近代経済学史によるニックリッシュの業績の評価
牧
浦
健
二
要旨 ニックリッシュは,ドイツの困難な社会状況の下で,経営経済学の体系化に努力した。 彼は,Nationalkonomie から独立するという強い初心の下に,個別経済の経済活動を研究 して,組織の法則,価値の循環や資金計算論を呈示した。その際,彼は,Nationalkonomie の理論の展開に注意しながら,陳述と著作を行った。本稿では,彼の陳述と著作を2人のエ コノミストと比較する。1 人はシュンペーターで,ニックリッシュが企画を始めた,1914年 に,近代経済学史を書いた。もう1人はゾンバルトで,ニックリッシュが最終段階に到達し た,1930年に,『3つの経済学』という題の本を出版した。 キーワード ニックリッシュ,経営経済学,国民経済学,経済学史 原稿受理日 2016年1月31日Abstract Nicklisch, H. worked to make the business economic system under hard social circumstance. He believed to separate business economic theory from national economic theory. He studied the bussiness actions and presented the rules of organization, the circle of value and the theory of financial accounting. He took notice that he do not deviate from the orthodox approach of the development of national economic theory. We check his statements and works with two economists. One economist is Schumpeter, who wrote up the history of modern economy in the year 1914, when Nicklisch started his attempt. Other is Sombart, who publisched the book, that has the titel “Three way of Economic Studies” in the year 1930, when Nickilisch ar-rived at the final stage.
Key words Nicklisch, business economic theory, national economic theory, history of modern economy
は じ め に
本稿は,ニックリッシュ(Nicklisch, H., 18761946)と同世代人であり,オーストリア の限界効用学派とドイツの新歴史学派,すなわち,理論と歴史の統合を課題とした「最新 歴史学派」(シュンペーターの表現)の代表者とみなせる,ゾンバルト(Sombart, W., 1863 1941)とシュンペーター(Schumpeter, J., 18831950)から,ニックリッシュの業績を検 討する。そして,シュンペーターは,前者を代表する1人であり,均衡を最適配分として 捉える,ワルラス流の一般均衡論をドイツ語圏に紹介したが,1914年に『経済学史』(Epochen der Dogmen- und Methodengeschichte, 1914.: 中山伊知郎・東畑精一訳1980)を書いた。 また,ゾンバルトは,「経済科学は,経験科学として,過去に経済上の活動(Wirtschaftsleben) の領域にあったもの,現在あるもの,そして,未来に(多分)あるであろうものを完全に ありのままに(schlicht)研究すべきである」(Sombart, W. 1930., S.297.; 参照。小島昌 太郎監訳1933. 350頁; 参照。吉田和夫2010. 74頁)と考える,後者を代表する1人であり, 1930年に,経済学史として『3つの経済学』(Die Drei Nationalkonomie, Berlin 1930.:小島昌太郎監訳1933年)を出版した。 周知のように,ニックリッシュは,歴史学派に勝利した,Nationalkonomie に関心が あり,この Nationalkonomie から独立しようとした。ところで,1912年に,彼が主著 の初版を出版した時,Nationalkonomie は古典派経済学から新古典派経済学の移行期に あり,ドイツ語圏ではオーストリア学派の限界効用学派が主流であったが,1922年に,第 5版の『経済的経営学』の「労働の組織」で取りあげたが,技術論(Kunstlehre)のアダ ム・スミス(Smith, A., 17231790)の伝統を受け継ぎ(Vgl.Schumpeter, J. 1914., S.52.; 参照。中山伊知郎・東畑精一訳1980. 113頁),「市場論」で, エコノミスト, あるいは, フィジオクラット(Physiokrat)と呼ばれる論者は,どのようにして経済上での生産が社 会上での経過(Vorgang)として成立するのか,どのようにしてこの生産が各個人の消費 を,また,このような消費が再びその他の生産を規定するのか,どのようにして個々の生 産と消費の行動が総ての他の生産と消費の行動に決定的な影響を与えるのか,そして,ど のようにしてあらゆる経済上での活力の個々の要素が特定の動因(Triebkraft)の影響の ニックリッシュの体系化の試みを,初版として1912年に出版された『一般商事経営学』から, 第7版として1929年から1932年に出版された『経営経済』への過程と観れば,両著はこの過程の 最初と終りに公開された,経済学史とみなせる。
下で定期的に(jahraus jahrein)特定の経路(Weg)で進行するのかを確定しようとし ていた(Vgl.Schumpeter, J. 1914., S.39.; 参照。中山伊知郎・東畑精一訳1980. 68頁)。 その際,各経済期間において,技術上での現象のみを観察し,経済上での循環の事実が認 識されない限り,経済上の因果性( Kausalitt)の導線(Leitungsdrauf),内部の必然 性と,経済の一般的な本質に対する洞察は欠落していると考えていた(Vgl.Schumpeter, J. 1914., S.3940.; 参照。中山伊知郎・東畑精一訳1980. 69頁)。また,経済上の循環の一 般的な本質は,「流通」( Zirkulation ),「社会的生産物」( Sozialprodukt )と「分配」 ( Verteilung )という3つの理念で表わされるが( Vgl.Schumpeter, J. 1914., S.44 u. S.77.; 参照。中山伊知郎・東畑精一訳1980. 86頁 204頁),この経済上の循環を解明すると いう課題に対して,最少の必要経費(Aufwand)で最大の個人的な欲求の充足を目指す努 力,すなわち,経済上での原則(wirtschaftliches Prinzip)を仮定していた(Vgl.Schumpeter, J. 1914., S.43.; 参照。中山伊知郎・東畑精一訳1980. 83頁)。 ニックリッシュが,独立できると考えた最大の根拠は,1776年に出版された,アダム・ スミスの『国富論』(An Inquiry into the Nature and Causes of the Wealth of Nations.: 水田洋監訳2000)が,最初の2編で経済上の過程を叙述し,そこでは,分業から開始して, 貨幣・価格・資本と分配の問題を取り扱い,第3編で理論上での像と事物(Ding)の実際 の展開との比較のための試み,第4編で商業政策上での討議,第5編で,ドイツの表示を 適用すれば,「資金管理」(Finanzwissenschaft)の描写を取りあげるが(Vgl.Schumpeter, J. 1914., S.53.; 参照。中山伊知郎・東畑精一訳1980. 114115頁),このような論理展開が, 1907年に出版された,第5版のマーシャル(Marshall, A., 18421924)の『経済学原理』
(Prin-ciples of Economics.: 大塚金之助訳 1928)でも継承されていたからである。両著間の で,スミスの軌道でのドイツの経済学の主道(Heerstrae)の最高峰とシュンペーターが みなす,1832年のヘルマンの『資産, 経済,労働の生産性, 資本,価格, 利益,所得と 消費の国家経済上での研究』(Hermann, von F.B.W.,: Staatswirtschaftliche Unter-suchungen ber Vermgen, Wirtschaft, Produktivitt der Arbeit, Kapital, Preis, Gewinn, Einkommen und Verbrauch)を見れば(Vgl.Schumpeter, J. 1914., S.55.; 参照。中山 伊知郎・東畑精一訳1980. 127頁), ニックリッシュの初版の『一般商事経営学』での検討 マーシャルの主著『経済学原理』は,初版が1890年,最後の大改訂が行われた第5版は1907年 に出版されている。その内容は,序論としての第1編と第2編に続き,第3編『欲望とその充足』 と第4編『生産要素(土地・労働・資本・組織)』においてそれぞれ需要, あるいは,供給に関 する個別研究を行った後,第5編『需要・供給・価値の一般関係』と第6編『国民所得の分配』 で,これらの個別研究を総合している(参照。杉本栄一1950. 179頁)。
