● 特 集
浄土教
の
宗教哲学
の
可能性
●1
西 田 の 思 想 に お け る 哲 学 と 宗 教 浄土教の宗教哲学の可能性を問うには、まず宗教哲学とはど ういうものかということから考えていく必要がある。その日本 に お け る 一 つ の 原 型 を、 西 田 哲 学 の 中 に 見 る こ と が で き よ う。 それは京都学派の宗教哲学の伝統が形成される原点に位置する ものである。 西田の著作を眺めると、宗教という語は大きく分けて二つの 意味で用いられている。一つは歴史的に形成されてきた現実の 事象としての宗教を指し、一つは哲学と宗教とは同じ目的をも つと言われるときの宗教を指す。浄土教は前 者に属する。後者 に つ い て は、 『一 般 者 の 自 覚 的 体 系 』 の な か で 少 し ま と ま っ た 形で論じられている。 西田は「知る」ということを一般者の自覚的限定という仕方 で考えるのであるが、その知の考察のなかで真の自己のあり方 を追究し、判断とか自覚を含む意識的自己の底に超越して叡智 的自己に至ると考える。そして、西田は叡智的世界における行 為 的 自 己 の あ り 様 を「悩 め る 自 己 」 で あ る と す る ( 1) 。 行 為 す る 叡 智的自己は、イデヤを見る自己の根柢を見るものである。つま り、単にイデヤを見るものではなく、イデヤを見るものとして 自 己 自 身 を 知 る も の が 居 る。 そ れ 故、 こ の 自 己 は 矛 盾 で あ る。 自己を見ることが深ければ深いほど、自己自身の矛盾に苦しま な け れ ば な ら な い。 「悩 め る 自 己 」、 「迷 え る も の 」 と い う あ り宗教哲学
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氣多雅子
方が叡智的世界における最後のものとなる、というのが西田の 考えである。しかし西田によれば、この矛盾はまだ真の自己自 身 の 根 柢 で は な い ( 2) 。 自 分 の 矛 盾 に 苦 し み、 反 省 に 反 省 を 重 ね て、 反省そのものが消磨するに至って、ようやく真の自己を見るの だと言う。矛盾を脱して真の自己自身の根柢を見るには、一種 の超越がなければならない。これが宗教的意識であり、それを 西 田 は こ う 説 明 す る。 「宗 教 的 意 識 に 於 て は、 我 々 は 心 身 脱 落 して、絶対無の意識に合一するのである、そこに真もなければ、 偽もなく、善もなければ、悪もない ( 3) 」。 ここで注目したいのは「矛盾」である。矛盾をそれが矛盾と し て 成 立 す る 根 柢 へ と 越 え 出 る こ と で、 「知 る こ と 」 は 知 的 直 観 (叡 智 的 自 己 の 立 場 ) に ま で 至 っ た わ け で あ る が、 叡 智 的 一 般者もなお最後のものではなく、さらにそれを包む一般者を西 田は考えざるを得なくなる。その究極の一般者が絶対無の場所 と言われるものであり、自己の追求はここに極まる。この究極 統一は宗教的意識として考えられるものであって、言葉によっ て語り得ず思惟することのできない世界であり、ただ体験され る だ け で あ る と さ れ る ( 4) 。 哲 学 の 立 場 で は 宗 教 的 意 識 の 内 容 に つ いて何も語ることはできない。知的直観は主客合一の直観であ ると言ってもなお意識の志向性の構造をもつために、概念的知 識との関係をもつと言い得る。つまり、知的直観の内容は哲学 の立場で語り得るものである。しかし、ここが哲学の限界であ ると西田は考える。 仏教やキリスト教のような歴史的宗教には、それぞれに「宗 教的世界」と見なされるものがある。西田はこの宗教的世界と、 思惟の及ばない宗教的意識とを、区別する。西田によれば、叡 智的一般者が絶対無の場所に於てあり、絶対無の場所に包まれ た と き、 叡 智 的 自 己 を ノ エ シ ス 方 向 に 超 越 し た 超 越 的 主 観 に よって構成されたものが叡智的世界として見えてくる。このと き、叡智的世界として見えてくるものは「絶対無の場所に於て あ る も の 」 で あ る か の よ う に 思 わ れ る が、 そ う で は な く、 「絶 対無の場所に於てあるものの影」に過ぎない。この「絶対無の 場 所 に 於 て あ る も の の 影 」 が、 「宗 教 的 世 界 」 と 見 な さ れ る も のである ( 5) 。 このように歴史的宗教の立場を説明した後で、西田はこう言 う。 「私 は か か る 宗 教 観 は 尚、 甚 深 な る も の と は 考 へ な い。 意 識一般が叡智的自己としては尚自己自身の内容を有せない如く、 未だ真の宗教的直観に達せない、唯、叡智的世界に即して考へ ら れ た 宗 教 観 た る に 過 ぎ な い ( 6) 」。 西 田 が 真 の 宗 教 的 意 識 と 考 え る も の は こ れ と は 違 う。 「真 に 絶 対 無 の 意 識 に 透 徹 し た 時、 そ こに我もなければ神もない。而もそれは絶対無なるが故に、山 は 是 山、 水 は 是 水、 有 る も の は 有 る が 儘 に 有 る の で あ る ( 7) 」。 禅 的な言い方になっているが、西田の言おうとするところは明白 であろう。 だが、このように宗教的意識について語るのはどこまでも哲 学の立場である。西田は哲学と宗教とが同一の目的をもつと考
