岡山大学経済学会雑誌
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《史料紹介》
明治後期 の岡山県南部 における農村生活
-
佐藤悦太郎
『ある老人の思い出の記』の紹介-神
立
春
樹
目 次 は じめをこ 村の風景 ・四季 家族 と家業 こどもの生活 学校生活 ・時代の投影 村人の生活1
は じ め に
小論は,佐藤悦太郎氏の記録を紹介 し,それを通 じて明治後期 ・大正初期 の農村生活の具体像を示す ものである。 佐藤悦太郎氏は1
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(明治3
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年8
月2
2
日に岡山県都窪郡早島町の畑岡に 生まれた。生家は,水田7
反歩 ,畑1
反歩 ばか りを 自小作す る農家で あ っ た。1
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(明治4
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年4
月早島尋常小学校に入学 し,1
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(大正2)
年3
月 卒業 したo引き続 き同年4月開成高等小学校に入学 したが,健康を害 して同 年中に退学 した。1
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(大正4)
年 より家業 ,すなわち,農業及び蘭延製造 に従事 したO戦後 ,早島町議会議員 ,早島町蘭草蘭製品農業協同魁合長な ど を歴任 した。1
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年に死去。 一243-466 佐藤悦太郎氏は晩年にな って多 くの記録を書 きとどめてい るが
,
『あ る老 人の思い出の記』,『ある百性の 日記』が明治後期か ら大正期の農村生活を記 す もの となっている。 『ある老人の思い出の記』は1984(昭和59)年11月28日付のは しがきがあ り,全49丁,B 4判に手書 きの謄写印刷二つ折 り,B 5判の大 きさで表紙を つけて綴 じた ものである。第1丁にある目次の上に 「明治35年か ら大正3年 末 まで」とあ り,ほ しがきには,
「このある老人の思い出の記は,私が生れて 二年四ケ月の とき,氏神鶴崎神社の社頭で神主 さんが頭の上で振 って くれた I_-.・-'1 金幣の音に初めて 自分 といゆ ものを知 ってか ら,大正四年一月一 日村の青年 団に入 るまでの拾三年 の間で特に印象に残 った ものを収載 した ものである」 とあ り,15歳 までの幼少年期,1915(大正4)年に青年団に入 って家業 の農 業に取 り魁むまでのものである。 \-L・-・11 『ある百性の 日記』は1984(昭和59)年12月15日付のは しが きがあ り,全5
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丁で,同 じくB 4
判に手書 きの謄写 印刷 の二 つ折 り8 5
判 の大 き さであ る。通 しの丁数が付 してあるが,
「ある百性の 日記」と 「ある老人の思い出の 記」か らなっている。「大正4
年 1月か ら昭和3
年初め頃 まで」(表 目次),め るいは 「大正4
年1
月か ら昭和2
年終 り頃まで」 (裏 目次) とあって,『ある 老人の思い出の記』の後 の時期の ものである。従事 した農業 ・生業について のものを取 り出 して独立 させ ,それ とそれ以外についての二つにわけた続簾 であるo『ある老人の思い出の記』は農業に従事 していなか った時期 の もの で農業についての記述は多 くないが,『ある百性の 日記』 は農業 に初 めて本 格的に従事 した ことか らは じまる農作業や家業 の蘭蓮生産作業に関する記述 である。 ここでは,この佐藤悦太郎氏の記録を紹介 し,これ らを通 じて当時の状況 を示 したい。 なお,ここでの 『ある老人の思い出の記』,
『ある百性の 日記』か らの引用 な どは ,前者については*,後者は**を もって表示 し,数字 は丁数 を示 -244一明治後期の岡山県南部における農村生活 467 す。
2 村 の風景 ・四季
(1) 早島町 佐藤悦太郎氏の生れ育 った早島町は,岡山平野の中央部に位置 した都窪郡 の東南部にある。1889 (明治22)年に前掲村 ,矢尾村 ,早島村が合併 して早 島村 とな り,1896 (明治29)年町制を しいて早島町 とな った。以来町村合併 せずに今 日に至 っている。岡山 ・倉敷 の両市に挟 まれた町であるC町域の北 部は備南台地な どの低い丘陵地で,北部の丘陵地 のはかは,総て平坦 の平野 で肥状 ,気候は常に温和である。江戸時代か ら蘭草 の栽培 と畳表 の生産 ,そ の集散地であ り,
「早島表」とい うブラン ドで名高か った。ここで検討す る時 期には花延が大 きく展開 し,畳表 と花延の町であった。水稲 ,蘭革栽培で岡 山県の中心地域 となる裕福な田園地帯であった。 金昆羅往来が南北に貫通す る早島は早 くか ら交通の要衝で,中心部は市街 を形成 し,市街 の南端を東西に貫通す る宇野線に早島駅があるo なお,岡山市 と倉敷市の中間に両市 に接 す る位置 にあ る早 島はそ の工業 化 ・都市拡大化に よ り住宅地化が大 き く進み,また ,瀬戸中央 自動車道 ,山 陽 自動車道 と国道二号線が接続す る早島イ ンターチ ュンジの設置 とい う幹線 道路網の影響に より,就業 ・産業構造 も大 き く変化 した。 この ような ことに \11 よ り耕地の壊廃が進み ,農業は大 き く衰退 した。 (2)村の風景 ・四季 佐藤悦太郎氏は この ような早島町の町場か ら2
1皿くらい北西にある純農村 部の農業集落の畑岡で生 まれ ,そ こで一生を送 ったo図は佐藤悦太郎氏に よ る明治末頃の畑 岡集落の遠望図であ り,写真は3
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数年前 とい う写真である。 いつか ら3
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数年前かは明 らかでないが,1
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年代の もの と推定 できる。 -2 4 5-468 第 1図 明治末年頃の畑岡集落 (佐藤悦 太郎氏製作) 註 1)佐藤悦太郎 『長津と写共 でみ る古 田』37ページ 2)原図は彩色 ,本図は原寸の65%縮小 . 畑 岡集落 (佐藤悦太郎氏振膨 ) 「これは臓草が盛 んに栽培 され ていた頃の写真 で ある もう三卜数年 前の もので あ るが,部落の前面はすべて蘭 旧で あ る 家の配 際は現在も余り変 わ りないが , 兎角 この舶草の作付状況 を見て もらいたい」 (佐藤悦太郎氏説明文) 註 1)佐藤悦太郎 『長津 と写真でみ る古 田』53ペー ジに貼付. 2)上 図の左から二つめの道か ら振 った ものと思われ る.