が Nationalkonomie に忠実であったことを理解できる。反面,彼は,「市場論」では なくて,「企業論」で,多くの場合に,生産,流通と分配の理論に分ける,あるいは,し ばしば,流通の理論の代わりに,消費の理論が付加されてきた問題を( Vgl.Schumpeter J. 1914., S.73.; 参照。中山伊知郎・東畑精一訳1980. 191頁),「価値論」により,統一して 検討できると主張した。また,少なくとも,マルサス(Malthus, R., 17661834)に代表 される「人口の問題」,マルクス(Marx, K., 18181883)に代表される「階級の問題」や 労働力で所得を得る「労働者問題」などは,地主に係わる「利子」の問題と共に,経営経 済学では主要な課題ではないと彼は考えた。更に,エコノミストが,本質上,労働者の雇 用(Beschftigen),労働手段の配備(Beistellen)と,労働者に対する生計費(Unterhalt) の前貸し(Vorschieen)により特徴付けてきた,資本家(と地主)の概念(Vgl.Schumpeter J. 1914., S.73 u. S.94.; 参照。中山伊知郎・東畑精一訳1980. 189頁 259頁),特に,エコ ノミストが固持してきた「前払いの思想」(Vorschugedanke)を継承しながら(Vgl. Schumpeter J. 1914., S.74.; 参照。中山伊知郎・東畑精一訳1980. 192頁),「資本家」を 「企業家」に替え,不労所得者ではなくて, 彼らも労働して「企業家賃金」を得る者と考 えた。そして,Nationalkonomie の指導原則である「自利心」(Eigennutz),あるいは 「自身の利害」(Selbstinteresse)の原則を(Vgl.Schumpeter J. 1914., S.74.; 参照。中山 伊知郎・東畑精一訳1980. 193頁),「私的な利己主義」(Egoismus)に替えた。しかし, 技術上での問題であり,仮想的な現象として,農業と工業の間には本質的な相違が存在し, 前者には逓増する資本利用(vermehrte Kapitalaufwendung),後者には逓減する単位原 価率( sinkender Einheitskostensatz )が付随するという対立する見解に係わる問題は (Vgl.Schumpeter J. 1914., S.75.; 参照。中山伊知郎・東畑精一訳1980. 194195頁),「農 業」には係わらずに,「製造業(と商業)」を対象とするとして,回避した。また,アダム・ スミスやチュルゴイ( Turgot, R. J., 17271781)らにより呈示された「分業制」を共同 体の前提として採用した。更に,アダム・スミスにより呈示された,総ての生産に参加す る者に対して,同一の程度での生産を反復させる動機になる,地代,[労働に対する]賃 金( Arbeitslohn )と利益を確保するために充分な金額である「自然価格」(natrlicher
この点,シュンペーターは,古典派の経済学者が,「理論上の問題において総て本質では同一 の過程(Weg)を進んだことは,理論を知る者は疑わない」(Schumpeter, J. 1914., S.60 Fu- note 1.; 参照。中山伊知郎・東畑精一訳1980. 145頁)と述べている。 この点,アダム・スミスは,経済活動者の基本的な動機として,たとえば,パン屋の好意(Wohlwol-len )ではなくて,彼の自身の利害( Selbstinteresse )によりわれわれはパンを期待していると 主張した(Vgl.Schumpeter J. 1914., S.74.; 参照。中山伊知郎・東畑精一訳1980. 193頁)。
Preis)を(Vgl.Schumpeter J. 1914., S.78 u. S.47 Funote 1.; 参照。中山伊知郎・東畑 精一訳1980. 205頁 95頁注1),価格と成果分配の決定要素として,「必要経費」(Aufwend) や「公正な賃金」などに区分して,より詳細に検討しようとした。反面,リカード(Ricardo, D., 17721823)が呈示した,固定資産(固定資本(stehendes Kapital))の使用は生産過 程の延長(拘束期間)を伴うが,より長期の利子の支払いと本来の交換法則の更なるズレ (Deviation)の必然性をもたらすのかという問題を(Vgl.Schumpeter J. 1914., S.80.; 参 照。中山伊知郎・東畑精一訳1980. 210211頁),この拘束期間が使用可能な資本を変更す るとして,資産構成と資本構成の問題として見直し,交換価値に対する使用価値の基本的 な意義と,生産費のみを価格の決定要因とみなすことの不可能性を認識した(Vgl.Schumpeter J. 1914., S.84.; 参照。中山伊知郎・東畑精一訳1980. 226頁)。そして,ニックリッシュは, 古典派の経済学者にとり最重要な問題であった「分配の理論」( Verteilungstheorie )を (Vgl.Schumpeter J. 1914., S.86.; 参照。中山伊知郎・東畑精一訳1980. 233頁),「価値の 創造」と関連付けて,検討した。その際,定性的な課題より,定量化できる課題(歴史の 事例より統計の資料)にウエートを置いて,「収益性」と「経済性」を厳密に区分し,「収 益性計算」「必要経費(原価)計算」「収支計算」などを展開した。 なお,本稿では,ニックリッシュはドイツ人であるから,彼を新歴史学派の経済学者と みなそうというのではない。彼は,「歴史的な個別研究」(事例研究)の育成の必要性を見 出し,たとえば,1908年の『カルテル論』や1921年の講演録『銀行業での資金の循環と銀 行手数料』を書き,その後も,継続して補足研究をした。そして,彼の体験に基づいて, 「恐慌」,「非自発的失業」「過剰生産」「遊休設備」「独占」「カルテル」「機械化」「国際貿 易」「信用創造」「金融・貨幣制度」などについて,事例の記載と統計の資料を用いて,説 明した。彼は,歴史学派の本質として「理解への最高で,最も優雅な魅力は,非歴史家が 叙述できるものではなくて,むしろ,ただ自らの歴史上での研究作業によってのみ開拓さ れる」(Schumpeter, J. 1914., S.99.; 参照。中山伊知郎・東畑精一訳1980. 279頁)という シュンペーターの見解を実行した者の代表者の1人である。また,シュンペーターは,歴 史学派の6つの観点の1つとして,「個別的な関連に対する関心の観点」から「われわれ が関心を有する現象の具体的な因果関係(Kausation)を呈示することこそ,常に,社会 諸科学者の課題である」(Schumpeter, J. 1914., S.112.; 参照。中山伊知郎・東畑精一訳 1980. 323頁)と述べ,また,「有機的観点」から,「歴史学派は,常に,国民経済(Volks- wirtschaft)は決して独立した経済主体の混合物には解消されるものではないこと,また, 国民経済上での現象は決してその個別の構成要素の単なる帰結( Resultant )ではないこ
とを強調している」(Schumpeter, J. 1914., S.112113.; 参照。中山伊知郎・東畑精一訳 1980. 324325頁)が,「国民経済を構成する個別経済は,経済上の理論が記述する関係を はるかに超える意義を有する緊密な相互関係( Wechselbeziehung )にあるが,この相互 関係は個々の経済主体を形成し,また,理論が語ってきたこととは異なる種類の,異なっ て説明されるべき経済主体の態度を強要する」(Schumpeter, J. 1914., S.113.; 参照。中山 伊知郎・東畑精一訳1980. 325頁)と説明する。これは,正に,ニックリッシュが経営経済 学の体系化のために行ってきた研究姿勢である。そして,ワルラス(Walras, M. L., 1934 1910)の従属者達(Anhnger)がフランスの教壇(Lehrkanzel)から,メンガー(Menger, C., 18411921)の従属者達がドイツの教壇からほとんど排除され(Vgl.Schumpeter, J. 1914., S.115.; 参照。中山伊知郎・東畑精一訳1980. 333頁),マーシャルが,ワルラスの全 学説,特に, 限界効用論( Grenznutzenlehre )を秘密に受け入れたのに対して( Vgl. Schumpeter, J. 1914., S.116.; 参照。中山伊知郎・東畑精一訳1980. 