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哲学的制作論(続) : 制作における時間

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Academic year: 2021

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(1)Title. 哲学的制作論(続) : 制作における時間. Author(s). 野辺地, 東洋. Citation. 北海道學藝大學紀要. 第一部, 6(2): 1-10. Issue Date. 1955-12. URL. http://s-ir.sap.hokkyodai.ac.jp/dspace/handle/123456789/3576. Rights. Hokkaido University of Education.

(2) . 第6 巻 第2 号. 北 海 道 学 芸 大 学 紀要 (第一部). 哲. 学. 的. 制. 作. 論. 昭和30年1 2月. (続). --制作における時間--. 野. 辺. 地. 東. 洋. 北海道学芸大学岩見沢分校哲学教室. Toyo N(継起( i l } I 1[: Ph f Making inued) osophi ca1 T1 l eory o ,(Cont 一--Tin.e i n the h江aking .一--. 流れる時間は暗い時間である。 それは断つ時間すなわち制作的時間によって照明を与えられては 1 ) われわれはい じめて、 過去・現在・将来を生 じ、 行為的瞬間をのせてともに流れる時間である。 ” “ ま 制作 を主題と してとりあげ、 人間を特長づける側面を明かにしつつあるが、 ここではこれを 時間との連関において論 じようとおもう。 なお一言ことわらなければならないが、 制作とは人間に おける疎外的脱落者を作る働きのことである。 疎外されざる、 人間の個体のうちの、 つまり第一次 の脱落は、 意志、 構想などといわれる主観的なものであり、 まだ制作とよぶわけにはいかないが、 疎外された第二次の脱落は、 客観的実在的なものを作るいみでの制作にほかならない。 この第二次 の脱落をまってはじめて第一次の脱落は充足されうるのである。 つまり内的なものとしての自己が 外化されることによってみずからを完成するのである。 かつてわれわれは “生み” の時間を扱うさいに、 生みとは ”或 る も の が、 そ のも の の う ち か ら、 他 の も のを みず か ら の そ と に、 あ ら しめ る こ と” で あ る と して、 こ の 命題 を 分 析 す る こ と に よ っ て. 2 ) 制作における時間をとりあつかうこの場合にも、 これにならって 一つの命題 時間を解明 した。 、 をまず設定することから始めたい。 なぜならば、 一 つの事態を包括的に表現 した命題を分析するこ とによって、 そのうちに含まれるもろもろの関連が明かとなり、 事態全体の構造が判然とするであ ろうからである。 しからば制作は どのような命題によって表現されるであろうか。 制作とは ”或 る も の が、 他 の も の を 素 材 と して、 い ま ま で に な か っ た あ らた な る も のを、 あ ら し め る こと” で あ る。 こ の 場 合 の ”或るもの” を、 われわれは生みの場合の ”或るもの” と同様に考 えてはならない。 生みにおける ”或るもの” とは、 まだそれ自身、 明確な規定をもたないものであ る。 それは他のものとの区別を有しないもの、 それをきわだたせるための他者をまったくもたない も の で ある。 他 者 を 有 しな い と い う こ と は、 そ れ 自 身 がす べ て で あ り、 した がっ て そ の も の と 他 の も の と を 限る よ う な 限 定 が ない こ と で あ る。 ゆ え に そ れ は無 限 な るも の で あ る。 或 る も の は 一 つ と して 存 在 す るが、 こ の 一 つ と い う の は、 他 に 対 す る 一 つ で は な く、 無 限 な る も の そ の も の と い う い. みである。 或るものは、 それ自身、 何らの規定をももた ないものである。 それはまたもちろん、 自 我というようなものをももってはいない。 したがって或るものの自己を問題とするわけにもいかな し、o. ところが制作においては事情がまったく異なっている。 この場合の ”或 る も の” は ”他 の も の” - 1 -.

