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刑法における行為論の基礎 利用統計を見る

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刑法における行為論の基礎

著者

岡村 治信

著者別名

H. Okamura

雑誌名

東洋法学

29

1

ページ

1-28

発行年

1986-03

URL

http://id.nii.ac.jp/1060/00003588/

Creative Commons : 表示 - 非営利 - 改変禁止 http://creativecommons.org/licenses/by-nc-nd/3.0/deed.ja

(2)

刑法における行為論の基礎

岡 村

治 信

七六五四三二一一

目 次 刑法上の行為の概観 従来の行為論とその批判 目的的行為論について 行為概念の正しい目標 価値関係的概念としての行為 犯罪捜査の対象としての行為 ある例証および結語 刑法上の行為の概観 刑法理論の中に﹁行為論﹂がとりあげられてからすでに久しい。 ﹁行為﹂はさまざまな学問分野において研究対象 東 洋 法 学 一

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    刑法における行為論の基礎       二 とされる。実践哲学や倫理学が人間の行為そのものを学問対象としていることはいうまでもないし、経済学や社会学 においても、それぞれの視野から人間の行為がとりあげられる。  行為はまた、同じ法律学の分野でも、例えば民法では法律行為、商法では商行為、訴訟法では訴訟行為といわれる ように、法領域ごとに名称や姿を変えて登場し、それぞれに興味深い問題を提供しているのである。  ともあれ、﹁行為﹂はもともと人問の本質と深いかかわりをもっているがゆえに、それは﹁人間﹂と同じように、 案外に扱い難い、いわば底知れぬ無気味さをもった主題でもある。  刑法の分野でも御多分にもれず、犯罪﹁行為しとは何かが問題とされ、これを統一的に説明するために多くの学者 が苦心してきた。すでに語り尽くされた感があっても、なお新鮮味を失わないところに行為論の特色があるのであろ う。  元来、刑法理論において用いられている﹁行為﹂の意味するところは決して明確ではない。最も広い意味では、動 機・目的・意思などの内心的な要素をはじめ、外部に現われた身体的行動、それに基く外界の変化、因果の過程、な らびに結果をも含む全体をいい、最も狭い意味では、おおむね外部的な動作のみを指す。その他、時によっては内心 的要素と外部的行動とを併せ、あるいは外部的行動とその結果としての法益侵害にわたる部分を指称することもある。  したがって、単に行為といっても、それぞれの場合にいかなる意味で用いられているか、また用いられるべきかを 正しく認識することが肝要となる。いわゆる行為論において論議の対象となるのは、通常は最広義の行為であるが、 そもそも行為をいかなる意義において理解すべきかが、まず行為論の重要な課題とならざるをえない。

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 しかし、われわれの考える﹁行為﹂は、刑法理論におけるそれを指向しているから、当然のことながら、実定法た る刑法の規定する﹁行為﹂の概念から遊離したものであってはならない。  いわゆる正当行為に関する刑法三五条、正当防衛に関する刑法三六条、緊急避難に関する刑法三七条によれば、違 法性のない場合も刑法上の行為というに妨げないことは明らかである。また、責任能力に関する刑法三九条ないし四 一条では、心神喪失者や十四歳未満の者の行為は罰せず、とあるので、刑法は責任無能力老であっても﹁行為﹂はな しうると解している。このようにして、刑法上の﹁行為﹂は違法であることも有責であることも要しない。  さらに、名誉殿損の行為が刑法二三〇条の二第一項︵いわゆる事実証明に関する規定︶によって罰せられないこと       ハユレ の理由については学説上争があるが、構成要件該当性を阻却するからであるとの説をとるときは、右の規定をもって、 行為が構成要件該当性以前の概念であることの実定法上の根拠とみることもできるであろう。  また、刑法は故意犯を罰するのを原則とし、過失犯は例外的に規定のある場合に限り処罰される。その過失犯を、 刑法三八条一項は﹁罪を犯す意なぎ行為﹂と表現していることからすれば、犯意なき過失もまた刑法上の行為とされ ていることが明らかである。  このようにして、行為の意義や本質をどのように理解するにしても、実定法上、行為は故意犯過失犯を通じて個別 的犯罪概念の中核となり、また、違法性・有責性以前の次元においてすべての犯罪構成要件に共通してその前提とな る基本概念として、きわめて重要な役割をもっているといわなければならない。       なま  ここでわれわれは、さしあたり行為を生の人間事象ないし社会現象そのものとして把握するか、あるいは構成要件

    東洋法学      三

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    刑法における行為論の基礎 の領域内における法律的概念として理解すべきかの問題に当面する。 四 思うに、最も原始的な意味における生の行為は、人の身体的外形的動作・静止を中心として、内心的目的・意欲の ほか、これらによって象徴されるその人の性格・傾向、他人や環境から受けた影響、自然的ないし社会的な縁由、そ の行為が作った外界の変動などが密接かつ不可分に結合したものである。これらのうち、縁由は仏教でいう﹁因縁﹂ に類似の概念といえるし、外界の変動の中には、行為そのものを起点とする自然的因果や社会的影響も含まれるであ ろう。  このような、最も原始的な生の行為は、もとより刑法の領域に限らず、すべての生活分野にあまねく存在するから、 これを人間の行為一般とよぶことができよう。それは、実にさまざまな内容と態様をもっているので、何らかの基準 ないし指標によって選択することによってはじめて具体的・固定的なものとして観念することができるのである。  われわれは、刑法上の﹁行為﹂を問題とする以上は、こうした多種多様にわたる﹁行為一般﹂の中から、刑法的な 理念にてらして必要ないし重要と認められるものを選定・抽出し、それを素材として最大公約数としての刑法的行為 概念を構成しなければならない。したがって、さしあたり、刑法的な理念の光によって照明された部分のみが検討・ 理解の対象とならざるをえないのであるが、その実体はあくまで右のような意味での原始的な生の行為なのである。  ところで、いわゆる構成要件理論の陣営からは、右の選択の基準︵指標︶として、構成要件該当性が最適なものと         ハ レ 主張されるであろう。しかし、構成要件に該当するもののみを﹁行為﹂と解することは、問題をまず構成要件理論の

