Title
不真正不作為犯論の批判的考祭(三)
Author(s)
神山, 敏雄
Citation
沖大論叢 = OKIDAI RONSO, 6(2): 43-63
Issue Date
1966-04-01
URL
http://hdl.handle.net/20.500.12001/10984
不真正不作為犯論の批判的考祭会一)
神
山
敏
雄
第三章
私
見
の
理
論
構
成
従
来
ま
で
の
ま A m ム ﹂ め 第一章では、ドイツ及ぴ我国における不真正不作為犯論を分析し、第二章では、私なりの批判を加えてきたが、本 章では、私見を展開する。その前に、今一度、従来の理論の欠陥を簡潔に指摘してみる。 違法性説は、不作為犯に関する限り、構成要件の機能を軽視する結果、構成要件の段階で作為犯と不作為犯とを統一 的に把握することが不可能であった。更に、作為義務は、違法要素とされ、現実的認識の対象とされず、犯罪成立要 素の主観面から、故意犯の成立範囲が不当に広くなることが指摘された。 又規範構造においても不真正不作為犯は禁止規範に落ちるとする説、命令規範に落ちるとする説、両者の混合した ものだとする説等が紛糾レ、しかも刑法規範と刑法典外に存在する作為義務とを混同するものであった。 ナl
グ ラl
に 代 表 さ れ る 保 証 人 説 は 、 の 一m
B
E
O
ロ℃呂町けを不作為に附着させることにより、作為と不作為との上位概 念 ( 。 v m H V o m 片山内向﹀が求められなかった。しかも此の理論は、共犯体系との関連ずけに困難な事態に逢着した。 ヴエルツエルとマウラッハの見解は、保証人的地位から作為義務を分離して理論構成することが批判された。彼等 は根本的には保証人説に従ったのであるが、作局義務を違法性の世界に移転させた結果、作為義務についての確定的 不 真 不 正 作 為 犯 諭 の 批 判 的 考 察 国 四神 大 論 議 四 回 認識は不要となり、故意犯の成立範囲が不当に広くなることが批判怠れた。
H
、 マ イ ヤl
の理論は、不真正不作為犯の意思面に鋭い考察を加えながらも、不真正不作犯の決定的要素である作 為義務を軽視するところに欠陥があり、単に法に敵対する意思の努力 ( H O O F Z F宮
内
出
宵
宮
司
邑
g
哲也切符色但旨巴の みによっては不真正不作為犯は決定されないことが指摘された。彼も又不真正不作為犯の決定的ポイントが行為者た る身分にあることを看過している。 中谷、正田理論においては、作為義務の体系的地位が重視きれず、結局、不真正不作為犯は、個々の構腐要件該当 の行為の解釈問題とされ、その特質は浮彫にされないことになる。 カウフマンは、不真正不作為犯は、独立した命令構成要件を有するのであり、作為犯と同一の構成要件内では論ず ることはできないとレたが、その根拠は妥当でなく、立法者の意思を無視するものとして批判された。 従来の全ての理論に共通して批判さるべきことは、放意が無造作に作為犯と同等に取り扱われたことである。不作 為犯は、作為犯の中で変形して出現した犯弾であり、主観面においても作為と同列に論ずることは不当であることが 指 摘 さ れ た 。 斯かる分析批判の結果、私見の結論を示すと次のようになる。 不真正不作為犯を決定する重要な要素は、作為義務である。客観的メルクマールである作為義務なくレては不真正 不作為犯は論ずることはできない。作為義務は不真正不作為犯の﹁主体者﹂を決する要素である。それは違法性の要 素でもなければ行為要素でもなく、これこそ主体者の身分を形成する要素と解しなければならない。保証人的地位か ら作為義務を分離することは不可能であり、作為義務あっての保証人的地位である。作為義務ハ保証義務)の附着 した保証人的地位こそまさに不真正不作為犯の身分形成要素である。かかることより、不真正不作詩犯は、行為者たる身分者にその本質があり、不真正不作為犯を身分犯として理論構成するのが私見の結論である。ヴエルツエルも身 分犯とてし理論構成したのであるが、その構造は私見とは大きく異なるので附言しておく。 次に主観的要素たる故意においては、不真正不作為は構成要件を実現せんとする意欲又は結果侵害の確定的認識の 下に不作為的態度をとることが必要と解する。未必的故意は、不真正不作為犯の故意犯からは駆逐されねばならな い。その根拠は、本文で論述される。
第一節
行為者要素としての作為義務
不真正不作為犯は、一定の作為義務を有する者のみが侵し得る犯罪である。作為義務を有しない者が他人の死を意 欲して不作為的態度に出ても、それは刑法上は何の関係もないことである。即ち、斯かる不作為的態度は、構成要件 該当性も有しない。その理由は、作為義務を有しない者は、不作為犯の主体者とはなれないからである。そこに孜々 ( 一 ) は、少くとも一般の身分犯と共通要素があることを発見できる。 ナ1
グラーによって理論構成された保証人説は、保証人的地位( m
R m
E g
a o
-ロ 占 ) と 保 証 義 務
Q
R
B
詰 問 。 毘 岳 神 ) ( 一 一 ) とを分離せずに、両者の統一体を不作為の要素としたが、ヴェルツエルにおいては、両者を分離し、のω H