(3) . 野. 辺 地 東. 洋. をもっている。 それは他者と並存の関係にある。 関係にあるとい っても、 もともと交渉があるとい う関係ではない。 ただすでに他者と並存 しているのである。 たがいに交渉のない他者として、 すで にそこにあるの である。 このような無交渉な他者は何であってもかまわない。 また幾つあってもさ しつかえない。 結局、 そこにあるものは無数の多数者である。 ”或るもの” もこの多数者のうちの 一つである。 ”他 の も の” も こ の 多 数 者 の う ち の 一 つ で あ る。 こ の こ と が ”或 る も の” に と っ て “他 の も の” を 他 者 た ら しめ て い る ま た 同 時 に 同 様 の い み に お い て “他 の も の” に と っ て “或 。 、 ” ” る も の“ が他者なのである たがいがたがいにとって他者である そのうえここで 或 る も の と. 。 。 ” いっているのは特 定の或るものである。 多数者のうちで ”或 る も の と と く に 指 す の で あ る か ら、 ” これが特定の存在者であることは当然である。 いいかえれ ば、 “特定の或るもの である。 決 して ’ なのであ ’ では なく “多 数 者 の う ち の特 定 の 或 る も の’ 無 限 な る一 者 と い っ た よ う な “或 るも の’ 、 ” “他 の も の も や は り 多 数 者 の う ち の どれ ’ と 同様 に る。 こ の “多 数 者 の う ち の特 定 の 或 る も の’ 、. ” “ でもいいものというわけではない。 やはり特定の或るものを指して 他のもの といったのであ ” る。 したがって “他のもの” はそれ自身では ”多 数 者 の う ち の特 定 の 或 る も の で あっ て、 さ き の ”多 数 者 の う ち の特 定 の 或 るも の” に 対 して、 “多 数 者 の う ち の特 定 の 他 のも の” と な っ て い る の. で ある。. ” こ こ で さ き の “特 定 の 或 る も の” と の ち の ”特 定 の他 の も の と は、 た が い に 他 者 の 関 係 に あ る. ことが明かである。 そしてこれらはいずれもすでに存在してい たもので、 たがいに他者の関係には いるまえから、 たがいに他に独立にすでに存 在していたものである。 このさいわれわれは一つの 重 ” ” ” 要 な こと が らに 気 づ く で あ ろ う。 そ れ は さ き な る ”或 る も の は 主 語 で あ り、あ と な る 他 の も の ” ” ” ” は目 的 語 で あ る と い う こ と で あ る。 こ の主 語 と な っ た 或 る も の は 目 的 語 で あ る 他 の も の に ” ” ” “ ” 働 き かけ る ”或 る も の である。 それは能 動者である。 他のもの は 或 る も の に よ っ て 働 き. ‘他のもの” である それは受動者である。 ここに働きかけるものと働きかけられるも かけられる ‘ 。 のとの、 二つのまったく立場を異にするものの存在がみ られるのである。 この両者は、 始 め は た がいに無関係の存在者 であったが、 いまや一方は他方に対 して働きか するものであり、 他方は一方 から働きかけられるものとなっている。 一方にとって働きかけることは、 他方にとっては働きかけ られ るこ と で あ る。 も ち ろん、 か か る 関 係 に あ っ て も た が い に 他 者 で あ る こと に 変 り な い。 い な、. むしろたがいに他者 であるからこそ、 そこに働きかけと働きかけられとが生ずるのである。 両者の 能動と受動というたがいに対立した態度が同時に可能なのは、 そこにたがいに独立した二者がある からなのである。 もともと能動と受動とは二つの働きではない。 一つの働 きが二つの対立したこと として現ずるのは、 そこに二つの対立 した存在者があるからである。 一方にとって能動であるもの が、 他方にとっては受動なのである。 さ らに 重要 な こ と は、 働 き か け る も のは 働 き か け る 性 能 を みず か ら も っ て い る と い う こ と で あ “ る。 こ の能 動 性 は 個 体 の 個 体 た る ゆ え ん の も の で あ っ て、 こ れ が あ る か ら こ そ、 こ の “或 る も の. は個体なのである。 この能動性はあくまで主語に独特のものである。 主語の働きはその個体性のゆ えに 独自のものであり、 主語自身から出るものである。 この働きは他から由来するものではなく、 主語なる個体の自発性に淵源するものである。 自発性はまた初発性でもある。 i ) 文化、 第19巻第3号、 拙稿 ”流れる時間と断つ時間“ 参照。 ’ 参照 2 ) 文化、 第lo巻第8号、 拙稿 ”生みのとき’ 。 2. もともと個体は独自のものであり、 他に依存しているも のではない。 それは独立存在者である。 それは個別者と して、 多数者のうちの一つとして存するものである。 個体が独立であるということ - 2 -.

(4) . 哲 学 的 制 作 論 (続) は、 有の連続とは異なって、 無の断絶にあるのである。 個体の有がし・わば無によって囲綴されてい る状態である。 かかる個体的有が多数存するのが有の共存ないし並存の状態である 一つの有と他 。 の有とが無によ って距てられているところに、 有の個体性があるのである かかる個体的有のもつ 。 働きの初発性は、 他のものから由来するのではない。 個体的有は無によって囲榛されているから 、 この有は 有限である。 個体の働きはそれ自身からさらに遡ることはできない 有限的なものから由 。 来 す る と い うこ と は、 無 に 始 源 を も っ と い う こ と で あ る 個 体 の働 きは 始 を 無 と 接 触 して い る の で 。 ”無 か らの働 き” で あ る ある。 こ れはそ れ よ り も さ き に 始 め の な い こ と で あ る 。 。 ” ” 能動的 個体の働きは、 現実には、 例外なしに い ま か ら始 ま る。 そ の 個 体 の存 在 は ”連続的創 造 creatio continu〆 に よ る も の で あ り、 そ の と き そ の と き に 創造 さ れ て い る も の で あ る。 つ ま り. ‘無から” たえず創造されているのである その個体の創造作用はつねに “いま” においてなさ は‘ 。 れて い る。 とい って も、 こ の ”いま” は無である。 無からの創造は時間的にいえば ”現在の無か ら” のことである。 創造ない し個体の存在にとっては、 現在が無なのである これは変化の場合の 。 現在が ”有にして無” かつ “無に して有” であるのとはことかわり、 創造においては現在は無その ものなのである。 幾分の過去と幾分の将来とを 含む変化の現在とは異なり 過去の有と将来の有と 、 は、 無的な現在において断ち切られているのである。 個体はたえず無の断絶によりて断たれている のである。 この無がいわば瞬間である。 個体的有は瞬間においてたえずあ らしめられているのであ る。 も っと もこ こ で あ ら しめ ら れ て い る と い っ て も 能 動 的 個体 は 他 者 の 働 き に よ っ て そ の 個体 が 、. 