鴻城立憲政党の成立過程(3) : 反民権派豪農の政治路線
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(2) . 第 20 巻 第 1 号. 北海道教育大学紀要(第一部B). 昭和44年7月. 鴻城立憲政党の成立過程 (3) -- 反民権派豪農の政治路線 -- 田. 村. 貞. 雄. 北海道教育大学釧路分校史学研究室. Sadao TAMUR fthe K0 o(鴨城) Ri j kken Party (No.3) ,A: Formation o. 次. 日 はしがき 第1章 吉富筒一の政治思想 第1節 幕末維新期の吉富箇一 第2節 自由民権論者との論争 (以上第1 } ミ 巻1号) 第3節 反民権派政治路線の形成 (第1 9巻. 第2章. 第2号) 第2章 鴇城立憲政党の成立 第1節 山口県における自由民権派の活動 第2節 潟城立憲政党の結成 (以上本号) 第3節 反民権派政治路線の確立 (次号寸易 載予定). 鴻城立憲政党の成立. 1881(明治14 ) 年10月 のいわゆる明治14年の政変は, 政治情勢を一変させた, すなわちこの政 変 によっ て90年を期 して国会開設が約束されるとともに, 政府部内の早期国会開設論者たる大隈 重信一派が追放されたの である, 国会開設運動の高揚, 開拓使官有物払下事件を めぐる世論の反 機を前に, 政府は薩長両藩閥の連携に よっ てこの政変を断行 し, プロシア的な専制的立憲制をめ ) ざす基本路線を確定 したのである1 . この政変とともに自由民権派は, 下野 した大隈一派も加えて急速に政党結成に向い, 自由党 , 立憲改進党が創立された. さらに政府支持 の立憲帝政党が創立され, 民権派と敵対 した .. 本章においては, 明治14年政変後なお自 由民権運動の昂揚が持続した時 期に, これと敵対した 吉富一派の動向, とくに鴨城立憲政党 の結成と防長新聞の創刊の事情を検討 してみたい. 1 ( ) 本稿 目ましがき」 註( 1 )参照. 第1節. 山口県における自由民権派の活動. 山口県における自由民権派の活動は, 微々たるものであった. 従来の研究もほとんどない, わ ずかに関順也氏が, 鴇城立憲改進党, 長防自由党, 親備党の三党の存在を指摘しておられるに過 ) 鴇城立憲改進党は鴨城立憲政党 の誤りであるが, 長防自由党は後述の先憂社の後身 で ぎない1 . あり, 親備党については不明である. ) )に 「自 由党員名簿」 には, 山口県の党員は1名とあり2 , 林茂氏作成の 「立憲改進党名簿」3 は, 6名 の氏名が掲載されているが, 彼らの具体的活動は研究されていない. なお最近小林茂氏が, この時期の防長協同会社の諸紛争のなかに, 自由民権運動の萌芽を見出 2- -3.
(3) . 鴇城立憲政党の成立過程(3) 5 )6 ) そうとされている4 , また, 地租改正反対運動と自由民権運動の接触も指摘されている ) ここではまず基礎的な事実の発掘からはじめたい,. 明治14年の政変以前の愛国社, 国会期成同 盟の活動期には, 山口県における自由民 権派の動向 は微々たるものであ っ た. 「自由党史」 その他から, 遊説・大会参加の状 況をみると, 78年4月 ) ) 愛国社再興の際の植木枝盛・栗原亮一の山陽・山陰遊説7 , 同年9月愛国社第1回大会8 , 79年. o 1 ) ) ) 3月 の同第2回大会9 , 同年11月 の同第3回大会l , とその直前の筑前共愛会の山陽遊説1 ,大 1 1 2 ) 3 ) 会後の立志社員弘田徹の遊説 , 80年3月 の同第4回大会 (国会期成同盟第1回大会) , 同年 4 ) 11月 の国会期成同盟第2回大会1 , があげられる, しかし, 愛国社第2回大会に参加者があった. こと, 弘田徹が 「東海道を巡歴 して長州に赴」 いたとされていること以外, 山ロ県からの参加ま たは同県への遊説を立証できない,. とくに80年の国会開設運動の高揚期には, 国会期成同盟への結集はみられず, わずかに厚狭郡 5 ) 過ぎない, 田口は, 士 の士族田口弥八 郎が元老院に対 し国会早期開設の建白を行なっ ているに1. 族就産所の総代人の一人らしく, 西南戦争後のイ ンフ レーショ ン下の士族 の窮乏を指摘し, 紙幣. 下落対策のために 「多数人民同心数力」 を期待 し, 国会の早期開設を要求 している. 5年創立の授産局の後身で, 総裁は木戸孝允, のち旧藩主毛利元徳であり, 資 士族就産所は, 7 6 ) 5万円をもっ て士族の就産・教育を援助した1 本金2 . 78年はじめて総代人が参集して第1回総会. 7 ) を開き, 利益 金の各郡区への分割を定めた1 , これは各郡区毎の士族の各種事業への援助を可能 1 8 ) 9 ) が金 公債を資本化した第百三および第百十国立銀行の創立 としたが, 上層士族 禄 , 義済堂1 ,セ 2 ) 1 ) など次々と新企業にのりだす 一方, 下層 0 メ ント製造会社 (のち小野田セメ ント) , 覇城会社2 士族は次第に金禄公債を手放 し窮乏化した,. 第1表 は大 島郡居住士族の生計取調書であるが, 金禄公債所有に関しては, 公債高・所持状況. 46名のうち, 36 の判明する1 ,3%が無禄もしくは売却者であり, 国立銀行出資株主, 起業公債 ・ 金禄公債購入者は, 圧倒的に 「現今所有」 者に集中している, また, 「生活難 し」「営業生活の目. 的な し」 が12名, 農業24名, その他 (庶業, 商業, 無税雑業, 養蚕, 酒類小売, 干温鈍製造と記 されているもの)14名, 教員1名, 官員2名, 巡査1名, 重禁鋼中1名がある. 士族の一部がプ 2 ) ロ レタ リ ア ー ト化 しつ つ あ る 状 況 が 窺 わ れ る2 , 第1表 人 現 今 所 有 一 部 売 却 全 部 売 却 禄 無 , 小. 計. 禄 高 不 明 記 載 ナ シ 合. 計. 員 93 旦 29 13 146. 金縁公債所有状況 (大島郡, 18 1月) 8 2年1. (%). 明 金禄公債 毛 利 家 不 銀行株主 起業公債 有 購 所 入 賞 典 禄 公債所持. 63 ,7. 16. 6. 5. 0. 2. 5. 0. 0. 0. 0. ,36 ,3. 0. 0. 0. 0. 0. 0. 0. 0. 0. 0. I. 0. 0. I. 0. 0. 0. I. 0. 0. 22. 6. 6. I. 2. 100. 5 66 216. ・. 1月士族生計取調書 (大島郡勧第3 1号) 勧業料」(山ロ県文書館所蔵) より作成 「明治15年1 銀行株主, 諸公債購入については, 重複がある.. 一 33 -.
