漢初諸侯王国の軍制に関する一考察
著者
佐々木 仁志
雑誌名
集刊東洋学
巻
114
ページ
1-25
発行年
2016-01-18
URL
http://hdl.handle.net/10097/00129911
1 漢初諸侯王国の軍制に関する一考察(佐々木)
漢初諸侯王国の軍制に関する一考察
佐々木
仁
志
一、はじめに 前一五四年、前漢景帝治世、御史大夫 鼂 錯排除を名目に 呉楚七国の乱が勃発する。この乱は、わずか数个月で収束 し、これ以後諸王国の権限は大幅に削減される。一方、漢 室中央の権限は拡大し、武帝による極盛期が現出する。一 般的にこのような認識に大過なかろう。実際、漢初におい て諸王国は強大な権限を掌握していた。この状況を ﹃史記﹄ 巻十七漢興以来諸侯王年表には次のように論ずる。 高祖の子弟にして同姓で王となる者、九国なり、唯だ 独り長沙のみ異姓、功臣にして侯たる者、百有余人な り。鴈門・太原より以東、遼陽に至るまで燕・代国と なり、常山以南、大行より左転し、河 ・ 済を度り、阿 ・ 甄以東、海に薄るまで、斉 ・ 趙国となし、陳より以西、 南のかた九疑に至り、東のかた江 ・ 淮 ・ 穀 ・ 泗を帯び、 会 稽 に 薄 る ま で、 梁・ 楚・ 淮 南・ 長 沙 国 と な す。 皆、 外は胡・越に接す。内地、北のかた山を距てるより以 東、 尽 く 諸 侯 の 地 に し て、 大 な る は、 或 い は 五 六 郡、 城を連ねること数十、 百官宮観を置き、天子に僭う。 し か し、 呉 楚 の 乱 後 こ の 状 況 は 一 変 す る。 ﹃ 史 記 ﹄ は こ れに続けて 呉 楚 の 時、 前 後 し て 諸 侯 或 い は 適 を 以 て 地 を 削 ら る。 是を以て燕・代、北辺に郡なく、呉・淮南・長沙、南 辺に郡なく、斉・趙・梁・楚の支郡名山陂海、咸、漢 に納れらる。諸侯、稍く微たりて、大国、十余城を過 ぎず、小侯、数十里を過ぎず、上は以て貢職を奉ずる に足り、 下は以て供養祭祀に足り、 以て京師を蕃輔す。 呉楚七国の乱こそ、王権凋落の一画期であった。 呉楚の乱前、諸侯王は自らの国を統治することが可能で あった。 ﹃漢書﹄巻十九上百官公卿表上には 集刊東洋学 第一一四号 平成二十八年一月 一 -二五頁2 諸侯王、高帝初めて置き、金璽 盭 綬にして、其国を治 するを掌る。太傅あり、王を輔く。内史、国の民を治 し、中尉、武職を掌り、丞相、衆官を統べ、群卿大夫 都官、漢朝のごとし。景帝中五年、諸侯王をして復た 国を治することを得ざらしめ、天子ために吏を置く。 とあり、王官の設置も自らの意思で行い得たのである。 ところで、上記の﹃漢書﹄の記述のなかに、王が自置で きる王官として武職を掌る中尉の名が見えるが、これより 侯王がその封国内の軍権を掌握していたと想定可能であろ う。事実、呉楚七国の乱に際して呉王劉濞はその領内から いとも容易に大兵を動員しているし、またこの乱以前にお いても呂太后没後、呂氏打倒を名目にして斉王が挙兵して いることを見れば、軍事指揮権が王権の重要な構成要素の 一つであったことは明らかであろう。 こ の こ と に 関 し て、 か つ て 布 目 潮 渢 氏 は、 ﹁ 虎 符 ﹂ の 存 在をとりあげ、漢初より王国の統治には大なる制約が存在 し、 諸侯王は ﹁発兵権﹂ を掌握していなかったと論じ た ︶1 ︵ 。﹁虎 符﹂によって侯王の挙兵に制限を加えようとした漢中央の 意図は明確であるが、しかし斉王や呉王の起兵の事実を見 れば、 ﹁虎符﹂ が十全にその機能をはたしたとは言いがたい。 漢代軍事制度に関しては、濱口重國氏以来主に兵制をめ ぐって豊富な研究の蓄積がある が ︶2 ︵ 、漢初における侯王の兵 権・軍権を中心テーマとする研究は布目氏の研究以後現在 に至るまで見当たらず、従って研究の深化もなされていな いのが実情ではなかろうか。この状況は、漢初の諸侯王の 軍制が漢一代の兵制研究の中に﹁埋没﹂してしまったかの 感をいだかせるのである。しかし漢初、侯王権力は皇帝権 をも掣肘するほど強大であり、その大きな構成要素である 軍権を解明することは郡国制度を研究するためにも欠かせ ず、また漢初における皇帝権と王権との関係を考察するう えでも重要であろうと思われる。そこで、史料的制約はあ るものの可能な限り、諸侯王国の軍制の復元を以下に試み ようと思う。 二、出土資料よりみる諸侯王国の軍事的側面 文献史料が極めて限られているなかで、諸侯王国の軍制 を復元することは困難な状況にあるが、史料上から検討す る前に本節では発掘資料を通して漢初における諸侯王国の 軍事的側面に迫りたいと思う。 劉尊志氏の ﹃漢代諸侯王墓研 究 ︶3 ︵ ﹄ によれば、 前漢諸侯 ︵后︶ 王墓の調査発掘は一九六〇年代末より開始され、現在まで 四三箇所、八四座に及ぶといわれている。主なものは当時 における南越︵趙姓︶ ・長沙︵呉姓あるいは劉姓︶ ・趙︵張
