言語感覚に関するいくつかの問題
は じ め に 「言語感覚」という語の学習指導要領における初出と沿革は'そ れぞれ次の通りである。 小学校学習指導要領(昭和43年7月) 「第1目標4国語に対する関心を深め、言語感覚を養い、 国語を愛護する態度を育てる。」(同書五貢) 中学校学習指導要領(昭和44年4月) 「第1目標5国語の特質を理解させ'言語感覚を豊かに Lt国語を愛護してその向上を図る態度を養う。」(同書五貢) 高等学校学習指導要領(昭和45年1 0月) 「第一款目標5国語に対する認識を深め、言語感覚を豊か にし、国語を愛護してその向上を図る態度を養う。」(同書十九貢) そして、昭和cM LOCO L0年の改訂では次のようになった。 小学校学習指導要領(昭和5 2年7月) 「第1目標国語を正確に理解し表現する能力を養うとともに、 新 名 主 健 一 (一九九六年十月十四日 受理) K e n ' i c h i S h i n m y o z m 国 語 に 対 す る 関 心 を 深 め 、 言 語 感 覚 を 養 い 、 国 語 を 尊 重 す る 態 度 を 育 て る 。 」 ( 同 書 三 貢 ) 中 学 校 学 習 指 導 要 領 ( 昭 和 5 2 年 7 月 ) 「 第 1 目 標 国 語 を 正 確 に 理 解 し 表 現 す る 能 力 を 高 め る と と も に ' 国 語 に 対 す る 認 識 を 深 め ' 言 語 感 覚 を 豊 か に し 、 国 語 を 尊 重 す る 態 度 を 育 て る 。 」 ( 同 書 五 貢 ) 高 等 学 校 学 習 指 導 要 領 ( 昭 和 5 3 年 8 月 ) 「 1 日 標 国 語 を 的 確 に 理 解 し 適 切 に 表 現 す る 能 力 を 養 う と と も に ' 言 語 文 化 に 対 す る 関 心 を 深 め 、 言 語 感 覚 を 豊 か に L t 国 語 を 尊 重 し て そ の 向 上 を 図 る 態 度 を 育 て る 。 」 ( 同 書 十 一 貢 ) 当 初 ' 具 体 的 目 標 の 1 項 目 と し て 示 さ れ て い た も の が 国 語 科 目 標 本 文 の 中 に 示 さ れ て い る 。 平 成 元 年 三 月 の 小 学 校 学 習 指 導 要 領 ' 中 学 校 学 習 指 導 要 領 で も 国 語 科 目 標 本 文 の 中 に 示 さ れ て い る 。 さ て ' こ の 「 言 語 感 覚 」 と い う 語 に つ い て 、 「 国 語 教 育 研 究 大 辞 注 -典 」 ( 明 治 図 書 7 九 九 こ に お い て は 「 指 導 書 国 語 篇 」 を ま と め る 形 で ' 言 語 の 正 誤 に 対 す る 感 覚 ・ 言 語 の 美 醜 に 関 す る 感 覚 ・ 言 語 の 使 わ れ 方 に 対 す る 適 否 の 感 覚 の 三 つ に 大 き く 要 約 さ れ る と し て い J q 暑 F - r c l -I l エ ー ー I l r 暑鹿児島大学教育学部研究紀要 教育科学編 第48巻(1997) る 。 ( 同 書 二 五 二 貢 ・ 谷 口 贋 保 ) 言語表現上の、あるいは言語理解上の正誤・適否・美醜は内容の 上からとらえたレベルである。これに対して'言語の機能の把握に 対する姿勢'つまり'言語をどういうものと考え、使っているかと いうレベルも設定できる。言語に対してどのような態度であるかと いう意味で言語態度と言ってもよい。前者の事例の検討はこれまで なされていないLt後者も「言語感覚」の構成要素であるという提 案もない。そこで'「言語感覚」の前者のレベルを話しことば・書 きことばのそれぞれで事例を検討して、具体的な問題の考察をなし、 さらに後者のレベルの存在を示したい。 注2 管見ではあるが、「言語感覚」そのものについての研究は中例正 尭のものしかない。「言語感覚」を培うための教育実践の提案・報 告 は 数 多 い 。 B 「楽しいでした」は変な言い回しとは思わない。理由は文法 的におかしくないから。
