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沖繩近代教育の特質

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(1)Title. 沖繩近代教育の特質. Author(s). 佐竹, 道盛. Citation. 北海道教育大学紀要. 第一部. C, 教育科学編, 29(1): 25-38. Issue Date. 1978-09. URL. http://s-ir.sap.hokkyodai.ac.jp/dspace/handle/123456789/4769. Rights. Hokkaido University of Education.

(2) . 沖縄近代教育の特質. 佐. 竹. 道. 盛. は じめに. 1, 特別処分の展開 ) 明治前期 - 成規外処分の実施 ( 1 ( 2 ) 明治後期 - 特別処分下の督励 1 1 . 同化教育施策の展開 1 ( ) 明治前期 - 同化教育の開始 2 ( ) 明治後期 - 同化教育施策の集大成 1 1 1 . 沖縄教育をめぐる在野的展望 ( ) 明治前期 - 啓蒙教育推進論 1 ( 2 ) 明治後期 - 辺防特別教育推進論 むす び. は. じ. め. に. 沖縄の近代教育は, 端的にいって, 政府の政策とのかかわりで他の府県にはみられない特異な構 造を持つものに組織されていった点にその特質があっ たといえよう.明治12年の廃藩置県によっ て 発足した沖縄の県政は, 維新期以降に本土の各府県において実現した地租改正, 地方自治等の諸制. 度改革を, 明治後期にまでひきのばす, いわゆる旧慣温存政策をとるものであった, しかし, 県民 の言語, 風俗を同化し,「日清両属」 思想を排除して, 尊王愛国の気風を振起することを県政の最 重 要課題とみた政府および県当局は, これらの機能を集中的に果す場として学校を重視し, 学校の設 立と子弟の就学を旧慣温存下でも督励していったの であった. ここに, 税制, 地方制度等諸制度の面に旧慣を許容しつつ, しかもそのなか で県民の同化をすす. めていくために, 教育制度のうちこれらの旧慣にかかわりの深い教育財政や教育行政等に大幅な特 例を許容する, いわゆる 「成規外処分」 の方針が政府によっ て採用され, 沖縄教育の特異な構造が 形成されていっ たの であっ た. この 「成規外処分」 という特例措置は, 諸制度の旧慣のもとでは, 教育制度もいきおい規則どおりには実施しがたいため, 旧慣に結合された制度を布くという, いわ ば消極的な対応の方策であったといえる. それだけに, 沖縄教育の量的質的発展をはばむはたらき 1 ) があ ら わ に な っ て いく も の であ っ た( .. ところで, 政府および県当局は, 以上のような特別措置に加えて, いわゆる 「両属」 の特異な歴 史的背景をもつこの地の住民を同化していく ための, いわば積極的な特例措置をも講じていた. こ うして沖縄教育の特異な構造のうちの積極面が形成されていっ たのである. ここに沖縄の教育は, 25.

(3) . 佐. 竹. 道. 盛. 2 ) 」の施策とあわせて, 三 つの異なる施策の複合する構造をも 他府県と同時に実施される「成規依拠( つことになっ たの である. それは, その後, 県民の旧慣改革の要求により制 度の改革が進み, 県民 の同化が進展するとともに次第に特例的な構成をゆるめる方向へ進ん でいっ たといえよう, 本稿は, 特に沖縄教育の特殊構造に焦点をあて, その形成過程を明らかにすることを企図するも の である, この特殊構造のうち, 旧慣につながる側面を通して政府が何を改革不要のものとみたか が明らかとなり, 一方, 積極的に推進された特別施策のなかには, 他府県並みに実施された施策同. 様に, 政府の緊急不可欠な政策的要請の反映がみられるであろう, したがっ て, このような沖縄教 育の特殊構造を分析究明することは, 沖縄県民の形成のあとを明らかに するという固有の意義のほ かに, 明治政府による上からの組織化を重要な契機としてきたわが国近代教育の特質の解明にも重. 要な示唆を与えるという意義をもっとみられる. 特にこの地域を研究対象にえらぶゆえんである. なお, 考察の時期は旧慣のなか ですべての県民を対象とする教育の 組織化がすすめられ, 特殊構造 が特に顕著にみられる明治期に 限ることとする.. 本稿は最後に, 政府の対沖縄教育政策をめ ぐっ て提示された国民の教育 意見を教育雑誌を通して 明らかにし, 政府のみならず広く国民によっ てこの地域の教育に どのような展望が持たれていたか に つ い て も 考 察 す る こ と に な る,. 1. 特別処分の展開 ( 1 ) 明治前期 - 成規外処分の実施 明治政府は, 沖縄の廃藩置県を断行する以前から, 県政をすすめていく上で教育が重要な役割を 果すもの であることを認めていた模 様である. 琉球処分(廃藩置県)の過程にあった明治8年には, 琉球藩に対して, 清国の冊封を受けることや同国への朝貢を禁止する項目などとともに,「学事修業 3 } 藩の側 でも 時情通知ノ為メ人撰ノ上少壮ノ者十名程」を上京させることを命じた達書が発せられ( , これに応ずるところがあっ たのである. このような教育重視の姿勢は, 置県後も変ってはいなかっ た, 初代県令鍋島直彬は, 廃藩置県に伴なう人心の動揺のなか で, 旧来の学校が衰退しつつあるの. を挽回するため,「教育ノ忽ニス可ラサルハ喋々スルラ僕タ ズ, 就中年少子弟ノ就学一日モ欠ク可ラ サル義ニ有之…… 多年ノ修学ヲ中止シ歳月ヲ荏揮候者有之候テハ実ニ痛惜スヘキノ次第ニ 付総テ従 4 } 前ノ通相心得柳無疑念一途ニ勉強候様可致」 旨論達したの であっ た{ . 2年12月に, 県令は,「学問ノ・身ヲ立テ産ヲ興シ生ヲ遂 グルノ基礎ニシテ修身政治天 つい で明治1 テニ至ル迄 一トシテ学アラサルモノナシ……今ヨリ後 文地理算術等ヨリ百工技芸日用常キ. 寒村僻邑. ニ至ルマデ前条ノ 趣ヲ了解シ村ニ学ハサルノ家ナク家ニ学ハサルノ人ナカラシメ候様可心懸」 と, ほぼ明治5年の「被仰出書」の趣旨を踏襲した請 け達によっ て, 県民子弟の皆就学を督励したのであっ 5 { ) た . こうした一連の文書は, いずれも, 県政を推進していくうえ で, 教育の果すべき役割がきわめ て大 であることを表明したもの であるといえよう, 2年6月 25 日には, 琉球処分の過程で明らかにされていた旧慣 ところ で, 置県後間もない明治1. 温存主義が,「諸法度ノ儀更ニ改正ノ布令ニ及ハサル分ノ・総テ従前ノ通相心得申ヘク此旨布達候事」 6 )によっ て県治の根本方針として確定され ここに県民皆就学を理 念と という沖縄県甲第三号布達( ,. する近代教育の組織化は, 旧慣との結合によることが決定 づけられたのである. こうして, 同年12 月12日に県令は, 旧藩時貢租類を負担せず学校経費も藩の 支出金を主要な財源としていた首里, 那 覇, 泊等四都邑について, 旧藩負担の教育費を国庫に求める 上申書を大蔵大臣に提出したの である. 26.