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中に封じこめる結果、後述のような行為論の独自性を抹殺してしまうおそれがある。のみならず、構成要件要素の中 には、例えば放火罪における﹁公共の危険﹂とか、住居侵入罪における﹁故なく﹂など、かなりの価値判断的な概念 が含まれているので、右の主張は、いわゆる生の事実を強いてこれらの法律上の概念にあてはめることによってその 実体ないし真実性を見失わせる危険性がある。したがって、とくに刑事司法の実践的見地からすれば、﹁行為﹂を犯 罪構成要件理論の枠の中でのみ取扱うことには躊躇せざるをえない。  以上によって、われわれの目標とする行為概念は、人間の行為一般から刑法的理念によって区別されながら、しか も構成要件該当性・違法性・責任性などの価値判断以前にある中立的な生の行為であるべきことが明らかである。そ れでは、その要請に応えうる選択の指標は何であるか。これに対する回答はしばらく留保して、以上の理解のもとに、 すべての犯罪に共通する基本概念としての﹁行為﹂の本質ならびに要素に関する従来の学説を概観してみよう。 ( 〆噛、 2 玉 ) ) 団藤重光﹁刑法綱要各論﹂︵増補版︶四工一頁参照。 小野清一郎﹁犯罪構成要件の理論﹂︵昭和二八年︶五四頁以下。 二 従来の行為論とその批判  従来の通説によれぽ、刑法上の概念としての行為︵以下単に行為という︶とは、人の外部的身体的動作とそれに基 く因果的経過および結果を含むものとして理解される。これが通常、因果的行為論︵溶ゆ蕊巴①鎖ゆ&一琶豊。再①︶とよ 東 洋 法 学 五

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    刑法における行為論の基礎       六 ばれるものである。因果的行為論の中にも、おおむね二つの傾向を看取することができる。  その一は、身体的動作の面を重視し、行為を、つとめて自然科学的ないし物理的な意味において考える立場であっ て、有体的行為概念あるいは自然的行為概念といわれる。その二は、身体的動作そのものは単なる外形にすぎず、実 質はそれを導き出した心理的・意思的なものにあると考える。これが有意的行為概念といわれるものである。  もっとも、ここで有意的というのは、人としての意力に基く、という程度の意味に解されているから、それは、い わゆる﹁犯意﹂ほどに明らかな、特定の構成要件的事実の認識を必要とするものではない。﹁有意的﹂とは、ここで も犯意以前の問題であり、特定の犯罪的色彩をもたない中立的な概念であると解されるのである。  以上いずれの立場によるも、行為そのものは構成要件以前の問題として取扱われており、また、行為の目的、動機 などの内心的なもの、あるいは行為者その人の内面的な問題は行為論にではなく主として責任論の領域に属するとさ れる。  有体的行為概念に対する批判としては、この説を徹底させると、不作為は何ら外形的行動を伴わないから行為とは いえないことになるし、完全に強制された身体的動作や反射運動も刑法上の行為と解することになり適当でない、と いうのである。また、有意的行為概念によると、いわゆる不作為による過失犯︵忘却犯︶のように行為者の意識活動 が認められない場合には行為に含まれないと解することになる。  これらの難点を解消する説として、人格的行為論といわれる考え方がある。これは、行為者人格の主体的現実化と       レ 認められる活動にかぎって、そこに行為を認めるという説である。

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 人格的行為論は、行為者人格というものを強調し、行為者人格はその人の人格と環境との相互作用によって生成さ れることを説くけれども、その行為者人格の概念じたい、いまだ学界一般の承認を得るに至っていない。のみならず、 人格的行為論はそもそも、行為者人格に対する法的非難可能性がなければ行為は成立しないとの見地から出発するの で、行為の中にすでに違法性、責任性の判断が先行し、前記のような行為概念の中立性の要求にそわないとの批判が 可能である。  しかし、一般論として、主体的な人格態度そのものは作為にかぎらず不作為という形でも現われるし、過失をも行 為に含めて考えるという点でも、人格的行為論は行為概念の統一化に資するものといえよう。また、この説は必ずし も有意性、有体性に拘泥せず、行為そのものの中に人格的基礎とあわせて社会的基礎をも認める点において示唆深い ものがあり、後述の社会的行為論への架橋をなすものといえるであろう。  行為概念から有体性・有意性を排除すれば、単なる所為︵ピ昏葺夷︶または業態︵く。渉聾窪︶が行為の実体として 残ることになる。しかし、これでは抽象的かつ広汎にすぎるので、そこに主として社会的見地からの制約を加え、例 えば、社会的に意義のある所為、または社会的に重要な結果を惹起するに足りる業態をもって行為と解する説がある。 これらは、最近有力となりつつある考え方で、一括して社会的行為論といわれる。  社会的行為論にもいろいろな傾向のものがあるが、概して後述の目的的行為論に反論する立場から主張されている とみてよく、比較的新しい学説であるだけに、いまだ理論的に安定しているとはいい難い。     東 洋 法 学      七