(4) . 田. 村. 貞. 雄. 田口弥八郎は, 以上のような貧窮士族の立場から, 早期国会開設 を要 望したものと 考 え ら れ る. しか しそれが自由民権論への 思想的 ・接近であるかどうかは, 即断 しがたい,. 以上明治14年の政変以前の山口県民の動向を摘記 したが, 次に山口県議会の動向を見たい. 78年公布の府県会規則にもと づき, 79年県会が開設されたが, 山口県においてはそれ以前に二 種の代議機関が存 在したことはすでに述 べた, すなわち, 「県会」 ならびに協同会社 「社会」 が. 6年太政官布告第130号各区町村金穀公情共有 地方民会と しての機能を有 しており, 代議人は, 7 物取扱土木起功規則にもと づいて, 町村会一区会を通じての間接選挙によ っ て 撰 挙 さ れ て い た. その第一次選挙権は, 「男子二十才以上ノ 戸主ニ シテ該町村内二不動産ヲ有シ且其地二本籍 7年協同会社第4回 「社会」 における ヲ 定 ム ル 者」 に 付与されており, この公選制を基盤と し, 7. 地租引当米制の撤廃, 積金処分, 78年第5 回および第6回 「社会」 における修甫制度改革に着手 できたのであった, 吉富簡一らが, 功妙な議場戦術と, 独特の政治論によっ て結局ヘゲモニーを 掌握するとは云え県政反対闘争への一定の譲歩を行なわざるをえなかったのは, 山口県の地方民. 会の特殊な構成によることが多い. しかるに府県会規則は, 府県会の公認, 一定 の自 主性の許容と引き換えに, 納税額による制限. 選挙制を採用 したのであり, 明らかに退行現象であ った. このことは地方三新法全体についても 云い 得るのであ っ て, 大区, 小区の廃止と, 郡区 町村の新行 政区画の採用, 民費に代わる地方税 の賦課は, 一面では各府県 ごとにまちまちな諸制度を均質化, 画一化 しつつ, 他方では集権化, 官僚統制の強化を意味していた.. 山 口県においては, 従来の 「県会」 は廃止され, 新県会に移行 したが, 他方協同会社 「社会」 は存続 したから両者の選挙権者, 選挙方法の相異がやがて両者の対立を生みだすこと が予想され. た, 第2表によれば, 地租納入者の8 1 .6%が, 地租5円以下のため県会議員選挙権を奪われてお り( 「社会」 議員選挙権は従来通り) , 被選挙権をもつものに至っ ては, 地租10円以上の納税資格 第2表 郡区別地租上納人員一覧 5円以下 5 ~10円 10~30 大 玖 熊 都 佐 吉 厚 豊 美. 島 珂 毛. 10 ,020. 濃 波. 11 ,685. 敷 狭 浦 禰. 大 津 阿武・見島 赤 間. 関. 合. 計. 百分比(%). 24 ,074 13 ,021. 11 ,131 13 ,508 6 ,840. moo~ 500~ 30~50 50~loo mo~300300~5oo 1000 1500 合. 423. 130. 17. 9. 3. 0. 0. 0. 2 ,122 174. 943. 74. 36. 11. 0. 0. 0. 1,011 1 ,349. 2 ,196 2 ,543. 146. 55. 42. 9. 4. 0. 0. 817. 85. 45. 19. 3. 0. 1. 806. 127. 60. 24. 2. 0. 0. 2 .127 1 ,489. 214. 89. 26. 3. 1. 0. 99. 55. 19. 0. 1. 0. 1,032 625. 33. 15. 3. 0. 0. 0. 3 ,335. 2 ,887 1,685. 20. 8. 3. 1. 0. 0. 7 ,515 14 ,253. 1 ,044 2 ,738. 522. 37. 21. 8. 0. 1. 0. 718. 30. 14. 6. 0. 1. 0. 130. 80. 10. 3. 2. 1. 0. 0. 131 ,820 18 ,842. 9 ,435. 801. 367. 132. 14. 4. 1. 5 .9. 0 ,5. 0 ,2. 0 ,1. 0. 0. 0. 14 ,449. 1 ,689. 81 ,6. 11 .7. 10 ,602 27 ,260 13 ,990. 13 ,666 13,499 18 ,164 11,046 18 ,419. 5 ,677 9 ,148. 17 ,760. 1 ,915. 161 ,146. 1年1~12月) より作成 84年1月, 調査時期8 「山口県治一覧」(18 79頁所収の表と典拠は同一であるが, 表中のミス, 原表の誤りを訂 関順也氏著巽 捧政 『改革と明治維新』 1 3頁第18表参照のこと. 正したもの, なお田中彰氏著 『明治維新政治史研』 究14. - 34 -. 計.
(5) . 鴻城立憲政党の成立過程(3) によりわずか6 ,7%の者が有するに過ぎなかっ た. かく して中農以上を基盤とする県会と, 地租 納入者全員 を基盤 とする協同会社 「社会」 の相異は明らかであり, 事実80年代後半には両者の激 しい対立が現出 したのである.. 明治14年政変以前の山口県会, 協同会社の動向は, 吉富簡一らのヘゲモニー掌握に より, さし たる対立は醸成されてい ない, 吉富は県会議長さらに協同会社社長に当選 し, 縦横に手腕を ふる. っている. 彼が, 県会の内務省宛上申 や, 他府県会からの申入れをほとんど握りつぶ したことは, 3 ) からも明らかであろう. この時期の他府県からの申入れと し て さきに引用 した井上馨宛書翰2 は, 7 9年5月 ~6に行なわれた小西甚之助・桜井静らの府県会議員連合組織の提案, それを受け た同年8月 の岡山県会による山陽道諸県県会議員連合会設 立の提案などがあるが, 山口県 会はこ れを拒否 したのであろう, この運動は内藤正中氏によっ て県議指導の非愛国社路線と して評価さ 4 ) 山 口県 会 は こ れ に 応 じ な か っ た よ う で あ る れ た も の で あ る が,2 .. ただ町野周吉を中心とする大津郡民の闘争が継続されていることが 注目 される, 町 野 は, 79 年, 81年と2度県会議員に当選 しており, ただ一人の反対派議員と して活動 した, また7 9年11月 には, 「大津郡外六郡八拾二ヶ村四千三百六十七名惣代」 として, 東京警視本署に対し, 「諸修. 甫米金不正, 民費仕払不正, 馳走米延米仕払不正, 引当米仕払不正之御吟味願」 を提出, 元山口 県令中野梧一, 現県令関口隆吉, 元協同会社社長吉田右一, 前社長勝間 田稔, 現社長高須正輔, 5 2 ) 元第十九大区々長横山幾大の六名を訴えた. その後も町野らの地租引当米, 民費の不正糾弾がつ づけられているが, 町野は立憲改進党の沼 間守一と結びついた闘争を展開してゆく.. 以上のように, 明治十四年の政変に至るまでは, 吉富簡一が県会議長, 協同会社社長と して強 い指導性を発揮 してきたが, 82年初頭より新 しい情勢が生まれている, 6 ) 一つは協同会社内部から起こった吉富批判である2 , 吉富は82年9月 社長に就任 し, 経営を改 革して金融, 印刷の両事業にとり組んだが, 同年11月 活刷所の全焼, 種籾元米返還問題など苦境 に陥った, しかし県当局の援助, 猶予処分により次第に経営は好転 した.. ところで吉富の社長 就任に際し, 県庁の保護, 会社の解散およ び資本金分割の禁止, 利益金の. 資本金繰入れを 「社則」 に加えたが, これは協同会社が再び県庁の外廓金融機 関化 してゆくだけ であっ て, その自主性は形骸化 してゆく危険があ った,. 1回 「社会」 においては, 資本金が2 82年5月 の第1 5万円に達 した後は, 純益金を 町村浦 島に分 割することを 「社則」 に加え, 社長の任期3か年を2か年に短縮 して改選にもちこみ, 吉富は落. 選, 松田敏樹が新社長に就任 した, 純益金の配賦により町村協議費を補顛しようとする意見が大 勢を占めたのであろう. またこの時期と思われるが, 町野周吉が東京横浜毎日新聞・立憲改進党 の沼間守一に援助を依 頼し, 沼間は代言人亀山某を調査のため派遺 した. 亀山は各郡区役所, 戸長役場の帳簿類を調査 している, また町野らは代言人稲垣晩翠を東京から招き, 調査を依頼 し, 「常二各郡区ヨリーニ. 7 ) ・各郡区へ相集」 という騒然とした情勢が醸成されつつあっ た2 十人山口市中へ集合シ, 亦ノ . こう した協同会社の内部からの批判が, ついに吉富を社長から退任せ しめたが, 県会において ) 8 も 新 しい 動 向 が 生 ま れ て い る2 .. 第一に, 県当局が郡区為替方の設置と公文書逓送方法の改善を理由と して戸長役場費の削減を 予算案に計上 したのに対し, 常置委員会は逆に約1万円の増額案を作成 し, さらに82年3月 の通 常会は若干の上積みを行なった.. 一 35 -.
