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修羅の存在論 : 宮沢賢治の『春と修羅』序を読む

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Academic year: 2021

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(1)研究ノ lト. 宮沢賢治の ﹁春と修羅﹄序を読む. 修羅の存在論 i. 正. 恒. 深い思想を、詩において、詩の言葉によって語った人. 多分、宮沢賢治は詩人である。つまり、自分の最も. 済に与ったのであろうか。それとも彼もまた、救済の. るものであると言われる。とすれば宮沢賢治はこの救. , 刀. あるいは、彼がその法華経の語る救済に与ったとす. るならば、それは何処に証しされるのであろうか。暖 言われる。このことは何を意味しているのだろうか。. すことによって自らの主張を示さなければならないで. る者は、正確にテキストを挙げ、正確にその読解を示. 昧な言明の許されることではない。これについて論ず. わたしはそのことの意味が正確に語られるのを聞いた. 賢治は、 その最初の詩集﹁春と修羅﹄において、. あろう。. 来寿量品﹂であるといわれる。私もそれには賛同する。. はっきりと ﹁おれはひとりの修羅なのだ﹂と語ってい. ことがない。法華経においてもっとも重要なのは﹁如. ところで宮沢賢治は法華経の信者だったとしばしば. とすれば、人は彼の詩の言葉を読解しなければならな. みずからが創造した概念によって語るように。である. 可能性を語り、救済の夢を与えたに過ぎないのだろう. きている人々、つまり衆生に、救済の可能性を保証す. 仏の永遠、久遠の存在は、あらゆる時代において、生. 路. w からの最も深い思想を である。あたかも哲学者がみ す. はじめに. 中 それは仏の久遠の存在を語る思想である。そしてこの. -1-. 中路. 宮沢賢治の『春と修羅』序を読む一 修羅の存在論.

(2) 与った存在なのだろうか。とんでもないことである。. る。修羅とは誰なのか。修羅ははたして仏の救済に. だろうか。あるいは、それが菩薩行であると人は一百う. 実感がなければ、そのような実践に何の意昧があるの. だが少なくともこうは言える。私は賢治が実際にど. のであろうか。. いても、心のどのような隅においても、仏の救いの痕. んな救いに与ったのかを知りたい、と。賢治にとって、. この詩の語りにおいて、修羅には、その心のどこにお そして、私の見るところ. 救済は何処に存在するのだろうか。詩人宮沢賢治を信. (1)O. では、賢治は、﹃春と修羅﹄の序において、心象のみ. じるならば、われわれはその答えをまさに彼の詩にお. 跡すら存在しはしない を実在とする存在論を語った。この存在論は実に重た. いて探らなければならない。. その中心となる思想は、まったく受容されていないと. した初版の形のまま紹介しよう。これは文圃堂版全集. はじめに詩集﹁春と修羅﹂の序を、その賢治が刊行. 一、序詩の紹介. 修羅の存在論として正しく読み取ることである。. ともあれ本稿で私が取組むのは﹃春と修羅﹂の序を、. い。というのも、この存在論は、まさに修羅の存在論 を語っているようにみえるからだ。そこには仏は存在 せず、仏の救いの光の片鱗すら存在しないようにみえ るのである。そして賢治は、それとは別の存在論を、 実際どこにおいても語っていないように見えるのであ. 考えるべきでないのだろうか。いなむしろ、救いをも. や十字屋版全集のものとは肝要なところで少なからず. る 20 と す れ ば 詩 人 宮 沢 賢 治 に お い て は 、 法 華 経 の. たらす仏の久遠の生命は、はっきりとその存在を否定. 最終形を定めたか明確ではないのである。つまり賢治. 異なっている。それらは誰のどのような校訂によって. 実際、救済が存在しなくても、救済の実感が存在し. 自身がその形を承認していたと認めるべき証拠が存在. されていると考えるべきではないのだろうか。 なくても、救済が可能だと語り、救済を求めよと語る. しないのである三. われわれは、賢治自身の校正に. ことはできる。さらにはみずからの一生を救済を求め. よる﹃春と修羅﹄初版本を拠り所にして考察を進めて. o. ての苦行に捧げることもできる。しかしそこに救済の. -2-. 2 0 0 6 .2 1 7巻 2号. 文学・芸術・文化.