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    刑法における行為論の基礎       八  ごく概括的にみれば、社会的行為概念の多くは、従来の因果的行為論が不作為犯の取扱いに苦慮したことにかんが み、行為を自然的因果的に見ることから脱皮して、人間行動の本来的性格としての社会性を重視しようとするのであ る。  わが国において社会的行為論を強力に推進する学説は、行為概念の﹁身体的要素﹂に代えて﹁社会的意味﹂を採用 するのであるが、その社会的意味について、﹁人の態度はいやしくもそれがその周囲、隣人、社会に対して積極的ま        ︵2︶ たは消極的に影響を及ぽすかぎりその人の行為としての社会的意味を有する﹂と説明している。  しかし、社会的意味を右のように単なる抽象的一般的な﹁影響﹂として把えているかぎり、それは、必ずしも刑法 の分野にとどまらずおよそ人の業態や生活態度一般についてつねに存在しうるものであるから、刑法的行為の概念規 定の指標とするに足りないであろう。まして、﹁忘却犯をも包含するような︵刑法上の︶行為一般の定義としては、 それは、何らか社会的に意味のある人の態度であるというより以上の内容規定を与えることは不可能でありまた不必       パ レ 要である⋮⋮﹂との所説に至っては、せっかくの﹁社会的意味﹂を生かしえず、刑法上の行為概念の追求を断念する に等しいのではあるまいか。  ここで、右の社会的意昧をどのように価値づけるべきかが問われることになるが、この点については節をあらため てやや詳しく考察することとしたい。 ︵1︶ 団藤重光﹁刑法綱要総論﹂︵改訂版︶九一頁以下。

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︵2︶ ︵3︶  佐伯千偲﹁刑法講義総論﹂上︵昭和五九年︶一四九頁。なお、佐伯博士の学統を継ぐ米田弁護士は、自ら純粋な社会 的行為論として行為の社会的意味ないし社会的影響を強調されるけれども、具体的にどのようなものを目途とされるの か明らかでない。米田泰邦﹁法概念としての行為﹂︵佐伯千偲博士還暦祝賀・﹁犯罪と刑罰し上︶およびそこに引用の 米田氏の諸論文参照。  佐伯千偲前掲書一四五頁。 三 目的的行為論について  因果的行為論に正面から対立するものとして目的的行為論︵鴨ぎ器麟ゆ鼠一量覧9器︶がある。この学説は、周知の ように西ドイッの刑法学者ハンス・ヴェルツェル︵鍔≦爵9によって強力に展開され、わが国においても有力な        ハ レ 支持者を得ている。  この学説は、行為の目的性︵鴨汐毘壁榊︶を強調し、人の行為は単純な因果事象ではなく、行為者の予定した目的を 実現するための活動すなわち目的的行為支配であり、外形的行動はただこの目的実現のために自然因果を利用する手 段にすぎない、との趣旨を骨格としているのである。  さらにこの説では、行為者が自分の行為に発する因果的推移を予知しその結果の実現を企図して、完全な予見のも とに自分の行為を支配し、ひいてその結果をも支配したところに彼に対する法的非難の根拠を見出すのである。そし て、伝統的な因果的行為論に対する批判として、そこでは有意的な行為さえあれば行為者の意図や能力を超えて、自 東 洋 法 学 九

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    刑法における行為論の基礎       一〇 然状況下で発生した結果についてまで責任を負わされることになって著しく不合理である、と主張するのである。  目的的行為論に関しては、ヴヱルツェルじしんの著書論文も多く、その理論もしばしば変更され、また従前の犯罪 論全体の構成に大きな影響を与えたことでも知られている。したがって、この理論に関する解釈・理解も学者によっ てさまざまであり、論点も多岐にわたり、わが国においてもきわめて複雑な理論状況を現出している。  そこで、いまは焦点を極力しぽって、ヴェルツェルのいう﹁目的的行為支配﹂と因果的行為論でいう﹁有意的﹂と        レ の関係について見ることにしよう。彼がその基本的な著作の中で引用している具体例について検討してみたい。  ﹁致死量をこえた強度のモルヒネであることを知らずにこれを患者に注射した看護婦は、たしかに目的的な注射は  したが、目的的な殺人行為はしていない。射撃の練習のために木に向けて発砲したところ、その木のうしろに、行  為者にかくれて一人の人間が立っており、これを殺してしまった者は、たしかに目的的な射撃はしたが目的的な殺  人行為はしていない。﹂  ﹁右の二つの場合において、意欲されない他の結果︵人の死︶は目的的行為によって盲目的因果的に惹起されたも  のである。単なる有意性といった︵抽象的な︶徴表をこえて、行為を具体的な内容的に規定された本質において把  握しようとすれば、それは一定の意欲された結果に関連させてはじめてなしうるものである。﹂  ﹁⋮⋮目的性にとっては、一定の意欲された結果との関係が重要なのである。これがなくては有意性という徴表が        ︵3︶  残るだけであるが、これでは、内容的に規定された行為を特徴づけることはできない。﹂

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 ヴェルツェルが右の説明で﹁一定の意欲された結果︵人の死︶との関係﹂といっているのは、けっきょく行為者が 実現しようとする犯罪的事実の認識すなわち構成要件的故意を意味していると解してよいであろう。現にヴェルツェ         をレ ルじしん別の論説において、﹁目的性という概念は人間の行為の基礎的構造を特徴づける厳格な範躊的意味において のみ用いらるべきであり、ここでは、故意︵<o拳警Nぎ葬魯︶は目的性と全く分離しえない﹂と主張し、また、わが 国における目的的行為論の代表者とみられる論者も、﹁故意を不法行為の要素とする見解を目的的行為論ということ        ハらレ がでぎよう﹂と明言される。  たしかに、人間行為の存在構造が主観的な目的性を本質的なものとするというヴェルツェルの主張は、目的性の意       レ 義をあるていどゆるやかに解するかぎり、一般論としては承認されてよいであろう。そして、犯罪論において右の目 的を前記のように犯意と同様に理解するかぎり、それが彼のいう犯罪行為の本質的な要素をなすことはむしろ当然の ことであって、とくにことあたらしく強調するまでもないであろう。  さきの事例に関してヴェルツェルは、看護婦も射撃練習をした者も人の死については目的性がなく、しかも行為は 目的性を離れては存立しえないから、そこには何らの行為も認められないと主張する。しかし、有意的行為概念によ ってもこの場合は過失致死としての行為を認めるのが至当である。要するに、ヴェルツェルの理論では、過失犯は行 為ではないことになり、﹁行為でない犯罪﹂を承認せざるをえない。  この点が、目的的行為論の最大の弱点として強い批判を受けていることは周知のとおりである。もとより、目的的 行為論の陣営において、過失犯をも行為に含ませて総合的な行為概念を樹立しようとする努力もなされている。しか     東 洋 法 学      一一