334頁),ニックリッ シュは,古典学派の経済学者が軽々しく上辺のみで処理した( hinweggleiten )問題のグ ループに対して,堂々と宣言して,限界効用( Grenznutzen )を自らの理論,特に,「価 値と価格形成」に組み込み(Vgl.Schumpeter, J. 1914., S.117.; 参照。中山伊知郎・東畑 精一訳1980. 342頁),生産物の交換基準として「市場価格」のみではなくて,「使用価値」 (Gebrauchswert)を活用しただけではなくて(Vgl.Schumpeter, J. 1914., S.119.; 参照。 中山伊知郎・東畑精一訳1980. 348頁),オーストリア学派の1つの特徴である「帰属理論」 (Zurechnungstheorie)を用いて,生産物の価値と価格と,生産手段の価値と価格の間で の橋渡し(Brcke)を築いて,価値の移転を説明した(Vgl.Schumpeter, J. 1914., S.122.; 参照。中山伊知郎・東畑精一訳1980. 356頁)。 ドイツの経営経済学の繰り返される論争を鑑みて, ゾンバルトが,「単なる理論家は, われわれが知っているように,彼らの理論が果たすべき目的,すなわち,経済上での活動 ( Wirtschaftsleben )を理解するという目的に対して常に気を付けない時には,直ちに, 役に立たない法則の創造(Gesetzesmacherei)に執着してしまう。……純粋な経験主義者 ( Empiriker )は,無分別な記述の危険から守る理論を,直ちに,無視する」( Sombart, W. 1930. S.320.; 参照。小島昌太郎監訳1933. 375頁)と嘆いた状況の下で,ニックリッシュ の主張も「規範論」として批判されてきたが,「経験は,普遍的なもの(Allgemeine)に 対立する,特殊なもの(Besondere)の認識,あるいは,また,われわれは言うことがで きるが,現実の,すなわち,空間と時間における現象の,把握と描写である」(Vgl.Sombart, W. 1930. S.308.; 参照。小島昌太郎監訳1933. 363頁)というゾンバルトの見解から見れば,
規範論として処理できない内容を有している。
Ⅰ ニックリッシュの主な著作の概要
ニックリッシュには,公開された,単著は17冊ある。著書目録には,この他にも,1923 年に出版された,『企業の立場から見た貸借対照表』(Die Bilanz vom Standpunkt der Unternehmung: Die bisherige und zuknftige Gestaltung der Grundfrage des Bi-lanzproblems)があるが,この本には,Osbahr, W. の単著に,第3版から編著者として 彼は介入した。また,1926年から改訂版が継続して出された,『ドイツでの経営経済の研 究』(Das Studieum der Betriebswirtschaft in Deutschland)は,Guthsmuth, W. と の共著であり,留学生に対する商科大学での教育制度の解説書である(Vgl.Kaiserslautern Universitt, 2004. Anhang.)。
周知のように,ニックリッシュは経営学の体系化に務めた。1903年の学位申請論文『貿 易収支と経済均衡』(Handelsbilanz und Wirtschaftsbilanz)により,彼の研究の開始 点と,どのような著作と論者に彼が影響されたのかを理解できる。また,1909年の『カル テル論』(Kartellbetrieb)は,カルテル円熟期の事例研究とみなせる。更に,1910年に彼 はマンハイム商科大学に就任するが,1911年の小冊子『商科大学における商業学の展開』 (Die Entwicklung der Handelswissenschaften an den Handelshochschulen)は,新 歴史学派の国民経済(Volkswirtschaft)ではなくて,Nationalkonomie,特に,オース トリア学派のメンガーに親近感を持っていたことを示唆する(Vgl.Nicklisch, H. 1911. S. 21 22.),そして,1912年の『一般商事経営学』では,「私経済学は,個別経済(Einzel-wirtschaft)や企業(Unternehmung)の概念を手掛かりとして,Nationalkonomie か ら独立する」(Nicklisch, H. 1912. S.2.; Vgl.Schnpflug, F. 1933. S.160.; 参照。大橋昭 一・奥田幸助訳1970. 144頁)と宣言する。 第一次世界大戦中(1914年7月28日1918年11月11日)には,1915年に,小冊子『事業 における戦争リスクと戦時決算書のための資産の評価』(Das Kriegsrisiko im Geschft und die Bewertung des Vermgens fr die Kriegsbilanz)と,講演録『利己主義と義 務感』(Egoismus und Pflichtgefhl)が公開された。この講演で,ニックリッシュは, マンハイム商科大学長として,年次祭典の祝辞で,71歳のブレンターノ( Brentano, L., 18441931)を批判した。既に1912年に新歴史学派のブレンターノは私経済学の無用を主
『組織論』(Weg aufwrts ! Organisation, Versuch einer Grundlegung)と第5版と して1922年に公開された『経済的経営学』(Wirtschaftlicher Betriebslehre)の準備に彼 は追われていた。なお,敗戦後の,1919年に公開された,小冊子『犠牲と将来』( Opfer und Zukunft)は戦争行為に対する真摯な反省に終始している。 1920年代の前半では,1921年にベルリン経済大学に移籍するが,国家・民族の連帯を説 く一般組織原則から,有機的組織・経営の同一性を説く経営組織原則への修正をめざして, 第2版として1922年に『組織論』, 資産の組織から価値の流れへの展開をめざして, 第6 版として1925年に『経済的経営学』が公開される。なお,1920年の講演録『学士卒の商 学士』( Der Diplom-Handelslehrer )は, ベルリン経済大学の教育の抱負を,1921年の 『経営経済学の研究』(Vom Studium der Betriebswirtschaftslehre)〈【筆者補足】内容 は,1921年の論文 Betriebswirtschaftslehre, in.ZfHH. 1921. と同一〉は,商科大学で の教育と卒業生の経営活動に対する取り組み方の指針を示唆する。 また,1921年の講 演録『銀行業での資金の循環と銀行手数料』(Der Umlauf der Mittel in Bankgeschft und Bankkonsten )は,戦後の経済復興のために,金融制度の整備と強化を呼びかけた ものとみなせる。1920年代の後半は,1928年のラジオ講演録『経営経済原理』(Grundfragen fr die Betriebswirtschaft)で,経営経済学の認知に務めると共に,第7版として,1929 年から出版される『経営経済』( Die Betriebswirtschaft )の準備期間とみなせる。その 際,1929年の論文「経営経済の研究方法」(Die Methoden der betriebswirtschaftlichen Forschung, in.ZfHH. 1929.)は,そのまま,『経営経済』に転用されるが,「直観と教育 が,手続きとして,演繹法と帰納法のように,相互に対立することになる。帰納法が,演 繹上で認識されるものを,適用するように,教育は直観上での認識を適用する」(Nicklisch, H. 1929. S.3 右; Nicklisch, H. 1929/32. S.27.)という,独自の研究・教育姿勢が公表さ れる。反面,191 4年にマンハイム商科大学に,研究目的と高等教育機関の講義(Hochschulunter-richt)での利用のために,広範囲に経営活動についての説明資料(Auschauungsmaterial) を集め,整理することを課題にする,経営科学の研究所(betriebswissenschaftliches In-stitut)を創立した,ニックリッシュが,A.E.G. と Dresdner Bank の継続調査を『経済 的経営学』では中断し,『経営経済』では,1918年から1923年まで, いわゆる「革命・イ ンフレーション期」を空白にした,なぜ。第一次世界大戦中から始まったインフレーショ ンを抑えるために,1923年11月15日から発行されたレンテンマルク(Rentenmark)の企 業に対する影響を知りたい者には残念である。
第二巻の第C章を第Γ章と印刷する程,粗雑に校正された。そして,1933年にナチスが政 権をとったが,1933年に『新しいドイツの経済指導』(Neue deutsche Wirtschaftsfhrung), 1934年に『金儲け論』( Profitlehre ? )と『向上しろ,国民・経済・教育』( Aufwrt !