事例の検討
「 正 し さ 」 の 根 拠 1九九四年十一月の南日本新聞ひろば欄で「楽しいでした・楽し かったです」論争があった。ことの発端は鹿児島県外から鹿児島に 住んでいる人が「楽しいでした」を変な言い回しだと指摘したこと から始まる。それに対して変な言い回しとは思わないという投書な どが掲載された。いくつかの投書の内容を分類してみると'およそ 次のようになる。 A 「楽しいでした」は変な言い回し。理由は文法的におかしい か ら 。 Aの文法的理由というのは、「楽しい」は終始形であり'それに 助動詞がつくのほおかしいというものでありt Bの文法的理由は 「楽しい」は連体形であり'それに二つの助動詞「でした」「た」と つくのであって正しいとするものであった。いずれも正誤の根拠を 文法的説明に求めている。 投書の中に「鹿児島に来て戸惑った言葉」と題して'鹿児島でよ -聞かれる「楽しいでした」「おもしろいでした」「お疲れさまです」 に戸惑った例をあげたものがあった。同じ投書では、逆に鹿児島の 生まれである夫は、投稿者の母(埼玉) の「ごめんください」に異 相感を抱いていることを紹介している。つまり慣用的表現の地域性 によって起こる異和感である。また「言葉(文章)と文法との関係 は言葉が先にあって文法があるのであり'文法が先にあって言葉が あるのではない」という投稿もあった。 要するに投稿者がそれぞれの言語感覚 -習慣的なものの枠内に はいるかtはいらないかという観点-規範意識- から論じてい るのである。もっと簡潔に記すなら'いずれか一方に立脚Ltそれ を正しいとすると他は誤りということになるという問題のとらえ方 なのである。人にはそれぞれ言語表現の規範意識があり'その枠内 にはいらぬ表現に異和感をおぼえるのは経験的にも明らかである。 試みに筆者を例に取ると'「ら」抜きことばの「見れる」「食べれる」 などや、語尾表現の 「∼じゃないですか」「∼なんですよ」とか 「よろしくどうぞ」とかに異和感を抱く。しかし、このレベルの問 ・ 書 1 - べ . r こ ヽ -ヾ = r n \ い ・ し ・ . ‖新名主:言語感覚に関するいくつかの問題 題を正しい・誤りの二者択1的な考え方でとらえること自体がナン センスなのである。なぜなら言語表現上の習慣的な言い回しは地域 性があり、1地域の表現に立脚して他を誤りとすることはできない からである。さらに文法上の問題も、前述のようなこともあるし、 また必ずしも文法的合理的説明の枠内にすべての言語表現がはいる とは限らないLt言語自体が'はじめに文法ありきでtLぼられる ものではないからである。 ●●● 次に「筆順が正しい」という場合の正しさを考えてみたい。前提 は書家の筆順ではなく'学校教育の中で行われる国語科の授業の中 での筆順である。周知のように学校教育における筆順は'「筆順指 導の手びき」(文部省・昭和3 3年)が'その大本である。その「まえ がさ」の中に「漢字の筆順については'書家の間に種々行われてい るものや、通俗的に行われているものなどがあって'同1文字につ いてもいくつかの筆順が行われている。このことが、そのまま学校 教育にも行われているのが現状である。-略・筆者-文部省に おいては、この指導上の不統1を解決したいと考え-略・筆者1」 とある。さらに「-本書のねらい」で「学校教育における漢字指導 の能率を高め、児童生徒が混乱なく漢字を習得するのに便ならしめ るために'教育漢字についての筆順を'できるだけ統1する目的を 以て本書を作成した.-略・筆者-もちろん、本書に示される 筆順は'学習指導上に混乱を釆たさないようにとの配慮から定めら れたものであって'そのことは、ここに取りあげなかった筆順につ いても、これを誤りとするものでもなく、また否定しようとするも のでもない。」としている。