(4) . 沖縄近代教育の特質. 7 ) これらの地域は民費負担のない旧慣ひき なおこの上申は翌年3月大蔵省の認めるところとなり( , 貫どおりの定 つぎの 財源構成によって学校を維持していくこととなっ た. ただ, この国庫補助も旧一 8 ) 額 の そ れ であ っ た ため, 生 徒 数 の 増 大 に 対 応 し て いく こ と は でき な か っ た( ,. 上申は, 首里, 那覇の旧学校の維持費のほか, 新学校組織化の中心にすえられた師範学校の経費 要求も含んでおり, そこに,「既設ノ学校ノ・姑ク旧ニ依り業ヲ授ケ別ニ小学師範学校ヲ開キ小学校教 員タル可キ者ヲ養成シ県下ノ人ラシテ普通学科ノ大概ヲ目撃耳聞シ梢其善良ナルラ知ルニ至りテ後 9 ) チ漸次旧弊ヲ矯メント{ 」 する新旧併置の漸進の方針が明らかに読みとれるものであっ た. 3年に文部大臣が「成規外処分」 こう して, 鍋島県令によっ て始められた旧慣即応の教育政策は,1 の方針を提起し, 太政大臣の裁可を受けるにおよんで確定的なものとなっ たのである, すなわち, 「沖縄県ノ儀ノ・置県以来日尚浅ク加之其人情風俗習慣等内地ト大ニ異ナルモノ有之教育 諸般ノ事悉. 皆一般ノ規制ニ拠ラシメ難キ情実可有之ニ付該県ヨリ学事施設上ニ付成規外処分致度旨同出候節ノ・ l o ) 当省ニ於テ篤ト詮議ヲ遂ケ漸次成規ニ馴致候目的ヲ以テ当分適宜ノ処分為致度此旨相伺候也{ 」と いうことで,「成規外処分」 の決定には, その都度文部省への伺いが必要であった. 事実, 明治13年 制定の改正教育令のもとで, 幾多の成規外処分が文部省によっ て認められ実施に移されている, た とえば, 改正教育令下で児童の就学, 学校の設置保護等教育行政上重要な役割を担う学務委員は, 「普通教育ノ欠クヘカラサルト学務委員ノ何物タルラ弁知セサルノ民情ニテ何分於人民薦挙為致候. 場合ニ無之」 との理由により 「吏員若クノ・……相当ノ見込ヲ以テ申付」 ける1日贋結合の処置がとら 1 1 } れ た の である( ,. ところで,旧慣温存と成規外処分の方針のもとで組織化のはじまっ た都邑外の地方農村の教育は, 目印モ本県賦税ノ・旧藩ノ慣行ニシテ之ヲ他府県ニ比スルニ幾層ノ重キラ加へ人民/負担不容易……. 於是県治上尤モ緊急トスル所ノ教育勧業其他諸般ノ事業ヲ施サント欲スルモ此際一銭金一勺米ヲ賦 課 ス ル能 ハ ス」 と いう き わ め て 困 難 な事 態 に お い こ ま れ て い た, こ こ に, この 難 局 を 打 開 す る た め. の模索が始まっ たのである, 明治14年に赴任した上杉県令は, 旧慣すえ置きの冗員をかかえる地方. 役場吏員を整理し, それによ っ て生ずる残余金 ・を, 教育, 勧業等の重要事業にあてるべく, 地方吏 員改正の件を大蔵・内務の両卿に上申したのであっ た, しかし, この上申は, 地方吏員層を含む旧 藩支配者層の動揺と抵抗をおもんぱかる政府によっ て, 時期尚早としてしりぞけられ, 上杉は間も なく更迭となっ たのである. 上杉の上申をしりぞけた政府の真意は,「廃藩置県ノ際彼レニ諭スニ其国内ノ政治慣行ノ・従前之通 1 2 ) 」 と, 旧慣温存の基本方針を貫くこ 据置キ妄ニ改革ヲ為サ・ルヘシトノ意ヲ以テシタル旨モ有之( とにあっ たから÷ 上杉退陣後の県政およ び教育の向かう方向は自ら明らかであっ た. 明治16年に就. 任した岩村県令のもとで, 教育は, 旧慣すえ置きのままの地方吏員層の意を迎え,「校舎は番所及下 知役検者詰所等を用ひ更に新築及生徒督責増員のことを欲せ ざるのみならず百事旧慣追慕の念止ま i 3 } す故に督責就学及校舎新設等の事も亦緩漫に附( 」 するものになっていた, およそ1年間にわたり, 旧支配者層の緩撫に終始した岩村県政が終り, 16年西村捨三が後をつい. だが, 西村の県政と教育の根本方針は,「禄制の轡酌旧規により労に酬ゆる賜金地方組織等多年の慣 習のあるものは復旧可然」 と, 禄制, 地方組織等, 旧支配者層を緩撫するための旧慣踏襲の面で岩. 村県政を継承し, 他方教育に関しては,「折角小学校に普通教育を施せしを四書五経の素読に変する 1 4 } 如きは前途改進の見込なきこと故学制なれは鍋島上杉時代の制に依る方当然{ 」 として鍋島, 上杉. の方針を承認し, これらを総合していく, いわゆる 「新旧混交」 のそれであっ た, ここに旧慣と新 教育を結合する, 旧慣温存期の特異な教育構造が確定し, これが明治20年代末の区制, 郡制実施に よる旧制の一部改革をへて,30年代の土地制度, 税制度の改革に至る時期を通じて一部修正を受け 27.

(5) . 佐. 竹. 道. 盛. ながらつづいていくことになるの である, なお西村は, 旧蹟による過重な税負担にn細今する農村に して小額の国庫補助の道を開いたが, これとても,「官費補助ノ特典ヲ示シ序ニ之ヲ説諭セハ人民 対・ I S } 其特典ニ感激シ負担ノ思想ヲ発動スルニ至ルコト必然ノ義ナル可シ( 」 という もの で, 農民の教育 費負担の呼び水として採用された方策であっ て旧慣の改革を意味するもの ではなかっ たのである.. 他方, 県民の側には,「人智の開け ざる教育の何物たるを解せず生徒の募集頗る困難を極め免夫銭と 1 6 ) 称する「種の手当金を給与して之が就学を強迫し( 」てはじめて学校教育 が成り立つという情況が みられ, まだ積極的対応も主体的な教育要求の提示もみられない時期 であっ た. 旧慣のもとでは無 理 も・な い こ と であ っ た と い え る.. 2 ( ) 明治後期 - 特別処分下の督励 0年前後ま での時期は, 政府高官およ び県当局の強力な教育督励 明治後期のうち,20年前後から3 をもって特徴づけられる時期 であり, 積極的な教育督励の方針と依然として存続する諸制度の旧慣. との調整がはかられた時期 であっ た. 教育督励の方針と旧慣を調整する方途としては, 明治25年勅 1 7 ) 0号(「市制町村制ヲ施行セサル地方ノ小学教育規程{ 令第4 」) が公布され, さらに, これを具体化 1 ( 8 ) 31 号が発せられ, 特殊事情下の県民教育の督励を強化し していくために, 県では沖縄県訓令第1 ていく方針が確定したの である. またこの時期には, 日清戦争を契機に県民の側に自主的な教育意 欲が高まる一方, 旧慣温存政策と教育の普及拡大との間の矛盾が激化し, 旧慣の一部に改正が加え られ, 県民の主体的教育要求と県当局の同化的教育観との間の矛盾が表面化するに至った時期 でも 1 9 } あ っ た( .. 0年前後から明治末期に至る時期は, 県政の面 では徐々に旧慣の改革が進んだ 明治後期のうち, 3 2 0 2 1に つい で 30年には間切島吏員規程 }制およ び沖縄県の郡編成( 時期 であっ た. 29年の沖縄県区( , 2 2 }公 布 施 行さ れ さ らに 3 2 3 )制が施行されて県は自治へ一歩前進したの が( 2年には沖縄県間切島{ ,. ,. 2 4 }法が公布 であっ た, 同じく32年には土地所有権の確認と地租改正を目的とする沖縄県土地整理{. された. ただ, ここ での税制改革 が現実に県民の生活に影響をおよぼすのは明治末期以降であり, この時期には依然として旧慣下 で教育事業がすすめられたのである. この時期に学齢児就学率はほ 2 5 )並みとなり 中等教育機関の増加にみられる教育熱の高まりがあっ て 制度の上でも県 ぼ他府県{ , , 民の対応の面でも次第に他府県への接近の動きがみられる時期である. 島晩町村制の施行は明治41 年 の こ と であ る,. 政府高官の来県のうち注目すべきものは, 明治20年2月の森有礼の来訪 である, 「六日……文部 大臣の一行は当地に来着せられ翌七日首里小学校師範学校中学校及 び那覇各小学校等を巡覧し其の 翌八日は古波蔵村練兵場に於て以上各学校の生徒運動会を観られ那覇本願寺出張所に於て大臣の演 説あり」 という日程 で巡視がすすんだが, 森は特に彼一流の気力養成論を説き, さらに 「完全なる 2 6 ) 気力ある臣民育成の督 人の妻となり完全なる人の母とな」 るべき女子の教育を督励していっ た( . 励がみられる.. 1月には, 「伊藤総理大臣の一行は本月廿一日浪速葛城海門の三艦に乗り込み来琉あ ついで同年1 り翌廿二日那覇高等小学校, 師範中学の両校織工場女学校首里小学等を巡覧せり殊に首里小学並女 学校の会話教授には頗る注意ありたるより其翌廿三日は各学校生徒を浪速艦に集め大砲の使用法等 2 7 ) を説明され翌廿四日は例に依り古波蔵に於ての大運動にて可なり騒動を極めたり{ 」 という, 伊藤 博文の教育視察があり, 特に,「東村の学校に臨まれて伊藤公自ら私共に次の様の問題を出されて 答 案を持て御かへりになりました. 1, 氏名をかいて仮名をつけよ. 2, 太陽は どの方面から出るか. 28.

