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ベトナムにおける戦争の記憶の「社会化」  ――「捕虜となった革命戦士博物館」の事例を通して(今井昭夫)

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ベトナム社会主義共和国の首都ハノイの中心部から南へ 車 で 約 一 時 間 行 っ た 郊 外 (ハ ノ イ 市 フ ー ス エ ン 県 ナ ム チ エ ウ 社) に「捕 虜 と な っ た 革 命 戦 士 博 物 館」 (以 下「捕 虜 博 物 館」 と 略 す) が あ る。 こ の 博 物 館 は 二 〇 〇 〇 平 方 メ ー ト ル余りの敷地面積をもち、二棟の展示室のほか戦没者慰霊 堂や会議室・事務室などがある比較的小規模な博物館であ る。同博物館は公立の博物館ではなく、ベトナムでは珍し い私立の戦争博物館である。ベトナムにおける戦争博物館 としては、ホーチミン市にある戦争証跡博物館やハノイ市 の軍事歴史博物館が最も代表的であるが、いずれも公立で あ る。 今 世 紀 に 入 っ て か ら、 「捕 虜 博 物 館」 の よ う な 個 人 によって設立された戦争博物館・展示室が登場するように なった。同博物館のほかには、旅行ガイド本『ロンリープ ラ ネ ッ ト ( Lonely Planet ) 』 に も 掲 載 さ れ て い る グ エ ン・ ス アン・リエン氏が運営するクアンビン省ドンホイ市にある 「ヴ ッ ク ク ア イ ン 野 外 戦 争 博 物 館 ( V uc Quanh Outdoor W ar Museum ) 」 や、 ハ ノ イ 市 の グ エ ン・ マ イ ン・ ヒ エ ッ プ 氏 の 展示室やナムディン市のヴー・ディン・リュウ氏の展示室 などが知られている * 1 。これらはいずれもベトナム戦争を経 験した退役軍人によるもので、一九九〇年代以降、経済的 余裕がある程度できてきたことと、人生の晩年期に入り何 とか「戦争の記憶」をとどめておきたいという彼らの個人 的情熱の所産である。このような民間の動きが浮上しつつ あるものの、ただこれまで民間によって設立されて当局公

特集1

戦争

記憶

旧ソ連 ・ 中国 ・ ベトナムを比較する

戦争

記憶

社会化

︱︱

捕虜

革命戦士博物館

事例

今井昭夫

(2)

認の博物館となっているのは「捕虜博物館」だけである。 その経緯を本稿では明らかにしていきたい。 社 会 主 義 国 に お け る「戦 争 の 記 憶」 、 と り わ け 革 命 戦 争・民族解放戦争の記憶は、現体制の正当性の重要な源泉 となってきた。在米の研究者のフエ・タム・ホー・タイや ヘオニク・クウォンによれば、ベトナムでは一九九〇年代 まで、民族解放戦争に関わる記念行事や記念碑などによっ て表象される戦争の「公式的な記憶」は国家によってほぼ 完 全 に コ ン ト ロ ー ル さ れ、 個 別 民 衆 的 な 記 憶 (ヴ ァ ナ キ ュ ラ ー・ メ モ リ ー) と の 緊 張 関 係 が 生 じ る こ と は 稀 で あ っ た が、ドイモイ以降、戦争のコメモレーションが勃興するよ う に な り ( Tai 2001 ) 、 戦 争 英 雄 主 義 の 国 家 英 雄 崇 拝 (ナ シ ョ ナ ル・ メ モ リ ー) か ら 地 方 化 さ れ た 祖 先 崇 拝 (ロ ー カ ル・ メ モ リ ー) へ の 関 心 の 移 行 (ロ ー カ ル 化) が み ら れ る ようになった ( Kwon 2006 * 2 ) 。これに対し筆者は、一九九〇 年 代 以 降 の ベ ト ナ ム に お け る「戦 争 の 記 憶」 の あ り 方 に は、国家の占有状態から脱却する「社会化」という傾向が 見 ら れ る の で は な い か と 考 え て い る * 3 。 本 稿 で は、 「捕 虜 博 物館」がベトナムで最初の公認民間戦争博物館として活動 するにいたった過程において、官民双方からの「社会化」 の 動 き を 見 て と り、 元 捕 虜 と い う ち ょ っ と 特 異 な 存 在 の 人々とその「戦争の記憶」を通して現代ベトナムの「戦争 の記憶」の「社会化」の一端を明らかにしていきたい。

元捕虜

調査

筆者は二〇一一年八月二一日に初めて「捕虜博物館」を 見学した。二回目に訪れたのは同年一二月二五日から二七 日の三日間で、この時、同博物館において一一人の元捕虜 に聞き取り調査を実施した。この一一人はラム・ヴァン・ バーン館長の知り合いの元捕虜たちで全員が現在はベトナ ム北部在住。 省別でいうとハノイ市が五人 (①~⑤) 、 ハー 写真1 捕虜博物館入口

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ナ ム 省 が 一 人 (⑥) 、 ヴ ィ ン フ ッ ク 省 が 三 人 (⑦ ~ ⑨) 、 バ ッ ク ニ ン 省 が 二 人 (⑩、 ⑪) と、 い ず れ も ハ ノ イ 市 お よ び そ の 近 隣 省 の 在 住 者 で あ る。 年 齢 は 六 二 歳 ~ 七 二 歳 で (調 査 時) 、 多 く は こ の 博 物 館 の 活 動 支 援 者 で あ る。 表 1 は 一 一 人 の 一 覧 表 で あ る (順 番 は イ ン タ ビ ュ ー 順) 。 名 前 は フ ァ ー ス ト・ ネ ー ム の 仮 名 の み を 記 し て い る。 イ ン タ ビューは本人たちの承諾をえた上で録音し、テープ起こし をして文字資料化している。

