[翻訳]ベンジャミン・A・エルマン 「感情的苦悶
、成功への夢、試験生活」(上)
著者
エルマン ベンジャミン.A, 高津 孝
雑誌名
鹿児島大学法文学部紀要人文学科論集
巻
85
ページ
25-50
発行年
2018-02-28
URL
http://hdl.handle.net/10232/00029986
二五
前文
若者と年長者たちは、試験というマーケットで﹁平等に﹂競争したた めに、彼らはそれぞれ、試験複合体の中へ異なる個人的経験を持ち込ん だ。 成功の儀式は青年たちにとって魅惑的なものであったようであるが、 一方、手に入りにくい学位を追いもとめる彼らより年長の人々にとって 失敗の苦悩は共通の特徴であった。しかしながら、結局、年若い少年に とっての長年の準備期間、年 長 者にとってのさらに長い敗北の期間に基 づく感情的な緊張状態は、 王朝の試験体制に対する人間的反応であった。 その開催地は、成功した若者にとっての機会の場であり、全く成功しな か っ た 年 長 者 に と っ て は﹁ 文 化 的 監 獄 ﹂ で あ っ た 1 。 成 功 し な け れ ば ならないという圧力が、彼らに特有の性格を形成した。大抵の人にとっ て、張謇︵第五章をみよ︶という﹁状元﹂の経歴によって象徴される忍 耐 が、 人 の 生 き 方 に な っ た。 他 の 人 々 は 自 ら の フ ラ ス ト レ ー シ ョ ン を、 エリートの文化的シンボルや通俗的表現、そして時折、自らを苦しめる 文化的監獄に対する政治的反抗へと昇華した。 科挙の制度的メカニズムは、エリートの知的言説と知識人の日常生活 との間の媒介となった。感情的な緊張状態は、わずかな名誉と幸運を与 え た が、 大 抵 の 人 々 に と っ て は 絶 望 も し く は 失 望 に 直 面 さ せ る こ と に な っ た た め に、 彼 ら の 人 生 に お い て そ れ は 触 媒 で あ っ た 2 。 こ の 章 で 1 一 六 三 七 年 に 書 か れ た 方 以 智︵ 一 六 一 一 ‒ 七 一 ︶ の 文 章﹁ 七 解 ﹂ を み よ。 そ れ は、 ﹁ 試 験 人 間 ﹂ の 一 人、 資 産 家 の 一 族 出 身 の 若 者 に 対 す る 意 見 を 表 明している。 W illard Peterson Bitter Gour d pp44-47 に翻訳されている。 2 NivisonProtest against Conventions and Conventions of Protest,
pp.177-201 を
ベンジャミン・
A・エルマン
﹁感情的苦悶、成功への夢、
試験生活﹂
︵上︶
高
津
孝
訳 本訳文は、 Benjamin A. Elman.A Cultural History of Civil Examinations in
Late Imperial China. Berkeley: University of California Press. (2000) の第六章 の翻訳である。 第六章﹁感情的苦悶、成功への夢、試験生活﹂は次の四つの節によっ て構成されている。
前文
一.宗教と、科挙の通俗的維持安定策
(一)通俗民間伝承と宗教 (二)科挙予言のための技術二.明代状元の夢と抱負
(以下、次回)
三.科挙における占いの技術に対する抵抗
(一)一五五八年(嘉靖三七年)順天郷試と自然の変則に対する解釈 (二)科挙における運命の予言に対する清朝の観点四.失敗に対する二者択一の反応
(一)疎外された蒲松齢と科挙生活 (二)洪秀全と科挙についての対抗的未来像高 津 孝 二六 な 相 互 作 用 を 示 す 4 。 記 録 さ れ た 夢 と 幸 先 の 良 い 出 来 事 は、 公 的 に 科 挙受験者の個人的成功もしくは失敗を説明する。それは彼らの潜在的で 集合的な精神の緊張の、明白で非公的な報告であった 5 。 したがって、 試験によって生み出された苦悶は、 歴史的な現象であり、 少年や男性たちは、 それを親しく、 深刻に経験し、 彼らの父権社会のジェ ンダー・イデオロギーがそこに賦与された。彼らの父、母、姉妹と親戚 は こ の 苦 悶 を 免 除 さ れ な か っ た。 彼 ら は、 そ の 経 験 を 共 有 し、 快 適 さ、 慰め、激励を提供した。試験の成功もしくは失敗の直接的、個人的な経 験は、我々が見てきたように、ますます困難になる勝率に対して、お互 いに競争していた何百万もの男性受験者に属するものであった。 社会的、 政 治 的 構 造 の 深 い 溝 は、 試 験 官 の 公 的 な 古 典 的 標 準︵ 八 章 を 見 よ ︶ を、 4 Robert Hegel, Distinguishing Levels of
Audiences for Ming-Chi
ng V
ernacular
Literature:
A Case Study
, in David Johnson,
Andrew Nathan, and Evelyn Rawski,
eds.,18-32 を見よ。 参考 宮崎市定 ﹃科挙﹄ 英語版 pp18-32. popular culture ︵通 俗 文 化 ︶ と elite discourse ︵ エ リ ー ト 言 説 ︶ と の 間 の 両 立 し え な い 分 裂 が、 ど の よ う に 科 挙 体 制 が エ リ ー ト の 文 化 生 活 と 非 エ リ ー ト の 文 化 生 活 を 貫 い ていたかを適切に説明することはないだろうために、 私は、 popular ︵通俗︶ と い う 言 葉 を non-elite ︵ 非 エ リ ー ト ︶ よ り は む し ろ non-official ︵ 非 公 的 ︶ を意味するために使用する。 したがって、 私は popular ︵通俗︶ という言葉で、 エ リ ー ト と 非 エ リ ー ト が 自 ら の 人 生 に 対 処 す る こ と と 同 時 に、 運 命 と 折 り 合 い を つ け、 宗 教 に 援 助 を 祈 る た め に 使 用 し た こ れ ら の 技 術 を 意 味 す る こ ととする。この問題についての Eugenia Lean のアドバイスに感謝する。 5 明 代 後 期 の 文 学 に お け る 夢 の 利 用 に つ い て は、 Judith Zeitlin, Historian of the Str
ange: Pu Songling and the Chines
e Clas sical T ale ︵ Stanford: S tanford University Press, 1993 ︶, pp. 132-81 を 見 よ。 宋 代 の 科 挙 と 知 識 人 の 夢 に つ い ては、 Chaffee,
The Thorny Gates of Learning in Sung China,
pp. 177-81 を見よ。 は、しばしば、知識人たちが、競争的な郷試、会試、殿試という古典的 体制に対する彼らの感情的な反応をある方向へ向ける努力の中で、宗教 や占いへとどのように向かったかを詳細に記録する。一九〇四年︵光緒 三〇年︶ の殿試で清朝における最後の探花 ︵第三位︶ であった商衍 鎏 は、 彼 の 試 験 経 験 に つ い て 次 の よ う に 書 い て い る。 ﹁ 一 八 九 一 年︵ 光 緒 一 七 年︶ 、 二十歳の時、 私の[才気煥発な]いとこは会試に合格し挙人となっ た。しかしながら、次年度に、北京における殿試を終えて広東に帰った 時、 彼は病気になり、 その後まもなく亡くなった。私の母は私に言った、 ﹃ 知 的 す ぎ る の は 人 生 を 縮 め る ―― お 前 の よ う に 少 し 愚 か な 方 が 良 い ﹄ と﹂ 3 。 呉 敬 梓︵ 一 七 〇 一 ‒ 五 四 ︶﹃ 儒 林 外 史 ﹄ の よ う な 通 俗 小 説 や、 蒲 松 齢 ︵一六四〇 ‒ 一七一五︶による物語は、 古典に基づく試験に失敗した人々 によって一般に日常語で書かれ、 通俗的作風でその選抜の過程を嘲った。 このような虚構的文章は、 ﹁透明なテキスト﹂ ではない。それらの語りは、 失敗の観点から試験過程を枠にはめた文化的構築物として読まれねばな ら な い。 こ れ ら の 著 作 は、 ﹁ 通 俗 的 ﹂ 読 者 と し て の エ リ ー ト、 非 エ リ ー ト双方に対して訴えかけたことから、 私は、 意図的に﹁通俗 ― エリート﹂ という二分法に以下疑問を呈し、二つの極点の間の、入り組んで流動的 見 よ。 参 考、 W alter Abell, The Collective Dr eam in Art ︵ Cambridge: Harvard University Press, 1957 ︶,pp57-66. 3 Sheang [Shang] Yen-liu 商 衍 鎏 ,"Memories of the Chinese Imperial Civil Service Examination System,"
Translated by Ellen Klempner
. American Asian Review 3, Ⅰ ︵ spring 1985 ︶ p52 。 こ の 資 料 に つ い て 教 示 し て く れ た Tom Metzger に 感 謝 す る。