(6) . 沖縄近代教育の特質. 2 8 ) 3, 東京はどの方向にあるかなど未だ数問題ありました( 」 というように, 総理大臣自身直接児童 の学力を試験するという異例な形 でなされた督励は, 注目すべき である 明治後期の教育督励は . , このように伊藤, 森の両首脳によっ て直接開始されたのである. このような督励の強化は, 明治2 5年の勅令第40号とそれにもとづく沖縄県訓令によりさらに明 確となっ た, 文部省は明治2 4年1 2月 24 日 ・付 で「市制町村制ヲ施行セサ ル地方ノ小学教育ニ関スル 件」(勅令案) の閣議を請議しているが, その趣旨は, 明治23年10月勅令第215号小学校令ノ・市制町村制ヲ施行シタ ル府県ニ施行スルコト・定メラ レ 候処北海道沖縄県其他諸島晩ノ如 キ市町村制ヲ施行セサル地方ニ在テモ右小学校令ノ旨趣ニ準 シ 施設ヲ要 スヘキモノ往々有之去り乍ラ同地方ニ於テハ各地其情況頗ル区々ニシテ到底画一ノ法ヲ 以テ律スヘカラサルハ勿論ノ儀ニ有之就テハ本大臣ニ於テ成 ルヘク前顕小学校令ノ旨趣ニ準拠シ 時ト処ニ従ヒ適宜市町村制ヲ施行セサル地方ノ小学校教育ニ関 スル規程ヲ定メ小学教育ラシテ専 2 9 )… … ラ同 地 方 ノ 情 況 ニ 適 切 ナ ラ シ メ 度 候 ニ 付{. というもの であっ た. ここで請議された勅令案は, その後修正の上, 勅令第4 0号 (市制町村制ヲ. 施行セサル地方ノ小学教育規程) として公布されたが, 沖縄県ではこの勅令の趣旨を積極 的に受け とめ, つ ぎのような訓令第1 31号を発し, 国民教育の督励を強化 したのであっ た. ●し学 明治廿五年四月勅令第四十号に基き文部大臣の意見及法律命令に因り本県の因習慣例に照 ら 事諸則を規定発布候に付ては当路者に於て之を掌理するに当り深く人民生活の状態人智の進度 等 に注意を加ふへきは殊に重要の事とす抑も本県は事情境遇の目から他府県と其の趣きを異にする ありと錐とも国民教育の普及は地方制度の改定を待ちて後なすへきにあらす故に此の目的を達せ んとするには法規の旨趣に依拠し鋭意進歩を図り漫りに事情に拘はり境遇に泥むことなき を要す このように, 勅令第2 15号小学校令の条規は, 市制町村制の施行に関するものを除く外すべて施 行することとされ, 勅令第40号第1条により特別の処分を認めつつ, なおそのなかで「人民生活の. 状態人智の進度等に注意」 しつつ, 「地方制度の改定を特」 たずに 「法規の旨趣に依拠し鋭意進歩 , を図」 るという積極的な方策が現実化していっ たの である . 特に, 留意事項として掲げられた,「小学教育の主眼は国民教育の基礎を立つるにあれは児童を訓 育するには児童をして教育に関する勅語の聖 旨を奉戴し忠君愛国の志気を発揚 し国家の良民たらし むるを以て目的とすへし」 , 「父兄たるもの未た児童を教育する義務を悟らすして日本臣民たる本分 を尽すことを知ら ざるによるものなれは当路者は法令の旨趣により土地情況を考へ正当の誘導法を 設け以て国民の本分を完ふし各人の義務を尽さしめんことを要す 故に勧奨開諭するに当り 情実に流 れ習慣に泥み徒に寛仮すへからす」 等の項目から, 天皇制国家体制確立に対応する教育体制確立の 動きが積極的に受けとめられ, 強力な対応がなさ れていることが知られ, ここに明治前期の漸進主 義的な 「成規外処分」 にくらべ, この時期には, 同じく特殊事情を考慮する特別処分のなかにも , 積極的な方策が現われて来た事が知られる, 1 1 , 同化教育施策の展開 1 ( ) 明治前期一同化教育の開始 初代沖縄県令鍋島直彬は, 明治1 2年12月に大蔵省に提出した上申書のなか で,「言語風俗ラシテ 本州ト同一ナラシムルハ当県施政上ノ最モ急務ニシテ其法固ヨリ 教育ニ外ナラス因テ至急普通ノ小 29.

