Title
自己実現に関する一考察−対人関係をめぐって−
Author(s)
山里, 将輝
Citation
沖縄大学紀要 = OKINAWA DAIGAKU KIYO(4): 1-20
Issue Date
1985-03-31
URL
http://hdl.handle.net/20.500.12001/5707
自己実現に関する一考察
一対人関係をめぐって-
Y■-F 山里将輝 I.はじめに Ⅱ人格の構造 Ⅲ、自己と他者の成立 Ⅳ、自己と役割 V、対人関係の諸相 Ⅵ.おわりに Lはじめに ルネサンス以降の近代精神は、人間存在を欲求する主体として把握した。か かる欲求を充足する場として、現実的、世俗的世界は積極的な意味が与えられ 肯定された。かかる現実世界における人間の基本的欲求は生命の維持と発展に 他ならない。人間の生命活動は自然や社会を必要とし、それらに働きかけ媒介 することによって成立している。 周知のようにヘーゲルは、近世の市民社会を欲望の体系として把握し、人間の欲望、および人間性の実現は社会との関係において実現されるものとし癖('1
人間性の実現とは、自己が人格的存在として主体性を確立し、他者との人格 的交わりを通して自己を意義あるものとして自己実現することである。かかる 観点から、本稿は自己実現の問題を対人関係と関連させ、そこにおける問題点 と課題について考察する。 Ⅱ人格の構造 自己は諸能力、諸欲求をもち、かつ人格的存在として主体である。自己は人 1格的存在として主体である。自己は人格的存在として自己意識をもち、自由に
選択し、決断し、実践することができる能力を自覚している。かかる意味にお
いて、人格的存在としての自己は主体性として自由であり、したがって行為の
責任をもつ能力ゆえに倫理的主体である。人格は倫理的主体として、価値の実
現を志向する。自己は人格的存在として、自己自身と世界に意味を与える志向
性である。自己は自己の存在に対して意義を見い出すことにおいて自己を実現
する。人間の基本的欲求は生存を維持し発展させることであるが、さらにこの
生存に意味と価値を与えることによって充実した自己を実現することである。
曰常的表現で言えば、人生に生きがいを見い出すことである。
以上のように、人格の構造に主体性、責任性、志向性が属するが、さらに統
一性、共同性が属する。人間的行動は認識活動における知性、感性的作用とし
ての感情、情緒、および実践的活動における意志、これら三つの分野が融合し
た全体的、統一的活動である。人格的存在としての行動は知性、情緒、意志が
有機的に統合されており、決して分裂した行動ではない。伝統的に人間形成と
は、人格の形成であり、人格の全面的、調和的発達をめざすものとされる。し
たがって、対人関係においても全人格的な交流、相互作用が望ましいものと考
える。人間の生活は、家族、地域社会、国、世界という共同体の中で営まれている。
すなわち人間生活の事実性から、人間には本質的に、共同性、社会性が属する。
この共同社会の中で個人は他の主体と出会うのである。個人は種々の共同体に
属し、その中でさまざまな役割を担って他者と関係を結んでいる。ここで人格
の共同性、社会性とは、人格の社会的役割を意味する。
Ⅲ、自己と他者の成立自我の発達は自己自身と他者(他人、社会、世界)を認識することに、すな
わち自己の認識能力と社会性の発達に依存している。われわれは、自我の発達を対人関係において理解することが可能である。幼
一2-児期は、自我と対人関係が構成される出発点である。
したがって、幼児期における対人関係の特性について考察してみよう。
一般的に言って、生れたばかりの赤ん坊は、明確な自我意識をもたず、母親
と一体化しており、したがって自己と他者の区別はないものと考えられる。一
般に生後6ケ月から1年にかけて、乳児の人見知り現象がおこる。この現象は
乳児が母親と母親以外の人との区別を知ることを意味する。またこの時期にお
ける母親との関係において、乳児は母親との一体感(快感)と分離感(不快感)
を経験するとされる。たとえば、母親が乳児の視野から消えると乳児は不安感
が生じ、泣き出したりするが、母親を見つけると安心したりするものである。
このように母子分離を通じて、自己と他者の区別と関係性を幼児は意識するよ
うになる。 また、メルロー。ポンテイによると、乳児は自分の身体に気づくことにおいて自己と他者の相違に気づくようになる。乳児は自分と他者との違いを、自己の
身体と他者の身体の違いとして、気づいていく。すなわち、乳児は、視覚が発
達することによって、自分の身体を意識することが可能となり、他者の身体と
違うことを意識する。自己と他者の区別を自己の身体を通して意識することに