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-明治後期の岡山県南部における農村生活 469 村 の風 景 ・四季 をつ ぎの よ うに描写 してい る。 畑 岡につ いて ここは後ろは畑の点在する松林の丘陵が連な り,前は一面の田圃がはるか児島 の山裾 まで続き,春は百花が りょうらんと咲き乱れ,秋は黄金の波がただ ようの *2 どかな郷である。 月 の無 い夜 は暗か った。 夜道 が暗 く,キ ツネや タ ヌキが人 を化 かす ,化物 *8 や 幽霊 の話 を聞か され て ,夜 ,外 - 出 るのが恐 か った。 しか し, それでも田舎の四季は楽 しかった。春には野山にいろいろな花が咲いて,天に は鳥が鳴いて,山にはワラビが生え,畑の崖には野いちごが赤 く熟た。夏の夜 は 蛍が飛び,昼には tLソボつ り,セ ミやキ 1)ギ リスが泣 くO秋には七草が粧いを こ らし,たけ狩 りも楽 しめるQ冬は家の内でオヤツを食べながら,コクツにはい っ *8- 9 て火鉢のそばで遊ぶ。さうい う環境で私は日々をすごしたO この 田園地帯 に は多 くの植 物 が生 え ,多 くの鳥や 虫や 魚 が生息 していた で *2 あろ う。記述 には ,春 は百 花 りょうらん ,秋 は黄金 の波 ,春 は野 山 い ろい ろ *8--9 の花 , とそ の風 景 を措 くなか で ,草 花 と して は ,山はわ らび ・畑 のが け には *8-9 *12 **4 野 いち ご,秋 は七草 ・たけ 刈 ・よもぎ ・柏 の葉 ,そ して ,ス ミレ ・タ ンポポ な どとい う植物 が 出て くる。 *9 *36 鳥 ・虫 で は ,虫 に つ い て は トンボ ・セ ミ ・キ リギ リス ,ず い 虫 , コ ガ **17,19 ネ虫 な どで あ る。 *36 川 や水場 の ものは ,魚類 や 虫 の記述 はな く,わず か に蛭 が あ るO
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家族 と家業
(1) 豪族 悦太 郎 は1900(明治33)年 8月21日に この畑 岡に生 まれた。「家 は 田七反 た らず ,畑 一反 ばか りを 自小作 す る小農 であ った。七 人兄 弟 の四人 目に生れ た-
24 7-470 が ,上 の三 人 は み ん な女 で ,下 は ち ょっ と間 が あ った ので ,小学 校 に 入学 す る まで は , この三 人 に遊 ん で も ら った り, また ,い ろ い ろ世 話 を して も ら っ *2 た」 と記 して い る。 *12 父親 は1867(慶応3)年 の生 まれ で,35歳 の と きに悦 太 郎 が 生 まれ た。 こ の父親 につ い てつ ぎの よ うに記 して い る。 その頃の人にはめず らしく,よく字を知 っていて書 くのも上手であった。 よ く 近所 の人に頼 まれて手紙を読んであげた り書いてあげた りしていた0 本 も読むのも好 きで貸本屋か ら講談の本な どを借 って来て,夜 ,行灯 の向 こ う がわに寝そべ って読んでいた。 また俳句か何かをつ くっていた (父さんが昔読 ん だ本 も今でも三 ,四冊 もっているが,続け字が多 くてなかなか思 うように よめな い)。酒は呑 まなか ったが,その代 り,煙草は よくす っていた。いつ もたばこ盆を そばにおいてキセルで コチコチ音をたてなが らす っていた。家で藁仕事 な どす る ときはマ ッチをす るのが面倒だ といって輪線香に火をつけて火鉢に入れてそばに *12 おいていた。 気だてのよい父 さんで,村9人や近所の人に も好かれて よく連れだ って神様や *13 大師 さまにも誇 る信心な父であったO 母 につ い て は , お母 さんは字を知 らなか ったCそんなおかあさんが家で ヒメをつむ ぐ (表 のた て糸) ときには よくそばに行 って,姉さんの古い本で本を読むけい こを した0 本の絵を見ては これは何 とい う字 と二人で考えなが らけいこを した。か あ さん はその時は覚えていてもす ぐ忘れて しまう。 僕は姉 さんのべんきょうす るそばでけい こを して学校に入学す るまでには二年 生の本を全部読み書 きできるようになった。 母 さんは 「よく勉強す る子は終いには頭をわず らって早 く死ぬる」 とい って勉 強す ることを喜んで くれなかった。 それは母 さんの親類に頭の よい子がいたが ,後に頭の病気をわず らって早 く死
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8-明治後期の岡山県南部における農村生活 471 *13 んだ,とい うことか らであった。 しか し平素はや さしいよい母であった。 小 学校 の卒 業 を控 え ,高 等 小 学 校 - の入 学 の話 が でた とき ,母 親 か ら
,
「も う高等 - は行 くな」 といわ れ た が ,大 きい姉 の説 得 で高等 小 学 校 に行 くこ と *42-43 に な ったO 姉 た ちにつ い て ,つ ぎの よ うに記 してい る。 「姉 さん が三 人 いた。 僕 が十 才 の と き,大 きい姉 さん は十 八 才 ,次 の姉 さ *2g ん は十 六 才 ,三 番 目は小学 校 の五 年 生 で あ った」。 長 姉 と二 姉 の こ とが よ く 出て くる。 長 姉 は8
歳 年 上 で ,追 慕 の念 は大 きい。 大 きい姉 さんは 「小学校-行 くのがきらいだ った」 と父 さんたちが よ く言 って いたC四年生がすんでもう学校をやめたが,それでいて非常に頭が よくて字 もよ く知 っていた。 田んぼをす るのがきらいで,その頃ではまだ珍 しい 「半物 (洋裁)の仕立屋にな る」と言 って,小 さい ミシンを買 ってもらって,けいこに通 っていた。併 し毎 日は 行けず ,田圃の忙が しいときは次の姉 さんたちと手伝いを し,また ゴザ (花延)を 織 っていた。 少 し太 って色が 白く,いつ も髪を二百三高地巻 き (前髪つ きだす)を結 ってい た。寒い時分には僕 と一緒に コクツに寝たが,寝床で よく 「女子文壇」とい うむつ か しいそ うな字ばか りの本を読んでいた。母 さんは僕が勉強す るのをあ ま り喜 ん で くれなか ったが,この姉 さんは母 さんに代 って よく世話を して くれ , とて もや *29・-30 さしい よい姉 さんだ ったO 小学 校 卒 業 の とき ,悦 太 郎 少 年 は優 等 生 と して校 長 か ら賞 状 と賞 品 を授 与 され たC 家に帰 ると大 きい姉 さんが一番菩 こんで くれたO「お前 さん よか ったな。それで 優等賞をもらうとき,何番 目に名を呼ばれた」 と聞いたか ら二番 目に呼 ばれた と 云 った ら,「それあ,お前二番 ぢゃが」といって大そ う菩 こんだ り褒めた りして く-2
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9-472 れた。一年生のときからずっと僕の面倒をみて世話をして可愛がってくれた姉 さ *43 んはまるで自分のことのように喜んでくれた。 次姉 は6歳年上 で ,同 じく追慕 の念 は大 きい。 次の姉さんは背が少 し低 く,髪は普通の束髪に結って,大きい姉さんのように 家の仕事を手伝 った。あい間には裁縫を習いに行った り 「表」を織 った りしてい た 。 これも優 しい姉さんで,同じ村 (長津)の女の友達と 「少女の友」という雑誌を 二人で買って,交わる交わる読んで,行った り来 りして仲良 くしていた。夜本を 読むとき,大きい姉さんと与射野晶子がどうのこうのとよく言っていたが,その 雑誌にでていた小説のことらしかった。 *3D 彼にこの姉さんは,その友達の兄さんのところへお嫁に行った。 す ぐ上 の姉 につ いての記述 は少 ないO 妹 は5年 生 の とき7歳, 6年生 の とき1年 生 ,弟 は5年 生 の と き4歳 で *38-39 あ った。す ぐ上 の姉 が していた妹 ・弟 の守 りを させ られ た , とい うことを記 *38 してい る。 も う一 人一番下 の弟 がいたが , この弟 の ことは後 に ,高等小学校 を病 でや めて家 で療養 してい る頃
