Author(s)
外間, 誉也; 崔, 珉寧
Citation
沖縄大学法経学部紀要 = Okinawa University JOURNAL
OF LAW & ECONOMICS(25): 79-97
Issue Date
2016-03-31
URL
http://hdl.handle.net/20.500.12001/20245
1.はじめに 1.1 本研究の目的と背景 1.2 既存研究のレビューと本研究の視点 2.戦後の日本映画史とワーナー・マイカル・シネマズの沿革 2.1 戦後日本の映画史の概要 2.2 ワーナー・マイカル・シネマズの沿革 2.3 シネマ・コンプレックスの登場 2.4 ワーナー・マイカル設立に至るまでの両社の背景 3.なぜ、ニチイはシネコンによる進出を決めたのか 3.1 ニチイの置かれた状況と経営方針 3.2 小林氏が描く「時間消費型」ビジネスへの構想 3.3 1980年代に起こった世界的な映画革命 4.終わりに 4.1 事例分析のまとめ 4.2 本研究を通して 【研究ノート】 キーワード:シネコン ワーナー・マイカル 小林敏峯 イノベーション 経営戦略 Warner Mycal Cinemas
― The First Cinema Complex in Japan ―
外 間 誉 也* Takaya HOKAMA 崔 珉 寧** Minyoung CHOI
ワーナー・マイカル・シネマズ
― 日本初のシネマ・コンプレックス ―
1.はじめに 1.1 本研究の目的 本研究の目的は、日本映画館産業を事例に、将来性の乏しい市場へ果敢に新規参入する企業行 動を明らかにすることである。年間観客動員数が当時の人口の10倍以上を上回り、映画史におけ る黄金時代と称賛された1950年代から、そこから30年以上、年間観客動員数が減少し続け、氷河 期時代とも言われた1990年代にワーナー・マイカル・シネマズが、シネマ・コンプレックスとい う新しい形で進出した理由を解き明かしていく。ワーナー・マイカル・シネマズは日米双方の企業 の合弁によって設立された企業である。特に日本国内にシネコンを輸入した日本企業のニチイ側 に着点を置き、日本映画館産業の未来を大きく変えた重大な一場面を紐解いていく次第である。 2010年代、日本全国の映画館スクリーン総計の内、9割前後はシネマ・コンプレックス(以下 シネコン)と呼ばれるタイプの映画館が占めている。なお、2014年では総合計3,364幕の中で、2,911 幕(約86%)が、シネコンが有するスクリーン数である(図3参照)。ここでいうシネコンとは、 一つの建物にスクリーンが複数併設されている複合映画館の事だ。これまでの映画館は「単館」 と呼ばれ、一つの映画館に一つのスクリーンであるのが常識であった。 戦後、特に高度経済成長期の1958年(昭和33年)に映画館の年間観客動員数は、のべ11億2,700 万人を記録した。当時の日本の人口は9,200万人であったため、当時の人口の約12倍もの観客動 員数を記録したことになる。この記録は2016年現在も破られていない。しかし、1960年代に入る と、ボーリング場が登場し、カラーテレビ、ゲームセンターと続々に娯楽のバリエーションが増 えていき、映画館の年間観客動員数は減少の一途を辿ることになる。1958年をピークに映画館の 年間観客動員数は減少し、38年後の1996年には過去最低記録となる1億2,000万人までとなった1。 ワーナー・マイカル・シネマズは米国のメディア企業タイム・ワーナーグループと、日本で総 合小売業を展開していたニチイの合弁によって誕生した。1993年に神奈川県海老名市にて日本初 のシネコンとなる、「ワーナー・マイカル・シネマズ海老名を開館したのを皮切りに、長年の間 減少し続けていた観客動員数とシネコン数へ歯止めがかかった。30年以上減少していたスクリー ン数は増加、観客動員数は逓増へと一転し、この動きによって2004年にはスクリーン数2,825幕、 年間観客動員数は1億7,000万人まで回復した(図4参照)。 そもそも、新たに進出する市場として魅力が低かった1990年代の日本映画市場にワーナー・マ イカル・シネマズはなぜ、シネコンによる進出を決めたのであろうか。なぜ、映画館業界へのノ ウハウを持っていないニチイがワーナーグループとの提携を了承したのだろうか。結論から先に 述べると、これらの疑問に対して本研究では、1980年代のニチイの置かれた状況と経営方針、当 時社長を務めていた小林氏が描く「時間消費型」ビジネスへの構想、1980年代に起こった世界的 な映画革命の流れ、この三つが理由であると決定づけた。 1.2 既存研究のレビューと本研究の視点 1990年代に起こった、日本映画館市場へシネコンが進出したことに対して、既存の研究の説明 として吉川(2003)は次のように述べている。1980年代にタイム・ワーナーグループのワーナー・ ブラザーズ・インターナショナル・シアター社が、日本への進出以前にイギリスへシネマコンに
よる新規参入を行った。その後、シネコンの普及に伴い、1,200幕しかなかったスクリーン数は 5年間で1.5倍の約1,800幕にまで増加させた。先進国での映画産業が復活した経験を踏まえたこ とから、日本市場へ進出してきてのだとしている2。 つまり、日本への進出以前に成功事例があったことから、タイム・ワーナーグループは日本へ のシネコン導入が成功すると考えていたわけである。しかし、この説明のみでは日本にシネコン を持ち込んだタイム・ワーナー側の解釈は理解できるが、持ち込む側となるニチイへの解釈に説 明がつかない。そのため、本研究ではニチイの視点に着目を置き、1990年代の映画館市場の状況 から無謀とも思えるシネコンによる新規事業の参入をなぜ決定し、うまく成功へ導くことが出来 たという疑問へ一つの解釈を示す次第である。 2.戦後の日本映画史とワーナー・マイカル・シネマズの沿革 2.1 戦後日本の映画史の概要 1950年代、太平洋戦争後の復興期にかけて、全国で映画館が次々と建設されていった。1950年 の建築法の制限撤廃によって新館の増設、改装が容易になり、復興に伴い日本全国各地で、映画 館の新設ラッシュが相次ぐことになった。1951年にサンフランシスコ講和条約が締結されたこと により日本は独立し、戦後長らく行われていた連合国最高司令官総司令部(以下GHQ)による 映画閲覧は廃止された。GHQの閲覧制限の撤廃によって、それまで事実上禁止されていた、時 代劇が数多く作られ人気を博した。「七人の侍」といった黒沢明の監督作品が公開されたのもこの 時期であり、1954年には怪獣シリーズの代表作「ゴジラ」が公開された3。 1953年にテレビ放送が開始され、放送開始当時の日本放送協会(以下NHK)のテレビ受信契 約世帯数は16,779世帯であったが、翌年の1956年には3倍以上の52,822世帯、1957年には165,666 世帯を突破した。放送が開始されてから10年後の1963年には1,500万世帯以上が契約しており、 急激にテレビが普及していることが理解出来る。他方で、1950年代に増加し続けていた映画館の 年間観客数は1960年代を境に、減少の一途を辿る。図1は映画館の年間観客数とNHKの受信契 約世帯数の推移を1955年のデータから比較したものだが、映画館の年間観客数が1958年をピーク に右肩下がりしている。反面、NHKの受信契約世帯数は年々急速に増加し続け、右肩上がりの 結果となっている4。 図1 映画館の年間観客数と NHK 受信契約世帯数の推移 (単位:千人、世帯) 出所:日本映画製作者連盟及び NHK より筆者作成
