心理主義小説作家として知られるヘンリー・ジェイムズ(1843-1916)が得 意としたものが、「国際もの」と呼ばれる欧米の価値観の違いを主テーマに 構築した作品群である。それは、彼の初期の代表的作品『デイジー・ミラー (Daisy Miller)』(1878)や『ある夫人の肖像(The Portrait of a Lady)』(1888)
に始まり、後期の『使者たち(The Ambassadors)』(1901)などのいわゆる三 部作に至るまで、彼の執筆活動時期全般に見ることができる。他方で、ジェ イムズは「幽霊もの」として知られる作品群も多く残しており、最も知られ た作品『ねじの回転(The Turn of the Screw)』(1898)を始め、ジェイムズは初 期の頃より後期に至るまで「幽霊もの」を度々発表していた。しかし、彼の 数多くの短編小説をもう一度概観してみると、そこにもう一つのテーマがあ ることに気づくだろう。町田はこれを「芸術もの」と呼び、1892年から1900 年の間に数多く見られ、しかも1892年から1896年に特に集中して書かれてい ると指摘する。 1890年代は、ジェイムズが新しい芸術としての作品のあり様を求めた時期 だと言える。1880年代の彼は、いわゆる社会派小説に挑み、『ボストンの人々
(Bostonians)』(1886)と『カサマシマ公爵夫人(The Princess Casamassima)』 (1886)を出版するが、しかしそれ以前の作品のような評価を得ることはでき
ヘンリー・ジェイムズの「生誕の地」を読む:
芸術と大衆の狭間で
Henry James’s “The Birthplace”: Tension between the Arts and
Populism
ハンフリー恵子
Keiko HUMPHREYなかった。この不評を払拭しようと、彼は次の作品での成功を期待したもの の、1890年の『悲劇の詩神(The Tragic Muse)』(1890)もまた失敗作とみな されてしまう。これを補うかのように、ジェイムズは1880年代末より劇作活 動に邁進するが、ここでもなかなか期待する成功が得られないまま、1895年 の『ガイ・ドンヴィル(Guy Domville)』の初演を迎える。そしてこれが「最 初から悪意の兆しを見せていた、残虐で敵意に満ちた天井桟敷の客たち “a brutal & ill-disposed gallery which had shown signs of malice prepense from the 1st”」
(James, W. 337)によって罵倒された時、ジェイムズは劇作家としての試みを 断念することを決意するのである。この時彼は兄ウィリアム(William James) に宛てた手紙の中で、彼の劇を酷評する「大衆 “public”」に対し、ジェイム ズに近しい「プライベート “private”」な文学仲間たちからは作品を正当に評 価する意見を受けたことを伝えている。
The “papers” have into the bargain, been mainly ill-natured & densely stupid & vulgar; … Meanwhile all private opinion is apparently one of extreme admiration — I have been flooded with letters of the warmest protest & assurance. … Obviously the little play, …, is over the heads of the usual vulgar theatre-going London public… (James, W. 337-8) [underlines mine]
ここでジェイムズが受けた「プライベート(私的)」な意見とは、ジェイムズ 作品の価値を認識できる友人作家たちから得た「この上ない賞賛」と「最高 に温かい(観客の反応への)抗議と保証」である。これに対し彼の作品を侮 辱した「ロンドンの大衆」を、彼の作品の芸術性を到底理解できない「粗野 な」ものたちとしてジェイムズは侮蔑する。特に新聞記者たちに対して嫌悪 感を露わにし、同じ手紙の中でその「底知れぬ無教養と残忍性 “the abysmal vulgarity & brutality”」(James, W. 338)に恐怖を抱くのである。
ジェイムズはここで明確に、彼の作品に対し二極化した反応が存在するこ とを認識している。それは、作家が考える芸術性と、粗野な大衆が理解でき得 る芸術性である。そしてこの両者の隔たりに気付いた時、ジェイムズは芸術
家として、大衆にどう向き合うべきなのかという問題に直面する。こうして、 1880年代の社会派小説と1890年代の劇作品に対する大衆からの反応が、ジェ イムズに自分の作品と大衆との関わりについて考えさせ、結果として1890年 代に「芸術もの」が集中する一因になったと考えられるのである。
こうした期間を経て1900年代に入り、ジェイムズは短編集 The Better Sort (1903)を出版する。そこに「芸術もの」と呼べる三編の短編がある。1890 年代に芸術と大衆との関係を模索し続けたジェイムズがたどり着いたこの三 編の短編に、ジェイムズはどのような見解を表しているのだろうか。本論で は、この三編のうちの一つ、「生誕の地 “The Birthplace”」(1903)に注目し、 ジェイムズが描く「純粋なる芸術としての作品」と「大衆が求める作品」の あり方について考察する。 1 ジェイムズは、「生誕の地」の萌芽となったエピソードを『覚書』の中に記 している。友人から聞いた「シェイクスピアの生誕の地の管理を任されてい た夫妻 “a couple — in charge of the Shak<e>speare house — the Birthplace”」の話 に、作品のテーマ(“donnée”)を見出したというのである。