S E
g g
-( 一 二 )
- s
巴を行為者要素とし、の母柏戸母o p
-2 E
を違法性の次元に移した。そこが私見と異なる点である。私見による と保証人的地位と作為義務は分離できず、両者の統一体は、﹁行為者﹂要素とならなければならない。何故ならばヴ ェルツエル流の保証人的地位ハ事実関係﹀にある者、例えば父子関係、契約の当事者、先行々為により結果侵害の危 不 真 不 正 作 為 犯 諭 の 批 判 考 的 察 白 四 五沖 大 論 議 四 ノ、 険を生ぜしめた者等は、かかる事実的地位にあることを理由に、すべてが不真正不作為犯の主体者の資格が与えられ るのではなく、全法秩序から当該法益の侵害を防止すべき義務が課されてはじめてその主体者となり得るからであ る。即ち、かかる抽象的な地位にあることが意味・あるのではなく、作為義務が課された地位として意味がある。 例えば、ヴェルツエルは、﹁山案内者が危険状態がはじまる前に、それ以上進行することを拒むならば、旅行者 ( 四 ) が、山案内者なく更に進み転落しても山案内者は無罪である﹂としているが、それは契約当事者という事情のみでは 不作為犯の主体者とはなり得ないことを意味すると解すべきである。作為義務が課会れない保証人的地位を考えても 刑法上意味のないことである。 本来、保.祉人的地位というのは、法益侵害を防止する為に保証人的地位にたたされることと解してはじめて意味が あるのであって、保証的地位と作為義務は不可分一体のものであり、作為義務のない地位を保証人的地位と呼ぶこと は妥当でない。保証人的地位と作為義務との聞には、時間的前後関係がなく作為議務に基礎ずけられた保証人的地位 だけが身分を形成すると解すべきである。 観念的にあえていえば作為義務が在在してはじめて保証人としての身分を形成することになるであろう。作為義務 は、法上の議務であるが刑法典以外の法秩序全体から社会生活の円滑な運営目的の為に抽出されるものである。それ は学説、判例によって確立すべき問題であり、また実際その類型佑に努めてきた。例えば法制度上の作為義務(夫婦、 家族、親子等)、契約上の作為義務(子守、山案内人等)、特別な信頼関係上の作為議務(取引関係より生ずる告知義 務)、先行々為上の作為義務(誤って子供を転落させた場合の救助義務)等がある。勿論、斯かる類型は抽象的なメ ルクマールであり、当該事件における具体的な主体者を決定するには個々の事例においてなされる。 そこで、犯罪行為の主体である身分者を解釈論で、刑法典以外に求めることは、罪刑法定主義の原則に反するので
はないかという疑問が生ずる。繰り返して論述した如く、立法者は一九九条にいう人を、殺したる者、 う建造物を焼捜したる者、ニ
O
四条にいう人の身体を傷害したる者等は、必ずしも積極的に手足を使用する者のみを 一O
入 条 に い 予定しているのではない。母親が、赤児に授乳せずに生命を奪ったり身体を傷害したりすることは十分可能である。 同じく重大な過失によって火を出し、建造物に燃え移ろうとしている際に、消火せずに目的物を焼較することも可能 である。このことに異論はないと思われる。 それならば、すべての作為構成要件中に斯るか﹁身分﹂を類型的に規定することは妥当であるか。結論を先にいう ならば、それは否である。何故ならば、不作為犯の主体者は、抽象的には親であるとか、家屋の管理者であるとか等 それらの確定は出来るが、ただかかる者であっても具体的な事例において作為義務に裏ずけられた具体的身分者だと は必ずしもいえないからである。要するに、抽象的な事実的地位については立法上規定することは、可能としても、 具体的に如何なる場合に作為義務が課された者であるかと記述し尽すことは不可能である。かかる立法技術上のみな らず、社会の発展段階に応じた社会秩序を維持するにも、その時代の判例、学説によって客観的に類型化していくこ と が 妥 当 で あ る 。 我国の現行法によると不真正不作為犯につては全然触れていないが、少くとも国家権力の恋意的行使を防ヤに は、一般的メルクマールを設定しなければならない。準備草案第十一条は﹁界となるべき事実の発生を防止する法律 上の義務ある者が、その発生を防止することができたにかかわらず、ことさらにこれを防止しなかったときは、作為u
、
によってその事実を発生させた者と同じである﹂と規定している。この程度の一般的規定を設けることは望ましい。 しかし、かかる規定がないからといって罪刑法定主義の原則に反するものではない。立法権者は、一九九条の人を殺 一O
入条の焼捜したる﹁者﹂、ニO