1960年代に入ると時代劇映画のブームが去り、客足が遠のいたため、時代劇映画に変わり、ヤ クザを主役にした任侠映画が登場した。この時期から、各映画制作会社の資金繰りが苦しくなり、 低予算製作で、ある程度収益を獲得出来るのを理由に、ピンク映画製作に力が入るようになった。 ピンク映画の作品は、大手の映画館では上映されなかったが、観客が減ると大手映画会社の作品の 上映料が高く、営業が難しくなった小さな映画館などでかかるようになったのである。ピンク映 画の本数は徐々に増え続け、1970年代の半ばには日本映画の製作本数の半数を占めることになる5。 1970年代以降からは映画の形態にも変化が現れる。それが名画座と、ミニシアターと呼ばれる システムである。名画座は、映画を一定期間上映した後に、二番館と呼ばれるチェーン展開の映 画館で流れ、さらにその次に三番館と呼ばれる映画館で流すシステムのことである。名画座は封 切(初公開)されてから数ヶ月~1年程時間が経ってから上映されていたため、当時の料金の半 額以下であった。2016年現在も日本各地に数えるほどしか残ってないが、名画座と呼ばれる映画 館が点在している。 ここまでの情報を整理する。1958年以降、映画館の年間観客数は減少し続けたわけだが、映画 館業界者も傍観していたわけではない。新たな形態やサービスを展開し、試行錯誤を試みて行っ たわけである。だが、観客動員数の減少の流れが止まることはなく、市場は衰退の一途を辿って いく。図2は1958年からの映画館入場者数の推移を5年ごとに示したものだが、数値や図からも、 1950年代、60年代、70年代、80年代のほとんどが右肩下がりを表しているのが分かるであろう。 2.2 ワーナー・マイカル・シネマズの沿革 ワーナー・マイカル・シネマズの運営会社にあたる、「ワーナー・マイカル」が誕生したのは 1991年の事である。米国のメディア企業タイム・ワーナーグループと、日本で総合小売業を展開 していたニチイが1991年5月9日に、資本金10億円を折半、両社が5億円ずつ出資し、複合型映 画館の運営会社を設立すると発表した。その翌月に誕生したのがワーナー・マイカルだ。劇場の 設計と運営はワーナー側に一任され、社長にはワーナーグループの子会社で、当時欧米でシネコ ン事業を行っていたワーナー・ブラザーズ・インターナショナル・シアター社のサレー・ハセネ イン氏が、社長を兼任する形で就任した6。 出店計画は、ニチイグループの店舗の隣接地に併設することとし、設立会見の当初では、神奈 図2 1958年~1988 年までの映画館入場者数推移 (単位:百万人) 出所:日本映画製作者連盟より筆者作成
川県海老名市、兵庫県の加古川市と小野市、計3館の開館が決定していた。しかし、当時の都市 計画法の用途地域指定の問題、その地域の関係者との交渉の難航により、加古川市と小野市の出 店を断念する。代替案として、大阪府の東岸和田市と、富山県の高岡市での進出を確保する7。 1993年4月24日、神奈川県海老名市にて日本初のシネコンとなる、ワーナー・マイカル・シネ マズ海老名を開館する。5日後の4月29日にワーナー・マイカル・シネマズ東岸和田を開館、半 年後の10月23日にはワーナー・マイカル・シネマズ高岡を開館した。翌年、1994年の3月20日に は香川県でワーナー ・マイカル・シネマズ宇多津を、同年9月23日には青森県にてワーナー ・マイ カル・シネマズ弘前を開館する。その後も、1995年に神奈川県の茅ヶ崎市と、三重県の桑名市で それぞれ、計2館を開館する。1996年、4月にエーエムシーエンターテインメント(AMC)、11月 にユナイテッド・シネマ・インターナショナル・ジャパン(UCIジャパン)といった他の外資企 業が日本市場へ参入するが、1996年には佐賀県の上峰市で1館、翌年の1997年には全国で5館を 開館し、ワーナー ・マイカルは直営の映画館数、スクリーン数共に、順調に数を増やしていった8。 1996年度の8月には、1号店のワーナー・マイカル・シネマズ海老名が年間観客動員数94万人 を記録し、これまで国内トップであった、東宝系列「日本劇場」の71万人を大きく上回った。2 年後の1998年8月には、直営館の月間動員数で139万人を記録し、東宝を追い越した。当時、東 宝の直営館数が51館、ワーナー ・マイカルが20館(スクリーン数140幕)であった。シネコン事 業に進出し5年で、ワーナー ・マイカルは事業規模を急速に拡大させ、これまで不動の王者であっ た東宝の牙城を突き崩した。翌年の1999年、ワーナー・マイカルの進出計画はさらに加速する。 1999年だけで、全国に8館を開館し、総クリーン数はついに200幕を突破した。これにより、東 宝の系列運営の全てを含んだ総劇場数181館をついに追い越し、設立から6年で、ワーナー・マ イカルは名実ともに、日本映画館市場の首位へと躍進を遂げたのである9。なお、翌年の2000年 はワーナー・マイカルの出店事業で最も多い、14館を開館し、総スクリーン数は300を超え、国 内ダントツの地位を固める。 ワーナー・マイカルは、スクリーン数を順調に増やしていったが、2001年9月に親会社の片割 れである、マイカル(1996年にニチイから変更)が突如、経営破綻を発表する。この当時、ワー ナー・マイカルの業績は好調で、当時のミラード社長は、営業方針に支障はないとの声明を出した。 親会社のマイカルも、経営破綻を発表する直前、事業再編に向けてグループの子会社の売却を進 めていたが、「ワーナー・マイカルの売却は視野に入れてない」と断言する10。しかし、2001年 1月に兵庫県の加古川で開館して以降、2004年までワーナー・マイカル新規出店はなくなる。 2003年にはアメリカ・ラスベガスで、毎年3月に「全米劇場主協会」が主催する、世界各国の 映画関係者に向けてのイベント「ショーウエスト」で、ワーナー・マイカルの生島洋二専務が、 映画ビジネスの発展に貢献したとして「国際映画興行者賞」を、日本人として初めて受賞した。 この受賞は、全米劇場主協会がワーナー・マイカルを、日本にシネコンを定着・普及させた実績 と、海外の優れたノウハウを積極的に導入する国際派発想、立地を重視する地域密着の思考に基 づいた経営戦略を高く評価したものであった11。 この受賞の一ヶ月前、東宝はシネコンの運営を行う外資企業のヴァージン・シネマズ・ジャパ ンを買収すると発表した。東宝のスクリーン数284幕に、ヴァージン・シネマズ・ジャパンの81 幕が統合され、365幕となった。これにより、当時のワーナー・マイカルの337幕を超え、東宝が