作られているというわけでは ない。 偶然的に脱落的にそこにあることが個体の存在 である しかる 。 にこの個体が有限なる存在としてみずからのうちから初発的に働くことによって、 その働きを他者 に 及 ぼ す。 つま りさ き に 述 べた よ うに 働 く こ と が 働 か れ る こ と に な る の で あ る こ の 働 き が 他 の 。 、. それ自身能動可能 的な個体に及ぶこともあるであろうし、 またもともと能動不可能なる疎外的脱落 者、 いいかえれば物体に及ぶ場合もあるであ ろう。 それによって働きのいみも異なってくる いま 。 この一つの場合について考えてみよう。 まず第一の場合について。 或る個体は他の個体へ働きかける。 或る個体は他の個体によって働き かけられる。 かかる場合、 二つの個体の間に生ずる働きは決 して、 一方が他方を自己の目的のため に用いるという働きかけではない。 二者は用 いる-用いられるの関係ではない。 いな、 かかる関係′ と いう も のは 個体 と 個 体 と の 間 に は、 も とも と 生 じ え な い も の で あ る。 も しか か る 関 係 が 二 つ の 個. 体の間に生じたならば、 そのときはもはや働きかけられる側のものは個体ではありえない 個体で 。 あるこことを否定された存在となっている。 そこで第二の場合が生ずる。 用いる-用い られるの関 係は、 個体 とも とも と 能 動不 可能 な る物 体 と の 間 に 生 ず る 働 き な の であ る。 こ の こ と は ま た の ち に. 詳しく述べるであろうが、 個体と個体との間にはかかる関係はありえない。 そ こ でま た 第一 の 場 合 に も ど る が、 個 体 は用 い られ る こ と の で き な い と こ ろ に 個 体 と して の 意 義. がある。 個体は元来働くものである。 その働きは他の個体かまたは物体に及ぶ。 他の個体に及ぶ場 合は、 この働きの及ぶ個体が、 もともとそれ自身みずから働く個体たることを承認されたうえでの ことである。 いいかえれば、 相手が個体であるからこそ、 一定の働 きが個体によって行われるもの で ある。 ”招待する” という働きは、 一方が他方を招待するのであって 働きかける方はもちろん 、 のこと、 働きかけられる方も当然個体でなければならない。 なるほ ど “招待される” ことは受動で あり、 元来働くことをもって特質とする個体の性格にあわないものである かもしれない。 しかし “招 待 す る” という こ と は 当 の 相 手を 能 動 的 な 個 体 と して 認 め て の う の こ え と 一で あ る。 招 待 され 、. た当人が来た場合、 われわれは “彼は用いられている” とは思わないであろ ,う。 “撲る” という場 合、 すなわちこれほ どの侮辱はないというほ どの働きを加える場 合でも それは相手の個体たるこ 、.

(5) . 野. 辺. 地 東. 洋. とを認めたうえでのことである。 石を撲るということは、 い くら石が妨害となった場合でもありえ ない。 相手の個体性を認めて撲ることによってこそ、 撲るが侮辱をい みすることになるのである。 ‘人を用いる” とか、 使用人 (本当は被使用人) とかいう言葉は、 慣例的な表現 であるにすぎな f い。 しかるに個体ならざるもの、 すなわち物体に働きを加える場合には、 用いる -用いられるの関 係 とな って い る の で あ る。. 働きが働きかけ一働きかけられるの関係に二者をもたらす のは、 この二者が個体と個 体 で あ る か、 または個体と物体であるかのいずれかの場合である。 そして後者の場合は、 働きかけ.働きか けられるは、 用いる-用いられるの関係にあるのである。 ここで一言、 これまでやや不用意に用いられた言葉づかいについ て述べてお こう。 個体とはみず よって から働くもの、 無によって囲競されたもの、 つまり有限とはいえ、 それみずから の初発性に 働くもののことである。 いい かえれば人間である。 いかなる人間であろうとも、 この定義からはず な本質 れるものはない。 そしてそれ以外 のものは物体といわれる。 物体には個体がもっているよう が欠けている。 それは働かれることはあっても働くことのない、 たえず受動的な、 存在なのであ る。 そもそもこれには二種のものが考えられる。 一つは変化としての自然の一部を能動的個体が働 落したもの、 す きかけの対 象として自然から切りとったものであり、 他の一つは制作の疎外的に脱 し なわち作られたものである。 これらの二つは結局一つに帰着する。 なぜならば働きかけの対象と い である 。 て切りとられた自然の一部は、 すでにこのことによって作られたものとなっているから ずれに しても、 これらはそれ自身働くことの できない ものである。 3. さてわれわれはここでもとの命題に立帰らなけ ればならない。. “或るものは他のものを素材とし. “ 用 いるの である 或 “ 。 て“ と い わ れ て い る と お り、 主 語 な る も の は 目的 語 な る も の を 素 材 と して. るものと他のものとは明かに用いる-用いられるの関係にある。 目的語とはなっても主語にはなり えない物 体は、 ここで明白に主語たる個体によって用いられるのである。 個体の働きは単に 個体か ら発 して目的物を指 向するのみでそれに到達しないという ものではなく、 まさしく 目的物をとらえ てこれに影 響を与え、 これを変革するものである。 そしてこれを 個体自身の目的のために奉仕せし めるのである。 この関係が用いる-用いられるの関係なのである。 自己の目的 のために、 物体に変 ” とい う こと で ある 。. 革を加えることが ”他 の も の を 素 材 と して. こ こま で はま った く 過 去 の時 の こ と で あ る。 或 る も の は す で に 在 る も の で あ る。 他 の も の も す で. ” に在るものである。 いずれも ”すでに の性格をもっている。 それは過去において持続的に存在し てきた ものである。 流れる時間においてすでに これまで存したものである。 流れる時間においてす でに存しながらも、 或るものである個体と他のものである物 体とは、 その存在の仕方がたがいに 異 なっている。 或るものは個体の同一性を 保っていて、 決してこれを失うことがない。 それは連続的 創造により、 みずからの個体性を性格づけており、 そのことによって個体としての同一 性を保持し ている。 しか しな がら他面においてこの人間である個体は、 変化たる身体の面において、 また同じ く変化たる意識の面において、 流れる時間に流されて変化している。 それはしばらくも同一性を保 ちえず、 たえざる変化に身を委ねている。 しかし、 個体の個体たる点においては、 いささかも変化 す る こ と なく、 同 一 の 個 体 に と ど ま る。 同 一 の 個 体 に と どま り つ つ、 流 れ る 時 間 の う ち に 流 れ て い ” るの で あ る。 これ が 個 体 の “い ま ま で と い う こ と の あ り か た で あ る。 ま た 物 体 は とい う に、 こ れ に は す で に 述 べ た よ う に、 自 然 と して の物 体 と 作 られ た も の と して の. 物体との二種類がある。 前者においては、 それは個体性をもつことなく、 まったくただ変化しつつ - 4 -.