(3) ゆくことにしよう。. そのとほりの心象スケッチです. いかにもたしかにともりつ、つける. せはしくせはしく明滅しながら. 風景やみんなといっしょに. (あらゆる透明な幽霊の複合体). ひとつの青い照明です. 仮定された有機交流電燈の. わたくしといふ現象は. (すべてがわたくしの中のみんなであるやうに. ある程度まではみんなに共通いたします. それが虚無ならば虚無自身がこのとほりで. 記録されたそのとほりのこのけしきで. たズたしかに記録されたこれらのけしきは. それらも畢克こ﹄ろのひとつの風物です. それぞれ新鮮な本体論もかんがへませうが. 宇宙塵をたべまたは空気や塩水を呼吸しながら. これらについて人や銀河や修羅や海胆は. 因果交流電燈の. みんなのおのおののなかのすべてですから). 序. ひとつの青い照明です. これらは二十二箇月の. 正しくうつされた筈のこれらのことばが. 巨大に明るい時間の集積のなかで. (ひかりはたもちその電燈は失はれ). 過去とかんずる方角から. わづかその一点にも均しい明暗のうちに. けれどもこれら新生代沖積世の. 紙と鉱質インクをつらね みんなが同時に感ずるもの). しかもわたくしも印刷者も. すでにはやくもその組立や質を変じ. (あるいは修羅の十億年). ここまでたもちつヌけられた. それを変らないとして感ずることは. (すべてわたくしと明滅し. かげとひかりのひとくさりづっ. -3-. 中路. 修羅の存在論宮沢賢治の『春と修羅』序を読む.

(4) 1 7 巻 2号 2 0 0 6 .2 文学・芸術・文化. 傾向としてはあり得ます. 第四次延長のなかで主張されます. 心象や時間それ自身の性質として. 宮沢賢治. すてきな化石を発掘したり. きらびやかな氷窒素のあたりから. 新進の大学士たちは気圏のいちばんの上層. 青空いっぱいの無色な孔雀たちが居たとおもひ. みんなは二千年ぐらゐ前には. 相当した証拠もまた次次過去から現出し. それ相当のちがった地質学が流用され. おそらくこれから二千年 わ 4 たったころは. われわれがかんじてゐるの過ぎません. (因果の時空的制約のもとに). 第四連では心象の存在論と言うべきものが認識論的枠. おされている。第四連、五連は付加的な詩連である。. 録と存在の問題が虚無論への回答という位相で捉えな. )﹂ 的 な 多 元 論 に よ り つ つ 記 象(湾民拝。 ω胃52℃ 巴 。 ロω. て﹂ではじまる第三一連では、ライプニッツの﹁微小表. 立したものであることを示している。﹁これらについ. 同時性﹂と呼ぶべきリズム的な共感原理に基づいて成. 二連は、この詩集におさめられた個々の詩が﹁明滅の. であるかを語り示している。﹁これらは﹂ではじまる第. しの存在論﹂であり、わたしの存在がどのようなもの. について語る第一連は、この詩集の根幹をなす﹁わた. この序詩は全体五連から成っている。わたしの存在. 大正十三一年一月廿日. けだしわれわれがわれわれの感官や 風景や人物をかんずるやうに そしてたポ共通に感ずるだけであるやうに 記録や歴史あるいは地史といふものも データ. あるいは白亜紀砂岩の層面に. の時間的変遷を伴うものであることを補足しており、. それのいろいろの論料といっしょに. 透明な人類の巨大な足跡を. 第五連はそれまでのすべての命題が存在しているもの 説している。. の存在についての主張であるということを補足的に再. 発見するかもしれません すべてこれらの命題は. -4-.