囚条の身体を傷害したる﹁者﹂の中には、積極的な行動をなす者に し た る -J者 ﹂ 、 不 真 正 不 作 為 犯 諭 の 批 判 的 考 察 伺 四 七沖 大 論 議 四 八. 限らず、不作為者も勾合していると解される。これらの行為主体は、構成要件の内部における解釈論の問題とみるな ( 五 ) らば、決レて罪刑法定主義の原則と矛盾するものではない。むしろ、本犯の性質上、判例、学説によってのみ解決 できる問題である。繰り返し論じた如く、不真正不作為犯において最も重要なことは、その主体者即ち、身分者を決 定することにある。一般の真正身分犯においては構成要件上、明確に行為主体が規定されているが、不真正不作為犯 は九立法上その身分者を規 a足することはできず、判例、学説によって常に補充すべきものであるのでヴェルツエルは ( 六 ) 開かれた構成要件という名祢をつけた。これはむしろ﹁聞かれた真正身分担﹂の呼称をあたえることが望ましい。 私見によると、作為義務は、身分を構成する.喪索であるので、ヴエルツエルの理論構成と区別する意味からも右の表 現をするのが便宜かと思う。 準備草案は、不真正不作為犯全般に関する抽象的規定であり、唯法律上の義務ある者が行為主体でなければならな いことを明らかにしているだけである。法律よの義務ある者の確定は、個々の条文に立法化することは不可能であ る。結局、準備草案の立法形式を採用するとしても不真正不作為犯の主体者は構成要件の内部で具体的に決する以外 はない。このことは、社会秩序が変遷するに伴って法的議務の意味内容も異ってくるので、その時代の社会秩序に適 合するように判例、学説で確立することが妥当な結論を得ると思われる。それ故に、準備草案の立法形式は、不真正 不作為犯の主体者は、法的義務を有する者でなければならないことを明らかにした点において意裁があり、従来の判 例、学説の動向をそのまま、承認したに過ぎない。しかレ、故意においては、画期的な変更をしているので後に述べ る 。
第二節
構成要件の機能の統一的把握
一つの禁止構成要件の中に、作為も不作為・も落ちるのであるから、構成要件の機能は同一でなければならない。作 為欝掃を行為者要素とする私一見によると、作為義務に身分ずけられた者の不作為的態度のみが禁止構成要件に該当 し、ぞれ以外の者の不作為的態度は如何に悪質であろうと構成要件に該当しない。従来までの違法性説によると、作 .為義務を有しない者の不作為的態度までが構成要件に該当するとされた。しかも作為による構成要件の実現は、原則 として違法であるが、不作為による構成要件の実現は原則として違法ではなく作為義務の存在によってのみ違法とさ ( 七 ﹀ れた。その結果、作為犯と不作為犯は構成要件の機能において統一的に把握できなかった。 ( 八 ) また、ザウエルの理論においては、作為義務によって身分ずけられない者の不作為的態度も構成要件に該当し、形 式的に違法性が推定されるとしたが、私見よりすれば、かかる考え方はナンセンスである。何故ならば、作為義務を 有しない者の不作為的態度は如何なる場合にも構成要件該当とはなり得ないからである。 ( 九 ) 更に、団藤教授、江家博士の理論の如く現代の構成要件機能を無視して構成要件該当性以前に違法性の判断をす る 必 要 事 な い 。 ナ1
グ ラf
に代表ぢれる保証λ
説は、保証韓務を行為要素とするので保証義務を担う者のみが構成要件該当性の判 断を受け、結論的には私見と同様に構成要件の機能が統一的に把握できる。しかし、この説は、保証義務という価値 物を行為院附着怠せる点において批判される。 ( 十 ) ・ ・ ヴ ェ ル ツ エ ル と マ ヲ ラ ッ ハ の 理 論 は 、 保証義務と保証人的地位を分離し、 不 古 典 迂 不 作 為 犯 諭 の 批 判 的 考 察 伺 保証義務を違法性の要素とする故に、 -四 九沖 大 論 議 五 O 保証義務のない者の不作為的態度までも構成要件該当性の判断を受ける可能性があるので違法性説と同様な弊害がで てくる。要するに私見の知く、作為義務は、不真性不作為犯の主体者の身分を形成する要素と解すれば、行為主体た る身分者と行為たる意思的態度が完全に分離され、身分者の不作為のみが構成要件該当と判断きれ、作為犯と同様に 違法性の推定を受けることになる。 斯かる理論構成をすることによってはじめて作為犯と不作為犯の構成要件の統一的機能が説明できる。
第三節
不作為と作為の上位概念の統一的把握
﹁行為でない犯罪はない﹂というテl
ゼは、いまだ通説の支持するものである。犯罪行為には、故意的作為、故意 的不作為、過失的作為、過失的不作為の固形態がある。右のテーゼを前提とする限り、これらの行為が可罰的となる ( 十 一 ) には、統一的な行為概念の下に落ちなければならない。 然らば、統一的行為概念は、如何にして求められたか。通説によると、それは意思的態度にである。そこで最も問 題となったのは忘却犯︿︿O H
m s
-問 。Z
O
E
O