え る か ら こ そ、 両 者 の 立 場 の 違 い を 強 く 意 識 し て い る。 西 田 の「知ること」の追究は、絶対無の場所という究極の一般者に まで行き着くわけであるが、絶対無の場所は一切の限定を越え たものであるから、概念的に語ることはできない。それでもな お絶対無の場所について語り得るとしたら、それは我々の心が た だ「映 す 鏡 」 と な る と い う 仕 方 の み で あ る、 と 西 田 は 言 う ( 8) 。「映 す 」 と い う 仕 方 で 知 ら れ る 絶 対 無 の 場 所 か ら 種 々 の 知 識の立場と構造を明らかにする、これが西田の考える哲学の立 場である。したがって、哲学の立場には映すということが残る。 それに対して、宗教の立場は映すということも残さない。絶対 無の場所をめぐるこの違いが、哲学と宗教を切り分けると共に、 この違いは哲学と宗教との接触点をも示している。哲学の立場 は自己が自己自身の内へ反省する立場であり、その自己が宗教 的自己に至ったとしても、自己の内への反省であるかぎり哲学 の思惟である。そういう仕方で哲学は宗教の事象を思惟するこ とができるとされる。 西田の宗教論として直ちに思い浮かぶのは最後の論文「場所 的論理と宗教的世界観」であるが、以上のことを考えると、こ の 論 文 の 題 目 が 大 き な 意 味 を も っ て く る。 西 田 に よ れ ば、 「宗 教 的 世 界 観 」 と は、 宗 教 的 自 己 の 立 場 に 立 っ て 絶 対 的 自 己 (神 ) が 構 成 し た 対 象 界 を 自 己 自 身 の 内 容 と す る も の で あ る。 つまり、宗教的世界観は、叡智的世界の内容を宗教的自己の立 場から見たものに過ぎないのであって、宗教的自己そのものの 自 省 の 内 容 で は な い。 「宗 教 的 自 己 そ の も の の 自 省 」 の 立 場 は 哲学の立場である。したがって、絶対無の場所としての宗教的 意識の立場は哲学の立場を超えているが、宗教的世界観の方は いまだ哲学の立場に至っていないものとなる。もっとも、後期 の西田は「弁証法的世界」を問題にするようになり、世界が世 界自身を限定するということが考えられるようになる。この思 索 の 方 向 転 換 に よ っ て、 「宗 教 的 世 界 観 」 が 新 た な 意 義 を も つ ようになることは付言しておかねばならない。 以上のような西田の哲学と宗教の考え方をそのまま受け入れ るべきであるとは直ちに言えないが、それについてはここで立 ち入ることはしない。西田の考え方を受け継ぐ形でいわゆる京 都学派の宗教哲学の流れが出てくる。浄土教の宗教哲学という べきものもそのなかで生まれてくる。
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武 内 義 範 に お け る 浄 土 教 の 宗 教 哲 学 浄 土 教 の 宗 教 哲 学 成 立 の 端 緒 は、 武 内 義 範 (一 九 一 三 ― 二 〇 〇 二 年 ) の『教 行 信 証 の 哲 学 』 (一 九 四 一 年 ) で あ る と 言 っ て よ い で あ ろ う ( 9) 。 武 内 は 師 で あ る 田 邊 元 の す す め に よ っ て こ の 書 を 執 筆 す る に 至 り、 こ の 書 が ま た 田 邊 の『懺 悔 道 と し て の 哲 学 ( 10) 』 に影響を与えたという経緯はよく知られている。 ただし、田邊と武内とではその哲学的思索における『教行信 証』の意義は異なっている。田邊は親鸞の『教行信証』が「懺悔 道 」 と い う べ き も の で あ る と 考 え て、 『教 行 信 証 』 に よ っ て 大きく触発される。しかし「私は懺悔道としての哲学が親鸞の 信 仰 思 想 に 影 響 せ ら れ 指 導 せ ら れ て 発 生 し た も の で な く し て、 理性批判の絶対批判に至る徹底の帰結が之を必然ならしめたの で あ る こ と を 主 張 す る 〔… … )(( ( 〕 」 と 述 べ て い る よ う に、 田 邊 は あくまで哲学の立場で思惟している。田邊にとって浄土教はた くさんある歴史的宗教のなかの一つなのである。 武内は、西田が「自覚」として捉える哲学的思惟の動的構造 を、自らの哲学の基盤として受け継いでいる。そのことは直接 的には語られていないが、武内の哲学的思索の基盤には揺るぎ がない。その上で、武内の立場を浄土教の宗教哲学として成立 さ せ て い る の は、 親 鸞 へ の 態 度 で あ る。 「教 行 信 証 に お け る 信 の構造」という論稿のなかで、武内は『教行信証』の思惟には 一本論理の筋が通っていることを論じて、次のように言ってい る。 も ち ろ ん 聖 人 ( 親 鸞 ) は 今 日 の 論 理 主 義 者 の よ う な 存 在 で は あ り ま せ ん か ら、 思 索 が 信 心 の 上 に 立 つ も の と は 考 え ま せ ん。 論 理 は い つ で も 信 仰 と 対 立 し、 後 者 に よ っ て 克 服 さ れ ね ば な ら な い こ と も、 十 分 御 存 知 で す。 し か し、 論 理 は、 断 絶 を 含 み な が ら、 影 の 形 に 添 う よ う に、 信 仰 を 追 跡 す る こ と が で き ま す。 