3 漢初諸侯王国の軍制に関する一考察(佐々木) 姓︶ ・ 呂︵呂姓︶ ・ 及び劉姓の江都 ・ 広陵 ・ 泗水 ・ 六安 ・ 楚 ・ 梁・ 斉・ 魯・ 菑 川・ 昌 邑︵ あ る い は 山 陽 ︶・ 済 南・ 済 北・ 中山・常山・河間・広陽︵あるいは燕︶等の諸侯王国内か らの出土によるとされる。このように前漢王墓の発掘研究 は活況を呈しつつあるが、しかしここで検討対象となる時 代を漢初とすれば極めて限定的にならざるをえない。劉氏 は同書のなかで、前漢諸侯王の墓葬制度の一般的傾向とし てその多くが帝陵制度を模倣し、規模も壮大であって、そ の要因として諸侯王国の国制が漢室中央と同様であったこ との体現であるとの認識を示す。さらにまた、その随葬品 をみても漢初にはその種類も数量も豊富で精美を極めてい るのに対して、時代が降るにつれて随葬品も見劣りするも のになっていくと指摘し、これは前漢諸侯王の権力の消長 を反映するものであるとする。 さて、膨大な随葬品をともなう王墓のなかで、軍制を検 討 す る う え で と り あ げ な け れ ば な ら な い の は、 ﹁ 徐 州 獅 子 山 楚 王 陵 ︶4 ︵ ﹂ で あ る。 ﹁ 徐 州 獅 子 山 楚 王 陵 ﹂ は、 前 漢 初 期 の 楚王の陵墓であり、一九八四年一二月にはこの陵墓から漢 兵馬俑坑が発見された。この兵馬俑坑は獅子山西麓に位置 し、六条の俑坑で構成されている。一 ・ 二 ・ 三号俑坑は東西 に平行排列されており、これらの坑内から各一個の歩兵方 陣と車兵方陣が発見されている。またこの三座の東西俑坑 の東辺に一条の南北方向の四号坑が存在し、さらにこれら の四条坑の西北約一二五メートルの方向に東西一列に排列 された五号・六号坑の存在が確認されており、六号坑から も陶馬と騎兵俑の存在が確認されている。これら六座の俑 坑 か ら 発 見 さ れ た 陶 俑 は、 総 計 数 千 件 に 達 す る と い わ れ、 しかも姿形も一様ではなく、たとえば髪型を異にする髪髻 俑・束帛髪辮俑あるいは立式俑・站立俑・ 跽 坐御手俑・ 跽 座車兵俑などに分類されるという。また官吏俑 ・ 弓弩手俑 ・ 警衛俑の存在も確認されている。さらに馬俑の形から、軽 騎兵と重騎兵の分類が可能だとされている。これらのこと から、漢初の王国軍には指揮する者とされる者、さらには 多くの兵種の存在していたことが確認されるのである。 劉尊志氏は、上記の著作のなかで兵馬俑は呉楚七国の乱 後には消失して、王墓からは発見することがなくなったと 指摘してい る ︶5 ︵ 。また、かつて藤田勝久氏は秦始皇陵兵馬俑 の軍陣から郡県制下の常備軍の編成について類推し、その 一号・二号俑坑は京師の一般軍隊である中尉の軍隊を反映 し、三号俑坑は始皇帝の天下巡遊に備える儀仗護衛の役割 をもつものではないかと想定し た ︶6 ︵ 。安易な比定はできない が、この藤田氏の所説を援用すれば、楚王墓から発見され た六坐の兵馬俑の配置も当時の楚王国軍の実際を反映した も の で あ っ た か も し れ な い。 さ ら に 想 像 を 逞 し く す れ ば、