しかしながら筆者の体験した例では' あまりにも「正しさ」に固執するあまり'筆順指導の目的を逸脱す るものであった。ひとつは、研究授業の中で授業者の先生が「飛」 の筆順を'教科書に示されている筆順とは異なって書いて'授業研 究会で「飛」という漢字そのものまでも否定されてしまったことで ある。教師としての人格までも否定するような発言もあったから驚 -。もうひとつは'ある書道団体の手本に示されていた「青」の筆 順と'教師が国語の教科書に示されていた筆順で添削をしたところ' その違いを子供から「先生'どっちの筆順が正しいの-」と指摘さ れたことである。つまり'その書道団体の手本に則って書写をする 場合は'その手本に示された筆順が正しいのであり'学校の国語科 の中での筆順は教科書に示されたものが正しいということになる。 しかしながら正しいのは一つという前提を持つと混乱することにな る。 次に'適切か否かという問題を新聞記事を取り上げて検討してい きたい.1九九六年三月十二日南日本新聞朝刊に「私の文学散歩」 (相星雅子)というコラムがある。やしまたろう作「からす たろ う」をめぐっての記事である.その中に「彼の本名は-略・筆者1 絵本の先生のモデルとなった担任の上田先生から-略・筆者」 と いう箇所がある。「からす たろう」(やしまたろう・借成社) には 「この絵本を機長武雄・上田三芳の恩師にささげる」という献詞が ある。先のコラムを読んだ読者は「からす たろう」のモデルは上 田先生であると思い'機長武雄のことについては知る由もないこと になる。つまり絵本のモデルは上田三芳になってしまうのである。 やしまたろうによると、機長武雄・上田三芳であり、相星氏は理由 は何であれ機長武雄を落してしまっているのである。これは記事を 書いた執筆者の方に原因がある例である。読者は明らかに不十分な' い -l h - 1 1 一 ト ⋮ い
4 鹿児島大学教育学部研究紀要 教育科学編 第48巻(1997) 正確でない予断を持つことになる。 次に見出しの適切さを考えてみたい。一九九四年九月十九日朝刊 に写真入りで掲載された記事の見出しは「ろうあ者がミス・アメリ カ」であったのに対し'同年同月日に同じことを伝える毎日新聞の 見出しは「手話で﹃アイ・ラブ・ユー﹄」であった。この見出しの 違いに対する読者の反応は前者のひっかかるような思いと後者のさ わやかさであろう。前者が差別表現ととられても仕方がなく'どち らが適切であるかは論を待たないところである。 さらに'写真入り記事の写真説明の文の適切性に関し、次のよう 注3 な例もある。一九九五年十二月十三日夕刊に「天文館に食糧費ショッ ク」という見出しの写真入り記事が掲載された。写真は夜の天文館 を撮影したもので「忘年会シーズンなのに、県庁マンの姿が減った 天文館。通りが広く感じられる。=十二日午後七時半、鹿児島市山 之口町」という説明がある。実は筆者は撮影された当日、たまたま 天文館での忘年会に出ていた。夜九時頃1次会が終わり外に出てみ ると、結構にぎわっていたのである。大体七時三十分頃は'まだ通 りは閑散としていて、にぎわうのは夜九時以降であるのが通例であ る。十二月十三日この夕刊を読んだ後、確認のために天文館に出か けてみた。するとやはり、前述のようなことなのである。写真の説 明から読者のもつ予断は'県庁マンがこれまで、通りを一杯占める ぐらい閲歩し天文館で飲食していたということと、十二月十二日夜 九時以降も道路は閑散としていたに遵いないということであろう。 要するに、この記事のまずい点は、記者が正義感にかられるあまり、 記事の主張に沿うような説明をつけてしまったということにある。 その結果、読者の側で記事の真実性に疑いを持たない限り、記事の 内容を信じてしまうことになるという予断を持つことになる。なお 筆者は、この記事の写真についていた説明だけを問題にしたのであっ て、公金の不正支出を容認するものではないことを断わっておきた \ 0 1 L Y 適切か否かの次の例として、方言の持つ情緒性について考え′てみ たい。