他ならない。したがって、自己の身体の意識と、他者の認識とは対応関係があ
る苧(2)
このように、自我の出発点は他者との関係において自己と他者の区別を知る
ことである。要するに自己認識は他者を知ることであり、逆に対者を知ること
は自己を知ることに他ならない。したがって自己理解は、自己と他者との具体
的な関係において理解されねばならない。さらに自我の発達と社会性の発達には対応関係が存する。自己意識を有する
ものが社会性を意識する。たとえば、乳児施設等においては、2~3カ月の赤
ん坊どおしの伝染泣きの現象がひんぱんにみられる。1人の赤ん坊が泣き出す
と、何んの理由もなく、多ぜいの赤ん坊がいっせいに泣き出すという現象であ
3る。このことは、このころの赤ん銃が自己と他者の区別をしらず、したがって 他者と一体化した世界を生きていることを意味する。しかし3カ月をすぎると、 乳児の視野が発達し、周囲の状況をある程度認知することが可能となる、これ は同時に自我意識がある程度発達したことを意味する。すなわち、感覚器官の 発達と状況の認識能力、および自我の発達には対応関係がある。しかし一般に 6カ月~3歳までの幼児は自己と他者の未分化な共同生活を営んでいる。自己 と他者の未分化な初期の共同生活を癒合的社会性といい、メルロー・ポンテイ は幼児の自己中心的な生き方は、自我が明確に確立していないゆえ、自己と他
者の関係が不明瞭で未分化であることにもとづくものと考える毒(3)たとえば、
幼児は自分の意志を他者に押しつけたり、他者の考えを自分の考えと思いこん だりするのである。 3歳頃になると、身体の発達にともない、幼児の自己主張がまし、なんでも 自分でやりたがる傾向がみられる。これを抑圧すると反抗的態度をとるように なる。これが通常、3歳児の危機といわれるもので、両親からの自我の独立の 要求、すなわち主体性の主張と社会的役割を自分で担う試みを始めたことを意 味する。すなわち、主体性の意識と社会性の意識は対応関係がある。 幼児の社会性の発達は言語の習得とも関係する。幼児が話し方を学ぶということは、具体的には一連の役割を演ずることを学ぶのである。註(4)
また幼児の社会化の過程の特徴の一つは、遊戯、ゲームにおける模倣行為を 通じて、役割を採用することに他ならない。女の子はしばしば母親をモデルに してそれを模倣することによって女性の役割を学習し、男の子は父親をモデル にして、男性の役割を学習する。このように幼児は自分の役割を演じることに よって家族の一員としてのきづなを自覚すると同時に、自分と家族との関係、 自分の立場を了解し自分に一定の意味を与える。 このように自己と他者の関係が成立する時期が幼児期であり、この時期に対 人関係の原型が形成されるということは重要である。この対人関係によって自 4己と他者の区別が生れ、自己と他者の存在の意味が了解される。 幼児期の対人関係の形成は具体的には、幼児にとって最も身近な両親との関 係において、対人関係の原型が形成される。 「三つ子の魂、百まで」という格言は、幼児期に形成された性格というもの は、一生を通じて変らないという意味である。これと同じように、幼児期に形 成された対人関係の原型は、その人の一生を通じて深い影響力をもつものであ る。というのは、人間の精神的活動は原型となるモデルを必要とし、それを模 倣したり、あるいはそれに修正を加えたりして成長していくものである。この 意味において、幼児期に形成される対人関係の原型は一生を通して、反復され たり、模倣されたりするのである。このことは、ちょうど我々が幼児期におい て、すでに母国語の基本的ルールを学習しており、言語活動においてそれをつ ねに反復するのと類似する。 したがって、幼児期における対人関係の本来的なあり方が確立されねばなら ない。 周知のようにE・Hoエリクソンは、パーソナリティが健康に成長するため には、幼児期において基本的信頼感を獲得されねばならないとしている。基本 的信頼感は生後一カ年の経験から獲得される自己自身と世界に対する一つの態
度であり、自己自身と他者と世界は信頼に値するという感覚である苧(5)
この感覚を充足するためには、幼児期における家族の人間関係が十分な信頼関 係によって結ばれていなければならない。 エリクソンによって指摘された基本的信頼感とは、現象学的に考察するとど のような意味をもっているのだろうか。 まず第一に、この現実世界と他者が信頼に値するということにおいて、自己 が自発性として主体的に他者に係わることが可能となり、自己と他者の相互作 用が確立する。もし他者が信頼できない場合、あえて他者に係ることは自己の 破滅を招くかもしれないのである。信頼感のうちに、自己と他者の相互作用が 5確立し、相互理解が可能となる。安定したI恒常的な対人関係は相互の信頼関係 に基づいている。不信感に基づく人間関係は常に不安定で自己と他者の相互理