4 一 ・ 二 ・ 三号俑坑は東西に平行排列され、それぞれの坑内か ら一個の歩兵方陣と一個の車兵方陣が確認され、これらの 俑 坑 の 東 辺 に 南 北 一 条 の 四 号 坑 が 配 置 さ れ て い る こ と か ら、これは楚王国軍の陣形を具象化したものととらえるこ と も 可 能 で あ ろ う。 こ の ほ か、 ﹁ 獅 子 山 楚 王 墓 ﹂ か ら は、 銅剣・鏃・戟・矛・戈・鉄剣・戟矛・刀・鎧甲等など多種 多様な陪葬兵器も発見されている。これらはいうまでもな く、漢初の諸侯王の軍事的性格を考察するうえで重要な参 考資料となるであろう。 それでは、この﹁獅子山楚王墓﹂に埋葬されている楚王 とは一体誰なのであろうか。 ﹃漢書﹄巻三十六楚元王伝に 楚元王交、 字は游、 高祖の同父少弟なり。⋮⋮漢六年、 既に楚王︵韓︶信を廃し、 その地を分かち二国となし、 ︵劉︶賈を立てて荊王となし、交を楚王となす。薛郡 ・ 東海・彭城三郡三十六県に王たり。 とあって、楚王国は劉邦の末弟劉交が封じられた薛郡・東 海・ 彭 城 三 十 六 県 を 領 す る 大 国 で あ っ た。 ﹃ 漢 書 ﹄ に は さ らに続けて 高后の時、元王の子郢客を以て宗正となし、上 邳 侯に 封 ず。 元 王 立 ち て 二 十 三 年 に し て 薨 ず。 太 子 の 辟 非、 先んじて卒す。文帝、乃ち宗正上 邳 侯郢客を以て嗣と し、是れ夷王たり。⋮⋮立ちて四年にして薨じ、子の 戊嗣ぐ。文帝、元王を尊寵し、子生まるれば、爵皇子 に比う。 とみえ、初代楚王劉交は在位二十三年にして没し、その後 嗣 と な っ た の が 漢 室 中 央 の 宗 正 で あ っ た 劉 郢 客︵ ﹃ 史 記 ﹄ 巻 十 孝 文 本 紀 に は﹁ 宗 正 劉 郢 ﹂ と あ る ︶ で あ っ た と 記 す。 彼は、呂氏誅滅後文帝迎立時の中央政府の主要構成員の一 人であり、しかも上記﹃漢書﹄の記載より、後継王就任に あたって文帝の意向が働いていたことがわかる。しかし劉 郢客は王在位わずか四年にして没し、子の戊が楚王となる のであった。 劉尊志氏は、前掲書で、墓葬形制等の分析を通して墓主 を 楚 王 国 第 二 代 の 劉 郢 客︵ 楚 夷 王・ 在 位 四 年・ 文 帝 五 年・ 前一七五年没︶に比定している。これに対して、葛明宇氏 は、 ﹁ 獅 子 山 楚 王 墓 ﹂ の よ う な 壮 大 な 陵 墓 の 造 営 は 在 位 わ ずか四年の劉郢客では不可能であり、むしろ在位二十一年 の第三代劉戊︵在位前一七四~前一五四年︶が墓主にふさ わしいと指摘す る ︶7 ︵ 。劉戊は﹃漢書﹄巻三十六楚元王伝に 王戊やや淫暴、 二十年、 薄太后のために服すも私姦し、 東海・薛郡を削らる。乃ち呉と通謀す。 とあって、呉王劉濞とともに呉楚七国の乱を主導した中心 人物であり、乱後自殺している。このようにこの王墓の墓 主をめぐっては、確定をみないが、いずれにせよ漢初の呉
5 漢初諸侯王国の軍制に関する一考察(佐々木) 楚七国の乱以前の王墓である点については諸氏の見解が一 致しているのであるから、出土資料より当時の諸侯王の軍 権を含めた王権のあり様をうかがい知ることができよう。 さらに、兵馬俑陪葬坑をともなう王墓として﹁章丘山危 山漢墓﹂があげられる。この墓からは、三座の陪葬坑が発 見され、一号坑からは方陣形をなした歩兵俑・建鼓及び撃 鼓俑・騎俑・御者俑などが安置されており、これは王出行 時の儀仗隊列を示しているという。墓主は、斉の悼恵王の 子で呉楚七国の乱に加わって自殺した済南国王・劉辟光で あるといわれてい る ︶8 ︵ 。また、淄博市臨淄区大武郷で発見さ れた一座の前漢斉王墓は、五つの随葬坑をともない、そこ からは車馬器・漆器・銅礼器など一万二千余件に達する陪 葬品が発見されているが、その墓主は斉王国第二代劉襄で あるとされてい る ︶9 ︵ 。このように﹁獅子山漢墓﹂や﹁章丘山 危山漢墓﹂などから大量の兵馬俑が発見され、しかも墓主 がいずれも呉楚七国の乱に係わりがあると推定されること から、漢初の諸侯王が強力な独自の軍事力を保有しえたと 想定して大過なかろう。 次に諸侯王国の軍制を検討するうえで欠かせない出土資 料として馬王堆三号漢墓出土の﹁駐軍 図 ︶10 ︵ ﹂を取り上げてみ よう。馬王堆漢墓は湖南省長沙市東郊外に所在し、前漢初 期の長沙王国丞相の一族墓の一つで、三座の墓で構成され ている。このうち二号墓の被葬者は長沙王国丞相軑侯利蒼 とされ、 呂后二年︵前一八六年︶に死亡したとされている。 また、一号墓の墓主は利蒼の妻とされ、漢の文帝十二年以 後、数年の間に埋葬されたといわれている。ここでとりあ げようとする三号墓の被葬者は、三十代の男性で、軑侯利 蒼 の 息 子 で 木 牘 の 紀 年 銘 に よ り 文 帝 十 二 年︵ 前 一 六 八 年 ︶ ごろに埋葬されたとされる。