They were rather strenuous and superior people from Newcastle, … But what happened was that at the end of 6 months they grew sick and desperate from finding it — finding their office — the sort of thing that I suppose it is: full of humbug, full of lies and superstition imposed upon them by the great body of visitors, who want the positive impressive story about every object, every feature of tale. (James Notebooks 306) [underlines mine]
ジェイムズが聞いた話によると、「活発で優秀な」夫妻がシェイクスピアの 家で見出したものは、「多くの欺瞞と虚言、そして彼らに押し付けられる迷 信」であった。そしてそれらを来訪者たちに強いられることに嫌気を感じた 夫妻は失望し、仕事を辞めて立ち去ってしまったという。一体シェイクスピ
アの家に何があり、夫妻は何に失望したのだろうか、ジェイムズはここに興 味を抱く。夫妻が味わうことになった失望は、彼らが考えるシェイクスピア の家の在るべき姿と、観光目的の来訪者が期待するシェイクスピアの家への イメージとの間にズレがあったがためだと考えられる。ではここに見るズレ とは何であろうか。 ジェイムズは、小品「生誕の地」の中では、明確にシェイクスピアの名に は言及せず、そこがただ「崇高なる詩人 “the supreme poet”」(443)1の生誕
の家であると述べるにとどめている。その詩人は、明確な名前を与えられる ことのないまま、常に “He, His, Him” と固有名詞のみで表され、まるで聖書 における神を彷彿させるイメージが与えられている。このため、彼の生誕 の家は「人間の歩みの中で最も聖なるものと知られるところ “the most sacred known to the steps of men”」や「英語を話す者にとってのメッカ “the Mecca of the English-speaking race”」(443)となり、従って詩人の家は「神殿 “the shrine”」 (443)として、高みへと祀り上げられていく。すると、生誕の家の管理人は 神を祀る神殿に使える者であり、このためジェイムズは彼を「牧師 “a priest”」 と呼ぶのである。そしてこの神を崇めるために世界中から神殿にやってくる 訪問者達は、「巡礼者 “the pilgrims”」(448)となる。ジェイムズはこうして、 作品の冒頭から、作家を神格化してその生誕の家を神聖なる存在として位置 付け、その権威を明確に提示することで、大衆が容易には近づけない場所と して彼らから切り離している。これら隔てられた両者の間に位置してそれら をつなぐ役割を担うのが、牧師と呼ばれた管理人のゲッジ夫妻なのである。 前任の管理人プッチン嬢(Miss Putchin)は、新たに就任したゲッジ(Gedge) 夫妻に仕事を引き継ぐ際、この巡礼者たちについて「日によっては90人もの 来訪者があり、誰もが皆、全てを見て聞きたがったのです」と言い、次のよ うに続ける。
I mean they have their ideas — of what everything is, and where it is, and what it isn’t, and where it should be. They do ask questions, … and they’re down on you when they think you go wrong. (451-2) [underline mine]
来訪者には訪問する前からすでに「彼らなりの考え」があり、実際にやってき たときには生誕の家のどこに何があるのか、さらにはどこに何があるべきか まで、全てを知っているのだ、しかも管理人の説明に対し、それが正解かど うかを訪問者達が判断するのだという。こうした彼らの態度には、彼ら自身 の知識と理解に対する絶対的な自信が見られ、来訪者たちが生誕の家にやっ てくるとき、彼らは自分たちの理解が正しいことを確認するためにやってく るのだと言えよう。ゲッジ夫妻も実際に管理人として働き始めて間もなく、 プッチン嬢の言葉の意味を理解するようになる。「彼らが一様に求めている ものは、すべてが “まさにその通り” であることを感じることなのだ」(461) と実感するのである。 また、プッチン嬢がゲッジ夫妻に語った来訪者について、特に「アメリカ 人たち」が示す関心の高さこそが彼女を楽しませたと彼女は言う(451)。こ こで「アメリカ人」が強調されていることは興味深い。生誕の家にはイギリ ス国内のみならず、海外からも来訪者が押し寄せているのである。実際仕事 に悩むゲッジ氏の唯一の理解者となるヘイズ夫妻(Mr and Mrs B.D. Hayes)は アメリカ人観光客で、彼らは生誕の家にわざわざ大西洋を越えてやってきて いる2。あちこちから押し寄せるこのような観光客たちの姿には、神格化され た作家とそのゆかりの地が観光の目的地となり、ガイドブックなどで知識を 得た大衆がその興味を満たそうと聖地に集う様を伺うことができよう。 こうした観光客の増加の結果として、尊敬すべき芸術作家やその生誕の家が どのように巻き込まれていったのかを、ジェイムズは「生誕の地」に描くので ある。He の生誕の家に赴任したゲッジ氏は、その家の様を次のように感じる。
