異色あるトミスト、ジヤン・ダバンの自然法理論に関する研究 「中世法思想および新トマス主義法理論に関する小研究] 4
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(2) . 第7 巻 第1号. 昭和31年7月. 北海道学芸大学紀要 (第一部). 異 色 あ る ト ミ ス ト, ジャ ン ◎ ダバ ンの. 自然法理論に関する研究 「中世法思想および新トマス主義法理論に関する小研究」 4) (. 坂. 高. 直. 之. 北海道学芸大学旭川分校 法律学・政治学研究室. I Na。yuki K6sAI くA : A GeneraI Study on the Natura Law. Concept of lean Dabin,. ionaI Neo‐Thomi the Unconvent st . ‘ ‘Short S I Thoughts and I Lega tudi es on ハαedi aeva ” Neo i ‐Thomi t s c jurisprudence Series, 4.. 目. ジャン・ ダバンの略歴 論 1. 総 1) ネオ・トミス トと しての特異性 ( (2) 実証法理論との巧みな融合 = . ジャン・ダ バンの自然法理論 (1) 総 説 (A) 自然法の地位 -自然法概念の客観的価値- (B) 潜在意識としての 自然法理念 (2) 自然法の概念 (A) 伝統に基づく概念の 許容範囲 (a) 自然法の特性. 次. (B) 司法的自然法の存在否定論 (a) 自然法概念の不明確性 (b) 自然法と特 殊の道徳 (c) 自然的道徳規範として見た自 然法 (道徳的自然法) と実証法 との関係 (d)自然法概念の拡張 (exten- tion). (e) 「拡張」 された自然法概念と 本 来の自然法概念との関係 (f) 「拡張」 された自然法概念と 実証法概念との関係 (g) 道徳的自然法と政治的自然法 との二元性 -司法的自然法の否認-. ‐ -Jus Naturale と Lex Natural is との関係-. (b) 「第一原理」 と、 これに従属 する諸規範 (c) 自然法の主題 -特に対隣人的(ad alterum) 義務性の強 調-. 3) 結 ( あとがき 解 註. 論. ジャン・ダバ ンの略歴 i p 1911年 に は、 リ ェ ー ジ in ジ ャ ソ・ ダバ ソ ( Jean Dab ,1889~) は、 ベ ル ギ ー の リ エ ー ジ ュ (L ge) で 生 れ、. 22年、 i l d )を授与せられたが、19 t tsp 20年には民法について鴫労りの博士号(doc a a c or ュ大学で法学博士号を、 19 その間 かれは民法 i ルーヴァン (Louva ) 大学へ招かれてからは、 そこの教授と して令名をうたわれている。 n 、 i i t ) er s 学、 国際私法学、 政治学、 社会学の各講座を担当 し、 パリ←大学、 同 じくフラ ンスのポアティエル (Po L およびスイ スのロー D i ヨ ) ) 大学ならびにリ ン ( yon 大学、 on 大 学、 ナ ソ シー (Nancy) 大学、 ディジョ ソ ( i ) 大学における交換教授として有名である。 anne ザンヌ (Laus.
(3) . 異色あるトミスト, ジャ ソ・ダバ ソの自然法理諭に関する研究 かれはまたブリュッセルで発行されている「ベルギー法学評論」誌(Revue Cri ique De jur i lge t ) sprudence Be の編輯者でもある。 かれのもっている数々の肩書のうち, 主なるものとしては ポル ド← (Bordeaux) 大学名誉教授 ベルギー , 、 王室学士院、 国際法哲学会 (ノ ミリ‐ ‐) ino de Fi l l i t t t ns oso6a u o Argent 、アルゼンチン法哲学り社会哲学協会 ( id Jur i i ca y So l ) のそれ ぞれ会員であることなどがあげられよう。 c a 次にかれの法および法哲学に関する形しい数にのぼる著作リストのなかで , 主要なものだけをあげることに する。 「原因論」 (La Th6orie dela Cause, Bruxel “Bi l i b es l ) ot eca de Derecho . ,1919 , そ の ス ペイ ン訳 が pr i i vado” (Ser id e 12 ) の な か に 登 載 さ れ た。 .× ,vol . , Madr ,1929. 「実証的法秩序の哲学」 (La phi l i idi i i f i osoph e de rordre Jur t ) s que Pos . , Par ,1929 ’ 「実定法制定の技術」 (La Technique del B1 i i i i f B i aborat t Pos t l l on du Dro ) esMPar s , ruxe . ,1935 ’Btat Bruxe 「国家に関する一般学説」 (Docrrine Generaldel l l P i ‐ 1 9 3 9 ) e r s a s , . , 「法の一般理論」 (Theorie G6nきrale du Droi l l t ) es . , Bruxe ,1944 「民法研究」 (Btudes de Droi i B l l l 1 4 7 t Civ 9 r ) u x e e s . , ,. 1 ( ) ネ オ ・ トミ ス トと して の特 異 性 Dabin の 法 思 想 は、 われ わ れ に と っ て 次 の よ う な 理 由 か ら か な り 興 味 深 い も の と な っ て い る 、 。. まず第一にかれの法に関する一般理論は、 西 欧 文 明のもたらした偉 大な哲学の一つである S t . Thomas Aquinas (1225~1274 ) の ス コラ 哲 学 の上 に 築 かれ て い る こ と で あ る。 第 二 に か れ は こ 、 1 ‐ ) l i の 天 使 的 博 士 (doc t or ange cus) の 宣 言 した あ る 部 分 に つ い て は、 細 部 に わ た っ て ま で 一 致 して い る と はい い 難 い が、 と に か く Thomi sme の原則を現代の社会状態と現代の思想体系にあてはめ て、 矛 盾な く 説 明 して い る こ と で あ る。 第 三 に かれ は、 Thomas が自分に反対する思想系列に対. してとった態度と全く同じような賢明な寛容さを示 し、 反対者を異端として公然と非難したり詰問 するのでなく、 かれの方向へ読者を巧みに導き、 それをあくまで理性によって納得させようとして いることである。 この点においてかれは、 他の峻厳なスコラ的法哲学者と差別されなければならな い。 第四に、 これもゆるがせにできないことであるが、 かれは主として実証法哲学や、 現代国家の 法規範体系を説明するに役立つ政策とか便宜主義のよって立つ根拠に対 して、 少なからず興 味をも っていることである。 かれの論議の標準は、 「立法」 と 「法解釈」 が主であって、 訴訟場裡を目指 すものについてはむ しろ冷淡でさえある。 そのため、 かれの 「解答」 は、 法廷技術面を重視する者 の多い判例法学者にとって、 多少不満に感ぜられるのは、 またやむをえないことであろう。 世間には Scolasticisme に 通 じ て い な い どこ ろ か、 親 しみ さ え も 抱 こ う と は しな い 人 々 が 実 に 多 い。 か か る と きに、 か れ の 著書 が 十 分 と はい え な い ま で も、 簡 潔 明瞭 に Thomas の法哲学の概 要と、 かれ独特の合近代的解釈を示 してくれるのは、 道を同 じくするものにとって力強いかぎりで あ る。 かれ が とく に強 調 す る 三 つ の 主 題 は、 「自 然 法」 (dro i l t na i ture jus t )、 「正 義」 ( ce) そ して 「公 l i 共善」 (bien pub ) である 生 物 たると無生物たるとを問わず 全宇宙を統率 し c 支 配する. 。. も の は、. 、. 、. l 創造 主の 「永 久 法」 ( t l ex ae erna) で あ る。 人 的 行為 の 原 則 と して の 「自 然 法」 ( ex. l i s) は、 人類 が 単な る 理 性 依 存 の み で 獲 得 で き るも の で はな く、 む しろ 「永 久 法」 に 参 与 す natura i iper) こ と に よ っ て、 理 性 は 本 来 の 光 き を 放 ち、 かく て こ そ 真 の 「自 然 法」 獲 得 の 道 が t る (par c ひ ら か れ る と いう。, i l es に な ら っ て、 「交 換 的 正 義」 ( t s ot i ia commuta e jus は Ar t t i t ) と 「分配 的 正 va 仝 ) i ia di ibuta iva) と を 諭 じて い る が、 Dabin は jus t t t t 義」 ( s r l a 、 第三の正義として 「法的正義」( Thomas. 甲 45 -.
