1. はじめに 本稿の目的は、対照言語学の立場から日本語の「自分」と韓国語の「자기(Cagi、自 分)」の類似と相違を明らかにするところにある。しかし、現在のところ、その目的を果 たすまでの準備が整っていないため、ここではその基盤作りとして「自分」と「자기」の 意味的特性を考察するに止め、文法的特性については今後の課題にしたい。 再帰代名詞というのは、束縛原理(Binding Theory)に準拠して先行詞と再帰代名詞 が常にその統率範疇の中で束縛関係を維持し、又同一指示でなければならない。このよう な定義のもと、日本語の「自分」、そして韓国語の「자기」も英語の「himself・herself」 などといった再帰代名詞として考えられてきたが、三原(2002:39)が指摘している通り 純粋な照応形とは言えず、主語先行条件も見せかけの現象 と捉えるのが妥当ではなか ろうか。1 (1)a. 太郎iは花子jが自分i/jを過大評価していると思った。(三原 1994:43) b. 타로i는 하나코j가 자기i/j를 과대평가하고 있다고 생각했다. (2)a. 自分iの論文が先生に批判されたことが太郎iを憂鬱にした。(三原 2002:33) b. 자기i논문이 교수님으로부터 비판 받은 것이 타로i를 우울하게 했다. 例文(1)の「自分」・「자기」は長距離束縛を許すもので、統率範疇内の先行詞である 「花子」・「하나코」はもちろん、統率範疇外にある「太郎」・「타로」も先行詞として許容 する。そして、例文(2)の「自分」・「자기」は、目的語である「太郎」・「타로」を先行 詞としている。つまり「自分」・「자기」の先行詞が主語でなければならないという制約も 受けない。 これまでの先行研究を見直すと、「自分」・「자기」が用いられた文は大方(1)と(2) のような所謂心理動詞構文で、その主語は「3 人称」2であった。言い換えると、これま での「自分」・「자기」の研究は再帰代名詞にばかり注目していたため、下記の(3)、(4) のような「自分」・「자기」にはそれほど注意を払わなかったのである。 (3)a. 「ああ、それは自分が書いたものです。」 (三原 2002:35)
睦 宗均
b. 너는 왜 자기 고집만 부리느냐 ? (任洪彬 1987:125) (君はなぜ自分の意地ばかり張るのか。) (4)a. 「自分がまずやって確かめてみよう!」 (吉永 2008:154) b. “자기가 할 일을 남에게 미루지 마라 .” (안주호 2012:189) (自分の仕事を人に押しつけるな。) まず(3a)における「自分」の指示対象は、話し手本人、つまり「1 人称」であり、 (3b)の「자기」は聞き手である「2 人称」となる。(3)からすると「自分」・「자기」の 先行詞に成り得るのは「3 人称」ばかりではないことが分かる。そして、例文(4)の 「自分」・「자기」は先行詞がないものの、基本的には「話し手(= (4a))」、「人一般(= (4b))」として解釈できるが、このような解釈は先行詞によるものではなく文脈や発話場 面によるものである。3 上記の(3)・(4)からすると、「自分」・「자기」は人称制限もなく、必ずしも先行詞を 要求するものでもない。その上、(4b)のように特定の人を指示する義務もないことを考 えると、「自分」・「자기」は実に自由な表現であるといえる。4但し、これまでの先行研究 では(3)、(4)のような例文はそれほど扱われなかった。しかし、これらの文も「自分」・ 「자기」の仲間である以上、共に扱うべきであろう。 そこで本稿では、(3)、(4)のような構文を含め、「自分」と「자기」の持ち前の意味を 明らかにした上、そこから導かれる「自分」と「자기」における意味用法についても少し ばかり考察していきたい。 2.「自分」と「자기」の持ち前の意味 日本語の「自分」、そして韓国語の「자기」という語彙に内在している持ち前の意味に ついて考察した研究は、管見の及ぶ限り김미형(金ミヒョン 1986)の他には見当たらな い。そこで金ミヒョン(1986)を参考に韓国語の「자기」の持ち前の意味について考察し てから、日本語の「自分」の持ち前の意味について考えていきたい。 金ミヒョン(1986)は、韓国語の「자기」の意味を「남(Nam、他人)」との対比から 次のように捉えている。 (5)a. 남(他人)=어떤 사람을 제외한 모든 이 (ある人を除いた全ての人) b. 자기(自分)=남을 제외한 어떤 사람 자신 (他人を除いた「ある人本人」) (金ミヒョン 1986:260)
