大乗無生方便門』などに見られる特異な經文解熱、或いは、ペリオ一一一六 極めて注目される。 慧日にしてみれば、諏宗の人々の主躯は綴典という縄題を鋏くが故に、修行しても何の利益も潤さないものであっ たのだが、一般の人々にとっては、決してそうではなかった。多くの人々は、そのような卵師に賎って奉邪せんとし、 少しでもその教えを受けようと願ったのである。『浄土慈悲集」の次の文章は、そうした質情を活寓するものとして、
承・空腹間心・發呂述教・於人無恥・邪不槐佛・然諸師師・イ剛型教・胸臆日断・不可依佶壁
「良爲諏師。不樂多間。見解浮淺。執心有在。迷昧聖高。錐復釛苦。専求出離。於彼行門。不了遅疾。妄與非妄。有之與無・邪之與正・假使修行・無利勤苦鹸)
これは、『翻心論』などにおける經典の扱い方などから、當然、豫想されるものであり、後代の慰者に通ずる性格と も言えるが、慧日は、これに對して「頁高我慢」「空腹高心」と口を極めて激しく批判している。恐らく、經典を典撞 とすることなく(不噸虫教)、自らの思想(胸臆自断)を自分の言葉で述べる諏宗の人々の姿が慧日にそのように恩わせ たのであろう。 ったのである。 「然嗣師者。即是凡夫。都無證解。令諸道俗奔波奉事。愛過父母。悲泣雨涙。捨命求乞一言。何不令内求遺外求耶。設使得者・浮淺之言・不足可観鹸)
つまり、慧日には「淳淺之一一一一口」にしか見えなかったものが、一般の人々にとっては甚だしく魅力に富んだものに映 20上に見てきたように、慈懲三蔵慧日の『浄土慈悲集』は、外部の人々の眼に映じた新興の諏宗の姿を生き生きと傅 えてくれるという黙で非常に貴重な資料である。我々は、慧日の批判を適して、諏宗の人々の主張がいかに從來の佛 教の枠から逸脱するものであったか、そうした主張を敢えて行った人々の自己の思想に對する信念がいかに飛固なも のであったか、そして、そのような斬新で革新的な思想が一般の人々にとっていかに魅力的なものであり、いかに熱 狂的に受け入れられたかといったことを知るのである。 諏宗の形成過程を明らかにしようとする場合に、先ず基づくべきものが教理出土の初期郭宗文献であることは言う までもないことであろう。確かに、それは、柳宗の人々が面接向らの思想を表現したものとして至商の個値を有する (Ⅷ) 六四晩に鱒えられている神秀の言葉のような修行上の心得のようなJbのを指すと見てよいであろう。 これらは、それぞれに性格を異にしているが、人の意表を突くものであるという鮎では共通している。恐らく、常 時、醐宗が短期間のうちに社會に受け入れられたのには、「看心」といった濁自の修行法が新たに打ち出されたことも さることながら、こうした言説に蕊歓される、ある煎の神秘的罫剛氣が祷接に側係していたものと考えるべきであろ う。むろん、こうした形での受容は、柳そのもののもつ革命的な意義からすれば、極めて表屑的な理解に止まったと 高うべきであろうが、一般の人々の馴心を惹起したという黙で、その役割は非常に大きかったはずである。恐らく、 このような大衆の支持があって初めて、侯莫陳瑛のような填箪な居士が出現しえたのであろうし、こうした人剰なく しては、この後の卵の社曾的地位の向上や一層の騒展はなかったに違いない。
むすび
21ものである。しかし、それのみでは諏宗の出現が社衞に輿えたインパクトの大きさといったことは、ほとんど唖うこ とかできないのである。ところが、『淨土慈悲災』は、雰翻的・外部的な視座を提供することによって、そうした黙を 補ってくれるのである。恐らく、このような視鴎は、「岬宗の形成」という思想史上の亜大耶件を社街的な腿がりの中