-山容。)である。というのは失念の状態で犯罪結果が発生するので、意思 的態度による結果惹起とはおよそ関係がないと思われがちだからである。斯かることから忘却犯には、有意性がない という理由で統一的行為概念を否定する理論も登場した。だが失念状態の時点だけを把握して行為事象を皮相的に思 考することは妥当でない。 当該行為者は、失念状態に窓入するす前は‘意識を有するのである。彼が不注意によって失念状態に落ち入ると解すれば、彼の行為は失念をする前の意識的態度と考えるべきである。失念状態に落ち入る時点で彼の有意的行為は終 了し、後は因果系列の流れに従って結果が発生するだけとなる。即ち、失念状態は因果関係の流れの一貫である。 大塚教授も﹁鉄道の転轍手が、転轍する ζ とを忘れて居眠っていたために、列車が脱操顛覆したというばあいに は、その居眠っていた状態において行為者の寄在しないことを問題とすべきでなく、居眼りをする前の意識のある状 ( 十 二 ) 態において、その意識を十分に働かせなかった点を考慮すべきであろう﹂とされている。 斯かることより、﹁犯罪は行為である﹂というテーゼのもとでは、行為の上位概念は有意的態度であることが今 ( 十 一 一 一 ) 一 度 再 認 さ れ 得 る 。 ところが同一の構成要件に該当する作為と不作為が脊在する揚合に、両者を統一的に把握することは可能かという 問 題 が 新 た に 起 る 。 私見によると、作為藷務は、不真正不作為犯の身分を形成する要素であり、行為は、構成要件を実現しようとする 意思的態度である。殺人を例にとると、母親が泣きわめく乳児に授乳せずに放置する態度が行為となる。作為による 殺人の場合は、短万で赤児を突刺す態度である。両者は一九九条の殺人の類型行為であることに異論はない。両者に 共通するものは、人を殺そうとする意思的態度である。かようにして両者の殺人行為は社会的事実として統一的に把 握 が 可 能 と な る 。 ところがナ
1
グラl
に代表きれる保証人説によると、保証義務は行為要索とされ、不作為には価値物たるものが附 加されてはじめて構成要件該当の行為となる。これに対し、作為には価値物たる議務が課されずとも構成要件該当と される。それならば両者は統一的には把握ができないのではないか。作為と不作為の相違は、前者が積極的に手足を 使用する態度であるに対して後者は既発の結果発生の危険性を利用する消極的態度である。両者は構成要件を実現す 不 実 正 不 作 犯 の 批 判 的 考 案 伺 ヨ五沖 大 論 叢 る方法が異なるだけで社会的事実行為であることには変huはない。 五 私見の如ぐ作為義務に裏ずげられた主体たる身分者とその者の行為とを完全に分離することによっではじめて不作 為に作為義務が附着しない事実的行為事象として把握できる。その結果、両者は‘構成要件該当行為においで統一 的にとらえられることになる。作為犯と不真正不作為犯が異なる点は、主体者と構成要件の実現方法においてであ る 。 附言しておくと、作為義務を行為要素としない理論においても作為と不作為は、私見と同様に把握できるがその理 論 構 成 は 異 な る 。
第
一
四
節
故意行為としての不作為
目的々行為論 Q 官 色 。 出S
E
ロ
ロ
寝
-o F H O ) によると、故意は構成要件の主観的要素である。目的々行局論者が、存 在論的行為の実体は、構成要件を実現しようとする目的意思に担われている点にあることを考察したのは、卓見とい えよう。しかし‘グェルツエルが、不作為については潜在的な目的々行為支配(宮窓口仲庄工即日目。J
E
S
0
2
R
宮 崎3
にその本質を求めたことには疑問をいだく。即ち、彼は次のようにいう。不作為を存在論的にみた場合に不作為は行 為の不行為であるから、それ自体行為ではない。行為と不作為は、A
と 非A
の事情にあるが行為と行為をなさないこ とは、目的活動の意思による支配可能な人間態度のニつの独立した亜種である。不作為は、行為に不可避的に関係づ けられるが不作為。自体。というのはなく、ただ一定の行為をなさないことのみがある。それ故に不作為は、純粋な 否 定 概 念 ( 百 官 裕 司z o
m m
g g
ω
宮崎以内)ではなく、制限的概念ハロ患官民0
8
宮 抵 ぼ ) で あ る 。一定の行為について考慮
3
れるのではなく、人聞の潜在的ハ可能な)目的性( 3
H O
E F
o
-- o
E E
- X
5 )
に つ い て ' 考 慮 さ れ る ι 人聞の目的々行為カハ行為支配)の下にある行為のみが不作為であり得る。先ず、ある人間 の具体的に可能な又は潜在的目的々行為支配がz
s
a
g
g
を不作為にする。不作為の本質的メルクマールは、潜在 的目的々行局支配であるから、不作痛にとって現実的意思、荷動は要求されず、その人聞に可能な意思活動で十分であ 不 作 為 は 、 る。
( 十 四 V 右と同様なことは、ヵウフマンにもみられる。彼は次の如くいう。不作為は、目的々行為論の意味する行動自体で 現実的目的操縦(
O
E
W
E
S
E
S
E
E
R
S
m
)
は 、 はなく、。潜在的目的性。として特色ずけられ得るのみである。 ( 十 五 ) 不作為にとっては本質的でもなければ可能でもない。 要するに、これらの理論にあっては、不作為は現実的な目的々行為ではなく、潜在的に可能な行為として把握さ れ る 。 し か し 、 4 目的々行為論の考え方を前提にするとしても‘不作為を可能的事実としてとらえること自体問題があ る。不作為も一定の構成要件を実現する目的で現実的態度をとる現象であるから、レいて潜在的目的性とか可能的事 実としてとらえる必要はないと思う。かかることを前提にして論を進めることにする。 私見の如く、不真正不作為犯を聞かれた真正身分犯と解すると、故意の対象範囲が作為犯より広くなる。何故なら ば、作為義務の附着した身分的地位を確定的に認識しなければならないからである。 