(6) . 田. 村. 貞 , 雄. これは, 80年通常会における戸長役場費の半減とは全く異なっ た傾向である, 増額論は次のよ うに町村協議費との関連で主張されている. 「戸長役場費ヲ昨年通二復ス トノ ・実二穏当ノ説ナリ, 回顧ス レハ十三年度二之ヲ半額 トシ,. 叉当年度二壱万円ヲ減少セリ, 一町村約四五拾円ノ 減額二当 レリ而 シテ之ヲ協議費二負担セ シムルハ甚夕面白カラス協議費ハ月 二日二増額シ 学務委員叉衛生委員ノ給料等影敷増加ヲ来 セル際叉突然壱万円モ協議費ノ荷ヲ増サハ町村ノ ・到底堪ヘサルナリ, 各郡二為替方ヲ置キ旅 費其ノ外二多少減少スルモ壱万円ノ 増額ハ実二不都合 ト云フヘ シ」 (林貫一). これに対 しては, 町村自治の確立を理由とする反論があっ た,. 「我 県 会 ノ 主 義ノ・人 民 二 自 治 ノ 精 神 ヲ 与 フ ル ニ ア リ, 今 之 ヲ 増 加 シテ 町村 ヲ 助 ク ル コ ト トナ. サ ハ 一 方 二 於 テ ハ 自 治 ノ 精 神 ヲ 与 ヘ ソ ト欲 シ, 一 方 ヨ リ ハ之 ヲ 助 ケ テ 親 掛 り ト為 ス ニ 出 ッ,. 相撞着スルヤ甚 シ, 各 町村戸長ノ注意ニテ倹約ノ ・如何様ニモナルモノナリ………民権ノ拡張. トカ叉ハニ十三年ノ国会其ノ期 遅シトカロニ1 昌ヘ ー町村ノ戸長役場費ヲ協議費ヨリ支弁スル. ニ苦シム位ニテハ実二民権杯ノ ・言 ハ レサルマ シ」 (副議長古谷新作) しかし, 戸長役場費の減額が 「倹約」 によ って可能となるのは, 自ら限度があり, 町村協議費 の増大が, 「自治ノ精神」 の喚起よりは, 人民の負担増を結果する可能性が強かった. 協同会社. の純益金配賦問題も, この問題と関連 している. 吉富・古谷ら県会首脳部が, これらの問題を通 じて, 町村財 政の犠牲 (従っ て人民の負担増) を無視 して, 県財政の維持につとめ, 勧業費, 土. 木費の重点的支出を期待 したこと, 協同会社についても県民の共同出資でありながら, その資本 力の強化に よる金融活動を志向 していたことなどが明らかであろう, こう した方向は, 失敗した 9 ) にもみられるのであっ て, 県下有数の地主, 豪農商の出資によ とは云え80年創立の共興商社2 る 商 社 設 立 に よ り, 地 方 ブ ル ジ ョ ア ジー と して の発 展 を 企 図 した も の で あ る,. こう した吉富らの動向に対し, 町村 財政の強化と人民の負担増の阻止という形で, 反吉富派が 生起 しつつあ ったのが, 82年初頭の情勢と云えよう.. また82年3月 の県会通常会においては, 従前と異なっ て多くの建議が可決されている. そのな. かには, 「本県限り官選郡区長ヲ廃 シ公選郡区長二相成度事」「戸長役場は可成数町村連合設置候 様諭達相成度事」 「管内各町村ノ協議 ヲ別表ノ如ク調査シ 来十六年ヨリ毎年通常会ノ 始メ ニ於テ. 会議へ報告相成度候事」 n町村会議員ノ 内毎日九十六名宛一日一人日当金四拾銭ヲ給 シ 本会ヲ傍 聴セ シメラ レ度候事」 「県有財産ノ性質ヲ審査セラ レ 其県有 ;属スルモノ ハ県会二於テ管理仕 度. 事」 「本県限り教育ノ・地方ノ自由二仕度候事」 など, 自治拡充の要求がみられる. これ らは,. 自由民権運動の全国的発展に刺戟されて, 県民のなかに自治的要求が高まっ てきた証 左 で あ ろ う.. 当初吉富議長の指導のもとに沈 黙していた山口県会も82年に至っ てようやく 活溌な動向を示 し. は じ め た の であ る,. こう した県会, 協同会社の新 しい動向と, 明治十四年政変以降の政治活動の活溌化が, 県政危 機をつくりだ したと云えるが, 次に自由民権派の動向をみたい. 0 ) まず自由党系であるが, 81年末に萩に先憂社が結成され3 , 81年1月 2 日自由党に加入してい 1 2 ) がこれであろう, これは松本維 繁 (高知) ) る3 , 安原一雄 (熊 , 関氏の指摘された長防自由党3 本) , 足立千之丞 (山口) , 佐伯忠治 (山口) らが発起 したもので,「応ずる者日に益す多きを加へ. り, 然るに中には他県人に先んぜられて, 其社にをめ々々加入するは残念なりとて, 別に別に一 社を創立して団結を謀らんといふ者あり, 之にも賛成する者多かり しが今日となりては他県人と. - 36 -.
(7) . 鴻城立憲政党の成立過程(3) 錐も同 じく是れ同胞なり, 決して彼此の区別あ るべか らずとの議論起こり, 遂に衆議一 決 して , 3 ) と報じられている 自由党への盟約 3 目下は先憂社のみを保持することになり益す盛大に赴く」 , 書には, 松本, 安原のほか市原男一, 高雄次郎, 梅園惟章, 白井倫三 の六名の署名がある3 4 ) . 5 ) また 「山口にて有名なる民権家平田正義」 なるものの奔走3 , 阿武郡明木村に本局を置く 集恩 館の結成 (山根友信, 内藤信一, 千田永治らが参加) も報じられている3 6 ) ,. この頃自由党の林包明が山陰地方を遊説 していたが, 4月 初頭山口県 に入り, 自由党参加の歓 誘を行なった. 萩の先憂社 (長防自由党) の安原 一雄, さきに創刊された山口新報3 ) 社長阿武 7 準介, 阿武集思館山根友信らが, 津野 毅一郎 (高知) , 馬場忠四郎 (山口) , 三島富太 郎 (福岡) (虫損). 大森千女 (山口) , 矢 島 也 (山口) , 河野一郎 (大分) らとともに林を迎えて4月10日親睦会を 8 ) 開き, 6月 1日に山口で大親睦会を開くことに決した3 . 安原, 山根, 津野は林に随 行 して山陽 地方を遊説したが, 馬場忠四郎が立憲自由党山口県本部長3 9 ) と して, 山口新報の援助 のもとに 5 組織拡大をはかった. また7月 日には, 柳井でも自由親睦会が開かれている4 0 ) , また同年5月 大阪で酒屋会議が開かれたが, 山口県か らは吉敷郡井関村の江口新一が 出席 して 1 ) ) 2 いる4 . 彼はまた山口県酒屋懇親会の開催を企画 しているが4 , これが当局の禁止にあうや, 江 3 ) 口は山口に止宿するゆえ同志の来山を待つと広告してい る4 . これは, 酒屋会議において植木 枝 盛が当局の禁止令をくぐっ てやむなくとっ た方法と同じである. また立憲改進党系と即断できないが, 下関地方でも民権派の運動があ った すな わち1月 初頭 , 4 ) 長府において演説会, 親睦会が開かれ4 4 5 )の ,4月20日には下関で 「改進主義の有志家五十余名」. 6 ) 社長松野武佐衛 門が出席している 4月23日 懇親会が開かれている. 後者には 馬関物価日報4 . 以後長府, 下関で連日の如く改進党系の懇親会, 演説会が開かれているが, これは金子蔀 吉見 , 小源太, 江木信, 内田吉三郎 (馬関) が中心 で, 豊浦懇親会と称した4 7 ) , このうち江木, 内田は 8 林茂氏作成の 「立憲改進党員名簿」 に名を連ねてい る4 ) 。 以上のほかに, 民権派とは云い難いが, 錦川社, 忠 告社, 有終社があった 錦川社は旧岩国支 , 9 ) であり, 忠告社は覇城会社の佃基清5 藩 の士族2 000人の結社4 0 )が中心と なって士族の子弟に「日 本魂」 や 「忠愛義勇」 を教育する結社である5 1 ) 2 ) . 有終社も忠告社と同様である~ . いずれも保 守 的士族結社であろう, 要するに82年に入ると山ロ県においても, 自由民 権運動の影響が発生 し また県会 協同会社 , , 内部にも新しい動向が生まれ, 次第に県政危機を醸成 してい った それはたんなる県政危機では , なく, 長州閥の危機, ひいては明治政府の危機に も連なるものであっ た というのは 自 由党系 , , の動きのなかには, 「薩長人とさへ言ヘバ 世人ハ我々□□も其の余流の人の如く思ひ頗る 嫌忌す るの形跡あるノ ・後来我々 の進路に於て大なる 妨害を生ずべ し」 5 ) という認 織もあったのであ り 3 , 長州閥との連携による利益の実現を意識的に断ち切り, 藩閥政府の打倒を 志向する 萌芽が生まれ ていた. ここにおいて, これらの諸要素を未然に摘みとり, 県政危機を回避し 政 府批判の県民 , のエネルギーを偽腕的に自己の政治路線に包摂させようとする吉富簡一 の活動が 再び展開され , た の であ っ た.. 註. 1) 関i 順也氏著 『 審政改革と明治維新』1 予 75頁,. 2 )明治史料研究連絡会編 『明治史料第1集・自由党員名簿』所収第1表出身府県別自由党党員数( 5頁) 7. 3 ) 林茂氏 「立憲改進党員の地方分布」(『社会科学研究』 9の4・5, 1 34頁) 4 ) 小林茂氏 「防長協同会社の解散--自由民権期における山口県農民の動向」(『史学研究』 第93号 のち同 , 氏著 『長州旅明治維新史研究』 所収) . -3 7-.