元捕虜

戦争

記憶

まず元捕虜たちの語った「戦争の記憶」の内容を検討し ていきたい。今回インタビューした一一人は全員一九四〇 年 代 生 ま れ の 旧 北 ベ ト ナ ム (ベ ト ナ ム 民 主 共 和 国) 出 身 の 男性・退役軍人で、いずれも一九六〇年代に入営し、間も なくして南ベトナムに出征している。最も早い人で一九六 三年、最も遅い人で一九六八年である。捕らえられた場所 はいずれも南ベトナムの戦場で、南ベトナム最北端のクア ンチ省三人、フエ市一人、ダナン市一人、中部のクアンナ ム省一人、ビンディン省二人、中部高原のザライ省一人、 ホーチミン市二人となっている。多くは一九六八年のテト 攻勢前後の時に捕らえられ、一九七三年の捕虜交換まで長 名前 生年 入営年 南ベトナム入りし た年 捕らえられた場所 (現在の地名) 捕虜期間 備考 ① トアン 1948年 1967年 1968年 ザライ省 1968年12月 ~1973年3月 入営前67年に入党 ② ヒエウ 1940年 1694年 1966年 ホーチミン市 1968年1月 ~1973年3月 入営前に2人の子。党員 ③ フン 1944年 1962年 1966年 ダナン市 1968年5月 ~1973年3月 非党員 ④ ホイ 1947年 1965年 1967年 クアンチ省 1967年末 ~1973年2月 非党員 ⑤ キエン 1947年 1967年 1967年 ホーチミン市 1968年1月 ~1973年2月 党員。博物館のガイド ⑥ クエン 1943年 1962年 1963年 クアンチ省 1966年 ~1973年 ⑦ ルオン 1946年 1966年 1967年 ビンディン省 1968年1月 ~1973年3月 捕虜以前に入党 ⑧ トゥオン 1949年 1967年 1967年 フエ市 1968年2月 ~1973年 84年に入党 ⑨ カン 1943年 1966年 1966年 クアンチ省 1967年10月 ~1973年2月 64年に入党 ⑩ キム 1944年 1965年 1966年 ビンディン省 1966年10月 ~1974年3月 収容所内で入党 ⑪ ブオン 1943年 1965年 1965年 クアンナム省 1968年2月 ~1973年2月 表1 聞き取りをした元捕虜の一覧表

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期間にわたって捕虜生活をおくった。

入営

捕虜

戦争参加への気勢・高揚感 北ベトナムでは一九五八年から徴兵制度が導入され始め たが、一九六〇年代には、高揚する雰囲気のなかで自ら志 願 し て 入 営 す る 若 者 が 輩 出 し た。 ク エ ン (⑥) は 七 年 生 在 学中に「抗米入隊参加青年運動」に感化されて一九六二年 に入営した。先祖が残してくれた国土を守らなければなら ないと考え、青年の義務をまっとうしなければ恥ずかしい と 思 っ た と い う。 キ ム (⑩) も 一 〇 年 生 在 学 中 に 志 願 し た。キムは家で男の子一人だったので兵役が免除されるの に、一九六四年に「グエン・バン・チョイ * 4 の精神を学ぶ運 動」が高校では盛んとなり、入隊の嘆願書を出した。南ベ トナム出征が決まると、伯母の一人から「出征しなくても すむのに、父母を捨てていくとはお前は不孝者だ」といわ れ た。 し か し 高 校 で の 入 隊 熱 は 高 ま り、 キ ム が 入 営 し た 時、 学 校 全 体 で は 二 〇 〇 人 ほ ど が 入 営 し た。 ホ イ (④) は ハティン省出身で高校の最終学年の時に入営した。彼の郷 里に駐屯していた南ベトナム出征部隊に何人かの逃亡兵が 出 た た め、 一 九 六 五 年 に 彼 は 補 充 兵 と し て 志 願 し 入 隊 し た。しかし緊急の補充兵であったため訓練はたった一九日 のみで出征し、ラオスを経て南ベトナムに入った。武器の 使用にまだ習熟しておらず訓練も不十分なまま、クアンチ 省の戦場で捕らえられてしまった。 北ベトナム軍の南ベトナムへの浸透 インタビュイーの中で最も早く南ベトナム入りしたのは ク エ ン (⑥) で あ る。 彼 は 一 九 六 二 年 に 入 営 し、 一 九 六 三 年に南ベトナム入りした。彼の部隊は北ベトナム最南端の クアンビン省にあるホー村に着くと、北ベトナムの軍服を 脱いで南ベトナム風の衣服に改めた。自動車には覆いがか け ら れ、 銃 も ソ 連 製 の A K か ら フ ラ ン ス 製 の 銃 に 換 え ら れ、帽子も違うものをかぶったという。この段階ではまだ 北ベトナム軍は南ベトナム入りがばれないように慎重に偽 装 し て い た。 ク エ ン の 部 隊 は ク ア ン チ 省 の 戦 場 に 赴 い た が、時には地元民兵の案内で平野部に進攻し、戦略村の破 壊 工 作 に 従 事 し た。 「戦 略 村 を 破 壊 し、 末 端 組 織 を 建 設 す る」段階では、部隊は一九五四年直後に北に「集結」した 南出身者が二・三人に対し北出身者一人の割合で、南出身 者 が 末 端 組 織 を 掌 握 し て い た。 「解 放 勢 力 側」 が 強 く な る と、特殊工作が増え、クエンはその任務遂行中に負傷し捕 ら え ら れ た。 キ ム (⑩) は 一 九 六 六 年 に 特 殊 部 隊 工 作 員 と して南の大学生に偽装し、中部クイニョン市で破壊工作に 携わった。

