熊野川河口域の祭り - 信仰環境論の視座から -
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(2) 言者 である。こうした状況 の中で、現在、熊野川右岸に. 浮島」は その証 .氾 濫原を形成していた。新宮市内の 「. 新飯 山」(飯盛山)がある。河原と接する疎林 うべき 「. と、その端に「御船島」 があり、千穂 ヶ峯の端山ともい. ことに気 づく。千穂 ヶ峯を 中心として北々西の線を 見る. を新飯山とする見方もあるようであるが、その形状から. 位置 する 丹 鶴 山・ 蓬莱 山は 島を な し て いた と 考 えら れ る 。現在も、その景観は残存 島嶼としての特色を 強く示. 望は飯盛山という 呼称の妥当性を実感させてくれる(写. 新飯山と見てまちがいなかろう 。新宮市南檜杖からの眺. 直流しようとす. 真②)。. するのは一般 的な現象 であるが、千穂 ヶ峯 の新飯山が形. 河川の曲節 点に突 出する岬状の山崖 の先に砂 碩が発達. る熊野川の流れ. は、熊野川河口. 碩が、御船島・ 新飯山・ 千穂 ケ峯を 結 ぶラ イ ンの上にお. 乙基河原」と呼んでい いて最も発達しており、 ここを 「. 成する曲節の場合は特に それが顕著であり、その広い砂 る。千穂 ヶ峯 の. ものであり、じつは、千穂 ヶ峯の景観 も、 この乙基河原. る。写真③ は、乙甚河原から新飯山・ 千穂 ヶ峯を望んだ. 仰空間の要であ 山頂を中心とし. 何よりも重要なことは、御船 島↓新 飯 山↓千穂 ヶ峯、 と. 船島と、千穂 ヶ峯の重なりを示すものである。そして、. 島や 山を 結ぶ視点は、漁民が、魚礁に対 する舟位確定 の. からの眺望が最も美しいのである。また、写真④ は、御. の直線上に河口. ために行う「 山当て」に通じる ものであり、後述する、. 南々東に直線を. 信仰を支えた聖. 熊野速玉 大社の御船祭りにおける信仰空間設定は、この. 平地の人びとの 地が並ん でいる. ▲写真①. 引くと、ほ ぼそ. て、北々西 から. 平地における 信. を遮る 千穂 ヶ峯. 蓬莱山遠望、右彼方は千穂ヶ峯の山塊。. --. -·-. 海に向かって. して、標高約一 00認 の、いわ ゆる飯盛型をなす端山を. �厠` - --. �- --. し—― - ―--. -一• 一. - --. - 50 -. している(写真①)。. パ. 口. 野本 熊野川河口域の祭り.
(3) ま南々東に延長すると、その延長線の上に、神倉神社が. さて、御船島↓ 新飯山↓ 千穂 ヶ峯と結んだ線を そのま. 山当て的視点と深く かかわっているということである。. スよく持っていることになる。 『 熊 野権現御垂 跡緑起』. に神倉山(実質 的聖地は南々東のゴトビキ岩)を バラ ン. 穂 ヶ峯は、 その主峯を 中 心に、北々西 に新飯山、南々東. ⑱) 。こうして みると、通称 権 現山 と も 呼ばれて いる 千. ▲写真② 右千穂ヶ峯、中央丸山が飯盛山、 河原は尾友の曲流点. ↓ 新飯山 は、先に述 べた、御船島. 上 に 並 び (⑮ ラ イ ン)、 そ の 線. となり、第1図の通りほぼ直線の. 賀神社(蓬莱 山)↓ 石淵 (矢淵 ). と、 神倉峯(ゴト ビキ岩)↓ 阿須. 座の 聖なる伝承地点を結んでみる. 口平 地における熊野権現の顕現遷. 言われている。ここに、熊野川河. の、矢淵 の貴弥 谷神社の位置 だと. (賀)の社の北の石淵 谷は、 現在. 伝 承 も あ る。 こ の 中 の阿 須 加. に、 阿須 賀社にも鎮座したという. 新宮、と座を 移されたとあり、別. 阿 須 加の社の北石淵谷↓ ®本宮®. 鶴羽峰 ↓ 紀州玉 那木渕↓ 神倉峯↓. によると、熊野権現は、九州彦山↓四国 石鎚↓ 淡路国 遊. あり、 「 ごとび き岩 」があることに気づく(第1図®ラ. イ ン)。 ご と び き 岩 につ い て は 後 に詳 述 す る ( 写 真⑰. ▲写真④ 御船島と千穂ヶ峯. ↓ 千穂 ヶ峯↓ ゴトビキ岩、の 線を. - 51 -. 1990.6. 2巻1号 文学・芸術・文化.
(4) 信仰空間において、ゴトビキ岩がいかに重要な信仰核で. 十字に交わ ることになる。このことは、熊野川河口 部の. ものだとする見解 もある。鵜殿衆と船とのかかわ りは強. は神武天皇 を案内した八処鳥の子 孫だとする考えを示す. 浦」と記した峨を立てるのは、鵜殿の人びとが、自分達. 野速玉 大社御船祭りに際 して担当する諸手船に 「 鳥止埜. (l). 山・千穂 ヶ峯 がいかに重要な聖地であるかを示すことに. あるかを物 語るもので あり、そのゴトビキ岩を抱く神倉. く、熊野川上流部の船魂神社とのかかわ りもその証左の. 集』に歌われた 「 真熊野の船」にまで遡源できるのかも. ―っ となる。そして、その鵜殿衆の力の淵 源は、 『万葉. (2). なる。. 熊野川左 岸河口部矢淵 (鵜殿) から蓬莱 山とゴトビキ. 熊野権現顕現遷座伝承の中に、神倉峯 •蓬莱 山といっ. しれない。. た聖地から隔絶された、熊野川対岸の鵜殿の地を入れな. 山当 て 」 岩を結 ぶ視点は、先にもふれた漁民 ·船人の 「. 慶長の役 には秀吉の求 めで舟を出し、江戸時代には紀州. 点であり、鵜殿衆は、南北 町時代は南朝 を助け、文禄・. け れば な ら な か っ た 必 然 性 は 、 右 に 述 べた 「鵜 殿 衆 の. - 52 -. の方法によるものである。鵜殿は熊野水軍を代表する拠. の材木を江戸に運ぶなど広く海で活躍したと言わ れ、熊. のではなかろうか。彦山・石鎚• 神倉など、遷座伝承に. カ」「熊野海民の力」 「船方の力」「漁方 の力」だった. 登 場 す る 聖地は いず れも 修 験 道 と 深く か か わ る 地で あ. る。鵜殿は遷座伝承が成立した時代、遷座伝承を管 理す. る修 験 者 を吸 引す る 力を持 っ て いた の で あ っ た 。 それ. 熊野権現は石淵 からさらに、現速玉 大社と本宮大社の. は、海を制する力であり、経済力でもあった。. 社地に勧請 されたとも伝えられるのであるが、遠く熊野. 川上流部に 鎮座した理由 を遷座伝承によって考えれば、. 石淵 即ち鵜殿を基点とする時、その一っ は水源祭祀場の. 乙基河原から千穂ヶ峯 を望む。 ▲写真③. 野本 熊野川河口域の祭り.
(5) 文学・芸術・文化. 2巻1号. 回廿逹涸一淫 , 1 : 50 000 (12% ). - 53 -. 1990.6.
(6) その活躍が可能 になるのであり、その意味で、鵜殿衆の. 熊野海民を代表する鵜殿衆も、優れた船があって初めて. と深くかかわっていたことも想定 される。船を駆使する. ることから、新宮の御船島と相まって、本宮が船の祭り. あった。 熊野本宮大社旧 社地が大斎原という川中島にあ. 点を 奥地に持つに至ったことを想わせるのである。良港. て熊野海民によって熊野信仰が支えられ、やがて その拠. は、はじめ、田辺・権現島・鵜殿といった海辺部におい. 根拠地の、河川潮上的展開を示すものである。このこと. 上流部へという骨子 を内在させており、それは熊野信仰. ある。 それらの伝承の構造 は、海から山へ、河口部から. 島とも)に天降られて後に新宮に移られたという伝承が. 眼と関心は常に豊かな材木の宝庫 である上流部に向けら. というべき入江を 持たない鵜殿が熊野海民の一大根 拠地. 島港の北西 一五 〇屈の位置 にある権現島(堂島とも人形. れていたのであり、船材を運 ぶ水の道、即ち熊野川の流. になり得たのは、海につながる山中からの太い道として. り、舟木を運 ぶ道としての川の祭祀場を定めることでも. れや 川舟•筏衆もまた鵜殿衆の力の範囲であった。道と. の熊野川をおさえ、それによって奥地の船材をおさえて. 確保であり、また、舟木をもたらす山の祭り場卜定 であ. しての熊野川の力については近代まで続いた筏や ダ ンベ. じて海から山へ、河口部から上流部へという矢印 で語ら. いたからではあるまいか。 熊野権現の顕現遷座伝 承が総. 熊野権現顕現遷座伝承の一っ として、鵜殿↓本宮、即. れるのは、海民の、船材を恵む 奥地への眼ざしによって. 舟の民俗 によって実証できるところである。 ち、河口部↓上流部•海浜部↓山間部といった動きを確. 支えられていたからではあるまいか。. で、山里へ移った。と ころが、そこでも滝の音や 松風に. が 、 海に 近く 、 岸に打 ち 寄 せる波 の 音が や か ま し い の. う。 熊野川河口部における熊野川・相野谷川の合流点に. 川 ・ 雲 畑 川 の合流点 に 祭 ら れて いる と い う事 例 であろ. のであり、 その典型は、京都下鴨の賀茂 御視神社が高野. 合流点尊崇の信仰心意はわが国 においては一般 的なも. かめたのであるが、他にも注目す べき遷座伝承がある。. うんざりして、たった一日 滞在しただけでまた旅立ち、. 牛 鼻神社が祭られていることについては先にふれた。牛. 「 本宮の神様は、もと権現平(田辺市)に鎮座して いた. 音無しの里(本宮町)を さがしあて、そこの音無しの里. 鼻神社は合流点を守る水神的な性格を帯びており、合流. 3) (. を 永 住の地と決めたという。」また 別に 、 熊野権現は 大. - 54 -. 野本 熊野川河口域の祭り.