The exhibitional side of the establishment had struck him, even on arrival, as qualifying too much its character; he scarce knew what he might best have looked for, but the three or four rooms bristled overmuch, in the garish light of day, with busts and relics, not even ostensibly always His, old prints and old editions, old objects fashioned in His likeness, furniture “of the time” and autographs of celebrated worshippers. (455)
ここに見られるのは、生誕の家が来訪者の期待に応えるべく作り変えられて いく様であり、神格化された作家が巡礼者たちに迎合させられる様なのであ る。さらにここには、必ずしも He のものではないとしても、あらかじめ想 定していたものに見合ってさえいれば満足するという来訪者たちの姿を見る こともできる。このため、ゲッジ夫人はまもなく、来訪者たちが料金を払っ ている以上その6ペンスに見合ったものを提供しなくてはと考えるようにな り(462)、彼らの期待に応えるべく嘘や迷信をためらいなく口にするように なるのである。つまりここでは代金の対価を与えなくてはならない芸術側の 義務が求められていると見ることができる。 さらにこうした生誕の家の現状を目の当たりにし、ゲッジ氏は、この場所 を運営する当局(“The Body”)もまた、結局 He について何も知らないばかり か作家自身については何の関心すらないことに気づいていく。そして「彼ら が気にかけているのは、ただこの空っぽの殻だけなんだ。いや、空っぽでな いとしても、ただくだらないものを詰め込むことだけなんだ」(457)と考え る。だからこそゲッジ氏はこの家を、「一級の見世物 “a first-rate show”」(457) と呼ぶようになるのである。 こうした「大衆」の姿を、また商業化された芸術の様を、ジェイムズは ゲッジ氏の視点を通して描いている。ゲッジ氏は生誕の家の現実に当惑し、 来訪者に応えるべく作り話まで生み出す状況に嫌悪感を抱いていく。タナー が「ゲッジ氏が抱く疑問は、ジェイムズが抱くもの」(Tanner 83)であると 指摘するように、大衆化の風潮を管理人という立場で客観的に見つめるゲッ ジ氏の見解こそ、ジェイムズ自身のものであると言うことができよう。しか し、大衆化は He の生誕の地を運営する当局(“the Body”)が求めるものであ り、この行為に対しゲッジ氏に給料が支払われるのである。つまりゲッジ氏 は、芸術と大衆の狭間に位置し、商業化される芸術に反発を覚えるものの、 彼自身もまた大衆化することを求められていると言える。これはジェイムズ もまたゲッジ氏のように芸術と大衆の狭間にいながらも、大衆側に歩み寄る ことを求められていることを意味するのである。
2 そもそもゲッジ夫妻は、友人グラント-ジャクソン氏(Mr. Grant-Jackson) の紹介で当局から生誕の家に管理人として派遣された。初めゲッジ夫妻が管 理人の仕事のオファーを受けた時、彼らは He とその家について全くの無知 な状態であった。彼らにとってそれは、「ブラックポート・オン・ドゥィンド ルの薄暗い町立図書館」(442)に勤める地味で停滞した生活から脱出し、「狭 苦しい刑務所」(442)のような借家から逃げ出す好機に過ぎず、得られる給 料はさほど変わらなくても、そこには「ロマンス 」や「おとぎ話」(447)の ような世界があることを夢見て、期待を膨らませて管理人のオファーを受け 入れるのである。 そしてまず、彼らは実際に現地に赴く前に He について理解を深めようと、 夕食後にランプの灯りのもと、勉強をはじめる。
…; so that the very happiest time of their anxious life was perhaps to have been the series of lamplight hours, after supper, in which, alternately taking the book, they declaimed, they almost performed, their beneficent author. He became speedily more than their author — their personal friend, their universal light, their final authority and divinity. … , all possession and comprehension and sympathy, all the truth and the life and the story, had come to him, and come, as the newspapers said, to stay. “It’s absurd … to talk of our not ‘knowing.’ … He’s
