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南洋協会台湾支部と台湾総督府

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Academic year: 2021

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(1)南洋協会台湾支部と台湾総督府 横井香織 はじめに.  台湾では,大正初期から昭和10年代にかけて,台湾総督府を中心とした「南洋」調査 が行われた。その調査活動は,日本「内地」の大正「南進」ブームが去った後もなお着々 と進められ,「南進」のための基礎データを蓄積することになった。特に民間団体である 台湾銀行と南洋協会の果たした役割は大きく,台湾において充実した「南洋」一曹が継続. 的に行われたのは,それが官民一群となった組織的な調査活動であったからに他ならな い。そこで本稿では南洋協会台湾支部を取り上げ,その活動と成果を明らかにするととも に,台湾総督府との関係がどのように形成され維持されていたのかを考察したい。. 1.南洋協会台湾支部の設立経緯  南洋協会は,1912(T1)年に,台湾総督府民政長官だった内田嘉吉とシンガポールでゴ ム園開拓に従事していた井上雅二が出会い,南洋懇談会を発足させたことに始まる1。 1914(T3)年,第一次世界大戦を契機として南洋への関心が高まり,南洋に関する代表的 文化機関として南洋協会を特設する話がまとまった2。そしてその翌年1月,井上雅二, 井上敬次郎,早川千吉郎,小川平吉,内田嘉吉,郷隆三郎の6名が協議して,同月30日 には南洋協会発起人創立総会が開催されたのである。この席で内田嘉吉は,次のように述 べた。.   本会は前述の如き見地に立って創立されたるものにして決して何等政治的:意味を有   せず,従って政党政派には何等の関係をも有せざるなり,又本会は直接に事業を経   陣するものにもあらず,唯一に広漠たる百万方哩の南洋諸島に於ける無限の資源を.   調査研究して之を邦人に紹介し彼我の事情を疏通し以て帝国の発展に資せんとする   に外ならず云々3。.  この内田の報告にもあるように,南洋協会は政治的意図を持たない,調査研究機関とし. て発足した。70余名の発起人を得て始動した南洋協会の創立事務所は,便宜上一時台湾 総督府東京出張所内に設置された。また,協会役員の選出に関しては,創立総会において 副会頭に内田嘉吉が選出されただけで,会頭1名と副会頭もう1名は内田に一任された。 後日選出された役員は,初代会頭に芳川顯正4,副会頭に吉川重吉であった。一方,時 の台湾総督府民政長官でもあった内田は,南洋協会発足から7ヵ月後の8月に,台湾にお いて南洋への関わりが深い松岡富雄5,川上瀧弥6,東郷実7らと協議の結果,南洋協会台 湾支部の設置を決定した。1916(T5)年,「領台」20年記念勧業共進会を機として,南洋協. 会台湾支部は支部発会式・第一回総会を開催した。支部長には内田の後任である下村宏民 政長官が就任し8,当日出席した諸氏30余名が入会した。その後,台湾において協会員 として入会するものは100名にも及んだ。  以上のように南洋協会の設立には,内田嘉吉が深く関わりを持っていた。彼は民政長官 として台湾に赴任する以前に拓殖局第一部長を歴任しており,植民地行政のプロであっ た。また,第一次大戦によって南洋群島を領有した日本が俄かに南洋への関心を高めた時 期に,彼は台湾総督府民政長官というポストにいた。つまり内田は,日本の南進を考えて. 一44一.