(7) て競漕に入ったという伝承を踏まえ、これから上流が聖. 宮家. 準氏 は、かつて亀島の位置 から早船の腿がとかれ. 点の 前 に ある 亀島も その 意 味 で重要 である( 写真⑤ )。. べきものであった。. 力はもとより強大であったが、支流相野谷川もまた恐る. 川の氾 濫は最も畏怖すべきものであった 。熊野川本流の. にもかかわらず相野谷川および合流点が重視される理由. 域であったかもしれないと仮説している。小支流である. かという謎が解 けてくる。速玉 大社の社地は、熊野川が. 野川を背にした極めて危険 性の強い地に鎮座しているの. さて、こうしてみると、熊野速玉 大社が何ゆえに、熊. (4). は、相野谷川の. ぐって現新宮市内に流入しようとする重要なポ イ ントに. あたる。 現新宮市街の平 地を、熊野川が形成した小型の. 相 野谷川 を 合 わ せて水勢 を 増 し 、 千穂 ヶ峯の 山 裾 を め. それが、 現、熊. 地を拓いた人々や 耕地を強大な熊野川の氾 濫から守るべ. の地となる。プレ熊野速玉 大社はまず 、熊野川河旦 扇状. 新宮市内に達し. 扇状地に見たてると、熊野速玉 大社の社地はまさに扇要. ていることにか. 現顕現遷座伝承の中で、神倉峯 •蓬莱 山•石淵 などに比. き熊野川水霊祭祀の場だったのではあるまいか。熊野権. 野速玉大社々叢. かわる。 土木工. の上を通り、現. 長してみると、. 一• "·. た人びとにとっ. 田畑 を作り始め. 濫原を開拓して. 代、熊野川の氾. 事力の未熟 な時. なかろう。. 環境 論的に見て、極めて重要な地であることはまちがい. もできよう。ともあれ、熊野速玉 大社の鎮座地が、信仰. 場に重層するという経過をたどったからだと考 えること. が、いわばプレ速玉 大社とも言うべき熊野川水霊祭祀の. し て、 その 鎮 座が遅 れ る とさ れ て い る の は 、 熊 野 権 現. 王子 ヶ浜は熊野川右岸河口部の人びとにとっては重要. て 、 く り返 し 襲ってくる熊野. - 55 -. 流路を 真直に延. - -..-.!..-.. ▲写真⑤ 筍島. 1990.6 2巻1号 文学·芸術・文化.
(8) 浜で神馬の浄めが行われる。 また、二月六日の御燈 祭り. であるが、十 月十 四日、速玉 大社の祭りに先立ち、この. な浜であった。地引網など生業 面での重要さはもちろん. る祭であると思 っ。 そして、この二つの祭は相互に関係. えて行う秋の祭であり、御燈祭は春に山の神を里に迎え. 次氏 は、 「 御船祭は川を渕って来臨する神を新飯山に迎. 演す る 祭 儀 であっ たろう。」としている。 また、 倉林正. いる。. 7) (. 」 とし て ると思 っ。即ち 田 の神去 来の類型を 考 えたい。. のない祭ではなく 、たがいに深い関聯 で結ばれた祭であ. に先立ち 、 登 り子 たち の 楔 ぎ が こ の 浜 で 行 わ れた。 王. 子 ヶ浜 は楔ぎの浜だったのである。 ニ・熊野川河口域の信仰土 壌と御船祭り. 準氏 は、十 四日の神馬浄めを、 「 海上の神霊を. 神幸の案内をする神、渡御の安全をはかる力をもった神. 迎える神事」とし、阿 須 賀神社から招かれている神は御. 宮家 1•熊野速玉 大社御船祭り既説概略. 霊、 八閉 鳥を神格化した建 角身神だとし、「 速玉 大神や. 十 月十 六日に行われる熊野速玉 大社の御船祭りは勇壮 で変化 に富 む 祭 り と し て 広く 知 ら れて いる が 、 実際 に. 夫須 美神が御船島や乙基河原に 渡御するにあたっては、. 神を招いて、 その守護と先導を依頼しているのである。. 阿 須 賀神社にまつられている八閲鳥を神格化した建 角身. ………私はこの御船島及び乙基の仮宮での秘儀を、孝昭. 御、十 六日の御船祭りと連続してくり広 げられる行事の 一部である。 そして、本来、この祭りは、旧 暦の九月十. 天皇 一十九年 の九月十 五 日に伊排 諾 尊(速玉 大神)、十. は、それは、十 四日の神馬浄め、十 五 日の祭式 •神馬渡. 祭りについては既に先学の詳 細な報告 •多角的な考察が. 五 日・十 六日を中心に行われていたものだという。この. 六日に伊眸再尊(夫須美神)が、この乙基の岸に出現さ. 5) (. 行われているので、ここでは、祭りの十 五日分の展開に. れたという新宮に伝わる神話をドラ マとして再現してい. 黒田 一充 氏 は、阿 須 賀神社の中心性を検証しながら次. ついては第1表に要約し、諸説についてはその主なもの. に示す 『 紀伊続風土記」の記述をふまえて独自な説を展. るものと捉えてみたいのである。 」と述 べてい る。. 熊野神がこの地 小林茂美氏は、この祭りの中軸は、 「. の要点を示し、 その後に私見を加えることにする。 に来臨、鎮座した由来に基づき、その次第を儀礼的に復. - 56 -. 野本 熊野川河口域の祭り.
(9) ( 9). 開する。. えられていたならば、当然 お籠りの場所も島上に設けら. 場所である。したがって、それは川原に設けられる。や. れなければならないが、いつ大水が出るともわからない. がて信仰が次第に盛んになると、社殿を設けて大きくす. さて此新宮の神事の中 に、毎 年十一月十五 日新嘗祭あ を 撞 く時、 神官 ・ 相 野祢 宜等 南楼 門 を 出 て 二 手 に 分. りもさらに下流の川原の方が広い場所をとることができ. る必要が生じる。 そうなると、御舟島や その前の川原よ. り。其式は同夜子 刻、中 御前の霊を拝する式卒りて鐘. 献し、祝詞を申し、諸手舟に乗りて当社の後岸に著す. る。 こ うし て、物 忌 みの建 物 が だ ん だ ん 大 き く な っ て. れ、一は直に当社に至り、一は御舟島に至りて神供を 舟は宵の程川原に出しおきたるなり。此時鍋割島とい. いったのが、後の速玉 社ではないだろうか 。 」. 料•口頭伝承をふまえての比較考 察という点では先学の. ところが多い。祭りの微 細な観察と詳 細な報告 、文献史. いず れも魅力的な分析視点を含ん でおり、教えられる. ふ海中 の巌上にて鍋土 器等を割り、夫より社前にて、 を田 植神事といふ。按するに、是は本社飛鳥大神に預. 業 績は極点に達しているように思われる。いまここに先. 牛を呼び来り、耕す真 似、籾を蒔くまねひ等 あり、是 れるにはあらて、並 宮保食神の御霊賜 はりて明年の豊. からする大まかな仮説を示し、信仰の複合性について述. 学の駿尾に付して寸言するとすれば、信仰環境 論の視座. 作を祈るにて、即新宮の祈年祭なるべし。 (『 紀伊続 風土記』巻 八一. る。 それでは、九月から十一月の ニヵ 月間は何かという. 月の 祭 礼 に お いて は 、 『還 御な き神 幸 』 と な る の で あ. て来るのが、十一月の祭礼なのである。したがって、九. 威からイ エ・ ムラ ・耕地を守ることであった。中 小河川. 人びとにとって、最も切実な問題は、熊野川の氾 濫•猛. 前節 でたしかめた通り、熊野川河口部に住んだ原初の. 2 • 熊野川その荒ぶる水霊の鎮め. べることしかない。. 新宮城下 •上能 野地飛 鳥社) 「 その後 祭場(御舟島と乙基川原)へ 向けて、阿 須 賀. ことになる。この祭りは、基本的には収穫を感謝する新. の場合は直接的な水源祭祀によって荒ぶる水霊を鎮める. 社から神霊が赴く行事が九月の祭礼である。 そして帰っ. 嘗の祭りであろう。 ………御舟島が神の降臨の場所と考. - 57 -. 1990.6. 2 巻1号 文学· 芸術・文化.