in the thing, over His ears, and the more we get into it the more we’re with Him. I seem to myself … to see Him in it as if He were painted on the wall.” (447) [underline mine] ここで、生誕の家を直に見るのではなく、作品そのものから He を知ろうと するゲッジ夫妻の態度は、物質的遺物ではなく書かれた作品に直接触れる事 で作者像に近づこうとする行為であり、これこそ文学作品に素直に接する読 者の姿勢を示していると言えよう。 夫妻は偏見のない心で作品に接すること で、He を身近に感じるようになり、「個人的な友人、普遍的な光、究極の権
威であり神聖なる存在」(447)として認識するようになる。特にゲッジ氏の 中で He のさらなる神格化は進み、彼は He との精神的な距離を縮め、つい にゲッジ氏は、彼の意識が He と「一体化」したと感じるまでに至る。これ によりゲッジ氏は He の「あら “the faults”」(448)までもが見えるようにな るのである。ジェイムズはこうして、ゲッジ氏をあたかも He の代弁者であ るかのように位置付けてから、彼を生誕の家へ送り出すのである。 そしてゲッジ氏は、生誕の家の管理人としてそこに隣接する家に住むこと になる。 これは、ゲッジ氏が He の生誕の家に住み込むことで、今や物理的 な距離をも縮めたことを意味する。文字通り「He と共に暮らすことに驚異」 を覚えるゲッジ氏は、建物のあらゆるところに He の存在を感じ取り、そこ に「過剰なまでの興奮」(448)を抱くのである。
He had worn, of touching the objects, or at all events the surfaces, the substances, over which His hands had played, which his arms, his shoulders had rubbed, of breathing the air — or something not too unlike it — in which His voice had sounded. … ; the place was both humbler and grander than they had exactly prefigured, more at once of a cottage and of a museum, a little more archaically bare and yet a little more richly official. (448) [underline mine]
ここで、赴任したばかりのゲッジ氏が抱く興奮は、一般の来訪者たちのもの と大差ないと考えられよう。生誕の家で初めて物理的に He の足跡に触れら れる機会を得たことに、彼は素直に感動を覚えている。しかしここで興味深 いのは、 He の存在を感じている時、ゲッジ氏がそこに相反する二つの要素を 感じ取っていることである。生誕の家には「鄙びていると同時に豪奢な感じ」 があり、そこは「小さな小屋であると同時に美術館」のようであり、「古臭 く飾り気がないと同時に豊かに着飾っている」ところだという。つまりゲッ ジ氏は、必ずしも盲目的に生誕の家に漂う He の存在を感じて楽しんでいる のではない。彼は生誕の家には、作家本来の姿に起因するものと、作家の死 後、来訪者という大衆の期待に応えるべく設えられた外来のものが、共存し
ていることを感じ取っているのである。
ゲッジ氏を一般の来訪者たちと異にするものは、ゲッジ氏が He と物理的 のみならず、精神的にも He に近づくことができた点にある。このためゲッ ジ氏は、生誕の家に触れることで喜びを得るのみならず、連日閉館後に建物 内を一人歩き回り(“nightly prowls”)、「祀られた存在 “the enshrined Presence”」 (454)との精神的交わりをも楽しむようになるのである。そしてこの交流に よって「彼の感覚が徐々に研ぎ澄まされ、より深く洗練されていった」(455) 結果、やがて、彼は建物内を彩る装飾品が作家自身については何も語ってい ないことを理解するに至る。こうしてゲッジ氏は、巡礼者が最も神聖な場所 として崇める「誕生の間」でさえ、実は「空っぽ」で「価値がない」(455) ものであり、そこで He が生まれたという事実があったとしても、その事実 以外に今そこに存在するものは何もないのだ、と理解するのである。つまり、 作家の真の姿は観光客用に設えられた装飾品には存在しないのであり、大衆 がそこに見たと信じる作家の姿は本来の作家の姿とは異なるものであると、 ジェイムズは示すのである。 このようにしてジェイムズは、神殿と巡礼者をつなぐ牧師としてのゲッジ 氏を、大衆と芸術の狭間に位置するものであることを明確にし、さらには大 衆が認識する作家と、実際の作家の姿との乖離を浮き彫りにする。こうした 状況の中で、やがてゲッジ氏は、自身が「大衆」が知る自分と「プライベー ト」な自分に二分化されるのを感じるようになる。