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ル オ ン (⑦) は 一 九 六 七 年 に 南 ベ ト ナ ム 入 り し、 中 部 沿 岸地方のクアンガイ省とビンディン省で活動した。敵の攻 撃が激しかったため駐屯地は絶えず移動し、この時点では まだ平野部に進攻することはできなかった。補給路も北と つながっておらず、武器は北隣のクアンナム省の基地まで 取りに行かなければならなかった。食糧は北からの供給が ないので当地の平野部に行って調達しなければならなかっ た。 そ れ は 危 険 な 任 務 で あ り、 払 っ た 犠 牲 や 損 失 は 大 き かった。 捕虜になった時の尋問 インタビュイーのほとんどの人が戦場で負傷して捕虜に なっている。なかには①、②、④のように負傷して人事不 省に陥り、気がついた時には米軍の病院で寝ていたという ケースもあった。①、②、④、⑤、⑦、⑧、⑪は数か月に わたって米軍などの病院で治療を受けている。その後、最 寄りの捕虜収容所に入れられた後、最終的には全員が、カ ンボジア国境近くのシャム湾に浮かぶフークオック島の捕 虜収容所に入れられた。 ト ア ン (①) と フ ン (③) に よ れ ば、 北 ベ ト ナ ム 軍 で は 「一 〇 の 誓 い、 一 二 の 規 律」 ( Bộ Quốc Phòng 2004: 686 ) が あり、軍隊の誓いでは、捕らえられても裏切って白状しな いものとされていた。そのため捕虜となって最初に尋問さ れ た 時、 自 分 の 名 前 や 階 級、 所 属 部 隊 を 偽 っ て 申 告 す る ケースが多かった。とくに士官、特殊部隊、高学歴者、共 産党員にその傾向が強かった。それらの人は収容所側から の マ ー ク が よ り き つ く な る か ら で あ る。 ヒ エ ウ (②) は 党 員なので白状できないと決意し、出身地をいわず、名前も 騙 っ た。 ク エ ン (⑥) は 特 殊 部 隊 の 兵 士 だ っ た が 普 通 の 歩 兵 だ と 申 告 し た。 名 前 や 出 身 地 も 変 え た。 ト ゥ オ ン (⑧) も偽名で申告した。本当のことを申告すれば敵はそれを伝 単に記して帰順者だと宣伝されかねなかったからである。 ブ オ ン (⑪) は 尋 問 で 北 ベ ト ナ ム に 帰 り た い か と 聞 か れ て、 「自 分 達 は 南 ベ ト ナ ム 解 放 民 族 戦 線 の 人 間 で あ る」 と 答えている。 ト ア ン (①) は 収 容 さ れ る や 取 り 調 べ の 時 に 暴 力 を ふ る わ れ た。 南 ベ ト ナ ム の 国 旗 や 士 官 に 対 す る 敬 礼 を 強 制 さ れ、それを拒否するとなぐられた。伝単用に写真を撮られ たり、取り調べが録音されたりした。南ベトナムの軍隊で は高卒で士官になるのが通例なので、高卒なのにどうして 士官ではないのかと暴力をふるわれた。党員だとは申告し な か っ た。 フ ン (③) は 士 官 (准 尉) だ と 知 ら れ て い た の で、何度か呼び出され、サイゴンにあるCIAの事務所で も取り調べを受けた。

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島捕虜収容所

捕虜体験

ベトナム戦争末期、南ベトナムには六つの捕虜収容所が あ っ た (ダ ナ ン、 プ レ イ ク、 ク イ ニ ョ ン、 ビ エ ン ホ ア、 カ ン ト ー、 フ ー ク オ ッ ク) 。 フ ー ク オ ッ ク 捕 虜 収 容 所 は 一 九 六七年七月六日より活動を開始した。敷地は約四〇〇ヘク タールあり、一二のゾーンに分けられていた。ゾーンはさ らに四つの分区があり、それぞれの分区には九つの収容室 があり、各室に一〇〇~一五〇人が詰め込まれていた。一 九七〇年のパリ和平会議で捕虜問題に関して出された資料 によれば、捕虜の総数は三万五五〇〇人で、そのうちフー ク オ ッ ク 島 に 二 万 五 二 九 一 人 が 収 容 さ れ て い た ( Ban Liên Lạc 2012: 128 ) 。 フ ー ク オ ッ ク 島 の 捕 虜 数 は、 一 九 七 〇 年 に二万六六七一人、一九七一年に二万六五一五人、一九七 二年末に三万八〇〇〇人、捕虜交換直前の一九七三年一月 二五日で三万七五七七人であった。フークオック島にはの べで約四万人の捕虜が収容され、約四千人が収容所で死亡 している ( Ban Liên Lạc 2012: 7 ) 。敵方に帰順して「新生活 キャンプ」に入った捕虜は一万九七三人である。収容所か ら生還した捕虜も重傷を負い、体が不自由になった人が多 数いた ( Ban Liên Lạc 2012: 107 ) 。フークオック捕虜収容所 は南ベトナムのみならず、この時期の東南アジアで最大の 捕虜収容所であった。同捕虜収容所は戦後の一九九三年一 〇 月 に ベ ト ナ ム 政 府 か ら 国 家 歴 史 遺 跡 に 認 定 さ れ て い る ( Ban Liên Lạc 2012: 19 ) 。 捕虜収容所の区分 フークオック捕虜収容所の捕虜は次のようなグループに 分 け ら れ て い た (南 ベ ト ナ ム 出 身 兵 士、 北 ベ ト ナ ム 出 身 兵 士、 南 ベ ト ナ ム 出 身 下 士 官: 約 八 〇 〇 人、 北 ベ ト ナ ム 出 身 下 士 官: 約 九 〇 〇 人、 南 ベ ト ナ ム 出 身 士 官: 約 七 〇 〇 人、 北 ベ トナム出身士官:七〇〇人) ( Ban Liên Lạc 2012: 132 ) 。重症 者と帰順者も別に収容されていた。帰順した捕虜は「新生 活キャンプ」に入れられた。南ベトナム出身者は正規軍の 捕虜ではなく「反乱軍」の捕虜だとされ、労役に駆り出さ れ た。 捕 虜 の 待 遇 に 関 す る ジ ュ ネ ー ブ 協 定 (一 九 四 九 年) により、北の人には労役は課されていなかった。米軍は、 北ベトナムで捕虜となっている米軍パイロットとの交換要 員として、北の捕虜を重視していた。 捕虜収容所の待遇 ト ア ン (①) に よ れ ば、 収 容 所 で は 食 べ 物 と 薬 が 不 足 し、多くの人が病気になり死亡した。衣服はサイゴン軍兵 士の古着が与えられた。水浴びは二・三日に一度で乾季は き わ め て 稀 で あ っ た。 食 事 は 一 日 二 回 だ っ た (昼 と 夜) 。