Volk, Wirtschaft, Erziehung),1935年に『経済の管理』(Die Lenkung der Wirtschaft) が出版された。内容では,新しい政権により計画化経済政策が推進された時期に,分業経 済体制の擁護の必要性を主張したが,ニックリッシュは『金儲け論』で自ら規範論者であ ると宣言した,なぜ。従来のように,新しい経済体制に合せた理論を展開したら,全体主 義をスローガンにして,国家・民族を基礎にした計画化経済を検討しなければならないた め,現実の基盤を喪失した自ら理論は次第に現実離れした「規範論」になると彼は自覚し た。そして,1930年代の後半には,1936年に小冊子『経営経済学の展開の現在の立場と将 来』(Der gegenwrtige Stand der Entwicklung der Betriebswirtschaftslehre und ihre Zukunft)を公開し,10の設問に答える形式で,将来の健全な発展のため,自由主義 経済体制の下での自らの概念の現実妥当性を正した。そして,1938年の論文「新しいドイ ツの経済」(Die neue deutsche Wirtschaft, in.DBW. 1938.)で,ゾンバルトの言葉を借 りて,自らは「精神科学者」( Geisteswissenschafter )であると宣言する( Nicklisch, H. 1938. S.272 左S.272 右; 参照。奥田治人訳1996. 141頁; Vgl.Schumpeter J. 1914., S.28.; 参照。中山伊知郎・東畑精一訳1980. 31頁)。なお,ニックリッシュの最終論文は, 1940年の「平和と戦争での減耗と資本参加」(Abntzung und Kapitaltilgung im Frieden
und im Kriege, in. DBW. 1940.)である。
精神科学(Geisteswissenschaften)は,ディルタイ(Dilthey, W., 18331911)による自然 科学に対する道徳科学を表わす用語であるが,現在では,広く人文科学全般を指すものとなって いる(参照。吉田和夫2010. 37頁)。また,精神科学者(Geisteswissenschafter)という言葉は, ゾンバルトが,1930年の『3つの経済学』で,9 つの認識方法から Nationakonomie を区分し た時に,自然科学的な(Naturwissenschaftlich)Nationalkonomie と精神科学,あるいは, 文化科学的な(Geseist- oder Kulturwissenschaftlich)Nationalkonomie を対比したことに 由来するが(Vgl.Sombart, W. 1930. S.8.; 参照。小島昌太郎1933. 10頁) ,いずれにしても,Na-tionalkonomie である。また,規制的な(richtende)Nationalkonomie が独特の認識目標 として「あるべきもの」(Seinsollende)の認識を見付ける「規範科学」(Normative Wissenschaft) であり(Vgl.Sombart, W. 1930. S.8 u. S.57.; 参照。小島昌太郎1933. 29頁 74頁),自然科学的 な Nationalkonomie である,整序的な(ordnende)Nationalkonomie は,いずれにして も,市場分析を達成することができるのみであるのに対して( Vgl.Sombart, W. 1930. S.138.; 参照。小島昌太郎1933. 168頁 ; 参照。吉田和夫2010. 36頁),精神科学的な Nationalkonomie は,理解的な(verstehende)Nationalkonomie とも呼ばれ,メンガーの「自然科学的な観察 様式(Betrachtungsweise)を,文化科学において,許可されるもの,正に,必要なものとして 証明しようとした」(Sombart, W. 1930. S.170.; 参照。小島昌太郎1933. 202頁)思い込みから, 開放されたものであるとみなした。そこには,「規制的な Nationalkonomie を追求する者は, これ〈【筆者補足】Nationalkonomie〉を裏切って哲学を教え,整序的な Nationalkonomie を信奉する者は,これを裏切って技術論を教える」(Sombart, W. 1930. S.342.; 参照。小島昌太 郎1933. 400頁)という考えが潜んでいた。
彼は,戦後,「ナチ」とか,「国家社会主義者」と非難された, なぜ。 根拠は,59歳の 1934年7月1日付けでの国民社会主義教員同盟の会員カードと,64歳の1940年4月1日付 けでのナチス党の構成員カードが連邦アルヒーフに残っていることである(参照。大橋昭 一編著1996. 166頁 186頁 200頁 206頁)。当時のナチスの党員獲得運動を考えれば,非難は 正当なのか。ドイツの敗戦日は1945年5月8日であり,ニックリッシュは,1946年4月28 日に70歳で死亡するが,1942年以降,講義以外,ドイツ労働戦線などのための公演を面倒 な義務とみなしていた(参照。大橋昭一編著1996. 188頁)。
Ⅱ
『貿易収支と経済均衡』
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3)
ニックリッシュの学位申請論文『貿易収支と経済均衡』(Handelsbilanz und Wirtschaftsbi-lanz)は,貿易収支による経済均衡について論ずる。そこでは,1841年に出版された,リ スト( List, F., 17891846)の主著『政治経済の国民的体系』(Das nationale System der politischen konomie.: 小林昇訳 1970)により,国民経済(Volkswirtschaft)での 貿易収支の重要さが強調された(Vgl. Nicklisch, H. 1903. S.6 u. S.49.)。この著により, ニックリッシュは,国民経済での「財政上の均衡維持」の原則を認識した。また,1776 年に出版された,アダム・スミスの主著『国富論』により,彼は,分業型の経済体制での 生産と消費の分離と均衡,貨幣経済,価値の循環を理論として確認した(Vgl. Nicklisch, H. 1903. S.2431.)。 しかし,イギリスのアダム・スミスは自由貿易主義を唱えたのに対して,ドイツのリス トは経済保護主義を唱えた。 この点, ニックリッシュは, リストを先駆者とする国民経 済学(Volkswirtschaftslehre),つまり,歴史学派に基づき,発展途上のドイツ工業を育 シュンペーターは,リストについて「彼の純粋な経済学上での業績(Leistung)は特別に深い ものではない。また,彼を歴史学派の1先駆者と呼ぶことは正しくない」(Schumpeter, J. 1914., S.71.; 参照。中山伊知郎・東畑精一訳1980. 181頁)と述べている。 ドイツ語圏では,従来,政治経済の広範な領域を対象とする「官房学」が展開されてきたが, フランス革命やナポレオン戦争後に,プロイセンなどの諸領邦国家において啓蒙主義に影響され た開明的官僚層による自由主義的改革が進められると,イギリスから古典派経済学が導入され, これと官房学が融合して「ドイツ古典派」と呼ばれる学派が成立した。しかし,19世紀前半にな ると,イギリスの古典派経済学の自由貿易主義(および国際分業論)は結局のところ工業先進国 の自利心(Eigennutz)に基づく理論であり,ドイツのような後進国では自由貿易が国力を減退 させることが明らかになり,自国の実情に即した独自の政策が要望されるようになった。すなわ ち,イギリスの古典派経済学のように,自利心を動機とする独立した個人から構成された競争社 会を想定して一般経済法則を解明するのではなくて,特定の社会組織に帰属する者は「共同体意 識」を有するとみなして,個人の私的な利己主義( Egoismus )ではなくて,個々の社会組織が 文化・倫理・制度上での要因により強く規定された,「有機体」として形成されている状況を想 定して,歴史上での経済社会の段階的な発展を理論・歴史上で実証する,歴史学派が登場した。
成するための保護貿易政策を主張し,「共同体意識」や「有機体」という仮説としての[調 整のための]理念(regulative Idee)を継承した(Vgl.Sombart, W. 1930. S.109.; 参照。 小島昌太郎1933. 135頁)。 また,ニックリッシュが研究を開始した当時の新歴史学派は,ドイツの統一前後の工業 化と資本主義の興隆に伴い発生した労資対立の激化や「社会主義」の要請という社会問題 を背景に,国家による社会政策を主張していた。新歴史学派は,このような社会問題は, 資本主義の弊害であり,その解決に社会政策により所得の再分配を実施して,「社会主義」 への道を封ずる必要性を主張した。彼の「社会主義」や「計画経済」に対する嫌悪は,こ のような新歴史学派の主張を継承しているが,1917年のロシア革命と1918年のドイツ帝国 の崩壊や,1933年のワイマール共和制の崩壊に繋がる労資の階級闘争により強化された。 新歴史学派の代表者は,社会政策学会で主流派の位置を占めたシュモラー(Schmoller, G., 18441931)であるが(Vgl. Nicklisch, H. 1903. S.33.),ニックリッシュはワグナー (Wagner, A., 18351917)を重視している(Vgl. Nicklisch, H. 1903. S.5556 u. S.61 u.