ベンジャミン・ A・エルマン 「感情的苦悶、成功への夢、試験生活」 (上) 二七 代わりのルートであった。明代では五万から七万五千人の受験者、清代 では一〇万から一五万人の受験者を有する三年ごとの省試市場において の難題は、地方試においては少年にとっての文化的仕切りであった中国 古典に対する教養を明示することではなく、若者や、数十年間にわたっ て自らの作文技術を研ぎ澄ましてきた年長者によって書かれた海のよう に多くのエッセイの中で目立つであろうエレガントな八股文を書くこと であった。中国古典に対する教養を欠いた人々による、より低い学位を 獲得する企ては、そのような若者が、賄賂を使って思い通りに官職につ き、その正体が暴露された時、充分に素早く発覚した。清朝は特にこの ような結果に対して油断なく警戒していた 7 。 科挙での成功は一般的に経歴における成功 ︵出世︶ を意味した。 たとえ、 このような成功という言葉が、明から清にかけて劇的に変化したとして も︵ 三 章 を 見 よ ︶。 進 士 学 位 の 保 持 者 以 外 全 員、 明 代 末 期 ま で は そ の 官 僚 社 会 に お け る 等 級 が 下 げ ら れ た。 そ し て 清 代 で は、 進 士 学 位 保 持 者 ですら、もしも合格の最下位の段階で終了したとすると、しばしば、地 方官もしくは知事としての任命を受けるのに数年間待たねばならなかっ た。しかしながら、エリート家族出身のほとんどの若者と年長者を科挙 市場で競争させるために十分な、地方社会における威信、法的特権、労 役免除が生員と挙人の双方に自然と生じ続けた。しかしながら、一九世 紀までの、科挙を通じての成功に対する機会の減少は、唐宋間の科挙の 拡張以降、市場にとって自生的であり続けてきた人間の精神的緊張を厳 しく悪化させた。いかなる王朝も、清朝に釣り合うようなエリートの人 7 ﹃欽定磨勘条例﹄ I 、 1a-19b を見よ。 受験者たちが彼らの恐怖と感情を鎮めるために喜んで治療的目的に利用 しようとした宗教的戦略から分離した。 科挙における知識人たちのフラストレーションは、隋唐時代以降、一 般 的 テ ー マ で あ っ た 6 。 漢 字 を 記 憶 す る こ と、 古 典 的 著 作 に つ い て の 広 い 読 書、 そ し て 古 典 的 エ ッ セ イ︵ そ し て、 一 七 五 六 年︵ 乾 隆 二 一 年 ︶ 以 降 に お け る、 規 定 さ れ た 詩 歌︵ 試 帖 詩 ︶︶ を 創 作 す る た め に 必 要 と さ れた数年間にわたるトレーニングという彼らに要求されたレベルは、エ リートの息子たちが世代を跨ぐ時代を超えて、そして言語的、地理的競 争を超えて帝国規模に広がって共有した子供時代と若い青年期に必然的 に伴うものであった。模範的試験エッセイをマスターし、暗記の課業を 他 人 任 せ に す る こ と で、 そ の 教 育 的 体 制 を シ ョ ー ト カ ッ ト し た 人 々 は、 もし、彼らが、地方の権限による、そして予備の試験を飛び超えて官僚 社会へ入ろうと希望したのならば、 それでもなお、 古典的に教養人であっ た。第四章における童生と生員の報告中で我々が見たように、中国古典 に対する教養の欠如は、地方試験においては普通のことであった。しか し、 中 国 古 典 に 対 し て 教 養 を 欠 く 者 は、 省 試 に お い て 無 用 な も の と し て取り除かれた。省試では、科挙試験場内での違法行為や試験官の収賄 が、挙人と進士の学位を得るべき古典的教養人にとっての、より有効な 6 淸 呂 相 燮 撰﹃ 唐 宋 科 場 異 聞 錄 ﹄ 三 卷、 味 経 堂 書 坊 版︵ リ プ リ ン ト、 広 東 銭塘兪氏、一八七三年︶ 。また、 Chaffee,
The Thong Gates of Learning in Sung
China, pp. 169-77 を 見 よ。 訳 者 注 ﹃ 試 場 異 聞 錄 ﹄ 五 種 は、 淸 呂 相 燮 輯 同 治十二年 錢塘 俞 氏 刊本 粤東味經堂藏板 十册で、 ﹁國朝科場異聞錄﹂ 九卷 ﹁前 明 科 場 異 聞 錄 ﹂ 二 卷﹁ 唐 宋 科 場 異 聞 錄 ﹂ 三 卷﹁ 直 省 科 場 異 聞 錄 ﹂ 四 巻﹁ 小 試異聞錄﹂ 一卷 坿 ﹁科名佳話﹂ 一卷 ﹁梓里紀聞﹂ 一卷 淸 邵郴儒 批評 ﹁教 學微言﹂一卷 淸 程□ 撰で構成されている。
高 津 孝 二八
一.宗教と、科挙の通俗的維持安定策
通俗的空想の産物の中で、 ﹁命﹂ ︵運命︶は典型的に、選抜過程の核心 における固有の社会的、文化的不平等を説明するために用いられた。大 抵の人々は、 自らの成功もしくは失敗を受け入れた。 というのは、 彼らが、 神々はあらかじめ最終的なランクを決定していたと信じていたからであ る 10 。 エ リ ー ト の メ ン バ ー た ち は、 彼 ら 自 身、 試 験 競 争 で 失 敗 し た 時、 Values in Ming-Ch'ing T imes ︵ Leiden: E. J. Brill, 1988 ︶, pp. 83-89 を見よ。この 書 物 は、 明 の 学 者 の フ ラ ス ト レ ー シ ョ ン を、 科 挙 に お け る 競 争 の 法 外 な レ ベ ル と 有 効 に 結 び つ け て い る。 し か し な が ら、 田 汝 康 は、 ﹁ 男 性 の 苦 悶 ﹂ を 揚 子 江 デ ル タ に お け る す べ て の 知 識 人 に と っ て 一 般 的 な 単 一 の、 媒 介 の な い 反 応 と し て 明 確 に 記 述 し、 そ れ に よ っ て、 そ の 研 究 範 囲 を、 帝 政 後 期 に お け る 女 性 の 貞 節 と い う 概 念 の 勃 興 に 対 す る 単 な る 説 明 と し て 過 剰 に 固 定 化 し た。 Male Anxiety and Female Chastity に 対 す る 批 判 的 な 書 評 に つ い て は、 Journal of Asian Studies 48, 3 ︵ August 1989 ︶に発表された Ropp, pp. 6o5-o6 を 見 よ。 ま た、 ﹁ 問 題 の あ る 知 識 人 の 自 我 ﹂ の 説 明 に つ い て は、 Martin Huang,Literati and Self-Re/Pr
esentation:
Autobiographical Sensibility in the
Eig ht ee nt h-C ent ury C hi ne se No ve l ︵ St anf or d: St anfo rd Uni ve rsi ty Pre ss, 19 95 ︶, pp. 26-27 を 見 よ。 Martin Huang の 著 書 は、 清 代 中 期 の 小 説 中 に 反 映 さ れ た 知 的 な 緊 張 を 有 効 に 記 述 し て い る。 科 挙 受 験 者 に 結 び つ く 病 気 に つ い て は、 張 介 賓﹃ 景 岳 全 書 ﹄︵ 上 海、 科 学 技 術 出 版 社、 一 九 八 四 ︶ pp. 357-59 を 見 よ。 満 た さ れ な い 性 的 熱 望 を 有 し た 女 性 も、 こ の よ う な﹁ 感 情 的 均 衡 ﹂ ︵ 鬱 ︶ の 犠 牲 で あ っ た よ う で あ る。 こ の 資 料 を コ ピ ー し て 私 に 送 っ て く れ た Judith Zeitlin に感謝する。彼女は、 "Making the Invisible Visible: Images of
Desire and Constructions of the Female Body in Chinese Literature, Medicine, and
Art." と題された近刊の文章の中で、 ﹁均衡﹂ ︵鬱︶ を病気として議論している。 10 C. K. Y ang,
Religion in Chinese Society
︵
Berkeley: University of California Press,
口学的特徴に直面しなかった 8 。 明 清 時 代 に お け る エ リ ー ト 家 族 の 男 性 メ ン バ ー と し て 成 長 す る こ と は、社会化の長年にわたるパターンを前提条件として必要とした。大人 たちは、日々の受験準備のための厳しい修練によって、何百万という若 者にとっての子供時代を規定した。男性の苦悶と知識人のフラストレー ションは関連して起こった。 私が、 ﹁男性の苦悶﹂ と呼ぶものは、 個人生活、 家族生活における、男性の歴史的経験によって生み出されたエリートの 社会的、知的現象であった。確かに、ジュディス・ザイトリンが注目し た よ う に、 明 代 の 医 者 は そ れ を﹁ 鬱 ﹂︵ 感 情 的 静 止 状 態、 均 衡 状 態 ︶ の 特別な型であると診断した。彼らの認識可能な苦悶の病状 ︵﹁思鬱﹂ ︶ を、 医師たちは、成功の探求において頻繁に挫折した、失敗した科挙受験者 と結びつけた。この反応を口述する自律的な地主商人エリートが存在し ないのと同じように、この感情に訴える圧力に対する単一の反応は存在 しない。しかしながら、中国人エリートがどのように試験生活、その冷 酷な制度的組織、そして、その過程が生み出した多様な精神的緊張にお ける男性の苦悶という歴史的現実に対処したかについての認識可能なパ ターンは存在した 9 。 8 こ の 点 に つ い て は、 David Nivison に よ っ て、 The Life and Thought of Chang Hsueh-ch'eng ︵ 1738-1801 ︶︵ Stanford: Stanford University Press, 1966 ︶ に 記 述 さ れ た、 一 八 世 紀 後 半 に お け る Chang Hsueh-ch'eng 章 学 誠 の 経 歴 と 私 の Fr om Philosophy to Philology , pp. 13o-31 を 見 よ。 ま た、 David Johnson,