(6) . 哲 学 的 制 作 論 (続) 流れる時間のうちにあるのである。 個体たる或るものがこの 変化しつつある物体を素材として用い るのは、 個体が みずからの目的にそのものを用いることが適当であると認められる状態に、 そのも のの変化の或る局面があったからにほかならない。 たとえそのものの変化はたえず行われているの ではあっても、 個体の目的のためにそのものが用いられるに適している一定の期間が存 す る な ら ば、 そのものはその期間、 素材として役立つことができるのである。 通常はかかる仕方で、 そのも のは素材として用いられるのである。 後者においては、 個体性が疎外的に制作から脱落して存する が、 これは能動的な個体性ではなく、 その物体が用いられるときに、 用いるものたる能動的個体の 働 きに呼応する性質のものなのである。 この性質は作られた物体が流れる時間のうちにあって変化 しつつある間に、 その変化した状態が担いきれなくなるまで保持されるものである。 またこの性質 を保持している間、 この物体は作られたものとしての性格を維持することができるのである。 それ は人間としての個体において、 身体の持続が個体性を担っている間、 個体が個体として持続する現 象と相似である。 それは、 疎外的脱落者のうちでみられるところの、 人間のいとなみの疎外された 形である。 さてこれで過去は終った。 以上は ”い ま ま で” の こ と で あ る。 と こ ろ が、 こ れ か ら は ま っ た く 異 なる ”いままでになかったあらたなるもの” という、 これまでとは別個の事態にわれわれは出会わ なければならない。 働く或るものはすでに存している。 働かれる他のものもすでに存している。 しかしこれから存在 す る も のは、 い ま ま で に 存 在 しな か っ た も の で あ る。 い ま か ら在 る もの は い ま ま で の 無 か ら 在 る も の で あ る。 ま さ に “無 か ら有” で あ る。 と こ ろが 他 方 に、 次 の よ う な こ と が 考 え ら れ る か も しれ な. い。 いままでには存在しないが、 しかしながらこれからの存在を予想しているもの、 これからの存 在を先取りしているもの、 このようなものがありはしないか、 も しあるとすれば、 これから存在す るも の はす でに 在 り、 も は や “無 か ら 有” と い う こ と は い わ れ な い の では な い か。 な る ほ ど す で に. 先取りされて在るものは観念存在であり、 これからあろうとする現実存在とはその存在の様式が異 なりはするけれども、 ともかく構想において先取りされているな らば、 これから在ろうとするもの はそれの変形にすぎないのであって、 もはや “無から有” とはいえないであろう。 かかる考えかたはそれ自身のうち に他の一つの結論を内包 しており、 二者択一を要求して追って くるであろう。 観念存在はいかに変形されようともそれだけでは観 念の世界に終始し、 現実の世界 に姿を現すものではない。 観念の世界と現実の世界との合体には、 すなわち先坂りされた構想が現 実的なものを素材として一定の形をとるには、 これを現実化せ しめる第三の要因がなければならな い。 かくして存在にいたらしめられたものは、 これまでにないあらたなる現実存在である。 これま さに “無 か ら 有” であ る。 こ の 結 論 こ そ さ きの も の に ま さ る も の で あ ろ う。 こ れ は 観 念 と現 実 と を ”無 か ら の x“ によって結合して一つのあたらしい現実をかたちづくるという. 考えかたである。 た だ しこの場合、 第三の要因がこの能動者と して要求される。 かかる要因の働きがなければ、 かかる 結果は実現しない。 この能動者が ”無から有” を作る主体、 すなわちさきに “或るもの” として現 れた個体なのである。 周 知 の ごと くア リ ス トテ レス は も の ご と の 生 ず る 四 つ の 原 因 を 掲 げ て次 のよ う に 述 べ て い る。. 1 ) そこから何ものかの生ずる内在的成素、 たとえば彫像における青銅、 盃における銀、 またこの ( 2 ような種類のもの。 ( ) 形相や節型、 すなわち本質の概念やこのような種類のもの、 たとえば第八 -に対する二の割合、 一般的には数。 ( 度音の原因は‐ 3) 変化や静止によって生ずる窮極的根源、 た とえば助言者は或る原因であり、 父は子の、 また一般に制作者は制作されたものの、 変化をもたら 4 すものは変化せるものの原因。 ( ) 目標としてあるもの、 すなわちそのもののために何ものかの生 - 5 -.