(7) . 佐. 竹. 道. 盛. 0 3 } 」と同化教育の重要 学教科ヲ制定シ師範学校ヲ設置シ漸次旧規ヲ改良シ教育ヲ普及ナラシメ度候{ 性を強調していたが, この同化教育の重視は, その後の県政を一 貫する基本方針となるものである, 3年2月には,早く も言語同一化のための教育機関 ところで鍋島のこの上申書の提出から二月後の1. が設置されている. すなわち,「二月会話伝習所ヲ那覇西村二番地官舎ニ仮設シ生徒二十名ヲ那覇首 里等ニ募り学務委員ノ余暇ラシテ本邦普通ノ言語及小学教科書等ヲ兼授セシメ」 というのがそれで 3 1 ) ある. この会話伝習所は後に,「予備門ヲ置テ会話伝習所ニ換フ{ 」 といわれているように, 師範学 校予備門に代ったの であるが, 沖縄県最初の近代学校 で会話伝習がなされた事実は注目すべきこと であり, まさに沖縄近代教育の性格を暗示していたといえよう. 同化教育重視の方針は, 第2代目の県令上杉茂憲においてより明確な形をとっ てあらわれる. 上. 杉は明治1 5年5月に内務,大蔵両卿に提出した上申書のなかで沖縄教育の内容を次のとおり提示し て いる.. 而シテ其教育タルヤ……只書信ノ往復日用ノ筆算ト略皇国ノ国体ヲ知了シ以テ忠君愛親ノ大義 メ従来日清両属等ノ思 ヲ解セシメ其言語ラシテ内地ト通同ナラシメ童子ラシテ愛国 月青ヲ起サシ, 3 2 ) 想 ヲ 脳 裏 ニ 止 メ サ ラ ン コ ト ラ 期 ス ル ナ リ{. これは, 置県以来の県政当事者の主張をうけつぎ, 沖縄近代教育のそなえるべき基本的内容を要 約提示しており, その後の教育に原型を与えるものであっ た, と同時に, そこには, 尊王愛国を教 える修身科に読・ 書・算を配する, わが国近代学校の教科課程の基本構造にあい通ずる構成がみら れるのである. 上杉の主張は, これらの基本要素に, さらに沖縄の特異な歴史に対処するための言 語の通同化による日清両属思想の排除という県政の最重要課題をつけ加えた点に特色があるのであ る,. われわれは,このような上杉の同化教育論の現実化する様相を明治 15年制定の教則およ び教科書 目のなかにみることができる. 教則は, 他府県にはみられない 「会話科」 を特設し, 教科書目は会 3 { 3 }この会話 話科教科書として『沖縄対話』を掲示して言語通同化の方途を具体化しているのである. 科について,明治17年4月師範学校附属小学校に入学した東恩納寛文は次のようにその授業風景を 伝 え て い る,. 私共の附属小学校時代には学科の中に会話といふのが, ありましたがこれは普通語のことで先 生が普通語で聞かれては私共は一斉に方言で答へ, 又先生が方言 で聞かれては普通語で答へまし. 4 3 } ,.た が そ れ が一 種 妙 な 節 が つ い て 出ま し た か ら 今 か ら考 へ る と 実 に 滑稽 であり ま す,{. このように, 上杉によっ て言語通同化の方法として特設された会話科は, 明治20年に来県した伊 藤博文の巡視情況を伝える記事のなかに, 「首里小学並女学校の会話教授には 頗る注意ありたるよ 3 5 } り( 」 とあるところからみて, この 頃ま で実施されていたと推測される, 日清戦争前後に小学校に 在学した島袋全発も, 「筆者などの低学年の時迄あっ た 『会話』 といふ科目も生徒間 では 『内地語』 6 3 ) と呼び……( 」と記している. なお, 明治21年の規則改正の後に出された教科書目のなかからは, ( 3 7 )これらの事実から 「会話科」 は明治前期で消えた 会話科と 『沖縄対話』 は消えてしまっ ている. , ものとみられる. ともあれ, 県民の同化を目的とする同化教育は, 言語の通同化による「日清両属」. 思想の排除を意図する会話科の特設をもっ て開始されたのである, このような同化教育は, 明治後 期に至っ てより包括的, 組織的なものにまとめられていくの である. ( 2 ) 明治後期一同化教育施策の集大成 32年5月ま での間に 「沖縄県下ノ尋常小学校読書科生徒用ニ充テ 文部省は, 明治30年3月から. 30.

(8) . 沖縄近代教育の特質. 第1表 沖縄県用尋常小学読本の構成 全. 使用学年 1 年 2 年 3 年 4 年. 教 読. 国. 科 書. 書 入. 課数 門. 尋常小学読本巻之 同. 沖. 用. 名 1. 40 33. 巻之2. 30. 教. 縄 科. 県 書. 用. 名. 沖縄県用尋常小学読本巻1 同. 巻2. 同. 巻3. 課数. 41. 32 22. 同. 巻之3. 30. 同. 巻4. 23. 同. 巻之4. 31. 同. 巻5. 25. 同. 巻之5. 30. 同. 巻6. 24. 同. 巻之6. 32. 同. 巻7. 21. 同. 巻之7. 31. 同. 巻8. 21. 3 8 ) 1号小学校教則大綱ニ基キ( 」全8巻から成る『沖縄県用尋常小 ン力為ニ明治二十四年文部省令第1 3 9 }当時わが国は 文部省検定済の民間出版教科書を採択使用する検定制 学読本』 を編纂出版した.( , 度をとっ ており, 文部省による特定地域のための教科書の編纂出版は異例のことといえる, それだ. け, この地域の教育 に対する政府の関心の深さを示すものといえよう. 以下, これらの教科書を分 析することによっ て, 政府がどのような県民の形成を意図していたのかを明らかにしていきたい.. これらの読本は, その内容構成をみる時, 文部省が「民間の教科書に一つの標準を示すことによっ 4 0 ) 9年) およ び『尋常小学読本』 て教科書の改善を図ろうとし( 」 て編集出版した 『読書入門』(明治 1 (明治 2 0年)のそれを踏襲していることが明らかである,沖縄県用読本の第一巻がほぼ『読書入門』. に対応するほか, 巻二以下巻八ま での7冊が, それぞれ 『尋常小学読本』 7冊と対応している, 両 者に共通な教材も相当の数にのぼる. しかし, その課の数は, 沖縄県用読本の方が二年以上の学年 で著しく減少していることが注目される.・今両者の課の構成を比較すると第1表のとおりである,. 0課前後削減されたなかで, ①どのような教材が削除され, ②どのような教材が残され, 教材が1 ③さらに, どのような新教材が追加されたかを検討することによっ て, 政府が沖縄県民の形成に ど のような意図をもっ てのぞんだかが明らかになるものと思われる, ①によっ て, 沖縄県に不急不要 とされた教材が明らかになり, ②③によっ て, 沖縄県に必要とされて残され, さらに補充された教 材が明らかになるであろう, ここ では, 三年用教科書を中心に, 以上の三点について考察してみたい, 第2表は, 尋常小学読 本巻之四・巻之五と沖縄県用尋常小学読本巻五・十巻六に掲載された教材の題目 を示したもの であ. り, いずれも三年用 である. 表によっ てみる時, 削減された教材の多く が, 国語・文学教材であることが知 られる,「こぶ取」 , 「杜鴇」 「 「 「 菊の歌 手紙の書き方 正雄のあうむ 「 「 魚釣 良秀の話 」 」 」 」 などの教材がそのこ 」 , , , , ,. とをよく物語るものである. このことから沖縄県用読本が, 国語・文学的要素を必要最小限に圧縮 したことが知られよう.. つぎに両教科書に共通に掲載された教材と沖縄県用読本に新たに加えられた教材をみると, およ そつぎの四つに分類可能である, その第1は,「神武天皇」 ,「日本武尊」 ,「紀元節の歌」 , ,「波之上宮」 「勅語」「勅語奉答」 「 「 , 水産」 , 新高山」 など尊王愛国の情を育てるものであり, 第2は, 軍事およ. び武勇をすすめる 「山田長政」 , 「従軍キシヤウ」 , 「弘安の役」 などの教材であり, 第3に, 勧学を 意図する 「こんがう石の御歌」 , 「水は器の御歌」 , 「老人の話」 , 「勤勉と倹約」 などがあり, 第4に. は, 「審語大主」 , 「名 ご順則が鶏を助けた話」 , 「源為朝」 , 「沖縄県」 , 「儀間真常」 その他の教材で, 31.

