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「判断力批判」の「形式」概念 - 「判断力批判」研究 (V) -

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「判断力批判」の「形整式」概芸念

「判断力批判」の「形式」概念

「判断力批判」研究(Ⅴ)

-`Form'in Kant's Critique of Judgement

-A Study of Kant's Critique of Judgement

(V)-宮 内 三 二 郎 Sanjiro Miyauohi 「判断力批判」における「形式」の概念は,この語の本来の多義性と,またカンナがこの語を必 らずLも一義的に使用していないこととのために,色々異なった解釈の生じ得る可能性を含んでい る。たとえばカンナのこの語をまったく経験的意味に解し,そしてそれをただちに美学・芸術論上 の,内容-形式の関係に結びつけ,カソTlが対一象の感覚的質料や目的の概念を排して,その形式 のみに美を認めようとしている点を,極端な,空虚な形式主義であるとする説もあれば,同様の見 地から,カytが,かの形式美としての「自由美」, 「純粋芙」に対⊥して,浄象の目的の概念を前提 とするいわば内容美ともみるべき「付属芙」を挙げ( §16),次にはこの付属美に属する人間の美 を「美の理想」と呼び,しかもその理想は「道徳的なるものの表現において成立する」と言い,さ らに後に至っては美を以て道徳的薯の象徴であると説く点を( 隻 59),前の形式主義的思想と矛盾 するものとして,その論理の不重合,或いは立場の転換が指摘される場合もある。或いはまた自然 の美は滑象の形式にかかわるが,崇高は没形式formlosの浄象にも認められるとしている点にも, 美と崇高との関係について種々の問題があるだろう。 だがすくなくとも「判断力批判」における「形式」は,単純にこの語の一般的意味-事物の外 形,或いは何等かの意味内容の感性的表現という意味-に片づけて解することはできない,とい うことはたしかであろう。 H・コー-ソやまたM・-ムブルガ←が指摘しているように(註1),形式 Formの概念は,ギリシャ以来近世に至るまで一般に現象の本質・本体・或いは質料の中にはたら く精神的原理,感覚的素材を形成しそれを統一と法則-導びく原理を意味しており,カントの哲学 一般においても,このような伝統的用語法が依然有力にはたらいていたことが察せられるからであ るo 「判断力批判」においても「形式」の明確な概念規定は何処にも見られないけれども, 「形式」 は常に「質料」 Materieに升置され,対象の概念や感性的形態から区別された意味で用いられて いる。 カントの「形式」概念についてまずこのことを前提するとすれば,次に明らかにすべき最も根本 的な問題は, 「判断力批判」の「形式」は,究局的には何について言われているか,ということで あろうと思う。もっと具体的に言えば,カyTlの「形式」は,客観的な対象の有するもの,浄象に 内在するものとして説かれているか,それとも主観のうちに内在する原理として説かれているか, ・   -              1 1 -  -  -∫ ー -  -f I  