(7) . 野. 辺. 地 東. 洋. ずるもの、 たとえば健康ということが散歩の原因をなすごときである。 いわゆる質料因、 形相因、 1 ) そのうち(1 3)まではすでにわれわれの述べたとこ )から( 動力因、 そして目的因がそれである。 3 2 1 ) は能動であり、 制作者の ) は構想であり、 ( )は素材であり、 ( ろと合致している。 すなわち( 作る働きである。 これあればこそ創造は可能となり、 あたらしきものは誕生するのである。 これこ そ が 無 か らの ×を 招 き よ せ る 力 で ある。. ところがアリストテレスの四原因のうちの最後のもの、 すなわち目的因についてわれわれは触れ ることがなかった。 ここで少しこれについて述べよう。 制作者としての或るものが自覚的な働き手 である場合、 この働き手が構想とともに或る意図を もつことは当然である。 すでに働くという こと は 自 覚 に おい て な さ れ る こ と で あ り、 働 き は 意 図を 前 提 と して い る。 こ の 意 図 を ア リ ス トテ レス の ” 言 葉 を も って “目標 と して あ るも の” ま た は “そ の も の の た め に 何 も の か の 生 ず る も の と い っ て も さ しつ か えな か ろ う。 こ の “… の た めをご’ (ト ・ フ ウ ・ ヘ ネ カ) は目 的 で あ る。 ア リ ス トテ レス. の用いた例によれば、 健康ということが散歩の原因であるが、 また別の例を設ければ、 乗って飛ぶ ということが飛行機を作ることの原因なのである。 この意図ない し目的は、 制作されるものの作ら れかたと用いられかたを決定するものとして極めて重要なものであり、 またのちに詳しく論ぜられ るであろう。 ただ二つの大きな分類を試みるならば、 目的を当の作られるものの外におく場合と、 内におく場合とが考えられる。 前の場合は、 作られたものは道具ないし手段としての性格をもち、 後の場合には制作者の自己表現の性格をもつのである。ここに数用財から芸術作品にいたるまでの、 多くの種類の作られたものが成立するわけである。 さて、 アリストテレスはさきの四つの原因を掲げたが、 それらのうちでいずれが最も主要な原因 で あ る か とい う こ と に つ い て は、 こ れ ま で い ろ い ろ と論 ぜ ら れ て き た と こ ろ で あ り、 こ こ に 改 め て. 論ずる必要はない が、 いまのわれわれの観点からこれを考えるのならもま 、 何よりも主要な契機は制 この働きは ればならない あるといわなけ のもの すなわち動力因で 作の働きそ 。 、 他の諸原因がす 、 でに 存 してい る も の で あ る に 反 して、 こ れ ま でに 存 して い た も の で あ る と は い う こ と が で き な い。. 素材も構想も目的も、 すでに存していたものであるのに、 働きは現にいま行われているものであ る。 こ の原 因 は 他 の も の と は 比 較 に な らな い ほ ど の っ ぴ き な らな ら い も の で あ り、 さ し せま っ た も. のである。 この働きによって形相と資料とが遭遇 し、 目的がこれに具現されるのである。 この働き 一 つが動的で あり、 他の三つに対して綜合者の働きをなすのである。 しか しながらこの働きの行われている現在というのは、 実は無なのである。 それは流れる時間の 現在ではなく、 断つ時間の現在である。 この働きにはこれまでに存在するものの流れを、 いま断っ ” “ て、 これ を いま ま で に な い ま っ たく 別 の も の と す る の で あ る。 こ の い ま は、 流 れ る時 間 の 現 在. が、 過去から将 来へと流れてゆく幅をもったものであるのに反して、 過去を 断ちきる無的な性格の ものである。 断ついまは、 過去の有と将来の有との間を隔てる無でなければならない。 それは瞬間 である。 流れる時間を断つ瞬間、 これが断つ時間の無としての現 在である。 これがとりもなおさず 個体の働きで ある。 働きはすべて時間を断つもので ある。 それは無的性格のものである。 行為とは す べて こ のよ う な も の で あ る。 こ の 働 き に よ っ て こ れま で に 存 す る も の は す べて 断 た れ、 こ れ ま で. に存 しなかったものが存するにいたるのである。 これがあらたなるものの成立である。 ika t 1 aphys ) Aris[oteles . 岩 崎 勉 氏 訳 参 照。 ,io13a , △,2 , Me. 4. 断つ時間において“いま”が無であるということに、 あらたなるものの成立の最も根抵的な意義が ある。 いままでに存 した素材も構想も目的も、 なるほ ど原因となり、 契機とな り、 何らかのかたち 一 6 -.