(10) の場であったことはその地形から明らかであり、相野谷. れた通り、熊野速玉 大社の現社地が古く熊野川水霊祭祀. も河口域においては水源祭祀は容 易ではない。先にもふ. が長い時の流れの中でいかに人びとを苦しめてきたかが. こうした記事により、熊野川およびその河口部の水害. 水コ ス町二水入ル 子 供十一人女五 人流ル王子 モ流 レ. ⑧享禄十辛丑八月十 日大風吹大洪水本宮入水新宮石階. 垣ノ大楠倒し水中二入ル. 川 と の 合 流点 に 牛 鼻 神 社 が 祭 ら れ 、 相 野 か ら 「 相 野 祢. ことが可能 であるが、熊野川のような大きな川の、しか. 宜」 が出て速玉大社の祭りを支えたのもその発生時点 に. よくわかる。明治二十二年の洪水によって熊野本宮が決. ( 11 ). おいては水霊祭祀と無関係 ではない。. 定的な打 撃を被り、旧 社地大斎原を 去 り現社地に遷座し. 「熊野びとを 主体とした信仰」ではなかった。これまで. 野」「外からの眼ざし」であり、決して「内なる熊野」. 高からしむるものではあったが、それは、 「外からの熊. 熊野御幸」も「 蟻の熊野詣 」も、信仰上の熊野の名を 「. 野 川 の 水 霊 祭 祀 が 存 在 し た こ と を 忘れ て は な ら な い 。. たことは広く知られているのであるが、熊野信仰の基層. 熊野年代記』に収載される熊野川河口部の水害にか 『. をさぐる上で、叙上の、熊野川の猛威、その根源たる熊. かわる記事の主要なものに、次のものがある。 新宮社. ①欽明廿 八丁 亥九月熊野洪水本宮社壇駒犬流. 壇二水浦々悉流. ②宝亀九戊午 新宮川原家始十一軒立 八月大水皆流ル人. 死有 是ヨリ 中絶 ③承和十 一甲 子 新宮川ロ一夜内砂 山卜成入津止三 日川. 満 ツルコトニ丈. らすれば、熊野川流域に暮らすものにとって、第一に祭. びとの暮らしからの視座」であった 。熊野びとの視座か. の熊野研究の大きな欠落視点は、「内なる熊野」「熊野. ⑤承徳 尤丁 丑熊野洪水谷々ヨリ螺出山崩. られ、鎮められなければならなかったのは熊野川の水霊. リ民 屋悉崩降雨如石. ①貞元元丙子 八月熊野大風雨雷光物 甚三 山ノ社堂ヲ破. ⑤安貞二戊子 六月本宮橋 流ル新宮東ノ方二水入田畑 流 レ. 祭祀場と想定 されたことは先にもふれたが、遜莱 山の麓. だったのである。プレ 速玉 大社が、地形からして、その. の応永 士 二丙戌 八月大風洪水七人衆ノ川船九艘 流宮石. - 58 -. 野本 熊野川河口域の祭り.
(11) の阿須 賀神社もまた、 そうした性格を兼備していたとし. う記事 、並 びに、 『 熊野年代 記』 弘安十年の、飛鳥の長. 元年の、 「 熊野川に大鮫があらわれて人を殺めた 」とい. 『愛徳山縁起』の、大鰐にのまれた素蓋嗚命を 阿須 賀大. 床(修 験 ) が こ の 大 鮫を 切 っ た と い う 記事 、 さら に 、. ても不思 議はない。 速玉大社から最も近い場にある水源祭祀的場はいうま. 明神が助けた話などをふまえ、飛鳥の神、 あるいはそれ. でもなく御船島である。川中島である御船島に、その川 の水霊が坐すと考えるのは当然 のことである。水源祭祀. に奉仕する修験者 が熊野川の主である鮫あるいは鰐を統. 熊野年代 記』 から関係 記事を て重要である。以下に、 『. 熊野川の川主伝承は、熊野川の信仰を考える上で極め. 御する力を持っていたと述 べている。. 祭られるべきものであり、御船島と 千穂 ヶ峯 の中間にあ. 熊野川の流れを 一時的に遮断する千穂 ヶ峯の山塊も当然. • 水霊祭祀の視点で見れば、前節 でふれた通り、強大な. る乙基川原は、原初的にはまず、熊野川の水霊祭祀• 水. 弓. ヽーノ. V. 源祭祀の場として極めて重要な場であったということに. ア承和 十 三丙寅 新宮川口大鮫入為川主 x. 力嘉 吉 二壬戌 八月廿日 ヨ リニ五日 マテ大風雨仮殿宮殿 c 廻廊悉破 崩 大洪水庵主堀 内二水入南ノ山ヨ リ螺出川. ヽ j. オ弘安十 丁亥飛鳥長床海中ノ大鮫ヲ切此時 八月十 月二 c 至ル マテ入津止. x工承徳元丁丑七月熊野洪水谷々ヨ リ螺出山崩. 川ロヲ三日祭 ). ウ承 暦元丁巳新宮川口 二大鮫入二十日 ヲ 経 水 三尺上ル c. ノ ー ヽ. 川 ロヲ祭ル. イ承保 元甲 寅神倉大馬産田牛 鼻小社各成就 一山ノ僧徒 c. 一. なる。水源尊崇の眼ざしは、速玉大 社↓御船 島↓千穂 ヶ 峯↓大 斎原 II 熊野本宮と潮上してゆくのである。 熊野年代 記』孝昭廿九甲 午に 、 「 九月十五日 十 六日 『 也 卜云々」 という記事が見える。乙基河原がこうした伝. 新 宮乙基河原 仁貴男貴女顕給是伊排諾 尊伊眸再尊ノ霊魂 承の舞台となるのも、この地方において、すでにこの河 原に聖地性の土壌があったからである。. 準氏は 、 『 熊 熊野年鑑』の承和十三年にある 「. 3 • 河 口閉塞と河口の神 宮家. 野川に大鮫が入って川主となった」という記事、 同承 暦. - 59 -. 1990. 6 2巻 1号 文学 ・ 芸術・文化.
(12) ロ ニ入川口七 ツ ニキレ ル雷落ち小島ヲ崩 シ流 ル前代. 螺即ち巨大な ホラ 貝であるとしており、その形状は螺旋. 状に山土をえぐる力を連想させ、強烈な ホラ貝の音は山. 崩 れのおそろしい音を 連想させるのである。さらに注目 ー ‘ すべきは、 力において 、山崩れを起こし た ホラ 貝が川口 ( に至って川口を七つに切ったとしているところである。. この叙述 は、山崩れの土砂 が川口に至って、川口 の津の. 機能を破壊することを象徴的に語っていることになる。. に、熊野川河口 においては土砂 流出によって河 口閉塞状. の満 つる こ と 二丈になった記事は先に示した。このよう. 積して船つき場に船が入れなかったことを示している。 ノ ヽ また 、 アに先立つ承和十一年に、新宮の川口 が一夜のう ( ちに砂山となり、津に入るを止む ること 三日 に及び、川. 浜名湖も、人びとに甚大な被害を与え続けた湖で、湖口. 崩出」とやや唐突に浜名湖々口 の 異常が記されている。. た。 『 熊野年代記』文亀七庚午 に 「八月 二七日 遠州今切. のの眼ざしは、水の脅威の根源たる上流にむ けられてい. 水位高増 •河川氾 濫を 避けるためのものであり、祭るも. 未聞ノ事也 ヽ ー ノ キ寛永 十五 戊寅六月神 前 ニテ雨ヲ願寺中山伏上五 召連 ( ル夫ヨ リ飛鳥川口 二至雨 乞願之通川 ロヨ リ雨に逢 フ ‘ ー‘ ノ ヽJ ア・ ウ・ オ等 により熊野川の主を大鮫と信じた時代が ( ( ( あったことがわかるのであるが、右に引いた記事の中で ー ‘ 先ず注目すべきもの は ウである。川口 に大鮫が入ってニ ( 0日 たっ たら水位が三尺あがったので川口 を祭ったとい ー ‘ うのである。 オにおいても、大鮫を切ったのが八月で、 ( 十月に至るまで津に入るを止むとあり、河口 に土砂 が堆. 況を 呈し、 入津不可能 の状況や河川水位増 による氾 濫が. を守る神社として、洪水によって消えた古社角避比古 神. 仰された時代があったと考 えてよかろう。昭和 十 二年 版. 近い蓬莱 山に坐す阿須 賀神 社が、河 口を 守る神として信. 社が祭 りれていた。熊野川河口 においても、河口 に最も. 口 の祭りの中心は、あくまでも、河口 閉塞•入津不能 ・. くり返 されていたことがわかる。 そして、このような諸. 川口 」の重 ここまで 見てくると、熊野川河口 における 「 ヽ ー ノ 一山の僧徒川口を 祭る」とあ 要性がよくわかり、 イに 「 ( ノ ー ヽ る意味もよくわかる。川口 聖視の伝統は、キのように時 ( 代が下り、雨乞いの場としても使 われたのであるが、川. 大鮫」と認識して 悪をもたらす熊野川の荒 ぶる水霊を 「 ‘ ー‘ ノ ヽ ノ いたことが ウオ、さらには アな どによってわかるのであ (( ( る。 ヽ ノ ヽ ー ノ • 力を 見ると、大雨による山崩れの原因は、 また、 エ ( (. - 60 -. 野本 熊野川河口域の祭り.