"Communication, Class, and Consciousness in Late Imperial China," pp. 50-67
も 見よ。 9 ﹁ 男 性 の 苦 悶 ﹂ と い う 概 念 の よ り 早 い 用 法 に つ い て は、 T'ien Ju-k'ang 田 汝 康 , Male Anxiety and Female Chastity: A Comparative Study of Chinese Ethical
ベンジャミン・ A・エルマン 「感情的苦悶、成功への夢、試験生活」 (上) 二九 的な科挙受験生は、もし万一夕方まで続く試験の後で家に帰ることがで きないならば、光宅寺に宿泊すべきであるという勅令が下された。宋代 では、孔子を尊敬する文学者の廟が、試験前の祈りの場であった可能性 がある 12 。 教育及び科挙からのプレッシャーに十分に対処するために、唐宋代以 降の受験生たちは、道徳的援助を求めて地方の神々に訴えた。このよう な宗教的実践の形式は、成功をめぐる受験生たちの苦悶を他へ向け直す ように、そして、科挙市場で彼を助けるよう意図されていた。中世にお ける文学技術の保護神格である﹁文昌﹂という道教の崇拝対象は、南宋 までには神々による、科挙における成功の予言と結びつけられた崇拝の 対象となった。王朝による公的な承認は元朝下において熱狂的崇拝へと 変 化 し た。 虞 集︵ 一 二 七 二 ‒ 一 三 四 八 ︶ は、 一 三 一 四 ‒ 一 五 に お け る、 モンゴルの科挙復活︵第一章を見よ︶を手助けした人物であるが、文昌 の知識人に対する魅力を記述している。 宋が滅んだ時、蜀︵四川地方︶は荒廃させられ、一人の住民も生 き残れなかった。神々への供物は一時中断された。四〇年以上もの 12 Gernet, Buddhism in Chinese Society , p. 226 を 見 よ。 Liao Hsien-huei は、 最 近、 UCLA の 歴 史 部 門 で Ph.D 論 文 を 準 備 し て お り、 試 験 的 に "Praying for a Revelation:
The Mental Universe of the Song Examination Candidates,
960-1276," と 名 付 け て い る が、 こ の 論 文 は、 科 挙 と 通 俗 宗 教 と の 関 係 の 宋 代 に お け る 側 面 を 調 査 す る も の で あ る。 ま た、 Valerie Hansen, Changing Gods in Medieval China の 各 所 と Julia K. Murray , "The Temple of Confucius and
Pictorial Biographies of the Sage,"
Journal of Asian Studies 55, 2 ︵ May 1996 ︶ : 269-300 を見よ。 実際に成功者が決して彼らより優れていない時、成功者がなぜ成功した のかを説明するために、自らにとっての治療的な意味で運命を引き合い に 出 し た 11 。 日 常 の 不 確 実 さ に 直 面 し て、 多 く の 中 国 人 は エ リ ー ト で あろうと農民であろうと、彼らの正常性を保つために、神々、寺院、地 方の宗教的実践へと向かった。知識人の人生に対する皮肉の一つは、四 書五経という一般的に非宗教的な古典的正典をテキストとし、道士と僧 侶に科場に入ることを禁じ、彼らの宗教的原典集成を公的なカリキュラ ムに含めることを禁じた教育体制が、あまりに多くの外部の宗教的感受 性に染められたため、宗教生活と試験生活の間には何らの明確な識別な ど 存 在 し な か っ た こ と で あ る︵ 第 八 章 を 見 よ ︶。 例 え ば、 唐 代 で は、 公 1967 ︶, pp. 265-68 を見よ。運命が階級を決定するという明代後期の例につい て は﹃ 前 明 科 場 異 聞 録 ﹄ B.31a を 見 よ。 運 命 が 成 功 を 決 定 し た こ と に よ る 贈賄の無益性に対する確信については、 ﹃前明科場異聞録﹄ B.53a-b を見よ。 宮崎市定は、 Schirokauer に よって翻訳された自著﹃中国の試験地獄﹄中の 多 く の 逸 話 の た め に、 こ れ 及 び 同 様 の 資 料 に 依 拠 し た が、 残 念 な こ と に、 宮 崎 は 物 語 を 組 織 的 分 析 に か け な か っ た。 宋 代 に つ い て は、 Chaffee, The
Thorny Gates of Learning in Sung China,
pp. 177ff
を見よ。
11 Ropp,
Dissent in Early Modern China,
pp. 91-1
19
及び、
Barr
, "Pu Songling [P'u
Sung-ling] and the Qing [Ch'ing] Examination System," pp. 103-9 。 例 え ば、 南 ア ジ ア と 東 南 ア ジ ア に お け る、 仏 教 徒 も し く は ヒ ン ド ゥ ー 教 徒 の 農 民 の 間 で 一 般 的 な﹁ 宿 命 論 的 ﹂ イ デ オ ロ ギ ー と 比 較 し た 時、 科 挙 で の 成 功 を 通 じ て の 社 会 的 可 能 性 の 中 国 的 な イ デ オ ロ ギ ー は、 教 育 の 無 益 さ に つ い て の 農 民 の 信 念 に 確 か に 影 響 を 与 え、 そ し て、 低 レ ベ ル の 学 位 保 持 者 た ち の 間 で の 盛 り 上 が る 期 待 と い う 風 潮 を 形 成 し た。 し か し、 彼 ら は 科 挙 の 栄 光 を 夢 見 る が、 そ の 希 望 が 繰 り 返 し 打 ち 砕 か れ た 時、 し ば し ば 政 治 的 に 反 感 を 感 じた。
高 津 孝 三〇 担 当 す る よ う に 命 じ た。 全 て の 地 方 の、 国 家 の 科 挙、 階 級、 服 色、 給料、知行は、私に建議され、文官と武官における昇進と左遷すら も私の監督のもとにあった 14 。 ︵﹃道蔵﹄洞真部譜籙類﹃梓潼帝君化書﹄巻三﹁桂籍第七十三﹂ ︶ 文昌の効験は、才能ある受験生である李登についての物語中に具体的 に示されている。そしてそれは﹃化書﹄の一一九四年︵紹煕五年︶の続 編 に 含 ま れ る 一 つ の 物 語 で あ っ た。 李 登 は、 道 士 に 相 談 し、 そ の 結 果、 四〇年後になお進士になれないのはなぜかを知ることになる。道士は文 昌に問い合わせ、そして以下のことを知った。 李登が最初に生まれた時、彼は玉印を授けられており、一八歳で 地方の試験で一位となり、一九歳で宮廷の試験で状元となるよう運 命づけられていた。三三歳で彼は右丞相になるはずだった。選抜さ れたのち、彼は近所の女性である張燕娘を覗き見した。事件は解決 されなかったが、 彼は彼女の父である張澄を拘束し刑務所に入れた。 この犯罪のために、彼の成功は一〇年間延期され、彼は成功した受 験者の第二グループに降格された。二八歳で選抜されたのち、彼は 彼の兄である李豊の住宅を侵害し奪い、そして、これは訴訟となっ た。このため、彼の成功はもう一〇年延期され、彼は合格者の第三 グループへ降格された。三八歳で選抜されたのち、彼は長安の彼の 部屋で、庶民の妻である鄭氏に乱暴し、彼女の夫である白元を罪に 陥れた。このため、彼の成功は更に一〇年延期され、彼の地位は第 14 Kleeman の翻訳 A God's Own T ale, pp. 290-91 。 間、科挙が廃止されたのち、我々は文昌からの超自然的な行いを耳 にすることはなかった。一三一四年︵至正元年︶に天子が特別の聖 断を下し、帝国中の全ての人々に明確に命令し、科挙を通じて官僚 を選抜した時、蜀の人々は次第にまた文昌へ供銭を呈し始めた 13 。 ﹃化書﹄ という、 一一八一年 ︵淳煕八年︶ の神の啓示における ﹁桂籍﹂ ︵科 挙の合格者名簿︶は、 文昌の科挙における超自然的影響を明示している。 儒学者の桂籍は、天の事務局によって管理されている。 成功もしくは失敗、栄光もしくは衰亡は、その運命を誰も逃れら れない。 夢は、人の誠実の程度に従って、科挙の題目を明らかにする。 隠れた善行によって、合格発表名簿の順位は決定される。 わずかな財産しか持たない人物は、その妻に知行をもたらし、そ の息子に安定した官職をもたらすかもしれない。 官僚の引きずる紫衣、腰の金印は、白い式服の受験者として始ま る。 学習において徹夜の勉強をする学生に報いるために、 私は、 罠にひるむことなく、 文学的、 道徳的洗練において努力した。 儒学者としての多くの化身を通じての古典に対する私の無制限の 献身によって、神の国の支配者は、私に天の事務局における桂籍を 13 Kleeman の翻訳 A God's Own T ale 中の T erry Kleeman の序文 pp. 49, 73-75 を 見よ。