S.90 u. S.93 u. S.94 u. S.96 u. S.97 u. S.98 u. S.107 u. S.108.)。ワグナーは,右派で, ビスマルク期の最も重要な経済学者の1人で,国家による社会政策を主張し,ドイツの金 融信用制度の発展を準備して,第一次世界大戦前の発券銀行政策や禁輸政策に重要な影響 を及ぼした。また,ワグナーは,国家社会主義や講壇社会主義の代表的論客として認めら れていたが,左派で,労働組合による下からの社会政策を主張する,ブレンターノ(Brentano, L., 18441931)としばしば大喧嘩をした。1912年に,このようなブレンターノが私経済学 を批判したのに対して,ニックリッシュは私経済学を擁護したとみなされている( Vgl. Nicklisch, H. 1915. S.103 右)。また,フィヒテ(Fichte, J. G., 17621814)の『封鎖的 貿易国』(Der geschosene Handelsstatt, 1800.)を重視し,リストとスミスと対比でき
る,人物とみなした(Vgl. Nicklisch, H. 1903. S.3951.)。ニックリッシュは,ワグナー から,ドイツ帝国に相応しい経済システムの構築とその手段としての「金融制度」,特に,
歴史学派は,ドイツ国内では,リストと同様に,ドイツの政治・経済上での統一を支持すると 共に, 保護貿易政策を主張し, 海運商などの特権商人を支持基盤とする「ドイツ・マンチェス ター学派」の自由貿易論と激しく対立した。
ワグナーは,自著『一般,あるいは,理論的な国民経済学』(Allgemeine oder theoretische Volkswirtschtslehre, 1876, 79, 92.)で,その他では古い見解〈【筆者補足】つまり,歴史学派〉 に執着しているが,価値論と,一部の価格論で,限界効用学説の基本的な要素を採用している (Vgl.Schumpeter, J. 1914., S.116.; 参照。中山伊知郎・東畑精一訳1980. 339頁)。 シュンペーターは,フィヒテの『封鎖的貿易国』を,経済学の専門上の業績とはみなせないと 評している(Vgl.Schumpeter, J. 1914., S.56.; 参照。中山伊知郎・東畑精一訳1980. 130頁)。反 面,ゾンバルトは,「『封鎖的貿易国』は『正しい』経済の完全な体系を描いている」(Vgl.Sombart, W. 1930. S.47.; 参照。小島昌太郎1933. 63頁)と評価している。
「銀行経営」を,フィヒテから,「教育」を重視する姿勢と共に,両者から,フランスに 対する嫌悪感とドイツに対する愛国心を喚起された。
なお,ニックリッシュにとり,「国家社会主義」という用語は, 新歴史学派の国家によ る社会政策,具体的には,国民の欲求を充足する「新しい経済システムの構築と運営」を 示唆する標語であり(Vgl.Nicklisch, H. 1933. S.64.),1933年以降も,国民社会主義ドイ ツ労働者党(Nationalsozialistische Deutsche Arbeiterpartei)には,たとえば,失業 対策として「時短労働」を推進したり,大企業を優遇する経済政策などに違和感を彼は 持っていた。この点,1934年に,コジオール(Kosiol, E., 18991990)は,「〈【筆者補足】 緊急の課題は失業と過剰生産と,インフーレョンの抑制であったが〉,その解決に, ドイ ツでの国家社会主義の運動が取り組んだ,総ての経営経済上での問題,経営の全体経済上 での目標設定,管理者(Fhrer)と従業員の給付共同体,正当な賃金支払いに対する要 求,あらゆる協働者の成果への参加( Ertragsbeteiligung ),責任性と良心の育成( Ge-wissensbindung)についての教育,創造的な人間に対する資本の役立て(Dienstbarmachung) 〈【筆者補足】提供〉, 経済による需要の調整された充足は, ニックリッシュでは, ほぼ20 年間,彼の研究活動の前面にあった。このため,彼は,また,ドイツの単科大学では,若 い世代の開拓者になってきた」(Kosiol, E. 1934. S.326.)と評価した。コジオールのこの 評価は,1934年に行われたため,ニックリッシュは,1914年〈【筆者補足】第一次世界大 戦の開戦〉から,新しい経済システムの構築の必要性を「国家社会主義」という言葉を用 いて語っていたことを示唆する。しかし,1917年のロシア革命を契機に,「社会主義」と, 1933年以降も,全体主義の下で,特定の「民族」や「企業」などを支援する,政治活動と は一線を画していた。
Ⅲ
『カルテル論』
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9)と『新しいドイツ経済の指導』
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3)
ニックリッシュは,歴史学派に属する,グルンゼル(Grunzel, J. 生没不詳)に刺激さ れて,保護貿易主義を唱えたが(Vgl.Grunzel, J.,: Der internationale Wirtschaftsverkehr und seine Bilanz, 1895.; Nicklisch, H. 1903. Vorwort.),やがて,カルテルに興味を持っベルリン経済大学でのニックリッシュの銀行経営のセミナーは,ニックリッシュの思考の長所 と実務の結合についての証明を目指した(Vgl.Seischab, H. 1936. S.49.)。
「ヨーロッパで社会主義と呼ばれているものの種類は多く,たとえば名詞と結合する社会主義 として,国家社会主義,国民社会主義,講壇社会主義,組合社会主義などあり,……総てを含め ると,187の名称があるようです」(吉田和夫2010. 95頁; 参照。吉田和夫2014. 51頁)。
た(Vgl.Grunzel, J.,: ber Kartelle, Leipzig 1902.)。ところで,社会経済組織として は,カルテルは,企業間組織であり,企業よりも上位に位置する,事業共同体(Gemeinschaft der Gesellschfte)で,独自の利害調整を課題にするものであるが,『カルテル論』には, ニックリッシュにより後に重要な概念として把握される,「共同体」「対価」「利益参加」 などに関連した具体例が書かれてある。 まず,「共同体」に関しては, カルテルの本質に より,具体的に,利害共同体(Interessengemeinschaft),条件共同体(Bedingungsge-meinschaft)や価格共同体(Preisgemeinschaft)という概念が用いられた。次に,「対 価」(Gegenwert)については,たとえば,「カルテルから加盟者が自らの給付と引き替え に受け取る,対価の測定(Bemessung)が重要である」(Nicklisch, H. 1909. S.82.)と述 べられる。そして,カルテル清算,特に,加盟者間での利益の分配について精通していた, ニックリッシュにとり,カルテル組織の保全・継続のため,獲得された利益の一部分を全 体のために内部留保することは当然のことである。このカルテルでの内部留保が,企業の 財務政策では,彼の自己金融論や秘密準備金の形成の主張に結び付いた。また,決算以前 に,一定の対価(Gegenwert)で,加盟者の貢献度に応じて,利益を分配することも正当 でかつ必要であった。その際,カルテル組織の保全・継続に必要な利益の内部留保後に余 剰が発生したり,加盟者に事前に割当てられる課題に比べて,未達成や超過が生ずると, 事後にカルテル清算が行われた。このカルテルの清算制度に基づいて,独自の「賃金支払 い制度」は構想された。つまり,カルテル清算での利益の分配の調整の類推から,企業の 利益参加において,従業員に決算以前に賃金が支払われる〈【筆者補足】これは,既に述 べた,Nationalkonomie での「資本家による生活手段の前貸し」である〉が,更に,決 算後に余剰があれば,追加分配されるべきであるとニックリッシュは主張した( Vgl. Nicklisch, H. 1925. S.115.)。また,カルテルと参加企業の関係の類推から,共同体として の企業と参加者の関係を具体例として,1922年と1925年の『経済的経営学』では,「経営 は,現場(Arbeitsplatz)の人間で,工具,材料を装備され,欲求の充足のために設定し た,目的を実現するために,活動する。経営は,作業場(Werkstatt)での複数の人間で, 機械,工具,材料を装備され,行為の目的を共同体として実現しようとする。従って,こ のような現場の共同体(Werkstattgemeinschaft)のグループも,主要な目的が同一で, 行為がこの目的を共同体として実現すべきである限り,経営である。同様の前提下では, このようなグループのグループも経営である」(Nicklisch, H. 1922. S.36.; Nicklisch, H. 1925. S.36.)と主張したが,最後のグループ〈【筆者補足】自立性のない企業〉のグループ としての経営は,その事例としてカルテルの傘下企業を想起させる。 そして,1929/32年