(8) . 哲 学 的 制 作 論 (続) であらたなるものにあずかっているとはいえ、 それらは決してあらたなるものを成立せしめる力を も っ て は い な い。 そ れ ら はた だ こ れ ま で どお り に そ こ に あ る も の に す ぎ な い。 ま た こ れ か らも こ れ. までどお りにそ こにあるものに過ぎないであろう。 しかるにそれらのこれまでどおりの存在を否定 し、 それらをこれまでにない存在へともたらすものは、 個体の働きかけにほかならない。 これまで の存在を断ち、 これにとどめを刺すものは、 いまにおいて時間の流れを断ちきる断つ時間の働きで あり、 この働 きを行う制作者としての個体の行為である。 断つ現在は無でなければならない。 それ が有であっては、.断つことにならない。 無の現在なればこそ、 いままでに無かったあらたなるもの が成立するのである。 この個体の働きかけはさきのアリストテレスの動力因である。 それは意図ないし目的を背後に背 負って、 構想と素材とを結びつける。 そして単に観念的に構想と してこれまで存していたものを 、 現実的に存在せ しめる。 ここに現実的に存在せ しめられたものは、 その現実性ということによっ て、 存在するもののあたらしさを特長づけている。 なるほどそれの構想はすでに存していた。 しか しそ れは観念においてのみである。 すなわち現実性をもってはいなカ¥つた。 この現実性はこれま で に は ま ったく どこ に も な か っ た も ので あ る。 こ の 現 実 性 の た め に、 存 在 す る も の のあ た ら しさ が 、 あ る の であ る。 しか ら ば こ の現 実 性 は どこ か ら生 じ た も の で あ ろ う か。 何 に由 来 す る も の であ ろ う か そ れ は ど 。 こ か ら も 生 じた も の でも なく、 何 に 由 来 す るも の で も ない。 そ の も の は 現 実 に は い ま ま で ま った く. 存在したものでもなく、 そのものの現実性は何にもとづいたものでもない。 この現実性は制作者の 働きを通 じて現在の無において成立したのである。 つまり制作者はあらたなるものの現実性を現在 の無 か ら在 ら しめ た の で あ る。 こ れ が “い ま ま で に 無 か っ た あ ら た な る も の を、 在 ら しめ る こ と“ であ る。 この よう に して あ らた な る も の は無 か ら の 存 在 で あ る。 無 か ら 有 で あ る。 創造 と は こ の こと で あ. る。 制作者によって制作されたもの、 つまり被制作物はこのいみにおいて創造されたものである。 ●え同類のもの これまで存在したも すべての制作は言葉の厳密なるいみにおいて創造である。 たと 、 の と等 しい も の で あっ て も、 個 々 の もの に つ い て い え ば 創 造 さ れ た も の で あ る。 た だ 通 例 創 造 と 、. いった場合には、 構想のあらたなものをもつて形相因とした場合の制作のことをいっている。 構想 自 体 に つ いて も “あ らた な る構 想 を 抱く” と い う こ と が あ る が、 こ れ は いま ま でに な い 構 想 を、 い. わ ば制 作す る こと で あ る。 これ は どこ ま で も観 念 の 内 部 の こ と で あ る か ら、 制 作と い う い い か た は. 適当でないが、 しいて制作になぞらえていうならば、 ”これまでに存在しなかった構想をあらたに 在 ら しめ る こ と“ である。 あらたなる構想は、 たとえこれまで存 した構想を素材とするとはいえ 、 構想と客観的質料の結合とは違うのであるから、 そのうえ特長的なことには、 質料となる構想はあ っても形相因となる構想はな いのであるから、 制作の場合と同じようには考えられないが、 これま でのいくつかの構想をたがいに結合する場合にあらたなる構想が成立したり、 もしくはかかるあら たなる構想を作ることへの働きが意識的には行われなく とも、 あらたなる構想が突如として、 いく つかのこれまでの構想を素材と して、 成立 したりする。 これらの場合の構想のあたらしさも、 やは り無から有のあたらしさである。 さきにも述べたように、 制作者の働きかけは或る意図をもってなされるものである。 それは ”か. つて” に おい て も ”い ま” に お い て も 無 い もの を 或 る こ と のた め に ”や が て“ 在 ら しめ ん とす る意. 欲をもつものである。 いまはた だ彼の構想において観念的にのみ あるものを、 やがて実在せしめん とする欲求をもっている。 構想においてあるものは、 “やがてかくあるべ じ’ として彼の観念に表 象されているものである。 それは ”や が て“ という将来性をもっている。 これを彼は ”いま かく あ - 7 ー.