ベンジャミン・ A・エルマン 「感情的苦悶、成功への夢、試験生活」 (上) 三一 禅宗の教義を彼の科挙エッセイに挿入したことで知られる︵第七章を見 よ︶ 16 。 明清代の科挙受験者によってしばしば引き合いに出された、神格化さ れた歴史上の人物に対する宗教的崇拝の一例として、戦争と時には富の 神である関帝への崇拝があげられる。関帝は中世に小説﹃三国演義﹄の 中で空想的に解釈された忠誠を尽くす武官関羽から、人間を気の毒に思 い、商人に経済的富を、知識人に科挙での成功を授与する神格である関 羽 へ と 神 格 化 さ れ て い っ た 17 。 彼 の 帝 国 規 模 の 崇 拝 は、 ﹁ 利 益 と 悪 の 規 準﹂に従って、人間の行動を測ることによって﹁忠誠を賛美し、善なる も の に 報 い た ﹂。 清 朝 で は、 雍 正 帝 が 関 帝 信 仰 を 帝 国 中 の 廟 の ヒ エ ラ ル キーへと組織し、宮廷が彼を王朝の公的な守護者として割り当てた 18 。 例 え ば、 一 五 四 七 年︵ 嘉 靖 二 六 年 ︶、 関 帝 が 自 身 の 耳 の 病 気 を 治 癒 し てくれるように、首都の試験の時の夢で張春に依頼したのち、関帝は科 挙受験者であった張春に地方の試験、首都の試験で返報したと書き留め られている。 張春は、 関帝の像のある寺院に滞在しており、 目覚めた後で、 関帝像の耳が蜂蜜でふさがれていたのを発見し、それを取り除いた。翌 16 太 原 廟 へ の 有 資 格 者 の 訪 問 に つ い て は、 ﹃ 前 明 科 場 異 聞 録 ﹄ A.14a を、 丘 濬 については A.17a-b を、楊起元については B.13a を見よ。議論に関しては、 Angela Leung ︵ 梁 其 姿 ︶﹃ 施 善 與 教 化 ‒ 明 清 的 慈 善 組 織 ﹄ ︵ 台 北 : 聯 經 出 版 , 1997 ︶, pp. 132-34 を見よ。 17 関羽は後に ﹁王﹂ となる前に、 最初に ﹁公﹂ として名誉を与えられた。そして、 明代後期に﹁帝﹂となった。 18 C. K. Ya ng , R eligi on in C hi ne se S oc iety , pp . 1 59 -6 1 と Pr ase nj it Dua ra , "Su pe r-scribing Symbols: The Myth of Guandi, Chinese God of W ar ," Journal of Asian Studies 47, 4 ︵ November 1988 ︶: 783-85 を見よ。 四グループに降格された。四八歳で選抜されたのち、彼は隣人王驥 の 未 婚 の 娘 で あ る 慶 娘 を 盗 ん だ。 悔 悟 す る こ と の な い 悪 人 と し て、 彼はすでに記録から消された。彼は決して合格することはないだろ う。 ︵﹃道蔵﹄洞真部譜籙類﹃梓潼帝君化書﹄巻三﹁明威第七十九﹂ ︶ 科挙についての宗教的言説におけるこのような道徳的厳格さは、文学 試験に対する一般的意味と倫理的意義についての容易に理解されるレベ ルに帰属する。それは古典エッセイの内容もしくは技術ではなく、宇宙 論的正義に照らして試験官が受験者に与える格付けを合理化し、説明し た 15 。 明 代 で は 文 昌 崇 拝 は、 以 前 に も 増 し て 隆 盛 を 極 め た。 科 挙 受 験 者 に ついての 一五 世紀の報告は、しばしば彼らがコミュニティのもしくは大 都 市 で の 郷 試、 省 試 の 途 上 で、 文 昌 社 に 訪 問 し た こ と に 言 及 し て い る。 例 え ば、 有 資 格 者 は、 一 四 四 一 年︵ 正 統 六 年 ︶ に 山 西 太 原 の 文 昌︵ 廟 ︶ へ グ ル ー プ で 参 加 し た。 一 四 五 四 年︵ 景 泰 五 年 ︶ に は、 将 来 を 予 告 さ れ た 明 代 の 学 者 官 僚 丘 濬︵ 一 四 二 一 ‒ 九 五 ︶ は、 広 東 郷 試︵ 正 統 九 年、 一四四四年︶をトップ合格で終了したのち、一〇年間、省試のための準 備をしていた。夢の中で、丘濬は文昌と話をし、文昌は丘濬を学業にお ける誠実さの点で褒め、丘濬が近く科挙で合格し、トップランクの進士 学位を得るだろうと約束した。王陽明の信奉者である楊起元︵一五四七 ‒ 九九︶のような明代の受験生にとって、文昌帝君に相談したことで科 挙 に 合 格 し た と 公 言 す る こ と は、 ぜ ひ と も 必 要 な も の と な っ た。 彼 は、 15 C. K. Y ang,
Religion in Chinese Society
, pp. 270-71
高 津 孝 三二 于 謙 の 墓 所 と 廟 は、 ﹁ 于 忠 粛 祠 ﹂ と し て 知 ら れ、 明 代 後 期、 清 代 に 浙 江の科挙受験者たちが郷試、会試へ行く途中にとどまる人気のある場所 となった。そこで彼らは、于謙の魂に、指導と、将来の科挙での成功の 印を懇願しただろう。例えば、于謙は関羽とともに、その忠誠心のある 行動が彼の時代を超越し、その純粋な魂は他の人々の運命に影響を与え ることができた歴史上の一人物を代表するものであるが、于謙崇拝は地 域化されたものであり、帝国規模にはならなかった。多くの受験者たち は杭州の廟に滞在している間、結果としての成功を夢と結びつけたので ある。例えば、一六五二年︵順治九年︶の状元である鄒志倚は、江蘇の 無錫出身であったが、彼の成功を少年時代の于謙廟への訪問と結びつけ た。すなわち、そこで彼は于謙に会う夢を見、于謙は彼に彼の将来の序 列を告げたのである 21 。 (一)通俗民間伝承と宗教 こ れ ら の 宗 教 的 崇 拝 は、 清 代 に 無 数 の 科 挙 受 験 者 に よ る 訪 問 に よ っ て 名 誉 を 与 え ら れ た。 文 昌、 関 帝、 于 謙 の 調 停 を 求 め る と い う 彼 ら の 体 験 の ほ と ん ど は、 ﹃ 異 聞 録 ﹄ の 二 つ の コ レ ク シ ョ ン 中 に 公 開 さ れ て い る。それは、明清代の科挙受験者の報告に基づいており、科挙市場の持 つ空想的な、神秘的な側面を誇張したものである。中世より増殖してき た志怪コレクションのサブジャンルとして、明清代の﹃異聞録﹄は、科 21 ﹃清稗類鈔﹄ 74.91-92 、74.95 を見よ。 また、 ﹃国朝科場異聞録﹄ 味経堂書坊版 ︵広 東、銭塘、一八七三年︶ 1.15b-16a を見よ。杭州の于謙廟は、現在修理中で あ る。 私 が 一 九 九 五 年 八 月 に そ こ を 訪 れ た 時、 そ れ は 公 開 さ れ て い な か っ たが、浙江社会科学院呉光教授と私は参観のために入ることを許された。 日の晩、張春は再び関帝が彼の治療に感謝し、張春の親切な行為を忘れ ないと夢に見た。明代後期には一人の慢性病の有資格者が、関帝が、彼 の病気が治り次の科挙で合格するだろうと告げる夢を見たが、後に回復 後 の 強 欲 が 原 因 と な っ て、 関 帝 に よ っ て 天 理 が 損 な わ れ な い よ う に と、 不合格にされた。受験者が廟を訪れ求籤を用いて、なぜ彼が科挙に失敗 したかを占った時、関帝自身がそれを説明した。一六一九年︵万暦四七 年 ︶、 そ の 年 の 会 試 の 合 格 者 八 人 は、 関 帝 が 夢 で 提 示 し た 合 格 者 リ ス ト に名前があったと言われた 19 。 今 一 つ の 歴 史 的 人 物 へ の 著 名 な 帝 政 後 期 の 科 挙 崇 拝 は、 明 初 の 官 僚 于 謙︵ 一 三 九 八 ‒ 一 四 五 七 ︶ に 捧 げ ら れ た も の で あ る。 オ イ ラ ー ト の 軍 事 行 動 と 土 木 の 変 の 間、 于 謙 と 宮 廷 内 の 他 の 人 々 は、 正 統 帝︵ 在 位 一四三六 ‒ 四九︶がオイラートによって人質に取られた時、彼を弟︵景 泰 帝 ︶ と 交 替 さ せ た︵ 第 一 章 を 見 よ ︶。 新 し い 景 泰 帝︵ 在 位 一 四 五 〇 ‒ 五六︶は、その時、北京の防御に成功した。正統帝はオイラートの元か ら戻り上皇としての数年間を過ごした後、クーデターによって一四五七 年︵天順元年︶に復位した。その後、于謙と他の官僚たちは、一四四九 年︵正統一四年︶に皇帝を犠牲にしたことで、反逆罪で告発され、処刑 された。于謙の名前は、一四六六年︵成化二年︶に名誉回復され、彼の 息子は于謙の墓所の近くの出生地杭州に父のための記念廟を建設するこ と を 一 四 八 九 年︵ 弘 治 二 年 ︶ に 請 願 し た。 于 謙 の 死 後 の 称 号 は、 後 に 一五九〇年 ︵万暦 十八 年︶ に忠粛に代えられた。これは彼の廟の名となっ た。今一つの廟は北京に建てられた 20 。 19 ﹃前明科場異聞録﹄ A.46a 、 B.30a-31a 、 B.32b-33a 。