,
「末弟 の守 りな どしな が ら 日々をす ご し *46 た」 と記 してい る。 なお ,悦太郎 は2
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歳 の とき,家 を弟に譲 った。3
反歩 ばか り分けて貴 い , **Ⅶ 小 さい家 を建 てて分家 した。(
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家業 生家 の生業 は農業 で ,副業 として と畳表 ・ゴザ織 を行 な ってい る。 もちろ **6 ん農 間には ,例 えば雨 の 日には藁仕事をす るD 耕地 は 田7反歩 ,畑9畝歩 で , 自小作 であ るが ,その 内訳 は記 され ていな い。後 に3反歩 を分け て薫 って分家す るが ,それか らみ て 自作地 が多か った-2
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-明治後期の岡山県南部における農村生活 473 であろ う。 **11
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反歩の水 田には稲 ,裏作に麦 ・商事 ・蚕豆が栽培 された。蘭草1
反歩 , **4 蚕豆1
反歩 と記 されているので ,麦は5
反歩 とい うことになる。 高等小学校を中退 して家で養生 している頃,
「畑に もよ くつ いて行 って , *45 いも類 ,大小豆 ,莱 ,そば,野菜類 の耕作を手伝」 った。 9畝歩の畑 では, 商草百 ・麦 ・さつ まい も ・馬鈴薯 ・ササゲ ・大根 ・ソバ ・ゴマな どを輪作 **5-6 し,また ゴボウ ・ラッキ ョウ ・蕗な ど作 られ る。大根には聖護院大根 ・練局 **17 大根 の名が出る。 また,日常 よく食べ るネギ ・ナス ・キ ュウ リ ・葉菜類は屋 敷続 きの菜園でつ くられ る。 Lもく (堆肥 の山) の裾 に土 を寄 せ てユ ウガ **5-6 **20-21 ホ ・カボチ ャを植 える。一時は大麻を田3
畝歩 ,畑1
畝歩作付 した。*
*
8 牛は飼育 していないので耕転は他にや って もら う。農具は ,蘇 ,千歯 ,磨 箕 ,な どの類である。 **19 物を運ぶには,天秤棒 でかつ ぐのが主であった。ほかに猫車 も使われた。 **3,9∼1D 肥料は,稲には大豆粕 ・ニシン粕を使用す るが ,ニシン粕は値段が高い。 即効性の肥料 として多木 とかい う会社 のものが使われた とい うが よく知 らな **3 い とい う。そ してなに よ りも堆肥 である。それは,川泥 ・藁 ・塵芥 ・草藁 ・ **5 川岸草を積み,そ してはきだめのごみ も加える。 後にみるように,幼少の時か ら母親が田圃-行 くときはついて行 った り, 蘭刈の場にいた り,父母の前の田圃での田の草 と りを見た り,稲 のずい虫取 り,母の言いつけで近 くの道端の田圃のえん どうちぎ りとい うことは して育 ち,高等小学校は農業科で苗代つ くりの実習を した りしたが,農業に従事す るのは1
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(大正4)
午,1
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歳 の ときか らである。4
こどもの生活
(1) こどもの遊び 幼少の時の遊びの記録ほっ ぎのごとくである。 -2 5 1-474 私が小 さい時は,近所に子供はいたが,みんな年の大 きいものばか りで ,遊 ぶ にもまた連れに してもらえず ,姉 さんが学校 か ら帰れば姉 さんが遊 んで くれた り,また よそへ連れて行 って くれたが,そのあいだは母 さんのそばで一 人 で遊ぶ *10 ことが多かった。 姉 さんが家でべんきょうを始めたので,ぼ くももらっていた古い本を もって き て,姉 さんが本を読むのをきいた り,自分のも教えてもらった りして,字 をおぼ えた り善いた りしたO ベんきょうをす まして遊びにつれていってもらった。姉 さんの友達は二 ,三 人 いたので,いろいろな遊びを していたOか くれんばのときはぼ くも仲間にいれ て もらった。身体が小 さいか ら狭い所えでもか くれ られるので,なかなか見つか ら なか った。終いにはみんなが心配 して,「もう出ておいで」といったので出ていっ た。「あれ,あんなところにはいっていたの」 とみんながあきれていたが,ぼ くは
*
1
1
おもしろか ったo 姉 さんたちがマ リをついてあそ んでいた のであれが欲 しい と母 さんにい った ら,母 さんは綿を握 ってきて ヒメを紡 ぐ革で糸を こしら-た。糸は太 くて細 い と ころもあったが,それをポ ロ布を丸めてその上に巻いてマ リをつ くって くれたo マ リができると,赤 と青の糸で外がわをきれいにかがって くれた。僕 は糸がで辛
l
l
きるのがめづ らしか ったDマ リもきれいなのをつ くってもらって うれ しか ったo 父母 が野 良仕 事 をす る ときは ,つ いて い く。 田圃え行 くときはついて行 って,あぜみちをかけまわ った り,田んぼ の中に ゴ ザを しいてもらって,古い本をみた り,オヤツを食べた り,時には昼寝 もした。そ れでも春の田圃はよいが,夏の暑い ときは困 った。田んぼに水があるのでほい る ことができず ,堆肥のかげにカサをさしてもらってその下に ゴザを しいて ,ひ と りであそんだ。 -252-明治後期の岡山県南部における農村生活 475 姉 さんが学校か ら帰 る頃には途 中 までむか えに行 って ,友達 な どと- しょに 帰 った。みんなが大事に して くれて,時には負んぶ してやるといって,金 田の方 *10-ll の姉 さんがおんぶ して くれたD とてもその時は うれ しか った . 蘭 刈 りとき ,悦 太 郎 はそ ば に い て作 業 を み る。 田園のすみに コモで 日除けを してもらって遊んだ。 外-出ると母 さんは 「帽子をかぶ らねは病気になるぞ」 と叱 った。 夕 方 ,母 親 が持 って きた握 飯 を イ が らの上 に敷 い た ゴザ に腰 を お ろ して , *13-14 み な で食 べ た お い しさを記 して い る。 雷 は こ ど もに とって は恐 ろ しい もの で あ るO そ の時 の描 写 が あ るO 暑い昼 ,父 さん母 さんは前の田圃で田の草を取 っていた。僕は家の軒下 の涼 し い ところでひと り遊んでいた。す るとにわかに黒い雲が金山の上か ら出て家 の上 の万 まで広がって釆たか と思 うと,急にピカ ッと光 ってパ リパ リとものが さけ る ような音が したOびっくりして家 の中に とんではい った ら大粒 の雨 が降 って来 たC雷 さまは大 きな音で ゴロゴロなった。 とんで帰 った父 さんは納屋か ら鍬 を出 してきて軒の下の雨の中え刃を上にむけて立てかけて,急いで家の中に入 ったO 母 さんは足をふ きふ き,「お前,腹あてを してるか ,-そを出す な。 とられ る ぞ」 といって座敷に上 って急いで蚊帳をつって くれたOかやの中にはい ってぢ っ *15 と耳をふ さいでいた。 農繁 期 (田植 時) に は上 級 生 は学 校 を休 ん で も よい こ とに な って い て ,吹 姉 につ れ られ て学 校 -遊 び につ れ て行 って貰 った こ と もあ ったO ず っと小 さいとき,田植 えで田んぼで遊べないとき,次の姉 さんに連れ られて 学校に行 ったoその頃は田植時には大 きい子は学校を休んで よいことにな ってい た。小さか ったのでおんぶ してもらった り歩いた りして行 った ように思 うo 学校は大 きい人は休んでいるものが多か ったが,低学年のものはみな行 ってい -2 5 3