両 者 の 関 係 は、 主 知 主 義 者 の 叡 智 と か 精 神とかを逆転させたような形の弁証法的止揚・統一です ( 12) 。 宗教は哲学以前であると共に哲学以後であり、哲学は宗教と 協調というよりもむしろ相克という関係のなかで自らを否定し つつ成就する。そのような考え方を武内のなかに読み取ること が で き る。 そ し て、 そ の 考 え 方 を 武 内 が 親 鸞 の 思 索 の な か に 見 て 取 っ て い る と い う こ と が 重 要 で あ る。 こ の よ う な 宗 教 (信 仰 ) と 哲 学 (論 理 ) の 関 係 は 西 田 や 田 邊 の 考 え 方 に も 通 じ る も のがあるが、彼らにおけるその関係は哲学に軸足を置いたもの であったのに対して、親鸞におけるその関係は信仰に軸足を置 いたものとなる。 このような武内の浄土教理解は、論理と信仰との鋭い緊張関 係によって特徴づけられる。この終わることのない対立とその 克 服 を 追 う こ と は、 『教 行 信 証 』 の な か に 親 鸞 と い う「宗 教 的 自己そのものの自省」を読み取ろうとすることにほかならない。 武内の仕事は、聖典の内容を論理的に体系化し教理として仕上 げることはしないという点で、伝統的な宗学とははっきりと区 別 さ れ る。 一 方 で、 『教 行 信 証 』 に は 伝 統 的 な 宗 学 や 仏 教 学 の 研究の大きな蓄積があり、武内の親鸞の思索はそれを強く意識 しつつ形成されている。
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現 代 的 な 問 題 関 心 か ら の 理 解 武内の『教行信証の哲学』は、親鸞の宗教的自覚の論理をそ の生成の過程において理解しようとしたものであり、その過程を示す「三願転入」は武内の宗教哲学の立ち位置を明確に示す 主題である。 晩年になると、武内は自らの研究の視角を、 「現代の思想の、 特に西洋の思想の諸問題、もっと狭く言うと、現代に対して現 代 の 人 間 が 懐 く 宗 教 的 な 問 題 設 定
―
神・ 世 界・ 人 間 の あ り 方―
に つ い て、 現 代 西 欧 の 宗 教 哲 学 に お け る 問 題 の 立 て 方 と、 そ れ に 対 す る 解 答 と し て の 思 想 ( 13) 」 に 据 え る こ と に な る。 歴 史的世界の問題は武内にとって、親鸞の宗教的自覚の事柄を現 代世界に振り向けた、というような副次的な問題ではない。武 内は業と輪廻の立場を「どこまでも自己を世界のなかで世界の 方 か ら 見 よ う と す る 」 も の だ と 捉 え て い る。 「だ か ら 主 体 は 世 界を自己に映じるが、逆にそのことまで世界の側から見られる と い う 仕 方 で 世 界 に よ っ て つ つ ま れ る の で な け れ ば な ら な い ( 14) 」。 そ し て、 こ の こ と を 武 内 は 原 始 仏 教 の 有 ( bh āv a ) の 概 念 か ら 導出されると考える。武内は原始仏教の研究でも知られている が、親鸞の思想と釈尊の人間存在の捉え方とを重ね合わせて理 解している。 武 内 の 晩 年 の 浄 土 教 理 解 を 特 徴 づ け る も の の 一 つ は、 『教 行 信 証 』 信 巻 の 始 め の 方 に 出 て く る 曇 鸞 の 三 心 転 成 の 重 視 で あ る )(1 ( 。 即 ち、 「信 心 淳 か ら ざ る を も て の ゆ え に 決 定 な し、 決 定 な きがゆへに念相続せず、また念相続せざるがゆへに、決定の信 を え ず、 決 定 の 信 を え ざ る が ゆ へ に 心 淳 か ら ざ る べ し (信 心 が 淳 厚 で な い か ら、 決 定 の 心 が な く、 決 定 の 心 が な い か ら、 一 念 の 信 心 が 相 続 し な い。 ま た 一 念 の 信 心 が 相 続 し な い か ら、 決 定 の 心 が な く、 決 定 の 心 が な い か ら 信 心 が 淳 厚 に な ら な い の で あ る )(1 ( ) 」。 こ れ は 否定的な形で語られているが、肯定的に言うと、淳心と決定心 と相続心が展転相成するということである。曇鸞は『論註』で この情態が仏の教えに従った修行のあり方であると述べており、 それを親鸞が『教行信証』信巻で引用している。 普 通 の 宗 学 的 な 議 論 で は、 ま ず『大 無 量 寿 経 』 の 第 十 八 願 の 三 心 (至 心・ 信 楽・ 欲 生 ) が 問 題 に な り、 次 に『観 無 量 寿 経 』 の 三 心 (至 誠 心・ 深 心・ 廻 向 発 願 心 ) に つ い て 解 釈 さ れ、 曇 鸞 の 三心転成はその後に位置づけられる。なぜなら、宗派の拠り所 となる経の叙述によって教義の正当性を明らかにすることが最 初になされるべきだからである。しかし武内は、信巻では『大 無 量 寿 経 』 の 三 心、 『観 無 量 寿 経 』 の 三 心 に 先 立 っ て 曇 鸞 の 三 心が出てくることから、淳心・決定心・相続心の展転相成こそ 親 鸞 が 三 心 の 問 題 を 捉 え る 原 点 の よ う な も の だ と 考 え て い る。 