金ミヒョン(1986)は「남(他人)」と「자기(自分)」という語彙に対し、それぞれが お互いに相手の存在を認めたうえで初めて意味を持つものとして捉えた。即ち「자기」と 「남」は、 自(= X)によって他(= Y)の存在が、他(= Y)によって自(= X)の存 在が承認される関係 である。では、上記の「自分」・「자기」の意味はどのような形で文 に現れるのか。 (6)a. 나는 자기 분수도 모른다 . (僕は自分の身のほども弁えない。) b. 너는 자기가 제일인 줄 알지 . (君は自分が一番だと思っている。) c. 영이는 자기를 미워한다 . (ヨンイは自分を憎んでいる。) (金ミヒョン 1986:263、271) 先行詞を有する(6)の「자기」は、順に「나(僕)、너(君)、영이(ヨンイ)」を指示 対象としているが、それぞれ他との対比関係から特定されたものと理解される。(6a)を 例にすると、「자기」によって指示される「나(僕)」という語彙は、文には言及されてい ない「僕(= X)」でない「その他(= Y)」の存在との対比によってその存在が認めら れたものと理解することができる。そして、(6b)の「너(君)」と(6c)の「영이(ヨ ンイ)」も同様である。 では、先行詞を持たない「자기」はどうだろうか。 (7)a. 자기가 할 일을 남에게 미루지 마라 . (自分の仕事を人に押しつけるな。) (=(4b)) b. 자기한테 좋으면 남한테도 좋지 . (自分に良いものは人にも良い。) (한송화 2013:299) 上記(7)の「자기」は共に先行詞を持たない。従って、(7)の「자기」が正確に誰を 指示しているのかは不明で、発話場面によって 1 人称の「話し手」、2 人称の「聞き手」、 又はある特定の人を指示せず「人一般」としても解釈可能となる。まず、(7)の「자기」 が 1 人称、または 2 人称として解釈される場合、談話指示的ではあるが「자기」の指示対 象が誰であるかは簡単に特定できるため、他との対比であることは明白である。しかし、 (7)の「자기」が「人一般」として解釈される場合、指示対象が「全ての人」となるため 他との対比がないように見える。しかし、実はそうではない。(7a)を例にすると、(7a) の「자기」は「自分の仕事を自分でする人」と「自分の仕事を人に押し付ける人」との対 比を前提に発されたものと考えられる。つまり、「자기」の先行詞が「人一般」を指示対
象にしてもその中には対比の関係が認められる。 ここまで韓国語の「자기」に内在している持ち前の意味について見てきたが、日本語の 「自分」にも同様の持ち前の意味が備えられている。 (8)a. 「自分がまずやって確かめてみよう!」 (吉永 2008:154) b. 「自分の子供は普通だと思いますか」 (長崎 2007:1) c. このサイトでは、自分の顔写真をアップすると、それを使って企業のコマーシャル を作ってくれる。 (長崎 2007:1) (8)の「自分」は特に先行詞を持たないが、それぞれ順に「1 人称」、「2 人称」、そして 「人一般」と解釈できる。このような指示対象から、(8a)は「話し手と他人」、(8b)は 「聞き手と他人」が対比される。そして(8c)は人一般のうち、「自分の顔写真をアップす る人とそうでない人」が対比される。このように日本語の「自分」も韓国語の「자기」と 同様、他との対比による存在であり、この観点からすると両者の持ち前の意味は等しいと いえる。 日本語の「自分」と韓国語の「자기」は、先行詞の有無とは関係なく 他との対比に よって区別される存在 でなければならない。このことから、「自分」・「자기」に内在し ている持ち前の意味は、 他人(= Y)ではないその人(= X)本人 と、まとめること ができる。 3.「自分」・「자기」の意味用法 3 − 1.「自分」・「자기」の対比 「自分」と「자기」(=「X」)は、必ず「X」とは異なる別の存在である「他者」(= 「Y」)を必要とし、常に「X」と「Y」の対比関係を保ちながら文を形成する。但し、「自 分」・「자기」における対比4 4とは、以下のような二種類の対比が考えられる。一つ目の対比 は、「自分」・「자기」と「他者」の対比、即ち「X」と「Y」の対比(以下、「内外対比」 と呼ぶ)である。そして二つ目の対比は、「X」と「Y」の対比に加えて先行詞同士が対 比する(以下、「内内対比」と呼ぶ)ものである。 まず「内外対比」であるが、この対比は上述したように「X」と「Y」の対比である。 (9)a. 良男iは花子に自分iの家族の話をした。 (友田 2006:103) b. 철수i는 종일 자기i방에서 꼼짝도 않아요. (李翊燮 1978:7) (チョルスiは一日中自分iの部屋から一歩も出ません。)