-476 たのでにぎやかであった。教室に先生がいなかったので,みんなは自由におさら *17 いしていたので,大事にしてあそんでくれたD 以上には ,母親 の傍 らで一人遊 びを した り,野良仕事 をす る父や母 の傍 ら で遊 びまわ った り,そ して姉たちの仲間にいれて覚 って遊ぶ様子が記 され て いる。 ここか らは幼 い時に母や姉たちか ら慈 しまれて過 ご した ことが伝わ っ て くる。 *15-16 *16 また七夕 ,お盆 ,を家族一 同で迎 える様子や ,荒神か ぐらの ときの恐 い経 *f7 敬 ,そ して後 にみ る ような宮詣 でな ど,多 くの ことが らに彩 られてい る。
(
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)
宮詣 宮詣 には,
「母 さん と三人の姉 と- しょにお宮にまい った。 両方 か ら手 を 引いて もらって石だんをつ まづ きなが ら上 って神様 の前 で,みんなのす る よ *3 うに手 をたたいた」生後2年 4カ月 のときのひ もとお し, 「ある夜 ,母 に背 *3--4
負われて ,近所 のおば さんたち と」行 った さんたばのお大師 さま,
「母 さん *5
と近所 のおば さんにつれ られて」請 ったお地蔵 さま,
「父 さん と小 さい姉 さ *5-6
ん とまい った」長津 の天神様,
「顔 にで きものが して ,ある雨 の降 る 日に父 *6
さん とカサを さ してはだ しで」謡 った市場 の笠神様,
「父 さん母 さん姉 さん *6-7
と四人で」請 った中帯江 の観音様 とその近 くの 「イボ神 さま」,
「秋 のお祭 *7 りに父 さん と姉 さんの三人で」 のお宮詣 りな どと多 くの記述がある。 その一つ ,吉備津神社 の講話 についての記述 は詳細 である。 長津には毎年春と秋の二回吉備津神社の講語 りがあった。「悦 も来年からは学 校だから少し歩 くけいこをLとかねば」と,父さんに連れられて吉備津 さまえま いったo吉備津までほ往復四里もあるので小さい (特に背が低かった)子供には 無理であった。 途中肩車をしてもらって吉備津さまに着いた。長い廊下があった。ここは元気 に歩いた0 12 5 4-明治後期の岡山県南部における農村生活 477
礎
最 幣 齢雷
で-遠
路
・{
Å
見
え
と.+ い鹿
苑
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掩
-1 み 尊称
か ら ク が釦
.t雀
-第2園 長津の天満宮 (佐藤悦太郎氏製作) 註 1)佐藤悦太郎 『長津 と写真でみる古田』31ペ ー ジ. 2)原図は彩色,本図は原寸の65%に縮小. 帰 りみち,山陽線の近 くで丁度汽串が来たO生れて始めてみたOそれは長 い貨 物列車であったが,見えな くなるまで見送 った。そ して汽車に乗 っている人は毎 日のれるからいいなあと思った。 三谷の坂を肩車 してもらって矢尾の大池まで帰った。池の端の甘酒屋 で甘酒を *7-8 のんだCのどがかわいていたのでとてもおいしかったO この宮詣 りの多 くは子 の成 長 と健 康 を願 う父母 の願 の あ らわれ で あ るが , それ は また ,父母 や姉 た ち との深 い秤 とな る もので もあ る。(
3
) 病 気 顔 ので きものが で きた ときは市場 の笠神様 -詣 でた。前 の線香立 てに あ る*6
灰 をで きものにつ け た。 またそれ を紙 に包 んで持 ち帰 ってつ け た。 病気 に対 しては母親 は 口やか ま し くい った0 -2 5 5-4
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母 さんは夏になると口ぐせの ように,「水を呑むな,腹あてをいつ もとておれ」, そ して 「暑 うても川へはいってはならぬ」 と口やかましく言 っていた。 これは役場か らの注意 もあったが,特に家ではやかましくいって叱 られた。 自 分たちも伝染病で死ぬんでかっがれて行 くのを見てはすなおに言 うことを きいて いた。 そ してご飯を食べた ら梅干 しを食べておけ,腹痛にならんか らといって酸 い梅 干 しを よく食べさせ られた。また,隣の家では 「ラッキ ョウ」を食べれば病気が寄 *14-15 りつかぬ」 といって よくラッキ ョウを食べていた。 医師 に も診 察 を受 け ,治 療 した。 寒い ときカゼを引
いて,なかなか よ くな らないので ,母 さんにおんぶ して も らって町のお医者に行 った。 上の方はみな脱いで見てもらったO手を握 った り,胸をばんばんたたいて ロを あけた り,いろいろ して見た.先生はや さしか ったがそれでも少 しこわか ったO 水の薬 と粉の薬 りをもらったが,水の薬はあま くておい しか ったが,粉 の薬 は *17-18 とても苦 くて,砂糖をた くさんまぜてのんだ 。 高 等 小学 校 に入 ってか ら頭 痛 が は げ し くな った 学校に通 ってはいたが,五月の末頃か ら頭痛が度 々して 自分なが ら困 ったO昼 で も冷たい手拭を額にのせて寝て休 まねはならな くなって,とうとう母 と町 の医 者に行 った。 医者二宮先生で家の者 も時折 り診てもらうし,また家の前の道を通 って中庄村 の方へ往診に行 くので よく知 っていた。あちこちを診て もらって控え室 で待 って いる間,母は他に患者がいなか ったか ら先生 としばらく容態や また手当な どもき いた。 水の薬 と粉の薬をもらって飲んたが,薬をのんだ時は よいがまた悪 くな ってな *45--46 かなか もとの ように よくならない。 そ して ,つ い に退 学 して家 で養 生 す るが , --読みか きはできるだけせぬ よ うにのんび りと身を養 うことだけを心がけ-2
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6-明治後期の岡山県南部における農村生活 479 て,末弟の守 りなどしなが ら日々をす ごした。 そ して よく神様やお大師さまに請 ったOその時分近所 のおぢさんや父は殆 ん ど 毎月児島の大師さまにまいっていたか ら,それについてまた一人でまい った。近 くの三たばの大師さまには赤飯を重箱につめて持 ってまいった。 天神 さま,吉備津 さまや一の宮までも参 って頭が よくなるように と本気 でお祈 *46-4T りを した。また母 と岡山に行 って祈頑者に封 じてもらった。 畑にもよくついて行 って,いも類 ,大小豆 ,莱 ,そば,野菜類の耕作を手伝い, 家ではなわをな うけいこを した り,ぞお りの作 り方を教えてもらった りして ,す こしづつ体をきたえるかたわ ら仕事を覚えることに して,当分勉強は病気が よ く *46--47 なるまではせぬ ように した。何でも早 くこの病をなおさねば と懸命であった。
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学校生活 ・時代の投影
(1) 学 校 生 活 ① 入 学1
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(明治4
2
)
年4
月 に早 島小学 校 に入学 した。 そ の年 の正 月 ,雑 煮 で祝 った あ とで ,悦 太 郎 は母 親 か ら,