(8) . 田. 村. 貞. 雄. 02号所載参照. 5) 本稿第1章第1節註 (37) 参照. 詳しくは, 拙稿 『歴史学研究』3 展開』i14頁, 6) 後藤靖氏 『自由民権運動の. 1頁以下. 家永三郎氏著 7 ) 『自由党史』 (岩波女庫版) 上巻122頁. 内藤正中氏著 『自由民権運動の研究』12 『植木核盛研究』178頁以下. 46頁. 8) 『自由党史』 上巻2 63頁, 9) 『自由党史』 上巻2 64頁. なお愛国社各大会の参加者については, 内藤氏前掲書135頁第4~1表参照. 1 0) 『自由党史』 上巻2 46頁. 1 1) 『自由党史』 上巻2 9頁, 12 ) 『自由党史』 上巻26 13) 『自由党史』 上巻2 71頁, 14) 『自由党史』 中巻1 9頁, 15) 明治史料研究連絡会編 『明治史料第2集・全国国会開設元老院建白集成』 133頁. なお, 新潟県北魚沼郡 小千谷町寄留の山口県平民藤本尭樹が建白を提出しているが, 同県の山極七司等民権派を非難した内容の もので, 山口県民の動向とは無縁と考えられる, 1号 16 ) 授産局は, 74年11月協同会社とともに設 立され, 勧業局資本金のうち25万円を分割きれた. (『史潮』9 ) そして県内外各地 (県外では滋賀・京都・大阪・兵庫等) の荒蕪地の払下を受け, 士族 所載拙稿参照. 0石を支出させ, 長州系官吏の出資も得て, 士族の子 基禄より毎年3 50 の移住開墾を計画, また旧藩主の賞り 弟の教育を援助 した, 『山口県文化史・現代篇』54頁参照. 1 7) 士族就産所は, もっぱら基金増殖に重点を置き, また移住開墾計画も成功 しなかったため, 士族の不満が 8年第1回総代人会で基金利子の三分の二を各郡区に分割することを決定した, その結果各郡区 高まり, 7 1年には山ロに製糸伝 ごとに小規模な就産所が濫立, 金禄公債を担保とする各種小経営に援助 した. また8 習所を設立, 士族の子女に伝習せしめるなど養蚕, 製糸にも尽力した. 一方毛利家出資による北海道移住 計画がたてられ, 82年以後実施された. 『山口県文化史, 現代篇』55頁以下参照. 『世外井上公伝』 第3 巻564頁以下参照. 8年旧岩国藩士族88名の出資により, 出資金5万円, 紙幣発行高4万円で設立さ 18) 岩国第百三国立銀行は, 7 0万円, 紙幣発行高46万4000 れた. 山口第百十銀行は, 78年旧長州藩士族1 ,544名の出資により, 資本金6 円 (第十五, 第一両国立銀行についで全国第3位) で設立され, 79年下関に本店を移した, 『山口県文化 史, 現代篇』9 7~98頁, 高野時治氏 『第百十銀行の歴史』 (下関郷土会 『郷土』 第6集) 参照。 最近山口 銀行より 『山口銀行九十年史』 が発刊されたが, 未見である. 19)73年8月旧岩国藩士三須義慾が吉川家から出資された10万円を基金として創立, 当初義成堂と称したが, 0年岩国に坐繰製糸場を設置して以後養蚕・製糸に力 75年義済堂と故鉢, 岩国半紙と棉作に重点を注ぎ, 8 を入れた。 『山口県文化史, 現代篇』93頁以下. 『岩国市史』 20 ) もと勧業局長笠井順八が80年ごろよりセメ ント製造に着眼し, 81年セメント製造会社を設立, 政府の就産 0円をそれぞれ借入れ84年小野田工場で生産を開始した. 小野田セメ 5 oo円と県土族就産所から35 金2 ,00 ,o ント製造株式会社 『創業五十年史』 『小野田市史』 , 藤津清治氏 「士族就産会社としての 『セメント製造 9巻第6号) 会社」 設立頃の株主」『一橋論叢』 第5 ー 2 1) もと前原一誠派であった佃基清が, 80年創立した海運会社, 士族の金禄公債3万円のほか, 政府からの副 得て, 帆船製造および物産の輸送を事業とした. 『山口県文化史, 現代 資3万円, 士族就産所の融資を. 9~5 70頁参照. 薦」95~96頁, 『世外井上公伝』 第3巻56 2 2 2 1頁参照. また山口県の士族授産については, 我妻東策 土地変革 0 』2 ~ 『 明治維新の 22 ) なお丹羽邦男氏著 氏 『士族授産史』305頁以下参照, 23) 本稿第1章第3節末尾に掲げた. 年80月1日16付井上馨宛吉富簡ー書翰 24) 内蔵正中氏著 『自由民権遇動の研究』165頁以下. 0号) 25) 拙稿 『明治初年における農民闘争の展開』 (「山口県地方史研究」2 停明治維新史研究』 所収) キ 2 6 ) 小林茂氏 『防長協同会社の解散』 『史学研究』93号, のち 『長州? 2 7)83年3月14日付井上馨宛吉富簡ー書翰. 『世外井上公伝』 第3巻587頁. 28) 以下 『山口県会史』 による, 29) 「共興商社趣意書」 「共興商社株主名簿」 2月14日付 30 ) 「朝野新聞」81年1 1) 「朝野新聞」82年1月17日付 3 32 頂也氏著 『藩政改革と明治維新』175頁, ) 関i 33 ) に同じ )30 1) に同じ 34 )3 1年10月釈放されたという. 35) 「朝野新聞」82年1月13日付, 平田は西南戦争に呼応したため懲役刑となり,8 - 38 -.