の『経営経済』では,企業間関係も考慮して,「共同体としての経営共同体」 (Betriebsgemenin-schaft als Gemein(Betriebsgemenin-schaft)という観念を基調として理論が展開され,経営の自立性の形 態(Die Formen der Selbstndigkeit der Betriebe)について検討された(Nicklisch, H. 1929/32. S.202234.)。 なお,『カルテル論』は,ドイツ帝国が,個々の重要な事業部門に介入し, 強制カルテ ル(Zwangskartelle)が発生した,状況を背景にしている。しかし,ワイマール共和制で も,カルテルによる,理屈に合わないこと(Sinnwidrigkeit)に対して効果的に抑制しよ う(bekmpfen)とはなされなかった。強制カルテルの継続が長期間に亙り予測されたた め,無能者と資本の誤導( Kapitalfehlleittung )に対する報償金(Prmie)が初めて正 当に強く根拠付けられた(Vgl.Nicklisch, H. 1933. S.73.)。このため,1933年の『新しい ドイツの経済指導』では,「経済は経済活動者の私的な利己主義で滅びる」(Nicklisch, H. 1933. S.58.)という観念の下で,カルテルは,「利己主義」(Egoismus)に基づいて,各 自が,自らの財の可能な販売から,できる限り大きな割当てを確保しようとする努力のた めの機関( Stelle )で,事業拡大に対する継続的な傾向と関連している。カルテルは,利 己主義を用いるための,事業部門の所属者の間での協定(Abmachung)である。カルテ ルは給付条件と支払い条件を探索し( suchen ),販売価格を高めようとする。しかし,事 業部門の内部で協定を維持する,傾向は,多くの場合,非常にはっきりとは現われない。 取り決め( Vereinbarung )が押しつけ始められるや否や,違反が増加する。カルテルの 存在は危なくなる。だが,カルテルに参加する管理者は,このような過程(Vorgang)か ら,条件共同体(Bedingungsgemeinschaft)と価格共同体(Preisgemeinschaft)の技 術を常により多く修得する(beherrschen)能力を与える,経験(Erfahrung)を引き出 してきた。また,繰り返しは,多様に,協定の法律形態と内容を変更する時,カルテルが 持続することをもたらし,変更では,所属者の結合を増強させる,傾向を確認できる。そ して,カルテルの設立後には,今まで外に指導された競争が内部で争われることが明らか になる。つまり,設立後,カルテル内での地位の拡大を巡る争いが始り,条件と価格の規 制だけではなくて,むしろ,販売量,あるいは,購入量の分配が問題になる所では,割当 て(Quote)を増加させる努力で,この争いが起こる。割当ての引き受けの下での,他の 構成員である,会社の買い占めと休止,割当ての賃貸借(Quotenpacht)〈【筆者補足】つ まり,割当交換による棲み分け〉,企業合同(Fusion),カルテルの管理に対して統一的に 指導され,それぞれの割当ての利用が統一的に行われる,構成員の会社と非構成員の会社 によるコンツェルンの形成,並びに,カルテル内での販売と供給の統合(Liefervereinigung)
〈【筆者補足】つまり,シンジケート〉の形成が,このような過程(Weg)の手段であった とみなされる(Vgl.Nicklisch, H. 1933. S.6870.)。 また,財の現場(Gterfront)では,事業部門のグループは,垂直的に構成された事業 部門を形成する。そこでは,消費者が支払う,価格は,垂直的に相互に続く,総ての事業 部門の経営にとり活動の余地(Lebensraum)を内容とする。このような活動の余地の形 式は,利鞘(Spanne)の形式である。総ての利鞘は,集計されると,消費者が支払う,価 格である。価格は労働で相互に続く事業部門の利鞘に区分されることを考えるべきである。 総ての事業部門の経営は,その利鞘から,企業家と同様に,所属者,労働者の給付の対価 を支払うべきである(bestreiten)。利鞘の算定(Berechnung)は,販売された財の数量 単位に対する売上げから,たとえば,材料価値(Stoffwert),給付価値(Leistungswert), 減耗価値(Abntzungswert),あるいは,有効(サービス)価値(Nutzwert)のような, このために調達された総ての[外部による]価値(Fremdwert)を控除すべきである。こ のようにして,利鞘が[経営による]成果に等しいこと,そして,消費者が支払う価格に は, 総ての垂直的に形成される価値創造経営に対して,これらに与えられる活動の余地 ( Lebensraum )としての,成果が含まれるべきである。なお,財の現場は,市場の現場 (Marktfront),事業の現場(Geschftsfront),あるいは,カルテルの現場(Kartellfront)
と呼ばれる(Vgl.Nicklisch, H. 1933. S.8182.)。
Ⅳ
『一般商事経営学』
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1
2)と
『向上しろ,国民・経済・教育』
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3
4)
ドイツの国民経済学( Volkswirtschaftslehre )である,新歴史学派は,統計に基づく 歴史上での資料の集積と研究から,社会上での法則を見付け,経済・社会を発展させるこ とができると主張した。しかし,1883年から始まった,メンガー(Menger, K., 18401921) らのオーストリア学派の Nationalkonomie による方法論争で敗北した(Vgl. Nicklisch, H. 1903. S.96.; Sombart, W. 1930. S.154.; 参照。小島昌太郎1933. 186頁)。歴史学派の Volkswirtschaftslehre は,帰納法に基づく学問であり,統計的分析に従うには余りにも 複雑すぎる人間の動機と社会上での相互作用を観察して,人間行動に関する普遍的な意義 を有する理論の構築を提唱したとみなされていた。『一般商事経営学』では,当時盛んにこの点,ゾンバルトによれば,「ミル(Mill, J. S., 18061873)やケアンズ(Cairnes, J. E., 18231875)などのような,特にイギリスの論理学者によって非常に愛好されている,『演繹上で
の』手続きと『帰納上での」手続きの対比は迷わせる。実際にはこの対比は原則上では存立しな い。彼らが『演繹的』手続きと呼び,Nationalkonomie に適用されることを知ろうとするもの