一九九六年八月五日南日本新聞朝刊「若い目」欄に中学二年 女子の「方言が大好き」という投稿文が掲載されている。記事の主 旨は'方言は美しいことばで上品なことばであるといったものであ る。「方言はとても温かい言葉です。その地方独特の音やなまりが あって、他の土地にはない、美しい言葉です。」というとらえ方は' 現実のコミュニケーション上の問題を看過Lt方言の持つ1面のみ のとらえ方である。方言使用に際しての問題点は、もっと複雑なの である。もちろん'この中学二年の女子のとらえ方は、今後の人生 経験で記事の内容どおりいかないことに遭遇することにより変化し ていくことは予測できる。ここでの問題点は方言のとらえ方のあま りに一面的なことである。 人がことばをわがものとする(コード化する・意味するものとさ れるものの結合をする) には'そのことばに初めて出会った時に' どのような状況で'どのような意味で、どのようなひびきで使われ ていたかで'その組み合わせが辞書的意味とは正反対になることだっ てある。記事中に「オマンサー」という語はとても上品なことばだ としているが'「オマンサー」という語を相手を蔑する際に使う相 手への呼称とする場合もある。たとえば、試みに鹿児島県人で鹿児 島方言の「オマンサー」を相手の気分を害することなしに、敬意を こめて使える人がいくらぐらいいるであろうか。つまり'単に知識
新名主:言語感覚に関するいくつかの問題 としてのコード化は実際の言語表現の際には本来持っている意味を 伝えるひびさ等ははいらないのである。その語の音声表現が正当な 意味を伝えるものとして発せられた時にコード化がなされると'異 和感なしに使え'コミュニケーション上の問題はおこらないであろ う。格好の例を示そう。何年の記事か不明であるが'十一月三十日 付け南日本新聞朝刊「思うこと」で「かず君の泣き虫卒業」(今釜 涼子)が掲載されている。「おばあちゃん子とそうでない子はすぐ にわかる。なぜって﹃おばあちゃん弁﹄を使うからだ。例えば1 略・筆者-するとそれまで大泣きをしていたかず君が。ピタリと 泣きやんで言ったのだ。﹃んだ/何かゥ-ておめくよ。﹄」「んだ/ 何かウ-ておめくよ。」ということばはおばあさんの使うものと同 1の表現であり'その上ひびさもほぼ同じであったに違いない.ひ びさは言うまでもなく情感を伝える。方言が本来持っている正当な 意味で使用される場合、単に言内の意味だけではなく、言外の意味 を伝えるひびさも持っていることに注目すべきである。だから'正 当なひびさをコード化していないとコミュニケーション上の問題が おこるのである。つまり'方言使用の適切性は'もちろん人間関係 も大きく影響するが、正当な情感を伝えるひびさを持たせて発話で きるか否かにかかっているわけである。 さて'前述したように日常生活の中でコ-ユニケ-ションで'下 心や好悪の情や誠実さなどは、人間関係を前提にしてではあるが' 主としてことばのひびさによって伝えられる。もっと正確に記すな らば、言内の意味と言外の意味との関係によって伝えられると言っ てもよい。その関係をごくおおまかに記すと次の四通りが考えられ る。 ① 言内の意味∨言外の意味 ② 言内の意味∧言外の意味 ③ 言内の意味-言外の意味 ④ 言内の意味+言外の意味 言外の意味とは言内の意味に附随する意味で'言内の意味に沿う 意味であったり、あるいは逆の意味を伝える場合もある。コミュニ ケーション上のメッセージはその両者の総体といえる。たとえば' なにかいたずらをした子どもにおかあさんが「あなたはおりこうさ んね。」と言う場合'言内の意味では'あなたイコールおりこうさ んであるが、言外の意味では反対の意味になることや'何んら感心 しない行動に対して「感心しました。」と言う場合を想起するとわ かる。筆者がかつて小学校教員をしていた頃'子どもたちをはめろ ということばがよく聞かれた。教育の手段としてのはめことばを使 えというわけである。そんな認識で、ある子どもをはめたところ' 「先生は心にひとつも思っていないことを言っているが-。」