(5) 重要なのは、とりわけ第三連までである。本論ではそ. この序詩を﹁修羅の存在論﹂として読み取るために. しが照明として現象するためには、電燈が欠かせない。. ﹁わたしは・電燈の・照明だ﹂ということである。わた. 限定している。つづめて、修飾語句を外していえば. 比は、非物質的な効果としての﹁照明﹂と、物質的な. 微妙な表現ではあるが、この﹁照明﹂と﹁電燈﹂の対. の冒頭の第一連を考察することにしよう。. ﹁有機交流電燈﹂とは何か. 基体としての﹁電燈﹂として読むべきであろう。. ﹁わたし﹂とは﹁現象﹂であるという解釈である。現. ですでにひとつの重要な解釈が示されている。つまり、. れる。一見したところ定常的な明るさを保っているよ. 対比されて、﹁明滅を繰り返す﹂という意昧だと解さ. であると言われている。﹁交流﹂とは、ここでは直流と. そしてこの﹁電燈﹂は、﹁有機﹂で﹁交流﹂の電燈. 象であるとは、少なくとも、本体ではない、実体では. うに見えるが、実際には一秒間に数十回という頻繁な、. 明するものとしての明るさを保っている存在である。. ないということを意味する。確固として、それ自体で 読み進めると、﹁仮定された有機交流電燈の/ひと. 第六i第八行に﹁せはしくせはしく明滅しながら/い. ある意昧で激しい明滅を繰り返すことによってその照. つの青い照明です﹂と続く。﹁わたくしといふ現象は. かにもたしかにともりつ、つける/因果交流電燈の﹂と 言われるようにである。. そしてさらにこの電燈は﹁有機﹂であると言われて. いる。﹁有機交流電燈の﹂と言われる有機交流電燈がそ. 神的効果を支えるわたしの身体のことを指しているの. 問われるべきことは、この電燈が、わたしという精. いる。この電燈は有機体であるという意昧であろう。. れである。有機交流電燈とは何のことなのであろう. か、それとも大生命ともいうべきもの、わたしの身体. そしてここに、ひとつの本体らしきものが登場して. いうのである。. わたしは、ひとつの青い照明として現象している、と. :・ひとつの青い照明です﹂というつながりである。. 存在するものではないという意昧である。. 序詩は﹁わたくしといふ現象は﹂から始まる。ここ. 、 か?﹁有機﹂も﹁交流﹂もともに﹁電燈﹂を修飾し、. -5ー. 中路. 宮沢賢治の『春と修羅』序を読む一 修羅の存在論.

(6) せねばならないのである。もしそうであるとすれば、. さどる原理が再び要請されなければならないことにな. をも含めて、 ありとあらゆる有機体の集合体ともいう 一見したところ、賢治はここで、わたしという精神. るのである。後の行で﹁その電燈は失われ﹂と言われ. その大生命が消滅した場合に大生命自体の再生をつか. 的効果は巨大な大生命の流れの中のほんのひとこまの. ていることに、われわれは十分注目しなければならな. べき・もののことを指しているのかということである。. 微細な存在にすぎないと言っているように見える。と いうのも、﹁ひとつの青い照明です﹂と言われている 数のものの中のひとつという意昧だと思えるからであ. わたしという精神的効果の存在の物質的基礎をなす. とつの青い照明﹂であるところのわたしという現象、. それゆえわれわれはこの﹁有機交流電燈﹂を、﹁ひ. る。﹁青い照明﹂は、無数といってよいほどたくさんあ. ﹁わたしの身体﹂のことであると考えなければならな. からには、この﹁ひとつ﹂とは、存在するきわめて多. るに違いない。わたしとは、その無数の照明の中の、. 消滅させる﹁電燈﹂は、その無数の﹁青い照明﹂以上. そしてそのように無数の﹁青い照明﹂を生みだしては. る。つまり、リアルに、第一に確実に存在しているも. のものが、﹁仮定された﹂ものとされていることであ. ここでさらに確認しておくべきことは、﹁電燈﹂そ. 一一瞬照り輝くだけの束の間の存在だというわけである。. に巨大な流れ、巨大な集合体の流れであって、それは. され、そのようにして想定された存在であるというこ. のではなく、むしろリアルに存在している﹁わたくし. しかしながら、話中の﹁有機交流電燈﹂の中の﹁交. とである。有機交流電燈はあくまで仮定され、仮想さ. 大生命と二一一口ってしかるべきものであるように見えるの. 流﹂の語義にこだわるならば、この﹁有機交流電燈﹂. れた存在であり、リアルに存在しているのは、この思. といふ現象﹂から、その現象の存在の根拠として要請. はそれ自体が点滅をくり返すのである。つまり、この. 惟する﹁わたしといふ現象﹂の方なのである。. である。. 有機交流電燈が大生命であるとすれば、その大生命自 体が点滅せねばならず、大生命自体がせわしなく消滅. -6-. 2 0 0 6 .2 1 7巻 2号 文学・芸術・文化.