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収 容 所 は ト タ ン 屋 根 で 夏 は 灼 熱 地 獄 だ っ た。 フ ン (③) も 食事は一日二回で米は四〇〇グラムだったという。これで は不足で、ネズミを捕まえて食べることもあったという。 ク エ ン (⑥) に よ れ ば 収 容 所 の 死 亡 率 は 一 五 ~ 二 〇 % で、 病 気 の ほ か、 暴 行 や 闘 争 に よ る 死 亡 が あ っ た。 カ ン (⑨) は、収容所の飯は台湾から輸入された「蒋介石米」だった と指摘する。これを食べていると目がかすみ、歯が弱くな り、体重が激減し、骨と皮だけになった。 暴力、拷問 フークオック捕虜収容所では一九六九年三月から一九七 二年二月まで一〇回近くの大虐殺があり、九六一人が死亡 し、数百人が負傷した ( Ban Liên Lạc 2012: 151 ) 。捕虜のだ れ も が 暴 力 を 受 け、 暴 力 は 日 常 茶 飯 事 だ っ た。 フ ン (③) は 一 九 七 〇 年 に ひ ど い 拷 問 を 受 け、 足 の 爪 を は が さ れ、 「虎 の 檻」 に 一 〇 日 間 野 曝 し に さ れ た。 ク エ ン (⑥) は 脱 獄を企てて失敗した時に拷問され、歯を全部折られ、三か 月特別室に送り込まれた。そこは鉄板の部屋で太陽に焼か れ て 皮 膚 が 剥 け て し ま っ た。 ブ オ ン (⑪) は、 縛 ら れ て 吊 るされ、棘つきの鞭で叩かれた。血が滲み、気を失うとハ ンマーで踝をたたかれた。それから「虎の檻」にいれられ た。北ベトナムの祝日前になると祝賀活動を制限するため に、暴力や拷問が多くなったという。 暴 力 や 拷 問 に 耐 え ら れ た の は、 ホ イ (④) に よ れ ば、 「肉 体 生 命」 よ り も「政 治 生 命」 を 重 ん じ た か ら で あ る。 名 誉・ 品 格・ 気 概 に よ り 恐 怖 や 痛 み を 乗 り 越 え た。 フ ン (③) は、 自 分 の 家 と 故 郷 の 名 誉 を 守 ら な け れ ば い け な い と 決 意 し た。 キ ム (⑩) は、 気 節 を 保 つ か 投 降 す る か、 二 者択一で、投降すれば北の兵士にとっては故郷を捨てるの と同義だったという。拷問の始まる直前は非常にこわかっ た。痛みや死もこわかったが、戦友が自分を軽蔑するよう になるのがもっとこわかったという。このように元捕虜の インタビュイー達は拷問に耐え、帰順しなかった。しかし 帰順者は捕虜総数の四分の一近くに達しており、南ベトナ ム 政 権 に よ る 帰 順 工 作 が 活 発 で あ っ た こ と を 物 語 っ て い る。 捕虜収容所での闘争 捕虜収容所においても捕虜たちは闘争を展開した。闘争 の目標は食事改善と暴力反対であった。二つの闘争形式が あり、一つは部屋の代表者の交渉、二つはハンガーストラ イ キ だ っ た。 ク エ ン (⑥) に よ れ ば 内 通 者・ 帰 順 者 に 対 す る 闘 争 も あ っ た。 帰 順 者 だ と 分 か る と 抹 殺 し た。 ブ オ ン (⑪) の 部 屋 で も 三 人 の 帰 順 者 を 抹 殺 し た。 闘 争 の 中 心 に なったのは共産党、青年団、同郷組織の三つだった。闘争 は、最初は同郷を基礎とした大衆活動から始まった。カン