映画館運営の最大手として返り咲いた12。 なお、マイカルが経営破綻を発表した二ヶ月後の2001年11月22日にマイカルの再建支援先が「イ オングループ」に決定する。後にマイカルはイオングループの傘下に入るわけだが、2004年以降 は、ワーナー・マイカルの映画館として、イオン系列の店舗に併設される形を新たに展開してい く。2004年と2005年に各年で2館、2006年に4館、2007年に7館、2008年に3館が開館し、新規 出店・既存館の経営共に映画館事業としては好調であった13。 2013年2月にイオングループが、ワーナー・マイカルの全株式を取得し、完全子会社とする。 同時に、タイム・ワーナーグループは日本映画館市場から撤退した。二ヶ月後にイオングループ は、ワーナー・マイカルと、グループ内で映画館運営を展開していた「イオンシネマズ」との合 併を発表する。この発表の一月前に埼玉県で開館した、ワーナー・マイカル・シネマズ春日部が、 ワーナー・マイカルとして最後の出店となった。 2013年7月1日、ワーナー・マイカルとイオンシネマズは統合され、「イオンエンターテイメ ント」が設立される。これに伴い、全国に点在するワーナー・マイカルの映画館は、屋号がイオ ンシネマへと変更された。なお、イオンシネマは設立当時、ワーナー・マイカルの496幕に113幕 が統合され、スクリーン枚数609幕となり、国内首位であった「TOHOシネマズ」を追い越し、 国内最大の映画館運営会社となった。2016年現在、イオンシネマは劇場数が83館、スクリーン数 は702幕を有し、国内トップを維持している。 2.3 シネマ・コンプレックスの登場 シネマ・コンプレックスは通常、シネコン、マルチコンプレックスとも呼ばれる複合型映画館 のことである。日本国内の映画製作・配給大手の「東宝」「東映」「松竹」「角川」から成る、日 本映画製作者連盟は、同一の運営組織が、同一の所在地に5スクリーン以上集積し、名称を統一 して(1、 2、 3…、A、B、C…)運営している映画館がシネコンであると定義している14。日本 映画製作者連盟の定義に加えて、一般的に、入場券売り場、映写室、売店、などを共通化し、原 則として一度の上映で総入れ替え制を導入している複合型巨大映画館を、シネコンであるとして いる15。 シネコンの特徴は、入場券売り場、映写室、売店、などを共通化し、複数のスクリーンが集合 している点である。一つの施設内にいくつものスクリーンが存在するため、顧客は多くの作品の 中から見たいものを選択できる。運営側にとっては、一つのチケット売り場で数多くの顧客を対 応し、一人の映画技師が複数の作品を上映来きるといった人件費やコストの削減のメリットがあ る。スクリーンが平均として7~ 13幕がある特性を利用し、上映時間をずらして同じ作品を上 映することや、観客数に応じてスクリーンを割り振ることができるため、効率的に作品を上映す ることが可能だ。総入れ替え制により、収益の安定性が増す。顧客にとっても、立ち見がないた め、利便性が高いといえる16。 従来の映画館である単館は、一つの建物の中に一つのスクリーンであるのが常識であった。そ のため、単館で上映する作品は一つに限られていたため、作品の評判が興行収入に大きく影響し た。反面、シネコンは常に複数の作品を上映することによって、映画作品単体の上映リスクが軽 減され、経営の安定性が増す。また、単館は主に都心部を中心に事業を展開していたが、シネコ
ンは主に、郊外型スーパーでの併設や、商業施設の立ち並ぶエリアに進出することが多いのも特 徴である17。 図3は1990年以降の単館とシネコン、それぞれのスクリーン数の推移を表したものである。 1993年を境に、減少し続けていたスクリーン数は、シネコンの占める割合と共に増加傾向へと一 転しているのが分かるであろう。しかし、これは映画館の数が増加したというわけではない。一 つの施設で最低5幕以上のスクリーンを有すシネコンが増える他方で、単館は急速に数を減らし ていった。つまり、1990年代以降の日本映画市場は、映画館数が減ると同時に、スクリーンは増 加するという現象が起きていたのである。2002年にはついに単館とシネコンのスクリーン数が逆 転した。図4は1990年から、2014年までの映画館の年間観客動員数の推移を示したものである。 1996年に戦後、過去最低記録となる1億2,000万人となるが、その後、年間観客動員数は、変動 はあるものの基本的には増加傾向となった。2000年代以降は1億6,000万人を維持する形であっ たが、スクリーン数は、2006年に3,000幕を突破した。これは1970年以来、36年ぶりのことであった。 図3 1990年から2014年までのスクリーン数の推移 図4 1990年から2014年までの映画館の年間観客動員数の推移 (単位:百万人) (単位:幕) 出所:日本映画製作者連盟より筆者作成 出所:日本映画製作者連盟より筆者作成
2.4 ワーナー・マイカル設立に至るまでの両社の背景 ワーナー・マイカルは、タイム・ワーナーグループと、ニチイの合弁により、1991年6月に資 本金を折半出資して設立されたわけだが、まずここで両社が合意に至るまでの背景と経過を述べ ていく。 タイム・ワーナーとは、アメリカのニューヨークに本社を置く、雑誌の発行、テレビ、出版、映画、 レコードなどの事業活動を行っている総合メディア企業のことである。系列グループの子会社に、 ハリウッド映画の製作と配給を行い2000年代に世界的に大ヒットした「ハリーポッターシリーズ」 を手掛けた「ワーナー・ブラザーズ」を持つ。また、ワーナー・ブラザーズの子会社、つまりタ イム・ワーナーにとって孫会社にあたるワーナー・ブラザース・インターナショナルはイギリス やドイツでシネコンの運営を行っていた。 世界で初めてニュース雑誌として刊行したタイム誌を発行するタイム社が、映画会社ワーナー・ コミュニケーションズを買収し1990年に「タイム・ワーナー」として設立された。年間総売り上 げは100億ドルに達し、タイム・ワーナー誕生に向けての合併の計画が持ち上がった当初、事業 規模の大きさから独禁当局の承認を得る必要があった。 1980年代のイギリスで、ワーナーグループを含む外資企業によるシネコンの新規参入によって、 これまで低迷が続いていたイギリスの映画館市場は見事に復活を遂げた。1991年9月2日の日経 産業新聞によるワーナー・ブラザース・インターナショナルの朝倉久美子氏のインタビューから も、シネコンによる市場活性化による事業再編の期待度が伺えるであろう18。 「英国では全部で四十三のマルチプレックスがある。八五年に年間延べ五千万人だった英国 の映画観客数が八九年には九千万に増えている。従来型映画館はほとんど増えていないの で、映画興行復活の立役者はマルチプレックスだったとみていい。(中略)ワーナーは英 国やドイツのマルチプレックス事業をいずれも現地の流通資本と手を組んで始めた。パー トナーのショッピング街開発計画に参画、土地をリースしてもらい、商店街との一体化を めざしている」 ワーナーグループはイギリスの成功事例をもとに、新たな市場を求め、欧米各国とともに日本 を視野に入れ、本格的に日本での映画館市場へ進出するため、提携先を探していた19。 