(9)の「自分」と「자기」は、それぞれ「良男」と「철수(チョルス)」を先行詞と し、同一指示関係を保っている。このような「X」は、それぞれ「良男」と「철수(チョ ルス)」ではない「Y」と対比される。従って、(9)の対比というのは、先行詞「X」と 文には表れない他者「Y」との対比、すなわち「内外対比」である。 次は「内内対比」であるが、簡単にいうと下記のような先行詞同士の対比である。 (10)a. 太郎iは花子jに自分i/jの自転車を使わせた。 (三原 2002:33) b. みどりiは自分iが今借りている家にもう 20 年も住んでいる。 (友田 2006:103) 先に確認しておきたいことは、例文(10)にも「自分」と他者との対比である「内外 対比」は勿論、上記(9)にはない先行詞同士の「内内対比」も存することである。しか し、後者の対比において(10a)と(10b)では少し事情が異なっているので順に見てい く。 先に(10a)であるが、次のような埋め込み文を設定することができる。5 (11) [太郎は花子に[花子が自分の自転車を使う]させた]。 (10a)を(11)の埋め込み文から考えると、例文(10a)は二つの事件(Event)から 形成されていることが理解できる。一つは主文の「事件 1」であり、もう一つは埋め込 み文の「事件 2」である。そして、これらの事件における主語「太郎(=先行詞 1)」と 「花子(=先行詞 2)」はそれぞれ「自分」と同一指示関係にある。つまり(10a)におけ る「X」というのは、二つの事件における主語である「太郎(= Xi)」と「花子(= Xj)」 となるが、これらの先行詞「X」は「自分(= X0)」とそれぞれ同一指示関係を結んでい る。つまり「内内対比」とは、下記の〈図 1〉で示したように異なる複数の「先行詞」6 がそれぞれ「自分」と同一指示の関係を成すことである。 〈図 1〉「内内対比」における「自分」・「자기」と「先行詞」の関係 Xii Xjj X00 上記(10a)における先行詞はそれぞれ異なっているために、両者が対比関係にあるこ とは即座に判断できる。しかし、(10b)は先行詞が一つだけであるため複数の先行詞が
前提となる「内内対比」とは無縁のように見える。 (10b)も埋め込み文であるため、二つの「事件」から形成された文となる。従って、 主文(=「みどりが家に 20 年も住んでいる」)の主語と埋め込み文(=「みどりが家を借 りる」)の主語が先行詞として想定することができる。しかし、「事件 1」と「事件 2」の 主語が共に「みどり」で同一人物であるため、(10a)のような先行詞同士の対比とは大き く異なる。まず「事件 1」と「事件 2」が実行された時間を確認すると、「事件 1」は“発 話時”であるのに対し「事件 2」は“20 年前”となる。このような相違から、「事件 1」 の主語「みどり 1」と「事件 2」の主語「みどり 2」を別の存在として捉え、比べること ができる。(そのため、次節の(16)で示したように「自分」をゼロ代名詞に変えても文 の意味が変わらないが、このことは主語「みどり」が二つの事件と直接関わっているから に他ならない)つまり、(10b)の「内内対比」というのは、異なる時間における同一人 物の対比である。 ここで本稿の「内内対比」について断っておきたいことがある。「内内対比」と関連 し、本稿では上記(10)のような埋め込み文を例に挙げた。しかし、埋め込み文であるこ とが直ちに「内内対比」を保証するものではない。 (12) 川田教授iハ、自分i/*jノ死ヲ悲シム人達jニヨッテ、丁寧ニ葬ラレタ。 (久野 1978:219) 上記の(12)は埋め込み文で、二つの事件から形成されている。従って、「自分」の先 行詞として「川田教授」が「先行詞 1」、「人達」が「先行詞 2」のように二つの先行詞を 設定することができる。