(4) . 高. 坂. i l きga jus t ) を特 にく わ しく 説 明 して い る。 cel e. 直. 之. そ れ は か れ に よ れ ば、 政 治 的 団 体 と して の 国 家 に. 対する国民の義務の理念として版り扱っているように思われる。 ま :「公共善」 について、 か れ は、 Thomas の 「人 定 法」( l ex human の 定 義 「人定 法 と は、 共同団休 の管理者によって、 制定公布された公共善のための理性の法である。 」からその意味を得て い る。 Dabin は、 「公共善」 を実現する法的秩序の限界と必要のために 法を 「適当」 ならしめ 「便 、 、 宜 的」 な ら しめ る こ と を も 含 め て、 「公 共 善」 を 観 念す べ き で あ る と い っ て い る。 か れ が 主 と して. 関心をもっているのは、 前にも一言したように、 現代諸国家における法の制定と解釈に関して法学 者の示す技巧につ いてであって、 これがかれの 「自然法」 、 「正義」 にもまして、 「公共善」 の究明 に力を注ぐゆえんでもある。 ‘Theor ” の かれ の この 強 調 は、 名 著 と して 喧 伝 さ れ た ‘ i les e Generale du Droit , Bruxel , 1944. 基本的構成をなす三つの区分. ion du Droit. 2 (1 idique i t ,- Not .-La Methode . Jur .3 .-Dro. Naturel i l ce et Reg i e du Dr t ) o , Just .. において現われている。 すなわちかれは、 実定法の論理的 基礎たろ 「自然法」 や 「正義」 の解説をもって始めるかわりに、 現代の国家についてかれが観察し. た公共善を基底とするかれ独自の法観念から説き始めているが、 これをもってみても、 ほぼその意 図を察知することができるであろう。 (2 ) 実証法理論との巧みな融合 まず最初に Dabin は、 かれの法概念の基調をなす 「現実」 ( l ea i e t ) に即応する判例法のなか r に 表 現 され て い る 法 理 論 に つ い て 思 索 す る。 こ の 点 に つ い て、 Columbi t ter a 大 学 の Pa son 教 授. は、法を 「最高の政治的権力によって強制された人間の外面的行為の一般規律」 ( lrule a gene r a . of external human action enforced by a sovereign pol i ical au t i thor ty ) とす る Austin の流 . l l と b i H d D れをくむ o an かなり興味をもって 、 a n との間に見られるある程度の連関性について. 、. 7 ). い る よ う であ る。 land が法に帰せ しめているあらゆる特性は これを Dabin の な か に も 発 見 しう た しか に、 Hol 、 る。 一般 的にいって、 法 の 主 題 を な す も の は 「良 心」 (consc i i ence) また は 「信 念」 (convi t c on) であるよりは、 むしろ人間の外部的行動であることには違いないが、 Dabin は 「強 制 さ れ た」 f e ) という意味を、 国家の法に対 してそれが適用されうるあらゆる場合において、 服従を要 ( o r c. 求するという強制よりは、 より程度の低い意味に用いているように見受けられる。 8 ) かれは Thomas が、 「法 は、 そ れ と 相 容 れ な い 慣 習 に よ っ て 廃止 さ れ う る。」 と 説 い て い る こ と を特別の理由として、 法の廃止、 無効を宣言する大陸主義に対して、 多少の異議をもっている。 か れはまた同 じ趣旨から、 官公吏がかれらの許された自由裁量で、 ある法の適用 を欲しなかったから と いっ て、 そ れ が 法 と して の 効 力 を失 わ しめ る こ と に は な ら な い と い う。 こ の よ う に、 Dab in の 法 の 効 力 に 関 す る 観 念 は、 Aus in か ら Hol land に 至 る イ ギ リ スの 分 析 t. 法 学 者の 考 え方 に、 微 妙 に 接 近 して い る の を 否 定 す る こ と は で きな い。 しか しそ れ で も、 Dab in. は、 分析法学者以外 の者がもっている同 じような悩みを、実証的観念のうちに感 じている。 元来、契 約の当事者達は、 果してみずから個々の法規範を作るものであろうか。 この点、 Dabin は Kelsen 9 ) に反 対 して、 法 と い う ものは、 一般法則的性格をもたなければならぬとして、 消極的に解 してい る。 この よ う に Dabin の法概念は、 法の効力を決定することにのみ満足するのではないから、 少な l くとも Hol and のいう法の定義に比較して、 より以上のものを含んでいることは、 かれが法に対 1 1 ) してその究極 ないし目標の決定を企図していることから明らかに推測 できる。 一 46 一‐.
(5) . 異色あるトミスト, ジャ ソ・ダバンの自然法理論に関する研究 まず かれ は、 法 の 究 寛 を 「公 共善」 (bonum commune ) の な か に 見 出 そ う と す る。. 国家本来. の目的は、 いうまでもなく社会秩序の樹立にあり、 法はこの目的達成のための必然的手段である 。 この関係が、 国家に対して、 他のあらゆる社会的集団の行政権に対する正当な権利を授与するも ので、 こういった国家の法は、 それが他のすべての規則に優先する地位にあることから 、 真の法 l i ( e seul vrai dro t ) で あ る と い っ て い る。 こ の 点 にお い て Dabin と Radbruch は 、 、 ほとん. ど平行軌道を進んでいるよ 封こ思われる。 かれ は ま た、. 法 の 目 的 は、. そ の 時 代 の 公 共 善 (b i i l en publ ctempore ) を推進す ること で あっ. て、 この目的のための手段がすなわち法技術であるとする。 なぜなら 法はその性格上 「手段的」 、 ins l) のも の で、 道 徳 と は根 本 的 に 異 な るも の で あ ら ね ば な ら ぬ 道 徳 は そ れ 自 体 が t ( rumenta 。 、 i 目 的 で あ る か ら、 「至 福」 (bきa t tude) に 対 して さ え 手 段 た り え な い と い っ て い る 。 Dabin の 公. 共善に関する考え方は、 アメ リ カの 有 名 な pragmatiste で あ る John Dewey, James H. Tufts ‘the gr 両教授が、 ieremy Bentham の 法 に 関 す る 功 利主 義 的 な 目的、 す な わ ち ‘ t t good of es ea the greatest number”. 1 3 ). に対 して 与 え た 解 釈 に 類 似 して い る。. も ち ろ ん、 そ こ に は 多少 の 相 違 が. ないとはいわれない。 しかし、 それぞれの立場において、 法の目的は 法の社会哲学上のそれであ 、 る とい う 主 張 を、ひ と しく 堅持 して い る の を 見て も あ る程 度 の 共 通 点 は こ れ を 看取 で き ると 思 う 、 。 Dabin は、 今世紀初期におけるフランスの著名な二人の法哲学者の見解を論駁するために か. れの著書. ” Theor i e Generale du Dr t” の な か で、 か な り大 き な ス ペ イ ス を 割 い て い る oi. 、. 。 