解を不可能にする。というのは、他者に対する不信感は、結果として不満およ
び他者に対する無関心に転じ、自閉的世界を構成する。信頼関係において、自己は他者に積極的に係わり、自主性、主体性が促進さ
れ、同時に社会化することによって人間的に成長する。 これに対し、不信感に基づく人間関係は、他者に積極的に係わることを不可能にし、他者の理解を困難し、自己は自閉的世界に停滞し社会化することを困
難にする、それによってもたらされるものは、自己の成長の停止である。相互の信頼関係において、自己が他者に信頼されるということは、自己が信
頼に価するものであるということを意味し、同時に他者の信頼に応答しうる責
任能力を自覚させる。相互の信頼関係においては、相互の主体性が尊重され、 責任感が自覚されるゆえに人格的応答的関係が可能となる。 しかしながら幼児の場合、自我が未発達で主体性が確立していないゆえ、責任能力が確立していない。したがって人格形成においては、主体性を尊重し責
任感を育てるように方向づけなければならない。人格形成はなによりもまず信頼関係によって基礎づけねばならない。この信頼関係を構成するものが愛で
ある。 幼児における基本的信頼感の獲得には、他者から信頼されているということ が重要である。他者から信頼されるということは、自己が他者の信頼に値する ものであり、このことはまた、自己が他者から尊重され、愛されることに値す るものである、という自己確認をもたらす。愛において信頼関係が成立し、自己は人格的主体性として他者との関係性を生きることが可能となる。愛におい
て自己は人格的存在として主体性を確立し、他者とともに成長する。愛は人格
的存在としての主体性を尊重することであり、それによって自己と他者は意義
あるものとして充実させる。愛は信頼関係を成立させるものであり、それによ 6って対人関係における相互作用はより安定し、充実し、恒常的なものとなる。 相互作用が安定し恒常的なると、自己と対者はより一段と親密なものとなり、 それによって自己と他者はその全体性において結ばれ、理解することが可能と なり、相互の存在感が充実し、自己実現が促進される。愛は自己を人格的、主 体的存在として、独自な存在として尊重すると同時に、自己と他者を結合させ、 自己と他者の相互作用を通して、他者との一体感(共感)と連帯感を生み出す。 愛は自己と他者を人格的存在として独立させると同時に自己と他者を結合させ る。 したがって、対人関係の本来性は、愛と信頼に基づく人間関係で、そこにお いては、自己と他者はともに、人格的存在として尊重され、各自の主体性は独 自なものとして尊重されると同時に他者と連帯しながら自己実現をめざす関係 性でなければならない。 したがって、幼児期に形成される対人関係は対人関係の原型であるため、対 人関係を通して幼児は愛と信頼感を獲得されねばならない。対人関係の原型は、 とくに両親との関係において形成されるため、両親にとっては十分な配慮が必 要である。幼児は身体的にも精神的にも全面的に両親に依存し、保護される立 場にあるゆえ、絶えず両親の関心と愛情を必要とし、それを獲得するために行 動する。極端な場合は、悪ふざけを試みてさえ自己に関心を向けようとする。 両親に愛されているという確信が自己に対する自信と信頼感を生む。また幼 児の行為の基準は両親の承認のもとにあるゆえ、両親の価値観を受け入れ、こ の価値観を通して現実世界と関係する。したがって幼児は、ある意味では両親 と一体化して家族共同体を構成し、さまざまな形で、両親の影響をうけている。 両親から愛され、信頼された幼児は、成長して他者を愛し信頼する能力を獲得 するであろうし、両親から愛されず、関心ももたれず、信頼もされないような 幼児は他者に対して無関心になる傾向性をもつかもしれない。愛と信頼に基づ く人間関係において人間は成長し、実已実現を達成する。 7