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    刑法における行為論の基礎       一二 し、もし過失犯の行為性を肯定するとすれば、犯罪的故意が行為の存在論的要素として不可欠であるとの前提を放棄       ︵7︶ せねばならないであろう。ここにおいて目的的行為論はやはり重大な難関に逢着するのである。  つぎにヴェルツェルは、有意性の象徴だけでは内容的に規定された行為を特徴づけることができない、という。し かし、われわれの想定する行為は、すべての犯罪行為の基本として、それらの特徴や属性が帰属する中核概念である から、それは当然、抽象的かつ理念的な概念であることが最初から要請されている。とくに、これを構成要件以前の 問題として把握する以上、構成要件的事実に関する認識︵犯意︶さえも必要としない。目的性や故意が人の行為一般 にとって重要であるからといって、直ちにこれを刑法的な﹁行為﹂の中に取り込むことは、右のような刑法上の行為 の本来的性格を破壊し、それを再び人間の行為一般の中にとり逃がしてしまうことになる。その意味で、ヴェルツェ ルの右の所論は行為論の真の目標に背を向けるものというべきであろう。 ︵1︶ ︵2︶ ︵3︶ ︵4︶ ︵5︶  主な文献として、例えば木村亀二﹁刑法総論﹂︵有斐閣法律学全集40︶一六五頁以下。平場安治﹁目的的行為論の素 描﹂︵季刊法律学二四号︶。福田平﹁目的的行為論について﹂︵神戸経済大学創立五十周年記念論文集法学編所載︶。  鑓碧。 。≦o痔90霧ま蓉ご d剛一鳥α霧o o霞勲富3富ω蕩8欝ー禦還鯉コ鷺げ歪鑛ぎ島o蓼鉱o譲彗亀毒αq。。岡ぐう欝9お2。  本文の目本語訳は、前掲書︵注2︶の日本語版ー福田平・大塚仁訳﹁ハンス・ヴェルツェル目的的行為論序説﹂︵有 斐閣︶四頁以下による。  ≦包器r¢讐&①蓼繊・顕慧瓢露お。 。笹ぼo︸o o・刈.  福田平﹁目的的行為論と犯罪理論﹂︵昭和三九年︶六六頁。

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︵6︶ ︵7︶  ︸般論として、というのは、刑法分野以外の、およそ人間の個人的社会的行為全般について、という意味である。そ れらは一応、価値実現的な行為であるが、犯罪行為は価値否定的、価値破壊的なものであるから、行為そのものの存在 構造にもそれ以外の通常の行為とは自ずから異なるものがあるのではないか。とくに激清犯、盲目的偶発犯等において そのことが顕著である。この点に、犯罪論の分野で目的的行為論を採用すること︵単なる方法論的概念として借用する にしても︶に対する根本的な疑問があるが、いまはこれ以上立ち入らない。なお、目的的行為支配に対する私見類似の 批判として、西原春夫﹁刑法総論﹂七一頁以下参照。  佐伯千偲﹁刑事裁判と人権﹂三九二頁以下。 四 行為概念の正しい目標  以上のとおり、各種の行為論とこれに対する批判とを概観することによってわれわれは、従来の行為論によっては 行為概念を統一的に理解するには不十分であることを知ることができた。  ところで、刑法理論としての窮極的な統一的行為概念を設定するにあたっては、およそつぎのことを看過すること ができない。  ω それは犯罪﹁行為﹂である以上、犯罪という概念を全く離れては、行為概念じたい成立しえないことは明らか である。そして、犯罪とはしょせん刑法上の概念であるからには、刑法的な価値判断に服することも当然である。い きおい、われわれの目標とする行為概念は、もともと生の社会事象に立脚しながら刑法的な理念と絶縁することは不 可能である。ここでは占いわゆる自然的ないし存在論的側面に捉われることなく、刑法上の価値的要素を加味して考

     東洋法学      二二

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    刑法における行為論の基礎       一四 えざるをえない。その意味において、行為はまさに価値関係的概念である。  ⑭ 行為概念は、すでに明らかなように、人間の行為一般とは区別して観念されるべきであるから、その概念じた いの中に刑法的な機能をもつことが要請される。一般に刑法の機能として掲げられるものに評価的機能、保護的機能、 保障的機能の三つがある。そのうち評価的機能は、主として国民一般が刑罰法規の禁止規範としての意味を正しく認 識することによって達成され、また、保護的機能は、刑事司法作用としての刑罰制度が円滑適正に運用されることに よって実現される。最後の保障的機能は、刑事司法作用が準拠すべききわめて重要な目的理念であり、すぐれて運用 上の指標である。いうなれば、保障的機能は、その犯罪行為以外の行為は処罰されることがなく、またその行為の主 体以外の者がその行為のゆえに処罰されることはない、という形で行為概念じたいに内在すべきものである。したが って、行為概念は、構成要件以前の問題ではありながら、このような意味での保障的機能をもった能動的な概念であ        まロ ることが可能であり、かつ要求されるのである。  有体的ないし有意的行為概念は、いずれもさきに述べた意味での人間の生の行為をありのままに見てそれぞれの面 をいいあてていることは、たしかである。そのために、それらは一括して自然的行為概念ともいわれるし、また、行 為は意思表動であるという一般命題もこの面から十分に首肯することができる。  しかし、刑法上の犯罪とされる行為の中には、例外的にその一面しかもたない行為もある。例えば多くの不作為犯 は身体的な面を欠くし、通常の過失犯は結果実現に向けた意思的な面をもたない。そのために、自然的行為概念は前