20 Dictionary of Ming Biography
, pp. 16o8-1
ベンジャミン・ A・エルマン 「感情的苦悶、成功への夢、試験生活」 (上) 三三 間もなくある一五五〇年の会試での成功を予言するために、 ﹁相﹂ ︵人相 判 断 ︶ の 技 術 を 用 い た。 僧 侶 は、 徐 中 行 に、 彼 の 残 り の 人 生 の 期 間 中、 挙人の学位のままでいるように運命づけられており、県知事より以上の 高い官職には決してつけないと告げた。徐中行が自らの運命に対して不 満 を 示 す と、 僧 侶 は 彼 に﹁ 陰 徳 ﹂ が、 ﹁ 相 ﹂ の﹁ 定 数 ﹂︵ 不 変 的 規 則 性 ︶ を避けるために要求されると告げた。 徐中行は同意して頷いた。 そして、 彼は大変貧乏であったが、作文の才能によって三〇両の黄金を集め、密 かにそれを魚のために太湖に沈めた。僧侶が再び徐中行にあった時、彼 は直ちに徐中行の顔つきの中に陰徳を見、徐中行が次の年進士になるだ ろうと宣言した。 徐中行も宮廷の高級官僚になったために、彼が運命を変えたという物 語 は、 銀 の 時 代 に お け る 科 挙 市 場 に つ い て の 寓 話 で あ っ た 25 。 試 験 官 に金、銀を支払うということで科挙での成功を買い取るという金、銀の 不 正 な 使 用 に 対 す る、 こ の 明 白 に 道 徳 的 な 反 転 は、 死 者 に 名 誉 を 与 え、 個人の道徳的借金を償還するために寺院や廟で用いられた﹁紙銭﹂の形 式をとることもできたであろう。因果応報的﹁善行﹂についての徐中行 の詳細に記録された事件において、黄金は﹁紙銭﹂のように、世俗の成 功を生む精神的な﹁支払い﹂に変換された。ちょうど、古典教育の中で 賦与される文化的資源が受験生の科挙での成功への言語的鍵であるよう に、 同 様 に、 寺 院、 廟 へ の 投 資 と 精 神 的 方 法 で の 信 仰 は、 精 神 の 平 安 と、希望と、ありうる科挙での失敗に直面しての慰めを彼らにもたらし
25 Richard von Glahn, "The Enchantment of
W
ealth:
The God
W
utong in the Social
History of Jiangnan," Harvar d Journal of Asiatic Studies 51, 2 ︵ December 1991 ︶ : 695-704 を見よ。 挙における異常な出来事のより早い唐宋代の記録の続編であった。そし てそれらは、科場の内外に波紋を呼んだ中国人の通俗的な心像を表現し て い た の で あ る 22 。 し か し、 定 期 的 な 科 挙 の 郡、 県、 州 へ の 拡 大、 帝 国規模の受験者数の増大を考慮すれば、このような報告の数は明代に劇 的に増加した。その結果、我々が見るように、試験官たちは、このよう な異常な出来事を、科挙それ自身の中における疑念のありがちな対象と した 23 。 このような帝国後期の信仰に加えて、仏教と道教の双方の寺院も、知 識人たちが科挙の精神的、感情的要求をうまく対処する手助けをする精 神的な場として︵自らを︶提供した。一般に、寺院は帝国規模に広がっ た文昌廟、関帝廟と重なっていた。例えば、関帝はすでに唐代に仏教の 神 と し て 割 り 当 て ら れ て き て い た。 そ し て、 帝 国 後 期、 関 帝 の 近 づ き が た い 像 が 大 抵 の 仏 寺 の 門 に 歩 哨 に 立 っ て い た 24 。 一 五 五 〇 年︵ 嘉 靖 二九年︶に、 例えば、 一人の仏教の僧侶が、 徐中行︵一五一七 ‒ 七八︶の、 22 K enneth DeW oskin, " The Six D ynas
ties Chih-kuai and the Birth of Fiction,"
in A ndrew P laks, ed., Chines e Nar rative ︵ Princeton: P rinceton Univers ity Pres s, 1977 ︶, pp. 21-52 と Glen Dudbridge,
Religious Experience and Lay Society in
T'ang China ︵ Cambridge: Cambridge University Press, 1995 ︶, p. 64 を 見 よ。 ど の よ う に 通 俗 文 芸 が エ リ ー ト 社 会 に﹁ 波 紋 を 呼 ん だ ﹂ か に つ い て は の 議 論 については、 Paul Katz, Demon Hor
des and Burning Boats: The Cult of Marshal
W
en in Late Imperial Chekiang
︵ Albany: SUNY Press, 1995 ︶, pp. 1 13-15 を見よ。 23 ともに既出の﹃前明科場異聞録﹄と﹃国朝科場異聞録﹄とを見よ。 24 T imothy Brook, Pr aying for Power : Buddhis m
and the For
m ation of G entr y Soc iety in La te-M ing C hin a ︵ Ca m bri dge : Ha rv ard -Y en ch ing In stit ute Mo no gra ph Series, 1993 ︶, pp. 288-90 。
高 津 孝 三四 内的、精神的安寧は、帝政後期科挙における外的圧力と教育的要求に 対 し て 精 神 的 に 相 互 関 連 す る も の で あ っ た。 こ の エ ピ ソ ー ド に お い て、 精神的な啓発についての道士の考えは、明らかに郷試のための準備に数 年間を費やしたが、最終的な合格リストを見て、自らの失敗を受け入れ ることができない、神経の張り詰めた受験生に対して、さしあたって適 用できるようにされたものであった。さらに、宗教と道徳は、科挙それ 自身を非難することなく、失敗を処理する適切な方法であったばかりで なく、成功は精神的啓発と感情的成熟に究極的に結びつけられていたの である。宗教と知識人の人生は、連携して科場の残酷な現実からの、著 しく健康的で心理学的な避難所を創造したのである。 道徳は、科挙の成功に対する典型的な場当たり的基準であった。例え ば、 王 陽 明 の 父 で あ る 王 華 は、 一 四 八 一 年︵ 成 化 一 七 年 ︶ の 会 試 以 前、 富裕な一族と暮らしていた。その一族の家長は多くの妾を有したが、息 子はいなかった。ある晩、家長は妾の一人を、これは自分の考えである と書いた書付を持たせて、王華が後継を得るために、彼の室へ送り込ん だ。王華は私通を拒否し、返事として﹁天上の神を驚かしてはなりませ ん ﹂︵ 恐 驚 天 上 神 ︶ と 書 い た。 翌 日、 一 人 の 道 士 が 祖 先 の た め の 祈 り に 家に招かれた。しかし、彼は途中深い眠りに陥った。目覚めた時、道士 は自らが天上で科挙に参加し、そこで状元が発表されたと物語った。問 いに対して、あえて状元の名を漏らさなかったが、夢の中で男の正面の 行列が﹁恐驚天上神﹂と書いてある旗を持ち運んでいたのを記憶してい た 28 。 28 上 述﹃ 前 明 科 場 異 聞 録 ﹄ A.24b を 見 よ。 ま た、 英 文 翻 訳 は 原 文 か ら そ れ て い る が、 宮 崎 pp96-97 を 見 よ。 訳 者 注 王 華 は 成 化 一 七 年 の 状 元 で あ る。 た 26 。 同 様 に、 一 五 九 四 年︵ 万 暦 二 二 年 ︶、 一 人 の 道 士 が 張 畏 巌 を 叱 っ た。 張は結果が掲示されるのを見たのち、一五九四年︵万暦二二年︶の郷試 で自分が不合格になったことで科挙を攻撃した人物である。その道士は 張畏巌を笑って、自分は張の人相から張のエッセイが十分に傑出したも のではなかったと言うことができると公言した。張が怒って、道士の予 言者に、 どのように彼のエッセイは適切ではないと知ったのかと聞くと、 道士はエッセイの執筆は精神的平安と心の平衡を必要とする︵ ﹁作文は、 心気和平を貴ぶ﹂ ︶と回答した。 科挙に失敗したことに対する張の動揺は、 彼の心が平安ではないことを示していた、と道士は付け加えた。 張はその時、導きを求めた。そして、道士は彼に、天は善行に基づい て人の運命を設定すると告げた。張は、自分は貧乏な知識人であり、善 行を実行する余裕などありえないと回答した。それに対し、道士は心か ら発する﹁陰功﹂と言う考えに注意を喚起した。このような無限の利益 は 富 に 基 づ く も の で は な く、 感 情 の 成 熟 と 精 神 的 平 安 に 基 づ く も の で あると、道士は主張した。そして、張は試験官を攻撃することで単に自 らのエネルギーを浪費しただけであった。この時、張は啓発された。後 に、一五九七年︵万暦二五年︶に張は夢を見た。それは、その年の郷試 の名簿にはまだ一名空きがあり、それは徳を積み、過ちを避けることの できる者のためのものである、 というものであった。張は資格を満たし、 一五九七年︵万暦二四年︶の郷試に一〇五番の順位で合格した 27 。 26 ﹃ 前 明 科 場 異 聞 録 ﹄ A.47a-b 。 隋 唐 時 代 に お け る 仏 教 徒 の 占 い 師 の ル ー ツ に ついては、