(2) いくにあたって台湾総督府と南洋協会という官民両方の活躍の場を持つことができたので. ある。彼は「大正南進期」において,官民一体の調査活動を進めていく上でのキー・パ ーソンであった。. 2.南洋協会の事業と台湾支部の存在意義  (1)南洋協会の事業.  南洋協会の事:業内容は,創立当初,以下のように決められていた9。.   ①南洋における産業,制度,社会その他各般の事情を調査すること   ②南洋の事情を本邦に紹介すること   ③本邦の事情を南洋に紹介すること   ④南洋事業に必要なる人物を養成すること.   ⑤本邦の医術技芸その他学術の普及を計ること   ⑥雑誌その他出版物を発刊すること   ⑦講演会を開くこと   ⑧南洋博物館及び同図書館を設くること   ⑨その他必要事項  南洋協会は,これらの事業を着実に実行していった。南洋協会の調査機関としては, まず本部に調査編纂部が設置され(1917),次いでシンガポール,ジャワ,フィリピン, スマトラ,仏領インドシナ,タイ,ビルマ,ボルネオなどに順次調査通信嘱託を常置した。. また,台湾,シンガポール,ジャワ,南洋群島,マニラ,ダバオ,スマトラなどに支部を 置いて,「南洋」各方面の調査や商取引の斡旋を行った。「南洋」調査の成果は,雑誌『南 洋協会会報』(後に『南洋協会雑誌藝『南洋』と改題)『南洋研究叢書』という出版物や,. 講演会・講習会という形で発表された。.  もう一つ南洋協会の特色ある事業に,商品陳列所の経営がある。これは南洋協会が商 工省の委嘱を受け,主として商品見本や参考品の陳列,商品の鑑定,商取引や企業の紹介 仲介,南洋特産物の収集,南洋の制度産業貿易などの調査・報告・助言などを行うために 設置されたものである。最初の陳列所は1918(T7)年にシンガポールに設置され,その後 ジャワのスラバヤ,バタビアとスマトラのメダンにも設けられた。ここでは日本各地の商 品が華僑をはじめ印僑や欧商,現地邦人に紹介され,また,日本から産業視察団や商工会 議所関係者,企業の代表などが陳列所を訪れた1。。このように民間レベルで南洋と日本 の貿易を奨励し,大正から昭和にかけて日本の経済的南進の推進力となったことは注目に 値する。.  以上のような南洋に関わる広範な事業を手がけていた南洋協会は,図1に示したよう に昭和期にかけて会員数を増やし,最盛期には約1500名に達した。この会員数の推移か ら次の2点を指摘できる。まず第1は,南洋協会創立当初から会を支えていたのは本部と. 共に台湾支部であったことである。グラフからわかるように台湾支部では1915年から 1916年にかけて会員数を急激に増やし,1916年には本部会員よりも台湾支部会員の方が 上回っている。その後も昭和初期まで,多少の増減はあるものの本部と共に台湾支部の会 員が,南洋協会の活動を支えていたと見てよいだろう。第2に,昭和期には「南洋」各地 に支部が設置されて会の活動範囲が「南洋」全域に広がったということである。南洋協会 では,本部,台湾支部に次いでシンガポール支部,ジャワ支部が発足した。後に関西支部. 一45一.

(3) や棄海支部が国内に設置されるが,それよりもまず「南洋」現地に支部を発足させて職員 を常駐し,出張や視察では得られない情報を収集しようとしたと見て取れる。台湾支部の 会員数が徐々に減少した193◎年代において,協会を支えたのは「南洋」各地の「邦人」 だったのである。.  図互 南洋協会会員数の推移  轟典:r南洋協会二十年史lPP。243−244より作成.  このように会員数の推移から見ると,台湾支部は南洋協会創立時から昭和初期まで協 会の疑心支部として存在していたといえる。そこで,次に台湾支部が南洋協会の中でどの ような役割を果たしていたのかを述べたい。 (2)南洋協会台湾支部の役割について.  台湾支部の事業の中心は,講演会・語学講習会の開催と『南洋叢書』の刊行であった。 講演会は,1916(r5>年に東洋協会との共催で行った南洋視察団講演会を皮切りに,大正期. に/2回,昭和に入って/935年までに2G回開催された11。大正期の講演会の講師は台湾 総督府関係者や学者で,演題は南洋視察談が多かった.昭和期になると,演題はゴム栽培 事情,農業事情,水産業,経済事:情など経済,産業に関するものが増し,講師も農園主を. はじめ茶園支配人など「南洋」経験豊かな企業人が自立った。その一方で「南洋」の主要 な現地語の短期語学講習会が開催された12。/916年から1935年までにマレ∼語ユ1回,フ. ランス語4回,英語・オランダ語7回の講習会が台湾総督府を会場として行われ,東京外 国語学校出身者や台湾総督府関係者,台北高商教授などが講師として招かれた。参加者は,. たとえば第2同フランス語講習会(1926年7∼10月実施)の場合,初等科に99名,中等 科に40名,合計139名であった且3。. 一46一.