(9) . 佐 竹. 第2表. 道. 盛. 読書科教科書教材の比較(3年用). ①尋常小学読本掲載の教材. ②共通掲載の教材. ③沖縄県用尋常小学読本掲載の教材. 千代松の話 犬のちゑ 審藷大主 従軍キシヤウ 波之上宮 お竹の老人を助けし話 時 学問のす・め 勅語 勅語奉答 名 ご順則が鶏を助 考物 孝行なる盲人 信高の 麻 こぶ取 忠次郎の話 友のえらび方 源為朝、 ー 源為朝、 二 けた話 子鼠と親鼠 △時計 妻の勇気 杜鴇 鳥蛤を食一 話 書物の読み方. 菊の歌 菊 手紙の書き方 義家の学問に 志した 月の日数 △山田長政 沖縄県 儀間真常 新高山 野山の 遊び 鳥の卵 鳥ト狐 こんがう石 ろ話 鹿の水鏡 ぱうし花 絵と図 公園の地図 △虎と狐との話 大坂の蛙と京都の蛙 たのしわれ 狐と蟹とのか △酒井忠勝 神武天皇 の御歌 船 航海 水産 勤勉と倹. 約 井上でん 陶器と漆器 老人の けくらべ 渋柿 腐りたる柿 小児の悪戯 正雄 日本武尊 学問の益 話 亀と兎とのかけくらべ 弘安の 翼の折れた 縄 菅原道真 のあうむ しひたけ 知恵の垣 仁徳天皇 塞翁が馬 深切の却て不親切となりたる話 フリー る雀 △燕 羊 紀元 役 水は器の御歌 四季 ドリヒ大王の話 魚釣 樟魚 醍醐天皇 不正直 節の歌 家 重なる金 属 諺 諺. の結果 良秀の話 勉強の少年. (備考) △印は学年の異なるものである。. 沖縄県民の本土への一体感を癌養することを 意図したとみられる ものがあげられる, 以下これらの 点に つ い て 具 体 的 に 明 ら か に し て み た い.. 青を育てることを意図するとみられる教材をあ げると, 読本巻五第23課「勅語」 まず尊主愛国 の1 がある.これは, 明治23年の教育勅語の成 立の経緯とその内容を なす諸徳目を紹介した上で,「か・ る善き御代に 生まれて, か・るたふとき 大御教を, 拝するを得るは, 此上もなき幸」であることを教 1教に答へまつること」 を説いてしめくく っ たもので, この時期に一般化した儀式 え, 最後に 「大御 との一体関係のもとに,「大御教」 に忠実に従う臣民の育成を意図する内容を示している. ひきつ づ 4課に掲 げられ, さらに 「尋常小学読本」 からひきついだ 「神武天皇」 の教 いて, 勅語奉答の歌が2 材が, わが国の皇統の連綿たる歴史を説いて, 第五巻の巻を閉じる構成になっ ているものである, 地域的な教材を教科書に採用し, 尊王愛国の気風を 振興せんとしたものに 「波之上宮」(巻五) が 3年1月に, 「該県ニ於テハ 未タ社格ヲ与ヘシモノ無之該宮祭神伊弊 ある, 一体, 波上宮は, 明治 2 再尊速玉男尊事解男尊三柱ノ・軌レモ皇国顕著ノ神霊ニテ官祭ノ盛典ニ預ラハ人民ノ方向ヲ指南シ尊 主愛国ノ気風ヲ 振興セシメ施政上必要之事ニ 有之就テハ 北海道庁札幌神社ノ例ニ準シ此回波上宮ヲ 」ということで官幣小社に列せられ, 各学校の教員生徒をも加えて, リセラレ候様致度(“) 官幣小社ニリ 盛大な式典が行なわれたものである が, 上のような教化的意図を, 一層組織的に実現しようとした の が, こ の 「波 之 上宮」 であ っ た と い え る,. 毎年五月十 七日には, 沖縄県下の小学校, 皆其業を休む, これは波之上宮の祭日なるが故なり.. 波 之 上 宮 は, … … い ざな み の み こ と, は や た ま の を の み こ と, こ と さ か の を の み こ と の 三 神 を 祭 れ る 社 な り … … 見よ, 生 徒 の ー た い は, 教 師 の が う れ い に 従 ひ, 宮 の 前 に す ・ み て, は い れ い を. なさんとせり, 彼等は, 何処の生徒なるか, あれは, 首里, 那覇而区の, 学校生徒なるべし この種の教材は, 他の学年 でも, 多数の掲載をみており, 特に注目す べき事例のみをひろいあ げ てみても, 「日本」(巻三) , 「今上天皇」 ,「楠正成」(巻七) , 「天照大神」(巻 七) , 「児島高徳」(巻七). (巻八) などがある. これらのうち特に 「日本」 については, その原型ともいう べきものが 「尋常小学読本」(巻之-) にみられる. ところが, 両教材を比較 する時, 内容上に微妙な変化がみられ, その変化が, 沖縄県 用読本の生まれた政策的背景を端的に示しているといえそう である. まずもとの教材を示すことと 32.

(10) . 沖縄近代教育の特質. する. 吾等がうまれた日本は, 誠によいくに で, 其人かずは, 三千七百万人ほどで有ります, みやこ を 東京 と 云 ひ, こ )が天子さまのお住みなさる ) と こ ろ に て 大 きく に ぎや か な る こ と は, 日 本 一. であります. 日本は, じこうもよく, 地もよい故, 米茶などがよく でき, 又きいともたくさんに 取れます, 日本には, むかしより, かしこい人, つよい人, 其外名高い人が, たくさんにありま した, み な さ ん も, がく かう に て, 色々 の こ と を 習 ひ, ちゑ を み がき, か ら だ をつ よく し, よ き 人に な ら ね ば なり ま せ ぬ.. ここには, 割合に客観的な記述がみられ, 目標も, いわばかしこく, つよい 「よき人」 の育成に あっ た. ところが, つぎに 示す沖縄県用の教材には, 独善的, 武力崇拝的傾向がみられ, 日清戦争 後の時代の反映がみられるとともに, いわゆる 「日清両属」 の特異な歴史を有するこの 地域に対す る政府の特別な配慮が読み とれるものである.. せ か い じ ゅ う に, 国 は たく さ ん あ り ま す が, わ が日 本 ほ ど, よ い 国 は どこ に も あ り ま せ ぬ.. 日本人は学もんもすぐれ, いくさにもつよく, そして人かずは四千四百万ほどあります.. 又 土 地 も ゆ た か に, き こ う も お だや か であ り ま す か ら, こ め, ち ゃ な ど がよ く でき, き い と も,. たくさんとれます……. 日 本 は, む か しか ら, か し こ い 人 や, つ よ い 人 が, 多く あ り ま す. こ と に き ん年, 支 那 と の い く さ に, か っ て か ら は, 日 本 人 の, す ぐれ て をる こ と が, せ か い ぢゅ う に, 知 れ わ た り ま し た.. われわれも, つとめは げんで, ますます, わが国を, さかんにするやう心がけねばなりませぬ. (圏点引用者) 日清戦争後の国家主義, 軍国主義の高揚をみごとに反映しているといえる, 日清戦争によっ て,. 従前県政への抵抗をもっ ぱらにしてきた旧支配者層の動きが鎮静に向かうなか で, ようやく教育へ の意欲が県民の間に高まる時期に, 県民にこのような教育が与えられたことは, 県民のその後の運 命を決定 づけたといえよう,. この種の教材のしめくくりともいう べきものが, 最終巻の最後に出てくる 「今上天皇」(20課・21 0課 で明治維新以来のわが国の歴史が要約され, つぎに21課にお 課) である. この教材は, まず2. いて, 明治22年の憲法発布と23年の教育勅語の漢発による天皇制国家体制の確立をあげ, そのな かで, 日清戦争という対外戦争に勝利をしめ,「進歩の速かなる」こと で世界各国を驚かせている「め でたき御世」 をたたえ, 国民的自覚を求めることで結びとしたものである. この教材は, 沖縄県用. 読本の教育目標をしめくくる役割を演じ, さらに沖縄県民教育のねらいを要約提示しているととも に, 日本近代教育の目的に通ずものを示しているといえる, これらの教材と一体の関係にあるものとして, 軍事関係の教材や武勇を鼓吹する教材が増加した. のも, 沖縄県用読本の一大特色をなしている, 先にあげた例の外にも, 「兵たい」(巻四) , 「日清戦 争」(巻八) などがあげられる. 興味深いことは, 「ワシントンの正直」(巻四) のように, 後にひろ く知られるようになっ た教材も, 当時その採用をめ ぐっ て意見の対立があり, 日本主義者の浜尾文. 相によっ て一旦は削除されていたのを世界主義者西園寺文相が復活させたと伝えられているの であ るが, 幼少期正直の美徳を示したとされるワシントンも, 後に 「えらい大将となっ て名を世界にあ. げた人であります,」 と軍人としての大成が強調されていること である. 読本巻四第四課の 「兵たい」 も, 注目すべき教材である, それは, この読本 発行の年 である明治 31年に, はじめて沖縄に徴兵令 が適用されたが, すでにその前から逃亡者が増加し, 清国への逃亡 1 3名にのぼっ たといわれる, あたかも, こ を含む逃亡失際者だけ でも31年以降34年ま での間に1 のような事態に対応するかのように, 「兵たい」 の結びは, 「力三さん, 我々も, はやく 大きくなっ 33.