Gernet, Buddhism in Chinese Society
, pp. 250-53, 286-97
を見よ。
27 ﹃前明科場異聞録﹄
B.24b-25a
ベンジャミン・ A・エルマン 「感情的苦悶、成功への夢、試験生活」 (上) 三五 中国人の宗教の教義、特に禅宗の教義が、試験エッセイの実際の内容に 進 入 し た︵ 第 七 章 を 見 よ ︶。 し か し、 大 抵 の 場 合、 受 験 生 た ち は、 彼 ら の精神生活において個人的啓示と心の支えのはるかに広い源泉に背くと 同時に、古典的エッセイの中で要求された道学のカリキュラムを固く守 ることは可能であった。 大 抵 の 知 識 人 は 霊 魂 の 再 生 を 信 じ て い た。 一 六 四 二 年︵ 崇 禎 一 五 年 ︶ の郷試において、一人の受験生は、彼の夢の中に現れ、のちに受験生の 生 ま れ た 日 に 死 ん だ と 判 明 し た 吉 兆 を 示 す 女 性 か ら、 設 問 に つ い て の 事 前 の 情 報 を 受 け 取 っ た 31 。 何 人 か の 人 が、 一 六 五 九 年︵ 順 治 一 六 年 ︶ の会試の会元である朱錦の人生における偶然の一致は、彼が一世紀以上 前 の 人 物 の 生 ま れ 変 わ り で あ っ た こ と を 示 し て い る と 主 張 し て い る 32 。 三、 四 歳 の と き、 陳 元 龍 は、 仏 教 の 聖 歌 を 夢 に 見 た が、 彼 の 母 親 は、 仏 教の教えは価値がないと主張し、代りに知識人の勉強︵儒学︶をするよ う彼に迫った。彼女が死んだ時、陳元龍は彼女の死のせいで、いかなる 試験も拒否した。一六七九年︵康熙一八年︶の博学宏詞科の試験委員長 が陳を励まして、参加の招待に応じるよう言ったが、無駄であった。そ の後、陳は一六八五年︵康熙二四年︶の殿試で三番となり、高い官職を 得た。仏教対官僚人生の対立は、陳元龍にとって解決すべき数年間の時 間を要したのである 33 。 一 七 五 〇 年︵ 乾 隆 一 五 年 ︶ に 観 音 が ど の よ う に 科 挙 で の 成 功 を 予 言 し た か を説明している。 31 李調元﹃制義科瑣記﹄ 3.97-98 を見よ。 32 上述﹃制義科瑣記﹄ 4.1 19-20 。 33 ﹃清稗類鈔﹄ 21.91-92 。 業と応報もまた、科挙市場を解明するために、帝政後期時代に用いら れ た 文 化 的 な 構 築 物 で あ っ た。 袁 黄︵ 一 五 三 三 ‒ 一 六 〇 六 ︶ は、 道 教、 儒教、仏教の三教を結びつける明代後期の活動のリーダーの一人である が、個人の社会的地位と価値を測るために、善書︵民衆道徳書︶の使用 を奨励した。袁は﹁科挙に置ける成功は全く陰徳のおかげである﹂と強 く主張した。彼はまた、科挙の成功は受験者の能力に基づくものではな く、 彼 の 先 祖 の 功 績 の 蓄 積 に 幾 分 よ る の で あ る と 主 張 し た。 ﹁ 功 績 と 欠 点 の 原 簿 ﹂︵ 功 過 格 ︶ と、 袁 黄 と 彼 の 道 徳 簿 記 の 追 随 者 た ち が 呼 ん だ よ うに、道徳簿記は知識人たちにとって、善行、道徳的更正、世俗の成功 の通俗的宗教概念と同価値のものとなった 29 。 挙人、進士の学位を目指す大抵の科挙受験者は、特に自らの古典文学 の能力と記憶力のレベルを、科挙市場において他の者とほぼ同等である と見なしている︵科挙の不合格を自分のせいにするものはほとんどいな い︶ 。こうした科挙市場においては、大抵の受験生は、宗教の観点から、 一人が不合格でもう一人が合格するのはなぜかについての説明を探し求 めた。科挙のために程朱学を修めた知識人の精神生活における仏教と道 教 の 影 響 力 は 広 く 行 き 渡 っ て い た 30 。 例 え ば、 明 代 後 期 に は、 時 折、 宮 崎 は﹃ 皇 明 大 儒 王 陽 明 先 生 出 身 靖 亂 録 ﹄ に 基 い て お り、 こ こ で は そ れ に 従って訂正した。 29 議 論 に つ い て は 、 Cynthia Brokaw , The Ledgers of Merit and Demerit: So cia l
Change and Moral Or
der in Late Imperial China
︵
Princeton: Princeton University
Press, 1991 ︶, pp. 17-27, 68, 231-32 を見よ。 30 ﹃ 前 明 科 場 異 聞 録 ﹄ B.24a に お け る、 状 元 は﹁ 三 代 不 食 牛 肉 ﹂︵ 三 世 代 に わ たって牛肉を食べない︶ 一族出身でなければならないという一五九五年 ︵万 暦 二 三 年 ︶ の 夢 の 報 告 を 見 よ。 ま た、 ﹃ 清 稗 類 鈔 ﹄ 74.99 を 見 よ。 そ れ は、
高 津 孝 三六 成功もしくは現実逃避についての、これら励みになる物語の暗い側面 には、試験での失敗についての、真偽の疑わしい、犯罪に関する原因が 存在する。一人の息子が死んだ母のことを夢に見た。彼女は息子に、彼 の三世前の過去の犯罪が明るみに出たと告げた。彼は、結局彼が犯した 自らの過去世の犯罪を償うまで、学校に入学し読書を学ぶことができな かった。科場の中で、亡霊と過去の幻影が受験者の面前に現れ、過去の 罪を彼らに思い出させるかもしれない。物語の中では、多くのこのよう な若者が狂ったり、 もしくはその場で死んでしまった 36 。 実際のところ、 多くの受験生たちは、試験監督官たちの間で生み出されたという風習に ついてのうわさ話を受け入れた。 その風習とは、 科場の中で点呼が終わっ た の ち、 試 験 監 督 官 た ち は 赤 と 黒 の 旗 を 立 て て、 ﹁ 冤 有 る も の は 冤 を 報 ぜよ。仇有る者は仇を報ぜよ」と大声で叫ぶというものである 37 。 精 霊 と 亡 霊 も、 受 験 生 の 感 情 的 気 質 を 試 す こ と で、 彼 の 心 を 弄 ん だ。 文昌もまさしく同様に一六四〇年︵崇禎一 三 年︶の会試で、受験者の答 案が彼自身の小部屋の小さなストーブからの火事で失われるだろうと安 易に予言し、彼に答案のコピーを二つ作り、一つを保存しておくよう命 ずることが可能であった。受験者はこの予言に従い、火事は彼の答案を 焼いたが、 彼の保存していたコピーのおかげで彼は合格した 38 。 精霊は、 受験者が受験の準備のできていない可能性があり、他の誰かが一番にな 36 ﹃ 小 試 異 聞 録 ﹄ 銭 塘 一 八 七 三 年 版、 pp3a-4b,12a-b 。 ま た、 ﹃ 前 明 科 場 異 聞 録 ﹄ A.38b-39a を見よ。 37 Sheang [Shang] Y en-liu 商衍 鎏
,"Memories of the Chinese Imperial Civil Service
Examination System, 科挙考試的回憶 " pp. 65-66 を見よ。 38 ﹃前明科場異聞録﹄ B.45a-b 。 一官僚の人生において見られる科挙の明白な有利さにも関わらず、明 清の宗教的文学は、同様に若者に科挙とは切り離された別個の道を提供 した。明初より始まる、救済を達成する道徳的な人物の活動を記録した 宝 巻 経 典 を 通 じ て 拡 散 さ れ た 価 値 観 に お い て、 通 俗 仏 教 の 業 の 概 念 と、 悟りに向けての知識人の向上心の結合は、名声と幸運へ向かう科挙とい う道を時に地獄への道として提示した。この俗世での成功と来世での悟 りの間の競争は、日常生活の家族の価値観に挑戦することも可能であっ た。仏教徒と道教徒の聖職者は、男女を励まして、もつれた人間関係を 避けさせ、禁欲の生活に従うようさせるモデルでもあった 34 。 この宗教的理想が損なわれた時でさえ、一八世紀に最初に出版された ﹃劉香宝巻﹄中の香女のようなヒロインは、 ﹁本を読んで何になる。⋮⋮ 道を学ぶ方がよい。利益はその中にある。人の人生において官僚である ことは、一万年の寿命にとっての敵を得ることである。私は西方の土地 への道をあなたに指し示します。夫よ、私はあなたに、霊的な訓練を実 践するための最も早い機会を得させるように迫ります﹂ と述べることで、 夫の科挙への情熱を捨てさせることができた。香女の義理の母は、怒っ て、息子に香女に会うことを禁じ、息子に科挙のための準備をするよう 命じた。結局、 彼は状元となったが、 彼と彼の家族の運命は、 玉帝によっ て 定 め ら れ た 早 死 に で あ っ た 35 。 一 方、 香 女 は、 彼 女 の 人 生 に 配 さ れ た世俗の障害物は全て乗り越える神聖な宗教的指導者となった。 34 Daniel Overmyer , "V
alues in Chinese Sectarian Literature: Ming and Ch'ing
Pao-chütan," in Johnson, Nathan, and Rawski, eds.,
Popular Cultur e in Late Imperial China, pp. 219-54 を見よ。 35 上述 pp245-50 。