Francqis G6ny ( 1861~) の 命 題 は 法 と は 一 部 分 「一 定 した も の」 で あ る と とも に 、 、 「分 析 さ れ、 解 釈 され る もの」 で あ り、 一 部 分 「科 学 的 で あ る」 と と も に 「 技 術 で あ る」 と いう こ と に 集 、 4 1 ) in は 法とはすべて分 祈解釈しぅべきものであって 約 され る。 Dab その時代の目的たる公共善 、. 、. の 方 向に 慎 重 に 誘導 され た 法 学 者の創 i定 に か か る も の であ る こ と を 指 摘 し よう と して いる 。 ま た かれ は、 同 じく フ ラ ンス に お け るも う 一 人 の 有 名 な 法 哲 学 者 で あ る L6on Du ui g t (1859~. 192 8 ) の、 法に関する社会心理的観念にも反対する 法学者 (Dab i n は、 これを法の慎重な創設者 。 の 意 に とって い る。) は 自 己 の 法 技 術 の 素材 を 、. 実 に 「道 徳」 か ら、 「慣習」 か ら、 あ る い は 「社 会に お け るそ の 他 の 制 約」 か ら獲 得す るも の で あ っ て そ れ らの も の を 自 己の 日 的 に そ う よ う に 、 、. また自己の法技術をもって、 その外貌を改めていく かく して法学者は 社会の動静と比較して徐 。 、 除に僅少の差をしか覚えないような確呼たる法文の作出に努めなければならない それゆえ 法の 。 、 制定に当たっては、 その実際的便宜と強制能力をよく考察する必要があるという 。 Dabin の こ の 「技 術」 に つ い て の 説 明 は ‐ 、 Radbruch がかれの 「法科学」 n ,に関する著書 (Ei. fnhrungi n di e Rechtswi ssenschaf t ,1910)の な か で 示 した 例 証 に、ほ ぼ類 似 して い るよ う に 受 け 取. られる。しか し用語法の相違は根本的径庭を意味することがある し またかれ らの Neo‐Thomiste , 、 という立場の相違からも、 軽々しく結論づけることを控えて 次回の研究に譲りた 、 6 1 ) い と思 う。 Pa t t erson 教授も、 これに対する決定的な意見の表明をさけている 。 とも あれ、 Dabin が法定立の technique を特に強調し また時代的制約を受ける公共善を重視 、 していることから推測しても、 かれはただ普遍的 諸原則をもって実証法を抑えつけ 実証法の従属 、. Neo i ‐Kant ste. 性 を強 調 しよ う と す るも の では決 して な い。 Neo‐Thomi t s e と して、 か れ は、 両 者 の 関 係 を あく ま. で科学的に究明し、 その明確化を図ろうとするところに かれの実証法的世界観をうかがうことが 、 で きる。 =. 1 ( ) 総. ジャン o ダバンの自然法理論. 説 - 47 一.
(6) . 高. 坂. 直. 之. (A) 自然法の地位--一自然法概念の客観的価値--. くの懸案が提出され、 自然法、 正義そして実証法という、 この三者の関係については、 今まで多 論 究 され て き た と こ ろ で あ る。. しか し、 こ れ ら の 問 題 は、. 次 の よ う に 要 約 で き る の で は な かろ う. 地位を で か。 すなわち、 まず第一に、 自然法およ び正義は、 法という 「合成物」 のなか 、 いかなる 法 組 織 の 出 発 点 に も、 中 心 に も 位 占 め て い る の か と い う こ と。 第 二 に、 も し自 然 法 お よ び 正 義 が、. 理由で、 法のなかに顕現 置するものでないとするならば、 それはどのようにして、 またはいかなる び正義は 、 いかなる役割を されているのかということ。 第三に、 法を制定する場合に、 自然法およ も つ か と い う こ と で あ る。. 与された理性の規範としての自 まず前提として認容しなければならないことは、 客観的価値を賦 く て この問題を論ずる実益はな 然法概念のなかに、 ある意義を見出すことであって、 これな し 、. し、o. 「 情」 動 ある学者は、 「人間は、 個人的たると集団的たるとを問わず、 そ の 行 において、 感 ) と か ら分 離 した い か な る 理 想 的原 則 に よ っ て も 支 配 te intere tegois i と 「利己心」 ( on (pass. て ”Homo homini され るも の で ない。」と 確 言 して い る。 も っ と も、 人 間 は 他 人 との 関 係 に お い 、 8 1 ) lo idelajungle) に の み 従 う “ 「ジャ ン グルの な か の 法 則」 ( lupus , (人 は 人に 対 して 狼) と い う. すなわ のかも知れない。 実定法にしても、 慣習法に しても、 実際には、 権力を有する者の物質的、 一定時期において 、 ち経済的優越性のなせる産物にすぎないか、 あるいはまた、 歴史の流れのある とって 自然法学者でない者に れない すぎないのかも知 したものに 。 相容れない諸権力の調和を表現 forces ldき ‐ ) と し て、 自 然 法 は、 ュ マ ニ テ を 引 き 出す 「観 念 力」 ( es 9 1 J. い わ ば 知 的 意 志 と して の 存 在. か、 あるいはまた、 制定法に対する究極 的助力としての存在かのいずれかである。 る これに対 して、 真向から反対するのが Dabin で あ る。 か れ は い う。 そ の よ うな理 念 は、 単な のでもないと。 さ 作りごとにしかす ぎないか、 あるいは、 少なく とも根拠の薄弱な仮定以外の何も くつがえされてしまう とま らにまた、 もしそれを許容するならば、 あらゆる実体は直ちに根底から ” l T h i S ca” の な か に 求 めて い eoogi umma で極言 し て、 そ の例証 を St, Thomas Aqu nas の る。 そうして結局、 かれの自然法観を次 のように被羅している。 すなわちかれによれば自然法は、 「個人の利益に優先する公共善の規準であると同時に、 理性的措置というよりは、 むしろ実際の経 験的事実に 即して定立された実証法に対する服従の原理そのもの」. (… …et le principe meme. t positif a une methode rationnelle ぼるlaboration.) i αune su jきt on du droit di. であ る。 そ こ. te と違った特異性を、 容易に看板されると思う。 s に他の Thomi (B) 潜在意識 としての自然法理念 実際、 大多数の人々は、 その思慮分 別のいかんを問わず、 「自然法」 およ び 「正義」 を礼讃し、 しかも これをば、 あらゆる表現を用いて述べ伝えているのである。 この点、 かれらは格別に科学的 2 ) 0 というわけではないが、 哲学的、 道 徳的秩序の実体としてこれを確信しているといえる。 しか し、 不 幸 な こ と に は 「自 然 法」、 「正 義」 と い う、 こ の 二 つ の 概 念 が、 倫理 的 性格 のも の で あ. るということ は大体一致しているが、 両者の正確な類別的定義については、 専門家の間でさえ意見 がまちまちである。 たとえば、 ある学者は、 「自然法の必然的な帰結か、 またはその細目決定にほ かならない実定法の理念をなすも のが正義であって、 それはあたかも善が道徳の理 念であり、 美が 1 2 ). 」といい.また「正義は法と道徳とを媒介する原理 であり、 法 芸術の理念であるのと何ら違いはない。 2 2 ) 」と表現する学者もあれば、 あるいは 「正 の一部分を形成するかぎりにおける正義を自 然法という。 義は実定法のための絶対的な価値の標準であり、 その原型、 模型であって、 これを規定づけるのが 3 2 ). 」 自然法 であるが、 正義の理想は、 批判的実証主義の仮設的基本規範よりほかの意 味をもちえない。 - 48 -.