に位樹づける場合に不可峡のものであろうし、卸思想の特面を考えるうえでも非常に有鎚なものとなるはずである。
(1)慈懲三蔵懸口、ならびに『郡t慈辿災』については、以下の描識政を審照。 小野玄妙「弼皿時代の文化と此の古刻齊に就いて」弓佛教の美術と歴史』一九三七年、大蔵出版)。 同「慈懲三蔵のが土教」(同上)。大尾徳城「棚酢海印寺観仮孜l特に大蔵繩補扱竝に蔵外稚板の佛教文献駅的研究一(『鮮支巡砲行」一九三○年、束〃文献-
2 2 近端良秀「眞宗より兇たる悪感三蔵」(『中園佛牧史の研究」一九八○年、法蔵館)。 望月信卓「慾日、承適、法照等の般舟三昧修行汗に卯封淨止洽」弓支那浄化教蝿史」一九円二年、法厳館)。 藤原凌雪「悪感」令念佛思想の研究I特に純正郡士牧の成立と側承について」一九五七年、水田文日堂)。 中山正児「悪感三蔵の柳示批判」(「印度學佛教學研究」一○’一、一九六二年)。 柴田蕊「慈懲三蔵慧日に脇する三、三の問題」(「印度學佛教學研究」一七-二、一九六九年)。 近麓良一「悪感三蔵慧日の醐宗批判とその對象」(古田紹欽博士古稀記念論典『佛教の歴史的展開に見る猪形態」一九八 ロのご己二三・。。■ロロの一一・承『『○ヨロ房已昌⑦一.ロ巨色-,巨三くぃ二。。》勺巨『のF四二○両のいつ◎己いの⑪一○、三色己。『三口⑩..》旨での一の『Z。 。『の的。『琶・8.コ目葛自切ミミ買冒『ご司言g曾因愚国負号酎員ごヨペの『⑰ご◎「爵這昌で『⑦脇・竃○コ◎一色一P一℃呂 因の『:a『:『の.『胃ミミ「◎(¥尋Ca。ごm』G1胃ロヘ。§8冑一国&之。且宮ョg§口負号厨ョ・弓『:⑩|昌巳耳 近麓良一「悪感三蔵 一年、刎文社)。 刊行宵)。 註(3)大正蔵八五、一二三六中。 (4)前掲「慈懲三蔵の即宗批判」二三六頁。 (5)前掲「悪感三蔵の郡上教」一○六○頁、前掲「懲日、承迫、法照等の般舟三昧修行丼に卯對祁土趙」一六四頁、前掲「悪感」 二四九頁、前掲選句『Cヨロ、已巨の一CD目一○巨三ご■二.已群勺巨『のF:○両の⑩己C扇①印so三目O『三、牢.・も』『Pごロ・】国‐】『←、前 掲『鳶ミミさg二目日鴬」9『§{。§2百国具胃ミ意ョg§国§諄厨ヨ・ロ・忠。なお、『:『の氏は、その主たる對 象を南宗としながら、部分的には明らかに北宗抑を指す記述があることを指摘している(目震1選)。 (6)前掲「眞宗より兄たる悪感三蔵」一八九頁。 (7)前掲「慈懲三蔵懲日の祁宗批判とその對象」三四九頁。ただし、馬祖(洪州宗、七○九-七八八)や無住(保牌宗、七一四 ’七七四)は、時代的に慧日以降の人物であるから、彼らの思想との同一性を強調する以上、「淨士慈悲巣」の成立を疑わざ るそ抑なくなる。従って、近戯氏は例えば次のように述べている。 「この黙から『浄土染』成立に棚して一つの疑問を提出したい。それは「浄土巣』が慧日の親撰であるかどうか、少なく とも我々が見ている『大正蔵』所收のものが懸川の峨秘そのものであるか、という疑問である。」(三四七頁) (8)南蝋承遠の碑文である、呂温撰「南繊彌陀寺承遠和尚碑」(『全店文』六三○)に、 「Ⅲ京師有慈敏三蔵。出在贋州。乃不連亜阻。星言観掲。早如不足。求所未識。一通心照。雨捨言筌。敏公日。如来付受 吾徒。川宏撚救。超然濁普。n日能に。椰依無皿受經。而修念佛三昧。樹功徳劫○以済璽生。山是顛以蛎緑。叫蹄一念。」 