そこにおける作為義務の認識 lま 専門家が法的概念を得る程の必要はなく、 俗人が認識する程度のものであればよい。 即 ち 通 常 は 、 父子たる こ之、子守たること等の認識があれば足り、 特にかかる事情の認識があるにも抱らず、 自分には結果を回避すべき 義務がないと積極的に認識レた場合に錯誤としてはじめて考慮してよい。 ( 十 六 ) る 。 こ れ は 無 論 、 構成要件的錯誤の問題であ 不 真 正 不 作 為 犯 諭 の 批 判 的 考 察 同 五沖 大 論 議 五 回 次に不真正不作為犯における故意は確宜的故意でなければならぬことを主張したい。その理由は次の知くである。 不真正不作局犯は、作為と違って、積極的行動に出ることはなく、外的現象は消極的態度である。不真正不作為犯 は 4 作為構成要件の内部で変形した犯罪であるので、・不作為が作為と同格の地位を得るには、それ相当の理由がなけ ればならない。我々は、内心において、構成要件的結果の実現を意欲し、又は認容することはいとも容易なことであ る。それを実現するために、実践行動に移すには、飛躍的な意思力が必要となる。作為にあっては、未必の故意であ っても、とかく結果発生を認容して、あえて危険な実行々為に出る意思力は、十分に人を殺すエナ
l
ギーとして評価 e できる。これに対して、不作為における未必の故意の場合には、作為の場合と同列には論じ得ない。不作為の確定的 故意にあっては、結果惹起を防止すべき地位にあることを認識し、自然の因果の流れを利用して構成要件の実現を意 欲することは、法に敵対する意思力として強力なものである。この場合には、作為によって構成要件を実現する犯罪 意思力と同格に評価することに異論はあるまい。例えば、親が子を水中に投げ込む場合と、調死せんとする我が子 を、殺す意思でそのまま放置する場合との聞に、犯罪意思力に担われた人間の行躍に質的差異がないことについて万 人 が 認 め る だ ろ う 。 通説によると確定的故意の作為と未必的故意の作為は、質的に同等として取り扱っている。これと同様に確定的故 意の不作為と未必的故意の不作為も暗黙の中に同等として取り扱ってきた。前者については私も異論はないが、後者 については賛同できない。何故ならば、未必的故意の下における不作属的態度においては、結果侵害の積極的意欲は なく、消極的肯定であり、作詩におけるが如く結果侵害に向う活動もないが故に、犯罪意思力の点で未必的故意の作 局の場合とは同質的とみられ得ないからである。 作掲の未必的故意の場合には、結果侵害に対する消極的認容であろうとも、敢えて危険なる行局を試みるところに観念の世界よりおどり出る強力な犯罪意思力があり、未必的故意の不作局とは質的差異を示す。 交通事故で見知らぬ他人を突き飛ばした場合にハ過失﹀、放置すれば、死ぬ恐れもあると思いながら、敢えて逃げ た行局は、人を殺す定型行震として判断されるだろうか。かかる行矯は、刑法一二人条の老者、幼者一、不具者又は病 者を保護すべき責任ある者之を遺棄し又は生存に必要なる保護を箆さざる者に該当するとみるのが自然ではなかろ ‘ , 。 A J 4 H 要するに、作震にあっては、積極的であれ、消極的であれ、構腐要件的結果の発生を認容し、敢えて危険なる行箆 に出る主ころに、法に敵対する犯罪意思力とレて結果発生に対レて原図的である。不作震にあっては、結果発生の原 因を自ら作出することはなく、既発の危険な自然の因果の流れを利用するこ乙によって結果を実現する。そこでは、 自然に意思力の強怠が重要となってくる。不真正不作詩犯の故意的行態は次の如く提示されねばならな そ れ 故 に 、 L V 作詩義務を現実的に認識し、既発の危険な自然の因果の流れを利用して構成要件的結果を実現しようとする強度の 悪性なる犯罪意思力が行態に現われた場合にはじめて故意の不真正不作震といえよう。 次に我が国の刑法準備草案第十一条一項の規定を検討してみよう。準備草案理白書は次のように述べている。草案 十一条一項は﹁罪となるべき事実の発生を防止する法律上の義務のある者がその発生を防止することができたにかか わらず、ひじ
h
r
h
L
これを防止しなかったときは、作震によってその事実を発生させた者と同じである﹂と規定する が﹁ことさらに﹂とは、既発の危険性を利用する積極的な意思の存在を必要とする趣旨であり、未必の故意がある ( 十 七 ) だけでは足りないことを意味するときれる。問題なのは、何故に準備草案はかかる規定を置いたかである。この点 に関する理論的根拠については学者の見解は知り得ない。これは前述した私見によってはじめて十分説明し得るので 不 実 正 不 作 為 犯 諭 の 勧 判 的 考 察 伺 五 五沖 大 論 叢 はないかと思う。私見は現行法においても、不真正不作箆犯から未必的故意犯を追放するものである。 五 六
第五節
不真正不作為犯と共犯