(7) . 異色あるトミス ト, ジャソ・ダバ ソの自然法理論に関する研究 2 4 ). と す るも の な ど、 そ の 他 枚 挙に い と ま が な い。 いず れにも せよ、 こ う い っ た こ と は、 な ぜ 「比 較 研 究」 (き ive) な る も の が、 相 類 tudecomparat. 似する概念を指摘検討することから論理的に始めなければならないか、 という理由の典型的な事例 であろ う。 この 一 つの 概 念 は、. 道 徳科 学 の分 野に お い て も ま た 重 要 で あ る こ と は、. いう までも な. い。 それゆえ法学者は、 たとえ両者の役割が、 厳正な意味で法的領域から逸脱している場合であっ ても、 微妙に相通ずるこれら二概念の分析にささげる時間を惜しむ べきではあるまい。 Dabin の本意とするところも 、 これを純粋の法科学における 研 究 課題とするよりは、 むしろ ience morale の 問 題 と して 論 ず る こ と に あ っ た よ う で あ る sc 。. 2 ( ) 自然法の概念 (A) 伝統に基づく概念の許容範囲 (a) 自然法の特性--iu i s Naturale と Lex Natural s と の関係. 従来、 自然法という用語の最も一般的な用 法に従えば、 自然法の 「法」 は、 主題と しての人間の 行動に課せられた一定の規準の意味に理解され、 人間活動における絶対的様式として受け坂 られて い る。 それ は決 して科 学 的、 ま た は 技 術 的 法 則 の 意 味に と る べ き で は な い。 こ の こ と は 同 時 に 経 、. 済的諸原則によって構成された自然法の観念を排除する理由にもなる。 いわゆる科学的法則 ( lo i i i負que)な るも の は、技 術 的 実 施 を 許 容 す る と い う (suscept ib les d’applications techniques)、 sc ent 一 見、 ま こ と に自 然 法 ら しか ら ぬ 相 貌 を 呈す る (しか し、 Dabin は 後 で 説 く よ う に 、 このよ うな. 古典的自然法概念を、 必ず しも全面的に支持するものではない)。 またわれわれは、 人間と他の動 物または生物、 無生物のいずれにも共通する自然法を認めないのはいうまでもない。 ともあれ、 自然法を構成する人類行動の主題たる法則の本質について、 明快な推定的判断を下 す こ と は至 難な わ ざで あ る。. ま た 用 語 に つ い て も、 jug naturae と ius naturale, お よ び lex. l i naturae と 1ex natura s は、 互 に 交 替 して 用 い られ る ほ どの 共 通 点 をも って い る こ と も 否 定 でき. ’ in は、 「法」 お よ び 「権 利」 の 典 型 ( 1 な い。 しか し Dab exempl e) と 見 ら れ る 「自 然 法」 お よ び 「自然権」 をば、 自然的な 「公正」 (ブ凝お naturel) その も の を 意 味す る よ う に 理 解 して い る。 それ と い うのも、 St j . Thomas が正義の徳を論ずる場合に、 正義は、 他人の 「正当な権利」 ( us i i jus pos ivum) の い ず れ に 基 づ くも の suum) --それが自然法 ( us naturale) ま た は 実 証 法 ( t 7 2 ). であれ、 --の 尊 重 を、 そ の 目 的 と して 有 す る 徳 であ る と して い る か ら で、 Neo ‐Thomi t s e と して の Dabin が、 これ に 拠 っ た こ と は 当 然 で あ る。 こ こ に 「正 当 な」 と い う の は、 客 観 的 正 当 性、 す なわち 実在 の 法 規範 に 対 して、 大 陸 法 学 者 の い わゆ る 主 観 的 正当 ( i jus f) と 見 ら れ る も t e subj ect 8 ) 、2. のを指称する。 St ,Thomas は同じ条項の末尾において (前註参照) 、 ius divinum. な る 観 念 を 喚 起 して い る。 h j bona) に関する教示と道徳的悪事 (ma そ れ は、 us umanum と同じく、 道徳的善事 ( l ) に関 a す る 禁 止を 説 い たも の で あ る が、 そ こ か ら 問題 の jus divinum は、 lex divina に す ぎな い こ と. が、 続 いて 観 察 され るの で あ る。 さ らに 続 い て St us gentium の分類を試み、 他 . Thomas は、 j 人の 権 利と は全 然 関 係 の な い 均 衡 (commensura i t onem) - - たと え ば、‘ 子 孫 繁 栄 を 目 的 と す る 男女の釣り合い--について想定し、 さらに進んで、 人類と動物に共通の jus naturale の 観 念 に ivum は lex natural お よ ん でい る。 こ の ように して、 jus naturale と ius posi t i s 、 ,lex divina , l ex humana の概 念の な か に、 巧 み に 併 合 され る こ と に な っ た。 同 じこ と は 正 義 す るも に 関 の 、 ばかりでなく、 あらゆる市民社会における法的措置を含む i i i l scv e という言葉についても いわ L 1. れ るの であ る。 最 後に、 法 規 と して の 法 を 版 り 扱 う 場 合、 St i s . Thomas は、 好んで lex natural なる語を用 いているが、 同じ文脈中で、 たまたま ius なる語をも、 法規の可能な目標 (正義を標 r4 9-.
(8) . 高. 坂. 直. 之 9 2 ). 梯する法) としてのみならず、 その内容においても、 法規と同義語として利用 している。 こ の よ う に 説 い て き て、 Dabin は、 トマス的法思想についての最も信懸するに足る一註釈者の言 に こ とよ せ て、 次 の よ う に 結 ん で い る。 す な わち、 「そ の と き の 用 法 に 従 って、 Thomas は、 こ ’. (Conformきment a lusage du temps, saint れら二つの言葉を無頓着に用いてい る。」 ( 3 0 ). le et dr l i t na ture 〕 o ) と。 emploie indi圧さrem ment ces deux termes 〔loi naturel ,). TH‘川 AS. その 時代の. その用法が、 偶然にも幾世紀にわたって支持せられ、 現 代においては、 道徳哲学および自然法に関 するおびただしい論説のな かに採り入れられているというのが現実のようである。 sans trop d’6quivoque) 1 と い う 形 容 詞 は、 「概 して 暖 昧 な 点 の な い」 ( ture と こ ろが一方、 na ことをその本来の意味とするから、 自然法と称せられる人類行動の規範は、 いかなる立法者 (それ は神であれ、 人間であれ) による形式的介在をも排除して、 理性の統制のもと、 基本的傾向として 顕われる人間性そのものから明確に引き出されるのである。 もっとも、 実証法は自然法に対し、 何 jouter ) ら か 附加 す る (a . 場合もあ ろ う し、. t re rancher) 場 合 も あ る で あ る ま たこれを 限定す る (. う。 しかし実証法は、 いかなることがあっても、 自然法を否認 しては成立しないという意味におい 3 2 ) て、 自然法に支配的立場を与えている。 立法者は--それが少なくとも人間である限り、 なおさら 一一人間性という前提にそむく権限など、 あろうわけがないからである。 自然法の特性は、 人間性の特質から流れ出る。 しかも人間性なるものは、 あらゆる人種を超越し た全く同一無変化のものであるから、 その内容は、 個人的条件、 歴史的ないし地理的環境や、 文 明、 女化の多様性にもかかわらず、 普通的妥当性をもっている。 天性はみずからを詐わることな く、 またわれわれを欺蹄することもない。 天性の教えるところ、 議論の余地のない確定した合法隣 3 4 ) を も つ もの で あ る。 Dabin はこのかぎりにおいて、 伝統的スコラ的自然法概念の支持者たるを失 わない。 (b). 「第一原理」 と、 これに従属する諸規範. 人 間 性の 特 質 が も つ 限 界 と、. そ れに よ っ て 引 き 出 さ れ る 自 然 法 の カ テ ゴリ ← に 関 して は、 naturel. いろ. を一般的にして必然的な 「第一原理」. いろ見解がわかれている。 伝統的な古典学派は、 inc i (pr ) に向う普遍性、 不易性およびそれらの性質に固有な確実性の意にとり、 そ r s e emi pes pr esseconds) す な わ ち 「前 者 に き わ め て 密 接 な特 殊 の 「第 一 原理」 を 「第 二 次 的 規 律」 (precept inc i lus ) か ら 区 別 して い ions particulieres toutes proches des premiers pr 的結 論」 (conc pes 3 5 」. る。. 後世における解釈のなかには、 自然法の内容として、 第一原理と、 合理的立論のもとに第一原理 3 j t ) から展開したそれに多少近い関係にある取り極めのみを包含させているのがある。 このように、 少 “. なくとも歴史的には、穏和派に属する自然法の概念(une conception ” minimaliste du droit‐na l t ) が存在していることは事実である。 そういった自然法は、 天性の傾向が示す直 接 厳 密 な ur e 「所 与」 (donnG) に 限 定 さ れ る の で あ る。 l i t s e) 的 自 然 法 概 と こ ろ が、 も う 一 つ、 全 的 要 求 を 主 張 して や ま な い、 い わ ば 過 激 派 (maxima. 念は、 これを天賦の道徳観に基づく特性から発する理性の真正な作用として考えられる終極まで拡 l 張 す る の で あ る。 た と え ば、 Lec ercq に よ れ ば、 自 然 法 は 「人 間 の 社 会 性 が 意 味す るす べ て」 で 3 7 ’. あ る と い う。. 前者においては、 第一原理並びに第二次的規律と、 それらに多少近い版り極めとの間の連絡地帯 に対 して、 明確な境界線を引こうとはしない。 厳密な概念づけの不利益は、 自然法の具体的内容 を、 むしろ漠然たる一般性の意に化せしめることであって、 それは無益な言語表現の 鉄陥を惹起す るだけである。 0- ‐5.