(13) 『 新宮市誌』が引く 『 紀南郷道記』の熊野川河 Dに 関す. に よってもたらされるものだったので ある。この川と海. 川と、外洋が直接河 口に 迫る熊野灘の戦い、確執• 拮抗. 言え よう。そして、それは、信仰環境 論の視座からは絶. との葛藤こそ、熊野川河口の大きな環境 的特色だったと. る 記 事 も 重要 で ある 。 「塞り て 船 出 入 な ら ざる 事 度 々 也。 此 時 飛 鳥の 神 前 に て 、 御湯 を 上 げ、 御 供 な ど備 へ. 対 に見逃すことのできないポ イ ントなのである。. ば、忽ち 白 狐 現て 喰ひ。其 時船 の出入自由 也。」ー� こ こでは神使として白狐が登場する のであるが、土砂 に よ. 国 土地理院の五 万分の一地図によって熊野川河口部を. 驚くばかりで、時に十五 メ ートル前後のこともある。な. は極めて狭陰である。河口に立 つて見る と水路の狭さは. 見ると、左右両岸ともに両側から砂 嘴が突き出し、水口. さらに、 r 紀伊続風土記』の熊野川に関する 次の記事. お河口の切れ口については補注②を参 照されたい。 阿須. 社の力が確かに語られている 。1. る熊野川の河 口閉塞を解 き、河口の安全を守る阿須 賀神. 地は東に大漏を受たる砂 浜なれば(此地南は三輪崎 より. も 注目 に 値 す る 。 「 海に 入る其 海口を 飛 鳥川 と い ふ。此. 賀神社の 「 須 賀」は 「 砂 処 」という普通名詞として使 わ. 阿 須 賀の つ く 地 名 も 多 い。 「 阿」 は 接 頭 語 で あ り、 「. れるもので、砂 丘や砂のたまったところを示す。 スカが. 神」は、熊野川河口の堆積砂嘴や土砂堆積の開閉を 司る. 砂土を巻 き来りて川口を 塞く故に水尾筋常に北の方に曲 りて海に入る。然れども 又内の水勢 強く、外の波 高から. 神 として認識された時代があったものと思われる。その. 北は木本浦に至り七里許続きたる砂浜なり)、荒波 常に. り。或は開き、或は塞かり大船往来するもの或は入りて. 伝統を襲う形で、神倉を中心とした新宮の修験 で、阿須. さる時は正面 の土砂を推し流して真直に川口を開く事あ 出る事あたはず。或は外より来るもの内に入る事あたは. 賀にかかわる者 が、熊野川河口の祭り、荒ぶる熊野川の. 川の荒ぶる 水 霊の象徴たる 「 大鮫」を飛鳥の長床が切っ. 水霊を鎮める祭りを行ってきたのではある まいか。熊野. の 崩 て 深き淵 を 埋 み、 浅 く し 易 き を 以て い ふ な り ・ ・. 口閉塞や 氾 濫を 鎮 め た と いうこ と に な っ て く る の で あ. たというのは、阿須 賀社に属する修験者 が、熊野川の河. 鳥川の名ありといふ。阿須 賀は浅洲所の約れるにて、岸 ・。」熊野川河口の堆積土砂 ・堆積砂嘴、それら に よる. ず 。海 口常に淵となり瀬となり須 央に変化する を 以て飛. 河口閉塞は、ここに指摘されている 通り、偉大なる熊野. - 61 -. 1990. 6 2巻1 号 文学・芸術・文化.
(14) 熊野川河口域の祭り. '贔 に け て ら. ?. が杉 鸞. 10/14. り H!. 行午 神 霊列十 前 を が ‘ 殿 本 午 時 に 後 能. 可 印 盃. を 馬 の. —. 悶. 行 に し て‘ て 速 速. 鞍 に. t. : る° 吋 阿玉 大. �I • i 晨 ; 虐' 厄畠 れ. の. 五 喜屋 に. 宮 司 遷 は し. 因. 誓 を ち. 唇間 し は て 帰 遠. 子 / 9 の 刻 15 ひ. か に そ. 雇 た ^. II 、-. ヽ. 熊. ". ヘ. 蘭· ’ �. し に 乙 9. 〗 〗 の. に 渡. を 9 島 / 5 の 1. に 神 す ス ー 輿 上 を 造 て 新 船 魚 を に 供 ぇ 移 し て 、 祭御 っ船 た 島 ^ を �一 鎚 谷. =. の. 應、. ッ神 巴 輿. i:. 吋 内 駆 け て 新 1り 、,1 1" 内. 急. 陣 9こ と 納 め り し 出 た ^ ‘. 社 人 訂愚が. - 62 -. i の. ぉ. 悶゜ 塁. i. か ら. 合 た[. 面. の. 9 大 / 急 オ 図 A ぎ1 E 、'5 で 阿 乗 馬. 塁子 ヶ 納 浜 に. 〗 『農. に 直 て を 速 玉心 中. に 間 納 め の る° 鞍 に. ツ. ニ. �1. i の. 現. 行. 次. 第. ^. Bi � __..., '. 慶 閃て. ! し、 を し た. 文 献 資 料. 熊野速玉 大社神事次第 ( +四•一五日 分). 合. る゜ 所御旅. 第1表. す. 御. 10/15. 野本.
(15) る。河口 閉塞はそのまま河口域の洪水につながる恐怖に. つ 、中で鵜殿衆の活動に注目 する。なお、 十五日 の祭り. 櫓をつけた諸手船に乗るのであるが、 この人びとは、早. 中で述 べる。この日 、鵜殿衆の中の十五 人が左右に五 丁. の概略は第 1表に要約し、十六日 の祭りについては本文. 日 、十六日 の祭りにおいて、阿 須 賀神社・速玉 大社にか. 須 賀神社など、河 口の神社を順拝する。午 後 二時より 速. 朝 より貴弥 谷神社 · 牛 犀神社・速玉 大社・神倉神社 ・ 阿. こうした土 着的な信仰要素をふまえてみると十月十五. ほ かならなかったのである。. よく 理解 できる. かわる神馬・神輿船が 乙基河原・ 御船島を めざす理由 が. る馬乗人形があり、ひとつものは編笠を かぶり、 背に、. ひとつもの 」と 呼ばれ の行 列の中で注目すべきものに 「. 玉 大社第二殿において渡御出発式が行われる。神 輿渡御. 4•熊野海民. る。神輿が河原に出る前に、各町内の、 八人のりの早船. 大島からとどけられた薄十 二本と牛 王十 二枚を 負うてい. ようになる。. 熊野川河口の. の競漕が始まる。川を潮上し、御船島を 左から 三周し、. と御船島. 海の民、鵜殿衆. 乙基河原に着岸するまで激しく競われる 。神輿が河原に. 先導して諸手を引き、 さら にその諸手 船が神輿船を引い. 着くと神霊は神輿 船に遷され、 斎主船( ジ ュット 船)が. 野 速玉大 社御船. に十四人の漕者 が乗り、紬先に赤衣•赤頭 巾•黒帯 •黒. て 熊野川を 渕 上し、 御船島に 向かう (写真⑥)。 諸手 船. もふれたが、熊. 殿衆の活躍は勇. 回島をまわるのであるが、 その際 、 アタガイ ウチは漕者. 諸手船は神輿船を先導 して 御船島に近づき、左から 二三. 鉢巻 の アタガイ ウチと 呼ばれる人物 が櫂を持って立つ。 六 日の祭りの流. の掛け声に合わせて櫂かきの所作をする 。島を まわり終. 下、十五 日、 十. 要 で あ る。 以. 祭りにおける鵜. については先に. ▲写真⑥ 諸手船に先迎 さ れ る 神輿船. れをたしかめつ. - 63 -. 1990.6. 2巻1号 文学・芸術 ・ 文化.
(16) 島を 三周して下 ってゆく。次いで、 斎主船•諸手船• 神. わると、乙基河原の岸に待機していた九艘 の早舟は御船. 呼ばれるところに神 餓を あげ、神 職が祝詞を あげる( 写. 写真⑦)。島の 中 央の 蛇口 と 携 え て 舟 で 御船 島 へ 渡 る (. ▲写真⑦ 御船島へ渡 る 神職 と コ ガ ン ド. 神輿船が着岸すると神輿は碩・薄原を通ってお旅所ま. 原の方向を向き、島をめぐる舟を迎える。. 真⑧)。 祝 詞が終わると三 者 は神職を 真 中 にし て 乙基河. さて、早船 以下 神輿船 が御船 島に至る前に神職 一人と. 輿船は乙基河原に着岸する。 コガ ンド と 呼ばれる少女(小学校五年生)二名が神飼を. で渡御する。お旅所には、一、五 財立. - 64 -. 方ほ どの杉の葉の祠(御仮屋) が設け. c. ら れて お り、祭りに際 してはその上に る すド。白布の覆がかけられる。御仮 屋の前に 上ン 奏ガ 神興を据 え、御霊遷しをし、前面中央 を コ に大幣、 その両脇に矛が立てられてい 詞る 祝す る。次いで、巫女神 楽があり、 ①火 て侍. れら れて 還御すると伝えられている。. れる。この時、御神 霊は宮司の懐に入. み立てた神 座があり、 これも片つけら. チ、 長さ三 0セ ンチ程 の 杉板三枚を 組. 、 杉 の 祠 の 中 に は、 幅 一 0 セ ン ⑩). ヽーノ ここ 2 杉葉) が 献 じ ら 4• 4 • オ ミ タ マ ③花 ( 上れ 。御霊 巌 そ れ、 祝 詞奏 上 と な る (写真⑨) 島と 船職 がえしがすむ と、白布が除か れ、 杉 の 御神 写真 祠が 片 つ け ら れる の で ある が (. ▲写真⑧. 野本. 熊野川 河 口 域の祭 り.