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記のような欠点、批判を免れなかった。要するにこうした欠陥を伴うのは、その概念が生の行為そのものに着眼する あまり刑法的な意味の世界を忘れているに由ると考えられる。  単なる所為ないし業態をもって行為とする見方は、前記の批判をかわすために、有体性、有意性さえ切り捨てて、 行為概念をさらに抽象化した。それによってこの行為概念は、いわゆる行為一般にも故意過失にも通用する流動的広 域的な機能をもつことがでぎたが、その分だけいっそう刑法的意味の世界から遠ざかり、刑法上の行為論としての有       ハ レ 用性も指導性も失われてしまった。現に、所為ないし業態はことばとして無内容であるとの批判もある。ここまで行 為概念を野放しに拡張してしまうことは、たしかに疑間である。  そこで、主として前記ωの観点に立って考えてみると、単なる自然現象や生物の行動は盲自的絶対的に因果法則の 支配を受けるから、善悪の判断を容れる余地はない。しかし、人は自分の意思によって、ある外界の結果を生ぜしめ または生ぜしめないことの選択・決定をなしうる。これを因果形成の可能性というならぽ、因果形成可能性こそ人の 行為の最低限度の要素として不可欠のものといわなければならない。  したがって、外見的には人の行動と見えるものでも、例えぽ病的に不可避な反射運動、熟睡中の寝返りや純粋な夢 中遊行、あるいは突然他人から突き飛ばされて第三者にぶつかり負傷させたような場合は、右にいう因果形成可能性 がないから、行為とはいえないことになる。事故を起こして人を死傷させた自動車運転者は、運転上の注意を尽くし てそのような結果を回避するという因果形成をなしうるのにそれをしなかった場合にのみ、その点で﹁行為者﹂とし て刑法的に非難されるのである。     東 洋 法 学      一五

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    刑法における行為論の基礎      一六  右のような意味での因果形成可能性を行為の要素とすることによって、不作為犯や過失犯、とくに忘却犯について も容易に行為性を肯定することができる。要するにこの考え方は、刑法上の責任に関する社会的責任論を背景とし、 しかも人間の主体的行動の本質に着眼した行為論であって、その意味ではいわゆる社会的行為概念に属するといえる    ハ レ であろう。        イレ  しかし、以上のような意義における所為も、実はなお、人のなす主体的行為一般に着眼したものであって、これを そのまま刑法上の行為概念として採用することは早計である。そこで、多くの学老が試みるように、これに社会的な いし刑事司法的な価値による限定を設けて、適当な特殊概念にまで昇華させる必要があるであろう。そうすることに よってわれわれは、生の自然的行為から脱却し、しかもある程度明確な内容をもった、刑法の分野に固有の行為概念 を発見することができるのではあるまいか。  このように考えると、前記㈲に述べたような、刑法の保障的機能を中心とする価値的な要素を加味した社会的行為 概念の中にわれわれの正しい目標があるように思われる。 ︵1︶ ︵2︶  本文に掲げた三つの機能は、観念的にはそれぞれ独立した意義をもつが、現実には相互に密接に関連し共存するもの である。行為概念に保障的機能が内在しかつ正しく作用していれば、しぜん規律的機能もある程度は保持され、その結 果として保護的機能も果たしうることになる。ただ行為概念においてはさしあたり保障的機能が主眼となる、というこ とである。  例えば人の四肢の運動や言語の発表、文章の起草のようなものもすべて行為に含めて考えるのがその典型である︵斉

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  藤金作﹁刑法総論﹂︹昭和四一年︺九五頁︶。 ︵3︶ 本文とほぽ同趣旨で社会的行為概念を採用される説として、西原春夫﹁刑法総論﹂︵昭和五九年︶八○頁以下。 ︵4︶ この場合﹁業態﹂という語も用いられるが、目本語としての語感からは所為の方がより適当である。今日、刑事実務   において所為という語が広く用いられているのも、本文のような意味での行為概念に由来するのかとも思われる。要す   るに﹁所為﹂の語は、作為不作為、さらには有体性・有意性の一面しかもたない行動・静止ないし態度のすべてを含む   上位概念として承認される資格をもっているものと思う。 五 価値関係的概念としての行為  行為は前記四ωにみたような意味における価値関係的概念である。このことをふまえた上でもう一度原点に立ち戻 って確認してみよう。  立法論的にいえば、およそ刑罰法規によって禁止されうるものは、人の作為不作為その他の生活行動全般、すなわ ち冒頭一で述べた人間の行為一般に及ぶ。その中から、刑法的なあらゆる評価判断の対象となり、刑法的形容を担う ところの主題としての中核的行為概念を問うのが、われわれの行為論の出発点であった。  もっとも、犯罪構成要件以前の段階において﹁行為﹂を論ずる立場を﹁裸の行為論﹂と称してその刑法上の意義を         がまレ 否定する見解もある。しかし、われわれの行為論は構成要件の枠内の操作で足りるものでないことはすでに見たとお りである。のみならず、近代刑法の掲げる行為主義・責任主義の原則を援用するまでもなく、処罰されるものは思想 東 洋 法 学 一七