ベンジャミン・ A・エルマン 「感情的苦悶、成功への夢、試験生活」 (上) 三七 ていた。一人の受験生は、科場の中で病気になり、全く自分のエッセイ を書けずに深い眠りに入った。 空白の答案を答案回収官吏に手渡した後、 その受験者は、自分はもちろん不合格であると決め込んでいたが、後に 彼は自分の名前が合格者の最終リストに載っているのを知った。試験官 から示された自分の答案を見たとき、彼は自分のエッセイが適切で正規 の書体で書かれているのを発見した。このことを、彼は科挙の試験場に おける自分の小部屋の中の親切な精霊のおかげであると考えた 43 。 不品行な生活は普通、失敗へと至った。一六六四年︵康熙三年︶に会 試 の 結 果 を 待 っ て い た 一 人 の 受 験 者 が、 酔 っ 払 っ て 意 識 を 失 っ た。 人 事 不 省 の 中 で、 彼 は 母 と 父 に 対 す る 自 ら の 過 去 の 親 不 孝 な 行 い を 思 い 出 し た。 そ し て、 も ち ろ ん 目 覚 め た と き、 自 ら の 不 合 格 を 知 っ た 44 。 一八四九年︵道光二九年︶江南郷試の期間、清朝初期に数人の進士学位 獲得者を出した崑山県の著名な徐家出身の一人の受験生が、第二場の後 に、彼の完成した四書五経についてのエッセイで、高位合格がすでに確 定したと考えて、飲みに出かけた。彼は酔っ払って、第三場の要求され た策論を完成するために科場へ入る点呼に間に合わなかった。試験官た ちは、最初彼の八股文を、結果として来るべき解元より優れているとラ ン ク 付 け し た。 し か し、 第 三 場 の 彼 の 答 案 が 回 収 さ れ な か っ た た め に、 彼は失格となった 45 。 し か し な が ら、 改 心 し た 人 生 は、 成 功 に 至 る だ ろ う。 人 生 の 転 換 期 に、 張 之 洞︵ 一 八 三 七 ‒ 一 九 〇 九 ︶ は、 青 年 の 時 の 大 酒 飲 み を 諦 め、 43 ﹃前明科場異聞録﹄ B.30a 。 44 李調元﹃制義科瑣記﹄ 4.140-41 。 45 ﹃清稗類鈔﹄ 21.82 。 る可能性があることを確実にするために、科挙についての間違った問題 を受験者に与えることもできた 39 。 精霊は試験官に影響を与えることもできた。例えば、一七二六年︵雍 正 四 年 ︶ 張 塁 は 伝 え ら れ る と こ ろ で は、 江 南 郷 試 に お い て 精 霊 を 頼 り に、 ﹁ 陰 徳 ﹂ を 有 す る 最 高 の 答 案 を 提 出 し た 40 。 一 七 八 三 年︵ 乾 隆 四 八 年 ︶ の 江 西 郷 試 に お い て は、 試 験 官 は、 一 人 の 試 験 官 の 夢 に 基 づ い て トップの答案を選んだと報告された。一八〇四年︵嘉慶九年︶には、精 霊が郷試試験官の夢に出現し、彼に向かって特定のエッセイの古典的功 徳について説明した。精霊は受験者が﹃爾雅注疏﹄という語源学辞典を 彼の八股文エッセイの一部にうまく利用したことを指摘した︵第五章を 見よ︶ 41 。 一 六 五 七 年︵ 順 治 一 四 年 ︶ 会 試 の 受 験 者 が 自 分 の エ ッ セ イ を 完 成 し、 エッセイが回収されるのを自分の房 ︵受験者用の小部屋︶ で待っていた。 その時、魁星が彼の面前で踊り、彼がこの一連の科挙で状元となるだろ うと言った。魁星は、その受験者に、状元になるため彼自身の答案に二 つ の 漢 字 を 書 く よ う に 要 求 し た。 彼 は こ の 喜 ば し い ニ ュ ー ス に 高 揚 し、 そして最初の文字﹁状﹂を書き始めた。その時突然魁星は彼の硯をひっ くり返して行ってしまった。彼の公的な論文の汚れのために、その受験 者は考慮の対象から外され失格となった 42 。 それより以前の一六一八年︵万暦四六年︶の郷試では、結末は異なっ 39 上述 B.54b を見よ。 40 ﹃清稗類鈔﹄ 74.124-25 。 41 上述 74.102-03 、 74.105 。 42 李調元﹃制義科瑣記﹄ 4.1 18 。
高 津 孝 三八 これらの物語、逸話は、どのように科挙の複雑な制度的機構、厳格な 教育課程の内容が、政府、社会における公明正大さと正義のテーマに一 致する道徳的物語として、通俗文化の中で典型的に無視されたかを明ら かにするものである。我々は﹁科挙の場に聞かれる異常な出来事を記録 する﹂娯楽的な﹁志怪﹂集を史実として受け入れる必要はない。しかし ながら、このような記録は確かに、帝政後期中国におけるエリートと一 般人の双方が、科挙を人生の自然な一部分として受け入れ、そこに科挙 体制を完全に受け入れ、受験者とその家族の感情生活の中における科挙 の立場を正当化する、宗教的、宇宙論的語りを持ち込んだという漠然と し た 感 覚 を 明 ら か に し て い る 50 。ジュディス ・バーリン が、 ﹁ 道 徳 資 本 の管理﹂として叙述した、明代善書における宗教の治癒的活用は、科挙 生活へと到達していた。一人の科挙受験者としての感情的経験の再編成 は、パニック及び失敗による空虚さに対処するための、性格面での理想 における変化を伴っていた。科挙での成功もしくは失敗についてのこれ ら 宗 教 的 な 物 語 は、 道 教 徒 と 仏 教 徒 の た と え 話 の た め の 論 拠 と し て も、 知識階級の試験である科挙を正当化した。通俗的宗教と、自己統合につ いてのいくぶんやむにやまれぬ象徴的な共有目的への信仰は、人々が苦 難に対処するのを助け、自分自身をよりよく理解するのを助けたのであ る 51 。 50 C. K. Y ang,
Religion in Chinese Society
, pp. 267-68 を見よ。 51 Judith Berling, " Religion and P opular Culture: The M anagement of M oral Capital," in
The Romance of the
Three
Teachings," in Johnson, Nathan and Rawski,
Popular Cultur e in Late Imperial China, pp. 208-12 を 見 よ 。 ま た 、 Philip Rieff, The
Triumph of the Therapeutic
︵
New
York: Harper & Row
, 1968 ︶ , pp. 1-27 も見よ。 一八四七年 ︵道光二七年︶ に皇帝の状元として科挙を終了した彼のリニー ジの年長者張之葛︵一八一一 ‒ 九七︶に倣うことを決心して、一八五二 年 ︵咸豊二年︶ にトップで順天郷試を通過した。しかし、 一八六三年 ︵同 治二年︶の殿試においては第三位探花でしかなかった。張之洞が状元と いう切望された地位を勝ち取ることに失敗したのは、若年の頃の飲酒へ の耽溺のせいにされた 46 。 性的乱交もまた科挙での成功についての通俗的観点において、大きな 意味を持って立ち現れてくる。例えば、一六一二年︵万暦四〇年︶江南 郷 試 前 の 夜 に 性 交 を 絶 っ た 受 験 生 は、 科 挙 で の 最 高 の 栄 誉 が 報 わ れ た。 そ し て、 性 交 に 耽 っ た も の は 失 敗 し た 47 。 婚 約 破 棄 さ れ た 女 性 は、 し ばしば科場の小部屋にいる受験生に取り付くためにあの世から戻ってき て、彼を永遠の不合格へと運命づけた。もしくは、もし彼女が自殺した とすると、彼女は魅力的な女性としてあの世から戻り、彼女を苦しめた 人 物 を た ぶ ら か し た 後、 彼 を 見 込 み の な い も の と し て 見 捨 て た 48 。 今 ひとつの良くあるテーマは、憑依である。そこでは、狐の精が受験者の 体を侵し、彼の心を乗っ取った。例えば、一八七九年︵光緒五年︶一匹 の狐の精が、江西地区において杭州出身の受験生の口を通じて話し始め た。そして、彼女が受験生から離脱する前には、スイカで渇きを癒さね ばならなかった。彼女が離脱したとき、若い女性の姿となった 49 。 46 上述 21.107 。 47 ﹃前明科場異聞録﹄ B.27a 。 48 一 六 三 三 年 の 婚 約 破 棄 さ れ た 女 性 の 報 復 物 語 に つ い て は、 ﹃ 制 義 科 瑣 記 ﹄ 3.88-89 を 見 よ。 一 六 三 九 年 の 他 の 物 語 に つ い て は、 ﹃ 前 明 科 場 異 聞 録 ﹄ B.44a 、 45a を見よ。また、宮崎 pp46-47 を見よ。 49 ﹃清稗類鈔﹄ 74.168 。また、 Zeitlin,
Historian of the Strange,
pp. 174-81