(7) このことは、透明な幽霊が棲合され、多数の精神的. ところでこの序詩の第四行は括弧をつけて﹁(あら. ということを主張していることになる。それは第十行. けるようになる、そのような仕方や仕組みが存在する. n. 効果が複合されてひとつの精神的効果の内に働きつ つ ゆる透明な幽霊の権合体)﹂と記されている。この一. 第五行から第九行までは冒頭の三行の内容を豊富に、. の﹁(ひかりはたもちその電燈は失はれこにも言わ. ﹁透明な幽霊﹂とは、先述した﹁精神的効果﹂とい. より分かりゃすい形で再説しているものである。その. 行は、直前の﹁ひとつの青い照明です﹂を同格的に補. うことに等しいであろう。問題は﹁複合体﹂をどう捉. 第六、第七行の﹁せはしくせはしく明滅しながら/い. れていることであるが、それについては後に触れるこ. えるかということである。被合体とはコンプレクスで. かにもたしかにともりつ、つける﹂という形容的な語句. 足しているように見える。この一行は何を、どのよう. あり、多数多様体とは異なり、ある一つのものにおい. は、先述したように、冒頭第二行の中の﹁交流﹂の語. とにしよう。. て多数の要素が絡まりあっているもののことである。. 義を敷街したものである。. 注目すべきは、第五行、﹁風景やみんなといっしょ. い照明について一百われていることである。わたしは、. 性格は、わたしという現象、わたしというひとつの青. この﹁あらゆる透明な幽霊の接合体である﹂という. の時間をもっ。そして﹁みんな﹂と一一一一口われるその他の. いるのである。﹁風景﹂も明滅する。﹁風景﹂も、明滅. は、風景や、みんなといっしょに明滅すると言われて. しながら﹂に懸る語句であるが、﹁わたしといふ現象﹂. に﹂である。ここは第六行の﹁せはしくせはしく明滅. わたしという現象自体において、その内部において、. いっしょに明滅するからには、わたしと時を共有しな. 存在者たちも明滅する。そしてそれらも、わたしと. 霊﹂であると言われている。. ﹁あらゆる幽霊の複合体﹂と、存在するすべての﹁幽. そしてここにおいては、その絡まりあっているものは、. な理解を、加えているのであろうか?. ﹁複合体﹂ということ. 一 、 一 すでに、存在するすべての数の精神的効果の複合体で ある。. : 7 -. 中路 修羅の存在論一宮沢賢治の『春と修羅』序を読む一.

(8) 1 7巻 2号 2 0 0 6 .2 文学・芸術・文化. がらも、それぞれ独立に、それぞれがおのれの理に この明滅においては、時の二つの契機を理解してお. なった、どこか外から訪れた思想によって照らし直し、. 第一連の最後の第十行は、また、地の詩行とはこと. ﹁ひかりはたもち﹂. くことが重要であろう。﹁明の時﹂と﹁滅の時﹂である。. 捉え直すという性格をもった括弧つきの記述がなされ. 従って、明滅するのである。. これは必ずしも誕生と死滅の時を意味しているわけで. 第八、第九行は、第二、第三行で言われていた﹁有. この契機にあるのかということの共感的な認識である。. 契機にあるかということ、そしてみずからが今そのど. われても、た わ 4 たれるのである。ひかりは継承される。. かりは、それを燈してきた電燈という物質的基体が失. は﹁たもたれ﹂という受動的な内容をもっている。ひ. ここで﹁ひかりはたもち﹂の﹁たもち﹂という措辞. その電燈は失はれ). ている。 (ひかりはたもち. はない。むしろ上昇し輝く時と、下降し衰えてゆく時 である。この二つの時の契機を、賢治はすべての存在 者に見てゆくのである。そして何かを、同時的に共有 するのである。何かとは、究極的には、この時の、明. 機交流電燈の/ひとつの青い照明です﹂の﹁有機﹂が. ひかりはひかりとしてひかりの中に継承される。ひか. である。. ﹁因果﹂に変っただけである。わたしの身体という有. りとは、照明という精神的効果の、その本質的内容を. 滅という二つの契機である。あるものが今そのどこの. 機体が、同時にその有機的な身体の継承において、無. なすもののことであろう。しかしそれはどういう仕方. それについて語ることが第二連の役割ということに. 限に繋がる因果の系列のなかにあるものとして把握さ れがたさを明確に表現している。ここでは因果も﹁交. なるであろう。賢治が語るのは紙とインクによる継承. によって継承されるのだろうか。. 流﹂して継承されてゆくものとして捉えられているの. の形、詩、あるいは﹁心象スケッチ﹂による継承の形. れている。この﹁因果﹂への変更は、因果の継承の逃. である。. -8-. 四.