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(⑨) に よ れ ば、 ま ず 同 郷 組 織 を 結 集 し、 親 し く な っ て か ら 党 員 と 大 衆 を 選 別 し た と い う。 キ ム (⑩) は ト ン ネ ル 掘 削による脱獄を何度か試みた。内通者の通報により四度目 に捕まったので、内通者を抹殺した。そのため裁判にかけ ら れ、 有 罪 と な り コ ン ロ ン 島 の 監 獄 に 送 ら れ た (一 九 七 二 年五月) 。 捕虜収容所では闘争の一環として補習学級も開かれた。 ト ゥ オ ン (⑧) は 捕 虜 内 部 の 党 委 か ら 依 頼 さ れ て 補 習 学 級 を開いた。彼は一〇年生を修了していたが、捕虜の兵士達 は 三・ 四 年 生 修 了 程 度 の 学 歴 が 多 か っ た。 カ ン (⑨) に よ れば、非識字者も多く、一・二年生修了程度の人も多数い た。捕虜のうち比較的高学歴の者が先生となり、一〇年生 を修了していたカンやキムなどが教鞭をとった。

釈放後

元捕虜

偏見

待遇

捕虜交換による釈放 一九七三年一月締結のパリ和平協定第八条により、捕虜 交換が行われることになり、本稿のインタビュイー一一人 のうち一〇人が一九七三年の二月・三月に南ベトナム最北 端 の ク ア ン チ 省 に て 釈 放 さ れ て い る。 ト ア ン (①) に よ れ ば、フークオック島から飛行機でフエ市のフーバイ飛行場 に行き、そこから自動車で捕虜交換地点のタックハン川ま で向かった。彼は川を渡って初めて生きられると実感し、 迎 え の 人 と 抱 き 合 い、 飛 び 跳 ね た。 キ ム (⑩) だ け は フ ー クオック島からコンダオ島に移送されていたため、釈放が 遅れ、一九七四年にビンフオック省のロックニンで釈放さ れ て い る。 ヒ エ ウ (②) な ど、 家 族 と の 連 絡 が 途 絶 え て い て、死亡通知がすでに家族に届けられていた人もいた。ブ オ ン (⑪) も 一 九 七 一 年 に 死 亡 通 知 が 家 族 に 送 ら れ て い た。 釈 放 後、 彼 ら は 各 地 の 静 養 所 で 休 養 し た 後、 帰 郷 し た。健康上の理由により地元で仕事に就く場合が多く、ホ イ (④) の よ う に 重 症 者 で、 仕 事 が で き ず、 家 と 土 地 を 支 給 さ れ た 場 合 も あ っ た。 ト ア ン (①) は、 家 庭 の 事 情 で 退 役 し、 郷 里 に 戻 っ た。 共 産 党 員 だ っ た の で、 社 (行 政 村) の政治・行政に定年まで従事し、社の党委書記を一〇年間 務 め た。 大 工 を し な が ら 農 業 や 手 工 業 に 従 事 し た ヒ エ ウ (②) や 鉄 屑 回 収 と 脱 穀 機 製 作 を し て い た ク エ ン (⑥) の ようなケースもあるが、多くは地方の政治・行政に携わっ た。 捕虜への偏見 元捕虜たちは帰郷してからもしばらくは当局の監視を受 けた。捕虜収容所時代にまだ党員でなかった人がとくにそ う で あ っ た。 フ ン (③) に よ れ ば、 当 初 は 各 県 (社 の 一 つ 上 の 行 政 区 分) の 公 安 と 国 防 省 T 14の 公 安 が 監 視 し た と い

(9)

う。嫌疑が晴れ次第、監視は解かれていった。このことに つ い て ト ア ン (①) は、 元 捕 虜 に 対 す る 差 別 が あ っ た わ け ではなく、裏切りの有無を調べられたが、それは上からす れば当然の措置だとした。しかしながら、元捕虜に対する 偏 見 を 感 じ て い た 人 は 多 い。 フ ン (③) は 帰 郷 し て 指 導 層 が 偏 見 を も っ て い る の を 感 じ た。 帰 郷 し て 地 方 行 政 に 携 わっても、社の副公安長、副隊長など昇進は「副」止まり だった。知り合いの捕虜には、中尉の時に捕虜になり、上 尉に昇進するのに六・七年かかった人がいた。昇進が遅れ る こ と を お そ れ て 四 人 の 知 人 は 党 の 履 歴 に 申 請 し な か っ た。とりわけ軍隊は捕虜経験についてうるさかったと指摘 す る。 キ エ ン (⑤) も、 「私 の 社 で は 偏 見 が あ っ た」 と 明 言 し、 地 方 行 政 で は 長 に は し て も ら え ず、 「副」 止 ま り だ っ た と い う。 ト ゥ オ ン (⑧) は 戦 後 の 一 九 八 四 年 に 共 産 党に入党したが、入党に際してはとても苦労した。捕虜収 容所時代のことが問題とされた。退役後に入学した大学で の成績がよかったので、大学の党支部が推薦してくれたの と、かつて所属していた青年団の人が収容所での身の潔白 を 証 明 し て く れ た の で 何 と か 入 党 で き た。 キ ム (⑩) も 退 役後に大学を出て、県の仕事についたが、退職時は農業副 室長止まりだった。このように元捕虜の人達に対して、偏 見と差別がまったくなかったとはいえない現実があった。 元捕虜への待遇 上で見たように、元捕虜はまったく偏見や差別と無関係 と い う わ け で は な か っ た。 か と い っ て、 帰 順 者 は 別 に し て、 社 会 か ら 強 く 白 眼 視 さ れ て き た わ け で も な か っ た。 「人 民 武 装 勢 力 英 雄」 に 選 ば れ て い る 元 捕 虜 の 個 人・ 団 体 は存在しているし、現国家主席のチュオン・タン・サンも 元捕虜である。苛酷な収容所生活のなか、節を守り通した 人に対しては敬意が払われた。ベトナム政府は一九九五年 の議定二八号で功績ある元捕虜に対する優遇・顕彰制度を 定 め た ( Nghiêm 2000: 23-62 * 5 ) 。 捕 虜 収 容 所 一 年 以 下 の 人 に は一時金と記章が支給され、一年以上の人にはさらに医療 保 険 と 埋 葬 費、 毎 年 の テ ト の お 祝 い が 支 給 さ れ た。 捕 虜 だった期間も軍歴と党歴に算入されるようになった。この ように元捕虜も革命・戦争功労者の一員として正式に扱わ れるようになった。インタビュイーの人達は当然のことな がら議定二八号を歓迎している。 以 上 見 て き た よ う に、 元 捕 虜 た ち の「戦 争 の 記 憶」 に は、意気込んで臨んだ出征、それなのに捕虜となったこと の不運やふがいなさを恥じる気持ち、捕虜収容所での苛酷 な体験とそのなかでも身の潔白を守り闘争を続けた矜持、 釈放時の喜びとその後の偏見をうけた屈辱など、通常の退 役軍人と比べるとはるかに屈折したあり方が窺える。逃亡