そしてこの三号墓からは、漆 器・木俑・楽器・陶器・竹木器、また彩絵帛画・帛書など 千点以上に達する副葬品が発見されている。このうち、こ こで最も重要と思われるのが帛書に描かれた﹁地形図﹂と ﹁駐軍図﹂ であるが、 両図の図示範囲は漢初期の長沙国南部、 現在の瀟水流域一帯の湖南省南嶺地区にあたり、そこは険 阻な山並みと深い渓谷が無数に広がっているにもかかわら ず、 詳細に描かれているといわれている。そして﹁駐軍図﹂ の 図 示 範 囲 は、 ﹁ 地 形 図 ﹂ の 一 部 分、 東 南 部 地 区 に あ た り 現在の湖南省江華瑤族自治県の沱江流域一帯であるとされ る。図中には大小二十条の河流が描かれ、そのうち十四条 には上流に名称が注記され、また山脈は黒色の﹁山﹂字形 の曲線的表示をもって示され、山は絵記号の山の姿で描写 さ れ て い る。 こ の よ う に 山 川 を 特 に 詳 細 に 描 写 す る の は、 それが軍事戦略上重要であるからにほかならない。 この ﹁駐 軍図﹂に描かれた防区の境界線は、大体四周の山の尾根を
6 通過し、南の限界は南嶺の主な尾根と相符合し、前側が南 越に対抗する前辺にあたるとされる。防区の正面は、幅が 約四十キロ、縦に奥行きは約五十キロであり、そこに九つ の部隊が合わせて三筋の山谷を頼りにして南越が長沙国の 内地に進入する大道を要所に依って守備する状況を描いて い る と さ れ て い る。 ﹁ 駐 軍 図 ﹂ の 中 央 に は 三 角 形 の 城 堡 が 描かれ、ここがこの﹁駐軍図﹂に示された防区の指揮所に あたるとされる。そして城堡の左側には堰堤を築き池が造 られているが、これは駐軍の用水・防火等に供されるため か、あるいは水軍の演習のために建設されたのではないか と想定されている。さらに図の上方︵ここでは南を示すと される︶には、 “徐都尉 ”と明示された三つの部隊が南側の 尾根の北方を部署として横一線︵東西︶に配置され、その 後方約十五~二十キロ離れた第二線には “周都尉別軍 ”・“徐 都尉 ”の二部隊が、また中央指揮所の前面は“周都尉 ”の一 隊が配置されている。また、 指揮部をやや離れた左後方 ︵東 側︶には、 “司馬得軍 ”の二部隊が、その後方には“桂陽郡 軍 ”の 一 部 隊 が 配 置 さ れ て い る。 こ の﹁ 駐 軍 図 ﹂ を 一 見 す ると、指揮所の南方第一線に三部隊を配置し、その後方に 二部隊、さらに中央指揮所に一部隊を配置しているところ から、 明らかに南方を意識した陣形であることがわかろう。 南方とはいうまでもなく南越国のことである。 それでは、馬王堆三号墓の被葬者とはいかなる人物なの であろうか。上にみた﹁地形図﹂と﹁駐軍図﹂は、墓主が 生前に軍事指揮に用いたものと推定されるから、当然のこ ととして長沙王国の主要な軍事指揮官であったことが想定 されるであろう。しかも三号墓からは弩 ・ 箭 ・ 剣 ・ 戈 ・ 矛 ・ 弓など計三十八点に及ぶ兵器が出土していること、同時に 三号墓の棺室西壁からは﹁車馬儀仗図﹂も発見され、この 図には戦車及び騎兵隊の方陣や鐘や太鼓を打ち鳴らす楽隊 が描かれているが、その図に描かれている背の高く体の大 き な 男 性 こ そ こ の 墓 主 で あ る と い わ れ て い る と こ ろ か ら、 や は り 墓 主 は 長 沙 王 国 の 軍 事 指 揮 官 で あ っ た に 相 違 な い。 しかし、留意しなければならないことはこの墓主が﹁駐軍 図﹂に示された九つの都尉軍を指揮しえた高位の武官だと しても、彼が長沙王国の軍事の主将であったと断ずること はできない。何故ならば ﹁駐軍図﹂ の図示範囲は、 ﹁地形図﹂ の一部分である東南部地区を示すものであって、長沙王国 全域をおおうものではないからである。従って、 ﹁駐軍図﹂ に示された地域がたとえ南越王国に対峙する第一線に位置 していたとしても、長沙王国には三号墓主に該当する軍事 指揮官が複数名存在していたのではなかろうか。そして彼 らは当然国王の統率の下にあった。このように想定される のである。馬王堆三号漢墓出土の﹁駐軍図﹂等により以上