と見え、「慈敏三蔵」、即ち慈懲三蔵慧日が「京師」を本撞としていたことが知られる。 で三一二“■『:云い・の一目『。aロヨご;ごで『⑦閉.⑫[目「Ca。nm三○日旨』g『・己屋『出し。 (2)この香は、先ず、大正十一年に大屋徳城氏が朝鮮の海印寺で版木の存在を確認し、それを掴寓して将来し、綱いて、大正十 円年に小野玄妙氏が同じく朝鮮の桐華寺で古刊本を愛児し、その本文の多くを前掲の「悪感三陵の浄土教一に褐戦した。その 後、大屋氏も前掲の『鮮文巡砲行』で自らの得た本文を公刊したが、雨者は閲張の箇所を異にし、また、本文にも多少の出入 りが見られる。大正蔵第八五巻所收のものは、雨者を校合したものであるから、以下においては、このテキストを使用するこ とにする。 23
(Ⅲ)雄8に引く「南殿彌陀寺承遠和尚碑」の文章を参照。 (脳)前掲「慾H、承遠、法照等の般舟三昧修行弁に郡對淨上総」一》Lハ五頁、前掲壜司『Cヨロ一名Eの一○C臣四一。E旨く農・己亜でこ『の F:。”のいつ目:、(。、豈・:01二、の3℃。。P己』己。 (旧)たとえば、小野玄妙氏は、『六祖城經』で慧能のものとされる、 「菩提本無樹明鏡亦非監本来無-物何幽愁隈壊」(駒瀞大騏卯宗史研究簡緬軒「懸能研究l懲能の仰妃と資料に側 する蕊礎的研究」〈一九七八年、大修館齊店〉二八四頁) という有名な例文を引き、史に『祁士悠悠典』に抑宗の修行を揃蹴して、「見世空寂部無一物。將爲究苑」と司っているのと 関聯づけているが(前掲「慈慰三蔵の浄土教」二○○~’一○一頁)、後に鐙ずるように、宵は「無一物」は北宗即で非常 に耐んじられた慨念でもあるのである。 また、望月信亨氏は、『六祖壇經」の、 「世尊在舎衛城中。鋭西万引化。縄文分明。去此不逮。済鎗柑鋭皿倣。有十輿八千。即身中十悪八邪。便是説壇。鋭遠爲 其下根。説近爲其上智。人有雨祁。法無雨般。迷悟何殊。見付暹疾。迷人念佛。求生於彼。橘人口郡其心。所以佛高。随 其心淨。即佛士淨。使君。東方人但心淨即無罪。錐西方人心不淨亦有態。東方人造罪。念佛求生西方。西方人造罪。念佛 求生何国・凡愚不了自性。不翻身中〃土。願東願西。悟入在血一般。所以綿一百○随所住幽恒安楽。便君。心地但無不普。 西方去此不遜。若慨不善之心。念佛往生難到。今励善知識。先除十悪。即行十瓜。後除八邪。乃過八千。念念見性。常行 平蔵。到如抑擶。使捌彌陀。使君○但行十藩。何須Ⅲ願往生。不断十悪之心。何佛即来迎鋪。若悟無生甑法。兇西方只在 刹那。不悟念佛。求生路鑓。如何得達。」(前掲『慧能研究I慧能の偲記と資料に脇する基礎的研究』三二三~三二四頁) (9) (皿) 胡適『神合和尚迫梨』(墹補版、一九六六年、憂北、胡適記念館)六一~六・一一頁。 従って、前掲「悪感三蔵の靭宗批判」二三六頁に次のように言うのは、ある意味で妥當である。 「稀時抑の南北噸派が相對立し論研する時代において、彼三蔵の諏氷に針する論判は、この南北二派のいずれの立賜が破 析の對象となっているかが問題である。現存する資料においては、北宗諏または南宗抑とそのいずれかに限定すること はできない。」 24