つ ま り、 「ど れ を と っ て も 他 の 二 つ の も の が 継 起 し て い る、 ど れか一つでも欠ければ他の二つのものもだめになる」というこ の三心の関係の把握を、親鸞が自らの体験を自己省察したもの として受けとめ、そこから本願の三心の関係を解明し、浄土教 の信の構造を明らかにする。これが武内の企図である。 さらに武内は、三心展転相成という信心の構造には、瞬間と その持続ということが含まれていると考える。彼は、親鸞にお いては「世尊我一心帰命尽十方無碍光如来」の一心が行から信の方向に解明されていると見た上で、帰命の一念を実存主義の 哲 学 の「瞬 間 」 と い う 考 え 方 か ら 捉 え て い く ( 17) 。 二 河 白 道 の 中 で 阿彌陀仏から「来い」と言われ、釈迦仏から「行け」と言われ るその命令に対して、全身全霊で「はい」と言うその一瞬、即 ち南無阿弥陀仏の一声という形で本願招喚の勅命に応答する瞬 間を、生涯を通じて、今から今へと相続していかなければなら な い。 「時 尅 の 極 促 」 は「時 尅 の 延 促 」 で も あ る、 つ ま り 一 念 する瞬間の今が、今の持続としての時間と一つである。そのよ うに論ずる。 武内は、信心というものを迷いの消えた安定した宗教的境地 とは考えない。信心の構造を非常に厳しい緊張情態として捉え て い る の で あ る。 注 意 し て お か ね ば な ら な い の は、 「宗 教 的 自 己そのものの自省」とは、宗教的体験そのものに沈湎すること ではなく、そのような沈湎、耽溺を自ら否定することだという 点である。この点に関して、武内の態度は一切の妥協を許さな い。
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体 は 変 わ る か 「現 代 に 対 し て 現 代 の 人 間 が 懐 く 宗 教 的 な 問 題 設 定 」 の も と で 親 鸞 思 想 を 直 截 に 問 う た 著 作 が『親 鸞 と 現 代 』 (一 九 七 四 年 ) である。武内はそこで、曽我量深の「 体 た い は変わらないけれども 義 は 変 っ て い く 」 と い う 考 え 方 を 取 り 上 げ る ( 18) 。 南 無 阿 弥 陀 仏 の 本体は変わらないがその意味は時代とともに変化するという考 え方は、歴史的世界の変容のなかで念仏の宗教的生命を維持し ようとするときに取られる典型的態度である。しかし、武内は そ れ に 異 議 を 唱 え る。 「義 の 変 っ た の は、 ま た 体 の 変 っ た こ と で も あ る と 考 え な け れ ば な ら な い 」 と い う の で あ る。 永 遠 不 変 な る も の と 変 容 す る も の と に 二 分 し、 宗 教 の 核 心 は 永 遠 不 変 な も の で あ る と す る 単 純 な 構 図 を、 武 内 は 根 本 か ら 否 定 す る。 イ ギ リ ス の 司 教 で あ っ た ジ ョ ン・ ロ ビ ン ソ ン ( Jo hn A . T . R ob in so n ) が H on est to G od ( SC M Pr es s, 19 63) という著作で、 現代の世界のなかで自分は聖職者でありながら祈ることができ な い、 と 述 べ て い る こ と に 武 内 は 感 銘 を 受 け て い る。 そ れ は、 武内自身にとって念仏を称えることができないということに相 当する。この世俗化された世界では念仏は称えられないという ことである。だが、それまでの仏教の伝統と違って、法然と親 鸞の念仏の精神は、世俗のただなかに、世俗的な行住坐臥のう ちで聖なるものを現実化するというものであったのではないか。 そこに革新的な意義があったのではないか。武内は次のように 言う。 し か し、 電 車 の な か で 念 仏 を 称 え る と か、 あ る い は 喫 茶 店 で コ ー ヒ ー を 注 文 し て コ ー ヒ ー を 持 っ て 来 た と き に、 南 無 阿 弥 陀 仏 と い っ た ら や は り お か し い、 ち ょ っ と 具 合 が 悪 い。 例 え ば そ れ が 茶 室 で お 茶 を い た だ い た と き に、 お 婆 さ ん が南 無 阿 弥 陀 仏 と い わ れ た の な ら、 そ れ は す こ し も お か し く は な い。 し か し ウ ェ イ ト レ ス が コ ー ヒ ー を 持 っ て 来 た と き に、 南 無 阿 弥 陀 仏 と い う と な ぜ お か し い か? そ こ に 何 か が あるのではないか? ( 19) これに対して異議を唱える人はたくさんいるであろう。自分 ならウェイトレスに南無阿弥陀仏と言うことができる、信心獲 得に至っていないから南無阿弥陀仏と言えないのだ、このよう に言う人たちは、体としての南無阿弥陀仏は変わらない、とい う曽我の考え方に共感するであろう。 し か し、 武 内 に と っ て 念 仏 を 称 え る と い う こ と は、 自 分 が そ こ で 南 無 阿 弥 陀 仏 と 言 う だ け の こ と で は な い。 称 え る こ こ に「浄土が将来している」ということでなければならない、と 武 内 は 言 う。 「将 来 」 を 動 詞 形 で 用 い る「将 来 す る 」 と い う 表 現は、武内の独特のものである。 「将来」は将に来たらんとす、 いまにも来ようとしている、という意味であるが、動詞形にす ることで、その動性がすでに現在化していることを示そうとし て い る と 解 さ れ る。 