Ⅳ、自己と役割 これまでの考察から、自己意識は自他の区別から生じ、自己を知ることは他 者を知ることであり、かつ他者を知ることは自己を知ることである。すなわち、 自己理解は他者との生きた関係において理解されねばならない。かかる自己と 他者の関係性を生きるということにおいて、自己の全体性は形成され、自己実 現は可能となる。 この場合、自己の全体性の形成とは、自己が主体性として個別的な独自な自 己存在であると同時に、一方において他者との対人関係において自己は社会的、 共同体的存在であり、このような自己の独自性と社会性を実現することにおい て自己の全体性は形成される。自己実現とは、自己のあらゆる可能性、すなわ ち全体性を現実化することに他ならない。 自己が社会的存在であるということは、具体的には社会的役割を担うという ことであり、社会的役割を担うことによって、自己は自己の社会的場所を確保 し、自己の社会的意義を獲得する。 人間は成長することによって、さまざまな共同体に属するようになり、この 共同体の中で自己の役割を担うことによって、自己の存在の意義を見い出すよ う試みる。 たとえば、幼児は家族の中で自分のおかれた立場と役割を学習することにお いて、家族の一員としての自己を自覚する。さらに学童期においては、近所の 仲間や学校の仲間を通して、さまざまな役割が学習される。そして人間の成長 とともに、自己はさまざまな役割を担うことが可能となる。 人格的に成熟した人間は、さまざまな役割を担いながらしかも、それらを彼 の人格において統轄し、調和のとれた行動が可能である。 われわれの社会で一般的にみられるように、-人の人間が、家庭においては 彼の両親に対しては息子としての役割を担うと同時に、彼の子供達に対しては 彼は親であり、妻に対しては夫としての役割を担っている、また職場において 8
は、同僚としての役割、あるいは管理者としての役割を担い、さらに地域社会 においてはその他のさまざまな役割を担うことが可能である。このようにして、 対人関係において、自己はさまざまな役割を担っている。 ところで、ここで注目すべきことは、自己の担うさまざまな役割は自己の全 体性の規定された-側面でしかないということである。人間は人格的存在とし て諸可能性の全体性であり、役割を担うことによって自己の一部分を社会的存 在として規定し現実化する。現実の役割が自己の全体性の一部分であるという ことは、自己が可能性として新しい役割を担えるということを意味する。すな わち、役割とは固定化したものではなく、常に流動的で発展するものであり、 他者との創造的な関係性として理解されねばならない。 自己はさまざまな役割を通して、さまざまな顔をもつことができる。たとえ ば、家庭においては子供に対しては父親としての顔、学校という職場におい ては教師としての顔、というように。このように対人関係において特別な顔と か、特別な役割を担うことができるということは、社会的責任を遂行できる能 力をもつということにおいて重要なことである。しかし、これらの役割を固定 化し、形式的に演じると、人間関係が部分的で表面的な一義的対応関係になり 深みのない関係にとどまる。たとえば単なる教師と生徒、管理者と被管理者と いった職務上の機能的な関係に限定された人間関係においては深い人格的交流 は見失われてしまう。 また今曰のような合理化され機械化された現代社会や職場において問題とな っている人間性の危機とは、人間の存在価値が合理的な機能性のみに重点が置 かれ、人間の人格的な全体性が見失われているところに基づいている。極度に 合理化された職場においては、人間が単なる生産の手段、利潤追及の手段とし て、ある意味では道具的存在のレベルで取り扱われ、全体としての人間性を実 現するのを困難にしている。 自己は単なる教師、単なる管理者というように職務上の単なる機能的存在で 9
はなく、まず人間として、全人格的存在として存在する。したがって、対人関 係の本来的なあり方は、全人格的な交流でなければならない。というのは、自 己は人格的存在として自己の全体性の実現を欲するからである。自己は可能性 として自己の全体性であり、自己の多面性を特定の役割にのみ自己限定し、固 定的にしばりつけると不満が生じる。というのは、自己は主体性として自己を
規定すると同時に、この規定されたものを否定することによってさらに成長し、
発展することが可能である。したがって自己には、現実の役割の他に、未だ現実化しない可能性があるということについて配慮する必要がある。自分の可能
性を生かすような新しい役割を見つけ、それを自己の人格に統合することによ って人格の全体的な調和がもたらされ、自己がより生き生きと創造的になりう る。要するに特定の役割に限定せずに、真の自己を生かすためには、自己の全 体的、多面的能力を現実化すること、またそのための新しい役割をみつけると いうことは重要なことである。我々は既成概念で、固定的、形式的に役割を担 うのではなくて、自己の個性を生かすような仕方で役割を担うべきである。 ところで、自己がどのような役割を担うかということは、自己がどのような 自己像をもち、どのような事柄に対して関心と意義、すなわち価値観をもって いるのかということにもとづいている。それと同時に役割を通して自己評価 の問題と関係する。 M・アージルによると、自己像とは自我同一性と同義で、自己が自己自身をい かなるものと考えているかということであり、自己像の中心的核は名前、身体感覚、自分の身体についての印象、性別、年齢、職業、所属する集団といった