不真正不作活犯を聞かれた真正身分犯とすれば、共犯との関係が明確にされる。即ち、不真正不作局犯の主体者た る身分者の犯罪行局に加功した非身分者の刑事責任は、刑法六五条によって理路整然とレて説明され得る。以下、教 唆犯、封市助犯、共同正犯の順に考察してみる。その前に六五条の適用範囲を明確にしておこう。 従来の判例、通説によると、六五条第一項は、真正身分犯の共同正犯、教唆犯、封筒助犯の全べてに適用あると解し ている。これに対し、小数説は、真正身分犯の共同正犯は適用がないとする。思うに、小数説が妥当である。何故な ばら、共同正犯は、犯罪の実行々局の共同加功であり、非身分者の行局は、犯罪の実行々潟とはいえないので刑法六 五条のこ人以上共同して犯罪を実行するという概念には該当しないからである。教唆犯と従犯においては、他人の犯 罪行矯に加功するものであり、非身分者といえども、他人に犯罪を実行せしめ、又他人の実行々舟を幣助することは 可能であるから、六五条第一項は狭義の共犯に適用あるものと解すべきである。 以上の理論を前提に不真正不作局犯の共犯を論究してみよう。 親甲が、溺れかかっている自分の子供乙を救助せんとする際に、無関係の第三者丙が、甲を教唆して救助を放置せ しめ水死させたとする。開かれた真正身分犯とすれば、丙は作詩による殺人教唆として刑法六五条の適用がある。 右の事例で叩が殺意をもって不作局的態度でいるとき、丙が精神的に励ますと、無形的智助として六五条、六一条の適用を受ける。問題なのは、右の事例において、甲一内が、相談し合って、乙を殺す積りで救助を放置し、死の結果 を惹起した γ場合である。申ほ、いうまでもなく不作箆による殺人罪となるが、丙は、如何なる犯罪が成立するか。 一不真正不作詩犯を真正身分犯ではないとする理論からは、丙の罪責につき理路整然と説明できるだろうか。はなは だ疑問である﹁。従来までの理論においては、右の点の解明はなされていないと思われる。 私見よりすれば、丙の行局は、従犯に該当する。甲丙は、共同正犯の形態をとりながらも共同正犯とされない理由 は、前述の如︿、丙は身分を有せず、構成要件該当の実行々矯というのは不可能であるからである。不真正不作時犯 を身-分犯として、六五条一項が、共同正犯にも適用あるとの理論よりすれば、丙も共同正犯となる。しかレ、かかる 理論ほ、妥当でないことは前述した。 もし、不真正不作矯犯を身分犯とせずにいきなり刑法六
O
条を適用するならば、罪刑法定主義の原則に反する。丙 が、単独に乙を救助せずとも本来、何の犯罪も成立しない。このことは、すべての学説が一致している。にも抱ら ず、共同でするならば、処罪されるという理論が成立するには、特別の規定が必要となる。我国の刑法には、六五条 しかない。よって右の仮定は誤っているととが理解できる。 次に不作矯犯において、問題となる共犯は、不作局による教唆、不作局による幣助である。これについては稿をあ らためで論述する予定である。第六節
不真正不作為犯と間接正犯
-不真正一不作震犯を聞かれた真正身分犯とするならば、非身分者が、身分者を道具として使用し、犯罪を実現するこ 不 実 正 不 作 為 犯 諭 の 批 判 的 考 察 伺 五 七沖 大 論 議 五 i¥ とが可能かという問題が起る。 一般の身分犯においては、通説は、非身分者による間接正犯を否定するが、それは妥当な考え方である。何故なら ば、間接正犯も正犯であるので、非身分者は、如何なる場合にも身分犯の主体とはなり得ないからである。 以上の理論を前提とするならば、不真正不作局犯も、聞かれた真正身分犯である故に、非身分者が、作箆義務を担 う身分者を利用して構成要件事実を実現しても、間接正犯は否定される結果になる。しかし、ことは単純に割り切れ るものではない。例えば、実父が、溺れかかっている子供を救助せんとしている際に、第三者が、父親を臓まして、 救助させずに死の結果を惹起せしめた場合に第三者の犯罪成否の決定が少くとも困難を伴うことが理解できる。 次に設例を広く設定して検討してみよう。 設例付 全く他人である甲は、幼児乙が溺れかかっているのをみて救助しようとしたが、丙にそそのかされて救助を放棄 した。そのため乙は死亡した。 設例口 右の事例で丙が、暴力、脅迫の手段を行使して救助を妨害したため乙が死亡した。 設例同 設例付において、甲が父親で乙がその子供である場合。 設例伺 設例口において、甲が父親で乙がその子供である場合。 先ずこれらの設例を解明する前に、丙の行局の性質を検討しよう。丙は、他人が教助せんとするのを妨害する侍に
積極的行動を展開している。それ故に不作局とは同視され得ない点もある。それだからといって、作震による殺人と 同様に自ら原因設定をする現象はみられず、あくまでも既発の因果の流れを利用していくところに不作震と類似点が あるので、行局の性質は、準不作痛とみてきしっかえないと思う。 設例付における丙の行潟は、教唆であるが犯罪は成立しない。何故ならば、甲は、乙を救助すべき何らの作局義務も 有せず、放置しても不作局犯は成立しないからである。 設例叫においても結論は、殺人罪が否定される。甲が、救助しようとするのを暴力、脅迫を用いて妨害することは、 いかにも自らが殺害行馬をするのと同視されるかのような錯覚に落ち入るが、救助行震を妨害する点においては、設 例一と全く同嫌である。ただ、暴行、脅迫手段が強度に違法性をおびる点が異なるだけである。