念 仏 を 称 え る こ と は、 「将 来 す る 」 と い う かたちで現在する浄土というものが、阿弥陀仏の名前とともに 私に語りかけ、今ここに独自の世界の開けがもたらされるとい うことでなければならない。言い換えれば、ウェイトレスも共 に念仏を唱和し、喫茶店という場所が荘厳する浄土になるとい うことでなければならない。武内がウェイトレスに南無阿弥陀 仏といったらおかしいというのは、我々の生きている日常的な この世界が念仏の唱和と齟齬をきたしているからである。 だがそれでは、茶室でお婆さんがお茶をいただいて南無阿弥 陀仏というならおかしくないというのは、そこに浄土が将来し て い る と い う こ と な の か。 念 仏 を 言 え る か 言 え な い か は、 結 局、単なる場の雰囲気の問題に過ぎないのではないか。そうい う疑問が起こるはずである。おそらく現代の我々には、喫茶店 のウェイトレスと茶室のお婆さんの違いはないであろう。しか し、 一 九 一 三 (大 正 二 ) 年 生 ま れ の 武 内 に と っ て、 茶 室 で お 婆 さんがお茶を南無阿弥陀仏といって受け取る姿は、日常的に長 く 親 し ん だ も の の は ず で あ る。 武 内 は「真 宗 教 化 の 問 題 ( 20) 」 と い う小論のなかで、妙好人浅原才市のような宗教詩人型の天才で はなく、教養の低い盲目の農夫であった和三郎老人の平凡で純 粋な宗教心を真宗の信心の典型として挙げている。茶室のお婆 さんの念仏は、武内の身近にいた和三郎老人と共通する性格の ものと推測される。しかし現代で茶室のお婆さんということで 連想されるのは、公民館で開催される高齢者向け趣味講座の受 講生であったり、高価な着物を着て高価な茶碗を愛でる趣味人 であったりして、喫茶店のウェイトレスに負けず劣らず南無阿 弥陀仏が不似合いに思われる。 武内はまだ普通の篤信の真宗信者に囲まれる時代に生きてき たが、現代世界を覆う空間の質は大きく変容している。武内は 自分が現に生きている時代にその変容が浸透し始めていること
を 敏 感 に 察 知 し て、 「わ れ わ れ の 技 術 の 時 代 で は 体 も ま た 変 化 を 受 け、 腐 蝕 さ れ つ つ あ る よ う に 見 え る ( 21) 」 と 言 う の で あ る。 私 の念仏が私の生きる世界から遊離しているなら、それは本当に 念仏を称えたことにはならない。 武内は、現代人の神は人のよいいつもにこにこ笑っているよ う な お 方 に な っ て し ま っ て い る、 と い う ロ ビ ン ソ ン の 指 摘 に、 神の体が変ったことの兆候を見ている。それに対して、阿弥陀 仏はそもそも裁きの神ではなく慈悲の現われであるから、ロビ ンソンの批判は当たらないと言うなら、事柄を取り違えている。 ロビンソンの指摘が意味するのは、宗教が自分の生命がかかっ ているというような真剣な事柄ではなくなっているということ であろう。現代人の神は、普通に生活できているときはどうで もよいが、心が折れそうになったときには助けてくれる、そう いう都合の良い存在になっている。もしかしたら、現代人には 信仰に生命をかけるというようなことは自爆テロのような行為 を思い起こさせるのかもしれない。信仰は安全でなければなら ないと多くの人が考えている。だが、宗教を必要なときに使え る安全なツールとして扱うことは、生死に対して真剣に向かい 合わないということと同じである。生死に真剣に向かい合うこ とを妨げるものこそ、南無阿弥陀仏と称えることを空転させて しまう何ものかである。
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称 名 の 宇 宙 的 コ ー ラ ス だ が、 私 が 念 仏 を 称 え る こ こ に 浄 土 が 将 来 し て い る と は ど う い う こ と な の で あ ろ う か。 武 内 は、 称 名 と い う 行 為 が 能 行・ 所 行 ( 22) と い う 形 式 的 な 議 論 の 中 に 収 め こ ま れ る 傾 向 が あ る の に 抗 し て、 『教 行 信 証 』 行 巻 で 親 鸞 が 称 名 を 阿 弥 陀 仏 の 第 十 七 願 か ら出ていると見なしていることから、次のように考える。 すなわち能行としての行は、 そのままそれが象徴的行為とし て、 す べ て の 仏、 一 切 の 衆 生、 一 切 の 世 界 の あ り と あ ら ゆ る も の が 仏 の 名 を た た え て い る、 そ の 全 体 の 大 き な コ ー ラ ス の な か に 流 れ 込 み、 融 入 し て い る。 阿 弥 陀 仏 の 名 を た た えることが、 大いなる称名の流れのなかに、 つまり諸仏称揚、 諸 仏 称 讃 の 願 の 内 容 に 流 れ 入 っ て い る。 そ こ で は、 行 の 意 味 は 単 に ひ と り の 人 間 の 行 為 で は な く て、 そ の 行 為 自 身 が 実 は 深 い 象 徴 的 な 根 底 を も っ て い る こ と と な る。 だ か ら そ の 行 為 に よ っ て、 象 徴 的 な 世 界 が 開 か れ て、 私 自 身 の 称 名 の 行 為 が そ の 象 徴 的 な 世 界 の な か に 映 さ れ て い る、 と そ う いうふうに考えられる ( 23) 。 