「お まえ も八 つ に な って ,四月 か らは学 校 だ か ら今 まで の よ うに あ まえ て ばか りお らず ,何 で もひ と りです る よ うに な らね は いけ な い よ」 と言 わ れ る。 い ま まで は姉 草ん *a) が や って くれ た こ とを 自分 でや らな けれ ば な らな い と思 った。 入学 が近 づ き, カバ ン,帽 子 ,本 ,せ きは ん ,鉛 筆 な ど- さい を 買 って貰 *21 う。 毎 日カバ ンに入 れ た り,出 した り,本 を読 んだ りして入学 の 日を待 つ 。 そ して入 学 の 日 とな った。 入学式にはお父 さんと-カマをはいて行 った。入学す るものも大勢いた。二階 の講堂で式があった。泣いている子供 もあった。 君が代をみんなで唱って,その後で,よく太 って眼鏡をかけてた校長先生が何 や ら生徒 の方や父 さんたちの方- 向いて話 を した (校長 は杉浦直之丞 とい っ - 257-480 *24--25 た)O 式 の あ と,教 室 に入 った。担任 は浜野先 生 といい ,背 の高 い ,眼鏡 をかけ た女 の先 生 で あ った。 先生は 「みなさんは今 日から此の学校の生徒になったのですから,明 日か ら元 .気でおいでなさい。この教室をわすれないように,そ して仲良 くおいでなさいよ」 といって,そのほかのことなどを話 して くれた。父さんたちはみんな 「よろ しゅ *21 うおねがいします」 といいなが らお じぎを した。 ② 学校 の 日々 この よ うに して始 ま った学校 生活 で あ るO あ くる日から近 くの大きい子 といっしょに毎 日通 った。大 きい人に連れが多 かったのでやさしくしてもらえて学校-行 くのが楽 しかった。
1
年 生 の ことは何 で も知 って いて ,先生 の質 問は真先 に手 を挙 げ て答 え , 前 に 出て数 を数 えた り,字 を書 いた り, ときには父親 か ら聞 いた話 な ども し た ので ,み んなが あ きれ ていた。 外へ出てもよく駆けまわってあそんだ。身体が小さくてすばや くねずみの よう にかけ歩いたのでネズ ミとあだなされていた。 学業はよく出来たが行儀が悪かったO悪いことはしなか ったが,教室 の中での 態度が悪いといって先生にこの点はよくにらまれたC 通知 簿 は学科 は全 部 甲で あ った が ,操 行 が 乙 で ,優 等 生 に は な れ な か っ *21-ZE た。3
年 生 の とき,修 身 の時 間 に先 生 (女 の伊 丹先 生) が何気 な く教 育 勅語 を 知 ってい るか と質 問 した のに対 して ,わ け は わ か らな い が読 む こ とは で き る ,暗 唱 もで きる と大 きな声 で答 えた 。 そ して教 壇 に あ が り皆 の方 を 向 い て ,教 育勅語 を一気 に暗 唱 した. 先生 も生徒 もみ なび っ く りした。 どの よ う-2
5
8
-明治後期の岡山県南部における農村生活 481 に覚えたのか とい う問いに対 して
,5
年生の姉が読んで暗唱 しているのを聞 *Z) いて覚えた,と答えて,先生を感心 させた。 「四年生にな って少 しは 自分なが ら今 まで とは変 った ような気が して,真 面 目にや らねばな らぬ と思 った」Oそ して3
年間を振 り返 っ た。 この3
年生 の中頃の,教育勅語を暗唱 して,受け持ちの伊丹先生がびっ くりした後は, 伊丹先生が非常に可愛が って くれたO 「外では よく 『悦 よ』
『悦 よ』 と呼びす てに したが,これが姉 さんの ような気が して,嬉 しか った。それか らこの先 生の言 うことを よく聞いてま じめに勉強 した。『よくできる よ うにな った』 *32 と言われ るようになった」。 *38 操行 もよくな り,4
年生の ときは優等賞を貰 った。 在学中に早島小学校 の校地 ・運動場の拡張 ,校舎の建替えが行なわれ ,そ *31--32 の間 ,教室が不足 して二部授業 とな ったことが記 されている。 ③ さまざまの行事 学校にはさまざまの学校行事がある。 まずは,楽 しいものは運動会 と遠足である。 運動会は毎年 の恒例の行事である。運動会は毎年秋 の鶴崎神社 の大祭の翌 日 (祭休み)に行なわれた。 1カ月位前か ら練習を し, 4, 5日前に全部一 通 り行な う下げい こを行な う。 運動会当 日は,校 門の内側にヤグラが阻 まれ ,その上で楽隊が軍歌な どを 演奏す るQにぎやかであるO開会式は生徒全員が4
列にな らんで校歌を男女 が交互に歌 いなが ら入場 し,校庭を一周 して整列す る。校長が高台に上 り, 先生が横両側に整列 し,先生の号令で礼をす るO 「校長が何や ら言 っていた が小 さい生徒たちには よくわか らなか った」。それが終 る と生徒 は両方 に分 れて裏にはい り,競技が始 まるD 行なわれ る競技は,徒鹿走 ,帽子取 り,遊戯 ,舞踏な どで,
「その都度楽隊-2
5
9-482 がブカブカとはやす ので一 日中にぎやかだ った」。 悦太郎 は運動会は好 きであった とい う。走 りまわ ることが得意 で,身体は 小 さいが ,徒競走 ではたいていその観 では一番だ ったD帽子 と りな どでは上 手に逃げて取 られた ことはほ とん どなか った。 「まるでネ ズ ミの よ うで な ん ば うに もかなわん」 と言われた。 十番 の得意は障害物競争であった。梯子 を抜けた り,網 を潜 ることな どほ とて も早か った。見に きていた一番上の姉が ,家 に帰 ってか ら皆に ,悦太郎 は出るときは号砲 にび っ くりして出お くれたが ,半分は どまわ って前 を通 る *Z4-Z5 ときは他 の子をず っと離 して先頭だ った ,あ きれた ,とい った。 も う一つの大 きい行事 は遠足 であるo 遠足 については, 1年生 の時の 日間山 , 4年生 の時 の玉 島養父ガ鼻 , 5年 生の時の讃岐金毘羅官 ,この3回について記 している。それぞれ 印象深 い も のがあ ったのであろ う。
1
年生の ときの 日間山は春 の終 り頃であった。弁 当を風 呂敷に包 んで ,育 中に斜に負 う。道 々をがやがや楽 しく話 しなが ら行 き,ち ょっとした山の中 の寺に着 くOそ こで昼食 である。 ・・・・・僕らは四,五人,石に腰をかけて,風呂敷から弁当を出して一つ二つ食べ たとき,どうしたわけか巻寿Lがコロコロと転がって土の上に落ちた。僕は後に まだあったので 「もうよいワ」といったら,そばで見ていた生徒がされを拾 って ついていた土をなで落して食べた。その瞬間,僕はこの子は弁当を持ってきてい ないなと思って,残っていた巻寿 Lを一つやったCその子は何も言わず軽 くうな ずいてそれをうけてうまそ うに食べたD どうしてあの子は弁当を持って来なかったのだろう。僕もとわずあの子 も何 も *Z2 言わなかったが。4
年生の時の玉 島養父ガ鼻旅行では,初めて汽車に乗 った。倉敷 の駅 まで-2
6
0-明治後期の岡山県南部における農村生活 483 歩 き,そ こか ら玉 島駅 まで の一 駅 で あ ったO -・・窓から見る外の景色はめず らしく,目につ くものはみな後-級- ととんで 行 く.長い鉄橋を大 きな音をたてて渡 ったか と思えばもう駅で下 りなければな ら なかった。何だか物足 りない感 じが した。 一里ばか り歩いて養父ケ鼻に着 く。広い海を見るのも始めてであった (児島湾 は見ていたが).水島の海は広 く,大小の船が往 き来 して眺めも素晴 らしいoみん なと海辺の砂に坐 って弁当を食べ,貝などをさが して遊びまわ った。 家に帰ったらだいぶつかれていた.が併 し修学旅行はいつ,どこへ行 って も楽 *321-33 しいものだ。
5
年 生 の時 の遠 足 は讃 岐金 毘羅 官行 きで , これ までに5
