アジ研ワールド・トレンド No.240(2015. 10)
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も家父長的な社会構造も、深い人
間
心
理
や
存
在
を
描
き
出
す
た
め
の
「
舞
台
装
置
」
に
過
ぎ
な
い
と
も
い
え
る。しかし筆者には、二〇世紀ラ
テンアメリカ文学の挑戦が、ある
非常に抑圧的な政治的制約のなか
で、権力への糾弾を試みる文学の
ぎりぎりの選択だったようにも思
えてならない。
本稿では、筆者の独断により二
〇世紀ラテンアメリカ政治史の諸
相を描き出すと思われる三編を選
び、政治学を学ぶ者の視点から紹
介していきたい。世界的に文学的
価値の知られたこれらの作品を政
治史的示唆の観点から眺めること
が、的外れな冒涜に過ぎないこと
は重々承知しているが、何より読
書は掛け値なしに自由な営みなの
だから、多様な読み方がまあ許さ
れるだろうと信じて筆を進める。
ラテンアメリカの文学は、当然
といえば当然だが、ラテンアメリ
カの現実社会に埋め込まれている。
このことは、当時ラテンアメリカ
政治(史)を勉強し始めたばかり
の大学四年生の筆者にとって、即
物的には勉強に役立つ発見であっ
た。ラテンアメリカにおける絶え
間ない抑圧と内戦の歴史も、家父
長的な農村社会の構図も、すべて
文学作品に書いてある。教科書に
出てくる史実や政治学の専門用語
を、リアルで共感できるものとし
て想像するうえで、文学は信頼で
きる友であった。
もっとも、豊かな文学作品をそ
の社会性、政治性のみによって切
り取ることは、明らかに一面的に
過ぎる。チェコの作家ミラン・ク
ンデラが、その名著『冗談』につ
いて「あれはラブストーリーだ」
と語ったように、共産党独裁体制
●
階
級
、
イ
デ
オ
ロ
ギ
ー
と
チ
リ
の
政
治
変
動
イサベル・アジェンデの『精霊
た
ち
の
家
』(
木
村
榮
一
訳、
河
出
書
房新社、二〇〇九年)
の「主要脇
役」たるエステーバン・トゥルエ
バは、その生い立ちにも強く規定
される形で、保守的な思想を持つ
中規模農園主となった。トゥルエ
バが、この時代のチリで何を考え、
行動し、歴史の形成に加担しつつ
もそのうねりのなかでどう変化し
ていったのかを探ることは、階級
やイデオロギーの意味を人間に引
きつけて考えるうえで示唆的であ
る。トゥルエバはいう。
「
誰
が
な
ん
と
言
お
う
が、
わ
し
は
申し分のない主人だったと思って
いる。昔の荒れ果てたラス・トレ
ス・マリーアスを知っている人間
が、現在の立派な農場をみたら、
なるほどと納得するだろう。だか
ら、孫娘の奴が階級闘争がどうの
こうのと言いおっても聞く気には
なれんのだ。あわれな農民たちは
今、五〇年前よりもはるかに苦し
い生活を強いられているが、もと
は
と
言
え
ば
あ
の
農
業
改
革(
筆
者
注:農地改革)というやつがなに
も
か
も
台
な
し
に
し
て
し
ま
っ
た
の
だ。
」
支配する側の論理に過ぎないと
いえばそれまでだが、彼らが単な
る抑圧と搾取のロジックからのみ
行動していたわけではなく、ある
秩序の捉え方(あるいはイデオロ
ギー)がその基盤に存在していた
ことを明確に示す発言である。ま
た、支配される側の人間にとって
も、従属と引き換えに生活の保証
を選ぶことは十分現実的な選択肢
だった。
しかしこうした農村社会の秩序
は、支配される側の「無知」を前
提としていた。一九七〇年にアジ
ェンデ左派政権が発足すると、チ
リの政治社会的分極化は加速し、
一九七三年に軍事クーデタが勃発
する。保守の政治家として左翼政
権の打倒を狙っていたトゥルエバ
だったが、徐々に軍政は間違いだ
ったと考えるようになる。次の描
写は、左右イデオロギーの相対性
●
特
●
集
本の森への道案内
文
学
に
み
る
ラ
テ
ン
ア
メ
リ
カ
政
治
馬場
香織
[ラテンアメリカ(メキシコ)政治]
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アジ研ワールド・トレンド No.240(2015. 10)
を読者に考えさせるものだろう。
「
(
ト
ゥ
ル
エ
バ
は、
)
軍
人
た
ち
は
マルクス主義独裁を排除するため
に行動を起こしたが、結果的には
それ以上に厳格な独裁制を生みだ
すことになり、どうやらそれがこ
の先百年くらいは続きそうな気配