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-宮  内 郎    〔研究紀要 第13巻〕 19 という問題である。 もちろん批判哲学の基本的精神から言えば,経験浄象の空間と時間の形式が,認識主観の直観形 式とされたのと同様の意味で,美的判断の対象の形式は,やがて判断主観の心意諸力の活動の形式 に帰着するのであろう。 しかしそのことをカントの「形式」概念の考察の第二の前提とする以前に,そのような基本的な 批判哲学の立場が,美学としての「判断力批判」においても果して徹底させられているか,そして またその立場に終始することが果して「判断力批判」におけるカントの美学想恩の夷の意図であっ たかどうか,ということを検討する必要があると思われる。 そこでまずTextの用例を調べてみると, 「形式」の語の最も頻繁にあらわれる序論と本論第一 章夫の分析論においては,約50個所のうち過半数は明確に「(自然の)事物の形式」, 「対象の形 式」, 「客体の形式」等の語を付して用いられており,また「想像力-の客体の形式の把捉は--」 (Einl. VII), 「この形式を把捉する主体だけでなく--」 (ibd.), 「事物の形式が我々の認識能力に 対-して有する--」 (Einl. VIII),というような表現がしばしば見出される。従ってすくなくとも 外面的叙述の上では「形式」の語は,客観的事物の形式,の意味で用いられていると解してよい。 ○ だが内容的に少し立ち入ってみると,問題はそのように単純でないことがわかる。特に注意すべ きは,序論のⅥまでとⅦ以下とで,この「升象の形式」の取り扱かい方が一変している点である。 元来,序論はN-l で判断力一般の a prioriの原理としての自然の「論理的」形式的合目的 悼,及びそれと快不快感情との関係を説き, Ⅶに至っていわゆる「美的」形式的合目的性,及びそ れと快不快感情との関係を説くのであって,このⅥとⅦとの連絡関係は, 「判断力批判」における 美学と目的論との結合の問題にとって重要な意義を持つものと思われるが,その点についてはすで に前稿(Ⅳつで論じたのでここではくわしく立ち入らぬこととし,直接「形式」の問題に関係する ことだけについて簡単に結論だけを述べると, F-"VIの論理的形式的合目的性を説く部分では,その形式的合目的性は,我々の認識能力に卸し て合目的々であるところの自然の全体の一つの秩序そのもの,首然の特殊的諸法則の体系的秩序そ のもの,即ち「自然の事物の形式,の合目的性」 (Einl. IV)として説かれている。言い代えると 認識主観に把撞される自然の或る高次の,秩序そのものの面で語られている。 ところがⅦで, 「判断力批判」の美学的部門にとっての原理たるべき「主観的」 ・ 「美的」合目 的性の概念が提出される場合になると,前とは道に,自然の合目的々秩序に漸応する(或いは自然 の形式がそこ-適合する),把撞主観の側の認識諸カ-想像力と悟性-の活動関係とそこに生 ずる快感情とに説明の重点が置かれ,自然(の対'象の形式)は,単にこの認識諸カの調和的活動の, 或いはそこに生ずる快感の根拠として,きわめて消極的に言及されているにすぎない。 Ⅶまでのところでは,自然(の秩浮)が,我々の認識能力との直接の関係(即ち前者の後者に対 する合目的性)において語られていたのとは骨牌的に, Ⅶ以後は新たに「客体の表象」という語 が,いわば「自然」と「我々の認識能力」との闇に介在させられるようになったことは,このⅦか

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20      「判 断 力 批判」の「形式」概念 らⅦ -の叙述の力点の転移-客観から主観-の-を媒介しているものであるようにみえる。 Ⅶの表題に見られるように,美的合目的性は,自然の合目的性そのものではなくて, 「自己然の合目 的性の直感的aesthetrsch表象」なのである。 このような美の原理の主観-の転移は, 「美的」合目的性が主観的合目的性として規定されねば ならない以上,当然の成り行きであったろう。 P.メソツァー氏が「カソTl美学の発展」の中で, ⊥美を外界の空間・時間の秩序に滑する一つの高次の秩序と呼ぶとすれば,この秩序を形成す るカは何処に求むべきであるか。経験的には Harmonie, Symmetric, Rhythmusというような 青葉で表わされる自然の秩序は,自然みずからのカによって形成されていることが認められるけれ ども, das Aprioriを美的判断に漸しても確保するためには,形式原理を客観から主観-移して 「目的なき合目的性」を考える以外に方法はなかった-という意味のことを述べているが(註2),美的反省判断力に対してそれの独自のa prioriの原理を 見出そうという批判哲学の体系的要求が,上のような客観から主観-の合目的性原理の転移をもた らしたのであるに相違ない。 ところが甚だ逆説的に見えることには,今我々が問題にしている「事物の形式」という概念は, 序論Ⅶまでのところでは, 「論理的」形式的合目的性の「形式的」の意味を規定した僅か一個所 ● ● ● (Ⅳ)を除いては殆んど現われることがなかったのに,所論の力点が主観の活動の側-移ったⅦに 至って, 「美的判断の規定根拠」たる「快感情の」 「根拠」として俄かに頻繁に用いられている。つ まり「形式」の語は,美の原理が客体に含まれず,主体の心的能力の活動に帰せらるべきことが説 かれる時になってはじめて「客体の形式」として現われてくるのである。このことはいかに解すべ● ○ ● きであろうか。 Ⅶの所論を峯理してみると,まず客体の表象において全然客体の認識に関わることのない唯一の ものは,その表象と結びついた快感情であるが,一つの表象における対象の形式についての単なる 反省(客体の概念を目指さないところの)を通じて,直観能力たる想像力が概念の能力たる悟性に 無意図的に調和するとき生ずる快感情が美的判断の規定根拠である,とされる。従ってこの場合, 「漸象の形式」を主にして言えば,それは,美的判断の規定根拠であるところの主観の認識諸カの 調和的活動の成立を制約するものであるわけである。いわば客体の形式は, 「単なる反省」を通じ て主観の活動を促がし,これを規定するものとなっている。 ところが一方では,形式を把揺するのは想像力であるが,形式をとの想像力の中へ把撞するとい うことは, 「反省判断力がすくなくともそれ〔形式〕を, --直観を概念-関係づける自己の能力 と比較することなしには起り得ない」(註8)と言われている。 この場合には,形式は,糞的主観の活動がなくては把撞されないのであるから,明らかに前の場 合の,主観に対する形式の規定性は否定されて,道に形式は主観の活動に規定されることになる。 以上二つの場合にみられる主観に対する客体の形式の持つ意義についてのカy Tの説明の仕方の 相違は,美の原理を主観の活動の側に求めようとするに当っての, 「客体の形式」という概念その