ものから構成される。註(6)
自己像の諸起源は、第一に自己に対する他者の反応、すなわち他者が自己を
いかに評価しているかということが自我像の一部を構成する。自己像の第二の源泉は兄弟、姉妹といった身近な人々との比較を通して自己の特性を見い出
す。自己像の第三の源泉は役割を通してである。註(7)ここで注目すべきこと
-10-は、自己像の源泉が、いづれも他者との関係性において理解されているという ことである。 他者の評価が自己像の一部を構成するということは、幼児の場合に顕著であ る。幼児の行動は両親の承認と評価のもとにあり、それによって幼児は自己に 対する評価と自己像を構成する。たとえば、幼児は両親の関心と好意を獲得す るために、両親の承認する行動を行動することによって賞賛され、自己存在の 意義を獲得する。その結果、幼児は自己に対する高い自己評価を獲得する。幼 児にとって両親から愛されるということは重要なことであり、価値である。 両親は幼児にとって、自分に対して意味と価値を与える存在であり、価値の源 泉である。 両親が子供に対して承認するような行動の基準には、両親の価値観が反映し ており、それはまた世間一般に通用している共同体や社会の道徳律や価値観 が反映している。したがって幼児は、両親を通して共同体の価値を実践するこ とによって、両親から賞賛され自己存在に対する意味づけがなされる。このよ うに、幼児は両親の期待に答えるような行動と役割を実践しようと試みる。 したがって、役割を担うということは、共同体の価値を担うというのであり、 それによって、共同体において自己は自己の社会的存在としての意義を確認す る。また自己に対する他者の評価とは、自己の社会的存在に対する評価であり、 自己がどのような役割を演じているかに対する評価である。それゆえ、自己が いかなる役割を担うかということは、どのような他者や共同体において、自分 の存在の意義をみいだすことができるかどうかに係わっている。換言すると、 自己の存在を承認し、自己の役割を尊重してくれる人々や共同体との関係にお いて自己実現は可能である。 要するに、自己がどのような役割を担うかということは、自己がその役割に 対し価値を認め、さらに他者がそのような役割を必要とし、尊重するという役 割に対する相互承認、ないしは相補的関係によって成立する。たとえば医師と -11-
いう職業は、医者自身が自からの職業に対して価値を認め、患者の存在を必要 とし、また患者の方においては医者の存在を必要とし、その立場を尊重する という関係において成立する。もし両者が両者の立場を承認し、尊重しなけれ ば治療行為は成立しないか、あるいは効果の低い結果となるであろう。 人間は、自己の存在を承認し、自分に好意を寄せる人々や共同体に対し好意 をもつものである。というのは、自己は他者の反応の中に、共同体存在として の自己存在の意味を確認するからである。我々は役割を通して、他者との相互 作用が成立し、それによって他者の中に自己を見い出し、自己の中に他者が生 きるのである。このように役割を通して、自己は他者と共感し、共同体存在と しての一体感を獲得し、自己存在の意味を確認する。自己が他者や共同体から 必要な存在として確認され、自己存在の意味が充実するのは役割を通してであ る。 したがって、たとえば他者から無視されたり、無関心の状態に置かれている 人々や、あるいは家族もなく、仕事もなく、特定の役割を担うことのできない 弱い立場の人々に対する配慮が必要である。というのは、自分の担うべき役割 が存在しないということは、自己の社会的存在の理由を見い出すことを困難に し、それによって自己評価も低くなるからである。 自己の社会的存在の意義は他者との関係性において与えられるものであり、 具体的には家族、職業、共同体において、いかなる役割を担うかに係っている。 したがって、共同体および社会に対し考慮されるべきことは、すべての人々に 社会的役割が与えられ、各自は各自の役割を通して自己存在の意義を見い出し、 自己実現が可能な社会構造でなければならない。自己実現が不可能な社会構造 は、不健康で不安定な社会である。 ここで役割と人格の構造との関係を、次のように要約することができる。す なわち、自己存在が社会的役割を担うことにおいて、自己を何かあるものとし て自己規定し、自己限定すると同時に、役割を自己の一部分として人格的存在 -12-
としての全体性へ関係づけ、統合しなければならない。自己存在は役割を担う