(9) . 鴻城立憲政党の成立過程(3) 36) 「朝野新聞」82年3月 9 日付 3 3日創刊され, 月6回刊 (3, 8の日) で83年3月66号で廃刊したらしい. 設立趣意書, 仮規則 7)82年1月2 が, 明治史料研究連絡会編 『明治前期政党関係新聞紙経営史料集』 に収録されている. 阿部準輔を社長と し, 佐々木毎輔, 福原治佐が編集を行っていたと思われる. 西田長寿氏 『明治時代の新聞と雑誌』 には, (目?) と自由党系であるように分類されている (同書13 0頁)が, 現在山ロ県文書館に所蔵されている 数号の社説をみると, 「保守党ノ成立ヲ望ム」 (22号, 82年5月 8日) の如く自由党とは全く相反する主 張が掲載きれており, にわかにその4 生格を断定することができない. 自由党への阿部の援助も, 一時的な . ものかあるいは個人的なものであったか, 今後の究明が必要である, なお 「朝野新聞」82年2月1日付, 7月22日付参照. 3 8) 「朝野新聞」82年4月25日付 3 9) 「山口新報」8 2年7月 3日付 (30号) 40) 「山口新報」8 2年7月 3 日付 (3 0号) 4 1) 『自由党史』(中)18 1頁. 42) 「山口新報」8 2年6月13日付( 26号) , 43 2年7月13日付( 32号) ) 「山口新報」8 . 4 4 2年1月25日号 ) 「郵便報知新聞」8 4 5) 「郵便報知新聞」8 2年5月 2日号 46 )80年1月 7日創刊, 赤間関の米会所相場の速報を主とした, のち 「下関実業日報」 をへて 「関門日日新 聞」 と改題. 『下関市史』 (藩制-明治前期)74 9頁参照, 4 2年5月 8 日付 7 ) 「郵便報知新聞」8 48 ) 林茂氏 「立憲改進党員の地方分布」 (『社会科学研究』 9の4・5合併, 134頁) なお, 山口県の改進党員 は6名であって, 江口, 内田のほか大岡育造, 作本棟造, 鈴木良画 肴 , 関谷禎造である, 大岡はのちに山ロ 県より衆議院議員に当選し, 副議長もつとめたが, この時期には東京で代言人として活躍していた. 4 9 0日付 (『新聞集成明治編年史』 による) ) 「東京曙新聞」80年7月2 1) 参照. 50 ) 註2 51 2年5月19日付 ) 「朝野新聞」8 5 2) 「朝野新聞」8 1年1 2月16日付 53 2年1月 4日付 ) 「朝野新聞」8. 第2節. 鴻城立憲政党の結成. 明治14年の政変直後に吉富は親睦会の結成とその政党 化を企てた. 来るべき国会開設に備えよ. うとするものであった. 82年1月 「団結之主旨」 と題する呼びかけが県下に配布された.. 「我防長二州ノ土民十余年前ヨリ父子兄弟相離散スル ラ顧ミス 維新ノ事二尽力セシハ他ナシ. 真正ノ立憲政体ヲ渇望スルニ在しハナリ 暴二聖詔ヲ以テ明治二十三年 ヲ期シ国会ヲ開設アラ セラ ル ・ノ 公 布 ア リ 之 ヲ 聞 ク モ ノ 誰 力 感 泣 セ サ ラ ソヤ 就 テ ハ 国 民 タ ル モノ ハ 一 層 心 胆 ヲ 錬 磨. シ他日ノ用意ヲ為ササルヘカラス 故 二今般一致団結ヲ為シ万一 我意ノ為メ民権ヲ偽用スルカ 如キ人アラハ親切二忠告シ 叉外人ヨリ我国へ不幸ヲ与へ民権ヲ妨ケラル・ノ事故 アラハカラ 尽 シテ之ヲ防禦シ以テ国民ノ権利ヲ維持輩固 ナラシメ 国会開設ノ日二至テハ義務ヲ負担聖意 二負クサラ ソ事ヲ之し勉ムルノ大主義ニテ各町村二伝達委員一名宛ヲ公撰シ 叉互撰シテ各郡 区二四五名ノ出会委員ヲ置キー年一度或ノ ・両度山口二於テ 親睦会ヲ開キ以テ団結ノ趣旨ヲ談 話 ツ日誌ヲ編シ之ヲ伝達委員中へ一部宛配賦ス ル等ノ方法順序ノ ・ 協議ノ上之ヲ決セントス諸 ) 君 希 ク ハ 高 諭 ア ラ ソ事 ヲ」1. 上に掲げたのは, 本間家文書所収のもので, 活刷されて一般に流布 したものとやや異なっ てい る,. 「我防長二州ノ土民其十余年前二於テ 幾多ノ酸辛顛苦ヲ嘗メ 維新ノ事二尽力セシハ王室ノ尊 栄ヲ増シ人民ノ幸福 ヲ進メ ントスルニアリ 王室ノ尊栄ヲ保チ人民ノ幸福ヲ全フスルハ則チ立 憲政体ヲ立ツルニ若クハナシ 故二維新成業以来我 輩ノ熱心渇 望ス ル所ノモノハ唯此立憲政体 - 39 -.
(10) . 田. 村. 貞. 雄. ・恭クモ 明治二十三年ヲ期 シテ国会ヲ開設セラル・ノ聖詔ヲ降シ ノミ而シテ長者我天皇陛下ノ 天下ノ棚フ所ヲ示諭 シ給ヘリ 聖恩ノ隆渥ナル其 し誰力感戴セサルモノアラ ソ故 二今ャ同志相 会 シ益愛国ノ心胆ヲ錬磨 シ応分ノ 義務 ヲ尽シ他日国 会開設ノ 基礎ヲ立テ 無上鴻恩ノ聖意二対 へ文明ノ民タルニ靴サル事ヲ務メ ソトス大方同志ノ諸君速ニ此挙ヲ賛 成アラ ソ事ヲ襲望ス 2 ) ・衆論ノ決スル所二 随ヒ之ヲ定ムヘシ」 冬テ親睦会ヲ設ク其方法順序ノ 附言毎年両度山口二方 両者を比較する, 便宜上前者を本間家草稿, 後者を活荊文と しよう, 本間家草稿では, 維新の目 的を 「真正ノ 立憲政体」 樹立にあるとし, 国会開設の詔勅をもっ てそれが達成することを期待し. 「我意ノ為メ民権ヲ偽用スル」 者を排し, また外国の干渉を斥け, 国会開設の準 備を行なおうと する主旨を述 べている. 「民権」 あるいは 「国民の権利」 は, その基本的 主張であっ て, ただ自 由民権派とは一線を画 しているのである.. これに対し活刷文の方 は, 維新の目的に, 「王室ノ尊栄」 と 「人民ノ幸福」 が中間的に挿入さ れており, 「民権」 の文言が全く消えて 「聖恩ノ隆渥」 が強調されている, 伝達委員, 出会委員. という組織方針も述 べ られていない, これが一般に流布されたものであることは, たとえば東京 ) ことからも明らかであり, 前者は吉富・本間ら県 会議員クラスの討 日日新聞に紹 介されている3 議段階での草案であ っ たと思われる, 両者に共通 していること は, 維新に対する防長土民の尽力を強調し, 当面の課題がその延長線 上にあることを 強調 していること, しかし政府の憲法 欽定方針への批判を全く欠いていることが. こみえるが, しか し 「王室 指摘できる, 全体と して活刷文の方 が, より帝室翼賛的 色彩をもつかし ノ尊栄」 と 「人民ノ幸福」 という把握は, 立憲改進党趣 意書にもあるのであ っ て, 性急な評価は 4日であ できない. ただ両者とも, 82年1月 という日付があり, 立憲改進党趣意書の発表は3月1 るので, 同党趣意書の利用という ことも即断で きない, この計画をより具体化したものが, 山口県政党結成計画であり, これが防長立憲党, さらには 鴇城立憲政党の結成へと進むのである. 第3表は3党の綱領を 対比 したものである. 山口県 政党の場合, 「急激二走ラス旧習二流 レス総テ着実ヲ旨」 とする主張があり, 後二者に. も継承されているが, これは立憲改進党趣意書に類似の表現がある, ・我党ノ 望ム所ニアラス, 蓋其順序ヲ ・我党之ヲ翼フ, 然トモ急激ノ 変革ノ 「政治ノ改良 前進ノ 逐ハス シテ遮二変革ヲ為サン事ヲ謀ルハ, 即社会ノ 秩序ヲ莱乱 シ, 却テ政治ノ進行ヲ妨碍ス きヲ 競 ヒ 好 ソテ 激 ル モ ノ ナ レハ ナ リ, 是 ヲ 以 テ 夫 ノ 晒見 二 惑ヒ 徒 ラ ニ 守 旧 ヲ 主 ト シ, 夫ノ 急瞬 昂 ヲ 務 ム ル モ ノ ノ 如 キ ハ, 我 党 ノ 却 ケ テ 共 二 其 翼 望 ヲ 与 ニ セ サ ル モ ノ ナ リ, 我 党ノ・実 二 順正. 4 ) ノ 手段二依テ 我政治ヲ改良 シ, 着実ノ方便ヲ以テ之ヲ前進スルァラ ソ事ヲ翼 望ス」 「 防道立憲党綱領で は, 「着実」 が 「中道」 となり, 漸進主義的表現が, より保守的表 現に変わ っ て い る.. 山口県 政党の第四条には, 「自今中央集権ノ 政略ヲ省キ地方分権ノ 施政二帰シ……」 という主 張 があるが, これもまた 立憲改進党趣意書に類似の表現がある, すなわち第二章の三に 「中央干 渉ノ政略ヲ省キ地方自 治ノ基礎ヲ建ツル事」 とあるのがそれである. 中央干渉が中央集権, 地方. 自治が地方分権と変更されている, もっとも, 殖産興業等に 「政府干渉セサル事」 と干渉の譜を 使用 している が, 集権 --分権という把握の仕方は重要な問題を含んでいると思われる, 立憲改進党趣 意書の影響は, 防長立憲党, 鴇城立憲政党の綱領第二条に決定的に現出している, 立憲改進党趣意書の第二 章は次の通りである. ・帝国ノ臣民ニシテ左ノ翼望ヲ有スルモノラ以テ之ヲ団結ス 「第二章 我党ノ. ー 40 -.