(4)  さらに台湾支部では,協会本部発行のr南洋研究叢書』とは別に,台湾支部単独で哺 洋叢書』を刊行した。これらはフィリピン,蘭領東インド,英領北ボルネオなど「南洋」. 各地の産業・金融・経済事情調査報告で,その多くは総督官房調査課の調査資料中,一般 に公開しても差支えないものを協会支部刊として編集したものであった。『南洋叢書』は. 5/巻にわたり,それ以外にも『二日辞典』や『比律賓史』などを1935年までに27冊刊行 した。.  このような台湾支部の事業は,南洋協会の支部の中では他に例を見ない。他の支部で は諸調査や講演会,商取引の斡旋は行われたものの,語学講習会や図書の刊行が行われる ことはなかった。つまり台湾支部は,南洋協会において本部に次ぐ位置に置かれ,シンガ ポール商品陳列所と共に現地の「南洋」関係事業のリーダーシップをとっていたとみてよ いだろう。この「民間」という,申央政府から制約を受けない立場での自由な「南洋」調 査や商取引斡旋などの「南洋」関係事業が,台湾総督府の経済的南進政策の強力な援護射 撃になったことはほぼ間違いない。. 3.南洋協会と台湾総督府の関係  南洋協会が「南洋」事業をすすめるにあたって,問題となるのは会の財政であった。 設立当初,通常会員から年額6円,賛助会員から1回50円の寄付を集めていたが,出張 調査の旅費や図書刊行費を支出することを考えると到底賄いきれる額ではなかった。この 資金難を解消したのは,台湾総督府からの補助金であった。台湾総督府の財政報告書には,. 南清及南洋貿易拡張費という名目があった。1914(T3)年からは南支那及南洋施設費とい う名称に改められ,その後1944年まで継続して支出された14。台湾総督府からの資金援 助があってはじめて南洋協会は事業を拡大していくことができたのである15。一方,総 督府にとっては,自らの名を表面に出さずに水面下から南洋協会を援助し,間接的に総督 府の主張を通すことができたのである16。.  このような南洋協会と台湾総督府との関係は,内田嘉吉,下村宏,田健治郎といった 官民両方の立場を合わせ持っていた人々の尽力によって成立し継続していた。南支南洋施 設費設立時の台湾総督府民政長官は内田嘉吉,そして内田から引き継いだ下村宏であっ た。内田は民政長官を退いた後も,10年あまり南洋協会の副会頭として「南洋」事業に 深く関わり,その間1923(T12)年には再び台湾総督という公の立場にも復帰した。下村は. 民政長官時代に南洋協会台湾支部長を兼任し,また,台湾総督を経験した田健治郎が 1924(T13)年には南洋協会会頭に就任した。こうした状況下で,資金援助とその援助に応 える形での「南洋」調査,「南洋」関係事業の実施という総督府と南洋協会の双方向的な 関係性が存在した。そして,事実上の共同出版に近い形での『南洋叢書』の刊行や講演会 講習会が,台湾を舞台に展開されたのである。つまり南洋協会は,協会独自の自由な調査 活動や経済活動をしていたわけではなく,総督府が眠」という看板で間接的に主張を通 すことのできた団体だったといえる。 おわりに.  台湾における「南洋」調査活動の実態についての研究は,どちらかというと未開拓の 研究領域である。本稿で紹介した南洋協会の紹介はその小さな1コマでしかない。南洋 協会についてはシンガポール商品陳列所の事業や「南洋」各地に設置された支部の活動,. 一47一.

(5) 商業実習生や南洋学院に関することなど,まだ検討しなければならない課題を多く残して いる。今後はこれらの課題と共に,台北高等商業学校や台湾鋤テなどの調査活動の詳細を 明らかにする中で,日本の南進政策における台湾の果たした役割を「南洋」調査という観 点から問い直していきたいと考えている。. 1 この懇談会を母体にして,大正2年にはいったん南洋協会が設立された。しかし資金難のため  解散した。この最初の南洋協会に関してはほとんど何も明らかになっていない。 (矢野暢「大正  期『南進論』の特質」東南アジア研究,16−1). 2 南洋協会編『南洋協会二十年史』1935p.2 3 南洋協会編『南洋協会二十年史』1935p.4 4 のちに田健治郎にかわった。(前掲『南洋協会二十年史』) 5 台湾新聞社長であり,フィリピンで面白を経営していた。 (中村孝志「『大正南進期』と台湾」  『南方文化』8,1981所収) 6 台湾総督府殖産局技師。 (前掲「『大正南進期』と台湾」). 7 注6に同じ。 8 内田嘉吉は,佐久間総督に事前に了解を得ないまま南洋協会副会頭に就任したことで,総督の 心証を害し,直接的にはそれが原因ではないもののまもなく民政長官の職を辞した。しかし彼は,  1923(r12)年から再び総督として台湾に渡り,南洋協会副会頭と台湾総督という二足のわらじを  履いたのである。 (前掲「『大正南進期』と台湾」). 9 南洋協会編『南洋協会二十年史』正935pp.6−7 10たとえば1927(S2)年には第一回商品見本陳列会がシンガポール陳列所で開催され,静岡,名古  屋,京都方面の商品が出品された。 (『南洋協会雑誌』13−8 1927)また同年,静岡県浜松工業 試験場長ら一行や大阪府産業視察団が陳列所を訪問した。 (『南洋協会雑誌』13−11,121927)國 11. 苻p支部主催の講演会を以下に示す。 年朋. 回. 1. 2. 191661. 1917126・. 講 演 題 目. 講    師. 南洋視察の願序. 医学蹴 高木友枝. Aえられたる人柱. @   久留島武彦. ?mの将来. _学博士 新渡戸稲造. 南洋視察講演会. 縮府参事官片山秀太郎. 3. 191z拡14. 蒙古鶉に関する講演会. 日下陸鯵謀. 4. 19i&126. 米国見聞談. 大島理学士. Cン磁行談. m鯛文学士. 5. 1918522. 治山治水と森林利用. 東大教授 周繕太郎. 6. 1918530. 仏鎮印度支那の現在及将来に就いて. 本会仏印調査縮嘱託. @   横山正脩 7. 191a㎜. 南洋における無罪の概況. 平賀亮二. O島培. 踊洋視察談. 牛蜴Y業. タ西千賀夫. 8. 191隻5鍛. 南洋撹察談. 農学士 芳賀鍬五郎. 9. 1919幻. 掴と南洋との繍関係. 離協会 木村増太郎. 1919924. 労働の理想郷たる豪州. 縮府事務官 阿纏七. ?ォ地における教育状況. J府視学官田中友次郎 本会専務理事 井雛二. 10. 11. 11覆0ユ6. 台湾の使命. 12. 1%2. 南支離の園芸. 櫻井芳次郎. 一48一.