(10)

兵や帰順兵への言及が比較的多いのも特徴的である。一時 的 に で は あ れ 偏 見・ 差 別 を 受 け た 経 験 は、 「公 式 的 な 記 憶」 へ の 一 定 の 距 離 感 を 彼 ら の 中 に 生 み 出 し、 「栄 光」 の 「公 式 的 な 記 憶」 だ け に は 還 元 で き な い「戦 争 の 記 憶」 を 紡ごうとする動きを促したものと思われる。

Ⅲ﹁捕虜博物館﹂

活動

「捕 虜 博 物 館」 の 設 立 者 で 館 長 の ラ ム・ ヴ ァ ン・ バ ー ン 氏 (一 九 四 三 年 生 ま れ) は 自 身 も 元 捕 虜 で、 博 物 館 の 敷 地 は元々ラム家の土地である。彼は一九六五年四月に入営。 一九六六年二月に南ベトナム入りし、一九六八年のテト攻 勢 の 時 に サ イ ゴ ン 市 (当 時) の タ ン ソ ニ ャ ッ ト で 捕 虜 と なった。一九七〇年にフークオック島に収容され、一九七 三年に釈放された。戦闘や捕虜収容所時代の拷問により体 に数十の傷を負い、七度の手術を受けている。戦後の一九 八 五 年 頃 か ら 捕 虜 収 容 所 や 監 獄 に 関 す る 資 料 の 収 集 を 始 め、フークオック島にも三度訪れるなど、精力的に資料を 収 集 し た。 キ エ ン (⑤) に よ れ ば、 バ ー ン 館 長 の 個 人 的 活 動の輪が広がり二〇〇四年から元捕虜の有志も記念品収集 に 協 力 す る よ う に な り、 ラ ム 家 の 敷 地 に 展 示 室 を 開 設 し た。同年一一月から見学者を受け入れるようになった。二 〇〇五年にバーン館長からガイドをするようにいわれて、 キエンは地方行政の仕事をやめて博物館で働くようになっ た。 二 〇 〇 七 年 に は ハ タ イ 省 (当 時。 現 在 は ハ ノ イ 市) か ら 博 物 館 と し て 認 定 さ れ、 ベ ト ナ ム で 最 初 の「国 家 予 算 外」の博物館となった。現在までベトナムで公認されてい る 唯 一 の 民 間 博 物 館 で あ る。 「捕 虜 博 物 館」 の 活 動 は ハ ノ イ市党委・フースエン県党委から注目され、二〇一一年五 月には、バーン館長、キエウ・ヴァン・ウイック氏とキエ ンの三人で同博物館党支部が設立された。 ベトナムには、ハノイ市のホアロー収容所跡や南部のコ ンダオ島の監獄跡など、収容所・監獄の博物館は多数ある が、それらと比較して「捕虜博物館」の特徴は以下のよう な点である。①収容所跡や監獄跡などの史跡とはまったく 無関係の個人の土地に建てられていること。②民間の博物 館 で あ る た め、 公 立 の 博 物 館 と 比 べ る と 小 規 模 で あ る こ と。しかし単なる展示室のレベルは超えている。③展示ス ペースと匹敵するくらいのスペースを戦没者慰霊堂に割い ていること。これは、単なる博物館ではなく、慰霊のため の施設でもあることを示している。④元捕虜が自ら展示物 の収集・管理を行っており、また博物館のガイドや運営に もあたっていること、などである。同博物館の運営方針は 「自 発 的、 自 給 的、 自 己 管 理 的、 自 己 責 任」 で 元 捕 虜 の 仲 間 た ち が 博 物 館 の 運 営 を 手 伝 っ て い る。 他 の 民 間 の 博 物