私が南無阿弥陀仏と称えることは宇宙全体の称名のコーラス に参入することでなければならない。喫茶店のウェイトレスも念仏を唱和するのでなければならないということは、ウェイト レ ス が 念 仏 の 信 徒 で あ る か 否 か な ど と い う 問 題 で は 全 然 な い。 ウェイトレスがコーヒー茶碗をテーブルに置くカチャという音、 電車が動くガタンガタンという音がすべて阿彌陀仏の讃嘆であ る、そういう世界が開かれるということである。称名とは、そ ういう仕方で「如来の家に生れる」こと、つまり、如来との生 の共同に入ることである。世界が如来の家となる。そして、い わば家に父と母があるように、如来の家の光明と名号という二 つの愛の働きによって、自分の信仰が成立する。これが親鸞の 言う称名であると武内は考える。この考え方が、武内の浄土教 理解を特徴づける第二のものである。 光明と名号の問題は名号の歴史性の問題へと発展する。親鸞 は自らの念仏を釈迦仏から七高僧を通して相続したものとして 受け取っているが、武内はその親鸞の念仏が自分自身にまで繋 がっていると考える。これは仏教のいわゆる血脈相承という考 え方に沿うものであるが、親鸞の場合、それに加えて正像末史 観のもつ意味が大きいと思われる。正像末史観の歴史性が「如 来の遺弟」というあり方として受け取られるとき、この史観は 宗 教 的 実 存 の 問 題 と な る。 名 号 の 歴 史 的 な 相 続 と い う こ と が、 武内の浄土教理解の第三の特徴として挙げられる。 今から今への一念の相続を内なる相続とするならば、名号の 歴 史 的 な 相 続 は 外 な る 相 続 と し て 捉 え る こ と が で き る ( 24) 。 こ の 内 と外との名号の相続が、如来との生の共同を現実化すると考え てよいであろう。 特に、歴史的相続の問題は念仏の深い意味を明らかにすると いうだけでなく、そのような念仏が我々の世界に実現されてい るか、という問いへと直ちに発展することになる。そのような 発展へと武内の思惟を触発したのは、ブルトマンの信仰的決断 という考え方である。世界を媒介にし、これを転換の場として、 過 去 に お け る 歴 史 的 啓 示 (神 の 言 葉 ) を、 未 来 か ら 将 来 す る 福 音の宣教との今ここでの出会いというかたちに切り替えること、 こ れ が ブ ル ト マ ン の 信 仰 的 決 断 で あ る と 武 内 は 言 う ( 25) 。 そ う い う 仕方で世界というものが媒介となって、歴史は実存の個人史か ら世界史に広がり、実存の世界内存在は歴史的世界において決 断する宗教的実存になることができる。この宗教的実存の意味 によって初めて、歴史の完結した意味というものが与えられる。 そういう歴史の意味が、過去のものであるはずのイエス・キリ ストの存在を現在に将来するものとして、宗教的実存における 出会いを成立させる。そのように武内は理解する。 このブルトマン解釈にもとづいて武内は、浄土から将来する 永 遠 と し て の 名 号 に 私 が 今 こ こ で 出 会 う こ と が で き る と 考 え る ( 26) 。 その出会いにおいて、私が汝としての名号にこの現在に対面す る、ということが成立する。その対面は、南無阿弥陀仏が私を 招 喚 し、 私 が 南 無 阿 弥 陀 仏 に 応 答 す る と い う こ と を 意 味 す る。 南無阿弥陀仏という一語において、召喚と応答という相互的な 行為が成立するのである。そして、その招喚と応答において諸
仏 咨 嗟・ 諸 仏 証 誠 ( 27) と い う 象 徴 的 世 界 が 開 か れ る。 こ れ が、 武 内 の語る名号との出会いである。 さらに、このような名号との出会いの背景として、念仏の歴 史的伝承の世界が考えられてゆく。それは、親鸞における法然 からの伝承とその後方に連なる七高僧およびその前方に拡がる 現代の信徒たちの世界であり、武内にとって直接には近角常観 や和三郎老人からの伝承というかたちで具体化される世界であ る。武内は、喫茶店に諸仏咨嗟・諸仏証誠の南無阿弥陀仏が響 いているか、と問うたのである。 そして、同じことを別の仕方で問うたのが次のような問いで ある。 〔 ……〕 今 は そ の よ う な 真 宗 精 神 の 大 地 性 を 従 来 と 同 じ よ う に 維 持 し え な い と こ ろ の 況 位 に わ れ わ れ は 立 た さ れ て い る のではないか。時代は大きく展開して、 われわれは同じ風土、 同 じ 気 候 の 下 に、 生 き て い る と は 言 い え な い よ う な 状 態 に 置 か れ て い る。 世 界 の 中 心 は た え ず 動 き、 世 界 は も は や 昨 日 の 世 界 で は な い。 よ か れ あ し か れ、 昨 日 の 日 本 は 今 日 の 日 本 で は な い。 土 地 は 同 じ で あ っ て も 精 神 的 風 土 は 全 く 一 変 し た。 来 春 に は も は や 信 楽 の 小 さ き 花 も 開 花 し な い か も しれない ( 28) 。 これは「真宗教化の問題」という小論の一節であるが、真宗精 神 の「大 地 性 」 と い う こ と に は 鈴 木 大 拙 の『日 本 的 霊 性 』 の 思想が影響しているであろう。 「信楽の小さき花」というのは、 和 三 郎 老 人 の よ う な 名 も な き 篤 信 の 人 を 指 し て い る。 