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    刑法における行為論の基礎      一八 でも人格でもなく、行為である。このことは、とくに適切な刑事司法の実現のために忘れてはならない。もちろん、 現実に処罰される行為は、犯罪成立要件を完全に具備したものに限られるけれども、ここで問題とされるのは、その 犯罪成立要件が帰属し、集積される中核となるべき﹁行為﹂である。この﹁行為﹂の判定、把握を誤れば、やはり単 なる志向や思想までが司法作用の対象に巻きこまれる危険性を生ずるであろう。その危険を防止するところにも、行 為論が前構成要件的段階にまで遡って行為そのものを追求することの意味と使命があるのである。  ところで、従来の学説において、存在論的行為論か価値︵規範︶的行為論かという形で問題提起がなされている例        ハ レ にしばしば出会うが、そのような発想じたいに検討すべきものがありはしないか。そこで、存在と価値との関係につ いてごく簡単にふれておくことにしよう。  存在と価値との関係は、古来哲学上の難問として多くの学者・思想家を悩まし続けてきたことはいうまでもない。 いまここでこの難問に正面から取り組む余裕はもちろんないが、ことがらを法律論の分野に限ってみても、存在と価 値とのかかわりあいは、通常考えられているようには決して簡単ではない。  つまりこの両者は、単に平面的、並列的に対置されるものではなく、また単に立体的、階層的に重なっているもの でもない。そして、ある価値が妥当することによってあらゆる現実︵存在︶はありうる、と同時に、事物が現存する ことによってもろもろの価値は顕現される、という関係にある。これが、われわれを取り巻く世界の根本秩序であり、       レ また、少なくともこのような原理は法の世界においても妥当すると考えられる。

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 すでに︻において述べたように、われわれの行為論が最も原始的な意昧における生の事実を考察の対象としながら もその範囲は刑法的な価値の光によって照明された部分にかぎられるとしたのも、以上のような素朴な理解に基くも のである。ここでは、行為もまた何らかの刑法的価値︵評価︶に関係することによってはじめて存在を認められる、 ということである。  このように考えれば、行為論を存在論か価値論かという二者択一の形で分類し規定することは適当ではなく、やは り、刑法的価値の妥当する生の社会的事象を問題にするという姿勢を失わないことが要請されるのである。  犯罪成立理論における価値判断は、その第一歩が構成要件該当性の判断において現われることは、一般論として承 認されてよいと思う。この点に着眼すれば、行為論はむしろ現実判断の間題であり、存在論的行為論こそ正当だとい うことになろう。しかし、われわれが以上によって理解したところによれば、真に正しい行為論は、考察の対象の面 では記述的存在を問題にしていても、考察の方法の面ではまさに刑法的価値の世界に参入していることになる。この 意味において、従来のいわゆる自然的行為論ないし裸の行為論とは観点を異にするのである。 ︵i︶

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 価値の本質と体系、価値の実現等に関する哲学的著作は枚挙に蓬がないが、本文との関連で参考となるものとして大  例えば大塚仁﹁行為論﹂︵有斐閣・刑法講座2、一四頁以下︶。 ﹁刑法概説総論﹂︵昭和五九年︶九六頁参照。  小野清一郎﹁犯罪構成要件の理論﹂︵昭和二八年︶五四、五七頁。なお、この否定的見解に対する反論として大塚仁 江精志郎﹁哲学的価値論の研究﹂︵昭和四二年、理想社︶がある。とくにその二〇〇頁以下参照。  東 洋 法 学      一九

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刑法における行為論の基礎 二〇 六 犯罪捜査の対象としての行為  すでに明らかなように、従来の各種の因果的行為論にいう行為概念は、上述の行為一般と区別することができない。 つまり、これらの考え方によると、例えば化学老が研究室で化学実験を行い、商人が商品を販売し、また多数の人が 二つのチームに分かれて競技をすることまで、いずれも有意性・有体性を具えかつ何らかの社会的意味をもっている ので、これをも刑法上の﹁行為﹂といわざるをえないであろう。  このように、刑法的な視座を全く欠くものまで含むような刑法上の行為概念を設定することは適当ではない。この 点は目的的行為概念についても全く同じことがいえるのである。  右のように、いわゆる行為一般をほとんど無限定に刑法理論の中に持ち込もうとすることから、前述のように、裸        ハユロ の行為論は無意味であるとの批判を受けることになる。  ここにおいてわれわれは、何らかの刑法的視座に立って、行為一般から刑法上有効な行為︵概念︶を選択・抽出す る必要性をいっそう痛感するのである。ここで刑法的視座というのは、前述のような意味での刑法的価値の光である が、刑事司法という実践的な見地からみるならば、そもそも行為一般に最初に刑法的価値の光を当てるのは犯罪捜査 である。  刑事訴訟法一八九条二項は﹁司法警察職員は犯罪があると思料するとぎは犯人及び証拠を捜査するものとする﹂と 規定している。右にいう犯罪は、もちろん厳密正確な意味での犯罪ではなく、犯罪の疑があるとか、犯罪の気配がす

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る、という程度の、いわゆる嫌疑で足りるのである。犯罪の嫌疑があれば捜査する。逆にいえば、一般市民には犯罪 と思われる行為でも捜査機関から見て嫌疑のないものは捜査の対象とはしない。これらのことは同法一九一条の検察 官の捜査についても全く同様である。  捜査機関は何らかの行為一般に対して刑罰法規の価値の光を照射することによって犯罪の嫌疑を感知する。そこで 事件は犯罪捜査の対象となり、観念形象としての刑法的行為が生成される。さきに五において述べたように、まさに 刑法的な価値が妥当することによってはじめて刑法上の行為がありうるのである。  このようにして、刑法上の行為は少なくとも犯罪捜査の対象となるようなものでなければならない。そして、犯罪 捜査の対象となれば、その行為が刑事司法手続に組み込まれ、その時点から刑法の保障的機能︵前出四③︶が個別的、 現実的に作用することになるのである。  さきに三において引用したヴェルツェルの例でいえば、患者にモルヒネを注射した看護婦については、殺人あるい は業務上過失致死の容疑がもたれるが、その注射に主治医が何らかの形でかかわっていたとすれぽ、さらに医師との 共謀による殺人ないし殺人幣助の成否も当然問題になるであろう。これら、成立が予想される犯罪の種類や型態に応 じて、解明すべき事実の焦点とその範囲が定まり、それが一応の指標となって犯罪捜査が行われることになる。  もちろん、この段階においては、捕捉された行為は法的には甚だ漠然とした抽象的なものではあるが、社会的な生 の事実としては歴然たるものであって、それが捜査の進展に伴い、さらに公訴提起の後には裁判所における審理によ って、構成要件該当性、違法性、責任性の検討を経て、しだいに刑法的な理念にてらして自らの姿を鮮明にし、明確