(9) . 異色ある- 、ミ ス ト, ジ ャ ソ o ダバ ソの自然法理論に関する研究. また後者に おいても、 広義の概念づけの危険は、 単にある事件に関する真相が明白にされ に関する真相が明白 たとい. ー 与 され ぅ だけの 解 決 に対 して、 自 然 法 の N 効力 が が賦 る こ と に な る。 こ の よ う な こ と は、 厳に 警 戒 す べ ーる. きではなかろぅか。 最近の傾向、 ことに自然法再生 ( l l t na a renaissance de droi ture ) 運 動が晴 3 8 ). 伝 され て か らの 趨 勢 は、 前 者 の 方 向 で あ るよ う に い われ て い る し ま た Dabin も Thomi t s e と 、 、. しての地位を失わない限度において、 法科学というよりはむしろ道徳 しろ道徳科学の方 科学の方面から 面から、 これに同情 的な態度を見せている。 ところが世間には、 かかる自然法理論のもとでは、 実証的法規の 「合理的変動」 ( la legitime i i t var on) に つい て 説 明 で き な い こ と に な る と 危 倶 す る 者 も あ れ ば a 一 方 に は、 社会科学の 、 また 3 9 ). 領域における論理 的な演輝的推論に対して、 信をおかない者さえかなりいる。 ) 自然法の主題--特に対 隣人的 ( ( l c t ad a e rum) 義務性の強調--. 自然法の主題に関しては、 --または、 それと同義語である人為によらずとも確立さるべき必然 性を有する法規についても同様であるが --それは人間性によって課せられたもろもろの義務につ いてのあらゆる指図を包含するということができる。 その結果 各自に自己のものを与えるべき 、 ibuere) 義 務、 ま た はも っ と 広 義 に 他 人 に対 す る 義 務 ば か り で な く (suum cuique tr 、 、. 創造 主. に対する義務、 自己に対する義務、 家族の観念から演樺される義務 (必然的に家族法の観念まで発 展する) 、および国民、 統治者双方に対して課せられる政治的義務 (その自然の成り行きと して、 政 治法にまで進展する) をもまた包容する。 Thomas Aqu inas は、 い ま 一 つ の 区別 の 原 則 を 採り 入 れ て 、 「自 然 法 理 念 の 秩 序 は、 わ れ わ れの 自 然 的 性 向に 一 致 す る。」 ( secundum‐ l inat i ‐…ordinem inc l ium, est ordo tura onum na s na turae praeceptorum legi ) を、 次 の よ う に 分 類 して い る .. 。 す な わ ち、. (1) あ ら ゆ る 実 体 に 共. 通のもので、 その固有の性質に従い、 それらの保全に向わせる傾向。( 2) 人類と他の動物のみがも つ性向で、 男女性の和合一致、 子弟の育成、 およびそれらに類似する事柄に向わせる傾向 ( )人 。 3 類にのみ固有のものであって、 たとえば神を求める欲望とか 無智を避け 隣人に対し悪をなさざ 、 、 るように強制される社会生活を希求する欲望、 その他、 理性的動物と して人間性に適合するもろも . ろの善 に向 わ ん と す る 傾 向 が こ れ で あ る。. これらの分類のなかから、 人間の全的義務 (自己、 家族、 創造主、 隣人、 社会に対する各義務) に適応する原則を確認することは、 さほ ど困難ではない。 本来、 人間性なるものは、 単独で存在すべき素因を有していない、 それはむしろ、 社会的、 政治 l 的資 性そ のも の であ る と い う こ と が、 「社 会義 務」 ( iaux) な る 概 念 を 自 然 法 か ら es devoirs soc. 逸走せしめなかった大きな原因である。 「社会組織以前の人間状態」 ( き t tde nature) を論 ず る a 学者でさえ、 自然法から社会義務を排斥する説に対 しては、 これを抑制したり、 あるい はみずから 批判を慎んできたものである。 ただ、 「社会組織以前の人間状態」 なる主題に拘泥する論者は、 個 々の特殊な社会の実際的具体 的機能から推進され、 しかも実証的に樹立されたあらゆる経済、 社会 および法律制度を、 せいぜい無視 しようと計画したにすぎない。 ところが実際はそれ どころではなく、 自然法学派において、 われわれは、 人間の 「理性的性格」 i i (nature ra e)、「社 会的 性格」(na turesoc sonabl l abl e) と、 「他 人 に対 す る義 務」( es devoirs α〆. α高砂粥”) --それは個人相互関係たると、 純社会関係たるととを問わない--との双方を並行し て顕揚 せしめんとする傾向を、 はっきり感知することができるのである。 疑いもなく、 自然法およ びこれに基づく法令は、 第一原因 (創造主) 並びに自 己に対する義務を含めた、 あらゆる義務遂行 上の諸準則のうえに拡がり続けている。 しかし、 そのなかでも特 に強調すべき傾向は、 われわれの ’accent es 「社 会生活 が課 す る 義務」 でな け れ ば な らな い ( 1 t por te sur les devoirs de la vie 一 51 -.