〆へゲー、〆、グー、グー、戸、戸、グー、グー、〆■、ダニ、'■、グヘ〆へ〆へ〆へゲベ'■、 313029282726252423222120191817161514 、-'、-グ、-‘、-‘、-グ、-’ ̄グ-グ、=、=、-、 ̄、--ジ、 ̄ミーグミーグ、-グ 般川三昧修行外に靭對祁土論」二六四~二六五頁)。しかし、この説が北宗卯でも行われていたことは後に飼れる通りである。 という文蹴を引用して、『浄土慈恕梨』で即家の醜とされる「心郡士浄」説と結びつけている(前掲「駐日、承遮、法照等の このように、赫時、南》霜北京をⅢわず、即宗で野しく行われていた税を取り上げつつ、十分に吟味すること芯く、南京の ものと比定せんとしたのは、後に定式化された南北雨宗の性格づけの影響を無愈識のうちに紫ったためと考えられる。 前掲「慈懲三蔵の淨土教」二○一頁。また、前掲の「腫宗より見たろ慈懲三蔵」一八八頁にも、同様の主張が見える。 前掲.『『◎ヨロ呂巨⑦一.ご息一○巨一冒昌□亘宅色『⑱い:二房いつ◎扇吊{CDゴー:。『三$言・ロロ』雷I屋』・ 前掲里色一雪(as等。§ご兎ニロミ§(。§圏s巳ミニ冨罫・ョ&目曽量岑営菖・ロ・豊・ 大正蔵八五、一二三六中~下。 同上、一二三七下~一二三八上。 同上、一二三八上。 同上、一二三八中。 同上、一二三八下。 同上、一二一一一七中。 同上、一二三七下。 同上、一二三八上。 同上、一二三七上。 同上、一二三九中。 同上、一二三七上。 同上、一二三七上。 同上、一二三九下。 同上、一二四○上。 同上、一二三七下。 25
グー、/宍、 3332 、.ジ、- (珊)同上、一二四一中。 (訂)同上、一一一Ⅲ一下~一二四二上。 (躯)これは「大乗五万便」と呼ばれる一群の文献において、段も古い形態を仰えるものである。これらが神秀l普寂系の北宗仰 の思想を僻えるものであることについては、拙稿『大乗五万便』の諸本についてl文献の愛遷に見る北宗思想の展開」(「南 都佛教」六五、一九九一年)を参照。 (調)この文献については、一般に、己切經音義」の記述によって神秀の著作であるとした神尾弍春氏の説(「囲心論私考」〈「宗 教研究」新九’五、一九一二二年〉一○二~一○三頁)が行われているが、神尾氏によって諭誕されたのは、宵際には、慾琳 (七八三’八○七)の時代にそうした傅承があったということに過ぎず、その神秀撰述が砿かめられたわけでは決してない。 しかし、楓者として神秀の名か冠せられるに至ったのには、それなりの理由があったと見るべきであるから、その系統で仰持 されたものであることは認めてよいと思われる。 (佃)鈴木大拙『抑思想史研究第三』(一九六八年、岩波書店)一六八~一六九頁。 (皿)田中良昭「『菩繭惣持法』と『観心論』(二)」(「駒瀞大學佛教騏部研究紀要」四四、一九六六年)四八頁。 ‐、/■、〆向、〆戸、グー、 3837363534 、-'、‐'~'、-'~〆 グ戸、’白、グー、/ ̄、〆 ̄、グー、 454443424140 、.〆、=、=、.ジ、.〆凶.〆 この『金剛綴』の文章は、他の初期の醐宗文献でも、しばしば經鐙として用いられたものである。これについては、拙稿 「初期靭宗における『金剛經と(阿部慈園編『金剛般若縄の思想的研究』一九九九年、春秋社)を参照。 大正蔵八五、一三四○中。大正蔵八五、一一読 同上、一一一三八上。 同上、一二三八上。 同上、六一~六三頁。 ところが、近藤良一氏は、慧日の批判と『翻心篭」『大乗無生方便門』を比較しつつも、次のように述べている。 「このように資料の不足から速断する事はできないが、先述した念佛・浄土往生思想の流布状況をも考慮に入れると、 同上、五五~五六頁。 同上、五二頁。 北 26