The point was that he was on his way to become two quite different persons, the public and the private, and yet that it would somehow have to be managed that these persons should live together. … One of the halves, or perhaps even, since the split promised to be rather unequal, one of the quarters, was the keeper, the showman, the priest of the idol; the other piece was the poor unsuccessful honest man he had always been. (460) [underlines mine]
して、まさに客をもてなす「興行師」であることが求められている。しかし、 「私的」見解としては、彼は嘘を受け入れられない「正直者」の「しがない」 男に過ぎない。ジェイムズはゲッジ氏の立ち位置を二極化することで、来訪 者たちが見るものが、実態とは大きくかけ離れたものであることを一層明確 にする。そして、大衆が抱いてやってくる期待、つまり「真実味と新鮮さの ある伝説と、伝説の絶対的な妥当性」(459)にどう対応するのかを迫られた 時、ゲッジ氏は彼らに生誕の家について何も話さないことを決意する。つま り彼は、沈黙することで「興行師」であるよりも「正直者」であることを選 ぶのである。 しかしこの結果としてゲッジ氏が得たものは、当局からの解雇警告であっ た。ここで彼には、「正直」に芸術に触れ作家との精神的交流を楽しもうと する姿勢よりも、「興行師」として芸術を商業化することが求められるので ある。収入を失うことを恐れるゲッジ夫人にたしなめられ、ゲッジ氏は、自 分の気持ちを押し殺すことを受け入れ(478)、「多分これで嘘がつけるよう になるよ」(480)と彼女に言う。そして、饒舌に虚言を語る管理人となった 時、彼の働きは当局に認められ、今の給料の二倍となる「昇給」(495)を受 けるに至る。つまり、大衆への迎合が、彼に経済的成功をもたらしたのであ る。まさに芸術の大衆化による経済的成功である。 ジェイムズが耳にした「生誕の地」のきっかけとなったエピソードの管理 人夫妻は、シェイクスピアの家で働き始めて六ヶ月後に「大勢の来訪者たち によって強いられる嘘や迷信 」(Notebook 306)が嫌になって逃げ出してしま う。ゲッジ氏のように、芸術の価値を重んじようとする姿勢と芸術が商業化 する外圧に挟まれた時、彼らの選択は、商業化の波から逃げ出すことであっ た。しかしジェイムズは、ゲッジ夫妻にその環境を受け入れて留まり続ける ことを選ばせる。これは、ジェイムズによる芸術の大衆への迎合と思えるが、 果たしてそうなのであろうか。 3 ゲッジ氏が、商業化された施設の管理人という立場を受け入れることがで
きず、沈黙する管理人であることを選択した時、それは彼に「批評する感覚 “my critical sense”」(478)があったが故のことであった。これがあるからこ そ、彼は嘘と作り話に塗り固められた生誕の家を批判し、真の作家の姿を理 解できたのである。しかしこの批評する感覚は、彼に経済的成功をもたらさ ない。ところが彼がこの感覚を押し殺し、虚構に彩られた作り話を流暢に語 り始めた途端、それが大衆からの評判を呼び、しまいには大西洋を超えたア メリカででも話題となる。こうした両極に位置する態度を経験するゲッジ氏 を、ジェイムズはアメリカ人のヘイズ夫妻を二度登場させることで、客観的 に描写していく。 まず一度目は、ゲッジ氏がただ沈黙する管理人として生誕の家を案内して いる時である。この時ヘイズ夫妻は、すぐさま彼が虚飾に飾られた家にいて 「精神的苦労」(468)を抱えていることを見抜き、さらにこうした部屋々々に He はいないのだとゲッジ氏に告発する。「この男はどこにもいないのです」 (469)、「He がここにいるのでしたら首をつってもいいくらいです」(470)と 言うヘイズ氏は、まさに商業化された生誕の家が、真の芸術とはかけ離れた ものであることを指摘していると言えよう。そしてその後、ゲッジ氏が当局 に迎合して饒舌に来訪者をもてなす管理人となった時、アメリカにまでその 話題が届くゲッジ氏を「見る」ことを目的に、彼らは再び生誕の家にやって くる(488)。ここで興味深いのは、ゲッジ氏自身が、ヘイズ夫妻という来訪 者の「見せ物」となっていることである。来訪者をもてなすゲッジ氏こそが、 He の家を飾る展示物の一つとなり、大衆の来訪目的となっている。つまり、 ゲッジ氏が批評する感覚を失ったのち、彼もまた商業化した装飾品の一部と 化したのである。こうした状況を理解したヘイズ氏は、ゲッジ氏と次のよう な会話を交わす。
[Mr Gedge said] “… You see, we had our scare after your visit. They came down.”