(11) . 鴻城立憲政党の成立過程 (3) 第3表 三 山口県懇親会要領山ロ県政党 第一条. 第二条. 吾党ノ ・帝室ヲ尊奉シ立憲政体ヲ組 織スルモノニ付急激二走ラス旧習 ニ流しス総テ着実ヲ旨トシ以テ国 家ノ慶福ヲ計画スル事ヲ務ムヘシ 月ロ県政党ト名ツケ自今国 吾党ヲー 会開設ノ準備ヲ成スヘシ. 第三条 時勢ノ変換ハ予メ難期ヲ以 、向後時 々依緩急宜ク改進ヲ謀ルヘ シ. 第四条 自今中央集権ノ政略を省キ地方分. 第五条. 党. の. 綱. 領. 防 長 立 憲 党 綱 領. 鴇 城 立憲 政 党 綱 領. 吾党ノ ・防長立憲党ト称ス. 吾党ノ ・鴇城立憲政党ト称ス. 吾党ノ ・軽操ニ走ラス旧習ニ泥マ ス中道ヲ旨トシ左ノ希望ヲ有ス ルモノラ以テ団結ス ー善良ナル立憲政体ヲ建テ王室. 吾党ノ ・軽曝ニ走ラス旧習ニ泥マ ス中道ヲ旨トシ左ノ希望ヲ有ス ルモノラ以テ団結ス ー善良ナル立憲政体ヲ替立 シ王 室ノ尊栄ヲ保全 シ人民ノ福利. ノ尊栄ヲ保全シ人民ノ福利ヲ 増進スル事 一漸次中央集権ヲ改メ地方分権 ヲ立ツル事 一内地改良ヲ主トシ国権ヲ拡張 スル事 吾党ノ ・吾党同主義ノ者ト会同活 動スルラ要ス. ヲ増進スル事 一漸次中央集権ヲ改メ地方分権 ヲ立ツル事 一内地ノ改良ヲ主トシ国権ヲ拡 張スル事 吾党ノ ・吾党同主義者ト会同活動 スルラ要ス. 権ノ施政ニ帰 シ而シテ殖産興業等 人民可務事件ニ付テハ政府干渉セ サル事ヲ把ルヘシ 人情ノ浮落ニ流しス シテ信義ヲ重 シ正直 ヲ旨トスル風俗ヲ把ルヘシ. いずれも本間家文書所収, なお右二者は活届 Uされたもの, 鴻城立憲政党綱領は, 山口県文書館にも所蔵さ れており, 他の史料とともに 『史湖』 なお鴨域は, 山口の古城名に因んだものである。. 一, 王室ノ 尊栄ヲ保チ人民ノ幸福 ヲ全フスル事 二, 内 治 ノ 改 良 ヲ 主 トシ国 権 ノ 拡 張 二 及 ホ ス 事. .. 三, 中央干渉の政略ヲ省キ地方自治ノ基礎 ヲ建ツル事 四, 社会進歩ノ度二随ヒ選挙権ヲ伸潤スル事. 五, 外国二対シ勉メ テ政略上ノ交渉ヲ薄クシ通商ノ 関係ヲ厚クスル事 5 ) 六, 貨幣ノ制ハ硬貨ノ主義ヲ建ツル事」. すなわち第二章の一から三までが採用され, 二と三とが入れ換えられ,「中央干渉」「地方自治」 が, 「中央集権」「地方分権」 に変 えられている, これらの点にこの党の性格を解く鍵があるよう に思われる, なお防長立憲党と鴨城立憲政党 の綱領の相異点は, 第1条の名称と, 第2条第1項 の 「立憲政体 ヲ建テ」 が 「立憲政体 ヲ賛立シ」 となっている点である. 立憲改進党との綱領上の類似 (む しろ劉窃) が故意に行なわれていることは, 結党にあたっ て 主旨説明を行なっ た常議員磯部十蔵 のリーフ レッ トの表題が, 「鴨城立憲改進党主義」 6 ) であ った ) からも明らかであろう こと, 党員のうちにも, 改進党の組織と誤解 した者が居たこと7 . しか しながら, 綱領の割窃にあたっ て, すでにこの党の性格が, 改進党の系列ではないことが 示 さ れ て い る.. 第一に, 「急激二走ラス 旧習二流レス総テ着実ヲ旨 トシ」(山口県政党) という表現が, 立憲改 進党趣意書と類似していることは す でに述 べたが, 「軽燥二走ラス旧習二泥マス中道ヲ旨 トシ」. - 41 -.
(12) . 田. 村. 貞. 雄. (防長立憲党, 鴇城立憲政党) と変えられた 点は, たんにより保守的表現になっただけでなく, 「守旧二泥マス操急ヲ争ハス, 恒二秩序 ト進歩ノ併行ヲ求テ, 以テ国安ヲ保維シ, 以テ改進ヲ計. 8) とする立憲帝政党党議綱領からの引き写しとみられる. 画セソ事」 第二に, 立憲改進党趣意書第二章の四以下の切り捨てであるが, 選挙権, 外交通商, 弊制に関. する部分であり, 二の 「内治改良」 「国権拡張」 の具体的な主張とも云うべ きであ って, この欠 落は, この党が 「内治改良」 「国権拡張」 という語に, 立憲改進党とは 異なった解釈をもってい ること, にもかかわら ず, あえて類似性を外見的に強調 しようと したことを示 している. 第三に, 二と 三の入れ換えと語句の変更であるが, この党 が 「内治改良」 「国権拡張」 よりは 「地方分権」 の確立を重視 していたことを示 している. 「地方自治」 を 「地方分権」 と読み換え ) と類似 した国家論が背後にあるよ うに考えられる. 君権 たことは, 吉富の君権・民権の分界論9. 民権分界論は, 国家なり, 「大政府」 の固有の権限を認めた上で, 民権を部分的に認めようとす るものであるが, 地方分権論も,中央政府,「大政府」の固有の権限を認めた上で地方庁, 地方議会 の権限を 部分的に確立させよ うとするものであった. そこには, 二人民固有の権利と しての民権と. いう理解が無いのと同じように, 地方団体の固有の権限としての自治という理解が無い, 民権は 君権の部分的委譲 であり, 地方分権も国家の権 限の部分的委譲である, 民権に関しては, 中江兆 ) o 民の指摘に従えば, 「恩賜的の民権」 であっ て, 「恢復的の民権」 ではないt . 地方分権に関 し ても, 自治の思想が欠落 している. もとより立憲改進党の 「地方自治」 の主張も, 地方分権論と 思想的にどれだけの差があるか疑. わ しい, しか し干渉[一 自治が, 集権 --分権に置き換えられていることは, 鴨城立憲政党の性 格により体制迎合的 色彩があることは否めないであろう. ト交通商, 幣制についての主張を欠き地方分権論が強く推 し出されていること また, 選挙権, ク を考える時, 鴨城立憲政党の綱領が, 全国的視野に乏 しく, 地方制度の改革をもっ て満足する限 界をもつことも指摘できるであろう. 1 1 ) は次のように 述 べ て い さきにあ げた磯部十蔵執筆のリーフ レッ ト 「鴨城立憲改進党 主義」 る.. 「明治十四年十月 十二日ノ勅諭ヲ奉戴 シ二十三年国会開設ノ期二至り 謹テ欽定憲法二則り軽 挙二渉ラス 大二国権ヲ拡張 シ改進ヲ計画 シ, 天壌無窮ノ国体ヲ尊重 シ, 夫祖伝群ノ帝室ヲ翼 戴シ人民之二依テ社会ノ 安寧ヲ保チ幸福権利ヲ輩固ナラ シメ永ク外国二対シ 我邦ノ光栄ヲ保 維 セ ン トス, 是 乃 チ 我 党 前 途 ノ 目 的 ナ リ」. これは, 明らかに立憲帝政党の党議綱領に通 じていると断じても良いであろう. 立憲帝政党 についての研究はほとん ど無く, その実態は明 らかではない. 82年3月18日, 「東 京日日新聞」 の福池源一郎, 「明治日報」 の丸山作楽, 「東洋新報」 の水野寅次郎が, 政府の援助 の下に結成 し, 各地の中立的, 漸進主 義的, 保守的潮流を糾合しよ うと した. 各地における帝政 1) 党 系 の 活 動 は 明 ら か で は な い が, 西 日 本 に お い て は, 10月12日 に 近 畿 大 会 が 聞 か れ て い る 2, 西. 日本各地の帝政党 政社の代表が集ま ったようである, (補註) 鴻城立憲政党が, 立憲帝政党とどのよう な組織的連繋をもっ ていた かは不明であるが, 綱領の 内容また吉富と福 地の密接な関係から一定の推測をなしうる, しかし, 鴨城立憲政党の特質は, その本質が立憲帝政党と軌を一にするものでありながら, あ. えて立憲改進党の趣 意書の一部を借用 していることである, それは全国的にも自由民権運動 が高まり, 騨 内にもその影響が強まっ ており, とくに県会や協 - 42 一.