(17) 登家で あるが、かつては成川・鵜殿の七. 現在、一五 日、 一六日 の神 餓を調進するの は 三重 県 紀宝. 一五 セ ンチ横二 0セ ンチ高 さ一五 セ ンチ)。他に、 縦六. 作ったモ ロプ タと 呼ばれる古風な箱状の折敷に 盛る(縦. の で あ る ( 写 真 ⑪)。 これ を、 檜 の 柾 板 を 折 り 曲 げ て. 町成川の大矢 軒だったと言われている。神餓の中心 は オミタ マと呼ば. セ ンチ •横 二0セ ンチほ どの檜の板の上に薄の枠を置 い. 意し、おのおのの上に銀杏五 個•栗三. 合オミタ マの折敷は、コガ ンドが御船. 個・ゴ マメを盛りつける 。一六日 の場. 島に 供える分と、お仮屋での祭りに供. 盛った平折敷は、檜の枠のものを御船. え る 分 の 二 盛 を 用 意 す る。 栗 な ど を. 島へ あげ、薄の枠のものをお旅所の祭. りに供える。 ここで使 われる餓器は薄. や 檜を折り敷く形の神餓器であり、折. 敷の祖型として注目 される。. 第 1表に、九月十五日 、御船島に神. j. の記事を引いたのであるが、同書. 鏡谷の 輿をすえて祭りを行うという 『. 響. を見る と、九月十 六日 にも同様の こと. が 行 わ れ て い る。 ま た、 『社 法 格 式. 書bl ‘には、 十 六 日の 記事 と し て 「 熊野. - 65 -. た平折敷と、同様の檜板の上に檜の枠をつけたもの を 用. •r. れるもので、玄米の粥を鍋に入れた まま スリコギで 練っ. ▲写 真⑨ 御仮屋 前の祭祀. たものを径二、五 セ ンチほ どにし、 片栗粉をまぶしたも. 芸ふ.:.;-:.•. ▲写真⑩. 1990.6 2巻1 号 文学・芸術・文化.
(18) エ水ヲ瀧、 後 廻ル事三返 ニテ奉挙嶋之上二、祢 宜 御神 供. 御神肱御船神楽、御船 嶋 工御幸 、社僧河端二、出迎御船. 河際 エ御神輿出御、神官 十人早艘 ニテ御先二糟 廻、奉遷. 殿には、 熊野権現遷座伝説の中で、熊野権現を鵜殿に引. が、それは、古来、鵜殿衆がこの舟の祭りを支え、時に. 形で 「 海方」の鵜殿衆の伝統が生かされているのである. あったことがわかる。現在も、諸手船を担当するという. き寄 せる力があったのである。また、現在、神輿を御船. 主催してきたことを想定させる。前節 で述べた通り、鵜. 仮 屋、 先供、次. ささげる神餓 オミタ マを 調進するのがかつて成川・ 鵜殿. 島 へあげる祭りは行われなくなっているが、 コガ ンドの. 魚 味 ヲ 備 フ、亦 嶋 ヨ リ 奉 遷御神 肱 御船 、 亦 嶋 廻ル 事 三. 祝詞田楽神楽祢. 返 、次 乙基河原二御神 輿弄 居、神 楽奏奉遷御旅所新山御. 宜 之舞御祓次第. ………」といっ. 三返 、子刻 還御. 歳楽 卜歌 収ル事. 時、孝昭天皇 万. アリ テ、祭終之. いう形は、 『 社法格式書』や 『 鏡谷の響』に見える、御. 思わせる。神 職と コガ ンドが御船島 へ渡って島を祭ると. ていることなど、この祭りと鵜殿 一帯との関係 の深さを. の七軒だったこと、現在も、 コガ ンドが成川から選ばれ. ろ、島祭りの古態を示しているように思われる。 古くは、十五. もあった。御船島 への神 輿渡御以前に、 御船 島は熊野海. 川島嶼は、 まさに不沈の舟であり、巨大な船魂の 座所 で. べたことがあるが、海の民にとって、船の故郷に近い河. ( 14 ). 河川島嶼を 不沈の舟と見たてることについては既に述. 日・ 十 六日とも. 民にとって重要な神の島であり、その心意伝統は神輿渡. 御時代にも潜在したはずである。鵜殿衆の操る諸手船の. があり、両 日と. も御船島に神興. 紬 先 で は 赤 衣• 赤 頭 巾の アタガ イウチが 櫂 を か き ふ る. に神輿船の潮上. る。. た記述 が見え. 船島 への神 輿渡御の衰退形ともとれるのであるが、むし. ▲写真⑪ 御船島 と 御仮屋 に供え ら れ る オ ミ タ マ そ の他。. を あげる祭りが. - 66 -. 野本 熊野川河口域の祭 り.
(19) う。神野善治氏 は、関船 ・鯨船等の神事儀しに登場する 燦. 嘗祭に御船 島に至って神供を献じ祝詞をあげたとある。. 先に引いた 『 紀伊続風土記』に、十一月十五 日子刻新. 5 ・農の祭りと御船島. その祭りの後に阿 須 賀神社にて田植神事を行ったことも. がら、これを 「猿」だとして いる。 そして 、 それは猿田. わかる。農の営みを 中心 として見る場合、洪水の視点か. 赤衣の紬乗りに 注目し、 臼田甚五郎氏 の見解を ふまえな 彦につらなる神船の先導役だ と し、造 船儀礼にかかわり. らは荒ぶる水霊の座となる御船島が、稲作に不可欠な恵. 玉大社御船祭りにそって見れば、文字通り、 アタガイ ウ. • 船魂の高揚にもふさ わ しいものである。 現行の熊野速. (飯盛山)と乙基河原・御船島の関係 については先にふ. 稲の豊穣を象徴する高盛飯即ち飯盛の形状をなす新飯山. みの水、 その水霊の座となり、 祭るべき神 座となった。. ( 16 ). 猿の演者 を船の紬先に置くことは、たしかに樹霊の鎮魂. 樹霊の鎮魂を司る役目だとしている。 山の生きものたる. チの 乗 る 諸手 船 は 神 輿船 の 先 導 を な して い る の で あ る. れた。御船祭りに登場する オ ミタ マも農業祭にはふさわ. 一般 に、稲作予祝の神事芸能 、 田遊び 御 EB 祭 は 新 春に. が、神輿船をはなれて みると アタガイ ウチは諸手船に続. 熊野海氏 の視座からすれば、船魂の座す御船島の彼方 に. に引き続いて行われていたら しい。収穫のまつりに引き. 行われる場合が多いのであるが、ここではそれが収穫時. ‘, 0 しし. は、船木 ・船材を司る山の神の坐す千穂 ヶ峯 があり、 そ. く様々な鵜殿船の船魂をはやす働きをすることになる。. の、さらに上流部には川中島の大斎原が、 そして 、 その. 続いて田植神事を行う事例 として 、黒田 一充氏 は大分県. ノ熟 稲ヲ奉献 ス。 又雅 楽 二仰テ童部 ヲ召集 テ、神 長大祝. ( 18 ). 一水源には船魂神社が透視できたのである。当面の視野. 神 絵詞」 八月一日の項に次の記事がある。 「 今日御作田. 国 東半島の武多都神社の事例 を あげている。 『 諏訪大明. 五 • 十六日は秋の末の望の日で、秋の農業祭として ふ さ. ( 17 ). であった。桜井 満氏の指摘する通り、 太 陰暦の九月十. の中では、御船島と千穂 ヶ峯 がたしかに結ばれていたの. わしい日なのであるが、海を中 心と して みても、この日. タキ テ仰詞 アリ。 又鋤鍬ヲ ツクリテ彼童部 ニアタ ヘ、東. ノ前 ニススミテ、 御穀を 取 テ、 カイヲ モチ テ、 ホウヲ タ. 作ノ業 ヲ表 ス。し—ー' 収穫 祭 に ひき続 き、ヨリ マシの 童. は大潮となり、船祭りにはふさわしい。子の刻還御は月 下 のことであった。. - 67 -. 1990.6 2 巻1号 文学・芸術・文化.
(20) 様な信仰要素がここに重層しているのである。神 輿渡御. と熊野川や 熊野灘をめぐる環境条 件ゆえに、まことに多. • 神 霊の移動と 還御といった信仰の形が定着する前の神. の模擬行為をさせる予祝行事があったことがわかる。こ うしてみると、収穫祭から予祝祭へと直接的につなげる. 座としての御船 島に対する認識は根強いものがあったと. を使って、模造の鋤 .鍬を持たせ、東作、即ち「春作」. 田植神 事• 田 遊びが存在したことがわかる。 予祝行事に. 遠御といった神 霊の移動に先ん じて、御船島や 乙基河原. 思われる。御船島と千穂 ヶ峯 の中間にある乙基河原の祭. における島の祭り、乙基河原において御船島や 千穂 ヶ峯. 実物の牛馬を使うのも珍しく はある が、決して例 のない. 乙基河原に仮設される杉の御仮屋からもかすかに農の. りの場としての重要性も動かし難い。神 社からの渡御・. 祭りの匂いがただよう。杉の葉の突剌性によって、この. の祭りを行った時代があり、それに次いで、御船島から. ことではない。. 植物を、貯蔵する里芋 ・種籾などの鼠除けに使 う事例 は. 神 輿御渡という形で御船島で祭りが行われた時代、神. 神を迎 える形が生まれたのではなかろうか。. 社に鎮まるべき神 が、 霊の容 器である不沈の船たる御船. り 、 四本 の 柱 の つ け 根 に 鼠 除 け の 杉 の 葉 を つ け る 。 ま. 多いし、 滋賀県 高島郡 今津町 で は高床式 の種籾囲いを作 た、 遠州平野部 こも全体を杉の葉で蔽った高床式の小祠. 島に籠ることによって、より強力な神 霊となると考えら. という形においても、島籠りに準ず る力が賦与されると. ). れたはずである。 そして現今の神 輿船が御船島を めぐる. 原の御仮 屋は、籾種を鼠等の外物 から守る穂 倉の印象が. (園. のである。杉葉で作った ム ロといった印象 の強い乙基河. 穂 倉の祖型と思 われる を 作る事例 がある。いわゆる 祠 II. 強い。. 6 • 信仰要素の複合. 抄』の少将内 侍の歌・ 『 いほ ぬし』に 見える増 基法師の. 創 始 期 は 定 か で は な い が 、 宮家. びとの信仰核となり続けた御船島にかかわる御船祭りの. 考 えることはできよう。このように、熊野川河 口部の人. さて、以上、熊野速玉大社の御船祭りと信仰環境• 生. 準氏 は 、 『 夫木和歌. 業 要素等 を 関連させながら私見を述 べてきた。御船 島・. 歌などにもとづき、十一世 紀後半ごろには車船 が御船島 碕) をめぐる祭 りが存在したことを確 認している。. 乙基河原・飯 盛山・千穂 ヶ峯という、稀に見る聖地要素. - 68 -. 野本 熊野川河口域の祭り.