ことによって自己規定し、それを人格的存在の一部分を形成するものとして全体性の中で位置づけ、統合することによって豊かなものとして成長する。自己
が担うさまざまな役割は、人格的存在の本質的特性としての自己同一性におい
て、意味づけられ、規定されていなければならない。換言すれば、さまざまな役割は自己像によって、自分が担うのにふさわしいものとして規定され、人格
的存在としての全体性、統一性によって位置づけられると同時に、人格的存在
としての全体性を形成する。もし、さまざまな役割が人格によって統合されな いとすれば、-人の人間が演じる役割の数に応じて自己が無数に分裂して存在 することになる。 -人の人間は一生のうちに、さまざまな役割を担うものであるが、それらは自己の同一性によって規定され、同時に人格的存在としての全体性を形成する
ものでなければならない。したがって役割と人格の構造の関係は、部分と全体
の関係である。諸部分は全体を形成し、全体は諸部分を統制する。 V・対人関係の諸相人間存在の本質的構造に共同存在が属し、人間は他者との関係性において存
在する。そこで人間の自己実現の問題を他者との関係性において考察すること が可能である。ところで自己実現の問題は、まず人格的存在としての自己の全 体性を実現することであり、具体的には人間の基本的欲求としての生命活動の 維持と発展、さらにこの生命活動に対し人間的な価値を与え、究極的には独自性としての自己本来の可能性を実現することである。生命活動を維持し、発展
させようとする人間の基本的欲求は、これを充足させるためには、他者の労働 に依存しなければならず、それゆえ我々は他者と協同して生産活動に従事する。 経済的生産活動を通しての対人関係は、対人関係を構成する重要な要因である が、ここでは、省略することにしたい。 -13-対人関係を構成するものとして、次のような精神的要因が考えられる。すな わち人間の基本的欲求として、人は自分の考え方、態度、価値、信念の正当性 を他者の中に確認し、それによって自己存在を他者の中に確認したいという欲 求である。このことによって対人関係が成立し、相互の作用が成立するという ことである。人は自分の態度、信念、価値を承認し、うけ入れてくれる人や集 団に対して親近感をもち、好意をもつ。要するに自己の存在を認め、尊重して くれる人や集団に接近する。これに対し、自己を承認せず、自己に対し好意を もたない人々や集団に対しては、自己は自己の存在理由を見い出すことが困難 であるため、疎外感が生じ、これらの人々や集団を拒否するようになる。自己 は自己をうけ入れてくれる人々や集団において、相互作用を通して自己と他者 の相互理解を深めることが可能である。相互作用の増加によって、自己と他者 の相互理解が増加し、自己の全体性が理解され、自己受容と自己実現が促進さ れる。 自己と他者の相互理解は相互作用に比例する。たとえば、我々は見知らぬ人 々に対して、我々は相互に異邦人であり、相互作用が存在しないため、相互理 解もない。初対面の人に対して、我々は形式的な挨拶と形式的な話題、表面的 な態度において示されるように、自己の全体性をさらけ出すようなことはしな い。このような対人関係は、部分的、形式的、表面的関係であり、相互理解も 部分的で表面的、形式的な理解にとどまる。 友人、家族においてみられるように、相互作用の期間が長くなるにつれて相 互作用も増加し、自己と他者は相互に自己の全体性をあらわすようになり、相 互の理解が深まる。また、相互の作用の増加によって好意と友情が生れ、自己 と他者は類似した興味、話題、信念、意見をもつようになる。逆に、趣味、興 味、価値、信念が類似する人々において対人関係が成立し、相互作用が増加し 相互の親近感を生み出す。このように相互作用に基づき類似性と親近性によっ て自己と他者は共感と一体感を経験し、自己の中に他者が生き、他者の中に目 -14-
己を確認する。 ところで自己と他者がその全体性において理解することが可能であるために は、自己の全体性をさらけ出してもよいような相互の深い信頼関係が成立して いなければならない。人間は単に人間としての長所だけでなく、人間的な弱さ や、醜い側面も有するからである。ここで他者を信頼するということは、他者 をその全体性において自己受容すること、すなわち人格的存在として尊重する ことである。既にのべたように人格的な対人関係の基本としての信頼関係は、 自己が信頼に価するものとしての基本的信頼感に根ざしている。 基本的信頼感とは、また次のことをも意味する。すなわち、自己は諸能力や 長所・短所をもちながらも、これを全人格的存在として自己受容しえるという ことである。自己が自己の全体性を人格的存在として引きうける、ということ である。