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宮  内 郎    〔研究紀要 第13巻〕  21 ものの処理の困難さを物語っているようであるが,この点についてのカンナの根本的な見解を知る ための一つの重要なヒントを提供しているのは, 「美の分析論第一章に対する一般的註解」の中に 見える次のような青葉であると思う。 「趣味判断においては,想像力がそれの自由において考察されねはならぬとすれば,それはま ず連想語法則の下にある場合のよ うに再現的ではなくて, (可能的直観の任意の諸形式の創造者 ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● Urheberとして),生産的,自発的なものとして考えられる。 --・」(註4) * この言葉によれば形式は,美的主観に対する単なる所与ではなく,客体の表象において主観の想 像力によって生産されるもの,客体に滑して新たに見出されるものであることになる。この見解か らすれば,序論Ⅶの, 「想像力による形式の把撞 auffassen, apprehensio という語も,このよう ● ● な生産的,形成的意味に解することができるだろう。 かくして序論のⅦ∼Ⅶにおいて,カソ下の叙述が,論理的形式的合目的性あ、ら主観的形式的(即 ち美的)合目的性-転ずると共に, 「形式」も,依然「客体の形式」と呼ばれながらも,実は客体 の表象についての単なる反省における把擾主観の悟性と想像力との調和的活動によって,素材とし ての客体の上に捉えられ,産出される形式として考えられるに至っている,と解するならば,前述 のParadox   主観的合目的性を翰ずるⅦに至ってはじめて「客体の形式」なる語がしきりに 現われてくるという-もParadoxでなくなるのではないだろうか。 コー-ソがカン下の形式を, 「意識の自由な遊動或いは表象の関係」の形式としてとらえ,客体 は, 「そこから意識の形式が一つの新たな,独自の内容(Inhalt)として形成されるところの単な る gememな素材にすぎない」と青い,カンナの形式の主観性を力説しているのはこの意味で正 しいと思われる。(註51 そして美学的に言ってこのような「形式」観は,美的観照の活動が単なる外的対・象の印象の消極 的受容の作用でなく,むしろそれを素材とする内的な創造性を本質とする点を洞察しているものと 言えよう。 しかし他方,美の形式を主観の創造的把撞活動の所産に帰せしめるこの美学冶勺「主観主義」は, もしこれを徹底させるとすれば,当然,美の成立の要件たるべき主観と客観の相関の一方の極,即 ち客観的側面の意義が見失われるおそれを生ずる。主観の能働性が強調されればされるほど,美に おける客体の意義は単なる素材としての受働性に局限されることになる。だが,美的観照の創造的 活動の前にあっては,事物は単にそれの素材としてすべて一様無差別である,と考えることは無理 であろう。それゆえ美における形式は,主観によって客体の上に見出され,産出されるものとして その根拠が主観に帰せられるにしても,客体は主観の内的創造の活動の単なる素材,或いはそれが 実現される場としてだけでなく,道に主観の活動から独立の,主観にはたらきかけ,美的観照を実 現させる作用カを自己のうちに包蔵するものとしても考えられなければならない。言い代えると, 客体の外的形態が,美的形式たり得る可能性を持つものとして-たとえそれは主観の形成作用を ォ ォ 倹ってはじめて実現されるのではあるにしても-考えられなければならない。 「判断力批判」は