7 漢初諸侯王国の軍制に関する一考察(佐々木) の知見を得た。 また、吉開将人氏によれば、長沙王国からは呉姓長沙王 国時代の中小墓から明器印 ﹁泠道尉印﹂ ・﹁逃 ︵洮︶ 陽令印﹂ ・ ﹁ 舂 陵 之 印 ﹂ の 出 土 が 報 告 さ れ て い る が、 ﹁ 泠 道 ﹂・ ﹁ 洮 陽 ﹂ は長沙国の零陵郡の属県であり、また﹁舂陵﹂は泠道県の ﹁ 舂 陵 郷 ﹂ に か か わ る 地 名 で あ り、 県 の 令・ 長・ 丞・ 尉 の 場合、赴任地で死亡するとそれを本籍地に戻して埋葬する ように取り計らわれたことより、これらの明器印が長沙市 内から出土したことから長沙王国南辺の支郡の属県長吏が 国都の人材によって占められていたと指摘す る ︶11 ︵ 。なお、上 記の﹁泠道﹂ ・﹁逃︵洮︶陽﹂ ・﹁舂陵﹂は、馬王堆三号漢墓 出 土 の﹁ 地 形 図 ﹂ の な か で 三 つ の 県 と し て 確 認 さ れ て い る ︶12 ︵ 。 従 っ て、 ﹁ 泠 道 尉 印 ﹂ よ り 漢 初 の 長 沙 王 国 に 泠 道 県 の 軍事指揮官である泠道尉があり、しかも王国出身者がその 職に就任していることが確認できよう。また、上記の﹁逃 陽令印﹂石印が発見された楊家山六号墓からは、他に﹁洮 陽長印﹂石印・ ﹁蘇郢﹂玉印・ ﹁蘇将軍印﹂銅印が発見され て い る が、 吉 開 氏 は﹁ 蘇 郢 ﹂ は 被 葬 者 の 名 前 で あ り、 ﹁ 逃 陽冷印﹂と﹁洮陽長印﹂は被葬者の頭部から出土している ことより私印ではなく、被葬者が歴任した官職にともなう 官 印 で あ っ た と す る。 他 方、 ﹁ 蘇 郢 ﹂ 印 は 被 葬 者 の 腰 部 で 出土していることより、実際に佩用されていた私印であっ たとし﹁蘇将軍印﹂も同じく腰部から出土していることよ り私印であるとする。従って﹁蘇将軍﹂は漢中央の将軍職 ではなく私号であるとの認識を示し、この場合﹁将軍﹂と は、秦漢交代期に呉集団の一員として活躍した旧職である 可 能 性 を 指 摘 す る ︶13 ︵ 。 そ の 可 否 は こ こ で は 判 定 で き な い が、 蘇郢なる人物が軍職にかかわった事実は否定できず、しか もその人物が王都周辺から出自し、県の長吏にまで昇進し ていることは注目されよう。 以上、諸侯王国の軍事的性格を考察する一つの手がかり として前漢諸王墓の陪葬品、馬王堆三号漢墓出土の﹁駐軍 図﹂等を取り上げてみた。しかし、これらの一点一点の出 土資料は実証的研究には欠かせない重要資料であることは 言をまたないが、これのみによって王国軍制の全貌を明ら かにすることはできない。そこで次の検討段階としてこれ らの “ 点 ”を結びつける “ 線 ”を構築する必要があろう。次に 文 献 史 料 に よ っ て 漢 初 の 諸 侯 王 国 の 軍 事 的 側 面 に 迫 り た い。 三、史料よりみる王国の軍事的側面 本 節 で は 前 節 で 取 り 上 げ た 発 掘 資 料 を 念 頭 に お き な が ら、主に﹃史記﹄ ・﹃漢書﹄などの文献史料を通して前漢初
8 期の諸侯王国の軍事的側面に迫りたいと思う。その前に前 漢の兵制にかんしての一般的認識を確認してみよう。 このことに関しては濱口重國氏以来、諸氏による豊富な 研究蓄積がある。濱口氏による前漢兵制に関する一連の研 究成果の概略を述べると、前漢では徴兵適齢︵景帝二年以 後は二十歳、昭帝の始元末以後は二十三歳︶に達した成年 男子の一定部分が傅されて正卒︵兵士︶とさ れ ︶14 ︵ 、以後出役 年齢︵昭帝始元以後は五十六歳︶に至るまでの在役中の基 本的任務として、 第一に一年間は京師に衛士として番上し、 衛尉指揮の下に南軍を形成して宮城守護の任に当たる。衛 士の一部は京師の諸官庁・諸寝園等の警固のために配給さ れる。侯王国管内の兵士は各々国都に番上して京師に番上 せ ず。 第 二 に 一 年 間 所 属 の 郡 国 警 備 の 兵 と な る。 た だ し、 三 輔 管 内 の 兵 士 は 北 軍 を 形 成 し 長 安 城 内 外 の 鎮 護 に 当 た る。第三に毎年一回都試と呼ばれる大査閲を受け る ︶15 ︵ 。さら に濱口氏は、前漢時代には兵役の一部とされていた辺境守 備の義務は兵籍にある兵士たると否とにかかわらず全民丁 の負担すべき義務であったとす る ︶16 ︵ 。