だと言って、嘆いた。生まれて初
めて彼は、自分のまちがいを認め
た。
(
中
略
)
権
力
を
失
っ
た
こ
と
を
悲しんでいたのではなく、祖国の
将来を嘆いて泣いていたのだ。
」
●
歴
史
的
分
岐
点
に
お
け
る
ア
ク
タ
ー
の
選
択
マ
リ
オ・
バ
ル
ガ
ス
=
リ
ョ
サ
の
『チボの狂宴』
(八重樫克彦・八重
樫
由
貴
子
訳、
作
品
社、
二
〇
一
〇
年)
は、一九三〇年から三一年間
にわたり強固な独裁を敷いた、ド
ミニカ共和国のトゥルヒーリョ体
制を扱った小説である。物語の中
核的主題とあまり関係のないとこ
ろで筆者の印象に残ったのは、ト
ゥルヒーリョ暗殺(一九六一年)
当時の大統領バラゲールが歴史上
果たした役割についてであった。
小説中でも描かれるとおり、バ
ラゲールはトゥルヒーリョの忠実
な下僕として三一年間彼に仕え、
「
操
り
大
統
領
」
と
し
て
の
役
割
も
甘
んじて受け入れてきた人物である。
しかし、トゥルヒーリョ暗殺後の
バラゲールは、政権の飾りから責
務に実をともなう国家元首へと変
貌を遂げる。
権力の空白によって政治が流動
化するとき、中心的な政治アクタ
ーの選択は歴史の分岐に決定的な
影響を与えるのだろうか。たしか
に、仮にバラゲールが軍幹部によ
るライリー司教殺害の陰謀を食い
止めることができず、アメリカ海
軍の上陸を許していたならば、そ
の後の歴史は大きく変わっていた
かもしれない。バルガス=リョサ
は、こうしたアクターの個々の選
択の積み重ねが歴史を規定してき
たことを重視しているように読め
る(小説がミクロな人間を描くも
のであれば、ある程度当然だが)
。
しかし、政治学的な観点からよ
り長期的に眺めれば、別の見方も
可能かもしれない。クーデタ、内
戦、政権に返り咲いたバラゲール
の独裁強化というドミニカ共和国
政治のその後の展開は、より長期
的に変わらない何か(=構造)が
歴史(のサイクル)を規定するこ
とを示唆するからである。歴史を
つくるのはアクターなのか構造な
のかという政治学のクラシックな
問いが、いきいきと浮かび上がる。
●
内
乱
下
の
秩
序
、
死
と
生
最
後
に
紹
介
す
る
の
は、
カ
ル
ロ
ス・フエンテスの短編小説「生命
線
」『
フ
エ
ン
テ
ス
短
篇
集
ア
ウ
ラ・
純
な
魂
』(
木
村
榮
一
訳
所
収、
岩
波文庫、一九九五年)
である。一
九一〇年に始まるメキシコ革命の
権力争いの下では、今日の指導者
が明日は没落し、仲間が敵に変わ
るという無秩序こそが秩序であっ
た。ベレン監獄を命からがら脱獄
し、サパータ派の分遣隊との合流
を望んでいた主人公ヘルバシオだ
ったが、たどり着いた野営地の部
隊を指揮する将軍に、ウエルタの
裏切りによりマデーロ政権が転覆
したとの事実を告げられる。
「
誰
が
あ
の
男(
筆
者
注:
マ
デ
ー
ロ)を銃殺刑に処したと思うね。
わが将軍、ビクトリアーノ・ウエ
ルタだよ。現在はウエルタ将軍が
我々の指導者になっている……」
こうしてヘルバシオは、ベレン
監獄に連れ戻され、最終的に処刑
される。ヘルバシオのように名も
ない多くの兵士たちが、内乱の大
きな流れに巻き込まれて死んでい
った。そこに「革命の理念」のよ
うなものは、はっきりいって見当
たらない。仲間に向けたヘルバシ
オの次の言葉が印象的だった。
「
い
っ
た
ん
革
命
に
足
を
踏
み
入
れ
たら、あれこれうるさく問い糾し
てもしようがない。自分の任務を
果たす。それがすべてだ。
」
こうした極限的な「秩序」のな
かで、ヘルバシオは「死がすべて
である以上、生というのはしょせ
ん例外でしかない」という死生観
にいたる。革命を生き、そして死
んでいくことがどのようなことだ
ったのかを考えさせられる。
●
お
わ
り
に
以上紹介した三冊は、いずれも
ラテンアメリカ政治学を学ぶ者な
ら必修の史実や概念を扱ったもの
である。もちろん、ここでの紹介
は作品の文学的主題とはかけ離れ
たものだし、そもそも小説はフィ
クションなのだが、日本から遠く
離れた異国の歴史を
触 しょく
知 ち
できるも
のとして想像し、研究のアイデア
を広げるうえでも、文学作品の参
照は非常に有用だと思う。作品自
体を楽しみながらの活用を、ぜひ
お奨めしたい。
(
ば
ば
か
お
り
/
ア
ジ
ア
経
済
研
究
所
ラ
テ
ン
ア
メ
リ
カ
研
究
グ
ル
ー
プ
)