(13) . 鴨城立憲政党の成立過程 (3). 同会社における新たな動向が, 県政の危機を生みだ している情勢のもとで, 外見的にはある程度 民権派的扮装をとらざるを得なかっ たこと, とりわけ改進党と結ぶ 町野周一らの闘争が県政のウ. ィ←クポイ ソトを鋭く衝いていたため, 改進党的扮飾をとることを余儀なく されたことが考えら れ る.. そ の特有の地方分権論は, 明らかに県会の新 しい動向に対応 したものであっ て, そのことは次 に見る党員構成からも推察できる. 3 ) が残っ ているので, その署名者の分布状況を検討した 現在初期の党員名簿と思われる署名簿1 い (第4表) ,. 全体と して二つの特徴が指摘できる。. 第一に, いちぢる しい地域的偏りがあることである. 吉敷郡91名 ( 57 17 , 都濃郡28名 ( ,2%) .6 %) と2郡で全体の74 .8%を占め, 他の郡はいずれも10名以下である. 第4表 鴇 城 立 憲 政 党 党 員 構 成 ’郡. 区. 大 玖 熊 都 佐 吉 厚 豊 茎 大. 島 珂 毛. 1. 0. 4. 0. 0. 0. 0. 5. 0. 5. 1. 0. 1. 1. 0. 0. 0. 4. 0. 0. 0. 0. 0. 濃 波. 28. 1. 4. 3. 1. 1. 1. 1. 8. 2. 4. 2. 2. 2. 2. 2. 敷 狭. 91. 10. 4. 4. 4. 2. 2. 23. 7. 2. 4. 3. 2. 2. 2. 浦. 2. 4. 1. 4. 3. 1. 1. 1. 1. 禰 津 武. 4. 0. 3. 2. 0. 1. 1. 0. 3. 0. 3. 1. 0. 0. 0. 0. 6. 0. 5. 1. 0. 1. 1. 0. 0. 0. 2. 0. 0. 0. 2. 0. 2. 0. 0. 0. 0. 159. 16. 48. 20. 11. 11. 8. 阿 見 島 赤 間 関 ‐ 計. 署 名 者 党 役 員 貴 発 露 内署名者 内党役員 髪会常贋 内署名者 内 党役員 .. 0. 0 0 10. ,. 0. 『史潮』68号に紹介した署名簿より作成。 署名者中名前抹消の1名を除く, 県会常置委員は正員7名, 予備3名のほか議長を含む1 1名とした.. とくに吉敷郡は全体 の6割近くを占め, 役員16名 のうち10名が同郡の人間である. また同郡選出. の県会議員全員が党員であり, また党役員になっ ていることも, 他郡に例をみなし ・ . 党役員の構 成は第9表に示 した,. 同郡の党員91名のうち, 吉富 の住居する矢原村が13名, まもなく同村と合併する隣接の朝田村 が13名, 上田少蔵ら3人の役員を出している合う 萱村が19名と3か村で46名とほぼ5割を占めてい る, 同郡は藩政時代山口, 小郡の両宰判から成っ ているが, 旧小郡宰判の地域には, 2 3名の党員. がいるが, 上記台道村の19名を除くと, わずか4名 である. そのうち3名が党役員であり, うち 2名は県会議員 である, 吉敷郡の場合, 主幹吉富 簡一と幹事上田少蔵が, 自分の居村を中心に組織 したほかは, 県議ク. ラ ス の 参 加 に と ど ま っ た と 云 え よ う,. 都濃郡の28名のうち2 1名が常議員磯部十蔵の河内村に集中しており, 吉敷郡とー 司じ・ 偏りを示 し. て い る.. - 43 -.
(14) . 田. 村. 貞. 雄. 第5表 鴇 城 立 憲 政 党 役 員 一 覧 役. 職. 主. 幹. 幹事兼常議員. 氏. 名. 吉富 上田. 簡一 少蔵. 住. 所. 地. 位. 前. 吉敷郡 矢 原村 県議・議長. 歴. 庄屋・県議 古谷 新作 佐波 郡 植 松 村 県議・副議長・常委 主計燕常議員 本間 延介 吉敷 郡嘉 川 村 県議・常委 区長 国吉 拓即 同 郡 深 溝 村 県議 同 常 議 員 磯部 十蔵 都濃郡 河内 村 県議・常委 同 林 貫 一 佐波 郡 深 谷 村 県議・常委 庄屋・常委 同 本間源三郎 吉敷 郡嘉 川 村 県議 同. 註. 上 田. 実. 三分一浩輔 林 秀一 藤村 淳一 平田 仲介. 同 同 同 同 同. 衆院議員. 郡台道村. 同. 同 同 同 同 同 同 同 同. その後の経歴. 郡台道 郡 同 郡下郷 郡矢原 郡黒川. 村 村 村 村 村. 県議. 伯野 尚輔 厚狭郡宇津井村 県議・常委(予) 国吉 明信 同 郡 小 串 村 県議・常委 富岡 清軌 豊浦郡 幡 生村 県議・常委. 議長・衆院議員 戸長 衆院議員 副議長・衆院議員. ノ県議・常委・戸長・. 地租額 円 501 ,98 900 ,893 212,68 48 ,97. 39 ,027. 62,298 132 ,133. L衆院議員. 122 ,947. 県議(林勇蔵の子). 206 ,913. 郡長. 152,521 87 ,197. 「鴻城立憲政党役員」 (活厨= 8号に紹介済. 常委は県会常置委員, 地租額は 「明 ) より作成, 『史潮』6 1年山口県会議員一覧表」 (林家文書) より作成. 88年4月 1日現在. 治2. 第二の特徴と して, 県会議員の半数近くが参加していることがあげられる, 定数48名のうち欠. 員が4名あるので現数44名のうち20名,45%強が党員である. 議長, 常置委員, 同補欠の県会首 脳部の11名の全員が党員で, うち8名が党役員となっ ている. 党役員16名のうち, 現県議が10名. 前県議が2名であり, 県会議員クラスの結束が中心となっている, しかし自分の居村付近で熱心 な勧誘を行なったのは, 前記吉富, 上田 (少) , 磯辺の3人のみであり, 関係4か村 (前述) の 党 員 は 合 計67名 で 全 体 の42% に あ た る.. しか しこ の こ と は, 県 会 議 員 のイ ニ シア チ ヴ に よ っ て の. み 、組織化が可能であ っ たことを示 している. 要するに鴨城立憲 政党は, 県会議員 (とくに常置委員クラス) を中心に吉富筒一の強い働きか. けによ っ て結成され, 一部の県議は熱心な勧誘によっ て多くの支持者を獲得 した, 党 の 指 導 権 は, 明らかに地主, 豪農層にあっ た, 第2表に示 した地租額分布は, 81年のものであるから直接 比較できないが, 山口県においては地租額100円以上 の納入者は, わずか0 ,1%の最上層を占め 88年の数字) からおおよその推測をすれば, 党の指導権 る地主, 豪農である. 党役員の地租額 ( は, 県内最上層の地主, 豪農出身の県会議員クラスにあったと云えよう. なお, 党員構成上興味深いのは, かつて吉富を相手に民権論を 主張 した藤村淳一が, 役員の一 人にな っていることであり, また幕末における庄屋同盟や地租改正期の固い結束で知られる旧小. 郡宰判の諸村の参加が少ないことは, この地域の豪農の変 容を暗示 しているように思われる. 最後に党結成の経過を述べ ておきたい.. 県下に頒布された 「団結之主旨」 は, 82年1月 の日付が付 してあるが, その文言からみ てやや. 問題があることは前述 した, 東京日日新聞への掲載は, 6月29日であり, 「吉富筒一氏は 元と同 県共同会社頭取たり しが, 先頃より同職を辞せられ現に県会議長の重任を帯び居らるるが, 頃日. 左の広告文を頒ちて同志を募られ, 大に漸進主義を拡張せらるることに 尽力なるよ し」 という記 事のあとに 「団 結之主旨」 が紹介 されている. これによれば, 協同会社社長の辞任 (5月) 以後. - 44 -.