と'当 の子どもに指摘された、ことがあった。確かに心の底からではない、 本心ではないものであった。これなどは②の例のマイナス型であろ う。②のプラス型としては'とてもか黙な人物が心の底からの誠実 さをもってなにかを発話したとする。すると言内の意味を上回る言 外の意味が相手にメッセージとして伝わる場合が想起できる。した がって'いずれの場合においても'どのようなメッセージとして相 手に伝わっていくのかが問題になってくる。ことばのひびさは単に 技巧的なこととしては何如ともしがたいものがある。幾多の人生経 験を経た人物のことばのひびきゃ'1道を究めつくした人物のこと
6 鹿児島大学教育学部研究紀要 教育科学編 第48巻(1997) ばのひびさには峻厳な、味わい深いものがある。普通のコミュニケー ションにおいては'その語の持つ辞書的な正当な意味をひびきと共 にコード化することが問題をなくすることにつながるであろう。言 外の意味の大半は、声のひびきによっていると言っても過言ではな い の で あ る 。 以上が言語感覚のもつ一面の検討であるが'もう一面のことばを どのようにとらえているかという側面からとらえてみたい。たいて いの人は場面によってことばの使い分けをしている。そのことは、 場面をどのようなものとしてとらえ'どのような人間関係にあるか によっているが幾通りかの使い分けをしていることは確かである。 さらにふだんのことばとよそいきのことばとの距離も人によって違 う。人間関係が、例えば夫婦の間のようなニュアンス関係であると' 「おい」という語が幾通りもの意味を伝えることができるし、ひと たび緊張をはらんだものになるとロジック関係になり、「おい」 は 単なる呼びかけの語でしかなくなるのは経験的に明らかである。さ らにふつうの言語生活では'ことばを使う人の心(意図) によって 美しいことばかどうかが決まると言ってよい。ところが、意図とは 反対のことば'ずるがしこいたくらみをやさしそうなことばで表現 するなどの場合もあるから留意する必要がある。強欲な人間のこと ばは言内の意味においても言外の意味においてもまわりの人間は耳 をふさぎたくなる、そういう例に出会うことは、時に経験すること である。「人のうわさは七十五日」式で'目的のためにはことばを どのようにでも使う、ことばの使い手の言語感覚では'ことばはま さに道具なのである。人間としての誠実性を基底においた言語感覚 を培うことが言語教育上の責務であろう。要するに言語感覚の中に m* 言語態度も含まれると考えられるのである。 注 注 - 「 国 語 教 育 研 究 大 辞 典 普 及 版 」 ( 明 治 図 書 一 九 九 一 ) で は 次 の よ うに規定している。 定義 学習指導要領には'「語感'言葉の使い方 に対する感覚などについて感心をもつこと」(五年)'「語感'言葉の使 い方に対する感覚などについて関心を深めること」(六年)とある。言 語感覚とは'「言葉の使い方に対する感覚」 つまり'言語表現に対する 感覚のことである。「語感」は語句の感じ方であるが「言語感覚」 のほ うが範囲が広-'文'文章'文体までをふ-めた言語表現全体にかか わ る 感 覚 で あ る 。 ( 石 田 佐 久 馬 ) 注2 中例は'須藤増雄・田近淘一・長谷川孝士の見解を簡単に紹介し' 言語感覚のベースとなるのは、まず生きのいい言語経験であるとし' ひたむきな生のことばの経験であるとしている。そして、言語感覚の 力は、言語に対する同化に始まり、次に自他の言語表現を異化して評 価し'また表現にかえしていく力だとする。(「教育科学 国語教育」 仙 ^ c -c o 頁 ) 鹿児島市にある繁華街で飲食店が多数ある。 本論で言う言語態度は、論文の冒頭に紹介した学習指導要領の、国 語を愛護する態度・国語を尊重する態度とは異なる。言語態度とは言 語運用に関わる態度であり'学習指導要領のそれは日本語をどう考え るかについての態度であると思われる。