武 内 は、 そのような名もなき篤信者たちを生むところに真宗の大地性を 見るのであり、このような小さな花が作る花輪こそが真宗の存 在理由であるとさえ考えている。 真宗の大地性とは、念仏の信において自己の救済と世界の救 済とが一であるということを言い換えたものである。来春には この小さな花も開花しないとしたら、私の念仏はもはや真の念 仏ではあり得ない。どのような時代状況であっても、念仏の直 接の伝承が途絶えたとしても、歴史の底から浄土教の信心を発 見するような宗教的天才は生まれ得るであろう。親鸞の教えは それだけの力をもっているであろう。しかし、大地が涸れ果て たならば、小さな花が生まれ続けることは難しい。小さな花の 花輪ができるような密やかな念仏の伝承が途絶えるならば、今 ここの念仏は既に腐蝕している。なぜなら、阿弥陀仏の王本願 とされる第十八願「たとひ、われ仏を得たらんに、十方の衆生、 至 心 信 楽 し て、 わ が く に に 生 ぜ ん と お も ふ て、 乃 至 十 念 せ ん。 もし生ぜずば、正覚をとらじ。ただし五逆と誹謗正法とをばの ぞ く ( 29) 」 は、 大 乗 仏 教 の 一 切 衆 生 の 救 済 と い う 理 念 を 体 現 し た も のだからである。武内が言いたかったのはこういうことではな いかと思う。
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現 代 世 界 で 我 々 が 問 う べ き こ と 本願や名号は、浄土教という宗教的世界観を構成するもので ある限りは、時代と共に変化するものである。それ故、武内は 本体としての南無阿弥陀仏が変わると言うことができる。しか し、武内は念仏の真理性についてまったく疑いをもっていない。 西田が宗教的意識と呼んだものを、武内は他力の信心として掴 んでいたからであろう。これは西田と明確に違う点である。武 内においても絶対無の場所は思索の及ばないものであると推測 されるが、絶対無の場所についてある種の確信をもっていたと いう言い方はできるであろう。それ故、武内は宗教的世界観か ら宗教的意識に至ることができる。また、宗教的意識から宗教 的世界観の限界を見ることができる。武内の宗教哲学は、宗教 的 世 界 観 と 宗 教 的 意 識 と の 間 の 往 還 と し て 成 立 す る も の だ と 言ってよいであろう。この往還は、哲学以前と哲学以後との間 の往還にほかならない。 西田は哲学以後をそれ自体は思惟が及ばないとしながら、言 葉と思索が及ぶところは何処までかということを徹底的に探究 することによって指し示そうとした。西田と武内とでは哲学以 後の受けとめ方が違うが、両者の哲学的思惟そのものには相通 ずるものがある。武内は哲学以前と哲学以後との往還のなかで、 自 ら の 思 索 の 領 野 を 歴 史 的 世 界 に 応 ず る 仕 方 で 開 い て い っ た。 武内が原始仏教の研究に打ち込んだのは、そこに浄土教の原点 を見たからであり、原始仏教の研究を通して仏教全体における 浄土教の意義を明らかにしたいという意図があったのだと思わ れる。ただし、武内の浄土教についての思索を宗教哲学と呼び、 その宗教哲学をこのようなものとして捉えるのは、私の解釈で あると言わねばならない ( 30) 。 さ て、 武 内 が 思 惟 し た 時 代 か ら さ ら に 大 き く 変 化 し て い る 我々の世界において、念仏はどのように求められるのか。武内 が喫茶店でウェイトレスに対して念仏を称えることができない と述べたのは、武内が十分に念仏を体得していなかったためで はなく、その逆である。念仏は武内の身体の内に根を張り、彼 の生を導いていたからこそ、その念仏と世界との齟齬が鋭敏に 見て取られたと言える。宗教哲学がいま浄土教において問うべ きであるのは、まさに私の念仏と私の生きている世界との齟齬 であろう。だが、我々は武内のように、自己の内に根を張る念 仏を羅針盤にしてその齟齬を探ることはできない。現代でも念 仏を生きている人はたくさんいるであろうが、その念仏がどれ ほど深かろうとも世界から切り離された念仏では、羅針盤には なり得ない。それどころか、世界から切り離された念仏は浄土 往生ということの意味を見誤らせるであろう。 それでは、哲学以前と哲学以後との間を往還する思索は我々 には不可能なのであろうか。そうではない。宗教哲学の思索の 仕方は一様ではない。浄土教の宗教哲学は、自分の生きる世界において自分の生きる念仏を求めるという仕方でしか成立しな い。生きる世界が変容することによって、またその世界のなか で念仏の求め方が屈折することによって、宗教哲学の在りよう は変わらざるを得ない。だが、そのことを確認することがすで に、西田や武内が拓いた宗教哲学の思索の場へと我々を一歩近 づけることになる。 とはいえ、そもそも宇宙が唱和するような念仏を求めること 自体が、現代の我々にはあまりに過大な要求ではないのか。宗 教的な救済というものをそのように考えるのは、笑うべき誇大 妄想ではないのか。そのような疑問ですら、宗教哲学的思索の 出発点となり得る。それは、我々は親鸞の言葉の中に何を求め るのか、仏教に何を見出そうとしているのか、という最も根本 的な問いに導くからである。 だが、そのような根本的な問いを問うことは、浄土教という 枠を越えることになるのではないか。中世の世界を生きた親鸞 のテキストを読むことはもはやそこでは意味を持たないのでは ないか。