(10) . 高. 坂. 直. 之. i もtさ)o en s oc. ところが自然法は、 最初考えられていた 「道徳科 学」 ないしは 「社会科 学」 の段階から、 感知し 難いほどきわめて徐々に、 「法律科学」 という、 前者にやや近接はしているが、 いわば特殊な段階 に移行してきている。 それは目下のところ、 むしろ科学的不確実性を露呈しているにすぎないとし ても、 将来の必然的発展を期しうる喜びを 感ずる。 このように、 自然法における当初の観念からい ち早く完全に脱皮 してみたいという誘感を限りなく覚えるのは、 ひとり Dabin のみではない。 (B). 司法的自然法の存在否定論. ) 自然法概念の不明確性 (a 国家が法の定立を志して以来、 自然法の概念に対 してなしてきた暖昧な見方が現在もなお存在し ているために、 われわれは、 その問いに対して満足な解答を期待できないでいる。 すなわち、 自然 法をば法なる範噂のうち、 いかなる場に関係づけるべきかという疑問がそれである。 まず人間の道 徳的完成を目指 して、 良心と神の前に善を行い、 悪を避けるという、 いわば道徳規範を強制する法 l i に 関 餅 づ け る べ き か。 あ る い は、 時 代 的 制 約 を 受 け る公 共 善 (bi ) な る 見解 の en publ ctempore. もとに当局によって課せられた社会的根源の法として、 いわば法令規則としてランクすべきか。 一 言にしていうならば、 自然法は、 道徳、 または法のいずれの指導的原理であるかということであ る。. しかし、このような問題は、さほど文明が複雑な様相を呈していかなかった時代、 すなわち国家の o l e) 法が召使の役割と、道徳の執行者と しての役割 ( r e de servante et dexecutrice dela moral に満足していた時代には、 実際上あまり重要なものではなかった。 ところが現代のように、 数多の欲求、 殊に物質的欲求の急激な増 加と、 工芸学の発達、 大衆の出 現という諸現象をも伴っては、 いまや実証法は、 道徳に対Lて間接的関係があるにす ぎない多く の要求をも体系づけ るように導かれている。 それゆえ、 現代の法 哲学的興味が特にかけられてい るのは、 自然法といわれる行為の規範が内容となっている法秩序に関する諸問題であるといわれて. 4 3 ) し、る。. 元 来、 l e. law rectum, recht 1egi s , right ,loi , ,. という一連の語は、 通常それぞれ道徳規範、 裁 判規範、 法規範 のいずれにも多少の関所をもっている。 ところが 「自然法」 なる術語は、 そのいず れを指していうのか、 それ自体、 証すべき根拠を示 していない。 したがってこれを決定するために は、 歴史的判断をまつよりほかに、 その結論を見出しにくいであろう。 すな .わち、 人間が絶えず自 然法を追求してやまなかったのは、 人間は社会的、 政治的な道徳上の義務を負うという宿命のもと に、 かれらは道徳行為に関して、 一貫せる原則を捜し出そうと絶えず努力し続けてきたからである という歴史的見方が正しい。 スコラ的法哲学者は、 自然法を人間生活の究極の目的、 すなわち幸福に到達するために、 われわ れに課せられた命令であると説き、 さらにそれは、 個々の行為に対する規範であり尺度であると す る。. しか して そ の 第 一 原 理 は、 「善 を 行 い、. . 悪 を避 く べ し。」. lum vi tandum. ) と い う こ と に ほ か な ら な い。 ma. 法」 学派. (bonum est prosequendum,. この よ う な 伝 統 的 教 示 は、 「自 然 法 お よ び 国 際. t de la nature et des gens (PEcole du droi. ”law of nature and nat ions“. ius に 従 え ば、 school--) に よ っ て さ ら に 繰 り 返 さ れ て い る。 たとえば Gro t. 法 は 善 に して 賞 揚. すべきものを強制 し、 正 しきものに対してのみならず (なぜなら、 法は正義を顕現する諸義務に限 . 4 5 定さるべきものでないから)、他のもろもろの徳の主題を決するものをもま た包含するのである。 そ れゆえ自然法は、 「正 しき理性の諸原則であって、 われわれの行為が合理的にして社会的な人間の 本性と必然的に一致しているか否かによって、 その行為が道徳的に価値があるか、 あるいは無価値 - 52 -.
(11) . 異色あるトミスト, ジャ ソ・ダバ ソの自然法理論に関する研究 4 6 ). であるかを、 われわれに知ら しめるものである。 」としている。 すなわち自然法は、 人間の行動に関 する理論と相並んで、 法の一章を形成する道徳哲学 あるいは一般倫理学の中心観念のなかに顕現 、 されるとす る Grotius に対 して、 Dabin は か な り 接 近 したも の を も っ て い る 。 in によれば 種々の事柄に自然法規定の適用が議論される場合の自然法論は つ ま り Dab 、. 、 特殊. な 倫 理 学 の論 説 ( i きs de morale sP彦 tra t c”Ze) に す ぎな い の で あ る。. (b) 自然法と特殊の道徳 個人の徳行は、 正 しい意思の要 素を必要と し、 それなく しては 人間の行為に善も徳もありえな 、 い。 実 質 的 に い え ば、 自 然 法 と あ る特 殊 の 道 徳 (moral l i espec a e) は 同 じ法 則 を 示 し、 同 じ法. 令を制定せしめるものである。 もっとも、スコラ 哲学者の限定的観 念によるならば 自然法こそ そ 、 、 の第一原理を特殊な道徳に供給するものにほかならない しかし実際上 個人間を律する自然法と 。 、 4 7 j 個人相互間の道徳との間は、 いまだかつて区別されたためしはない し 婚姻 出生 教育について 、 、 、 の自然法と家庭道徳との間、 また政治的自然法と政治道徳との関係においても 同じことがいえる 、 のである。 ただ厳密な意味においていうならば 「自然法は 人間性の必須条件を表現 しながら 、 、 、 幾 多 の事 項 にお け る 道 徳 の解 決 が 由 来 す る 根 源 を 示 して い る 」 (Le droi t na l ture imant 。 , expr. les exigences del a nature, repr6rente l z d’o目 derivent ies solut ions de la morale a so拶γcE i d en ces verses ma i t eres ) と 一 応 いう こ と が で き る .. 。. また道徳における二つの分野についても、 全く区別を設けられない すなわち行為の規範と して 。 の道徳と、 法律制度における道徳がそれであるが、 前者は普通の意味でいう道徳であり 後者は 、 、 法と称せられる独特の社会理念が制する諸問題を支配する いわば「法制上の道徳」(une mor l a e 、. des ins i t tutions ou ~ns i ionne l l t tut ) で あ る。 しか し、 こ の よ う な 区分 解 釈 に 徹 す れ ば 家 庭 e“ 、. 道徳、 政治道徳や社会道 徳という表現をさえ暖昧にするであろうから これを認容すべき客観性に 、 乏しいといわねばならない。 もっとも法と道徳との形式的分離それ自体が 上述の二つの分野 を是 、 認する危険を冒しているといえるであろう ともあれ この区分立ては 余りにも人為的であ 。 り 、 、 皮相的である。 Dabin は、. そ こ で次 の よ う に結 論 づ け て い る 。 す な わ ち 自 然 法 は、. 同 質 的 綜 体 性 (Tot l i t e a. homogene ) と して見た道徳規範にすぎないが、 それは実証的道徳規範と 倫理学者の科学的研究 、 によってなされる発達を予想 して、 あらゆる事物の根源 的性質を示すというと こ ろ に そ の 限界が 、 ’ imi indicat ee a l あ る と。 (… …maisl t ion del a nature, en attendant les develop ements oi morale positive et par l procures par l al l sc ienti6que des moral e travai i stes ) ,. p. (c) 自然的道徳規範と して見た自然法 (道徳的自然法) と実証法との関 係 もちろん、 いま定義ずけられた意味における自然法は --少なくとも第- -原理に基ず’ く自然的 、 道徳規範と しての--国家によって定立された法令の意味における法に関するものでない 。 人定法 の 名 の もと に、 St . Thomas Aquinas は、 「よこしまな性質をもち、 堕落の傾向ある人間 ( Sed. ie a inveniuntur quidam prot qui t ad vi ia proni t erv ) を邪 悪 か ら 回 避 す る よ う に 強 制す る ,. 力を必要とするために、 また少なくとも悪行 を終娘せしめて 他 を 平 穏に導く ために …… ( , 、. i ecessarium fu t ut per vim et me n tum cohiberentur a maio, ut saltem sic male facere ‐ 5 0 ) desi t l i i i i stentes edderentr …. o , e a s qu etam vtam r )」 自 然 法 の 助 力 のも と に な る 国 法 ( I i. i i l ) を、 われわれに示 している。 国法は、 第一原理から引き出される 判 定 を通 して ( c v e j us i gentum の場合におけるごとく) あるいはま た 第一原理 の具体的決 定を通して (普通にいわゆ 、 、 le の場合におけるごとく) 自然法を完全に実効あら る jus civi しむるよう要 求されている。たとえ 、 ば自然法は、 罪を犯す者は処罰せらるべ しと規定 し 国法は 刑罰の該当すべき種類を決定 、 するの 、 - 53 -.