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    刑法における行為論の基礎      二二 な犯罪事実にまで発展せしめられていくのである。これは観念形象としての行為の発展的・流動的性格として理解す ることもできるが、その中枢には当初の﹁行為﹂じたいが、犯罪成立のための諸属性を担うものとして終始一貫して 存在するのである。  前提を変えて、実はその患者の死期が切迫していて、その甚しい苦痛を免れさせるためにやむなく注射をしたもの で、最終的に安楽死の成立が認められたとしよう。看護婦について違法阻却事由があることになるが、そのような事 由の存在はもちろん当初の行為の成立や本質に何ら影響を及ぽさない。あらためて念を押すまでもなく、行為は常に 本来の意昧の犯罪性や当罰性をもつとは限らないからである。  そればかりではない。その行為じたいが捜査の結果何ら刑法的な価値にかかわりのないことが判明することも当然       レ ありうる。その場合には捜査官の判断により、時には公訴提起後に裁判官の判断により、刑法上の行為としての存在 を否定される。このことは、例えば公訴事実や訴因が裁判所の審理の結果存在しないことが判明する場合と同断であ って、何ら異とするに足りない。  さてここで、行為のもつ﹁社会的意味﹂について考察しておこう。  すでに二においてふれたように、社会的行為論者の多くは、行為概念を社会的意味によって限定することに努める。 しかしその努力がいまだ見るべき成果をあげえないとすれば、その理由は、もともと人間の行為の社会的意味は多義 的流動的であって一義的に決定し難いことにあるといえよう。ここでも、結局は刑法的ないし刑事司法的な価値の光

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にてらして具体的に考察するのでなければ、現実に即した実りある議論とはなりえないことが知られるのである。  ところで、およそ犯罪というものは、もともと、観念的には社会的意味ないし社会的重要性をもつものといえよう。 例えば内乱、贈収賄など国家的法益に対する罪、建造物放火、偽造通貨行使など社会的法益に対する罪において、そ のことはとくに顕著である。窃盗、傷害など個人的法益に対する罪でも、定型的に被害者との関係を生ずるし、社会 秩序を乱したという面でも社会性をもった行為であることは否定することができない。  しかし、そのような意義での社会性はあくまで観念的・抽象的なものであり、人間の行為一般についても日常的に 看取しうるところで、これを刑法上の行為についてことさらに論ずる実益は認められない。  そこで多少とも刑事司法的な視野に立って見ると、例えばわが刑法のもとでは親告罪とされる過失傷害、名誉致損 の行為などは、多くは告訴があった段階で社会的重要性を生ずるといえるであろうが、私文書偽造では、行使の目的 で偽造を完成しても、その文書を犯人が手もとに隠し持っている限りでは、まだ法益侵害も現実化したとはいえず、 その行為の社会的意味はないかまたは甚だ稀薄である。しかしその偽造文書が第三者に対して行使されたときは、偽 造の行為もまた遡って社会的に重要なものとなるであろう。  ごく軽微な窃盗事件︵例えば少額の万引︶は、犯人が現行犯逮捕されたときなどは別として、何ら現実的な社会的 意義をもつことなく世間から葬り去られるケースも決して少なくはない。短時間の無免許運転やスピード違反なども 同様である。その反面、ある行為が果たして犯罪といえるかさえ全く不明であるのに、マスコミが犯罪のニュースと して取り上げることにより大きな社会的関心をまぎ起こすこともある。

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二三

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    刑法における行為論の基礎      二四  このようにして、刑罰法上の行為が社会的意味ないし重要性を獲得する契機としていろいろ考えられる中で、犯罪 捜査の対象となることは、客観的に顕著な、かつ社会公共的要素をもつ契機として格別の意義をもつものといえよう。  ところで犯罪捜査は、ある容疑事実について司法判断を受けるための準備行為であり、最終的には国家刑罰権の発 動につながる。したがって、その一連の手続の第一段階にあたる犯罪捜査においても、つねに刑罰法規の保障的機能 に対する配慮が要求されることはいうまでもない。これを訴訟法的な面から見れば、真相の発見と人権保障の要請を 適正手続の枠の中でいかにして両立させるかという実践的な考慮に他ならない。  このように考えてくると、前記四の③の観点から行為概念に保障的機能を付与するためにも、犯罪捜査との関連に おいて行為概念を決定することが適当であるといわなければならない。  以上を要するに、行為概念を社会的意味ないし社会的重要性という面から規制する原理としては、犯罪捜査の対象 性という観点を採用するのが最も妥当であると考えられる。  この限定があるかぎり、われわれの目標とする行為概念は、有意性・有体性を捨象しても決して無内容ではなく、 作為不作為、故意過失のすべてを含み、しかも刑法上の概念として要求されるべき機能を十分に具備するものといえ るであろう。 ︵王︶ ﹁たしかに犯罪認定論の領域に関する限り、行為論の段階で切りすてることのでぎるものは殆んどないと言ってよく、   その意味で裸の行為論は無意味であるという批判にも理由があるといえよう。﹂︵中山研一﹁刑法総論の基本問題﹂二三