今度はそのような疑問が起こるかもしれない。親鸞は 経典の文言を自由に読み替えるという仕方で、自らのテキスト を作り上げ、自らの仏教理解を示した。その原点にあったのは、 もはやこれまでの仏教では救われない、という親鸞の絶望であ る。現代の世界ではもはや念仏を称えられない、ということは、 『教行信証』を廃棄するのではなく、 『教行信証』を書く原点に あった親鸞の絶望にまで還ることを意味する。それはまさしく、 哲学以前と哲学以後との間の往還に入ることに他ならない。も はや念仏を称えることができないということは、それ自体が宗 教的意識からの照射であり得るであろう。 注 ( 1) 『西 田 幾 多 郎 全 集 』 第 五 巻、 安 倍 能 成 他 編、 岩 波 書 店、 一 九 七 九 年、 一 七五頁。 ( 2) 同書、一七六頁。 ( 3) 同書、一七七頁。 ( 4) 同書、一八〇 ―一八一頁。 ( 5) 同書、一八一―一八二頁。 ( 6) 同書、一八二頁。 ( 7) 同書、一八二頁。 ( 8) 同書、一八二頁。 ( 9) 『教 行 信 証 の 哲 学 』 に つ い て 長 谷 正 當 は「先 生 の『教 行 信 証 の 哲 学 』 は、 宗 教 哲 学 的 角 度 か ら な さ れ た 最 初 の『教 行 信 証 』 の 研 究 で あ り、 そ の 後 の『教 行 信 証 』 研 究 は 本 書 を 抜 き に し て 語 る こ と が で き な い と い う 意 味 で、 本 書 は わ が 国 の『教 行 信 証 』 研 究 史 に お い て 画 期 的 と も い う べ き 位 置 を 占 め る と 言 っ て よ い よ う に 思 わ れ る 」( 『武 内 義 範 著 作 集 』 第 一 巻、 長谷正當他編、法蔵館、一九九九年、三八四頁)と述べている。 ( 10) 『田 邊 元 全 集 』 第 九 巻、 西 谷 啓 治 他 編、 筑 摩 書 房、 一 九 六 三 年、 六 頁。 『懺 悔 道 と し て の 哲 学 』 は、 一 九 四 四 年 十 ― 十 二 月 に な さ れ た 京 大 で の 講義が著書として一九四六年四月に刊行されたものである。
( 11) 『田邊元全集』第九巻、三九頁。 ( 12) 『武内義範著作集』第一巻、三〇八頁。 ( 13) 同書、三三八頁。 ( 14) 『武内義範著作集』第二巻、八八頁。 ( 15) 『武内義範著作集』第一巻、三六一頁。 ( 16) 金子大栄編『原典校注 真宗聖典 全』法蔵館、一九六〇年、二〇一頁。 ( 17) 『武内義範著作集』第一巻、三一〇 ― 三一二頁。 ( 18) 『武内義範著作集』第二巻、三六頁以下。 ( 19) 同書、三七頁。 ( 20) 『武内義範著作集』第一巻、二四九 ― 二六一頁。 ( 21) 武 内 は ニ ー チ ェ に も 深 い 共 感 を も っ て い る が、 「神 の 腐 敗 が 我 々 に ま だ 臭 っ て き て い な い の か。 ─ 神 々 も ま た 腐 る の だ( R iech en w ir no ch N ich ts vo n de r gö ttl ich en V er w es un g? ─ au ch G öt ter v er w es en ! )」 と い う『悦 ば し い 知 識 』 の 言 葉 が 連 想 さ れ る[ F rie dr ich N iet zs ch e, S äm tli ch e W er ke , K rit is ch e St u di en au sg ab e, B d. 3, D eu ts ch er T as ch en bu ch V er lag , d e G ru yt er, 1 98 0, S . 4 81 ]。 ( 22) 「能 行 」 と は 自 分 か ら 行 う 称 名、 「所 行 」 と は 行 わ し め ら れ て 行 う 称 名 と いう意味である。 ( 23) 『武内義範著作集』第二巻、五〇 ― 五一頁。 ( 24) 同書、五一頁。 ( 25) 同書、四三頁。 ( 26) 同書、四四 ― 四五頁。 ( 27) 「諸 仏 咨 嗟 」 と は 諸 仏 が 阿 彌 陀 仏 の 名 を 讃 え る こ と、 「諸 仏 証 誠 」 と は 諸 仏がその名の真理性と名号による往生を保証することである。 ( 28) 『武内義範著作集』第一巻、二五六頁。 ( 29) 『原典校注 真宗聖典 全』一八頁。 ( 30) 武 内 に は 三 十 七 歳 の と き に 書 い た「宗 教 哲 学 」 と 題 す る 論 稿 が あ る が、 そ こ で は 宗 教 の 本 質 や 宗 教 的 作 用 の 諸 類 型 が 扱 わ れ て い る。 そ れ は 近 代 ヨ ー ロ ッ パ の 一 般 的 な 宗 教 哲 学 の 概 念 に 相 当 す る 内 容 の も の で あ る。 そ こ か ら さ ら に、 武 内 の 関 心 は 宗 教 現 象 学・ 宗 教 学 の 領 野 に 広 く 及 ん で い る。 武 藤 一 雄 の 言 い 方 を 借 り る と、 こ の 分 野 は 宗 教 学 的 宗 教 哲 学 に 当 た る も の で あ り、 武 内 の 浄 土 教 に 関 す る 論 考 は 哲 学 的 宗 教 哲 学 に 当 た る と 言 っ て よ い。 武 内 自 身 が こ れ ら の 連 関 を ど の よ う に 考 え て い た か は わ か らない。