ベンジャミン・ A・エルマン 「感情的苦悶、成功への夢、試験生活」 (上) 三九 教徒の宗教と、エリートの知的生活がこれらの占い装置の中で相互に作 用 し 合 う そ の 著 し さ に よ っ て、 我 々 は、 ﹁ 儒 教 的 不 可 知 論 ﹂ も し く は エ リートの非信心深さについてのこれまでの報告が、どれほど歴史的痕跡 か ら か け 離 れ て い た か を 知 る よ う に な る 56 。 我 々 が 以 下 見 て い く よ う に、帝政後期の試験監督たちは、このような通俗的技術を知的に制限し ようとした。しかしながら、現世の出来事と超自然的出来事の間の厳密 な 相 関 関 係 を 盲 目 的 に 受 け 入 れ る と い う 愚 劣 さ を 示 す よ う 意 図 さ れ た、 科挙の試験監督者たちが科挙のために案出した策論においてさえ、この ような通俗的技術は、彼らの管理の枠を超えて広く言説の世界全体に影 響を与えようとしていた。 運命の予言は多くの科挙受験者の心に関係していた。彼らが因果応報 と道徳的応報についての仏教徒、道教徒の教義を受容していたことに基 づいて、実際それは明代の科挙生活の受容された一部となっていたのだ が、彼らは、自らの﹁個人的運命﹂ ︵﹁縁分﹂ ︵運、因果応報の天命︶ ︶が どのように、 ﹁推算﹂ ︵運命の推定︶ 、﹁吉兆﹂ ︵吉対凶の日選び︶ 、もしく は 誕 生 日 の﹁ 八 字 ﹂︵ 八 つ の 文 字 ︶ と い う 方 法 を 用 い て、 計 算 さ れ う る のかを識別しようとした。中国の﹁天文学﹂を完備した﹁占星﹂は、占 56 例 え ば、 Herrlee Creel, Confucius and the Chinese W ay ︵ New York: Harper & Row , 1960 ︶ を 見 よ。 こ れ ま で の 報 告 は、 ﹁ 新 儒 家 は ピ ュ ー リ タ ン の 同 時 代 人 と 多 く の 共 通 点 が あ っ た ﹂ と 強 く 主 張 し、 そ の 結 果、 知 識 人 の 生 活 に お け る 信 仰、 神 々、 通 俗 文 化 の 場 を 証 拠 不 十 分 な 状 態 で 説 明 す る こ と に な っ た が、 こ の テ ー マ の 持 続 に つ い て は、 Pei-yi W u, The Confucian's Pr ogr ess: Autobiographical W ritings in T raditional China ︵
Princeton: Princeton University
Press, 1990
︶, p. 230
を見よ。より微妙な陰翳のある報告については、
Martin
Huang,
Literati and Self-Re/ Pr
esentation, pp. 143-52 を見よ。 (二)科挙予言のための技術 科挙のプレッシャーによりよく対処し、それによって、次の試験とい う 厳 し い 現 実 の 仕 組 み に 対 す る 洞 察 を 得 る た め、 受 験 生 と そ の 家 族 は、 成功もしくは失敗の予言を得ようと、試験官によって選ばれるかもしれ ない﹃四書﹄からの可能な引用についての手がかりを集めるため、もし くは、占い師や夢が神々、精霊、先祖から引き出した謎を占うため、昔 から確立されている来世とのコミュニケーションの技術も使用した。 ﹁看 命 ﹂︵ 運 命 を 読 む こ と ︶ は 明 清 の 科 挙 受 験 者 た ち が、 合 格 の 極 め て 難 し い 科 挙 市 場 で、 自 ら の 見 通 し に 合 う よ う な い く つ か の 吉 兆 を 探 す と き、 彼らの間での強迫観念となった 52 。 科挙を分析するための占いの技術は、多様な文化的形式をとった。そ の 中 で 主 要 な も の は、 ﹃ 易 経 ﹄ を 用 い た﹁ 算 命 ﹂ で あ り、 ﹁ 看 相 ﹂ 53 で あ り、 ﹁ 扶 乩 ﹂ 54 で あ り、 ﹁ 拆 字 ﹂ ま た は﹁ 測 字 ﹂ で あ り、 ﹁ 占 夢 ﹂ で あ り、 ﹁兆﹂であり、 ﹁風水﹂であった。帝政後期の占い師についてのリチャー ド・スミスの内容豊かな報告が明らかにしたように、これらのいずれも が、 様 々 な 方 法 で 行 わ れ た 55 。 し か し な が ら、 通 俗 文 化、 仏 教 徒 と 道 52 Richard Smith, Fortune-T
ellers and Philosophers,
p. 173 。 53 祝平一﹃漢代的相人術﹄ ︵台北、 学生書局、 一九九〇︶は、 占いのアプロー チの根源を提示している。 54 T ere nc e R usse ll, "C he n T ua n a t Mo un t Hu an gb o: A Sp irit -wr itin g C ult in L ate Ming China," Asiatische Studien 44, 1 ︵ 1990 ︶ : 107-40 を見よ。 55 Richard Smith, Fortune-T ellers and Philosophers, pp. 131-257 。 ま た、 王 明 雄 ﹃ 談 天 説 命 ﹄︵ 台 北、 皇 冠 雑 誌 出 版、 一 九 八 八 ︶ を 見 よ。 こ の 書 物 は、 今 日 使 用 さ れ て い る よ う な こ れ ら の 技 法 の す べ て に つ い て の 概 観 を 提 示 し て い る。
高 津 孝 四〇 占い師達は同様に個人の一身上の運命を天と、将来の合格の見込みに 結びつけるために、 ﹁星命﹂ ︵運命を読み取るための星を基礎とした技術︶ を使用した。これらの技術は普通、 十二 の地上の派生物に対応する、そ れ ぞ れ、 十 二 の 動 物︵ 鼠、 牛、 虎、 兎、 龍、 蛇、 馬、 羊、 猿、 鶏、 犬、 豚︶の一つに同定される占星術の記号を組み込んでいる。例えば、顧鼎 臣︵ 一 四 五 三 ‒ 一 五 四 〇 ︶ に よ っ て 完 成 さ れ た﹃ 明 狀 元 図 考 ﹄︵ 明 代 に おける状元の図示された概観︶と名付けられた明代の書物の中に含まれ る、 黄庭澄による図︵図 6.1 参照︶は、 占い師が一五〇二年︵弘治一五年︶ の状元である康海︵一四七五 ‒ 一五四一︶に対して、天上の小北斗星が 彼の科挙合格を保証したと指摘したことを示している 60 。 60 ﹃ 状 元 図 考 ﹄ 2.36b-37b 。 状 元 を 集 め た 書 物 は、 一 五 〇 五 年︵ 弘 治 一 八 年 ︶ の 状 元 で あ る 顧 鼎 臣 に よ っ て 編 集 が 始 め ら れ、 彼 の 孫 で あ る 顧 祖 訓 に よ っ い 師、 僧 侶、 道 士 に よ っ て 広 く 用 い ら れ て い た。 そ れ は、 ﹃ 易 経 ﹄ に 基 づいた筮竹占いと、数秘学のパターンを認識するようデザインされた数 のシステムを含んでいた 57 。 例 え ば、 明 朝 に お い て は、 運 命 の 予 測 は 非 常 に 一 般 的 で あ っ た の で、 一六四〇年︵崇禎一三年︶までの全ての明代状元の、図入りの一七世紀 の 記 録 は、 ﹁ 八 字 ﹂ と 伝 統 的 な 占 い の 技 法 に よ る、 年 月 日 時 に よ る そ れ ぞ れ の 誕 生 の 日 付 を 入 れ る た め の﹁ 天 干 地 支 ﹂︵ 天 上 の 茎 と 地 上 の 枝 ︶ の組み合わせを含んでいた。 ﹁皇暦﹂ ︵正統なカレンダー︶と全ての通書 ︵ 暦 ︶ に 用 い ら れ た 干 支 の 漢 字 の 四 つ の 組 み 合 わ せ は、 人 の 運 命 の﹁ 四 柱﹂ ︵四つの柱︶として知られており、 それらは、 人々の本来の官職、 富、 社 会 的 地 位 に 対 応 し て い た 58 。 明 代 の 状 元 を 集 め た 書 物 の 編 集 者 は、 誕生日と彼らの運命の間の対応に関係のあることを示すために、 例えば、 官僚としての地位、受けた罰、早い死のような、それぞれの状元のため の情報を付け加えた。編集者は同様に多くの状元についての運命の予想 を説明するために、 ﹁状元命造評註﹂というコメントも付け加えた 59 。 57 科 挙 受 験 者 の た め に 運 命 を 読 み 取 る こ と の 清 代 の 例 に つ い て は、 ﹃ 清 稗 類 鈔 ﹄ 73.100-19 を 見 よ。 実 践 の 背 後 の 理 論 に 関 し て は、 Richard Smith, Fortune-T ellers and Philosophers, 174-86 を、 特 に 仏 教 徒 の 技 術 に つ い て は、 王明雄﹃談天説命﹄ pp. 87-102 を見よ。 58 運 命 を 読 み 取 る た め の﹁ 八 字 ﹂ の 技 法 に つ い て は、 Chao W ei-pang, "The Chinese Science of Fate-Calculation," Folklor e Studies 5 ︵ 1946 ︶: 313 と 王 明 雄 ﹃談天説命﹄ pp. 67-72 を見よ。 59 ﹃ 状 元 図 考 ﹄ 6.38a-42b, 6.43a-48b を 見 よ 。 ま た 、 Richard Smith,
Fortune-Tellers and Philosophers,
pp. 43, 176-77 と 彼 の Chinese Almanacs ︵
Hong Kong and
Oxford: Oxford University Press, 1992
︶, pp. 25-33 を 見 よ 。 図6.1 1502年(弘治15年)における小北斗星 を指す場面。原典:『明状元図考』、顧鼎臣、顧 祖訓編、1607年(万暦35年)版。