His friends were all interest. “Ah, They came down?” “Heavy. They brought me down. That’s why —"
“Why you are down? Mrs Hayes sweetly demanded.
“Ah, but my dear man,” her husband interposed, “you’re not down; you’re up! You’re only up a different tree, but you’re up at the tip-top.”
(489) [underlines mine] ここで “down” と “up” が効果的に用いられていることに注目したい。ヘイズ 氏は、前回も今回も、ゲッジ氏が変わらず「高み」にいると判断する。しか し、この「高み」が位置する場所が異なる。「正直者」であろうと沈黙を選 んだとき、彼は芸術が存在する世界の「高み」にいたが、結果として当局に 「降ろされ」たのである。しかし、饒舌になり「興行師」として国内外で成功 を収めた今、彼は大衆の「高み」に上り詰めたのである。ところがジェイム ズは、ゲッジ氏がここで位置する「高み」は以前の「高み」とは「異なる木」 の上であると説明する。芸術作品を純粋に感じる正統芸術の木と、商業化さ れた芸術を楽しむ大衆芸術の木として、両者を明確に区別することで、ジェ イムズはゲッジ氏に内在していた二極化した要素を、物理的に提示してみせ るのである。こうして、真の芸術作品は、大衆芸術とは切り離され、両者が 共存し得ないことを示している。また、ゲッジ氏が、沈黙する管理人から饒 舌な管理人に変身するとき、彼は一度当局に正統芸術の木から「引きずり降 ろされ」ていることにも注目したい。文字通り彼は、芸術の高みからの堕落 を強要され、商業化の世界に入ることを余儀なくされる。そしてこの結果と してゲッジ氏に経済的成功をもたらすことで、ジェイムズは大衆芸術が正統 芸術に及ぼす影響力の大きさ、そしてそれに屈せざるを得ない正統芸術の現 実を明らかにしていると言えよう。 ジェイムズは、実際のシェイクスピアの管理人夫妻のように逃げ出すので はなく、むしろゲッジ氏を当局に妥協させることによって、真の芸術を取り 込む商業化の波と大衆の圧倒的な力を描き出している。しかも、ゲッジ氏の 昇給によって大衆への迎合という彼の選択が擁護されたとき、芸術作品を大 衆化することを容認せざるを得なかったジェイムズの姿も垣間見ることがで きよう。つまり、大衆化による「成功」と批評家として芸術の価値を見定める
批評的視点を持つことの「不成功」に、19世紀末の観光業の高まりとともに 進む芸術の大衆化と、芸術をも金銭的価値で計ろうとする商業化の動きを、 ジェイムズが十分に認識していたことと読み取ることができるのである。
4
こうしてジェイムズは「生誕の地」で大衆に飲み込まれる芸術の姿を描き 出すが、実はそれ以前の1890年代に書かれた「絨毯の下絵 “The Figure in the Carpet”」(1896)や「本当に正しいこと “The Real Thing”」(1899)では、そ れに抵抗する作家の姿が描かれていた。 例えば「本当に正しいこと」においては、「生誕の地」のように、故人と なった作家の住まいに入り込み、そこから探り得た真実を出版し、作家を大 衆に晒そうとする編集者が描かれる。これは、批評する感覚を持ったゲッジ 氏のように、作家と大衆の狭間に位置する編集者という意味で、「生誕の地」 と類似した構図を持っていると言える。しかし「本当に正しいこと」では、 作家の存在を脅かす威圧的な大衆の力に対し、今は亡き作家からの強い拒絶 が描かれる。 作家アシュトン・ドイン(Ashton Doyne)の亡き後、出版社から彼の伝記 “the biography” (James “Thing” 122)を書くよう依頼を受けたジョージ・ウィ ザモア(George Withermore)はドインの妻の協力を得て、彼の「日記、手紙、 書付、覚書、あらゆる種類の書類」(James “Thing” 121)に触れる機会を手に する。ドインの書斎を使って伝記の執筆ができる機会を得たウィザモアは、 夫人とその部屋を訪れ次のように感じる。