(21) 向する祭りの根底には、河口閉塞や洪水をもたらす熊野. 社 ・熊野速 玉大社が共同する形で御船島・乙基河原を志. わる側面などが重層し ているように思われる。阿 須 賀神. 者 が小論で指摘し てきた信仰環境 論•鵜殿衆の力にかか. り、田の神を山に送る印 象といった諸要素、さらに、筆. の再現、阿 須 賀社と御船島をめぐる収穫祭とこもりの祭. ち、熊野神遷座の 復演 、乙基河原における諾再二神顕現. •月野瀬四箇村の氏 神とす 。古より土人此島に登りしこ. 小島なり。これを神とし て祭り、高川原・ 古田·宇 津木. て次の記述がある。「高さ十五 間許周五十間許の巌山の. にする。 『 紀伊続風土記』に、川中島 「 河内様」につい. あるので、ここでは関係 部分の若干につい て述べること. の船祭りがある。河内祭りについ ては既に詳 細な報告 が. し ては、 「 河内 様」という古座川の川中島を めぐる 類似. ―つの祭りが多様な信仰要素を複合させ ている事例 と. 7•古 座川船祭りの複合性. 川水霊の座を 御船 島に見すえる信仰心意があったのでは. ある。河内様は河口より三 キ ロの地点にある 。河内祭り. となく、 島中 の草木にかりにも手 を 触る ことなし 。」と. 現行の熊野 速玉大社の御船祭りには、先学の諸説、即. なかろうか。 そし て、その上に様々な信仰要素が重ねら. ( 21 ). れ てきたのであろう。厳密 に言うならば重層 というより. 大社は、熊野川河口域という生活空間・信仰空間におい. ひき、高傘をかざし、笹束を振り、獅子 を舞わし てムラ. 歩いたり、水口に札を立 てた りする。この日 、太鼓台を. 成の祈稿を神社で行い、その札を受け て青田の上を振り. の祭日 は、 ①旧 暦六月初 丑の日 ②旧 暦六月十五日 ③新 暦. て、時の流れの中で展開され てきた様々な信仰要素を収. 中を めぐる (写真⑫)。こ の日 、栗の 葉 に 御供を 包みこ. は、複合と いうべきであろうし、多くの複 合要素は決し. 束する頂点となり、鼎立する熊野三 社の一大支柱となっ. み、 その枝を水口に立 てる という習俗が、 古座川流域は. 暦六月初 丑の日 、古座川流域では青祈稿と称し て青 稲 育. た。 それは単に内なる熊野のみによっ て形成されたわけ. もとより熊野一帯 に広く見られる。河内祭りにも、宇津. 七月十五日 ④新 暦七月 二十 四•二十五日 と変遷した。旧. ではなく、常に外からの信仰的期待と眼ざしに応える動. て完結された形ではなく、部分とし て顕在し、時に潜在. きによっ ても拡大を果たした。多 様な信仰要素の複合こ. 木•月野瀬地区ではこれを行う。 また、 七月二十五日 、. しながら緒のみをの ぞか せ ているにすぎない。熊 野 速玉. そ熊野信仰の魅力になっ ている といっ てよかろう。. - 69 -. 1990.6 2巻1 号 文学・芸術·文化.
(22) れらを見ると、河内祭りの農の祭りと しての側面がよく. 盟社 (高 池下区)・ 古座青 年 会などの 舟が 見ら れた。 こ. ざして、煙火を あげながら、河内様(島)を めぐる。互. 獅子伝馬と呼ばれる伝馬船に、太鼓台を柏み、高傘をか. り、島をめぐる御舟は戦死者 の霊を慰めるものだとする. 場する 「 御舟 」は、熊野水 軍の 軍船を形どったものであ. が、 悪霊流しの側面を 持つ こともわかる。河内祭りに登. 様は牛頭天王だとする伝承もある と ころから 、 この祭り. また、 旧 暦六月十五日 は祇園御霊会の日 であり、河内. - 70 -. わかる 。. 内 ▲写真⑬ 河 祭り の御舟. 野本 熊野川河口域の祭り.
(23) 伝 承も ある ( 写 真⑬)。 桜井. 御船 島と同様、 河内様の島は不沈の船であり、船魂を受. 方、古座の漁民からすれば、 ここでも、熊野川における. 満氏 は、河内 祭 り の 意義. につ いて、 「 本来は鯨方 の御 霊鎮定の 祭 り であり、 一 種. 内様を拝する河原に立 って上流を眺めると、視線を 遮る. ぐる 櫂伝 馬 の競 漕はその印 象 を 強くする ( 写真⑭ )。 河. け、船の力を 与 えられる神の島だったのである。島をめ. 河内 様 ( 岩 島)の頂の一枚岩 に潮と神酒を 供え、右 岸. 西 の 倉」 と 呼ば れ る 岩 よ う に 巨 大 な 岩 山が 見 える 。 「. t. の 河 原 に 島を 拝 す る 形 で 祝 詞 座を 設け る 。 さ ら に 右 岸. で、古くは その名のご とく磐座として信仰されて いた こ. の楔ぎ・祓へ の神事であった。 」と述 べて いが. に、古座• 高池. とを思わせる。下流から遡上するとき、河内様↓西 の倉. 上流部、山に対 する関心に つ いては先にもふれたが、そ. 写真⑮)。船 にか か わる 人び と の 境 として重要 で あ る (. 一. は明らかにつながってくるのであり、 この景観は信仰環. 瀬、左岸 に宇 津 木の座 ( 参 所・. 直 会座)を 設け. る様は、島を核. 構成で、流域の. とした輻射状の 人びとの 視 線が. 輻射状に河内様 に注がれる こと. になる。農民に. とって、河内様 は豊作をもたら す水神の座だっ たのである。一. 古座川河口 に 向 か つ て 坐す シ ョ ウ ロ. ▲写真⑯. - 71 -. • 古田・ 月野. こふ..;__,よ豆シェ¢. ▲写真⑮ 河原から上流の西の倉 を望む。. 1990.6 2 巻1 号 文学・芸術・文化.
(24) ある が、 シ ョウ ロウ舎は南面即ち、下流に向いており、. る。 人々は、 シ ョウ ロウに 荘銭をあげて拝して いる の で. る。 二十五 日、 河内様の河原に シ ョウ ロウ舎が設けられ. 十歳前後の男子 二名・女子 一名 で、神 霊のヨリ マシ であ. 割を 果たすものに「 シ ョウ ロウ」がある。 シ ョウ ロウは. の 意 味 で西 の倉は重要なの である。 河内祭り で重要な役. 環境 によって信仰の展開が異なってくる の である。. 信仰や伝承が多い。 同じ熊野の海岸部 でも地形地勢 等の. や裸形上人の漂着伝承に象徴される通り、海彼との流通. た聖域は後部を遮閉されている。 那智の浜は補陀洛信仰. 三山の一極をなす 那智には大河川がなく、滝を中心とし. を、常に上流にひきつけてや まなかった の である。熊野. な川の河 口であることにあろう。熊野川は人びとの関心. 三 ・御燈祭りの基層. シ ョウ ロウも下流を向く。 人びとが シ ョウ ロウを 拝する 時、 古座川の上流を拝する形になっているの である(写 真⑯)。 河内祭 りの中 には、上 流聖視 •水源尊崇の要素. 1・御燈祭りの実際. が ひそん でいるの である。熊野川における御船島と鵜殿. 覚 をる 。 二月六日の御燈祭りに 登り子 (上り子 とも)を. 衆、 古座川における河内様と古座衆のかかわり、 聖なる 川中島をめぐる祭りにおける信仰要素の複合性は右の. 勤めようとする者 はなおさ ら である。御燈祭りとは 二月. 毎年 二月に入ると新宮のまちの男達は胸のときめきを. 通り である。 以上、熊野川河口域の祭りと信仰土壌につ. 祭り である。. 六日夜行われる、熊野速玉 大社飛地境 内摂社神倉神社の. 川中島に対 する強い執着はみごとに 一致している。. いて見てきたの である が、海に面しながら海から神を迎. 神 倉神 社は 熊 野 速玉 大 社の 西 約一 キ ロ、 標 高 約 八〇. える形の信仰要素が意外に稀薄なことに気づいた。河口 の蓬莱 山はその名にも示される通り、徐福渡来の 目標に. 千穂 峯の西 々南の 一角 である。神 倉神 社々祠の脇には、. 屈、神倉山に鎮座する。 神倉山は、標高 二五 三、 0話の. 「ごとびき岩」と 呼ばれる巨石がある。ごとびき岩と通. 仰• 海から神を迎える信仰については今後の詳 細な調査 が必要なの であるが、 そうした信仰や伝承が比較 的稀薄. 称されているの であるが、 その実体は、表面がなめらか. なったという伝承を持つ。 熊野川河口域における海の信. であることの要因の ―つは、この地が熊野川という大き. - 72 -. 野本 熊野川河口域の祭り.