それ故に、丙は、暴 行罪、智迫罪で処罰金 d れるだけにとどまる。 設例伺においては、丙は殺人罪の教唆犯が成立することには異論はなかろう。共犯との関係で既に記述したので繰り 返 さ な い 。 事例を更に設定レてみると、丙が甲を臨まして救助させない場合にも同様であ る。要するにこれらの事例では、丙は、甲を道具として使用して乙を殺す現象形態とみてきしっかえないかと思う。 問題となるのは、設例同である。 というのは丙は、自らは救助せずに殺人の犯罪構成要件を実現することは不可能であるが、甲は、それが可能となり その結果、非身分者丙は、身分者甲を利用したことになるからである。かかる事例に、真正身分犯に対する間接正犯の 理論を当俵めると、丙には間接正犯が成立しないことになる。教唆をすると教唆犯として処罪されるにも掲らず、暴 行、脅迫という強力な手段を用いて救助を妨害しても殺人罪が成立しないとすると(勿論、暴行罪、脅迫罪は成立す る﹀、前者との刑の権衡が破れるのではないかとの疑問が起りがちであるが、これは決して不合理なものではない。 不 真 正 不 作 為 不 諭 の 批 判 的 考 察 局 五 九
沖 犬 論 議 ノ、
。
例えば、公文書偽造罪において非身分者が公務員を教唆して偽造せレめると‘公文書偽造罪の教唆犯︿六五条、六一 条)&レて処罪、されるのは対し、道具として使用して公文書偽造を行わしめる場合には無罪となるのと同じである。 又、一教唆の場合には犯罪人を造成するというような反社会性があるがこの場合は、これがない。更に、不真正不作震 犯は、身分犯ではないとする通説に立脚して、丙の行局を考察すれば、殺人行局として評価できるか否かの問題が起 る。救助することを暴行、脅迫によって妨害することが、殺人行震の定型性を充足するということは考えられない。 例 え ば 、 実 定 法 に は 鎮 火 妨 害 罪 と い う も の が あ る 。 こ の 犯 罪 は 、 如 何 な る 方 法 を 用 い て も 鎮 火 を 妨 害 火 災 の 際 に 、 する者は、特別に処罪するというものである。鎮火義務を有する者であろうと、それを有しない者であとろうと鎮火 をする際に第三者がそれを妨害しても放火罪の実行々憶としては評価主れなく、特別犯とされる。 それ放に、人命救助の妨害行局そのものを処罪する構成要件を立法的に&足立しない限り、右の事例は、暴行罪、脅 迫罪は別として・無罪とせぎるを得ない。無論従来の理論が、右事例に対して如何なる結論を示すかは知り得ない。 私見によると、真正身分犯に対する間接正犯の理論によって解決されることを強調しておきたい。 更に、設側同において、丙が母親であるならば、何うなるかについて言及しておこう。 結論を先に云うと丙は殺人罪が成立する。理論構成としては、身分者による身分者の利用として間接正犯の理論を 借用するとも考えられるが、丙が甲の救助行矯を妨害することは、自ら救助しない不作局行矯を実効あらしめんがた めの行震であり、それはあくまでも自然の因果の流れを利用して死の結巣を実現せんとするところに本質があるの で 、 一 不 真 正 不 作 震 に よ る 殺 人 と す る こ と が 妥 当 と 思 う 。 以上で本節の説明は終るが、間接正犯と不作局犯の関係につき論究している学者は、私の知る限りでは、皆無であ る。それ故に、私見としても不備の点があるかと思うが、今後、検討を重ねていく積りである。 ( 由 一 円 )註 付 不真正不作為犯が身分犯
(
ω
。一回島常色冊目安宮)であることを表明している者には、グエルツエル、ヵウフマン、シエンケシュ レーダー等がいる。4 g
z a
・ 0 自 営s a
回 日ω
可- m
崎 町 一S
F
C
-E
P
L
g
印 ・ω
L
∞ ∞ ・ 問自昏5
5
"
匂S
F
曾臣民W
H
V
円E
S
H
H
E
ロa
a
m
︼ 同w g
u
呂 田 ・ω
h
u
・
曾E
ロ ︼ 内 ? 安 怯g a
O 3
ω
昨 日 片 岡0
8
仲N
V
g
n
y
p
b
民 国:
E
S
-ω
畑 町 ガルラスもその一派である。彼は、次の知く云う。﹁不実正不作為犯における保証人の義務の侵害の問題は、構成要件該当 性の問題である。何故ならば、可能な行為義務の下で、その侵害が不作為を当該作為犯罪の特殊な不法内・容と同何備にする ものを還り出す乙とが、正に一保証人義務の理論の意味であったからである。 零 時 同 町 四 回 目 のa
s
p
p
B
官 官 回 零 時 仲 間 一 旬g
ω
件 関 白 色 島 常U
v
g
g
g
︿R
V
円 四 号g
w
N
自 由 仲 田 口 可 算 時Ra
仲 骨 吸 器B
S
ω
管 丘
町
R
E
a
d
q
z
a
F
2
8
E
丘町ツ呂田" ω
・ M ∞ ・ 4 ﹃o
g
-E
帥a
E
E
Z
ω
常 見 吋E
E
b
・ h r丘 町
-w
E
2
・P
H
U
∞ ・ 保証人的地位宙開自仲O
B
E
E
n
ぬ)から区別される保証義務百貨E
S
S
E
S
G
はも構成要件の充足が確定される場合に具 口 同 伺 体的に是認される﹂。 毛 色 目 。f
p
p
p
ω
.