年 生 では なか った 遠 方- の遠足 で あ る。前年 に宇 野線 が開通 したか ら こそ で あ る。 宇野 まで汽 車 で行 き,そ こか ら高松 まで連絡 船 で ,そ こか ら汽 車 で行 く。 清水校長を始め非番の先生も同行す ることにな り,五月のある日早島駅か ら 乗 って,八浜の トンネル,そ して連絡船 と生徒たちにはめづ らしいものばか りで, 四国の汽車にの りかえて琴平に向っていたo ところがはか らず も大椿事が起 きた。僕 らの車両のデ ッキにいた二 ,三人が 「オイM君が汽車か ら落ちた」と大声でさけんだ。みんなはびっくりしたが,窓が 開かないので外を見ることはできなかった。 デ ッキで機 械体操 の よ うな こ とを して いて手 が離 れ て落 ちた , とい うので あ る。 しか しす ぐ起 きて汽 車 の方 に走 って きた , とい うので一 応安 心 した。 琴平 では ,高 い階段 を あが って金 毘羅 様 を拝 礼 し,境 内で弁 当を食 べ ,高 い所 か ら遠 くの景色 を眺 めた り,土産 店 を 見 て まわ った りした 。 帰 途 に つ き,高 い階段 を下 ってい る と,中ほ どで清 水校 長 ,石 原 先生,M君 の三 人 が 上 が って くるのに 出合 う。 上 が って い く三 人 の後 姿 を見 て ,本 当に よか った と思 った。 走行 中 の列 車か ら落 ちた のにけ が もな く元気 な のは ,奇跡 とい うか ,金 毘 -2
6
1
-484 *37-38 羅様のご利益 といわざるを得ない,と記 している。 学校行事には祝 日の式典な どがある。 大事な儀式に祝 日の式典があった。祝 日の うちの
1
月1
日元旦,2
月1
1
日,
11日3日は式があった。みな袴をはいて登校す る。式 は ,君 が代 を歌 い,校長先生による勅語の朗読がある。 --校長先生が白い手袋をして,箱の中から教育勅語を出すして,高 く捧げい た だ た 。 先生の号令でみんな頭を下げた。勅語を読み終るともとのように頭をあげる。 続いて今日の祝日の話しをされて,祝日の歌を歌った。 祝 日の歌は,1
月1
日の正月は,年の始のため しとて,終 りなき世のめで たさを-・・-,2
月11日の紀元節 ・神武天皇即位 日は ,雲 にそびゆ る高千穂 の 高嶺おろしに草 も木 も--,
11月3
日の天長節 ・明治天皇の誕生 日は, 今 日の佳 き日は大君の 生れ給い し良き日な り・=-であった。 その他の祝 日 ・記念 日は1
月3
日の元始祭,1
月3
0
日の孝明天皇祭,3
月1
0
日の陸軍記念 日,春分の 日 ・■春季皇霊祭,4
月3
日の神武天皇祭,5
月2
8
日の海軍記念 日,秋分の日 ・秋季皇霊祭,10月17日の神嘗祭,
11月2
3
日の新 *a∋ 嘗祭 ,これ らは休 日である。 郷社である鶴崎神社の秋の大祭は全点で参詣する。 学校の生徒はみんな袴をはいて,先生に引率 されてお宮に請 った。前の広 場に全点が整列 して,生徒の代表 と校長 とが石段を上 って神前に行 って敬礼 す る。それに合わ して先生の号令で敬礼 した。 この日とあ くる日のお練 りの 日には学校は休みであった。 また鶴崎神社は郷社 とい うことで,郡役所か ら奉弊便が弊商科をもって参 *Z2-23 拝 していた。 先生たちの送迎 もまた一つの大 きなことが らであったであろ う。悦太郎は 校長先生の見送 りの様子を記 している。-2
6
21
明治後期の岡山県南部における農村生活 485 3年 の秋 に ,京都 の盲唖学校 の先生 とな る杉 浦先生 の見送 りが あ った。 そ の とき,悦太郎 たち
3
年 生以上 の生徒全員 で山陽線 の庭瀬駅 まで見送 った。 ・・-・みんなははかまをはいて,二列にならんで,先生につれられ,三谷の坂を 越え,撫州の町を通 り,庭瀬の町の東の端にある駅まで行った。早島か らはかな りの道の りだったO 駅の東側の貨物の引込線の所へずっと長 くならんで待っていたOだいぶ時間が たって汽車がきてとまった。 まもな く汽車は汽笛をならして動き出した。校長先生は容から身体をの りだ し て両手を高 く振ったO生徒も先生の号令で,ぽんざい,ぽんざいと,みんな手をあ げて見送った。校長先生の手は間もな く見えな くなったが,生徒は汽車が見えな くなるまで じっと見送ったO また三谷の坂を越えて帰ったが,家についた頃はもううす暗 くなっていた。足 *Z3-24 もだるかった。 ④先生 たち ,悦太郎 の 自覚 入学時 の校長 は杉浦直之丞 で , よ く太 って眼鏡 をかけていた。 この杉浦校 長 は3年 の秋 ,京都 の盲唖学校 に転任 した。 担 任 は浜 野 先 生 とい う背 の高 い ,眼鏡 をかけた女 の先生 であ った。3
年 生 の ときは女 の伊丹先生 であ った。 3
年 生 の中頃 の ,教育勅語 を暗唱 してか ら,伊丹先生が非常 に可愛 が って くれ た ことな どはす でに記 した とお りである。 4年 の ときは二宮先生 で ,学校 を出たばか りの若 い先生 であ った。運動会 な どへ も巻 ケ- トル で来 ていた。読 み方 の説 明で もどこか しどろ もどろの と ころ もあ ったが ,そ の代 り熱心 であ った。体操 の時間には近 くの国鉾公 園に つれ て行 き,体操 した り休憩 には 自由に園 内で遊 ばせ て くれ た。活発 で ,そ してや さ しいので生徒 が よ くなつ いて ,言 うことを よ く聞 き,勉強 した。慣 行 の妙法寺に一人 で下宿 していたが,5,6
人 を お寺 に さそ い教 え て くれ -263-4
8
6
*33-37 た。学年 末 にはそ の全 点 が優 等賞 を も らった。 5年 の ときの受持 は石原 先 生 で あ った。6
年 の ときは初 め は林 先 生 で あ った が ,途 中で東京 -行 き,後 任 は馬場 先 生 とな り,6
年 の大 部 分教 えて も らった。 この馬場 先 生 は , ・・・-一寸見ると古い感 じがしたが年は案外若かった。頓行の太田の神主の何 と かで,そこから学校に来ていたO親 しみやすい先生で,話 しなどもなかなか上手 であった。 遠慮のないところもあってお医者へ薬を取 りに行 った り,また牛肉屋へ肉を買 いに行 くのを頼まれることが度 々あった。 そ の当時 ,学校 で は先 生 た ちの感 想や作 文 な どを集 め て,『さ くら』とい う 本 を年 に何 回が 出 していた。先 生 か ら 「君 た ち和歌 か俳 句 を作 って兄 い」 と いわ れ てみ んな面 白半 分 に作 って 出 した が ,そ の後 の 『さ くら』 に悦太 郎 の 作 品 「お きな子 の あち ら こち らに手 ま りつ く 顔 ぞ うれ しき 元 旦 の朝 」 が *40 載 って いた。1
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2
(明治4
5
)
年4
月 に6
年 生 とな った。悦 太郎 は上級 生 と して の 自覚 を つ ぎの よ うに記 して い る。 六年生になって,今までとは違 って只 自分のことばか りでは済まされぬ ことに なった。校外では部落の観長 として部落内の生徒の一応の注意せねはな らず ,BJJ けて小さい低学年には特に登下校時には注意 してあやまちのないように ,男の子 のいたづらなどにも気をつけるなど,なかなか責任を感 じた。 部落 日誌があって変 ったことは記帳 して報告 したO妹は一年生として学校に行 くようになったが,幸い近所に連れがあ り,また,家の前の通 りを通る子供 の中 にも同級生がいたので余 り心配はなかったが隣の男の子が一年で入学 したので毎 日つれていったQその子の母親が毎朝たのみます とい うので,親切に世話を して やった。 校内では六年生だから校内全般のことについてよく注意 して,生徒の遊 びな ど-2
6
4-明治後期の岡山県南部における農村生活 487 にも危険のないようにと言渡されて,なかなか骨が折れた。がみんなも今年が最 後であるし上級生とい う責任感 もあって,今までよりはずっと大人らしく,お と *3) なしく下級生の面倒を見るようになった。 *43
1
91
3
(大正2)