(25) わし い。 石は 上下 二つの部分に分かれており、 ・下 が、 縦. で丸みを帯 びており、岩 と呼ぶよりは石と 呼ぶの がふさ. であったことはまち が いな い。 そして、神倉山をふくむ. 欅文銅鐸片が出土するなどこの一帯 が古来聖なる祭祀場. の呼称である。神倉山第二経塚から大小二十二個の袈裟. ぃ艇 。ごと び き と いう の は 蛸 蛉 の こ と で、こ の 巨 石の. 高 さ三財程度で、 上側の部分が南側半分にずれて乗って. 羽 峰紀州国牟 婁郡 切部 山西の玉 那木淵の松の木↓神蔵の. 垂 跡 縁起』 によれば、 熊野権現は、英彦 山↓石鎚 山諭鶴. ち、目だつ、神の依る山と いう 意である。 『熊野権現御. 秀 の 峯 」即 「千穂 ヶ峯 」と いう 名 も、 「 高 千穂 」に 通 じ、「. ( 25 ). 九認 、横七財 、高 さ 八屈程度、上が、縦七認 、横 四認 、. 形 状が、 石の真下で仰ぐ時、 媚蛉を思 わせるところから. 峯(神倉山)↓石 淵の谷(三 重県鵜殿村) 現社地と称さ. 即ち 神 倉山 に 登 ら れた と いう伝 承 と 重な る 形 で 神 倉 山. れたと いう。ここでも、神武伝承で、神武天皇 が天磐盾. ひきがえる. 起する 男根 に似る と いう 言 い伝えも根 強 い( 写真⑱)。. つ いた名である (写真⑰ )。一方 、こ の 巨石の 遠 望 が勃. ごとびき岩および社祠の下方周囲には瑞垣がめ ぐらされ. が、神の依る山として語られて いるのである。. 二月六日の御燈 祭りは、もと 正月六日に行われて いた. 盤が露出しており、 その岩 盤を袈裟石と呼ん で いる。 袈. 神倉放光 熊野年代記』敏達天皇 三年甲 午 に 「 と いう。 『. て いるのであるが、 石および 社祠の手前斜 面は平らな岩 裟石と称される ゆえんは、岩盤を走る縦横の線や、岩の. 明」とあり、 翌年 正月 六日夜に御燈 祭りが始まったと伝. え ら れて いる 。 又別に 、 神 武 天皇 が神 倉 山 に 登 ら れた. の入口から袈裟石と、 その彼方 のごとび き石を望む 視角 には強 い神聖感 がある。 ゴトビキ岩も袈裟石も熊野一帯. 表層の剥離痕の線 が布 の袈を思わせるからである。瑞垣. に多 い 「 熊野酸性火成岩」である。. は必ず登るものだとして いる。男の子 は、父親につれら. 新宮では御燈 祭りを男の祭りだとして、成人前に一度. 言う、神武天皇 の道案 内 が起源だとも伝えて いる。. 折、土地の人びと が松明を点して迎えたことによるとも. 述 に見える 「 天磐盾』 を、ごとび き石を核とした 神倉山. て、 熊 野の 神 邑に 到り 、 且ち 天磐盾 に 登る。」と いう 記. れて登ること が多 いが、父親の都合 が悪 い場合 などは知. 『 日本書紀』神武天皇 即位前記の、 「 遂に狭野を越え. だとする見方は根 強 い。 「 神倉」と いう名称も、本来は. 人・親戚•子供の先輩に依頼することもある。例 えば、. いわくら. 「 神座」で、神の依 る磐座たるごとび き岩を核とした山. - 73 -. 1990 . 6 2巻1 号 文学・芸術・文化.
(26) 新宮市初野地の花本 茂 さん(昭和三年生まれ) は、昭 れて いない。. で楔ぎを行ってから装束をつけたというが、現在は行わ. に十 歳の次男隆広君をつれて登った。御燈祭りに参 加す. 来七巻 きであるが、現在は五巻 き、 三巻 きに省略する者. 課の上の 二箇所を紐でしばって脚絆状にする。帯 縄は本. 一部の布を長く余し、 それを手甲 と する。 股引の膝下と. 装束は、白の上維袢と白の股引で、上衣の袖の外側の. 和十 四年に、父の富彦さん (明治三十 年生まれ)につれ. ノボリコ」と呼ぶ。御燈祭りに参 加することは、 る者を 「. も多い。さらに頭部には白頭巾をつけることになる 。 タ. られて初登りをした。 そして、茂さん は、 昭和四十 八年. の. 儀 礼 であ. 男の通過. たものである。五 枚の板を五 角に組んで三 箇所を竹で束. 先に檜を 飽ガラ 状に削った、長さ約一認ほ どの房を つけ. もとを 細くした檜の板を五 枚合わせて五角の棒を作り、. イ松は、長さ約八 0セ ンチ、先端部幅五 セ ンチほ どで手. `. り、かつ. ね、手もとの 三箇所は針金で 固くしばり、手を通して握. た もの と. なっ て い. 年戒) と. いで、 五 角 の 棒 の 中 に 詰 め こ ん だ だ け の も の を 「花な. に対 して、檜を薄く削った鉤ガラ状のものを外に出さな. る ( 写真⑮ )。 花と は 檜 の 鉤ガラ 房のことである。 こ れ. る手 通しもつけてある。こ の タイ松を 「 花あり」と称す. る。 登り. れ、交通安全、家内安全、五穀豊穣などの祈願句が書き. 神 倉 神 社」 の 焼印 が 捺 さ し」 と 称 す る。 い ず れ も、 「. こまれている。この他、 厄年の者 の代参 用のタイ マツと. 子 は、大. 正時代 ま. して 本 タイ マツの ミ ニチ ュアもある。. 初登りの子 供に対 しては、近所や 親戚から豆腐や カ マ. では大浜. や 熊野川. - 74 -. 本来 、こ. ] ジ\ 急 ふ. ご q笠. 条 件( 成. て は 成年. 考 えら れ. ゴ ト ビキ 岩. ▲写真⑰. 野本 熊野川河口域の祭り.
(27) もの を そろえ、 味 つけも塩に 限る ( 写真⑲)。登 山の女. は、お山登りに先立って 風呂へ 入る。食事は肉を避け、. ボ コは 、 白 装 束 に 併せ て 白 を 好 む こ とに よ る 。 登 り 子. ボ コが贈られる。返礼は紅白の餅だという。 豆腐 ・ カ マ. 子 達で立 錐の余地もなくなる。. き岩の周囲にめぐらされた瑞垣の中は 二千人を越す登り. う。早い者 は急な石段を登り始め、午後七時にはご とび. 互いに タ イ松 を 打 ち 合っ て 、 「 頼 む ぞ」 と 声を 掛 け 合. い、参 拝を 終 えた 者 と、 これから参 拝する者 が出会うと. この日 、神倉神社の氏 子は 「 介錯人」を勤める。介錯. 白飯(白 ム スビ)・ 白 カ マボ コ・ シラ ス・ 大根など白い 人禁制はもとよ り、女性は登り子の装束の手伝いもして. 棒などを 持っ て 速玉 大 社へ 向かう( 写真 ⑰)。 午後 六時. 人達は、神倉山のふもとで修 祓を受け、大 タ イ松・ 介錯. 午後五 時ごろになると三社参 り と称し て 速玉大社・ 阿. ごろ 、神峨以下 介錯人が行列を 組ん で神倉神社へ 出発す. はいけないとされている。 須 賀神社・ 妙心寺を 順拝する。速玉 大社・ 阿須 賀神社な. ( 26 ). 官国幣社特殊神事調』には次のよ て 『. る。神眠は手に絨を 持つ。神倉神社 到着後の次第につい. 松明は長五 尺バカリ アリ)↓⑥向火ノ. 者 中ノ地蔵跡二到ル(向火ヲ持 テル者. 中ノ地蔵 ニテ ハ祈願者等 コノ向. ヲ数人ノ介錯等 警護 シテ中ノ 地蔵跡二 到ル. - 75 -. どでは青少年のグループや 親子づれなどが足早に行きか. う に 整 理さ れ て い る。 ① 斎火 を 焚 く. ウ ッスタメ ニ焚 ク)↓②祢 宜 以下 神餓. (此ノ斎火 ハ祝詞奏上用ノ松明 二火ヲ. 撤 ス↓⑤ 向火松明二火ヲ ウ ッス(向火. ニ ハ松明ヲ 用 フ)↓④祢 宜 以下神餓ヲ. ヲ 供 ス↓③宮司祝詞ヲ奏 ス(祝詞奏上. ゴ ト ビキ岩遠望. ▲写真⑱. 1990.6 2巻1号 文学 · 芸術・文化.
(28) ノ 玉垣内 二入ル 此ノ玉 垣内 二祈願者ヲ追 ヒ入ルル ハ介. 火ノ来ルヲ 待 チ此ノ向火 ニテ各自の松明 二火ヲ ッケ神前. られていたという。登り子達は、おのおの松明を各家に. ある。大正時代 までは、一番降 りの者 には米 一俵が与え. いっ た 激し さで走り出 す ( 写真⑳)。あと は 火の 流 れで. たころ介錯によって閂がはずされる。登り子 達は逍ると. ほと ば し. 開 ク( 此ノ 時玉垣 内 二籠レ ル祈願者競 ウテ坂ヲ下リ各自. 錯ノ役 目ナリ)⑦介錯玉 垣ノ門ヲ閉ヅ⑧介錯玉 垣ノ門ヲ. 持ち 帰 り 、 その 残片 を 一 年間 神 棚 に 祭 っ て お く の で あ. を 吹き、続いて、神眺•神矛を 持った神職が歩み、その. 続いて祭員も山を下り、先頭に修験山伏が立ち法螺貝. る。. ノ家 ニカ ヘル) ⑦に至る で待機してい. 神幣を納め、続いて他の一幣を熊野速 玉大社に納めて祭. 後に金の大幣 二本が続く。行列はまず阿 須 賀社に到って. と、瑞垣の中. 大 タイ マツ. 子が各自の松. すべての登 り. まってゆく。. に火の海に埋. 固まりが次第. いた白装束の. 上に蜻集して. し、袈裟岩の. から火受けを. (向火松明). 里へ 降りる と いう古代 信仰を語 る 祭 り であると思 う。」. 形を残していると思う。頃は正 月、初春に神霊が山から. る意識を存している。この神事は山の神が里へ降臨する. いる。上り子が家々に神火を迎える形も山から神を迎え. 宮から降られて、里宮の二社におもむかれる形をとって. 由 緒の跡づけをなして行われている。神倉山の神霊が山. 宮の神の垂 迩次第に準じていよう。この祭りはそうした. この御燈祭りについて倉林 正次氏 は次のように述 べて ( 27 ) いる。 「 神倉山から阿 須 賀速 玉という祭事の順路は、 新. られている。. は終わる。なお 、いま一本の大幣は既に神倉神社に納め. - 76 -. た登り子 達は. 明に火を受け. ▲写真⑲ 登り 子の食事. 野本 熊野川河口域の祭り.