次に日本で総合小売業を展開していた、ニチイについて述べていく。ニチイは1963年に初代社 長を務めた西端行雄氏、二代目社長となる小林敏峯氏、福田博之氏、岡本常男氏の4名が「協業」 を理念に合併し創業。その後、1970年代初頭までに30社近くを次々と合併して全国チェーンへと 成長した。西端氏が1982年に亡くなり、同年11月に小林氏が後を継いだ。小林氏が社長に就任し た1980年代のスーパー業界は、景気後退の影響や新たな業種との競合などにより、業界全体の業 績は急速に悪化していた。過激な価格競争によって、商品を売っても利益が出ない、いわゆる「スー パー冬の時代」と呼ばれる状況であった。スーパー大手各社は、この冬の時代からの脱却を図る ため、各社との差別化を意図した方向転換を進めていく。 当時、業界トップであったダイエーは従来の低価格路線を進めながら、多角化路線に方針を定 めた。イトーヨーカ堂はスーパー業界とは別の小売り業態に可能性をかけ、子会社ヨークセブン
立ち上げ、アメリカのセブンイレブン本社からライセンス取得し、コンビニ業界に参入した。西 友は店舗の都市型進出特化路線へ、ジャスコは店舗の郊外型進出特化路線へと活路を見いだした。 図5は、小売業界の売上高順位を1960年から5年ごとに表したものであるが、1960年代はランキ ングのほとんどを百貨店が占めているのが分かる。1970年代以降から小売業の新たな形態であっ たスーパーの比率が増え、同時代に起業したダイエーが上位に君臨する中でニチイは5位以上か ら上位へ脱却できずにいた23。竹内祐二(1998)によると、ダイエー、イトーヨーカ堂、ジャスコ、 西友、ニチイらは当初から多店舗による全国展開を指向し、一定地域に限定したローカル・スー パーマーケットとは一線を画した企業群であったとして、この5社を「大手スーパー」と定義して いる20。小売業界の動向を、大手スーパーのみに絞ってみてみると、ダイエーとセブンイレブンが 業界首位に位置する中で、ニチイは常に下位に甘んじていた。大手各社が差別化に向けて独自の 路線転換を進めていく中で、構想丸一年がかりで将来像を模索した結論が「脱スーパー」だった21。 ニチイがとった「脱スーパー路線」とは従来の日用品の低価格販売の形態から、店舗の専門店 化を目指したものであった。これまでの日用品を低価格で売るスーパーを中心とした事業では、 採算性が取れず、商品による差別化は難しいと考えた小林氏は決断し、従来のスーパーより高級 品をそろえ、準百貨店化を目指した。従来の大量生産・大量販売方式の日用品を扱うスーパーか ら大きく軌道修正を行った。これまで総合スーパー型店舗形態であったニチイの出店を止め、従 来の店舗のリニューアル化を進めていくことになる。福岡県天神で年間10億の赤字を出していた 店舗を1982年に3月に20代の若者向けを対象にした衣料品専門店「ビブレ」に転換した。1984年 3月には奈良市内で30代の主婦層をメインターゲットとした生活百貨店「サティ」を開店した。 このビブレとサティの新業態は、共にこれまでのニチイのメインであったスーパー業と比較し、 高級業態の店舗であり、この二つの新業態を専門店と量販店の合成語「専販店」と名付けた。ビ ブレとして生まれ変わった天神店は、高級業態でありながらも、営業利益率10%と当時の標準的 なチェーンストアよりも高い利益率を誇るまでに育った。この結果から、小林氏は、無理をして 安く売る必要はないと結論付け、専販店を今後の店舗づくりの柱に据え、この時期から従来のスー パー業態としての新規出店は大きく絞られることになった22。 図5 小売業企業売上高ランキング 出所:前田(1991)より筆者作成 順位 1960年 1968年 1972年 1980年 1985年 1990年 1995年 1位 三越 大丸 ダイエー ダイエー ダイエー ダイエー ダイエー 2位 大丸 三越 三越 イトーヨーカ堂 イトーヨーカ堂 イトーヨーカ堂 イトーヨーカ堂 3位 高島屋 高島屋 大丸 西友ストアー 西友 西友 ジャスコ 4位 松坂屋 鉄道弘済会 高島屋 ジャスコ ジャスコ ジャスコ ニチイ 5位 東横百貨店 松坂屋 伊勢丹 三越 ニチイ 西武百貨店 西友 6位 伊勢丹 ダイエー 鉄道弘済会 ニチイ 三越 三越 高島屋 7位 阪急百貨店 西武百貨店 西武百貨店 大丸 西武百貨店 高島屋 三越 8位 西武百貨店 西友ストアー ジャスコ 高島屋 高島屋 ニチイ ユニー 9位 そごう 阪急百貨店 松坂屋 西武百貨店 大丸 大丸 西武百貨店 10位 松屋 伊勢丹 ニチイ ユニー ユニー 丸井 大丸
最初にワーナーグループとニチイの間で、提携話が提案されたのは1988年の事だ。ワーナーグ ループは日本市場への進出に向け、提携企業を模索し始める。大手の映画会社のほか、小売業者 にも共同事業を呼び掛けたが、日本の厳しい映画興行の事情から、ほとんどの企業はシネコン事 業への参加には否定的であった。そうした経緯の後、小売業界5位のニチイにもワーナーからの 提案が伝えられた24。 提携の話が伝えられた当初、ニチイでは日本で年々映画館数が減少していることから、映画館 市場への新規の展開は難しいと考えられていた。この当時、ニチイの新規事業担当で、後に社長 を務める宇都宮浩太郎氏は「斜陽産業だし、映画館の暗いイメージもあり、事業は難しいと考え た」と雑誌のインタビューで答えている25。 3.なぜ、ニチイはシネコンによる進出を決めたのか ここまでの流れを一度整理する。本研究の目的は、小売業を展開し、映画館産業とは無縁であっ たニチイが1990年代当時の映画館市場の状況から無謀とも思えるシネコンによる新規事業の参入 を決定した理由を解き明かすことである。 ワーナーグループからニチイへ提携が伝えられた1988年当初、ニチイの反応は鈍いものであっ た。しかし、結果的にニチイはワーナーグループと提携し、5年後の1993年に日本初のシネコン となる、ワーナー・マイカル・シネマズ海老名を開館するに至った。このニチイの行動への説明 として、まず当時のニチイの置かれていた状況、小林敏峯氏が描く「時間消費型」という独自の ビジネス構想、1980年代に世界で起こった映画技術の大きな変化とそれに伴う市場の大きな変化 が鍵となるであろう。 3.1 ニチイの置かれた状況と経営方針 ニチイがワーナーとの提携を了承した理由として、1980年代にニチイが置かれていた状況が挙 げられる。小林氏が社長として最初に取り組んだ事業は、就任一ヶ月後に発表した、当時小売業 界6位の「ユニー」との合併であった。業界5位のニチイと6位のユニーの合併が成就されると、 イトーヨーカ堂を追い抜き、業界トップのダイエーに迫る業界2位にとなる巨大企業が誕生する ことになる。ニチイとユニーはそれぞれの本社で緊急記者会見を開き、流通業界始まって以来の 大型合併と報道された26。 両社がそれぞれの会見を行ってから9日後に、名古屋市のホテルにてニチイの小林社長とユ ニーの西川社長出席の合併準備委員会の立ち上げと、その後両社長の記者会見が行われた。両社 長は「対等の立場」の合併を前面に打ち出した会見であったが、関係者は「ユニー主導色」を改 めて印象づけたとの評価であった。新会社の社長に西川ユニー社長が、副社長に小林ニチイ社長 が就任することを決めていた。売上高、従業員数などでユニーを上回るニチイを押さえ込んでの 西川氏の社長就任は「小」が「大」を飲み込む感じを与えていた27。 両社長の記者会館でも30分の会見時間のうち、20分以上は西川氏が合併にいたるいきさつ、合 併準備委員会の報告を単独で語り、独壇場とも思える印象を与えていたといえる。ニチイとユ ニー、両社の合併がユニー主導で進められたのは背景には、両社の財務事情があった。1982年度