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22 「判 断 力 批 判」の「形式」概念 この間題に卸してどのような態度を示しているだろうか。 P.メソツアー氏は前掲書の結論の中で, -趣味判断に関しては,主観の快感情がそこに結びついているところの外界の諸対象との関 倭,しかも諸浄象中の莫なる対■象との関係を無視することができないが,上述のような「形式原理 の主観-の転移」, 「主観-の後退」は,趣味判断をして卦象及び感性との接触を失わしめ,葉の創 造者としての自然-の途を閉ざすことになった。このことはカントが自然の中にはたらいている諸 ● カに対する認識から得た自然の美についての感情を根源的な体験として知っていただけに,一層奇 異に感ぜられる---と評しているが(那),これはメンツァ氏だけでなく,多くの評豪が「判断力批判」の所論に対し * て一致して抱く見解であるようにみえる。 しかし,もしこのような主観主義がカント美学の基調であり,それが我々の当面の問題である 「形式」に関しても全面的に通用され得るも.のであるならば, 隻 14 「引例による説明」において, その説明がもっぱら客観的な滑象の感性的形式-即ち色彩や調音における「形式」,造形美術に おける「素描」,装飾における「形式」等-についてなされ,また§ 16で自由美と付属美が,さ らに§ 17で美の理想が論ぜられる場合にも,花や鳥察,装飾,建築,人体等の形態が考察されて いるのはどのように解釈すべきであろうか。 R.オーヂプレヒ吊も 形式の擬滑象性(quasi・Gegenstandlichkeit)を唱えてその主観的創造 性を強調するが,しかも彼はこの解釈を§14や§16における「形式」概念にも通用しようとし ている(註7)。というのは,彼は§ 14に見える「素描」 (Zeichnung)の概念の意義を特に重視して, この概念にカソTlの「形式」概念の主観性の明瞭な現われを見ようとしているからであるO これは 明らかに,コー-ソが「カントの美学の基礎づけ」の序論の中で示した着眼を路用しているもので あるが(が),オーデブレヒトによれば, 「素描はカント美学においては対象解消の発駅的原理となっている」(註9) 「対象は対象としては止揚されなければならなかった」(註lo) 「素描は諸印象の所与ではなく,一つの課題(Aufgabe)である。 --それは常に--観照体\ \ 験から生じてくるものである」(註")-「素描の意味もまたコペルニクス的転回によってはじめて捉え得る。それは観照の形式となるの であって,それによって客観性が解消され,純粋な自我意識が解放される」(証12) 「形態(Gestalt)は形態にはとどまらない。それは客体一般としては何等の価値も持たない。 『素描』にしてはじめて純粋趣味判断の本来の浄象をなす」は18) というのである。 しかしおよそ再現的な美術作品について「対■象」や「対一象の形式」を云々する場合には,その滑 象とは,題材として作家の前にある,芸術以前の自然の事物やその形式を指すのか,それとも作品 ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● の中に描写表現されて観展者の前にあるところの事物やその形式を指すのか,ということをまず明 ●  ●  ●  ●  ●  ●  ●  ●

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宮  内        郎    〔研究紀要 第13巻〕  23 (ツアイヒヌング) らかにしておく必要がある。 「素 描」を論ずる場合も,それが題材としての自然の事物を前にし (ソアイヒネン) て素描する創造活動を考えているのか,それとも素描した作品を前にしての観照活動を論じている のか,を明らかにしておかねばならない。オーヂブレヒトの上述の解釈は, 「素描」をもっぱら芸 術家の創作活動の側から考えているのではないだろうか。創作活動の側から言えば,なるほど自然 (ツアイヒネン) の滑象や卦象の形態は,芸術以前の題材として,まさに彼の言う通り,作家の素 描によって解消 (ベトラツハヅンク) され,止揚されるものであるだろう。また「観 照」 という語を,作家の創作活動における対一象 (題材)の観照の意味で用いるかぎり, 「素描」は彼のいわゆる「観照の形式」であろう。 だが我々は,カントの美の分析論が,美的判断の分析論であること,美的快感情は,美の創迫に おけるそれではなく,乗の判定におけるそれであること,を忘れてはならない。またたとえ彼の ォ 「形乱 概念が,主観的創造的性格において考えられているにしても,それはあくまでも乗の観 照,把壇の活動の創造性を意味していることはたしかである。そこでカント自身の青葉を引用して みよう。 「絵画,彫刻--すべての造形芸術においては素描が本質的なものである。素描においては,感 覚においで愉悦を与えるものでなくて,単にその形式によって満足を与えるところのものが,趣味 に滑してかかわりを持つすべてのものの根概をなしているO」(註14) 「感官の(--)諸対象のすべての形式は,形態(Gestalt)であるか,または遊動(Spiel)で ある。 #--前者の場合は素描が--純粋趣味判断の固有の滑象となる」(註15) これによって明らかなように,カントの言う「浄象」はあくまでも趣味判断の滑象,即わち観照 者(判定者)の前にある対象であって,作家の前にある創作活動の素材としての升象ではない。従 って「対象」や「浄象の形態」を止揚さるべきものとみなし, 「素描」を「観照の形式」だとする ● ● ● オーヂブレヒトの考え方は,カントの所説の解釈としては牽強附会であると言わざるを得ない。カ (ゲシュタルト) (ベトラ・'7-ツテ3') ソトの「素描」は,むしろどこまでも観照の浄象の形式,対象の形態の中に観照されるその滑象の ●  ●  ■  ●  ●  ■ (フオルム) 形式である。(註16) たしかにこの個所のカントの用語法には,前述の序論における「形式」概念の場合と同様の不統 一がある。 「素描」は,感覚的質料としての色彩から区別された意味で「形式」と呼ばれる一方で ● ● (アプ1)ス) は,感官対象の「形態」或いは「輪廓」(証17)に属するものとされ,従ってその意味では依然感覚的 質料でなければならない.そうすると,この後者の意味での「素描」 -前述のような主観主義的 「形菰」観からすれば,主観の観照の形式創造の活動にとっての単なる素材にすぎないはずの-が,造形芸術において「本質的に重要なもの」とされているのは何故であろうか。 私はこれを次のように解釈したい.即ち,カントの言う「素描」は,あくまでも作品に表現され た滑象の「輪廓」或いは「形態」に属するものであり,その限り、では,観照者の美的体験(或いは カントのいわゆる美的判定)の成立以前の素材である。ただしそれは,主観の創迫的な観照の活動 によって美的形式-高められるべき可能性をみずからのうちに含んでいる「形態」である。そして このような可能性は,芸術作品における滑象の形態に対してだけでなく,自然の或る浄象(即ち芙