(11) . 佐 竹 道 盛. て, 兵たいにならう ではありま せぬか.」 となっ ている. 徴兵の円滑な実 現が, 国家的要請であっ た の であ る.. さらに, 就学奨励がこの時期の政府およ び県当局の大きな関 心事 であっ たがそれが読本教材に 反 映して, 勧学を意図する ものが増している. 学校を無益なものとして勉学を怠っ ていた卯 太郎とい う少年が,落雷にあいあやうく 命を落すところを,日頃の教師の教え をよく守っ た友人の気転 によっ て救われ, それをきっ かけに学問に精進したという内容の, 読本巻六第 二課 「学問の益」 は, 「尋常 小学読本」 の類似の教材を, より簡潔に要約したもの で代表的な勧学の教 材である. 同種のものと して 「老人の話」(巻六第十四課) や 「友人の卒業を賀する文」(巻七第十八課) があげられる.. ところで, 沖縄県用読本の編者が最 も力を注いだのは, 本土との一体感を育てることにあっ たよ う である. この種の教 材としては, 先にあげたものの外に も, 「那覇」(巻七) , 「東 , 「舜天」(巻七) べきは 古来広く流布した為 京の叔父によ する文」(巻八) などがあげられる. なか でも特に注目す , 二 「 同 」( 源為朝 朝伝説をとりあげた 「源為朝, 一」(巻六, 第十六課) , 第十七課) および 「舜 , , 天」(巻七第四課) である. 浦添ニ成長シ, 十五歳ノ時, 其 舜天ノ・ , 源為朝ノ子ニシテ, 名ヲ尊敦ト云ヘリ. 母ニ従ツテ, 地 ノ 人々 ニ オ サ レ テ, 領 主 トナ レ リ.. 父為朝, 沖縄ヲ去りシヨリ, 首里城ハ, 他人ノ手ニ帰シタリシ ガ, 尊敦ノ・ , 之ヲ遺恨ニ思ヒ, 同 志 ヲ 集 メ テ, 義 兵 ラ ア ゲ… … 是 ヨ リ, 尊 敦 ハ, 人々 ニイ タ ゞカレテ, 沖縄ノ島主トナリ, 仁徳 ヲ 施 シ, 風 俗 ヲ 正 シ, 又 い ろ は が な ヲ 教 ヘ ヒ ロ ム ルナ ド, 深 ク 心 ヲ 政 事 ニ用 ヒ タ リ. カ クテ, 島 内 ヨ ク 治 マ リ, 民 ノ 生 活 ユ タ カ ニ ナ リ シカ バ, 後 世, 舜 天 ト 称 シ テ, 之 ヲ 祭 ルニ 至 レ リ.. 為朝伝説によっ て一体化をはかろうとしたことが明らか であるが, 舜天王統の創始者舜天王 (尊 敦) は, 天皇制国家体制に 適合するよう, 島主と呼ばれるように なり ている. さらに, 中国から蕃藷をもち帰り, 沖縄全土に広め, その後全国的な伝播の基を開くという 全国 的な功績を残した郷土出身の野国総官を紹介したのが,「蕃藷大主」 の教材 であり, 一体感の養成を ねらっ たものとみられる. そのほかに, その徳行の故に聖人の聞えたかく, 郷党の尊敬を集め, わ が国にはじめて 『六論街義』 をもたらしたことで知られた久米村出身の程順則 (名護親方龍文) の 徳行を紹介する「名 ご順則が鶏を助 けた話」も同様のねらいをもっ ているといえよう.これらの人々 は, いずれもその功 績や徳行によ っ て県民の間に深い尊崇を集めていた人物であり, 彼らを, 豊臣 秀吉のような英雄, 楠正成のような 「忠臣」 と並べて教材化することは, 顕彰の効果があり, 人心 収撹の効果をおさめ, 一体化に役立っ たとみられるの である, 1 1 1 , 沖縄教育をめ ぐる在野的展望 ( ) 明治前期 - 啓蒙教育推進論 1 政府の沖縄教育政策をめ ぐっ て提起された教育意見を, 教育雑誌によっ て明らかにし, 国民の側 で沖縄教育に関して どのような方向が展望されていたのかを検討していくのが本章の課題である.. L ゞ性開発主義の普及を意 明治前期における, このような教育意見としてわれわれは, 後に普及舎 ( ′ 4 2 )する) 舎主となっ た辻敬之 (1851-18 味( 92) のそれをとりあげたい. 辻は, 置県前の明治10年に, 内務省に沖縄に学校を建設するよう建議し, さらにその趣旨を同省. 大書記官松田道之に 説明している, この時の建議およ び談話の要旨は辻自身の伝えるところによる と 次 の と お り であ る. 34.

(12) . 沖縄近代教育の特質. 島民ノ頑然両属ヲ固守スル所以ノ者ハ, 名分ノ如何ヲ暁ラ ザ ルニ因ル, 名分ノ如何ヲ暁ラザル ハ, 宇内ノ大勢ニ通ゼザルニ因ル, 字内ノ大勢ニ通ゼザルモノハ, 元普通ノ学ヲ知ラザルニ因 ル, 是し其愚固ニ欄ムベクシテ, 悪ム可ラザルナリ, 之ラシテ名分ノ如何ヲ暁リ, 以テー国ノ両属ス. 4 3 )… ・ 可・ラ ザ ルラ知 ラ シ メ ン ト ス レ バ, 宜 ク 早 ク 学 校 ヲ 設 ケ, 以 テ 其 蒙 昧 ヲ 開 ク コ トラ 務 ム ベ シ(. これは, 名分論にもとづいて, 学校教育による県民の啓蒙の必要性を説いたものであっ たが, 辻 の生涯からみても, 単に国家意志の伝達のための教育の組織化を説いたもの でないことは明らか で ある. 辻は後に千葉県師範学校の教諭となるが, その時にもなお, 一 民間人の姿勢をつらぬき, そ の独創的な資質を地域の教育事業の発展のために用いており, その後彼が行なっ た各種の教育事業 はすべて-私人の立場 でなされているからである. 地域住民の間に身を置き, そこからその独創と. 忍耐と勉励によっ て教育の事業の展開をはかる姿勢が, たとえば「かなの会」「通信教授法」 , 「盈進 4 4 ( ) 社」 等々 の事業に明らかである . ともあれ当時としては, 大方の意見が時期尚早論に傾いていた 時期に, 「其愚固ニ欄ムヘクシテ, 悪ム可ラ」 ずとして自ら現地に赴き, 教育に当ることを前提にし. て提起された上記の建議は, 教育組織化の役割を行政当局に求めながらも, 彼自身独立の個人とし て県民にかかわっ ていこうとする姿勢が明らか である.. 辻の建議が提起された経緯と彼のその後の活動をあとづけてみよう. 辻は元熊本藩士 で, 明治5 年志を立てて上京, しばらく勉学に従事したが, 「此時, 偶ま琉球の問題起る. 君慨然として, 同島. に教育を普及せしめて, 島民に日本的思想を養成せんことを企てたり, 然れども之を為すには, 己 れ先づ教育家たるの資格を備へ ざるべからずと信じ, 明治八年東京師範学校に入学せり」 という経 緯で教育家としての第一歩をまず沖縄とのかかわりのなかで踏み出したのであっ た. その間 「在学. 中, 専ら琉球島の人情, 風俗, 及言語等を取調べ, 又同学岩橋元柔氏と共に同島に学校設立の方策 5 4 )研究」 し その結果 「学校建設ノ事ヲ内務省ニ建議」「且親ク同省大書記官松田道之君ニ見ヘ を{ , , 4 6 )得」 たというのが 先の建議に至る経緯 であっ た テ, 之ヲ綾述スル事ヲ( , ,. 明治1 0年に東京師範学校を卒業した辻は千葉県師範学校に奉職するが, その間「暇アレ バ則チ東 4 7 〉 京ニ赴キ, 琉球藩邸ニ就キ, 島人ト親切面膳シ, 間フニ該島ノ事情ヲ以テ( 」 する熱心な研究が続 2年廃藩置県が断行さ れ, 初代県令に鍋島直彬が就任すると,辻は宿志実 いたの であっ た, その後,1 現の好機を見てとっ たのであろう, 県令に面会を申し入れたが, 再三にわたり執事の拒絶にあい, ついに書面を以て, その宿望を県令に伝えたのであっ た. 辻は書簡の末尾を,「閣下其愚衷ヲ憐ミ敬. 之ラシテ元柔等ト同ク, 堀親ラ同島ニ赴キ, 以テ島民ヲ教育シ, 以テ 風恩ノ万一ニ報ズルコトラ得 セシメヨ, 仰望ノ切ナル, 唐突此ニ至ル, 惟閣下之ヲ裁度セョ, 敬之誠恐誠樵, 頓首再拝, (明治十 4 8 )と 結 ん でいる 二年 五月)」{ .. このように辻の説くところは, 単なる意見にとどまらず, その生き方にかかわるもの であっ た. しかし,辻の望みはついに達せられなかっ たよう である.辻はその後教科書々騨の経営者として大を 4 9 )っ た 奇しき緑というべきか なし,その出版にかかる教科書が沖縄県の教科書目を飾ることにな{ , . 6 0 )の) の雑誌教育時論は 同県教師 なおそのほか彼の経営する開発社 ( ′ふ性開発の文字を取ったも( , にも愛読され, 同誌は辻の影響で、 しばしば沖縄教育を論じたのである, 2 ( ) 明治後期 一 辺防特別教育推進論 沖縄の教育をめ ぐる辻敬之の主張と行動のなかには, 国家による上からの組織化と下からの自主. 的な参画の調和の可能性を信じる姿勢がうかがえるが, 明治後期, とくに天皇制国家体制の確立期 0年代の教育雑誌の沖縄教育論には,この地域が国防上きわめて重要な位置をしめること にあたる2 35.