(9) 界の中での出来事の生起という主張もなされている。. はそのとおりに心象スケッチにされるという二一一口語的世. 感するという主張と、その同時的な時間経過の中の事. な時間においてはそこに参与するすべての存在者が共. である。しかしそこには明滅の同時性というリズム的. した最終的なポジションだったのである。. 文学的方向である。これこそがこの時期の賢治が見出. が見出されているが、それは﹁心象スケッチ﹂という. にある種の精神的なひかりの継承という企投の可能性. 出の可能性も閉じているように見える。そこには確か. もに、他方においてその身体性からの全き仕方での脱. であるが、われわれはそのどこにも久遠の如来による. ( 1 ) われわれはその晩年の手帳の﹁病血熱すと躍も﹂で始ま. る詩において、賢治が彼の病んだ身体における修羅と仏. 国土との本質的な関係について語っているのを知ってい. る。これは﹁十界亙具﹂という天台宗の根本的な教義に. ついて語られた思想の中の最も深く重要なもののひとつ. であると思われるが、このテキストについてわたしはま. た稿を改めて語ることにしたい。ここでは考察を﹃春と. わけ﹁わたくしといふ現象﹂がどのように規定されて. 格好の道場なり﹂と言い切る。しかしその詩は﹁この事. ( 2 ) 前項で挙げた詩において賢治は、﹁修羅﹂を指して﹁これ. 修羅﹄およびその周囲に限っておくことにしたい。. いるかという点において見て取ることができるであろ. ではない。賢治は﹁l 界 互 具 ﹂ の 成 立 し て い る 世 界 の 存. しそれが成立・現成している世界について語っているわけ. 立の条件をきわめて明確に語っているのであるが、しか. ま る 表 現 で 終 っ て い る 。 賢 治 は こ こ で ﹁l 界互貝﹂の成. 問を含む表現、つまり断一一一一口に至らず、条件を一部すにとど. 成らずば/如何ぞ汝能く卜界成仏を談じ得ん﹂となお疑. ることは困難であるように見える。その青さは、一方. 言されている時、その﹁青さ﹂に仏法の祝福を読み取. ないしは因果交流電燈のひとつの青い照明であると明. う。わたしという精神的効果の存在が、有機交流電燈. 祝福のようなものを見出さなかった。そのことはとり. 注. これらはいずれもきわめて深い、重要な問題である。 だが、それらについては、また稿を改めて考察を進め. 結. において身体そのものにおける祝福の欠如を示すとと. -9-. ることにしたい。 吾d. E岡. ここまでわれわれは第一連の詩句を検討してきたの. 五. 中路. 修 羅 の 存 在 論 宮 沢 賢 治 の 『 春 と 修 羅 J序を読む一.

(10) 2 0 0 6 .2 1 7巻 2号 文学・芸術・文化. 在論を語ってはいないのである。. ( 3 ) 新校本﹁宮沢賢治全集﹂第二巻﹁校異篇﹂、六i十八頁参 刀口凶 0 円ロハ. ( 4 ) われわれは賢治が﹁大生命﹂と言うべき観念をもってい なかったと言いたいわけではない。賢治にとっては、こ の宇宙自体が大生命ともいうべき滅びることのない生産 の力をもったものでありえただろう。だがそこには、﹁十 界互具﹂が成立しうるかという問いと同じような微妙な 問題が存在しているようにみえる。しかしいずれにせよ、 ﹃春と修羅﹄において大生命の存在が明瞭に語られること はなく、ここではむしろその大生命の存在への徹底した 懐疑こそが読み取られるべきなのである。 なおこの﹁大生命﹂としての読み取りとしては梅原猛氏 のものを参考にしている。﹃地獄の思想﹄第十章﹁修羅の 世界を超えて﹂(中公新書、他)を参照されたい。. i 唱. ハU.

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