しかし、先行詞が「自分」と同一指示の関係にあるのは「先行詞 1」のみである。従って(12)の対比は「内内対比」ではなく、上記の(9)と同じ「自他 対比」となる。そして(12)からすると、「自分」と同一指示である「先行詞」が複数で あることが「内内対比」の必須条件といえる。 上記の(9)(10)から、日本語の「自分」と先行詞の間には二種類の「対比」があるこ とが確認できた。勿論、韓国語の「자기」にも同様なことが確認できるためここで簡単に 触れておきたい。 (13)a. 철수i가 영이j에게 자기i/j의 사진을 보여 주었다. (김원호 2013:29) (チョルスiがヨンイjに自分i/jの 写真を見せてあげた。) b. 너i는 그 때 자기i 이름도 쓸 줄 모르는 어린 아이였다. (任洪彬 1987:126) (君iはその時、自分iの名前すら書けない子供だった。)
まず(13a)における先行詞「チョルス」と「ヨンイ」はそれぞれ「자기」と同一指示 関係を結ぶ。従って、これらの先行詞は当然、対比の関係を成す。つまり、(13a)は上記 (10a)のような「内内対比」となる。 次に(13b)であるが、上記の(10b)と同じく、一方では「자기」と発話時における 「君」(=先行詞 1)が同一指示関係を結び、他方で「자기」と発話時以前の「君」(=先 行詞 2)が同一指示関係を結ぶ。即ち、(13b)の対比というのは、異なる時間における同 一人物による「内内対比」である。 ここまで「自分」・「자기」における対比について考察を行った。その結果、「自分」・「자 기」には(9)のような「内外対比」と、(10)のような「内内対比」があることが確認で きた。このような二つの対比は、次節で見る「自分」・「자기」の持つ意味用法と密接に関 連している。 3 − 2. 義務的用法と対照の用法 前節で「自分」・「자기」の持つ「内外対比」と「内内対比」について確認したが、これ らは下記の「義務的用法」と「対照の用法」に深く関わっているものと考えられる。 友 田(2003:77) は 日 本 語 の「 自 分 」 を 綿 密 に 考 察 し た 上 で、「empathy の 用 法 (empathy use)」、「対照の用法(contrastive use)」、「義務的用法(obligatory use)」 と いう三つの用法があるとした。このうち、本稿が注目したいのは「対照の用法」と「義務 的用法」である。7
(14)a. 対照の用法は「自分」をゼロ代名詞に変えても文全体の意味が変わらない b. 義務的用法は「自分」を使わないと多義性が生じてしまう
(友田 2003:77) 友田(2003)は、「対照の用法(contrastive use)」と「義務的用法(obligatory use)」 は相補分布の関係にあるとし、両者の区別について(14)のようにまとめた。これに従 い、二つの対比との相関関係を検証する。 (15)a. 良男は花子に (の)家族の話をした。 b. 철수는 종일 방에서 꼼짝도 않아요 . (チョルスは一日中 部屋から一歩も出ません。) 上記の(15)は、「内外対比」の(9)から「自分」・「자기」をゼロ代名詞に変えたもの
である。その結果、(15a)と(15b)はそれぞれ「誰の家族なのか」、「誰の部屋なのか」、 即ち先行詞の解釈が曖昧になる。つまり、(15)は「自分」を使わないといけないため、 このことから「義務的用法」と判断される。 (16)a. みどりは (が)今借りている家にもう 20 年も住んでいる。 b. 너는 그 때 이름도 쓸 줄 모르는 어린 아이였다 . (君はその時 (の)名前すら書けない子供だった。) (16)は「内内対比」を表す(10b)と(13b)の「自分」・「자기」 をゼロ代名詞に変え たものであるが、文全体の意味は変わらない。従って、(16)は友田のいう「対照の用 法」となる。 ここまでのことから、本稿の「内外対比」・「内内対比」は、それぞれ友田(2003)の 「義務的用法」・「対照の用法」とパラレルな関係にあるといえる。8 4.「自分」・「자기」と意識の制約 「自分」・「자기」の問題は、台風の目のようにその周りに多くの問題を抱え込んでいる 表現といえる。解決しなければいけない問題が数多くあり、これまでその解決のため議論 を重ねてきた。 特に、「自分」・「자기」と「先行詞」が同一指示関係にあることを証明できる手法の創 出が最も重要な課題として浮上して以来、議論の焦点となった。