自己が自己の全体性を自己受容するということは、自己存在の肯定で あり、自己を愛するに価するものとしての承認である。自己の存在をうけ入れ、 自己を愛することのできる人が、他者の存在をうけ入れ、他者を人格的存在と して尊重し、愛することができるのである。幼児の場合は、主として身近な人 々に、特に両親から愛されることによって生きるのである。成熟した人は、自 己を愛し、他者を愛することによって自己存在の意義を見い出す。人間は愛に おいて、自己と他者の全体性を自己受容しうるのである。愛は人格的存在とし ての全体性の肯定であり、自己存在をその全体性において受容する能力である。 したがって自己実現の可能性の制約は愛である。 愛は単に他者と自己を融合し一体化して自他の区別を解消してしまうのでは なく、むしろ自己を人格的主体として確立すると同時に他者を他者として、人 格的主体として確立する。愛において、自己と他者は結合し、一体化すると同 時に、自己と他者は独自の人格的主体として確立されねばならない。したがっ て、対人関係の本来的関係は、自己と他者の全人格的交流を通して、他者と連 帯し、それと同時に自己の主体性を確立し、本来的自己の実現をめざすもので -15-
なければならない。愛は自己と他者を結合させると同時に、自己を人格的主体 として、他者とは交換不可能な独自性として、他者から分離させ、独立させる。 人格的に独立した主体と主体との関係において、始めて「我と汝」という人格
的な応答的関係が成立する。註(8)人格的な応答的関係において、自己と他者
は各自の独自性を承認し、本来的な自己存在の意義を相互に確認することが可 能となり、それによって自己存在は充実し、自己実現が可能となる。 現実の対人関係にみられるように、もし自己が主体性を確立せず、したがっ て明確な自己像をもたず、確固とした信念もないまま他者と関係する場合、自 己は他者に影響されて自己を見失うか、あるいは誰にでも迎合し、同調して自 己を拡散し、自己を喪失する。 また対人関係における事実性として、他者の主体性と自由を否定し、他者を 自己の欲望の手段としてのみ取り扱うような傾向性が存する。たとえば、現実 社会においては、強者が弱者を自己の欲望達成の手段として取り扱うような非 本来的な対人関係が存在する。ヘーゲルは『精神現象学』において、自己意識 の自立性の承認をめぐって、主体と主体において生存を賭けた闘争が生じ、その結果、主人と奴隷という関係が成立することについて考察している。註(9)
サルトルは暴力によって他者の主体性と自由を奪い、それを我がものとしよ うとするサディズムや自己の自由と主体性を他者にゆだね、他者の欲望の対象・ 註00 手段として取り扱われることを望むマゾヒズムについての分析を試みている。 ヘーゲルの主人と奴隷の関係、サルトルのサディズムとマゾヒズム、こ れらの考察は現実の対人関係において、主体と主体の間における闘争で力の強 いものが支配するところの非本来的関係である。強者が弱者を支配する非本来 的対人関係においては、人間は自己の欲望を実現するための手段として、他者 を物件のレベルで取り扱っている。 ところで物件と人間の相違は、物件が事物性として人間の欲望を充足する単 なる手段として取り扱うことができるのに対し、人間の本質は人格的存在とし -16-て存在し、このことが人間の尊厳性の根拠となる。人間は人格的存在として主 体性であり、自己実現を目的とする価値志向的存在である。人間は生物的に単 に生存するだけでなく、この生存することに有意義性を求めるものであり、こ のことが自己実現へと方向づけるのである。したがって、人間の尊厳性は人格 的存在として価値的世界を担い、かつ価値を創造し、自己実現を目的とすると ころに存する。「君は君の人格ならびにあらゆる他人の人格における人間性を 常に同時に目的として使用し、決して単に手段としてのみ使用しないように行
為せよ。」註⑪このような、カントの道徳律は地域と時代を越えて、すべて
の対人関係において妥当し、かつ遵守すべき普遍的原理である。本来的な対人 関係においては、自己は他者とともに人格的存在として相互の自己実現を目的 として交わるのである。 Ⅵおわりに 人間は人格的存在であり、人格の全体的発達によって自己実現は可能となる。 本稿においては、人格の発達を対人関係において理解しようと試みた。これま での考察を要約すると、自己認識は他者を認識することにおいて成立し、自己 の社会性は役割を通して実現する。役割遂行において考察すべきことは、役割 を固定化せずに、自己の可能性と全体性を実現するためには創造的な関係をつ くりあげねばならない。自己実現とは、自己の可能性と全体性を実現すること であり、本来的自己の創造である、それは愛にもとづく全人格的交流によって 他者とともに実現されねばならない。このようにして、人間は対人関係を通して成長し、成熟する。対△関係にお