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館・展示室と異なるのは、まさに元捕虜たちの集団的活動 という点にある。 若い世代が戦争について無知であるとの問題意識は彼ら の な か で は 共 有 さ れ て い る。 ブ オ ン (⑪) は、 概 し て 今 の 若い人は戦争にあまり関心がなく、革命戦士がどんな革命 をしてきたか分かっていないと嘆いている。そこで「捕虜 博物館」は積極的に生徒・学生などの参観を受け入れてい る。 フ ン (③) が 言 う 通 り、 「捕 虜 博 物 館」 は ア メ リ カ と サイゴン政権の戦争犯罪を理解するための場所であり、子 孫に先人の苦労や犠牲を知ってもらう教育と啓蒙の場所で ある。さらに「捕虜博物館」は元捕虜たちが交流する場所 で も あ る。 ト ア ン (①) は 博 物 館 に 来 る の は 全 く 自 発 的 で、金銭的に何の利益があるわけではないが、元捕虜同志 で 交 流 す る の が 楽 し み だ と し て い る。 ク エ ン (⑥) は、 若 い人たちに戦争のことを語っても煙たがれるので疎外感を 味わうが、ここでは気持ちが通じあうと吐露している。 以 上 見 た よ う に、 「捕 虜 博 物 館」 は 博 物 館 と し て の 体 裁 が一定程度整っており、アメリカとサイゴン政権の戦争犯 罪を宣伝・教育する場として元捕虜たちが集団で運営して いるという点が、当局によって民間博物館に公認された要 因だと考えられる。

ベトナム戦争終結後、元捕虜は戦争の功績者ではあった が、警戒・監視の対象でもあった。しかし一九九〇年代か ら整備されてきた「革命・戦争に功績ある人を優遇する制 度」の中で、顕彰の対象が広げられ、元捕虜たちも正式に その対象として加えられるようになった。 一個人の活動から始まった「捕虜博物館」が当局から公 認 さ れ る よ う に な っ た の は、 革 命・ 戦 争 の 功 績 者 に 対 し て、ベトナム共産党やベトナム政府が進めている「恩義に 写真2 展示品の説明をする元捕虜

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報 い る 運 動」 (一 九 九 七 年 発 動) 、 す な わ ち 革 命・ 戦 争 の 功 労者への顕彰運動の民間化=「社会化」のモデルとして推 奨されているという側面、換言すれば「公式的な記憶」普 及活動を民間によって肩代わりさせるという側面がある。 一方、民間の「捕虜博物館」の活動には、国家が占有し てきた「栄光」の「戦争の記憶」から逸脱するものをも含 んだ私的記憶を紡いでいこうとする人々の営為の表面化と い う「社 会 化」 の 側 面 も あ る (「戦 争 の 記 憶」 の 非 国 家 化・ 私 的 化) 。 元 捕 虜 た ち は、 国 家 か ら 顕 彰 の 対 象 に さ れ る よ うになったとはいえ、屈辱感・被差別感・疎外感が完全に 払 拭 さ れ た わ け で は な く、 「公 式 的 な 記 憶」 か ら の 乖 離 感 が通常の退役軍人より強いため、この「社会化」は彼らに おいていっそう顕著に表れている。このような特異な感情 の共有は、彼らの結束を強固なものとしている。実際、元 捕 虜 た ち は 退 役 軍 人 で あ り な が ら 退 役 軍 人 会 と は 別 個 の 「捕 虜 連 絡 委 員 会」 と い う 組 織 を 結 成 し て い る。 元 捕 虜 た ちの親睦・互助活動の場となっている「捕虜博物館」の活 動もこの組織から支援を受けている。 以前調査した一九七二年クリスマス爆撃の被災者たちの 「戦 争 の 記 憶」 は 後 者 の「社 会 化」 の 面 が 強 く、 前 者 の 面 は 希 薄 で あ っ た が (今 井 二 〇 一 三) 、「捕 虜 博 物 館」 の 事 例に見られる「戦争の記憶」は、上述の二つの「社会化」 によってもたらされたものである。一般的にいって、現代 ベトナムの「戦争の記憶」において、後者の「社会化」が 以前と比べて強まってきているように思われるが、それは 必ずしも「公式的な記憶」を否定する「対抗記憶」の形成 に直結しているわけではない。むしろ補完的役割を期待し て、後者の「社会化」を前者に取り込もうとする動きも見 ら れ る。 民 間 の 自 主 的 な 運 動 と し て 始 ま っ た「捕 虜 博 物 館」の活動にも現在は党支部が扶植され、網がかけられて いることがそれを示している。 ◉注 * 1 Tuổi trẻ online 29-06-2013 お よ び http://www.kyvatlichsucand. vn/vn/news/686/357/Bao-tang-ky-vat-chien-tranh-cua-cuu-binh (二 〇一三年六月二九日アクセス)を参照。 * 2 これらの議論の詳細については、 今井 (二〇〇八) を参照。 * 3 た と え ば、 一 九 七 二 年 ク リ ス マ ス 爆 撃 の 被 災 者 で あ る ハ ノ イ 市 住 民 の「戦 争 の 記 憶」 の「社 会 化」 に つ い て は、 今 井 (二〇一三)を参照。 * 4 グ エ ン・ バ ン・ チ ョ イ は、 一 九 六 四 年 五 月 に 南 ベ ト ナ ム 訪 問 中 の マ ク ナ マ ラ 米 国 防 長 官 を 襲 撃 し よ う と し て 捕 え ら れ、 同 年 一 〇 月 に 処 刑 さ れ た。 翌 年、 彼 の 妻 の 記 録 と い う か た ち で『あ の 人 の 生 き た よ う に』 が 出 版 さ れ、 大 き な 反 響 を 呼 ん だ。 日 本 語 版 は 一 九 六 六 年 に 新 日 本 新 書 で 刊 行 さ れ て い る。 * 5 次 の 七 つ の 対 象 が「優 遇」 さ れ る と し て い る。 ① 一 九 四 五 年 八 月 革 命 以 前 の 革 命 活 動 家。 ②「烈 士(戦 没 者) 」 と そ