(12) . 高. 坂. 直 ,之. 5 1 ). で あ る。. によれば、 国法の役割は、 それが特に理論的、 実証的正当性を有する限り、 自然法に刑 l i 罰または褒賞規定を設けることである。 しかして 「個人の権 利の平和な喜び」 (a joussance ius Grot. ) を 保 障す る こ と が、 国 家 の、 ひ い て は 実 証 法 た る 国 法 の 最 初 の 目 的 で あ る こ t ibl i e des droi s pa 2 5 ) i tsoc al-- と は い う ま でも な い。 自 然 法 は、 政 治 的 社 会 に お け る 強 制、 あ る い は 社 会 契 約 (contra ) と い う 立 場 か ら 国 法 に そ の 基 盤 を 与 え、 国 民 の 服 従 義 務 l i e te aux promesses rinci e de la 負d p. p. 3 6 ). 、 悪法であるというより を正当化するものである から、 つまり国法にして自然法に背離するものは 4 5 ) は、 そ れ はも は や 法 の 概 念 に も 応 じ え な い と い う こ と に な る。. 本来、 従属、 派生の関係に立つ国法と自然法とのこの必然的関係から、 いかなる結論 が引き出さ. れ る で あ ろ う か。 も っ と も こ の よ う な 牽 連 現 象 は、 決 して 国 法 の み に 限 定 さ れ る べ き で な い。 あ ら. ゆる実証法令や制度も、 自然法に拠り、 自然法に由来している。 また教会法その他の宗教的領域に ) を精密にし、 完成させる役割を十分果す最高 おいても、 そうして結局、 道徳規範の所与 (donne 権威--神と教 会一一 によって課 せられたあらゆる実証的道 徳規範にしても、 つまりは自然法の制 5 5 ). 約 を受けるの である 。 ,. l i i l ipl ine spec ic ) e ) inc i a e)di sc vi ( pe desa(delalo pr ゆえに国法は、「その特別命令の原 則」( として観念す べき自然法独占権を主張することはできない。 むしろ自然法は、 人間の行動に対する あらゆる取締り規範--たとえば、 人間性という線にそうてのみ理解しうる規範--の基底におい てのみ必然的 に見出されるものである。 自然法の効力は、 道徳の場合においてこそ直接的に作用す. るが、 これに反 して、 それが国法の場合には、 単に間接的影 響力をみせるにとどまっている。 道徳 のみが、 人間性という段階において排他的に置かれるのであって、 ただその第一原理に関する解明 l i t ) が、 一般性、 不変性、 確実性をもっているにすぎない。 人間性的要求を特徴づける ons ( u o s のはそれである。 この意味において、 道徳規範のみが自然的であると称しうるであろう。 行為を規 制するその他の規律は、 道徳という媒介を経てのみ、 人間性にあずかることができるのであるか ら、 それら規律の実証的な解明だけでは、 人間性との関連づけなどおよそ不可能であるといわねば 5 7 ). な らぬ。 こ の こ と か ら、 自 然 法 が 国 法 の 本 来 的 所 与、 ま た は 核 心(noyau)と な る 限 り、 道 徳の 節 噂 に は 所 ) 属 しな い とい う論 は、 Dabin に は ど う し て も 認 容 で き な い。 ま た 国 法 が 自 然 法 の「裏」(doublure れ と だ と う か か ら い こ も、 ement ) と な る 限 り、 国法 は そ の 本 来 の 性 格 を 失 う の か 「補 充」 (suppl. は引き出せな い。 このように、 両者の相 互浸透、 相互扶助にもかかわらず、 各 たの目的、 機能の相違が存在してい るならば、 それぞれの要素は融合せずに存続する であろう。 もし道徳科学によって明示、.発育、 i b en) と 「公正」 結実させられた自然法の目的および機能が、 人 間 性の所与に適合する 「善」 ( 「 公共善 」 に貢 献す t j ) の意義 を明確にすることにあるならば、 国法の目的および機能は、 ( e us ′ ることにある。 公共善は、 総じて 「善」 と 「公正」 の防衛 (ただ し環境と技術の発展的可能性を留 保して) と、 人間性か らの所与でなく、 その理性によって想定された 「人間生活に有用な事柄」 ) を 包 容 して ine) を ね ら い と す る 他 の 多 く の 手 段 (mesures les al e.huma a vi (des choses uti. 8 5 ) し、る。. (d). ion) ent 自 然 法 概 念の 拡 張 (ext. と思われる、 いわゆる社 自然法の概念は、 しばしば 「善」 や 「公正」 の節時には無関係そのもの- l i ) 事項をそのなかに当然含む べきであると、 ・広く理解されるようにな s e 会生活に 「有用な」 (ut 5 9 ) った。 この事実こそ、 これら生活 に 有用な具体的事項が、 自然法の所与を国法へ移譲することを許 - 54 -.