(13) . 佐. 竹. 道. 盛. から, 国家の手によっ て上から特別な教育を推進していくべき であるとする主張が支配的となる. 5 1 }雑誌 「教育時論」 の辺 われわれはこのような主張の代表的なものを辻敬之の影響を強く受けた( 防特別教育論にみることができる, 「教育時論」 によれば, 辺防特別教育とは, 「最国家ノ保安ニ関 6 2 ) すなわち 「隠岐 対馬 沖縄 小笠原島及北海道 係アル土地ニツキテ, 特別ノ制ヲ布」 く教育{ , , , , ノー部分等ニ施スベキモノニシテ, 専ラ辺防ニ備フル教育法」 であっ て, それが必要なのは, 「是等. ノ地方ニアリテハ更ニ国民タルヘキ己ノ本分ヲ解セズ,往々両属ノ意志ヲ懐クモノ無キラ保シ難シ. 然ルニ一朝事アルノ日ニ方リ, 外題ノ衝ニ当ルハ, 此無智ノ国民ヲ棲息セシムル辺睡ノ地ニ外ナラ 5 3 ) ズシテ頗危殆{ 」 だからであるとされる. ここには, 辻敬之の啓蒙的な発想はみられず, 国家保安 の見地に立っ て, 「無智ノ国民」 に上から特別の 「教育」 を施していくという姿勢が貫かれている の であ る.. ここに沖縄の教育は, 北海道その他の地域の教育とともに軍事とのかかわりにおいて把握され, 軍備を補充する教化の機能を期待されるようになっ たの である. しからば, この特別教育の内容は どんなものであろうか.「教育時論」 によれば, その第1は言語. の教養 である.言語の教養が必要となるのは, 「国民ノ言語ガ一国ノ保安ヲ維持スルニ大関係ア ル」 ため, 「国内同一ノ言語ト為サザル可カラ」 ざるが故 である, こう して, 「之ヲ改ムルコト, 小学児童ヲ以テ始メトセザルラ得ズ. 故ニ小学教育中。 国語科ノ教. 授ノ・此等地方ニ於テ, 全ク内地ノ小学ニ於ケル者ト異ナラザルラ得」 ざることとなるのである. な おその際, 小学読本は, 特別な種類のものを編纂すべきことが説かれるのであるが, この構想が後 に 日中縄県用尋常小学読本」 となっ て実現したことは前述のとおり である. 第2の内容は, 「風俗ノ. 異同ヨリシテ, 往々両属ノ意ヲ抱ク」 に至らしめる, その風俗の改良 であっ て, 具体的には服装と 頭髪があげられるの である. さらに第3の内容として 「辺睡ノ教育中最大切ナル」 徳性の滋養があ 4 5 ) げられ,「辺睡ノ地 ガ未ダ王化ニ摺ハ ズシテ, 尊王愛国ノ情ニ乏( 」しいことが理由としてあげられ ている. しかも, このような教育は, 「特別ノ土地ニシテ国家ノ治安ニ関係アルモノハ, 其根祇マデ 5 5 } 干渉{ 」 して行なう干渉主義が主張されたの である. このように, 辺防特別教育論は, 置県以来この時ま でに国およ び県が実施して来た同化教育を総. 括し, さらに特別の小学読本を編纂することなど, 後に政府が実施する施策をあらかじめ示すよう な主張になっ ており, ここに官民の沖縄教育をめくる方針は--体化していることが知られるの であ る. しかも, 教育時論の主張は, 「吾等が辺島教育の急要を唱へ, 之が教育の精神と方法とを論ぜし. こと, 音に-再に止まらず. …・二十三年の春, 本誌の社説に於て, 『画一教育法の利害』 と云へる 題を掲げて, 其趣旨を切論せしこと三回, 又二十五年の秋, 同社説に於て, 『特別の制度を施行すべ し』 と云へる題を掲 げて, 其卑見を開陳せしこと, 又三回に及 び, 其他, 機に触れ時に応じて, 辺 6 6 ) 島教育の事を述べしこと, 前後幾回なるを知らず( 」 というように一貫したもの であっ た. 同様な 5 7 { ) 趣旨の主張は, 雑誌 「教育報知」 でも, 「島晩教育 」 の題 でしばしば強調されたものであっ た. こ. う した主張はさらに, 「琉球は勿論, 総べて新版図には, 純然たる明治の日本を作り, 明治の日本の 5 8 } 摸標たるものに之をなし, 内地の固順者をして, 見て以て紐泥たしむるが如きものとせん{ 」 とい. う方向を志向していくの である. 明治30年代には, このような方向 で実践された沖縄教育の成果を 積極的に評価し, その成果を台湾教育およ び 「内地」 教育に生かすべしとの主張が教育雑誌にあら われるが, 本稿 では割愛せ ざるを得ない.. 36.