出 品 回 通説は、罪刑法定主畿に反するものではないとするが、ヴェルツエルは次の如く云う。行為者の宮R
E
S
-は、法律上、決 定されない故に態法上の疑問が生ずるが、乙れは性質上、仕方がない乙とでみり、ここでは罪刑法定主義の原則は根本的に 制限を受けると。 4 ﹃ 帽 回 目 帽y
p
p
c
u
ω
u
H
白ω
円 マウラッハは、次の如く云っている。グ保証義務 M という慣習法的に根拠ずけられた︿R
g
a
g
s
角E
E
は、禁止され た拡張に奉仕するものではなく、行為者の責任に対して命じられた慣習法上の合法的制限に奉仕するものであると。 冨 担R
E
F
-F
R
H
おE
曲ωE
言 。
F
ω
-K
F
5
r
・58
・ タ 印5
・ 4 司 冊 目8
r
H
S
目55
回 目 島 内 回 向 田ω
可 制 戸 時m o
v g
喝S
E
m
-P
0
2
伺 宮
司
S
K
E
P
-5
0
r
ω
L
O
不真正不作為犯諭の批判的考察伺ー
ノ 、沖 大 論 叢 占 ノ、 的 判 例 伺 ﹁行為の可部性は、行為前に、法律的に定まっていなげればいけないという憲法上の原則には法律自身が、犯罪態度の個々 のメルクマールを与える乙とによって、禁止の素材
2
2
g
a
自民免町)をくみつくして記述しなければならない。しかし、 くみつくして M 記述されまたは完結した構成要件のE
g
︼に全べての構成要件が該当するものでもない。むしろ、法律がA
E
v
g
g
E
B
R
E
E
回の一部のみを記述し、他の部分を裁判官の構成要件充足に委ね、裁判官が、補充しなげればならな い立脚点のみを彼にあたえている多くの構成要件が存在する。 我々は、このような M 関 か れ た グ ( O 同 時 四55
ま た は M 補充の心要な M 宏 司m
g
N
5
官官E
え丘官ロ)構成要件を、就中、過 失犯と不真正不作為犯に見出す。﹂ 切 冊 ︼ 仲 間F
U
S
F
a
5
4
0
B
︿R
可 申
n
Z
P
E
g
-P
H
a
・
ω
但 回 。 ♂ の 内 民 ロ 品 目 白 関 町 出 品 。 師ω H
- d
片 岡- m n
v
仲 間r
H
ω
M
Y
ω
w
h
片 山 ∞ ・ 団藤敬授﹁刑法綱要﹂(昭和三十四年)九九頁。江家博土﹁江家教授刑事法論文集﹂三八頁│三九頁。ζ
E
一 司 包Y
U
O
E
H
申n
z
g
ω
可 同 時3
0
F
Y
ω
・ ﹀ 民 ︼J
H
U
g
-ω
・ 印 O @ ・ 彼は、不真正不作為犯者の保証義務を構成要件外に↑仔在する故意からの自由な犯罪徴表(︿号制包括山富記号S
n
v
g
g
?
同官巳)とし、法的に保証義務を根拠附げている事情又は事実の事情は、客観的構成要件の真正な徴表とする。 行為の上位概念に関する論争は、背から学者によって繰り広げられてきた。ラ l トブルッフは、総一的概念を求めることを 諦め、作為と不作為の二分された体系を構成した。これに対して、通説は、なおも上位概念の存在を肯認してきた。メツガ ーは、通説に従うものであるが、彼が、示した行為概念の図解を次に示してみよう。 同5
2
号
室
阿 佐E
Z
一 出 向f M
I S
E
-z o
N m
R
-h w
可 同 州 吋g
E
p
u
s
-k
r
口 同 ︼-w
p
g
・
恒例。H U
O H
O V
O
凹 ︿ 申 円 四 回 曲 目 4 U 冊目色。帥 国 匝 口 弘 冊E
色 。 ロ ﹀Z
E
申 ロ 幅 広 口 ︼ 伺E島 由 大塚仁敬授﹁行為論﹂刑法講座