The place was full of their lost friend; everything in it had belonged to him; everything they touched had been part of his life. It was for the moment too much for Withermore — too great an honour and even too great a care; … And after a little one of them said, … “It’s here that we’re with him.” But it was definitely the young man who put it, before they left the room, that it was there he was with them. (James “Thing” 123) [underline mine]
ドインが触れたもの、彼が用いたもの、彼の生活そのものが感じられる空間 に身を置き、その存在 “the spirit” (James “Thing” 123)を身近に感じている ウィザモアは、ゲッジ氏が赴任直後に生誕の家に感じていたものと同種のも のを体験していると言えよう。しかしここでウィザモアが、彼と夫人がドイ ンと共にあるのではなく、ドインが彼らとともにあるのだと考えることに注 目したい。これにより部屋の主人としてのドインの存在が強調され、ウィザ モアたちは彼の部屋への単なる訪問客・侵入者に過ぎないことが示されてい る。まだ作家の息吹が感じられる空間に身を置いて執筆を続けるウィザモア は、そこにドインの存在を身近に感じ、あたかもドインの手が彼の手に添え られているようにすら感じる。それ故ウィザモアは、ドインの伝記の執筆は 実はドインとの共同作業であると考えるようになる。
Happily, at any rate, even in the vulgarest light publicity could ever shed, there would be the great fact of the way Doyne was “coming out.” … It wasn’t a thing to talk about — it was only a thing to feel. There were moments, for instance, when, as he bent over his papers, the light breath of his dead host was as distinctly in his hair as his own elbows were on the table before him. There were moments when, had he been able to look up, the other side of the table would have shown him this companion as vividly as the shaded lamplight showed him his page. (James “Thing” 127) [underlines mine]
ここでジェイムズは、伝記の出版によって作家が大衆の目にさらされること を、「最も忌むべき光」の下に晒すことだとしつつも、ドインを「引き出す」 ことを否定してはいない。しかしそれは、「口で語る」ものではなく、作家 やその作品との交流を「感じるもの」であるという。実際にウィザモアはこ こで、ドインとテーブルを共にし、文字通りその息遣いを肌で感じながら、 一緒に執筆を続ける。彼らに会話は必要なく、彼らはただそこにいて時間を 共有するのみなのである。そしてドインが伝記の出版を望んでいないと理解 したウィザモアは、最後には「諦めます “I give up”」(James “Thing” 133)と
言って、ドインの大衆への公開を拒絶する。
ウィザモアのように作家の素顔を大衆にさらすことを否定する姿を、ジェ イムズは1890年代の「芸術もの」と呼ばれる作品群の中で描いている。その 先駆けとも言える「アスパンの手紙 “The Aspern Papers”」(1888)では、詩人 アスパンの遺した恋文を覗き見ようと画策するジャーナリストは、「このろ くでなしの出版野郎! “Ah, you publishing scoundrel!”」(James “Aspern” 303) の罵りと共に拒絶される。つまりジェイムズは、異なる作品の中で一貫して、 芸術の大衆化、大衆による作家の私的空間への介入を徹底的に否定していた のである。この点、ウィザモアの決断のストーリーに「本当に正しいこと」 というタイトルが与えられているのは興味深い。 ところが「生誕の地」においては、ウィザモアのように、ゲッジ氏が生誕 の家で作家 He の存在を感じたり毎夜の徘徊で彼と共に過ごす時間を共有し ていたとしても、最終的にゲッジ氏は He を大衆化、商業化することを容認 する。「生誕の地」には、1890年代に芸術の大衆化に抵抗を続けたにも関わ らず、1900年に入りジェイムズが結果としてそれを甘んじて受け入れるに至 るという、ジェイムズ自身の芸術と大衆の関係に対する見解の変化を見るこ とができるのである。 