(15) . 鴻城立憲政党の成立過程(3) のようにも 考えられる.. 9月22日 「懇親会主唱者総代吉富簡一」 より, 10月12日に山口讃井円龍寺に於いて懇親会を開. 催する旨通知された. 10月12日は国会開設の詔勅の一周年にあたるためと説明されている. この 日には, さきに述 べた立憲帝政 党の近畿大会が開かれている.. 0月12日は会合において,党名,綱領,申合仮規則,役員を決定 し,1 1 8日付で印刷, 配布された, 1 4 ) 申告仮規則 によると, 役員は主幹1名, 幹事2名, 主計2名, 常議員1 5名, 書記数名とし, 幹事, 主計は常議員の互選, 書記は主幹の指名により決めた, 主幹, 常議員は任期一年 (再選可). で 「集会党員四分一以上ノ投票」 により選任される, 仮事務所は山口後河原上田秀輔宅に置き, 年間党費は1 5銭と定められた. 5 ) では, 役員が主幹, 幹事書記のほか会計主事1名, 常議員数名で 防長立憲党の申合仮規則1 あること, 選挙の得票規定がないこと, 役員は無給という規定があること, 党費の規定はなく, 懇親会諸費と して2 5銭と定められていることなどがみられるが, 上記のように改められた,. なお綱領, 申合仮規則等の配布に際し, 「来春開会之節綱領弁二申合規則等修正可相成事二付 意見アル各位ノ ・十六年一月 三十日ヲ限り 事務所へ向ヶ御郵送被成下度此段及御通報候也」 という. 文面が付されている. 党の活動としては, 懇親会を年四回山口にその他で開くこと しか規定がないが, 磯辺十蔵の「鴻 1 ) にはやや詳しくこの点が述 べ られている 6 城立憲改進党主義」 , 「第二条 党中五名以上ノ意見ヲ以テ目ラ会主 トナリ 同志ヲ招集シ特二其旨義ヲ演説セント 欲スル者ノ ・事故 ト時日 トラ明記シ十五日前二之ヲ告知スヘ シ (略) 第三条. 世間反対党アリ 交ヲ破ラス主 義ノ異同ヲ争フ所ノ ・必ズ言論二止り仮リニモ人体ヲ敵. 視 ス ル如 キ挙 動アル可 ラ ス. 第四条. 自党ノ 勢力ヲ拡張 シ多数ノ同意ヲ求メ ント欲スルトキハ諸処二遊説 シ 叉ハ各々其地. 方 二 於 テ 旨 義 ヲ 演説 ス ル 事 モ ア ル ヘ シ. 第五条. 前条ノ 場合二於 テハ其論浮薄二流レス 町寧反覆専ラ公衆ノ履践スベキ順路ヲ明説ツ. 我党ノ美俗ヲ示移シ信ヲ公衆二取ルヘシ」 党活動の具体的な状況を示す史料は, 未だ発見 していないが,82年秋より83年にかけて, 民権 派と対抗 した活動が展開されたのであろう. ただ第19表にみるように警察に届出た政談演説は, 4年の 「政談演説」 第6表 8 2~8 8 2年 演 題 演 説 解 散. 認 可 、 不 認 可. 84年. 25. 0. 18. 33. 0. 0. 度. 数. 6. 0. 3. 人. 員. 15. 0. 1. 全. 会 社. 2. 0. 0. 0. 0. 0. 内 国 死. 1. 0. 0. 0. 0. 0. 0. 0. 0. 結 禁 止. 83年. 管 全 結. 『山口県第2回統計表』『山口県第3回統計表』 による. - 45 -.
(16) . 田. 村. 貞. 雄. 83年 は ゼ ロ で あ り, こ の 史 料 を 信 じ る な ら ば, あ ま り に も低 調 と い う ほ か は な い.. 鴻城立憲政党結成後, 脱党者があり, 立憲改進党と結びついた政社の企てがあったことは前述 7 ) どのような動きであったのか分らな した, しか し, 名簿中に立憲改進党員がみられないので1 (ママ). → い, この件について吉富は 「此事ヲ企候人物ノ ・能私承知罷在候得共何程暁クモ到底テ テハレス- 塁モ 1 ) と自信満々の報告を井 8 此後御闇二入候事アルモ御懸念不申, 取二足サル無学短才恐ル・不足」. 上馨に対 し書き送っ ている.. 以上の検討から,吉富簡一の党結成の意図,ならびに党の性格については, ほぼ明らかであろう, すな わち, 自由民権運動の山口県への波及を背景と して, 町野周吉らの引当米, 民費の不正糾 ・の展開 (とりわけ立憲改進党との結びつき) 吉富の社長退任にみられる協同会社の動向, 弾闘争. また県議会内部に 高まる自治的要求, こう した情勢のなかで立憲改進党的扮装を随所にこらしつ つ, 独特の地方分権論を手がかりと しながら漸進主義 的, 保守主義的潮流を糾合 した一政党, 県 会議員クラスの地主, 豪農を打って一丸と した, 本質的には立憲帝政党と軌を一にす る一政党, これが鴻城立憲 政党であった.. この政党は, 84年初頭ごろまで存続 し, 団結を維持 しているが, 吉富は83年初頭より新聞発行 計画に没頭し, 84年7月, 「防長新聞」 を創刊するに至った, 自由民権派の後退のなかで, 必ず しも政党を維持 し, 年数回の懇親会を開く 必要よりも, 日常的に世論形 成をはかり, 国会開設に. 備える必要性を認めたためであろう, 「防長新聞」 の創刊事情は次節はゆずるが, ともかく鴇城立憲政党の結成, 「防長新聞社」 の 創刊という82年から84年にかけての推移のなかに, 反民権的豪農の政治路線が確立 していったの である.. (未完). 註. 1) 本間家文書所収. 1 2)1 - コ県文書館所蔵. 本間家文書にも所収. 田中彰・田村貞雄 「吉富筒一 「団結之主旨其他」 (『史送 - り 』68 1 号) に紹介済. 3) 東京日日新聞8 2年6月29日付 4) 指原安蔵編 「明治政史」 第15篇 (『明治文化全集』 正史篇上所収) 5)4) に同じ, ‐に全女紹介. 活扉 6) 山口県文書館所蔵. 前掲 「史捌」6 ” 8号 . 7)83年8月14日付井上馨宛吉富簡ー書翰によれば, 目鳴域憲政党へ加入者之内ニモ四五人容ラレサルー……・ 更二改進党ヲ組織シ東京改進党へ合セント諜ルモノアル」 と脱党して改進党を組織しようとした者がある ことが明らかであり, 綱領の瓢窃に欺かれたことが分る, 8) 「立憲帝政党党議綱領」(8 2年3月18日) , 出典は註4) に同じ. ) C 9) 吉富簡ー n日友数人来訪一日激烈国事談ニ及ブ」 第1章第3節の吉富講論稿の( . も人経論問答」 10) 中江兆民 「三酵 E6) に同じ. 11)麦 I 59F 1 2) 大津淳一郎 『大日本憲政史』 第2巻5 13) 前掲 『史潮』6 8号に全文紹介済. ‐ 14) 『史湖』6 8 号に紹介済, 15) 本間家文書所収 16 ) 註6) に同じ, 17) 林茂氏前掲縞, 『社会科学研究』 9の4・5 ) . 本章第1節(48 . 18) 註7) に同じ. 44号, 1 96 9年1月) が発表され 〔補註〕 本稿脱稿後高木俊輔氏 「立憲帝政党関係覚え書」 (『歴史学研究』3 をと西京同志大懇親会 G丘畿大会) の新史 た. おそらく立憲帝政党に関する最初の研究であり, 全国的鳥1 碩 島城立憲政党の結成が西京同志大懇親会と同日に行なわれたことの意義は, きわめ 料が紹介されている.マ メ て大きかったと云わねばならない,. - 46 -.
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何故、住み続ける権利の確立なのか。被災者 はもちろん、人々の中に自分の生まれ育った場
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一方,前年の総選挙で大敗した民主党は,同じく 月 日に党内での候補者指
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他方, SPLM の側もまだ軍事組織から政党へと 脱皮する途上にあって苦闘しており,中央政府に 参画はしたものの, NCP
過去の民主党系の政権と比較すれば,アルタンホヤグ政権は国民からの支持も
外交,防衛といった場合,それらを執り行う アクターは地方自治体ではなく,伝統的に中央
1970 年に成立したロン・ノル政権下では,政権のシンクタンクであるクメール=モン研究所の所長 を務め, 1971 年