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の 家 族、 ③「人 民 武 装 勢 力 英 雄」 「英 雄 的 ベ ト ナ ム の 母」 「労 働 英 雄」 、 ④ 傷 病 兵、 ⑤ 敵 に よ っ て 捕 ら え ら れ 収 監 さ れ た 革 命 活 動 家・ 抗 戦 活 動 家、 ⑥ 民 族 解 放・ 祖 国 防 衛 と 国 際 義 務 遂 行 の 抗 戦 活 動 家、 ⑦ 革 命 を 援 助 し た 功 績 者。 元 捕 虜 は ⑤ に 相 当。 ◉参考文献 今 井 昭 夫(二 〇 〇 八) 「ベ ト ナ ム 戦 争 の コ メ モ レ ー シ ョ ン に 関 す る 研 究 に つ い て ―― マ ラ ー ニ ー 論 文 へ の コ メ ン ト に か え て」 『 Quadrante 』第一〇号、三三―四六頁。 今 井 昭 夫(二 〇 一 三) 「一 九 七 二 年 ク リ ス マ ス 爆 撃 の 記 憶 ―― ベ ト ナ ム・ ハ ノ イ 市 カ ム テ ィ エ ン 通 り の 被 災 者 へ の 聞 き 取 り 調査」 『東京外国語大学論集』第八六号。 ベ ト ナ ム 外 文 出 版 社 編(一 九 六 六) 『あ の 人 の 生 き た よ う に ―― グ エ ン・ バ ン・ チ ョ イ の 妻 の 記 録』 松 井 博 光 訳、 新 日 本 新書。 Heonik Kwon ( 2006 ) After the Massacr e: Commemoration and Consolation in Ha My and My Lai . Berkeley and Los A ngeles:

University of California Press.

Hue-T am Ho Tai ed. ( 2001 ) The Country of Memory: Remaking the Past in Late Socialist V ietnam

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Ban Liên Lạc Tù Binh V iệt Nam ( 2012 ) Trại Giam Binh Phú Quốc Thời kỳ Chống Thực Dân Pháp Đế Quốc Mỹ Xâm Lược . TP . Hố Chí Minh: Nhà Xuất Bản Tổng Hợp Thành Phố Hồ Chí Minh. B ộ Qu ốc Ph òn g ( 20 04 Từ Đi ển B ác h K ho a Qu ân S Việ t N am . Hà

Nội: Nhà Xuất Bản Quân Đội Nhân Dân.

Trần Đình N ghiêm ( 2000 ) Các Quy Đ ịnh Pháp Luật Về Chế Đ Ưu Đãi Ngườ i Có Công Vớ i Các h Mạng Kháng Chi ến . Hà Nội : Nhà Xuất Bản Chính Trị Quốc Gia. Trần Văn Kiêm ( 2005 ) Trại Giam Binh Phú Quốc 1967–1973 . TP . Hồ Chí Minh: Nhà Xuất Bản Tổng Hợp Thành Phố Hồ Chí Minh. * 本 稿 脱 稿 後 に、 韓 国 軍 に よ る ベ ト ナ ム 戦 争 時 の 虐 殺 の 記 憶 を 扱った次の著作が刊行されている。伊藤正子(二〇一三) 『戦 争記憶の政治学』平凡社。

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◉ 著者紹介 ◉ ①氏名…… 今井昭夫 (いまい・あきお) 。 ② 所 属 ・ 職 名 …… 東 京 外 国 語 大 学 大 学 院 総 合 国 際 学 研 究 院 ・ 教 授 。 ③生年・出身地…… 一九五六年、山梨県。 ④専門分野・地域…… ベトナム近現代史。 ⑤学歴…… 東京外国語大学大学院地域研究研究科修了。 ⑥ 職 歴 …… 国 会 図 書 館 調 査 立 法 考 査 局 非 常 勤 調 査 員( 二 八 ~ 三 二 歳) 、大学非常勤講師 (二九 ~ 三二歳) 、助手、 助教授、 教授 (三二 歳 ~ 現在) 。 ⑦ 現 地 滞 在 経 験 …… 一 九 七 九 ~ 一 九 八 〇 年 に 在 ハ ノ イ 日 本 大 使 館 に 派 遣 員 と し て 勤 務( 二 三 ~ 二 四 歳 )、 一 九 九 一 ~ 一 九 九 二 年 に 文 部 省 在 外 研 究 員 と し て ハ ノ イ 総 合 大 学( 当 時 )に 留 学 (三五歳) 。 ⑧ 研 究 手 法 …… 二 〇 〇 四 年 か ら ベ ト ナ ム 戦 争 に 関 す る 聞 き 取 り 調 査 を ベ ト ナ ム 国 内 で 実 施 し て い る。 主 な 対 象 者 は 退 役 軍 人、元青年突撃隊隊員である。年に二 ~ 四回実施。 ⑨所属学会…… 東南アジア学会、東アジア近代史学会。 ⑩ 研 究 上 の 画 期 …… 中 学 校、 高 等 学 校 の 時 に 連 日 の よ う に 報 道 さ れ て い た ベ ト ナ ム 戦 争 が ベ ト ナ ム 研 究 に 入 る き っ か け。 オーラルヒストリーに取り組むようになったのは、 COE 「史 資料ハブ」 の研究分担者となったことから。 ⑪推薦図書…… ロバート・マクナマラ『果てしなき論争』仲晃訳、 共 同 通 信 社、 二 〇 〇 三 年。 ベ ト ナ ム 戦 争 の 仇 敵 同 士 の 戦 後 対 話 を 記 録 し た 稀 有 な 書 で あ り、 深 み の あ る 地 域 研 究 の 重 要 性 を 再 確認させられる書物。

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