(14) . 沖縄近代教育の特質 む. す. び. 沖縄の近代教育は, 旧慣温存政策のもと で, 成規外処分の方針によっ て 税制 地方制度の旧慣 , , と県民同化のための同化教育を結合する構造をもっ て発足した このような沖縄教育 の構造はほぼ . 明治前期にわたっ て維持されていった.. 旧慣税制と結合する 教育は, ともすればその量的 質的発展を阻害さ れるものになっ ていく の で あっ た. そこに明治前期を通じて, 沖縄教育が模索をつ づけた理由があっ たのである ところ で . , 政府および県当局は, 明治25年勅令第40号および明治26年沖縄県訓令第1 31号によっ て,1日贋温 存下の特殊事情を考慮しつつ, 忠君愛国の気力を振起し国家の良民を育成する沖縄教育の強力な推 進の方針をとっ ていっ た. こうして, 明治31年以 降, 沖縄県民は 「沖縄県用尋常小学読本」 による 特例的で強力な同化教育を受けることとなったのである 「沖縄県用尋常小学読本」は 「日清両属」 . , 思想の排除と忠勇なる臣民教化のための教材を集約した構成によっ て県民の形成に大きな影響を残 し て い っ た も の と み ら れ る.. 一方, 民間 でも, 明治20年代以降辺防特別教育推進論が盛んとなり 国防の見地にたっ て沖縄な , ど特殊な地域に尊王愛国の念に富み, 進んで外題の衝に当る臣民育成のための特別教育を実施する. ことを主張する動きが高まっ ていった. こう して, 明治後期には 官民一体による同化 教育が 忠 , , 勇なる県民の形成をめ ざして強力に推進された, しかも, そこには旧慣と同化教育施策の両面にわ たっ て終始特例的な構成がみられるものであったのである . 〈注〉. (1) 拙稿「明治期の県政と教育」G中縄文化第4 2号 昭和49年 沖縄文化協会) 同「近代教育組織化の財政方 策」(教育学研究集録第14薬 昭和49年 東京教育大学大学院教育学研究科) 参照 (2) 拙稿 「明治期の県政と教育」 参照 (3) 明治文化資料叢書 第4巻 1 04頁 (4) 那覇尋常高等小学校開校四十年記念誌 昭和3年7頁 (5) 同上 7-8頁 (6) 沖縄県史第14巻・資料編4 4 3頁 1 9 96 5年 (7) 沖縄県学校費金学資金ノ件 40 15頁 沖縄県史第1 9一4 2巻・資料編2 1 9 6 6年 (8) 拙稿 「近代教育組織化の財政方策」 参照 (9) ,沖縄県学事年報 2 35頁 文部省第7年報附録 明治1 3年 (1 ) 沖縄県学事施設上当分適宜ニ処分ス 太政類典 (国立公文書館所蔵) 0 (1 1 ) 沖縄県日誌 明治1 4年6月 9日 3 09頁 沖縄県史第1 1巻・資料編1 1 5年 96 (1 2 ) 沖縄県地方役場吏員更正セサル件 7 88-8 1 3頁 沖縄県史第1 2巻・資料編2 (1 3 ) 沖縄教育第31号 1頁 明治4 1年9月1 5日 (14 ) 西村捨三著 御祭草紙 (自伝) 47頁 明治4 1年 (15 ) 沖縄県々治施政ノ方法経費予算増額ノ件 39 5一4 00頁 沖縄県史第1 3巻. 資料編3 1 9 6 6年 (1 6 ) 島尻郡初等教育沿革 5頁 沖縄教育第31号 (17 ) 官報第264 8号 3 1 7-31 8頁 明治25年4月 29 日 ) 沖縄県教育施設の訓令 2 (1 8 2頁 教育報知第3 99号 明治2 6年1 0月 28 日(以下, 報知 明治2 6年,1 0 ,28 のように略する.) (1 9 ) それは, 明治20年代末期に起った沖縄県尋常中学校の英語科廃止をめぐる在学生徒およびジャーナリズム と県当局の対抗によくあらわれている.(伊波普猷 中学時代の思出 伊波普猷全集第7巻 平凡社 36 6頁参 照) (20 ) 勅令第19号沖縄県区制 8 7一96頁 官報第3 8 04号 明治2 9年3月 7日 (21 ) 勅令第1 3号 8 5頁 官報第38 04号 明治2 9年3月 7 日 (22 ) 勅令第56号沖縄県間切島吏員規程 49 6-4 9 8頁 官報第4 1 2 0号 明治3 0年3月3 1日 37.

(15) . 佐 竹 道 盛 2月 22 日 1年1 64 5号 明治3 9 3-294頁 官報第4 2号沖縄県間切島規程 2 5 (2 3) 勅令第3 1頁 (24 ) 沖縄県史第13巻・資料編3 69 9%) となっている. 7 (25 ) 文部省年報によれば, 明治40年の学齢就学率は, 全国 (9 , 沖縄 (95 .1 . 38%) 2 1 9 0 ) 森文部大臣沖縄巡視の景況 報知 明治2. . (26 2 0 ) 沖縄県来信 報知 明治20 (27 .1 ,1 4頁 昭和3年 ) 那覇尋常高等小学校開校四十年記念誌 10 (28 5年巻31 国立公文書館所蔵 6編 学事門学制 小学校明治2 (29 ) 公文類衆第1 0頁 ) 沖縄県史第12巻・資料編2 41 (30 3年 2 4頁 文部省第8年報 明治1 3-4 (31 ) 沖縄県年報 42 05頁 (32 ) 沖縄県史第12巻・資料編2 8 1頁 ÷ ÷ ÷1 (33 ) 那覇尋常高等小学校開校四十年記念誌 10 5頁 (34 ) 同上 1 0 2 0 (35) 沖縄来信報知第96号 明治20 .1 ,1 ) 那覇尋常高等小学校開校四十年記念誌 37頁 (36 2 ) 同上 20一2 (37 0年3月 9日 緒言 ) 沖縄県用尋常小学読本巻一 明治3 (38 (3 9) 沖縄県用尋常小学読本全8巻は, 北海道用尋常小学読本全8巻とともに, 東京教育大学附属図書館所蔵のも のを使用して分析した. 53頁 ) 海後宗臣監修 日本近代教育史事典 2 (40 6 0頁 8-5 3巻・資料編3 55 リセラル 沖縄県史第1 1 ) 那覇鎮座波上宮ヲ官幣小社ニダ (4 (42 ) 二十年の昔 8 7 8頁 文学博士三宅米吉著述集下巻 昭和4年 68 5年9月 25日(以下, 時論2 68号 明治2 (4 ) 特別の教育制度を施行すべし(一) 5-6頁 教育時論第2 3 , 明治25 . 9, 25のように略す) 5 ) がある. 5 (44 ) 辻の生涯について記したものに, 「辻敬之君逝けり」(時論264 , 明治2 , 8. 1 (45 ) 時論 (同上) (46 ) 時 論 268 ,・明 治 25 . 9. 25 5頁 7 ) (48 ) 同上 6-7頁 (4 1一2 2頁 1頁および同2 9 (4 ) 那覇尋常高等小学校開校四十年記念誌 1 8頁 文学博士三宅米吉著述集下巻 昭和4年 (50 ) 二十年の昔 87 1) 辻は開発社社主であり, 教育時論が辻の影響で沖縄教育の問題をとりあげるようになったことについては, (5 同誌 、の社説がしばしばふれている. 3 5 (5 2 ) 画一教育法ノ利害 (一) 7頁 時論17 , 明治2 , 2. 25 3 7 6 (5 3 ) 画一教育法ノ利害 (二) 5-6頁 時論1 , 明治2 . 3. 5 77 4 ) 画一教育法ノ利害 (三) 5-6頁 時論1 (5 , 明治23 . 3. 15 頁 治 2 3 2 2 5 6 明 (55 ) 時 論 175 , . , 1 (56 ) 辺島教育の急要 6頁 時論45 , 明治30 .5 . 10 8 2 ) 6 8 明治2 (57 ) たとえば,「島襖の教育」(報知35 , 明治28 .1 ,「島襖教育の方法覚に奈何」(報知45 , . .25 26) な どがある,. 3 明治3 0 (58 ) 何ぞ国性化を勉めざる 5頁 時論44 . 8. 5. 38. (本学助教授・函館分校).

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参照

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