5 観光業の高まりとともに芸術の大衆化が進み、またそれは作家の私的な面 に対する大衆の好奇心の高まりをもたらした。こうした時流のなかで、著作 権への意識が高まり法案が制定されるなど3、作家を取り巻く環境は大きく 変化し続けていた。ジェイムズが1890年代を中心に「芸術もの」を多く書い たのも、ただの偶然ではなく、こうした時流も関係しているのは明らかであ る4。実はジェイムズ自身、作品の大衆化に伴い、読者層がより広範になった ことを敏感に感じており、「急速な大衆の増加」により「本がほどんどあらゆ る場所にある」(James “Future” 101)状況を理解して、かつては良いとされた テイストが失われてきたと指摘する。 だからこそジェイムズは、これに抵抗を示していたのである。作品を素直
に感じ取り、作家の概念をそのままに読み取ろうとする姿勢を 1890 年代の ジェイムズは描き続けていた。しかし、1900年代に入り、ジェイムズは抗い きれない大衆化の強大な力を受け入れざるを得なくなる。その姿が1903年の 「生誕の地」のゲッジ氏に見られたのだと言えよう。彼が体現して見せたよう に、ジェイムズの理想はその高みから引きずり降ろされ、大衆という木の上 に祀り上げられていく。しかしそこで大衆に迎合したゲッジ氏は、ヘイズ夫 妻からその変貌を指摘された時、「彼の仮面は剥がれ落ち」(487)、涙を流す ことになる。ここには、大衆化を受け入れ虚言から成功を得たものの、それ は表面的な迎合に過ぎず、むしろそのような自身の姿を認識しそれを恥じ入 るゲッジ氏の心の内を見ることができるのである。 「生誕の地」は他の「芸術もの」作品と比べ、芸術の大衆化が受け入れられ るという点で、特徴的な作品であると言える。これにはこの作品が、「芸術も の」が主に書かれた1890年代を過ぎた時期に書かれたということが関係して いる。「生誕の地」には、時流の中で変化を受け入れざるを得ないジレンマ を抱え続けたジェイムズが、1890年代を通して続けた抵抗ののちに妥協する ことを受け入れた、その葛藤の結末の一端を伺うことができる作品なのであ る。 注 1 本論では、 “The Birthplace” からの引用は括弧内にそのページ数を示すものとする。 2 例えば大穀がツーリズムの観点から「生誕の地」を読み解いているように、本作の考察に 19世紀末にかけて急速に発展していた観光業の高まりを無視することはできない。この 時期はシェイクスピアの生家が観光地としてますます人気が高まった頃であり、観光客 が洋の東西を問わず大挙して押し寄せるようになっていた。シャピロは「19世紀はシェ イクスピアへの関心が爆発的高まりをみた」(Shapiro xxv)時であったと指摘しており、 学校教育でも積極的にシェイクスピア作品が使用されるほどに大衆に広まっていた。こ うしたシェイクスピア熱は、やがてアメリカ人興行師 P. T. バーナム(P. T. Barnum)が、 シェイクスピアの生誕の家をアメリカに移築しようと考えたことからも伺うことができ よう(Shapiro xxiv)。アメリカ人作家たちにとっても、シェイクスピアの生誕の地を訪れ ることは「あまりにも明らかな巡礼」(Tanner 78)となり、実際にジェイムズもシェイク スピアの生家のある地域を訪れて、そこを「ジェイクスピア研究者や彼を情熱的に愛す る者たちにとっては理想郷」(James “Warwickshire” 175)と書き記すなど、同じ作家とし
てシェイクスピアへの敬意を示している。しかし、その一方で、ストラットフォードの あるウォリックシャーで、歴史や文化を感じる邸宅や庭園に、二ペンスで売られる案内 書や写真があることも書き示すなど、そこに見られる商業化された観光地としての姿も ジェイムズは見逃してはいない(James “Warwickshire” 165)。 3 19世紀に急速に著作権に対する意識が高まり、その法制定が進んだ様はオッテンに詳し い。 4 ストーガード=ニールセンは、こうした社会事情について 「出版文化 “Print Culture”」の 中で詳細に解説している。ジェイムズの執筆活動時期に、出版業界に生じた大きな変化 として、例えば一作品を三巻組にするお決まりの出版スタイルが消滅し、ペーパーバッ クが普及したこと、19世紀末の識字率が90%を超えたことなどが指摘されている。つま り大衆の側に作品を求める地盤ができてきたこと、それゆえに大衆が購買層として大き な力を持っていたことなどが、ジェイムズの執筆活動に大きな影響を与えていたと理解 できる。 引用文献
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