(29) 準氏 は、修験. り、あらたに速玉 大社から神倉神社への行列、神倉神社. みは簡略化し、松明をもって山を下る上り子 に力点が移. 目 すべき見解 である。一方、宮家. の行場としての神倉に注目し、次のように述 べている。. が付加された 。 それにともなってこの行事を速玉 神の示. での奉幣後、阿 須 賀神社、速玉 大社への奉幣などの神事. —人. 「 御灯祭は神 倉聖が聖火を作り、聖火に神をむ かえ、そ. 現、 鎮座の神話の儀礼化 という解 釈も生 み出された。 さ. ( 28 ). の神をまつったうえで、 聖火の火を崇敬者に分与すると えで、 修 正会. いう面と、聖火を作り、その験 力を人々に 認め させたう. 重の構造 に. 作るという 二. 的に示されている。ここではこれらの見解 を駁するとい. 燈祭りと神倉聖とのかかわ り、その後の変貌過程が要約. 御. を、田の神 、年神 とする 説明 もこ こ ろみら れた 。 」. ‘ ` 'i.. i. \.0 ,. らに、民俗学者の成果をもとに火について山から下る神. ' •. , a'. ,. ‘. ヽ. \.ヽ9. に牛 王宝印 を. 49. “. 上. 、 9. 急. T バし. .iw. , ` ‘ ‘ ヽ , • ”“ ヽr. d曹 ` 、 r. でし こ下. である 。しか. なっていたの. うのである。. の、更に土着的な信仰について寸言を付してみようと思. う の では なく、 こ の 祭 り の 背後に 仄 見 え る、 更 に 古層. 合祀の上で再. 度 速玉大社に. 神倉神社も一. 聖は消滅し、. 袈に生 きてきた人びとは、おのれの暮らしを守るために. 神倉山・ 千穂 峯 の背後 に重畳する熊野の山々、 その山. 2 • 熊野山地の山の神信仰. 径 四寸 、 長さ七寸の男根 を作り、その木の男根 の中ほ. m祭日 は 二月七日 と十一月七日 で、この日 、檜を使って. 神祭りおよび、山の神に関する伝承の事例を示す。. どの こ と も. どに削り掛け状に削り羽根をたくさん削りこんだもの. あって 、 聖火. 度独立 するな. 敬虔な山の神祭りを続けてきたのであった。 以下 、山の. 治 以降 、神倉. しながら、明. ▲写真⑳ 下 り に かか る 登 り 子の松明. を作るいとな. - 77 -. '. Ill. 1990. 6 2巻1号. 文学 · 芸術 ・ 文化.
(30) に丁寧 に山の神に参 り、奥番の人びと に大ボ タモチを. 炭焼きの家族が十軒 ほど住んでおり、その人び とは特. モチを 作っ て 供えた 。戦 前には、 奥番のさらに奥に、. を作って山の神の 祠の 前に供えた 。また、 きなボ タ. 治 四十 一年 生 まれ、 同野 下 喜 助 ·明 治 四十 二年生 ま. という(和歌山県 東牟 婁郡 本宮町 奥番・野下 直 一•明. すると、山の神様は横を向いて笑いながら見るものだ. り、紛失物 が見つかったら男根を出して見せる。 そう. 様は女なの. た。山の神. 分けて食べ. て、家族で. モチを 焼 い. ので、頭部には男根を示す切りこみがある。この日、. けのみを立 てて 供える 。削り掛けは写真⑪の ような も. では檜で作った男根を 供えた が大 正時代からは削り掛. 檜の古木のもとに祭られており、そこに、明治時代ま. の頂 にある、八俣大 蛇の よう に何本にも枝分かれした. 月七日である。発心門の山の神 は上地と下地の境 の山. ②山の神祭りは昔は 旧暦十 一月七日、 現在 は新暦の十 一. れ) 。. マ道具(伐. で、山で ソ. 配って歩いた。 それをもらって奥番の人びとは大ボ タ. · :�さこm. れたら男の. し出してく. した時、も. ど )を 紛失. り判打ちな. 木の矢・切. なものを 見せますから 是非 さがさせ て ください。」と. をしましたのでさがさせて下さい。親 にも見せん大事. 失 せ もの で、腰道 具( 蛇など)を紛失した時 には、 「. も木の男根を 供えたところがあった。山の神は女なの. 者 は、ボ タモチと サ ンマズ シを 配る 。奥山の山の神で. 大ボ タモチを作って 供える。奥山で伐採にたず さわる. 定 ・大正 五年生 まれ ) 。船 玉神 社の奥に道 野川 と いう. 言って祈り、少しだけ見せた(本宮町発心門・小谷恒. せしますと. ムラがあり、そこの山の神にも木の男根があげてあっ. ものをお見. ▲写真⑪ 本 宮 町発心門の山の に供え ら れた 神 男根型削り 掛 け. 唱えて 祈. - 78 -. 野本 熊野川河口域の祭り.
(31) た ( 同• 野下定雄• 明治三十七年生 まれ ) 。 ③祭日 は十 一月七日 で、木で陽物 を作って祭った。小豆. て 山 の 神 の 前 に 立 て た 。 また、 ハゼ の 木 で 削 り 花 を. 作って これも山の神の前に立てた ( 本宮町久保野• 新. だ と 言い伝えられて いる ( 本宮町皆地• 田畑 清乃 • 明. 事をする人は この日 に大きなボチを作る。山の神は女. チを作って祭った。 旧暦二月七日 は山の神様が木を 植. 高さ三尺の柱を 四本三尺四方 に立て、その中ほ どの高. 一尺ほ どの杉で男根を作って立て、その前に、杉材で. 固山の樹木伐採する場所で、一月七日 に 、 径二寸、長さ. 武・大正 十 二年生 まれ)。. 治四十二年 伐 ) 業氏 生 まれ 。 林雄 ④祭日 は十一 野久 熊永 月七日 で、 主吉 祭 . この日 山社 •日 谷7 事は休み、 根ク月 ボ タ モチを. え て まわ る日 な の で 山 へ 入 っ て は いけ な いと 伝 え た. 家. 作って 供. ⑥高 田 の 上 地 に は 山 の 神 が 二 箇 所 あ り、 他に よ そか ら. 団子 三個と白 ニギ リ四個を作って供えた。今でも山仕. え、かつ食 べた。 ムラ. 入って山社事をして いる人たちが祭った山の神もあっ. の無事を祈った。大雲 取山方面の各地で行われて いた. 東牟 婁郡 熊野川町大山• 岡畑正 見 ・大 正十 一年 生 ま (. れ) 。 なお、 大 山 地区の山 の神は氏 神高 倉神社境 内に. あり、祭りは旧 暦二月七日 と 旧暦十 一月七日 でボ タモ. 十 五 セ ンチ. の高 田地区でも男のものを作ってあげると いう ( 新宮. いと 言われ、その日 はボ タモチを作るだけだった。他. モチを 供えた。女の人は山の神祭りに行っては いけな. 。 • 久保武男・大正 三年生まれ) 同 (. 男根を作っ. ほ どの木の. - 79 -. さに棚をつけ、大ボ タモチ三個と神酒を 供えし山仕事. で 何人か、. 寸ほ どの木の、男の持ち物 を作って供え、大 きなボ タ. た。祭日 は二月七日 と十 一月七日 で、この日 、 長 さ八. 更知. チ、 長さ四. 径五セ ン. 木 ン32 たゴ和 れ山昭 ら村影 え四撮 供町 : に宮部 神本採 の 山 ▲写真⑫. 1990.6. 2巻1号 文学 ・ 芸術 ・ 文化.
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関係委員会のお力で次第に盛り上がりを見せ ているが,その時だけのお祭りで終わらせて
(ページ 3)3 ページ目をご覧ください。これまでの委員会における河川環境への影響予測、評
世界的流行である以上、何をもって感染終息と判断するのか、現時点では予測がつかないと思われます。時限的、特例的措置とされても、かなりの長期間にわたり
はありますが、これまでの 40 人から 35
・この1年で「信仰に基づいた伝統的な祭り(A)」または「地域に根付いた行事としての祭り(B)」に行った方で
b)工場 シミュ レータ との 連携 工場シ ミュ レータ は、工場 内のモ ノの流 れや 人の動き をモ デル化 してシ ミュレ ーシ ョンを 実 行し、工程を 最適 化する 手法で
このような環境要素は一っの土地の構成要素になるが︑同時に他の上地をも流動し︑又は他の上地にあるそれらと
第1条