(9) . 野. 辺. 地. 東. 洋. ‘や が て” を ”い ま” に な さ ん とす る ‘ るべ じ’ と し て 努 力 す る の で あ る。 こ れ が 彼 の 働 き で あ る。. 働きである。 将来を現在になさんとするのである。 他方、 素材はこれまで在ったも のである。 これは過去性をもつ存在である。 これまでかくかくの ものとして変化に委ねられて存 在してきたものである。 それは変化である以上、 変化しつつある現 “ “ 在において、 幾分の過去と幾分の将来とを含み、 “有にして無・無にして有 な る も の と し て、 い ” “ ま” の連続をこれまで形づくってきたものである。 ところがこの変化する素材の有を、 いま の 瞬間において断つものが現れる。 断つ働きが制作の行為である。 これは断つ時間の現在の無におい てなされる。 変化する素材は “いま” の瞬間において無に帰し、 無に帰したがためにこそ、 素材は ”かくあるべ その瞬間において 制作者の意図の将来 性に委 ねられるのである。 それは彼の意図の し” , との命令によって変革され、 もはやそれ自身 独自に変化するものとしてでなく、 彼の働きかけ によって働き かけられたものとして存するのである。 ” かくて制作の働きの将来性は現在の無においてその働きを完成し、 “かくあるべきもの として ”. の将来的存在を、 現実に ”か く あ るも の と して 成 立 せ しめ る。 か く 成 立 せ しめ る の は、 現 在 の 無 すなわち瞬間においてである。 成立せしめられた瞬間、 そのものはもはや現在にあるのではない。 すでに過去のものとしてあるのである。 それは過去的存在である。 現在は無であるから、 将来が過 去へ一足とびに移 りゆくのである。 もう一度いうならば、 これまでにある素材は現在においてその 過去的存在を断たれ、 やがてあるべきものをあらしめ んとする意図のもとに、 現在の無において変 革される。 そしてあらたなるものが成立せしめられた瞬間、 それはすでに過去的なものとなってい るのである。 これが制作の時間である。 流れる時間は過 去から現在をとおって将来へと向うが、 断 つ時間ないし制作の時間は、 現在の無としての瞬間を足場として、 将来からこの現在をとびこえて 過去へと過ぎ去るのである。 5. 次にわれわれは制作の性格をさらに明確にするために、 それの反対者について語ってみたいと思 う。 われわれは制作の対立物を変化において求めることとする。 変化はこれを理想的 な状態においていいあらわすときは、 あるいはその特長だけを抽象してとり たてていうときは、 純粋持続という ことができるであろう。 それ自体がつねに全一であり、 それ以 外にそのものなく、 それはたえず同 じ状態になく、 しかもそれであることには変りないd 変りない がつねに変っている。 それは絶対に内在者であり、 それに関係した他者なる原因をもたない。 いわ ば自己原因的である。 全一、 内在、 自己原因、 連続、 これらが変化の性質である。 なおそのうえに 重要な性質をつけ加 えるならば、 とくに時間的といい うるであろう。 この場合の時間的とは ベルグ ソンのい うような非空間的な意味での時間の ことである (したがって空間性から分離された時間は それだけ抽象的であることをまぬかれないわけであるが)。ベルグソンはいう、“つぎつぎに現れる状 態の一つ一つは次にく るものを予告し前にいったものを包含する。 本当をいうとそれらが多数の状 態となるのは、 私がすでにそこを通りすぎてその跡を観察するためにうしろに振りかえるときであ る。 …… 感 青の一 つ流れがスペク トラム を通っていって順々にそのいちいちのニュアンスに染まる とすれば、それが受ける漸次的 な変化の一つ一つは次の変化を予告 し、自分のなかにそれに先立つ変 化 を 集 めて ゆ く で あ ろ う。 そ れ に して も ス ペ ク トラ ム の次 々 に く る ニ ュ ア ン ス は ど こ ま で も 互 に 外. 的なものである。 それは並べられる。 それは空間を占め る。 ところが純粋な持続となっているもの ) このように純粋持続においては は、 あらゆる並置や相互の外面性や拡がりの観念を排斥する〆 1 空間性はまったく排除される。 それはただ時間性がその基本的となるのである。 変化はどこまでも - 8 ー.

(10) . 哲 学 的 制 作 論(続) もともと時間的なものである。 たとえ変化するものの存在は空間的であろうとも 変化ということ 、 自体は時間的なことがらなのである。 これに対 して制作はまったく異なる性質を有する。 この働きは制作するものと制作されるものと を含んでいる。 一方は原因であり、 他方は結果である これを論理関係でいうならば 一は根拠 で 。 、 あり、 他は帰結である。 いいかえれば、 能動者であり 受動者である 両者はたがいに他者であ 、 。 り、 超越的関係にあり、 働きのうえからは相互に反するものである すなわち個体の性格と個物の 。 性格とがこれである。 制作者なる個体の働きはそのときそのときにおいて 断絶的であり 被制作者 、 もそれぞれ完結的な個物である。 そこには制作者の複数と被制作者の複数とがある 制作において 。 は変化の全一に対 して、 個体の複 数性、 連続に対 して断絶 内在に対 して超越 これらが特 性とし 、 、 てあげられるであろう。 それのみな らず変化における重要 な性格である時間性に対 して 制作にお 、 いては第一義的には空 間性があげられなければならない。 さきの複数性ということがす でにこれを 暗示している。 制作者の個体が複数と して並列し またこの能動者と受動者がたがいに相対 して並 、 列 して いる と い う こと は、 ま さ に空 間 を 構 成す る そ の こ と 自 体 で あ る 。. けれども、 もともとすべての存在は変化する。 すべてというが この場合 存在する個体と個物 、 、 の総和といういみではない。 変化する場合のすべてというのは全一としての存在をいみするが と 、 もかく す べて は 変化 す る。 ヘ ラク レイ トス の パ ンタ レイ で あ る た と え 制 作 を 問 題 に しょ う が 制 。 、. ・しての一者に包含されて変 作するものも制作されるものも変化する。 これらは全一と 化の流れのう ちに あ るも の で ある。 