の売上高目標はニチイが5,050億円で、ユニーの3,750億円であったが、ユニーが8期連続の増益 という高調子であったのに対し、ニチイは不採算店舗を多く抱えている状況にあった。そのため、 ニチイは目標の経常利益120億円の達成は極めて困難とされていた。創業以来の長期営業減益と、 予想される業界再編を乗り切るため、小林氏は自身が師と仰いでいた西端氏と30年近い親密な関 係にあるユニーの西川氏に合併を申し入れたのである28。 小林氏がニチイの命運を賭けたユニーとの合併は、西端氏の生前の悲願でもあったが、両社長 合同記者会見の同日に、ニチイの首都圏担当開発部長の安部政光氏が、神奈川県警に贈賄の疑い で逮捕される事件が起きた。安倍氏は、自身が担当する小田原市と藤沢市への現職市議会議員に、 ニチイの新規出店に有利な取り計らいをしてもらうため、賄賂を渡したのである29。 事件は最終的に、安倍氏に加えて、小田原市と藤沢市の現職市議会議員がそれぞれ1名、計3 名が逮捕されるまでになった。事態を重く見た当時の通産省は、ニチイに再発防止策の検討と徹 底を指導し、出店三ヶ月低止の処分とした。この事件を契機に、両者の合併に向けての取り組み は滞り、合併比率、存続会社などの条件が交渉を行き詰まらせた。両社合併を発表してから70日 足らずの1983年3月に、合併の白紙撤回を発表した。白紙に至った最大の理由は、合併後の新会 社の資本金であった。資産内容、収益力の異なる両社が対等合併するには、合併比率を調整する 必要があり、利害関係の対立により、比率の調整に向けての両社の意見は平行線をたどった30。 西端氏の時代から悲願であった、ニチイとユニーの合併は、流通業始まっての大型合併として 大きな話題を集めたが、白紙撤回という形で幕を閉じた。引き金となったのが、同じニチイの社 員による贈賄事件であったことからも、社内の士気は大きく低迷した31。 ユニーとの合併解消により、小林氏はこれまで以上にニチイの経営に対して危機感をもつこと になる。そのような状況を打開するために、ニチイを「脱スーパー」路線の経営方針へと転換する。 小林氏が脱スーパーの経営方針を取るきっかけとなったのは、合併白紙撤回に加えて、他に2点 ある。まず1点目は、氏が社長に就任する数ヶ月前、1982年2月期にニチイが創業以来、初めて の営業減益となり、低迷が1年続いたことである。2点目が、同時期に社員の奥さんから「ニチ イに欲しいものはあまりありませんねえ」と言われたことである。営業減益の重さも加わり、社 員の家族さえ行かないような店を作っていたという事実が、小林氏にとってスーパー業界におけ るニチイの低価格戦略の限界を痛感させる強烈な一撃になった32。氏は、経営危機は旧態依然と したスーパーが消費者ニーズに合わなくなった表れと判断し、これまでニチイの中核事業であっ た必需品の低価格販売戦略の脱却を意味する、脱スーパー路線へと踏み切ることになる33。 新たなに店づくりとして、準百貨店化を基準に専販店なる新業態として、ビブレとサティを立 ち上げた。ニチイの新業態を増やしていく中、小林氏はニチイの新たな将来性を導いたのであろ う。既存の店舗を専販店化していく他方で、大掛かりな新規事業を描いていた。それが、街づく りをコンセプトとした、大型ショッピングモール事業である34。 3.2 小林氏が描く「時間消費型」ビジネスへの構想 ニチイは脱スーパーへの経営方針により、1980年代後期よりの大型ショッピングモール事業を 進めていく。その中核には、「時間消費型」という小林氏独自のビジネス構想があった。 ニチイの二代目社長を務めた小林敏峯氏は、1931年9月に京都の呉服屋に生まれた。幼い頃に
古くから続いた着物を着る文化から、洋服へと社会が移り変わっていく事を目の当たりにした。 そこから時代によって、社会が、大衆が望むものは常に変化し、小売業はこの変化に抗うのでは なく、受け入れる必要があるのだと考えるようになった35。 小林氏は、太平洋戦争後の経済復興期を第一次流通革命と呼んだ。終戦直後、一般家庭にはモ ノがまだ少なかった時代に「モノがあり余る生活をしたい」といった価値観のもとに大量生産が 行われ消費に結び付けたことで、人々は満たされたとした。そして、1980年代スーパー冬の時代 の真っただ中から脱却するには、小売業界に新たな変革「第二次流通革命」が必要であると結論 付けた。そして、変革の中心となるコンセプトとして「時間消費型」なる概念を考案する36。 時間消費型のコンセプトは文字通り、買い物をするといった施設内で時間を消費すること自体 をサービスとして提供するという考えだ。そのためには、従来の業界のように、顧客に物を売る 事に終始するのではなく、顧客が店舗で過ごすこと自体に価値を見いだせる様に事業を転換して いくこと重要であるとした。1986年、ニチイは既存のスーパー型店舗を専販店に変えていく他方 で、大型ショッピングモール事業に乗り出した。氏は、大型ショッピングモールで物販、飲食、 レジャーの機能を一体化し、来場者に充実した時間を提供する事で、時間消費型の消費者ニーズ に応えられると結論付けた37。 つまり、小林氏が描いたニチイの経営方針の将来像とは、スーパー業から専販店へと移行し、 段階を経て、ディベロッパーとして生活産業の核になる事であった。ニチイがディベロッパーと して最初に取り組んだ大型事業が、神奈川県横浜市の新本牧地区再開発事業の初期段階から構想 に関わり、1989年に開館した、「マイカル本牧」であった。マイカル本牧は、250近いテナントが 軒を連ね、当時国内最大級の敷地面積5万平方メートルを超えた超大型の複合施設であった。マ イカル本牧は、事業としてもだが、ニチイの脱スーパー路線とディベロッパー業としての象徴で もあった38。 小林氏がディベロッパー事業を推進していくうえで、最も重要だと考えていたのは「ノウハ ウ」の蓄積であった。ディベロッパー業として、テナントの導入を重視し過ぎると、テナントの 移動に過敏になり、商業施設として一つのコンセプトを保てないとした。そのために小林氏は、 ニチイのディベロッパー業を進めていく他方で、商業施設のノウハウの蓄積に向けて、グループ 内に「直営部隊」を揃えていった。専販店を立ち上げる他方で、フィットネスクラブの「ピープ ル」をグループ傘下に収める。1984年には、レコード制作会社の「ハミングバード」と資本提携 し、翌年の1985年、商品大手企業の「味の素」と共同出資し、総菜会社を2社立ち上げた39。 ニチイは1980年代後半、ニチイはディベロッパー事業を強固にするため、ノウハウ獲得に向け て、異種産業をグループ企業として取り込んでいった。そのような中で、1988年にワーナーグルー プから業務提携の話が伝えられた。その当時、大手映画会社、映画館市場関係者、他の小売事業 者はワーナーグループとの提携に難色を示していたが、提携が持ちかけられた当初、ニチイの反 応も鈍いものであった。しかし、ワーナーグループが提案したシネコンが、ニチイ側の予想に反 して、既存の映画館とコンセプトと運営方式が大きく異なっていたことから話は進展することに なる40。 小林氏と、宇都宮氏は、単館にはないシネコン独自の特徴に注目した。単館は通常、一つのス クリーンであるのに対し、シネコンは一つの施設内に複数のスクリーンがあることから、観客が