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24 「判 断 力 批判」の「形式」概念 と呼ばれる漸象)の形態に滑しても考えられなければならない。私はカントの「素描」の概念を, このような意味で-オ-ヂブレヒトが力説したのとは正反対の意味で-重視したい。客観的対 象の形態に対してこのような可能性を香課し,それを全く糞的以前の素材の位置に乾すことは,カ ント美学の主観主義を徹底させる解釈ではあるだろうが,一方では美を,実質を欠く空虚な心的機 能の遊動に帰着させることになる。そしてこのような行き過ぎは,恐らくカントの意図したところ でもなかっただろう。 カy Mま「判断力批判」第一部の終りに近く, 「美的判断力の弁証論」の部分(隻 58)で, -趣味判断が経験的な原理でなく,アプリオリの原理に基づくべきものであるならば,趣味の 判定において重要なことは,自然が何であるか,にあるのではなく,我々が自然をいかに受け容れ ●  ●  ●  ●  ●  ●  ●  ●     ●  ●  ●  ●  ●  ●  ●  ●     ●  ●  ●  ●  ●  ●  ●  ●  ●  ●  ●  ●  ● るか,にある。 自然の美の合目的性は,自然が我々の満足のためにみずからその諸形式を作ったものとしての客観 的合目的性ではなく,想像力の自由な遊動に基づく主観的合目的性である。自然が我々に恩寵を示 すのではなく,我々が恩寵を以て自然を受容するのである。 という意味のことを青い(註18)自然の美の合目的性の観念性,主観性を再確認している。かかる 主観主義がカント美学の基調であり,美的対象の形式の根拠も,主観の想像力の自発的創造的活動 に基づけられていることはたしかであって,このことは,発駅哲学全体の精神と方法からすれば, また,体系的関係よりする制約からすれば,むしろ必然的な帰結であったと言うことができよう。 すでに古くボサンケが,その美学史の中で, 我々は趣味判断は『主観的』である,ということを徹底的に銘記しておかねはならぬ。 ・・---そ れは単に或る知覚に際しての我々自身の能力の遊動における感ぜられた調和を言い表わすにすぎな い。」(註lo) 「美は主観的である。それは知覚者の中において,また知覚者に卸して存在するのであって,そ れ以外ではない」(註20) 「知覚の調和は,調和の知弓削こ依存するものであるようにみえるが,後者の客観的性質に関して は何等明白な主張はなされ得ない」(註21) と育っているのは,恐らく誰にも異存のないところであろう。 しかし仮りに先験論的思惟や体系的顧慮から解放された形での,カント自身の自然美の体験に基 づく美の思想,論理的に整理組織され言語的表現を与えられる以前の根源的な美の思想或いは美的 形式観,というようなものを推測するとすれば,それはメンツア氏の言葉を借りて言い表わすなら ば, 「美の創造者としての自然」 (註22)という思想であったろうと思う。また先掲のボサンケの言葉 を借りるならば, 「知覚の調和」に対する「調和の知覚」という思想であったろう。 「形式」概念に (ゲシユダルト) ついて言えば,自然の卦象の形態は,それに漸する反省において想像力によって把撞され,そのこ (フオルム) とによって素材性を止揚され,形式にまで高められなければならないが,道にまたそれは,それみ (フオルム) ずからのうちに形式たり得る可能性を内合しており,それによって,かえって想像力の把垣の活動