このような濱口氏の所 説は以後の兵制研究の基盤をなすが、史料的制約等もあっ て未解明の論点も多岐︵傅籍の理解や正卒・士卒、就役形 態等︶にわたるといわれ る ︶17 ︵ 。 さて、上記の濱口説では徴兵適齢が景帝二年以後は二十 歳とされているが、景帝二年以前、つまり漢初ではどうで あったのであろうか。 ﹃漢書﹄巻二十三刑法志に 天下既に定まり、秦をついで材官を郡国に置き、京師 には南北軍の屯あり。 とあるように漢初の兵制は、秦制を継承していることがわ かる。その秦制に関して重近啓樹氏は、秦王政十六年︵前 二三一年︶九月の﹁初めて男子をして年を書せしむ﹂ ︵﹃史 記﹄巻六秦始皇本紀︶とある時点以後、徴兵の条件が従来 身 長 基 準 で あ っ た の を 年 齢 基 準 に 切 り 換 え ら れ た と す る。 そしてその年齢基準に達した成年男子は戸籍とは別の傅籍 に付けられ兵役の義務に服したと説く。年齢基準について 重近氏は十五歳傅籍説を採 る ︶18 ︵ が、一方山田勝芳氏は、漢初 は 十 七 歳﹁ 傅 ﹂ で あ り、 景 帝 二 年 に 二 十 歳﹁ 傅 ﹂ 説 を 採 る ︶19 ︵ 。また藤田勝久氏は、漢初の傅籍の年齢に関して張家山 漢簡﹁二年律令﹂の﹁傅律﹂より爵級によって相違してい たことを論ずる。その傅籍では最も身分の低い爵一等の公 士から四等の不更の子までが二十歳から始まり、爵五等の 大 夫 か ら 九 等 の 五 大 夫 の 子 は 二 十 二 歳 で 兵 籍 に 付 け ら れ、 爵十等の左庶長から以上の子は二十四歳で兵籍に付けられ ているという。藤田氏はここより漢初では父の爵の等級に かかわらずすべての男子が兵籍に付けられ、軍事体制に組 み込まれていたことを指摘する。さらに氏は、景帝二年の
9 漢初諸侯王国の軍制に関する一考察(佐々木) 規定もこうした爵の等級による差異を捨象した記述である 可能性を指摘するのであっ た ︶20 ︵ 。重近氏によれば、傅の基準 に達した成年男子は原則的に全て傅籍され、その意味では 全成年男子に潜在的兵役義務があったと言えるが、実際に は各郡県における兵士の定員数分だけが選抜されて兵士と なり、彼らは徭役義務など税役負担の一定部分を免除され て兵役に服したとされる。そして兵士は地方軍組織の基礎 をなす県の常備軍において、各々材官・騎士等の兵種に区 分され、免老にいたるまでの在役期間中毎年一カ月所属の 県に交替で番上し、県尉の指揮下で軍事訓練を受けるとと もに県内の治安維持等の諸任務にあたったとされ る ︶21 ︵ 。 それでは、漢初の郡国制度の下で諸侯王国の兵制はどの ようになっていたのであろうか。すでにみたように ﹃漢書﹄ 百官公卿表に、諸侯王国には漢室中央と同様に武職を掌る 中尉が置かれていたことが記されている。さらに ﹃後漢書﹄ 本紀一光武帝紀建武七年三月丁酉の条注所引﹃漢官儀﹄に 高祖、天下の郡国に命じて能く引関蹶張し、材力武猛 なる者を選び、以て軽車・騎士・材官・楼船となさし め、常に立秋の後を以て講肄課試す。各々員数あり。 とあるように王国においても直轄郡同様に定められた数の 材官・騎士等の兵士が置かれ、毎年立秋の後に都 試 ︶22 ︵ が行わ れたことが述べられている。 これらのことから、漢初、王国内においても基本的に中 央と同様の兵制が布かれていたことが分かる。なお、ここ で 言 う 材 官 ︶23 ︵ と は、 ﹁ 材 官 蹶 張 ﹂・ ﹁ 蹶 張 士 ﹂ を 意 味 し、 特 に 足で強弩を張ることのできる専門の弩士のことであるとい う。また騎 士 ︶24 ︵ の存在は、すでにみた﹁獅子山楚王墓﹂中か ら“ 楚中尉印 ”の封泥とともに “ 楚騎尉印 ”“ 楚軽車印 ”などの 印章が発見されたこと、さらに騎士俑の出土から王国にも 存在していたことが認められ、楼船についても﹁馬王堆三 号漢墓﹂出土の﹁駐軍図﹂中の中央指揮部近くの貯水池が 水練のために設置されたと推定されることより、各種兵種 の諸部隊の存在も確認されよう。 ところで重近氏は、兵制研究にとって重要な点として平 時編成と戦時編成を明確に区別して考察すべきことを指摘 する。すなわち、 両者では指揮系統や目的、 及び動員方法、 構成員が異なるからであるとして、平時編成下の材官・騎 士等の地方の正規の常備兵は、地方管轄区域内の治安維持 にあたったと想定する。そして、常備軍組織や徴兵業務な どは、郡よりもむしろ県を単位に、直接的には県尉の管轄 下で遂行されたとの認識を示 す ︶25 ︵ 。このような氏の所説は王 国内でも首肯されうるのではなかろうか。王国内に県が設 置されていたことは、 ﹃史記﹄巻五十一荊燕世家のなかに ︵ 劉 ︶ 澤、 燕 に 王 た る こ と 二 年 に し て 薨 ず。 ⋮⋮ 孫 の