行われていた,第一次方法論争に注目して,国民経済学( Volkswirtschaftslehre )と私 経済学(Privatwirtschaftslehre)の関係,私経済学の研究対象と指導原理を中心にして, 「ニックリッシュは実質的には商業を営む私企業の指導原理である収益性を選択原理と する,私経済学を構想していた」(田島壮幸1973. 76頁 ; 参照。岡田昌也1978. 319頁 ; 岡 本人志1977. 87頁)という見解がわが国では流布している。しかし,ニックリッシュは, 1911年の小冊子『商科大学における商業学の展開』で,「国民経済(Volkswirtschaft)で は,経済上での原則(konomisches Prinzip)は個別経済での選択プロセスをもたらす。 詳細にこのような効果を追求し,観察し,科学調査(erforschen)することは,National- konomie の本分(Sach)である」(Nicklisch, H. 1911. S.2122.)と主張する程,オー ストリア学派の Nationalkonomie に対して親近感を有していた。また,『一般商事経営 学』では,「私経済学は,個別経済(Einzelwirtschaft)や企業(Unternehmung)の概 念を手掛かりとして,Nationalkonomie から独立する」(Nicklisch, H. 1912. S.2.; Vgl. Schnpflug, F. 1933. S.160.; 参照。大橋昭一・奥田幸助訳1970. 144頁)と宣言する。そ して,メンガーの死後,1922年の『経済的経営学』では,価値概念の名称を,歴史学派の 国民経済学(Volkswirtschaftslehre)からオーストリア学派の Nationalkonomie に依 存したものに変更し,1936年の小冊子『経営経済学の展開の現状と将来』では,「経営経 済学者は限界価値理論の拡大教育を助成すべきである」(Nicklisch, H. 1936. S.7.)と主張 する。このため,わが国では,ニックリッシュの『一般商事経営学』と『組織論』には, 限界効用学派の影響が認められると捉えられてきた( Vgl.Nicklisch, H. 1912. S.2425.; Hicklisch, H. 1922. S.105107.; 参照。鈴木辰雄訳1975. 160162.; 参照。大橋昭一1966. 149150頁 165167頁 216頁)。このようなニックリッシュが,1912年に新歴史学派のブレ ンターノが私経済学の無用を主張したことに対して,真剣に方法論争を行ったとはわれわ れには考えられない。 わが国では,1915年の講演録『利己主義と義務感』での批判は有 は,厳密に解すれば,帰納上での方法により得られた『法則』,あるいは, いずれにしても, 一 般的な法則と最も一般的な法則からの特殊な法則の派生(Ableitung)の下で,個々のケースを 総括する手続き(Verfahren der Subsumtion)である。人がこれにより彼の一般的な法則に到 達する手続きは常に帰納法による手続きである」(Sombart, W. 1930. S.134.; 参照。小島昌太郎 1933. 163頁)と述べている。
ドイツでは,普仏戦争(1870年7月19日1871年5月10日)により得た賠償金で産業革命が行 われた1870年代に,メンガーの主著『国民経済学原理』(Grundstze der Volkswirtschaftslehre. 1871.: 安井琢磨訳1937)は出版された。
ブレンターノの「労働強度の増加の法則」(Gesetz der zunehmenden Arbeitsintensitt)は (Vgl.Blentano, L.,: ber das Verhaltnis der Arbeitslohns und der Arbeitszeit zur Arbe-itsleistung, 1893.),「労働給付が,増加する賃金と,減少する労働時間により,ある限度内では, 向上する」ことを「法則」として主張するが,何か実際の判定,すなわち,労働者が,増加する 賃金と減少する労働時間で,(更に,同一の労働意欲を追加すれば),能率が高まれば,より多く
名であるが(Vgl.Nicklisch, H. 1915. S.103 右),ニックリッシュは,商科大学の中心科 目に相応しい商業学の内容の充実に努めたとわれわれはみなす。われわれが考えるべきこ とは,イギリスで経済を研究すれば,Nationalkonomie になるのに,ドイツでこれを研 究すれば国民経済学(Volkswirtschaftslehre)や国家経済学(Staatswirtschaftslehre) になったことである。そこには,一般のドイツの国民( Volk )が Volk ,Staat ,Reich に特殊なイメージを有することが影響していた(Vgl.Schumpeter, J. 1914. S.3334.; 参 照。中山伊知郎・東畑精一訳1980. 4849頁)。 ニックリッシュが親近感を持った,Nationalkonomie は,わが国では,国民経済学と 訳されてきたが,新古典派経済学の1つのグループとみなされている。すなわち,新古典 派経済学は,狭義では,イギリスの古典派の伝統を重視したマーシャル( Marshall, A., 18421924)(ケンブリッジ学派)を指すが,広義には,オーストリア学派(ウィーン学 派),スイスのワルラスとパレート(Pareto, V., 19481923)のローザンヌ学派(数理学 派)を含めた三学派,更に,イギリスのジェヴォンズ(Jevons, W., 18351882)や,アメ リカのクラーク(Clark, J. B., 18471938)(Vgl.Nicklisch, H. 1912. S.59.; Nicklisch, H. 1925. S.65.; Kosiol, E. 1934. S.323.)なども含められてきた(参照。杉本栄一1950. 50 59頁)。この内,新古典派経済学では,ローザンヌ学派が,一般均衡学派と呼ばれるよう に,経済の分業体制を前提にして,企業(生産者)と家計(個人としての消費者)が市場 価格に基づいて,自らの欲求の充足が最大となるように行動しているという前提の下で, 市場価格の変化により社会的な需要と供給の均衡が実現されるという静態的均衡状態の仮 説を有していた。そして,この仮説によれば,特定の商品での需要・供給・価格の均衡の みではなくて,いずれかの商品で不均衡が発生すれば,これと相互依存関係がある総ての 生産することを意味する」(Sombart, W. 1930. S.255256.; 参照。小島昌太郎1933. 305頁)。こ の点,ゾンバルトにより,彼の主張が,「『法則』として事実確認の要求により登場できない(auftreten) ことは自明であり,少なくとも自明である」(Sombart, W. 1930. S.256.; 参照。小島昌太郎1933. 30 6頁)と評されたように,人間社会での意味上での関係のようなものを示唆する意味法則(Sinn-gesetze)にはなっておらない(Vgl.Sombart, W. 1930. S.253.; 参照。小島昌太郎1933. 301302 頁)。 ブレンターノは,自由党の大蔵大臣であった,英国のグラッドストーン(Gladstone, E., 1809 1898)が予算演説で「人を有頂天にさせる富と力の増加は,……全く有産階級のみに限られて いる」という発言を,マルクスが『資本論』で,虚偽に付け加えたと非難したが,後に,グラッ ドストーンが演説中に述べたことが明らかになった(参照。杉本栄一1950. 169170頁)。なお, ブレンターノ家は,イタリア出身の名門一家で,ルヨ・ブレンターノの伯父は,ドイツロマン主 義の有名な小説家,クレメンス・ブレンターノ(Brentano, C., 17781842)であり,父のクリス ティアン・ブレンターノも著述家であった。 また,兄のフランツ・ブレンターノ( Brentano, F., 18381917)は,オーストリアの哲学者・心理学者で,その哲学思想は,フッサール(Husserl, E., 18591938)の現象学やアレクシウス・マイノング(Meinong, A., 18531920)の対象論など に多大な影響を与えた。