そ こ で は 制 作 と い う こ と は あ ら わ に 表 面 化 され て い な い 問 題 点 は あ く ま 、 。. で絶えざる流れとしての変化である。 変化するものは流れる時間のうちにある この流れる時間は 。 それ自体やむ ことなき不断の流動である。 なにびともこれをとどめることも断つこともできない 。 しか しな が ら、 これ を 人 為 的 に あ る 程 度 断 つ こ と は で き る あ る程 度 断 つ と は 甚 だ あい ま い な い 。. いかたのように聞こえるかもしれない。 断つことにとっては 断つか断たぬかが問題な の で あ っ 、 て、 中 途 半端 に 断つ と い う こ と は あ り え な い こ と と 思 わ れ る か も しれ な い しか し す べて は 流 れ 。 、. る時間のうちに流れているものである。 このいわば運命時間とも根源時間ともいうべきものは 何 、 2 ) 存 在 者 が 時 間 を 超 越 す る こと が で きな い と い う こ の こ も のによ って も超 え る こ と は で き な い。 。. とのゆえに、 時間を断つ働きは鈍磨するのである。 かりに流れる時間を断ちきったと したらどうで あろうか。 そこにはもはやおよそわれわれが考えるような時間の観念はないであろう 前後にべっ 。 べっの時間が表象されるかもしれない。 しか し “前後にべつべっの” ということにおいて 二つの 、 時間は連絡されている。 さらにその連絡を断とうとするか そのまた奥において断たれた時 ;間が暗 、 闇で握手するであろう。 かくして際限がない。 他方、 この流れる時間を断とうとする匁は ときに 、 と っ て鋭 いこ と もあ る。 しか しま た 鈍 い こ と も あ る い く ら 鋭 く て も 流 れ る 時 間 は 断 て な い 鈍 。 、 。. い場合はなおさらである。 この鋭いか鈍いかは、 そのときどきの個体の性格により 働きの程度に 、 よ る。 こ のよ う なわ け で、 断 つ 働 きは 流 れ を 断 ち き る こ と は で き な い し か え っ て そ の “断 つ” と 、. いうことも程度的のものとなる。 のみならず 断とうとする匁は 流れの力によって流れの方向に折 、 し曲げられ、 湾曲する。 いずれにしてもますます匁は鈍化せざるをえない 。 しかしながら、 たとえ鈍化 しようとも、 われわれはこの断つ瞬間をとらえて “断つ時間” と名づ け る こ とが で き る の で あ る。 こ こ に 空 間 が あ る。 わ れ わ れ は 時 間 を超 え る こ と は で き な い が 断 つ 、. 働 きにおいて、 時間のうちにありながら、時間を- -瞬超えたろがごときものをもつ。この働きはいわ ば水平線に立つ垂直線のごとくである。 そしてこの垂直線を 含むことによって もともと幅のない 、 直線が 幅を有するにいたるがごとく、 ここ に、 そのうちに数多くの個体をいれる余地あるがごとき 空間を生ずるのである。 この空間はさ きの能動者と受動者とが並存する原初的な空間に対 して 第 、 一 9 ー.

(11) . 野. 辺. 地 東. 洋. 二次的空間といわれうるであろう。 また、 さきの空間を “作る空間” とよび、 この空間を “作られ た 空 間” と 名 づ け る こ と も で き る で あ ろ う。. 個体はこの水平線上を天空に 向けてとびあがり、 そして落下する。 とびあがった高さが、 空間の 厚みである。 しか し汽車のなかで跳躍するがごときもので、 跳躍の間といえども彼は流れに流され ているのである。 汽車ならば汽車のそとに向って跳躍することもできよう。 生命の危険を覚悟しさ えすれば。 しかし時間のそ とへは、 何ものといえども跳躍することはできない。 しかしこの断つ時 ” 間において、 さいわいなことには空間という獲物を彼は与えられる。 “断つこと それは行為の原 型であり、 べっの言葉でいえば、 これが制作なのである。 制作は個体が流れる時間を断つことによって始められる。 もっとも制作はつねに瞬間的である。 始めはすなわち終りである。 いな、 始めも終りもない。 ただその瞬間瞬間のものである。 始めとか 終りとかは個体の個体としての存在が流れる時間に流れされることを考察した場合には じめていい うろことである。 非連続の連続ということがあるが、 これは瞬間瞬間の個体が流れる時間に流され “ るということがあってはじめて、 可能なことである。 いずれにしても断つ時間は “作られた空間 の基礎であり、 その理由である。 こ こ に一 言 す る な ら ば、 流 れ る 時 間 を 断 つ こ と が 程 度 的 で あ る こ と は い う ま で も な い。 こ れ によ. って制作にも種々のニュアンスを生じ、 段階をもつことになる。 根本において制作はあくまで制作 の特性をもち、 それは変化とはまったく異なろものでありながら、 そのうちに多分に変化の要素を 含むものから、 まったくこれを含まない極端なものまで、 その色彩は豊かで限りがない。 またさき にも述べたことをここでも附言するならば、 制作する主体は能動者であり、 みずからのうちに働き の発動力をもっている。 かかるものを制作者と名づけるのは当然であるが、 被制作者はこれとはま ったく反対に、 みずからのうちに働きの発動力なく、 まっ たく他者によって働きかけられて作られ るものである。 したがってそれは被制作者とはいわれずに、被制作物といわれることが適当である。 前者はまた個体であるが、 後者は個物といわれなければならない。 6 i e i l 1) Hergson,lntroduction a taphys taphys l 1 lora e ・ v an .l queetde n que .5 etsui . ,p , Revue del ,1903 河野. 与一氏訳 (岩波文庫版) 参照。 2) 運命時 :間の説に関 しては高橋里美博士 の “時間論”(著書 ”体験と存在” のうち) に負うところが多い。 〔附記〕 本篇においては前篇よりもさらに原理的な問題が扱われており、 立論の順序と しては前筒に先立 つべきである。. - lo -.

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参照

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