年3
月 に早 島尋常小学校 を卒業 した。 そ して4
月 開成 高等 小学校-入学 した。 開成 高等小学校 は早 島 ・妹尾 ・豊 中州 ・福 田の4
カ町村 立 で ,妹尾 町箕 島に あ った。 男子 には商業科 と農業科 が あ り,悦太郎 は農業 *44 科 に入 った。 *45 ここでは5
月 には近 くの実 習 田で苗代 づ くりな どを体験 してい る。5
月 の末頃か ら頭痛 が度 々 した。小学校6
年 の頃か らの もので あ ったが , *44 学校 に も行けな くな り,結 局 は退学 した。(
2
)
時代の投影 (D会社 ・工場 (2) 「物産会社」 父さんと町にいったとき 「物産会社」を見た。そこには私のおばさんが仕事に 行っていたので,中に入って見せてもらった.長い工場の中の両がわに ゴザ磯が た くさん並んでいて大ぜいの人がガッチャン,ガッチャンと大きなを音を立て 、 *4 赤や青の蘭できれいな模様のゴザを織っていた. (3) 帯江 の銅 山 「金 田の西側 の山には帯江 の銅 山が あ って高 い煙 突 か ら毎 日け む りを 出 し,ガ ランガ ランと大 きな音 を さ していた」 とい う帯江 の銅 山を ,帯江 の観 音 ,その近 くの 「イボ神 さま」 に詣 った帰 り途 に見物 した ときの ことをつ ぎ の よ うに記 してい る。 ・・-西の谷にヨーコーロがあって人が働いていた。赤 く焼けた ドロドロのかす を,小さいツボのついている手押車を受けて,離れた処-運んで行ってひっくり 返す.カルメ焼のようなものができた.-2
6
5一
488 中はどの山には高い煙突があって煙を出していた。そばに行ってみると,こち ら-倒れてくるように思われた。 東の山では高いヤグラが建って,その下の横に機械室があって,そこからロー プでヤグラを通 して深い地の底から水をくみあげていた。毎日,ガランガランと *6-・7 いっているのはこの音だったo ②電灯 ・電話 「明治四十一年早 島に始め [て]電話が開通 して ,全 国の何処 にで も通話 がで きるよ うにな った」 と1908(明治
4
1)年 に早島町に電話が開通 した こと *瓢 を記 している。 「大正二年始めて電灯 がついたo併 し町筋 だけ (一二八灯 との こと)O-応 町すぢは ランプ生活か ら開放 されたが,田舎 は まだ まだ」 と,1913(大 正 2)年に電灯が点 った こと,ただ しそれは町筋だけで ,農村部は まだ ランプ *2D に よる生活 であることを記 している。 ③宇野線開通 「明治四十三年六月には宇野線が開通 し,早島駅が設け られて交通が便利 * 20 にな った」o 鉄道開通前は往 き来 は歩 くことが基本 であ った。往復4
里 もあ り 「途 中肩 車を して もらって」吉備津神社 に詣 でた り,小学校 3年 の秋 に京都 の盲唖学 校 の先生 となる校長 の杉浦先生を3
年生以上 の生徒全員が山陽線 の庭瀬駅 ま で歩 いて行 って見送 った ,とい うよ うに,とにか く歩 くことであ った。 人は殆ど歩いた。乗 り物といえばこの地方では, 1 自転車がようや く一部の人にのられるようになった。 2 人力車が早島の町の東西に二ヶ所溜 り場 (待合所)があって,常時数台駐車 して客を待っていた。客は有福な老人に婦人,そ して土地に不案内の者が多 かった。-2
6
6
-明治後期の岡山県南部における農村生活 489 時には五台,六台 と連ねた嫁入 りや芝居の役者の町まわ りがあった。 これ は珍 *18-19 らしいので人々は立 ち留 まって見ていた。 (4) 開通 した宇 野線 に は早 島駅 が設 け られ た。 宇 野 線 開通 の 日の様 子 をつ ぎの よ うに描 い て い る。 宇野線が開通 した。早島町民はもちろん沿線の人が待ちに待 った宇野線 が遂 に 開通 して汽車が走 り出 した。 開通式には町の人はみんな仕事を休んで喜び祝 った。駅前の広場や駅茄 の通 り は-パイの人で,喜天 もあちこちに出て,汽車がつ く毎に大 きわざを した。 中に は踊 りを踊 り歩いているものもいた。 僕 も駅 まで見に行 った。大勢の人で汽車はみな満員で,乗 っている人は窓か ら 手をだ してバ ンザイをす るo見物人 もこれに応へて一斉に万才万才 と手 を挙 げ て 見送 った。 友達の中にはお父さんお姉 さんたち と汽車にのって宇野や岡山-行 った もの も *刃-34 あった,が僕は行けなかった。併 し早 く乗 って見たいなあと思 った。 宇 野 線 の開通 は こ どもた ち の遊 び に も大 き く影 響 を与 えた。 流 行 った汽 車 ご っ この様 子 をつ ぎの よ うに記 して い る。 汽車 ごっこがはや り出 した。宇野線が開通 してか ら急に汽車 ごっ この遊 びが盛 んになって,学校でも町や村のあちこち到 る所で見 られたO 学校の上級生は汽車の よく見える上の運動場で,ワラナ ワで輪をつ くって,五 , 六人が一風にな り,大 きいものが磯開車 とい うことで先頭になって,上 り下 りと 何艶にも分れて走 りまわ ったO 下の運動場では小 さい生徒に,時には女子の大 きい生徒 もま じって, ヒモや細 いナ ワでわ らをつ くってあそびまわ った。 家へ帰 って小 さい子の守 りをす るときも 「汽車 ごっこを しょう」 とひ もでわ を *33-34 こしらえて,ヨチ ヨチの子供 までが汽車 ゴッコを したO -267
-4
9
0
④ 日露戦争 日露戦争 の凱旋祝 の様子をつ ぎの ように記 している。 ロシャとの戦争に勝ってそのがいせん祝があったO提灯行列といって赤 い小さ い提灯を、もって練 り歩いた。 お宮や町は提灯をもった人でごった返していたo父さんに肩車してもらって提 灯をもって見に行った.どこもか しこも人が-ばいで,赤い提灯を振 りながら 「日本勝った,日本勝った,ロシアまけた」
「まけたロシャがまたまけた」と大声 でさけびながら練 り歩いていた。中には男が赤い女の着物をきて踊っているのも*
7
いて,町中で喜び祝っていた。 日露戦争勝利 の影響は さまざまであった。 日露戦争に勝 ってか ら軍人 の人気が高 くな ったo子供 たちのあ こがれ の的 となった。軍人に よる学校 な どでの戦争 の話 を ,大勢が聞 きにい く。演習を 見物 に行 く。そ して軍歌が流行 った。 岡 山 に師 団が で きて益 々人 気 が高 く *19 な った。 *19 娘たちの間で二百三高地巻が流行 った。 演習がたびたび行 なわれたが ,金 山 (今 の ゴル フ場) には よく演習を見に い った。大人 も仕事 を休 んで見に行 った。 「旅順 の攻撃 に参 加 した 国司 中佐 が学校 に きて話 しを した ときは大ぜい聞 きに行 った。 中佐たちの部隊はその 夜早島に泊 ってあ くる 日倉敷 の方-行 ったが,小学校 の生徒 は下野 の県道 の 傍 にな らんで見送 った。中佐は大ぜ い部隊をつれて馬 の上か ら挙手 の礼を さ れた。 ところ どころにいた将校 は長 いサーベルを抜 いて肩にあて ゝ答礼 して *28-29 くれた。 とて も格好 よか った」0 そ して ,小学生に戦争 ごっこがはや り出 したC1
91
0
(明治4
3
)
午,4
年生 の秋 に陸軍特別大演習が一宮∼玉 島間であ り,明治天皇 も倉敷 で観戦 ,早 島 *29 に も大勢 の軍隊が宿泊 ,ます ます流行 った。-2
6
8-明治後期の岡山県南部における農村生活 491 ⑥明治天皇の逝去 ,大正天皇の即位 1912(明治45)年 7月30日に明治天皇が逝去 した。先生か ら夏休みになる が,あま り騒がぬ ように,家では国旗に黒い布をつけて樹て,生徒 も喪章を つけるようとの注意があった0 9月になって新学期が始 まったが ,みな胸に 蝶形の喪章をつれて登校 した。大葬 の儀は9月13日に行なわれた。小学校 の 上の運動場の式場には町長は じめ町のえらい方や一般の町民 ,そ して6年生 全員が参列 ,日暮 も うな暗 くなった頃 ,大葬の儀が行われ る時刻にあわせて *40-41 全員が東方に向って最敬礼を した。 大正天皇の即位式は1915(大正4)年11月10日に挙行 された。それを記念 したい くつかの行事が行なわれた。 京都で行われ る式典にあわせた奉祝の式 が小学校校庭 で