映画館の入り口で多くの作品から選択する事が可能になることを高く評価した。スクリーンを増 やしながらもチケット売り場を統一、少人数の映画技師が複数の映画を上映出来るとしたシステ ム面からも見て、シネコンが単館に対して、効率的な経営が可能であると結論付けた41。 ニチイが提携合意に至る最大の決め手となったのは、イギリスのニューカッスル(ニューキャッ スルとも発音する)にあるワーナー・ブラザース・インターナショナルが運営するシネコンを宇 都宮氏が直接視察したことである42。 …周辺は静かなのに、そこだけ大勢の若者でにぎわっていた。地下鉄の駅の近くに複数の 小規模の映画館とボーリング場、カラオケ、ビリヤードなどアミューズメントを組み合わせ た施設を作ってヤングを集めていた。… ニューカッスルは港町という事もあって閑静な都市である。だが、シネコンを中心とした一帯 だけ、大勢の若者で賑わっている別の空間が形成されていることに宇都宮氏は衝撃を受ける。同 氏は、この視察から、ニューカッスル一帯を参考のモデルとし、ニチイの店舗づくり戦略に、新 たにシネコンを導入する事で、ヤング層の集客強化と、近隣一帯の娯楽性の向上が狙えるとの構 想を得た。これは、今までニチイの集客戦略として、新規事業担当の家族連れを対象に、グルー プ内のピープルや、ゲームセンターを店舗に組み込んできた宇都宮氏自身の経験から導き出した ものであった43。 その後、小林氏も「これからの小売業は『時間消費』型のライフスタイルに合わせていかなけ ればいけない」との判断から、1991年にワーナーグループとの提携を了承する44。 また、単館は都市近辺への出店が集中していたのに対して、シネコンは土地代の安い郊外に出 店が基本であった。そのため、シネコンはこれまでの映画館と違い、施設と駐車場に広い土地を 必要としたが、ニチイの郊外型出店計画に適任であった45。 ワーナー側が劇場設計と運営を、ニチイ側は土地、施設の建築・提供を受け持つと、お互いの 割を明確に出来たことにより、両社が提携の合意に至るまで時間がかからなかった。初めて、提 携の話が持ち上がってから3年後の1991年5月9日、ワーナー・マイカル設立を発表した。それ から、さらに2年が経った、1993年4月24日に日本初のシネコンとなる、ワーナー・マイカル・ シネマズ海老名を開業する。 ここで、当時の日本映画館市場の関係者の動向を説明する。全国の映画館が組織する全国興行 環境衛生同業組合連合会(全興連)は、かねてより、映画館産業の斜陽化を食い止めるためには、 興行場法、建築基準法、消防法、都市計画法などの関連条例が幾重にも規制をかけていた状況を 緩和する必要性があると感じていた。1989年、全興連は特別委員会を設置し、同年9月に各大臣 あてに公的規制緩和の陳情書を提出した。10年以上規制緩和を訴えた結果、1992年の都市計画法 の改正が行われた。客席面積が二百平方メートル未満なら、近隣商業地域や幹線道路沿いの準住 居地域にも建設できるよう織り込んでもらうことにも成功し、映画業界はショッピングセンター などへの映画館併設の道が開かれた。法の規制緩和によって、これまで禁止されていた商業区域 へ映画館を開業出来るようになったというわけである46。 しかし、既存の映画館関係者はあくまで単館による進出を狙っており、シネコンの事業化は見
送っていた。事実、1993年のワーナー・マイカル・シネマズ海老名が開館した当初、国内映画館 市場の評価は低いものであった。「7つのスクリーンは無謀であり、ショッピングセンターの客 寄せだ」「ニチイが日本の興行事情がよくわかっていないのでは」と、多くの関係者が失敗する との予想をしていた47。 だが、ワーナー・マイカルは他の外資企業が参入する1996年までに、シネコン7館を開館し、 総計スクリーンは48幕を有するまでになる。1991年の会見当初、年間売上高の見込みは6億円 であったが、1995年度の年間売上高は、それを大きく上回る44億円以上という大成功を収めた。 また、1スクリーン当たりの興行収入は9,200万円を記録し、これも当時の業界平均を上回るも のであった48。 3.3 1980年代に起こった世界的な映画革命 ニチイがワーナーグループとの提携を受け入れた理由として、1980年代の世界的に巻き起こっ た、映画技術の革命が挙げられる。1990年代にハリウッドを中心として、長編アニメ映画と、コ ンピューターグラフィック(以下CG)技術を用いた映画の大ヒットが巻き起こったが、1980年 代はその布石の年代であったといえよう。 1980年代にアニメ映画の流れを大きく変えたのはウォルト・ディズニー社であった。1966年に 創業者のウォルト・ディズニー氏が死去して以来、長期低迷を続けていたウォルト・ディズニー 社が行った業績改善策が、レジャー部門のてこ入れと、アニメ映画製作の強化だ。1980年代にウォ ルトの娘婿で当時社長に就任したロナルド・ミラー氏はレジャー部門のてこ入れとして、フロリ ダのディズニーワールド内に、ディズニー創業以来最大の9億ドルの巨額の建設費用を投じて新 たな施設を開業した。新たな施設は当時のコンピューター、新エネルギー、新交通システムなど 技術革新の精髄をふんだんに使いSFとテクノロジーをテーマとし「エプコット」という名前で あった。巨費新施設の建造には当初、懐疑的な声も大きかったが、結果としてエプコットが開園 した1982年10月から12月の年末シーズンの入場者数は前年比倍ペース(97%増加)の466万3,000 万人に達し、年間入場者数は2,000万人になる見通しがつくほどであった49。 ミラー氏はレジャー部門の強化を図る他方で、社長に就任するまで12年間、映画製作の責任者 だった経験から、ディズニーの新たな収入源として映画製作に期待していた。1983年3月24日の 日本経済新聞に記載されたミラー氏のインタビューを引用する50。 映画、特にアニメは当社の有力な事業だ。今年からは従来4、5年に一本だったアニメの 製作を、2、3年に一本のペースに引き上げたい。「トロン」のようなコンピューターグラ フィックの世界も引き続き注力する。またCATVでは、最近「ディズニーチャンネル」を作っ た。さらにパソコンソフトなどへの進出も考えている。 1986年にミラー氏から、新たにウォルト・ディズニー社の社長(兼会長)へと就任したのが、 マイケル・アイズナー氏だ。アイズナー氏は、ミラー氏が取り組んだレジャー部門の強化をより 推し進めた。東京ディズニーランドの好業績から、海外での事業展開に力を注いだが、レジャー 部門のテコ入れと同時に映像分野でも積極的な事業展開を進めていた。アイズナー氏は、以前に