(6) 13. 193D. 〈演題棚). 14. 193147. 離事情に就いて. 総督列挙局西 醐. 15. 1931,724. 献南洋事清. 拓務省嘱託 吉田瀦. 16. 1931.8.13. スマトラ方面に於けるゴム栽培事情. (講師不明). 米国領事「リーツ. 玲D察談. 繩刪 17. 1931929.  吉田羊鋤. 時關題に就いて 浜田純一. ッ同. 苻p軍参謀 浦 澄江. 芒u醐授佐藤 佐 18. 193222. 昭献離巡航談. 昇等産局與儀喜宣. 19. ユ93234. 比律賓の農業漁業其の他の最近事情. 大阪バザー損森半吉. ッ セ田興業社員山本義秋 20. 1932,3ユ7. 二二モルッカス方面繍事情. 本会調査蝋江川俊治. 21. 1墜3λ425. 企業的方面より観たる水産業. 期漁業会社田村啓三. 22. 1932.52. 購賓独立問題に就いて. 23. 193Z720. 最近爪一軸溝情. 24. 11瀧.831. 台湾に於ける梛の栽培. 水越幸一. 華南銀行スマラン支店長. @    山蟻信 中央研究所技師荒木忠郎. ?m植民地に於ける園芸視察談. 杳V深思 25. 1933,328. 南洋における纏業について. 出自水産研究所. @   熊田與四郎 26. 1933.7.10. 霜枯見聞. 27. 1933ユω1. 爪二二台湾の二業. 茶園支配人へ一毒口ホーフェン. 28. 19冤3ユ。. 逞羅膿業. 遙羅農類範学校長. 29. 19墾.12.ll. 比島憲法会議に就いて. 駐マニラ副領事斎藤 彬. 30. 1935.18. 国際漫談. 医輔士 大内 恒. 19352皿. 蘭領印度の近況. 前スマラン台銀支店長. 前眠目躰人会長. @   河井禰. @インカシーカシカーン. 31. @   長谷川貞成 出典:r南洋協会二十年典より作成. 12マレー語講習会は1916年から1924年までの大正年間に11回開催された。講師は東京外国語学 校馬来語出身の上原籾蔵氏(1・2回)と台湾総督府工業学校教諭越智有氏(3∼11回)であった。.  フランス語講習会は,1925年から1928年までに4回実施され,講師は台湾総督官房調査課嘱託 板倉貞男氏と根津令一氏であった。英語・オランダ語講習会は,1928年から1935年までに7回 行われた。講師は台北高校長三澤糾氏,台湾総督府統計官原口竹次郎氏他6名が招かれた。(『南 洋協会二十年史』pp 337−338). 一49一.

(7) 13 @『南洋協会雑誌』ユ3−io王927 14 ?コ孝志「『大正南進期』と台湾」 (楠方文化』8 1981) 15 酷ツ府からの資金援助は南洋協会の運営に不可欠であった。大正11年度の本部趣旨決算書によ.  ると,台湾総督府からの補助金は35,000円で歳入総瀬49,034円の71%を占めた。(『南洋協会  雑言志』 9−7  1923). 16. ゚藤正己『総力戦と台湾』刀水書房 1996 p.110. 一50一.

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