10 定国に至り、⋮⋮定国、誅殺せんと欲する所の臣に肥 如の令、郢人あり。郢人ら定国を告す。 とあって、燕の属県に肥如県のあったことや、すでにあげ た長沙近傍から出土した明器﹁泠道尉印﹂ ・﹁逃︵洮︶陽令 印﹂等は、長沙王国属県の令・長クラスの人物の副葬品と して埋葬された官印であることから明らかであろう。そし て、前者は﹁尉印﹂とあることから、被葬者が泠道県の軍 職 に あ っ た 人 物 で あ り、 後 者 の 出 土 墓 か ら は﹁ 逃 陽 長 印 ﹂ と﹁蘇将軍印﹂が同時に出土している事実から、やはり軍 職とのかかわりを示唆している。 また、 ﹁徐州獅子山楚王墓﹂ からは多くの出土器物とともに、魚・猪、羊肉等の骨骸や 穀物の炭化物の傍らから﹁彭城丞印﹂ ・﹁下 邳 丞印﹂等の封 泥が発見されているが、 これらの食物が楚王国属県の彭城 ・ 下 邳 県から王に貢奉されたものであることを示すとされて い る ︶26 ︵ 。ここから、徴税業務等も県を主体にして行われてい た可能性が高く、さらに類推すれば王国内の軍務も当然県 を主体として遂行されていたと思われる。以上より漢初に あっては郡国制のもとで独自の王国軍を編成しえたことを 確認した。 それでは次に焦点となるのは、郡国制度の下でのこれら の 王 国 軍 と 漢 朝 中 央 と の 関 係 で あ る。 高 祖・ 恵 帝 呂 太 后・ 文帝期の治世期のそれぞれに焦点を当てて、この点に関し て検討を加えよう。高祖劉邦治世下、彼のもとで全国制覇 がなったとはいえ、相次ぐ異姓諸王の謀反や匈奴の北辺侵 入等に対処するためしばしば軍の動員がなされている。こ の間の状況を﹃史記﹄は、次のように叙述する。まず、趙 の相国陳 豨 が代の地で謀反した時 十一年、⋮⋮漢、将軍郭蒙をして斉の将とともに撃た しめ、大いにこれを破る。 ︵巻八高祖本紀︶ とあり、陳 豨 討伐に斉王国の軍と協力して攻撃したと述べ る。またこの記事から斉王国に独自の将軍の存在したこと がうかがわれる。さらに巻九十彭越列伝には、陳 豨 謀反時 のこととして 十年秋、陳 豨 代地に反す。高帝、自ら往きて撃つ。邯 鄲に至り兵を梁王に徴す。梁王、病と称し、将をして 兵を将いて邯鄲に詣らしむ。高帝、怒りて人をして梁 王を譲めしむ。梁王、 恐れ、 自ら往きて謝せんと欲す。 その将、 扈輒曰く﹁王、 始め往かず。譲められて往く、 往けば則ち禽となる。 兵を発して反を遂げるにしかず﹂ と。梁王、聴かず、病と称す。 とあって、高祖が彭越に命じて梁王国の兵を徴発しようと した時、彭越は自ら病と称して行かず、代わりに臣下の将 軍を赴任させたことが述べられており、やはりここでも梁 王国に独自の将軍がおかれていたことがわかる。また、巻
11 漢初諸侯王国の軍制に関する一考察(佐々木) 九十五灌嬰列伝に、匈奴が北辺に侵入した時、灌嬰は 車騎将軍を以て従い、反する韓王信を代に撃ち、馬邑 に至る。⋮⋮詔を受け、燕・趙・斉・梁・楚の車騎を 并せ将いて、胡騎を 硰 石に撃破す。 とあり、さらに巻九十八靳歙列伝には 騎都尉を以て、 従いて代を撃ち、 韓信を平城下に攻め、 軍を東垣に還す。功有り、 遷りて車騎将軍となり、 梁 ・ 趙・斉・燕・楚の車騎を并せ将いる。 同様の記事は、文帝代のことではあるが、巻一百二馮唐列 伝に ︵ 馮 ︶ 唐 を 拝 し て 車 騎 都 尉 と な し、 中 尉 及 び 郡 国 車 士 を主らしむ。 とある。なおここでは郡国とのみあって具体的な王国名が 記されていないが、いずれかの王国の戦車隊が徴発された のであろう。 これらの記載より確認できるのは、一般的に皇帝は有事 の際に詔を発して王国軍を徴発し、それを指揮、統帥下に おくことが可能であったという点であろう。少なくとも劉 邦の治世下にあっては、諸王国の軍を動員、指揮可能な体 制が確立されていたと想定できるのである。 