商品の需要・供給・価格に影響を及ぼし, 世界経済での変化を惹き起こすが, 結局, 一 般的な均衡状態で停止する(参照。杉本栄一1950. 7071頁 121127頁)。この一般的な均 衡状態の仮説の影響は大きく, オーストリア学派に属していた, シュンペーターの『理 論経済学の本質と主要内容』( Das Wesen und der Hauptinhalt der theoretischen Nationalkonomie. 1908.: 安井琢磨・木村健康訳 1936: 大野忠男・木村健康・安井琢磨 訳 1983)もこの仮説に基づいて理論は展開された。 この点,ニックリッシュは,新歴史学派よりも,オーストリア学派に親近感を持ってい たため,静態的均衡状態の仮説に基づいて理論を展開していたと一般には誤解されている。 彼は,技術革新による,1870年代以降の急速なドイツでの工業化と工科大学の躍進と,急 激な都市化による人口の移動や普仏戦争(1870年7月19日1871年5月10日)の影響を経 験した。しかし,彼は,供給側での支配的な要因と同様に,需要側での支配的な要因も, 絶えず変化するため,一般均衡論が示唆する完全な静態的均衡状態の存在を実際に体験す ることはできなかった。また,ニックリッシュが検討する,需要と供給(消費と生産)の 不均衡,つまり,過剰生産,非自発的失業,遊休設備などの調整から見れば,厳密にいえ シュンペーターは,静態的均衡理論の本質を厳密に保持しながら,しかも,現実との距離を極 限まで縮めようと努力した(参照。杉本栄一1950. 136頁)。彼によれば, 与件の変化に基づく経 済の徐々たる量的拡大である,「成長」(Wachstum)と,質的拡大の過程である「発展」(Ent- wicklung)とは異なる現象である。前者の「成長」は,静態的均衡状態の一時的な錯乱であり, この錯乱は極めて徐々にのみ発生し,適応による均衡の回復もその都度行われるため,経済の軌 道には全く本質上での変化が無くて, 均衡状態が徐々に移動する過程である(参照。杉本栄一 1950. 133134頁)。他方,「発展」の現象は,循環や成長の現象とは全く異なり,非連続的に,飛 躍的に行われ,絶えず既存の均衡を破壊する作用である。本来の意味における「時間」は,発展 において初めて現われてくる。均衡状態を質的な連続性を確保しながら均衡状態を回復できない 限界に注目して,シュンペーターは『経済発展の理論』を書いた(参照。杉本栄一1950. 141142 頁)。 結果として,シュンペーターは, 一般的な均衡の静態論と動態論という全く無関係な2つ の理論分野に分裂してしまい,1 つの統一的な理論経済学は見失われざるをえなくなった(参照。 杉本栄一1950. 143頁)。原因は,シュンペーターの「循環」や「成長」は,空間的依存関係だけ を含んで時間的依存関係を含まないからと考えて良い。それでは,シュンペーターの「発展」は どうかというと,これはまた完全に質的な,いかなる意味においても量的な関係のない時間だけ を含んでいた。「発展」の行われる「時間」は,「新結合」(neue Kombination)を導入する「起 業者の創造者的活動」が行われる時間である(参照。杉本栄一1950. 190頁)。なお,シュンペー ターは経済関連要因としての「新結合」に考察領域を敢えて拡大することにより,理論の統一性 を喪失したが,グーテンベルク(Gutenberg, E., 18971984)は企業内の「生産プロセス」で, この分離を解消し,動態論を展開したと主張している(参照。万仲脩一2013. 13頁)。しかし,「市 場論」に基づいて, 静態的均衡論から動態的均衡論への展開は目指されたが,「企業論」で可能 であるのか,なぜ。正解は極めて常識的であり,「われわれは静態的に観る(ansehen)か,動態 的に観るかではなくて,むしろ,静態的にも動態的にも経済上での活動を観るべきである」(Sombart, W. 1930. S.151.; 参照。小島昌太郎1933. 182頁)。このため,「Nationalkonomie の今日のいわ ゆる『理論家』が,経済状態の内容上での規定のために,それを『静態的』,あるいは,『動態的』 とみなすだけで充分であると考えることは,彼らが非常にしばしば犯すところの根本的な誤りで ある」(Sombart, W. 1930. S.187.; 参照。小島昌太郎1933. 222頁)。なお,シュンペーターによ れば,均衡状態での国民経済のために,「静態論」と「動態論」を Nationalkonomie に持ち込 んだのは,ミル(Mill, J. S.,)である(Vgl.Schumpeter, J. 1914. S.67.; 参照。中山伊知郎・東 畑精一訳1980. 168169頁)。
ば,「静態的均衡の理論は, 本来, どのようにして均衡の状態が不均衡の過程の内に成立 するに至るかを説明するのではない」(杉本栄一1950. 131頁)。そして,1936年にケインズ (Keynes, J. M., 18831946)の『雇用,利子および貨幣の一般理論』(The General The-ory of Employment, Interst and Money.: 間宮陽介訳 2008)で「豊富の中の貧困」が 取りあげられたように,世界恐慌後まで,「自発的失業」のみを認め, 遊休設備や非自発 的失業を認めなかった新古典派経済学とは異なり,ニックリッシュは,第一次世界大戦後 には,「分業制は,完全に機械化された(mechanisieren),機械が労働を排除するため, 機械と装置の挿入を可能にする。また,人間に任せられる,労働過程では,機械化ができ る限り広範囲に営まれ,その結果,複雑な意識過程は全く阻止され,人間の熟練能力が完 全に利用され尽くされる」(Nicklisch, H. 1933. S.60.; Vgl.Nicklisch, H. 1925. S.8991.) と述べるように,「非自発的失業」を1つの社会問題とみなしていた。 また, 世界恐慌後 には,国際分業では,「輸出と輸入は労働の機会の交換である」(Nicklisch, H. 1934. S.6 7.)と考えていた。 なお,ニックリッシュは Nationalkonomie に親近感を有していたが,新歴史学派で は,歴史,つまり,統計資料を重視して実証しようとする,研究姿勢と共に,思想では, ベルリン経済大学に1906年から1917年まで所属し,1917年にベルリン大学教授となった後, 1931年に再びベルリン経済大学に戻り,社会政策学会の会長になった,同世代人のゾンバ ルト(Sombart, W., 18631941)(Vgl.Nicklisch, H. 1929/32. S.172.)にニックリッシュ この背後には,「国内〈【筆者補足】経済〉の境界を越える,分業制の傾向〈【筆者補足】つま り,サプライチェーン〉から,特に重要な困難が生ずる。国内の安全性を巡る配慮が目立つよう になる時には,国内の経済の構造はポイントがずれている(verschieben)。これは,国際分業を 扱う,経済政策上での方策で,現われる。個々の[国内の]地域(Nationalbereiche)のために 働く,今までの供給国(Leifernation)の製造経済の装置は自らの販路を失う。これは,多くの 購入国(Abnehmernation)で起こりうるが,このための転換(Umstellung)は困難である。 また,これが非常に迅速に起こると,供給国は充分早急に転換することが全くできない。結果は, 経済での根本的な混乱(Verwirrung)である」(Nicklisch, H. 1933. S.1920.; Nicklisch, H. 1934. S.6.)という自由放任の市場政策に反対する考えがあった。
マーシャル(Marshall, A., 18421924)の Nationalkonomie は,イギリス流の功利主義の 基盤に立つ,個々の市民が独立の人格者として互いにその価値を等しく認め合う市民社会を背景 にしているが,オーストリアでは,このような独立した人格者としての尊厳を有する個人は存在 せず,やはり貴族的な中世的な束縛が多分に残存しているウィーン社会の中の個人が経済活動を していた。 そこにおける個人は,ドイツ観念論的な色彩の強い, 国民共同体的な個人であった (参照。 杉本栄一1950. 207頁)。このため,ニックリッシュは,オーストリア学派の National- konomie,特に,メンガー(Menger, C., 18401921)に頼ったが,彼の主著『国民経済学原 理』(Grundstze der Volkswirtschaftslehre.: 安井琢磨・八木紀一郎訳1999)は,1871年に出 版されたため,英独間で歴史的背景と市民が異なることを認識していた。また,フランスと共に, イギリスは,第一次世界大戦では,敵対国であったため,ケンブリッジ学派にも関心があると, ニックリッシュは公表できなかった。なお,マーシャルが動態的均衡論を主張したとみなせるな らば,ニックリッシュも動態的均衡論の主張者とみなせる。