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宮  内     -  郎    〔研究紀要 第13巻〕  25 或いは想像力と悟性との調和的な活動を触発し,これを規定するものである,というのが, 「判断 力批判」の中に窺われるカンナの形式観の無視すべからざる一面ではなかろうか。 「・---浄象は,想像力に向って,あたかも想像力がそれ自身の自由に放任されているとき悟性 ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● の合法性一般との調和において作り上げるであろうような,一つの形式,多様の綜合を含む ㌻?● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● の形式を提供する」(註23) (傍点筆者,以下同じ) ● ● ● ● ● ● ● ● 「独立の自然美は,自然の一種の技巧を我々に示す。そしてその技巧の故に我々は自然を,我々 ● ● ● ● ● ● ● ● の悟性能力全体の中に何処にもその原理を見出し難いような諸法則に従った体系として表象する」 ●  ●  ●  ●  ●  ●  ●  ●  ●  ●  ●  ●  ●  ●  ●  ●  ●  ●  ●  ●  ● ●  ●  ●  ●  ●  ●  ●  ●  ●  ●  ●  ●  ●  ●  ●  ●  ● ●  ● ●  ●  ● (註24) (ブロトテイプ) という言葉は,自己の直接的な体験に基づくカントの形式観,自然美観のいわば原型がどのよ うなものであったかを推察せしめる。同様のことは目的論 § 67で, 「体系としての全体における. 客観的合目的性」という概念を提出し, 「我々の認識能力の自由な遊動に対する自然の調和」とし ての「自然美」も,この「全体における自然の客観的合目的性」として,また「昏然が我々に示す ● ● ● ● ● ● ● ● 恩寵」としてみることができる,と説く場合にも(註25)あてはまる.カy Tlの先験的・批判的思惟は ● ● 彼をして,判断力が想定する「我々の認識能力-の白と然の形式の調和」を繰り返して説かしめた が,この思想を裏打ちしているのは,道に「自然の形式-の我々の認識能力の調和」という思想で あった。彼は崇高論の中で, 「自然の美の根拠は,我々の外部に求めなければならない」(註26)と明言 しているが,全体としての自然も,また自然の個々の対一象も,主観の想像力の把瞳の活動の,或い は想像力と悟性との自由な遊動の,単なる機縁たるにとどまるものでなく,それ自身のうちに美の 根拠を含んでいる,という思想は,美の主観性を説く「判断力批判」の行文の背後に,到る処に隠 一顕しているようである。 邑重

1. H. Cohen, Kants Begriindung der Aesthetik, S. 233f. : M. Hamburger, Das Formproblem in der neueren deutschen Aesthetik und Kunsttheorie, S. 2.

2. P. Menzer, Kants Aesthetik in ihrer Entwickelung, S. 201 f. 3. I. Kant, Kritik der Urteilskraft, (Vorlander), S. 27.

4. Ibid., S. 83.

5. Cohen, K. B. d. A., S. 195f. 6. Menzer, K. A. i. i. E., S. 202.

7. R. Odebrecht, Form und Zeit, S. 84だ. u. a. a. 0. 8. Cohen, K. B. d. A., S. 45. 9-13. Odebrecht, F. u. Z., S. 94ff. 14,15. K. d. U., (Vorl.), S. 64f. 16.前稿「『判断力批判」における『判断』と『感情』 (Ⅳ)」のⅨ.「合目的性と美」を参照していたたきたい. 17. K.d.U.,S.64 18. Ibid., S. 89.

19-21. B. Bosanquet, A History of Esthetic, S. 265ff. 22. Menzer, K. A. i. i. E., S. 202.

23. K. d. U., S. 83. 24. Ibid., S. 89. 25. Ibid., S. 243f. 26. Ibid., S. 90.

参照