(13) . 異色あるトミスト, ジャソ・ ダバ ンの自然法理論に関する研究. 容 して い る証左と いえる であろ う。 た と えば. Grot ius は 「自 然 法 学」( i l l jur ture sPrudence na ) e 、. を称して、 「時空的に普遍であり、 専断的意思に従属するいかなるものからも分離され、 われわ われわれ ネ が立法、 課税、 司法、 意思の推定、 証言、 事実の認定などを取り扱いうる綜合体を形成す ることの で きる科 学」 で あ る と して い る な ど は 正 に そ れ で あ る。 Dabin はさらに強調して、 その重要な論 証が、 自然法体系の間隙を実際に架橋するのであるという。 自然法は、 もはや単に、 あるいは主として道徳、 善、 公正の第一原理を示すものではない。 それ G I ) は、 あらゆる価値に関する実証法規の第 原理を示すものである。 すなわち道徳的価値ばかりでな く、 正に経済 的または社会的価値をも--たとい、 それらが技術的性質のものであり、 また道徳的 l 関心が喚起されないものであっても ( ra ement) -- 示 す も の と い わ ね en soi ,indi任さrentes mo ばならない。 このような観念に従えば、 それは法学者がいかなる範囲まで、 そしていかなる態様に お いて、 法 令 に よ る か れ らの 介 在 を 許 さ る べ き かを 告 げ る で あろ う し、 あ る い は少 な く と も、. 道徳. l 的意味における自然法 (d i t naturel ) が、 倫理学者に対 して個別的徳行 の第一 r ra o , au sens mo 原理を提供すると同様に、 法学者に対 して、 かれらの適用すべき法令の第一原理を供与するのが、 . le の 意 味に お い て) な の で あ る と い え ると 思う l naturel l icivi いわゆる自然法 ( o 。. ここにおいてわれわれは、 自然法の膝下に私的所有権の制度 (富の不均衡は創造主によって課せ 3 6 」 られたものではないに しろ) を置くばかりでなく、 ときには、 ある程度 「正義」 を犠性にして、「人 間生活に有用な」 社会関係の保障を完遂するために企図された、 たとえば取得時数の制度のよ たとえば取得時数の制度のよう≠ な i 多分に偶発的な解決方法 (solut ons beaucoup plus contingentes) ま で、 自 然 法 の も と に 置 く よ 動こな るの で あ る o (e) 「拡張」 された自然法概念と本来の自然法概念との関係 自然法の本来の意味は何か。 それは、 絶対的 「善」 および 「公正」 を誠実に求める人間 性に刻ま れた法則であるというに異存はない。 ’ ‘nouveau s 「新 しい 型」 の自然法 (droi t naturel‘ tyl ) と は 何 か。 そ れ は、 前 者 と は 全 く 違 e’. った概念でなければならぬ。 すなわち、 一定の社会国家内で、 人間生活に有用な事物を追求するた めに、 人間によって創られた法則なのである。 たしかに人間性は合理的 \で、 それゆえ、 有用な事物 を発明する才能に恵まれたものである。 しかも社交的であるために、 対個人的のみならず、 対社会 的に有益な事項にもまた関心を有する。 la raison invent ive la nature)、と は、 正 に 相 反 機 す る 傾 しか し元 来、 創作的理 性 ( ) と天性 ( 向にあった。 したがって 「善」 「 「 生活上の有用性 公正 と 」 」 との間には、 明確な境界線が引かれ 、 て い たも の で あ る。. ところが、 ひとたび確立された 「実生活に有用な事柄」 それ自体は、.その結果に対 して拘束力を 持続 しな が ら、 しかも 「善」 と 「公 正」 の 原 則 を 表 明 して い るの に 気 が つく。 この よ う に して、 時. 数制度や社会保障などに関する諸原則は、 それらが人間の生活上 有 用なるべきことを留保する一 方、 自然法は--あらゆる裁定が、 権威により、 公共善のためになされる 限り--それらの諸原則 に 従 う ことを 命 じて い るの で あ る。 生 活 上 有用 な こ と は、 決 して 自 然 法 に 反 す る も の を 包 含 じ てい ’ 1 l i ない ( ut e n’ait rien de contraire au. droi l t na ture )。結 局、. 両 者 の 間で 想 像 しう る い か な る. 紛糾も、 おそらく正当化されまいと思う。 われわれは、 ある程度において、 生活上の有用性そのものが、 「善」 および 「公正」 を、 ひいて は自然法を、 再編成するといわれないものであろうか。 社会道徳ないし政治道徳は 実際上 統治 、 、 者をして適正な法の制定を、 国民に対しては、 実定法の介在に先んじて 常に公共善に 従 う 行 動 、 を懲源している。 ところが公共善は、 結局、 各個人の善の ために秩序づけられる一つの手段であ 5一 -5.
(14) . 高. 坂. 直. 之. i ) で あっ て、 社 会に対 して 有 ermedia re り、 かかる媒介的役割をもつ善 (un bien‐moyen ou int 6 7 ). を網羅するものである。 このととから、 道徳的に無関心な態度も、 功利性そのも 用なあらゆる事柄, のを基礎として、 社会正義の名のもとに、 義務的代償を負わされているのだといえる。 すなわち社 会的有用性は、 公正、 道徳、 誠実とし・う美質をも包含しているといわざるをえない。 特定な場合に おいて有用性が主張されるのは、 単にそれが有益であるからというよりは、 む しろそれが公正であ i 8 ) ‐l り、 道徳的であり、 誠実であるという理由による。 われわれが、 社会一般の功利的発展に協力する のは、 その対象が上述の美質、 すなわち自然法的性質をもっているからにほかならぬ。 有用性が正 当性を帯びるのは、 自然的および人間的正義が、 個人に対 して、 公衆への献身的奉仕をあらかじめ 命 じて い るこ と か ら 起 る の で あ る。 つ ま り Dabin をしていわせれば、 自然法は、 われわれの創作 的理性に対 して、 社会的に有用な解法と心構えを見出す仕事をゆだねているといえよう。 そこでか れもいうように、 自然法と社会的有用 生発見の法則との間には、 何らの区別をも設けられないとい . う結論に達する。 しか し、 Dabin は、 これについて次のように条件づけている。 すなわち、 社会的 利益実現の手. i de i t 段として捧げられる実定法の諸規則が、 自然法からの 「派生」 ( on) または単に自然法に r va 対する 「準拠」 ( e t conf o rmi ) を口実として、 人間の合理性および社会性から 必然的に発する自 然 法 に対 して、 単な る 従 属 物 (annexβes ) と して の 地 位 に 置 か れ る と き、 そ の と き こ そ上 に 述 べ た. 前提は、 くつがえされるであろうと。 (f ) 「拡張」 された自然法概念と実定法概念との関係 i j 法学 ( ur s ) --社会 的有用性のみならず、 善、 公正をも標榛する一般的法規および prudence そ の 目的 ま でも 含む 意 味 の -- は、 「思 慮」 (prudence) に 関 す る 事 柄 で あ り、 「思 慮」 は、. 具. 体的事件に対する理性的評価の問題であって、 自然の傾向を示すものではないと して、「自然法学」 i jur ( l l sprudence na tur ) の論究を進める者があるとすれば、 それこそ自家撞着もはなはだしい e e といわねばならない。 およそ自然法は、 実定法に対 して、 あらゆる犯罪 (少なくも実定法の最大関 心事たる反社会性の特 に強い犯罪) の刑罰を、 「思慮」 以前に指令しているのである。 しかしひるがえって、 実定法適用の場合について考えてみるに、 個別的事件における処刑の形式 ばかりでなく、 社会的有用性決定の問題に関 しても、 そのほとん どが思慮に富む裁判 ( jugement i l ) に ゆ だ ね られ て い る と い う の が 事 実 で あ る。 何 ぴ と も、 こ の 現 実 を 無 視 す る こ と は で e prudent 7 1 ). き ま い。 そ こ で Dabin は、 社会的有用性の具体的決定は 拡張された自然法概念によって実定法 、. のなかに顕示されるのではなく、 む しろ、 良識ある裁判官の合議 (それが拡張された自然法理論に 合致するのは、 あくまで偶然であって、 本質的必然性を有するものではない。 )のなかに顕現される 問題 であ る と いう の で あ る。 この こと か ら当 然、 実 定 法 樹 立 の 責 任 あ る 法 学 者 の に な う べ き 役 割 が、 大 き く ク ロ ← ズア ッ プ さ. れてくる。 すなわち、 時代的制約 を受ける公共善にもとづいて、 変転きわまりない社会情勢に適合 す る 「有用 性」 を、 どの 程 度 追 える か と い う こ と で あ る が、 Dabin の実証法理論の究明は、 また の機会に譲ることにして、 ここでは、 上述の理由による結論のみを述べることにする。 かれによれ ば、 自然法は、 道徳的自然法にもとるいかなる法令をも制定すべきでないという否定面、 および政 治的自然法 (後出) の第一原蝶である実現可能な公共善の一機能と して、 あらゆる事物を規整する という肯定面をのぞいては、 いかなる意思決定をも、 立法を担当する法学者に与えるものでないと いう。 以上のことから推して、 いわゆる拡張された自然法概念と実定法概念とは、 理論上、 融和し ないという結論に到達せ ざるをえない。. - 56 -.
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