いて肝要な点は、心にゆとりをもって、欠点や弱さをもっところのありのまま の全体としての自己を認め、受け入れることができ(自己受容)、他者もその 全体性において受け入れ、自他ともに人格的存在として自己実現を目的とする ものとして尊重することによって、自己存在の意義を確認することである。 -17-人格的存在としての応答的関係において、自他ともにかけがえのない独自な存 在であるという有意義性の確認によって、自己は情緒的にも安定し、現実世 界に対する関心や周囲の人々と生き生きとした共感をもつことが可能となる。 このように自己が人格的存在として尊重され、自己実現が尊重されるような人 間関係と社会構造においてのみ自己実現は可能である。 これに対し、人間が人格として尊重されず、自己実現が尊重されない人間 関係や社会構造においては、人間は自己の目的と意義を見失い、他者や現実社 会に対して無関心となり、自閉的となり、自己実現を困難にする。したがって 自己実現の可能性の制約は、愛にもとづく他者との全人格的交流にある。愛に もとづく全人格的交流というこの命題は、現実世界においては、伝統的な実践 的原理として曰常生活に浸透し、ある意味においては常識的真理として確立し ていると言える。しかしながら、我々をとりまく今日の社会状況はすべてにお いて合理化され機能化されており、人間関係も希薄になって、全人格的な交流 を困難にしている、その結果、多くの人々が対人関係における自己存在の意義 を見失い、自己疎外感を抱いている。それゆえ、一層このような常識的 で普遍的な真理の意義を再確認し、現実世界で実践しなければならないとい うことでこの小論を終えることにしたい。 なお、労働を通しての自己実現の問題は、自己実現を成立させる基本的問題 であるため、今後の研究課題としたい。 -18-
註
(1)G・W.F・Hegel,GrundlinienderPhilosophiedesRechts,§182~
§190参照PhilosophischeBibliothek.S166~170 (2)M・ポンテイ,滝浦・木田訳「幼児の対人関係」「眼と精神』所収 みすず書房昭和43年版P140 (3)M・ポンテイ,前掲書「幼児の対人関係」参照 (4)M・ポンテイ,前掲書P121 (5)E・H・エリクソン,小此木啓吾訳『自我同一性」誠信書房1984年版P61 (6)M・アージル,辻正三・中村陽吉訳「対人行動の心理」誠信書房昭和58 年版P、157~159 (7)M・アージル,前掲書P、160~162 (8)M・Buber,IchundDu,VerlagJakobHegnerinK61n マルテイン・ブーパー,植田重雄訳『我と汝』岩波文庫版1980年版参照 (9)G・W.F・Hegel,PhhnomenologiedesGeistes,PhilosophischeBi‐ bliothek.S、141~l50 ヘーゲル,金子武蔵訳『精神の現象学」岩波書店ヘーゲル全集4.上巻, 1982年版Pl83~197 ⑩J・サルトル,松浪信三郎訳『存在と無』人文書院サルト全集第19巻 昭和43年版,第3部P、316~422 0,1.Kant,GrundlegungzurMetaphysikderSitten,A429.Philosoph-ischeBibliothekS52 参考文献 0.F・Bollnow,Existenzphielosophie,W・KhlhammerVerlag,1969 K.Jaspers,PhilosophieⅡExistenzerhellung,Spriger-Verlag,1956 E・フッサール/A・テイミエニエッか谷征紀訳『現象学と人間性の危機」 御茶の水書房1983年 -19-W・ルイペン,菊川忠夫/丸山敦子訳「現象学と人間の回復』イザラ書房 昭和53年版 A・H・マスロー,上田吉一訳『完全なる人間」誠信書房昭和58年版 A・H・マスロー,佐藤三郎/佐藤全弘訳『創造的人間」誠信書房 昭和57年版 R・D・レイン,志貴春彦/笠原嘉訳「自己と他者」みすず書房1980年版 M・ポンテイ,竹内芳郎/小木貞考訳「知覚の現象学」みすず書房昭和42年版 詫摩武俊・依田明編著『家族心理学』川島書店1972年 木村敏『分裂病の現象学」弘文堂昭和53年版 新田義弘・宇野昌人編『他者の現象学」北斗出版1982年版 瀬谷正敏『対人関係の心理」培風館昭和57年版 上田吉一『自己実現の心理」誠信書房昭和58年版 足立和浩「人間と意味の解体』勁草書房1979年版 現代思想,特集=分裂病の人間学,青士社1980年9月号 -20-