宗御系には『浄土集』で問題にされる如き郵者は存在しなかったのではないか、と見て良いのではなかろうか。」(前掲 「慈懲三蔵怒日の抑宗批判とその對象」三四六頁) そして、その根撞として、『観心諭』から見て、『淨土懇懇典』に批判されるような「齋戒軽視・大乗佛典蔑視・六度の否 定・念佛及び浄土往生思想の否定等については全く神秀には徴嵌まらない」(同上、三四四頁)し、『大乗無生方便門』によれ ば「神秀又は神秀に近い門下が念佛を極めて唾視していた」(同上、三四五頁)と考えられるという黙を難げている。 確かに『翻心論』は、齋戒や大乗経典、六度、念佛による往生等を眞っ向から否定しているわけではないが、それらを全て 「看心による悟りの硬得」に引き街てたうえで、初めて、その佃値を認めているのであるから、宵画的には否定したも同然で あり、慾日のように全く立場を異にする人々がそれを許せなかったのは、むしろ樹然である。また、北宗抑の修行において、 「念佛」が非常に亜要な役割を果たしていたことも耶貿であるが、それは「酒椰」の境地を得るための方便に過ぎず、西方往 生を目指したものではなかった。これについては、拙稿「初期抑宗文猷に見る卯眼の宵践」(「抑文化研究所紀要」二四、一九 九八年)二五~二七頁を参照。 (伯)慧日の立塙は、玄美に見るようなインド佛教の絶對視に立つものではない。その思想に善導らの影轡が強く見られること は既に描摘されている通りであるし(前掲「慈懲」二四二~二四五頁を審照)、『浄土慈悲典」には、中園の償經である『梵網 經」の引用も見られるからである(大正蔵八五、一二四○上、一二四二中)。 (幻)同様のことは、いわゆる「チベットの宗識」についても富い得る。ただ、チベットの宗證がインド側から見て、仰が佛教と して極めて異質なものであったことを示すのに封して、『浄土慈悲典』は、中国の僻統的佛教徒にとっても卸が容易には受け 入れ難いものであったことを示唆するという黙で、印の前衛性をより鮮明に示すものといえる。なお、チベットの宗論の經緯 や證鮎などについては、拙稿「摩河術と『頓悟入乘正理決上(「アジアの文化と思想」創刊観、一九九二年)を参照されたい。 (躯)大正蔵八五、一二三六中~下。 (伯)同上、一二三七上。 (印)同上、一二四一上~中。 (皿)『浄土慈悲典」には、卸宗の人々の主張として「證祁定」という表現がしばしば見られるが、これなども「認る」對象であ 27
しかし、慧日の批判は表面的なものに止まっており、ここで師家の人々が説くとされている「一切虚妄。空無一物」と「一 切猪法。眞如囲二という二つの主張の相互関係などについては令く側心を梯っていないように思われる。 (弱)これについては、前掲「初期柳瓶文献に見る抑皿の宵賎」三三~三四頁を審照。 (弱)大正瞳八五、一一三七中~下。 (訂)『頓悟大乗正理決」では、廉訶術の上表文と見られるものの中に、インド伯との論争に隅して、 「臣前後所説。皆依經文答。非是本宗。若鎧本宗者。雛言説相。賎自心分別相。若議説勝義。即如此。」(前掲『敦煙佛教 〆へダニ、 5453 、-〆、-グ る「菩提」と、「翻る」刀怯である「抑定」とを同一視しようとする立場に川來するものと高える。 (塊)北宗の人々が、「悟り」(般若)に至る方法としての「諏定」のみならず、目的である「般若」をも含めて、その全髄を「印」 と呼んでいたことは、『頓悟人乗正理決』において摩荊術がHらのn場を「般消波羅蜜無恩人采抑門」(上山人峻「敦煤佛教の 研究』〈一九九○年、法蔵伽〉五五○瓜)と孵していることからも願われる。これについては、前掲「雁珂術と『剛悟入架止 醗決とⅢ○頁も参照されたい。 六画を審照。 うことは注目すべきである。