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  頁︶。 ︵2︶ 刑法上の行為︵有意的行為︶か否かが問題となり裁判所が否定的な判断をした珍しい例として大阪地裁昭和三七年七   月二四日判決がある。この判決は、﹁︵このような︶行動は行為者についてその責任能力の有無を論ずるまでもなく刑罰   法規の対象たる行為そのものに該当しないものと解すべきである﹂としたが、この見解は控訴審において否定され、   ﹁本件事案は行為性を欠くものではなく、責任無能力者の行為である﹂とされた。 ︵大阪高裁昭和四〇年七月一三日判   決、下刑集七巻七号コニ五九頁︶。 七 ある例証および結語 よりよい理解のために、早近ある新聞に報ぜられた事例をあげて、われわれの行為概念をさらに検証してみよう。  Aはプロ野球の巨人ファンである。巨人対ヤクルト戦を一塁側外野席で観戦中、巨人の某選手がランナーとして 二塁に進んだ。その際の判定がセーフからアウトに変り、試合が中断した。そのときAは、自分が飲み残した焼酎 五〇〇CCの入った瓶を投げ、スタンドの下側にいたBの頭に全治二週間のけがをさせたため、傷害の現行犯で逮 捕された。  調べによると、Aは判定が巨人に不利に変ったことに腹を立て、グラウンドに向かって瓶を投げようとしたとこ ろ、隣にいた四十代の女性Cが﹁よしなさい﹂と叫んでAの腕をつかんだため、焼酎瓶はあらぬ方向に飛び、約四 東 洋 法 学 二五

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   刑法における行為論の基礎 メートルしか離れていない観客席のBの頭に当たった。 二六  この事件の場合、球場で警備にあたっていた警察官としては、まずAに傷害罪の嫌疑があると考えたのは当然であ ろう。しかし、あとから判明したところによると、Aは単にうっぶんを晴らすためにグラウンドに向かって瓶を投げ ようとしたのであって、Bその他の人に向かって投げるつもりはなかった。したがってAには犯罪的な意思つまり暴 行の犯意はなかったとみられる。投げようとした途端にCに腕をつかまれ止められたので瓶の飛び先が狂って、近く にいたBの頭に当たった。だからAには過失傷害の疑が残る。  同時にCは、Aが瓶を投げようとしたのを見てとっさに止めたのだが、止めなければ瓶はグラウンドに落ち、Bが 負傷することもなかったと思われる。Aの腕をつかむよりは、直接瓶をつかんで取り上げることもできたかもしれな い。周囲には多くの観客がいたのだから、止め方にも工夫がほしかった。そう考えるとCについても過失傷害の疑が あるだろう。  そこで、行為の主体としてAC両名が問題になるが、このような例でAやCの行為について、発生した結果に対す る目的的行為支配の有無を云云することは実情にそわず、いかにも思考技術的な感が強い。さりとて、従来の因果的 行為論によって有体性、有意性のみを論ずることも、べつだんの意味があるとは思われない。むしろ、それらの要素 を超えた、しかし因果の形成可能性をもつ所為ないし業態として把握するのが最も自然であり、常識にかなった観察 ではあるまいか。

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 さらに、この事件でAを現行犯逮捕したことにも多少問題はある。しかし、刑事司法的な取扱の経過として考えれ ば、捜査官が事件と取り組むのは、まず生の社会現象そのものとして、である。つまり、構成要件該当性、違法性、 有責性の判断を下す以前の純粋の行為として取扱うことになる。むしろ、それらの刑法的評価・判断を先取りしては ならない、いや先取りさえでぎない、という意味で行為の中立性は維持されている。この場面では、犯罪の成否にか かる評価・判断は将来に留保されているので、捜査官としては、うす暗い刑法的な価値の光を頼りに、捜査すべきか 否か、逮捕すべきか否かを判定せざるをえなかった。その逮捕の適否が後に問題になれば、当時の諸状況を総合勘案 したうえで裁判官が最終的に判断すればよいのである。  ともあれ、見物客の大勢いる球場のスタンドで人に全治二週間の傷害を生ぜしめたことじたい、一応社会的に重要 な意味をもつ業態とはいえる。しかし刑法的には、その業態が右のようにして犯罪捜査の対象になったことによって ﹁行為性﹂を獲得した、とここでは考えたいのである。そして、それを中核として、さらにいかなる構成要件該当性 があるか、違法性、責任性の有無いかんが検討され、犯罪としての成否が判断されるのであり、その過程において、 A・Cおよびその他の者に対する刑法の保障的機能もおのずから作用しているとみられるのである。  以上の考察によって、﹁犯罪捜査の対象としての所為﹂というわれわれの行為概念の全容が一応明確にされ、かつ それが従来の学説によっても要求された意義と機能を十分に保持していることが論証されたものと思う。  社会的行為概念の規制原理として犯罪捜査の対象性を掲げることについては、伝統的な諸説にとって、あるいは新

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    刑法における行為論の基礎      工八 奇の感を免れないかもしれない。しかし、すでに述べたように、目的的行為概念に根本的疑問をもち、自然的行為概 念にもあきたらないときは、けっきょく社会的行為概念の方向に行かざるをえない。そして、社会的行為概念による 以上、その範囲を限定し、しかも本来有すべき機能を失わしめないための適切な規制原理が不可欠である。この規制 原理を何に求めるべきか。刑事司法実務に即した解決としては、以上のような基礎づけによって、犯罪捜査の対象性 にこれを求める以外にないように思われる。  つまり、われわれの行為概念は、さしあたり社会的行為論の中に位置づけられるけれども、けっぎょく犯罪捜査の 対象となった所為のみが刑法上の行為の範疇に入ることになる。その意味では、実証的行為概念または実務的行為概 念とよぶのが適当かとも考えるが、名称の問題は今後の検討課題としておきたい。ともあれ、このような観察が刑法 理論としての行為論に対して何らかの寄与をなしうるならば、本稿の目的は十分に達せられるのである。

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