在籍していた映画製作スタジオの「パラマウント映画」から制作スタッフを20人以上スカウトし た。この制作陣を中心にディズニーの映画製作は大きく前進する事になる51。1985年以降、これ まで5年に一度の公開ペースだったのが、1年に一度のペースとなった。1989年に公開されたリ トル・マーメイドは、全世界で2億ドルの興行収入を得るほどの大ヒットを記録した。さらに、「眠 れる森の美女」などの名作アニメをホームビデオ化するなどビデオ市場にも参入した。ミッキー・ マウスなどのキャラクター商品のライセンス契約料収入の拡大にも努めた。 レジャー部門の好調、映画・ビデオなど映像分野での新戦略が実を結んだ結果、長期低迷を続 けていたウォルト・ディズニー社の業績が急速に回復した。米ビジネス・ウィーク誌はこの業績 急回復を「ディズニーズ・マジック」と評した。フィナンシャル・ワールド誌は、アイズナー会 長を1986年の最も優れた経営者の一人に選び、「ウォルトが中央ステージを作り、アイズナーが 観客を呼び寄せた」とアイズナー氏の功績を称えた52。 次に映画のCG技術の発展を述べていく。1980年代初頭、映画におけるCG技術はとても高価で ありながら、手間を要し、監督からは思い通りにならないと散々な評価であった53。1984年に公 開された「グレムリン」では、同映画に登場するグレムリンという体長1mにも満たない化け物を 再現するにあたって、撮影に用いられたのはパペット方式であった。総製作費の4割をかけて様々 なパペットを製作。用途によってそれを使い分け、更に何本ものワイヤーを使って何人ものスタッ フが一体を操作。増殖したグレムリンが一堂に会するシーンでは85体のパペットを製作した54。 このように、1980年代前半は、映画にCG技術を採用する例はほとんど見受けなかったが、 1986年を境に一変する。1980年代中頃より、コンピューターが驚くほどの速さで進歩し、CGの 製作コストは急激に下がった。CG画面の基礎単位である毎秒1ポリゴン当たりの価格でみると、 1987年のCG機材で約1,300円であった。これが5年後の1992年には約14円まで低下し、CGのコン ピューター能力当たりの単価は、5年間におよそ100分の1にまで安くなった。1980年代初頭に、 映画業界から見向きされなかったCGの技術はわずか10年の間で、これからの映画は、CG撮影技 術への適応による淘汰が起こるとまで言わしめた55。 1980年代終盤に入ると、CG技術が映画のシーンに用いるようになり、1991年に公開された「ター ミネーター2」映画の様々なシーンでCGを活用し、CG映像の新時代を開いたとされている56。 ターミネーター2の公開から2年後、1993年に公開された「ジュラシックパーク」は当時の最 新CG技術を集めて、実在しない恐竜を映像化した。以上から見たように、1990年代初頭はウォ ルト・ディズニー社の映画事業への推進、CG技術の発展により、世界の映画ビジネスが拡大し た年代であった。画期的な技術発展は、従来の市場では不可能と判断される行動に対して、可能 性を魅せてくれるといえよう。1990年代初等に巻き起こった映画革命に向けてまでの技術発展が、 ニチイがシネコンによる映画館市場に進出した影響を与えたのではないかと考察する。 4.終わりに 4.1 事例分析のまとめ 本事例分析の目的は、映画館産業とは無縁であったニチイが、シネコンによる新規事業の参入 を決定した理由を明らかにすることである。1991年に米国のワーナーグループと、それまで映画
産業にまったく縁のなかった、大手スーパーのニチイによってワーナー・マイカルが設立された。 2年後の1993年に日本初のシネコンを開業したわけだが、それまでの日本映画館史からみる年間 観客動員数の長期低迷、ニチイと映画産業との繋がりの無さから一見、小林氏の経営判断は不合 理とも受け取れる。 小林氏の経営判断の説明として、1980年代のニチイとスーパー業界の状況が背景にあった。氏 が社長に就任した1980年代のスーパー業界は、景気後退の影響と、過激な価格競争によって、商 品を売っても利益が出ない、「スーパー冬の時代」と呼ばれた状況であった。大手スーパー各社は、 この冬の時代からの脱却を図るため、差別化を意図した方向転換を進めていく。ここでまず、小 林氏が取ったのは、8期連続の増益という高調子であったユニーとの合併による、事業規模拡大 であった。しかし、ニチイの社員による贈賄事件を引き金に、70日足らずで合併は白紙撤回となっ た。社長に就任して1年もしないうちに、事業規模拡大への道は閉ざされ、ニチイに残された選 択は、差別化戦略以外に残されていなかった。 社運を賭けた差別化戦略、それが小林氏独自のビジネス構想「時間消費型」を中核とした、脱 スーパー戦略であった。 時間消費型の概念は、顧客が買い物をする時間を消費すること自体をサービスとして提供する というものだ。顧客へ物を販売することに加えて、顧客が店舗で過ごすこと自体に価値を見いだ せる様に事業を転換していくことが重要であるとした。ニチイは既存のスーパー型の店舗を専販 店に変えていく他方で、大型ショッピングモール事業に乗り出した。そのような状況の中で、ワー ナーグループからニチイに業務提携が提案された。 シネコンに対して、大手映画会社、映画館市場関係者、他の小売事業者が難色を示していたが、 小林氏と宇都宮氏両名は、単館にはないシネコンの特徴に注目。観客に観たい映画を選択させる ことが可能になる点を高く評価し、シネコンのコンセプトと時間消費型のコンセプトが小林氏の 中で一致したことから、1991年にワーナーグループとの提携を了承した。それにより、ワーナー・ マイカルが設立され、2年後にワーナー・マイカル・シネマズ海老名が開業したわけである。ま た、1987年から5年間の間で、単価が約100分の1にまで安くなるほど、急速に進歩したCG技術 の発展と、ウォルト・ディズニー社の映画事業への推進により起こった、世界の映画ビジネスの 拡大も、ニチイがシネコン市場に進出した影響を与えたのではないかと推論する。 つまり、1980年代当時のニチイの置かれていた状況と経営危機。小林敏峯氏が描く「時間消費型」 という独自のビジネス構想。CG技術の発展とディズニーの映画事業への進出によって起こった、 世界的な映画ビジネスの拡大。以上3つが、ニチイがワーナーグループとの提携を了承し、将来 性の乏しい日本映画館市場へ新規参入する企業行動の理由であったと、本研究は決定づける。 4.2 事例分析を通して 本事例分析を通して、考えられる含意は次の二点だ。まず一点目が、企業が大きく経営転換す る決断をする際、最も影響を与えるのは当事者らではなく、その企業を取り巻く環境であるとい うことだ。ニチイの映画館市場への新規参入、その背景には小林氏の独自の構想を中核とした、 社運を賭けた経営方針の転換があった。しかし、小林氏は当初から脱スーパー路線に活路を見出 したわけではない。社長に就任した当初、氏が取った行動は合併による事業規模拡大路線であっ