なお、インド僧の摩珂桁への批判については、前掲「摩何桁と『頓悟大乗正理決』」四五~四 のであると言える。このほかにも、『頓悟大乗正理決』のインド伽の批判に慧日と共通するものを認めることができるとい して經典に基づいて議論することを求めたためであろうが、ここに見るインド燗の立閣は、基本的には慾日と全く同じも という辮明を仰えている。不本愈ながら、無理に郷典を鯉磁として川いたというのである。これは、インド側が摩河術に射 このほか、『浄士慈悲集』 大正蔵八五、一二四一中。 「椰師亦挽。一切虚 Ⅱ執何異。複説。一 七下~一二三八上) の研究』五五七頁) 正慈悲集』には、次のように魂宗の人々が尊んでいる境地を外道と同一視する記述もある。 一切雌妄。空無一物。興彼外道空且何殊。又遡説高。騏無生飢肴。盛此一生。史不受生。然此興彼断見外地 説。一切諸法。興如随一。椛然稀住。不生不滅。無有初念後念可御○此即興彼榊兄外適見解何別。」(一二三 28
(㈹)王維の一族と師宗との棚係については、陳充吉「王維與南北宗柳個關係考略」(「文献」第八輯、一九八一年)、陳繊民「毛 維與佃人的交往」『文献」一九八九年第二期)などを参照。 (Ⅲ)侯莫陳淡の邪賦などについては、拙稿「『頓悟填宗金剛般冶修行述彼岸法門婆決」と荷祁神合」(三崎良周編『H本・中国佛 教思想とその展開』一九九二年、山喜房佛普林)を参照。 (腿)『歴代法賓紀」(柳田畑山「初期の抑史Ⅲ」〈一九七六年、筑摩誹風〉一六八瓦)や『回覺純人疏抄」巻弍とド(緬蔵一-一 四-二七八c~d)などによれば、保唐寺無住(七一四’七七四)は、出家する以前、慧安門下の居士で「椎摩詰の化身」と 呼ばれていた陳楚章に師事して頓教の怯を僻授されて閲悟を御たが、俗人に栗承したことが布教に便ならざるを恐れ、金和 尚(が衆寺無相)を師とするに至ったという。 (㈹)これについては、前掲「初期邸宗文献に見る印観の宵践」三二~三三頁を参照。 (M)大正蔵八五、一二三七下。 (開)前掲「『瞥噛惣持法」と『倒心鐺』(一一)」五八~五九頁。 (冊)大正蔵八五、一二三九中~下。 (、)同上、一二川一中。 (肥)同上、’二三七下。 (閲)例えば、神秀の言葉として、次のようなものを僻えている。 「又云。汝Ⅲ打鋪聾。打時行。未打時向。聾是何聾。又云。打鏑聾只任寺内有。十万世界亦有節聾不。又云。身滅影不滅。 橋流水不流。」(前掲『初期の即史I』三一二頁) 「又云。汝肛人鞭中過。抑不。又云。湿繋縄挽。何無迦身欝撚。従火力架。博臆身励既照過際。云何史従来〃朱。何故不 従西方南方北方來。可即不得也。」(同上、三一三頁) (、)これについては、前掲の『大乗五万便」の諸本についてl文献の愛湿に見る北求思想の展開」のほか、次に掲げる拙稿を グー、グ■、’=、 605958 ,-グ、-グ~グ 大正蔵八五、’三 同上、一コ.一一七中。 ’二二七上。 29
「般若心經慧椰疏の改愛にみる北宗思想の展開」(「佛教學」三二、一九九二年)。 。心王經註』の成立について」(「印度學佛教學研究」四二’一、一九九三年)。 (Ⅶ)ペリオ三六六四晩に次のように見える。 「秀和上傅。若見行人來間○只励努力勉坐。坐爲根本。能作三五年以来。得一口食塞飢徳。大小便鋼。即閉Ⅲ坐。莫誼經 蛸・英共人語。脆者久久堪剛○此人碓行。如翻狼取梁中心肉食○坐研取。此語不虚。」 参照されたい。 「北宗即の新資料I金剛蔵菩蘭掘とされる『奴世宵經賦」と『金剛般若經雌」について」(抑文化研究所紀饗」一七、 九九一年)。 30