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日に実施 され た。 5
日間 「家業 どめ」 となったが,この期間中は奉祝 の行事 ,余興が連 日 あって町内は賑やかであった。 とくに1
0
日の夜 の町筋 の賑 わ いはす ごか っ た。記念植林が青年団長津支部に よって行なわれた。畑岡東の荒れ地2
反歩 を2
0
年間借 り受けての ものである。5
日間の 「家業 どめ」で仕事を休 まなければならなか ったO「農家では稲刈 りの時期で農家は半分程刈 っていたが,みんな五 日間の休みで田圃には一人 の人影 も見 られなか った。 自分たちの ように遊びたい半分のものにはほん と **36-37 うに御大典はあ りがたい と思 った」,と記 している。 ⑦第一次世界大戦 1914(大正3)年 6月28日勃発の第一次世界大戦に参戦 して青島を占領 し たが,その凱旋祝が行われた。にぎやかな提灯行列があ り,町の学校の先生 *q-48 が歌を作 って生徒 と一緒に町を練 り歩いたO -269-492
6
村人の生活
(1) 衣食住 飲食物については普段 の食事については記述がない。出て くるのは見てい た蘭刈 りの時に母親が持 ってきたおにぎ りである。 コギ リマといい,おかず *13 は コ-コ (香の物)や うりやなすである。おい しか った ,と記 している。 普段 のおやつは,煎 りもち米 ・黒豆の砂糖 まぶ し ・煎 り蚕豆 ・煎 り麦か ら *11-12 のはったい粉 ・小米白ひき団子な どと記 している。 *u! *a3 お正月の餅は鏡餅 ・豆餅 ・か きもち .団子 と多 く,雑煮を食 う。餅類は平 常の 日もよもぎのでる時節は革 もち,五六月か しわ餅 ・牡丹 もち ・おはぎ ・ 辛LZ *L5 流 し暁 と工夫す る。お盆の ときに食べた 「ごも くめ し」のおい しさが残 って いる。 *4 物産会社に行 った ときに働いていたおばか らのテ ッポー玉 (あめ玉),母 *5 親に連れ られて行 った船本の地蔵で覚 ったおせ ったいのせんべい,荒神か ぐ *17 *8 らで撒かれたお菓子 ,吉備津神社の帰 りの茶庭での甘酒 ,みな記憶に残 って いる。 伝染病が流行 った とき,ご飯のときに梅干 ,らっきょうを食べろといわれ *15 *2T た こと,雨に濡れて帰 った ときに炊いて くれたいも,仮病で学校を休んだ と *28 きに母が作 って くれた片栗 ,も同様である。 *ZZ 修学旅行の弁当の巻 き寿司 も家で作 った ものである。 農業をや るようになってか ら,畑作物 を副食 ,間食 とす る。蚕豆 ・蚕豆 **4-・5 **6 **7-17 **16 あん,カモキチ,そばが き ・い も,莱餅 ・大豆 ・きな こおにぎ りな どであ *17 る。 また,沢庵潰 ・切干大根をつ くる。 田植がすむ と 「代みて」をす る。「代みて」では寿司をつ くって食べ る。材 料は魚屋が売 り込む魚 (ヒラ) と有合せの椎茸 ・かんぴ ょう ・高野 ・旬 じゃ **9 がいもである。稲の収穫が終 り叛摺 りがすんだ後 ,新米での赤飯を炊 き,秤 **18 棚に供 え,また粗摺 りに使 った道具にも供 えた。-2
7
0
-明治後期の岡山県南部における農村生活 493 入団 した青年団の懇親会は
5
月 ,鯛の よく取れ る頃,5
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銭 と白米1
升の会 費であったが,驚 くほ どのご馳走であった。盃を交 し賑やかに過 ごした。楽 **35 しか った と記 している。 衣類についての記述を拾 うとつ ぎの ようになる。 小学校に入学す る年 の正月 ,悦太郎 は母 か ら, 自分 です る よ うに といわ *2【) れ ,これか らは福神 ・股引 ・足袋 ・着物 ・三尺帯 ・前掛を 自分で しょうと心 *Z) *21 *24 掛け るが,これ らが普段着である。袴は入学式 ,見送 りの ときな どに着用す る。 青年団に入 った年 ,大人 らしくとい うことで,枚 の着物 ,大人の帽子を整 * *32 えた。 祭時には,悦太郎は新 しい着物 ・絹の三尺 ,姉たちはきれいな着物 ・帯 ・ **19 下駄 ,そ して妹 ・弟は新 しい着物 ・履物を買い揃えた。 大人の盛装は袴羽織 である。幼い 日,宵祭 りの とき,赤い鬼がや って きた *7 とき,父親の羽織の後をめ くって姉 と二人でか くれた こと,入学式の 日,父 *21 と二人で袴をはいていった ことな どが記 されている。 雨の 日の登校の とき,高下駄を履 き,カサをさして,とい う記述があるの *26 みで,履物はかは具体的ではない。 住宅についての記載はないO家のなかの照明は,電灯はまだな く,カンテ *8 ラ ・ランプ ・ロ-ソクである。 夜間の外出時の照 明は携行す る提灯である。月の光の無い ときの夜道は暗 *8 く,この提灯が頼 りである。 どこの家にも提灯が,二つ ,三つはあ り,家紋 *18 を書いた提灯があった。1
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(大正2)
年に早島町に電灯がついた。町場だけで,この畑岡あた り *29 はいつ頃なのかについては記 していない。 -271-494
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物 売 り 先 ほ どの食 につ い て の記 述 か ら ,食 料 は主 食 ,副食 ,そ して間食 な どか な りの物 を 自家 生産 で賄 な って いた こ とが伺 えたO 消費 生 活 に必 要 な物 で 自給 で な い物 は購 入 す る。 町場 の商 店 で の購 入 もあ るが行 商 ,そ して渡 り職 人 が廻 って くる。 そ の様 子 をつ ぎ の よ うに記 して い *9 る。 トーフ屋 桶をかついで鐘を鳴 らしなが ら 「アゲ, トーフ」 といって毎朝 きた。 八百屋 乾物 ・駄菓子 ・果物売 龍をかついで二人が交代の ように して まわ って きたo 「今 日はいらんかナ-」。 魚屋 二人が二 日おきぐらいにきた。 「こんちゃよろ-し」。 桶屋 ・鋳掛屋 道具箱をかついで時折 りや って くる。 府屋 (ポロ買) 大 きな寵にイン ド袋な どを入れて,ポ ロ類をかいに来 る。古布切 れや紙屑 ,金物 ,髪毛 ,何でも買 う。 床屋 白い前掛け して,小 さい道具箱を下げて,時々まわ ってきた。髪 の長 く のびているような子を見つけてはいって来 るO私はいつ もは丸坊主 にそ っ ているが,母 さんが剃 るとカ ミソリが切れないので,痛 くて痛 くて時 には 泣いた こともあった。 床屋に剃 ってもらうときは うれ しか ったo併 し荒い遊びを して頭 に砂 や ゴミを よくかぶ っていたので,床屋 さんが剃刀がきれんとこぼ していたO 髪結 さん,白いエプロンを して小さい旬をかかえ頭にす きぐLを差 して ,ち ょっ といい格恰を して髪結 さんが時折 りくる。母 さんや近所のおばさんが時 々 括 ってもらっていたO な お ,悦 太 郎 は物 貰 いが多 く巡 って きた こ とを記 して い る。 物売 りもよく来たが,また物 もらいが よく来た。 ここは東か ら酉へ一列に家が並んでいるので,物売 りに も都合が よいが ,物黄 が歩 くのにも便利が よいらしく一 日に多い ときには何人 もや ってきた。 - 272-明治後期 の岡山県南部 におけ る農村生活 495 余 りよ く来 るので村 の人 は