そのうち、「視点」と いう概念が久野(1973)によって導入されてから、久野(1978)、柴谷(2000)、三原 (1994、2002)、吉永(2008)などによる「視点」からの分析が続き、目覚ましい成果をあ げている。従って、現時点では「自分」・「자기」の問題を解き明かすためには、「視点」 の問題を避けて通ることはできないといえる。但し、「自分」・「자기」と「視点」の検証 については今後の課題とし、ここでは「視点」と最も深い関係にある「意識の制約」につ いて、日本語の「自分」と韓国語の「자기」の相違を明らかにしておきたい。 久野(1973)は、「自分」の制約として、先行詞が出来事に対し意識していること、即 ち「+意識性」であることが必要と指摘している。9 (17)a. 太郎は、自分を悪の道に陥れた女に仕返しをした。 b. *太郎は、自分を殺した男と、以前僕の家であったことがある。 (久野 1987:203)
久野(1987:203)は、(17b)が非文である理由について、主語「太郎」が 「俺は死ん だ」という意識を持ち得ないから と指摘し、「意識の制約」が関わっていることを示し た。10(17a)から考えると、「+意識性」というのは当該の事件をしっかり捉えて認識す ることであるため、基本的には「理解力を持つ人間」がその条件と思われる。 (18)a. ペットiの中には自分iが人間だと思っているものもいる。 (吉永 2008:161) b. 고슴도치i도 자기i 새끼는 함함하다고 한다. (李翊燮 1978:7) (ハリネズミiも自分iの子の毛並みはつやつやしていると言う。)11 一方、吉永(2008:161)は、(18a)のような例文を提示し、 生物であることは必須条 件 であると指摘した。(18b)で示したようにこの点において、韓国語の「자기」も変わ らない。従って、(18)の先行詞「ペット」・「고슴도치(ハリネズミ)」から、「自分」・「자 기」における「意識の制約」は「理解力を持つ人間」から「+有情性」に修正しなければ ならない。しかし、 韓国語では下記のように先行詞が「−有情性」であっても「자기」と 同一指示の関係を結ぶ場合がある。 (19)a. 이 다리i는 자기i 중량을 견디지 못한다. (任洪彬 1987:131) b. 이 기계i는 자기i 역할을 충분히 해 냈다. (任洪彬 1987:134) (20)a. *この橋iは自分iの重量に耐えきれない。 (=(19a)) b. *この機械iは自分iの役割を十分に果たした。 (=(19b)) (19)の主語は「−有情性」を持つもので、当該出来事を意識することは不可能であ る。しかし、「자기」と同一指示関係を結んでいる。それに対し、日本語の「自分」は (20)で示したように「−有情性」の先行詞とは同一指示することができず、非文とな る。12 但し、韓国語の「자기」は、先行詞が「−有情性」の場合、一定の制限が設けられてい る。 (21) 바위는 { 그 / *자기 } 생김새에 따라 쓰임이 달라진다 . (李翊燮 1978:15) (岩は { その / *自分 } の形状に応じて用途が変わる。) (21)の主語は「−有情性」であるが(19)とは異なり、非文となる。従って、韓国語
の「자기」は先行詞との関係において「−有情性」である場合、(19)のような正文と (21)のような非文とに分かれる。 両者の相違について、任洪彬(1987)は「고유성(固有性)」の問題が関わっていると いう。即ち、(19)のように先行詞の本質に関わる場合((19a)からすると「重量」は 「橋」の本質に関わる問題)には「자기」と同一指示ができるが、(21)のようにそうでな い場合((21)からすると「形状」は「石」の本質の問題ではない)は「자기」との共起 を許さないのである。この任洪彬(1987)の指摘を認めると、日本語の「自分」と韓国語 の「자기」の意識の制約は次のようにまとめられる。 (22)a. 日本語の「自分」: [(+)意識性、(+)有情性] b. 韓国語の「자기」: [(+)意識性、(±)有情性(+固有性)] 日本語の場合(=(22a))、「自分」と同一指示が可能な「先行詞」というのは、有情性 を持つ名詞のうち意識性のあるものに限られる。