た。経営者としてその判断は当時の状況から見るにあたって適切であったといえる。しかし、合 併事業はあえなく白紙となり、経営危機の難局に追い込まれた末に実行したのが、時間消費型を コンセプトとした事業転換であったのだ。それを生み出した根底には、当時の小売業の同業他社 数の多さと、市場の多様性であったのだといえよう。2010年代現在、かつて世界を席巻していた ソニー(以下SONY)やシャープ(以下SHARP)に代表される日本企業の多くは過去の栄光を 失いつつある。原因は多数あげられるが、筆者は、企業を取り巻く外部圧力が理由ではないかと 考察する。SONYやSHARPの経営危機は、急激に生じたものではない。徐々に、少しずつ経営 が傾いていき、現在の状況に陥ったものだ。企業として、危機感ともいる外部環境からの圧力が 弱いことは、経営者を含め、当事者によって居心地がよい状況なのかもしれないが、そのような 状況に取り巻かれた企業はやがて没落するであろう。今日における、日本企業の凋落には、その ような原因が関わっているのではないだろうか。 二点目が、市場の大きな変革を成し遂げられる企業は、それまで影響の低い企業であったとい うことである。日本映画館市場は、シネコンが登場した1993年を境に、単館のほとんどは市場か ら撤退する。同時に、シネコンがそれ以上に日本映画館市場に活性化をもたらしたのも事実であ る。通常、市場をリードするのは技術を変化させる優位性を持つ、トップ企業が中心である。し かし、技術と市場両方が同時に変化する際、市場の新たな道を形成するパイオニアの多くは、トッ プ企業ではなく、外部から新規参入もしくはベンチャーというような、全く新しい企業が主体であ る。本研究が事例対象とした、日本映画館市場におけるシネコン事業も、その一例であるといえる。 1991年のワーナー・マイカル設立の会見で、小林氏はシネコンと単館は共存できると予見して いが、それは大きく外れることになる。シネコンによって、多くの映画館は消え去ったが、その 後巻き起こった、30年間低迷した映画館市場の復興の背景には、ワーナー・マイカルによって切 り開かれたシネコンの存在が挙げられよう。 *外間誉也(ホカマ タカヤ)沖縄大学院 現代沖縄研究科修士課程 <[email protected]> **崔 珉寧(チェ ミンヨン)沖縄大学 法経学部法経学科 准教授 <[email protected]> 1 日本映画製作者連盟 http://www.eiren.org/toukei/data.html(2016年1月14日最終アクセ ス)。 2 吉川誠広(2003) 『映画産業研究』 6p。 3 椎名一真(2008年)『映画館の社会史 -映画館の社会史-なぜ人は映画館に行くのかー』11p。 4 NHK受信料の窓口 https://pid.nhk.or.jp/jushinryo/know/toukei2013.html(2016年1月 12日最終アクセス)。 5 四方田犬彦(2014)『日本映画史110年』 集英社 186p。 6 「ニチイとタイム・ワーナー、複合型映画館を展開『サティ』などに併設」『日経流通新聞』 1992年5月11日。 7 「複合映画館、3年間で3倍に、ワーナー・マイカル展開を加速」『日本経済新聞』1997年1 月29日
8 イオンエンターテイメント会社情報 「会社の沿革」 http://www.aeoncinema.com/company/company/history.html(2016年1月19日最終ア クセス)。 9 「邦画サバイバル 独走東宝、興行力に危機感 シネコン急伸」『日経産業新聞』1999年2月17日。 10 「マイカル、店舗・子会社売却急ぐ『日本経済新聞』2001年8月31日。 11 「シネコン普及で国際賞、ワーナー・マイカル専務生嶋洋治氏」『日本経済新聞』2003年5月8日 12 「東宝、興行網国内最大に、ヴァージン系シネコン買収」『日経産業新聞』2003年2月26日 13 イオンエンターテイメント会社情報 「会社の沿革」(2016年1月19日最終アクセス)。 14 日本映画製作者連盟(2016年1月14日最終アクセス)。 15 金子裕子、 中山治美(2000)「映画7つの疑問 映画館の料金、俳優のギャラ最高額、シネコ ンと既存映画館の違い…様々な疑問に答えます」『エコノミスト』2000年1月18日号 99p。 16 同上。 17 りんたいこ(2002)「シネコンが日本の映画産業を変えた」『エコノミスト』 2002年10月29日 41p。 18 「インタビュー トレンドおもて裏 複合映画館の挑戦 ワーナーブラザースインターナショ ナル朝倉久美子氏」『日経産業新聞』1991年9月2日。 19 「複合映画館、マルチプレックス・シネマ」『日経産業新聞』1994年2月7日。 20 竹内祐二(1998)『大手スーパーの構造変革とマネジメント・システムの再構築』 47p。 21 「ニチイ“脱スーパー”に走る、兄弟軸に即断即決型の経営」『日本経済新聞』1992年2月24日。 22 野間潔(1992)『日経ビジネス』 1992年3月23日号 p.75。 23 前田和利(1991)「流通」米川伸一他編『戦後日本経営史』(第3巻)第1章 東洋経済新報社。 24 『日経産業新聞』1994年2月7日。 25 桑田富美(1993) ニチイ-郊外店に映画館組み込みヤング層の集客に成功 『日経ビジネス』 1993年9月13日号 47p。 26 「ニチイとユニー合併合意1月覚書、9月1日メド 業界2位、年商9000億円に」『日本経済 新聞』1982年12月30日。 27 「対等ながらユニー主導色 ユニー・ニチイが合併準備委開く」『日本経済新聞』1983年1月8日。 28 同上。 29 「神奈川県警、収賄の藤沢市議を逮捕 ニチイ出店事件、飛び火」『日本経済新聞』1983年1 月16日。 30 ニチイ・ユニー合併の白紙還元、未熟な体質露呈、問われる経営責任」『日本経済新聞』1983 年3月2日。 31 野間 潔(1992)「小林敏峯 安売り否定し「感動」を売る 街作りに挑む夢のあきんど」『日 経ビジネス』 1992年3月23日号 75p。 32 野間 潔(1992)『日経ビジネス』 1992年3月23日号 75p。 33 「ニチイ“脱スーパー”に走る、兄弟軸に即断即決型の経営」『日本経済新聞』1992年2月24日。 34 本間康裕(1989)「ニチイ 脱・スーパー、デベロッパー事業好調にスタート」1989年7月17 日号 58p。
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