13それに対し韓国語の場合(=(22b))、 意識性を持つ有情性の名詞だけでなく、固有性の持つ(−)有情性の名詞も「자기」と同 一指示が可能である。但し、(22)の性質を持つ名詞全てが「自分」・「자기」の先行詞に なれるわけではない。 (23) 太郎iは、自分i/*jを悪の道に陥れた女jに仕返しをした。 (=(17a)) (23)からすると、「太郎」と「女」が「自分」の同一指示可能な名詞となるが、前者は 自分と同一指示できるのに対し、後者は同一指示ができない。但し、「太郎」と「女」も (22)の制約に抵触していない。 この問題こそ「視点」の問題といえるが、上記の(22)だけでは(23)の「女」がなぜ 「自分」と同一指示できないのかが説明できない。従って、「意識の制約」と「視点」の関 わりについても考察が必要で、両者の相関関係を明らかにすることによって「自分」・「자 기」の姿が明らかになると思われる。この問題についても今後考察していきたい。 5. まとめと今後の課題 「自分」・「자기」が「再帰代名詞」として解釈されるためには、「自分」・「자기」の指示 対象、つまり「先行詞」が必ず必要であること、そして語順と文法的役割も決まってお り、「先行詞」が主語の位置に現れ、「自分」・「자기」が目的語の位置に現れなければなら ない。また、述語との関係から先行詞(=主語)による動作が再び「自分」・「자기」(=
目的語)に帰ってくる事象でなければならない。「自分」・「자기」が再帰代名詞として解 釈されるためには、少なくとも上記の条件を満たさなければならないので、相当制限され た用法と言わざるを得ない。 本稿では再帰代名詞とは性質が異なる「自分」・「자기」も含め、「自分」・「자기」の持 ち前の意味について考察を行った。その結果、「自分」・「자기」には 他人(= Y)では ないその人(= X)本人 という持ち前の意味が内在していることが確認できた。そし て、この持ち前の意味から「内外対比」と「内内対比」という対比関係が生じ、この対比 はそれぞれ「義務的用法」、「対照の用法」と関わりを持つことも確認できた。そして、4 節では「自分」・「자기」と「先行詞」が同一指示関係であるための条件、即ち「意識の制 約」についても考察を行い、日本語の「自分」と韓国語の「자기」の間に相違があること を確認した。しかし、本稿で得られた結果は、「自分」・「자기」の全体像からすると素描 に過ぎず、これから解決しないといけない課題は山積みである。14 冒頭でも言及した通り本稿の立場は、対照言語学の観点から日本語の「自分」と韓国語 の「자기」を記述するところにある。しかし本稿の考察からすると、「意識の制約」にお ける若干の相違を除けば「自分」と「자기」の間にはそれほど目立った相違は見られな い。但し、韓国語学習者が多く誤用を起こす語彙の一つとして「자기」が挙げられている (안주호 2012、한송화 2013)ことを考えると、日本語の「自分」と韓国語の「자기」の 間には誤用を生む原因となる相違が存するに違いない。今後、慎重に時間をかけて両者の 類似と相違を明らかにして行きたい。 付記 : 本 稿 は 平 成 27-29 年 度 科 学 研 究 助 成 基 金 助 成 金( 基 盤 研 究(C))( 課 題 番 号 15K02771・研究代表者 吉田幸治)による研究成果の一部である。 注 1 任洪彬(1984)も韓国語の「자기」について純粋な照応形ではないことを明らかに し、 代名詞 であると結論付けた。 2 田窪(1997:13)は、 人称による一致が存在しない日本語では、文法的に代名詞とし て別にたてる理由がない と主張、1 人称は「自称詞」、2 人称は「対称詞」、そして 3 人称は「他称詞」と区別することを提案した。本稿では、人称に関してはこれ以上 立ち入りせず、従来の用語を用いる。 3 友田(2006:104)によると 先行詞を持たない「自分」は照応的な「自分」に比べて はるかに数が多く、筆者が検討した 100 を超える例文の 8 割が相当 したと指摘して
いる。この指摘からすると、本稿の(4)のような先行詞を持たない「自分」が話し 言葉において最も典型的な用法と思われる。今後、両言語のコーパスなどを利用して 確認していきたい。 4 但し、「自分」・「자기」は少なくとも先行詞と同一指示関係でなければならないため、 制約が全くないわけではない。 5 (11)は、派生の過程で主文の主語「花子」と埋め込み文中の「花子」が 同一指示 の下に削除(=「同一名詞句削除」) される(三原 2012:33)。 6 埋め込み文における「先行詞」の数は必ずしも二つだけではない。例えば“太郎iは 花子jに自分i/j/kのオフィスで(与えられた)仕事をしてくれる人kを探していると いった。(吉永 2008:153)”においては、文中に示した通り三つの先行詞が設定でき る。
7 友田(2003)における「empathy の用法(empathy use)」というのは「視点」と深 く関わる概念と思われる。 8 本稿における「内内対比」というのは両者の対比であることを考えると、友田 (2003)の「対照の用法」を持つのは当然の結果ともいえる。 9 久野(1973:197)は、意識の制約について 主文の名詞句 A を指して従属節 B の中 に現れる「自分」は、A が、B によって表された動作・状態・出来事を意識している 時にのみ文法的である と規定している。 10 友田(2003)は、「意識の制約」の有無を正確に判断するのは難しいと断っておきな がら、「自分」の代わりとして「主観表現」を用いるテストを提案した。 11 (18b)は、 親にとって子は皆かわいいものだ という意味を表す韓国の諺である。 12 例文(20)における文法性判断に関しては、日本語母語話者の間でも大きく揺れが見 られたので、今後コーパスなどを使い「自分」と「(−)有性性の先行詞」との関わ りについて考察していきたい。 13 友田(2003)は、(+)有情性の名詞であっても以下のように「理解力」のない「赤 ん坊」の場合、意識の制約から「自分」とは同一指示が困難であると指摘した。 ⅰ)⁇その生まれたばかりの赤ん坊iは、花子が自分iのことを話している時、すぐそ ばで聞いていた。 (友田 2003:75) 14 吉永(2008:163)は、「自分」と「視点」との関わる要因として、①文脈・先行話題・ 予備知識・先入観・視覚聴覚などの情報、②文中に可能な他の視点がないこと、③事 象主体が経験者または心理的内省的(心理表現文)であること、④ダイクシス、⑤主 題・主語などを挙げている。
参考文献 久野 暲(1973)『日本文法研究』大修館書店 (1978)『談話の文法』大修館書店 柴谷方良(2000)「ヴォイス」仁田義雄他(編)『日本語の文法 1:文の骨格』岩波書店 田窪行則(1997)「日本語の人称表現」『視点と言語表現』くろしお出版 pp.13-44 友田英津子(2003)「日本語再帰代名詞「自分」の三つの用法に関して」『国際経営・文化 研究』7(1) 国際コミュニケーション学会(淑徳大学) pp.75-79 (2006)「日本語再帰代名詞「自分」の用法について」『国際経営・文化研究』 11(1) 国際コミュニケーション学会(淑徳大学) pp.101-107 長崎英紀,古宮嘉那子,但馬康宏,小谷善行(2007)「機械学習による代名詞「自分」の 人称判別システム」『言語処理学会第 13 回年次大会(NLP2007)』pp. 59-62 益岡隆志(1997)「表現の主観性」『視点と言語表現』くろしお出版 pp.1-10 三原健一(1994)『日本語の統語構造』大修館書店 (2002)「自分のことが本当にわかっているの?」『日本語・日本語文化研究』第 12 号 大阪外国語大学日本語講座 pp.33-40 吉永 尚(2008)『心理動詞と動作動詞のインターフェイス』和泉書院 김미형(1986)「 자기 에 대하여( 自分 について)」『韓国語論集』10 漢陽大学 pp.257-283 김원호(1986)「한국어의 재귀대명사 : 형태와 기능(韓国語の再帰代名詞:形態と機能)」 『言語科学』第 20 巻 1 号 韓国言語科学会 pp.25-44 안주호(2012)「한국어 {자기 / 자신}의 의미적 특징 및 학습자 오류 분석(韓国語{自 分 / 自身}の意味的特性及び学習者の誤用分析)」『言語と言語学』56 韓国外国語 大学 pp.185-207 李翊燮(1978)「한국어의 재귀대명사에 대하여(韓国語の再帰代名詞について)」『人文 論叢』2 ソウル大学 pp.3-25 任洪彬(1987) 『국어 재귀사 연구(国語の再帰詞研究)』신구문화사 한송화(2013)「재귀대명사 자기 의 의미와 기능 연구(再帰代名詞 自分 の意味と機 能研究)」『외국어로서의 한국어교육』38 巻 延世大学 pp.279-303