それでは次に、恵帝・呂太后称制期及び文帝代ではどう であろうか。この時代は高祖期よりも史料が少なく、かつ 軍事力の直接的動員も稀なので漢朝中央と諸侯王国の軍事 的相互関係を検証するのは困難である。わずかな史料と時 代状況を通してこの相互の関係性を考察してみよう。 まずこの時期に見逃してならないのが、湖北省江陵県の 張家山漢墓から出土した竹簡史料﹁二年律令﹂賊 律 ︶27 ︵ の検証 で あ ろ う。 こ の﹁ 二 年 律 令 ﹂ は、 呂 后 二 年︵ 前 一 八 六 年 ︶ に出されたものとされ、これが注目されるのは当時漢朝と 諸侯王国との境界線に﹁城邑亭障﹂のような軍事施設が存 在し、軍隊が﹁城邑亭障﹂を放棄したり、諸侯側に投降し た 時、 厳 罰 に 処 さ れ る 内 容 が 明 記 さ れ て い る か ら で あ る。 こ の 点 に 関 し て か つ て 宮 宅 潔 氏 は、 ﹁ 二 年 律 令 ﹂ を 用 い た 諸 侯 王 関 係 の 先 行 研 究 を 整 理 し、 ﹁ 二 年 律 令 ﹂ に 漢 朝 と 諸 王国との間に不断の緊張関係をうかがわせる内容が明示さ れているとしても、両者の間に軍事施設が配置され王国を 仮想敵とする体制が整えられたとまでは見ることができな いと指摘する。宮宅氏はさらに続けて、なによりも﹁二年 律令﹂にはすでに無効となった条文が含まれているおそれ があるとし、境界に軍事施設が配置された状況を文帝期の 時代にまで無条件にあてはめてはいけないと論ず る ︶28 ︵ 。また 杉村伸二氏は、諸侯王に大幅な権限を移譲している漢初の 郡国制は広大な領域を統治するための有効な統治方法とし て採用されたものであって、漢朝は当初より分裂の危険を
12 回避しながら諸侯王国の存在を前提とした国制整備を目指 していたとして、この律令の諸侯に関する条文も諸侯王国 との間に何らかの紛争が起きた場合に備えて残されたもの と説 く ︶29 ︵ 。 ﹁ 二 年 律 令 ﹂ の 内 容 を 理 解 す る た め に は、 こ の 律 令 が 発 布されたとされる呂后二年前後の時代状況を把握する必要 があるのではなかろうか。周知のようにこの時期、呂后に よ る 劉 氏 諸 王 へ の 高 圧 的 政 策 が 進 行 し て い た の で あ っ て、 律令の内容もこの文脈のなかで理解すべきであるというこ とである。そして、この律令にみられる城邑や亭障をもっ て裏切って諸侯に投降した者等を厳罰に処すという内容自 体 を み て も、 こ れ ら の 行 為 自 体 漢 朝 に 対 す る 謀 反 行 為 で あって、些細な謀反によって国除の憂き目をみた高祖期を みれば仮借なき内容の条文ともいえなかろう。さらに言え ば、当時の諸侯王国には自前の軍事力が存在していたので あって、些細なことを端緒にして諸侯王の軍事力発動とも なれば、漢朝の統一も崩壊する危険性があった。漢朝とし てもそれは回避しなければならなかったであろう。そして 反面においてこの条文をみれば、この内容に違背しない限 りにおいては、処罰されないのであるから宮宅氏の説のご とく漢朝の現状維持策を条文化したものと理解して差し支 えないのではなかろうか。 呂太后称制時代は、 内外安定した時代であったとされる。 外交的に匈奴との間に緊張した時もみられたが、実際に武 力の発動もみられなかった。しかし唯一、南越に対して遠 征 軍 を 派 遣 す る に 至 る。 こ の 間 の 状 況 を﹃ 史 記 ﹄ 巻 一百一十三南越列伝は次のように叙述する。 高后の時、有司、南越の関にて鉄器を市するを禁ぜん ことを請う。佗曰く﹁高帝、 我を立て使物を通ず。今、 高后、 臣を讒るを聴き、 蛮夷を別異し、 器物を隔絶す。 これ必ず長沙王の計なり。中国に倚りて、南越を撃滅 して并せて之に王となり、自ら功となさんと欲するな り﹂ と。是に於て佗⋮⋮兵を発して長沙の辺邑を攻め、 数県を敗りて去る。高后、将軍隆慮侯竈を遣わし、往 きて之を撃たしむ。暑湿に会し、 士卒大いに疫し、 兵、 嶺を踰ゆる能わず。歳余にして高后崩じ、即ち兵を罷 む。 これによると南越王が国境での鉄の交易を漢が禁止したこ とに対して隣接する長沙王国を攻撃し、これに対して漢も 将軍周竈を派遣したが、 この遠征軍は南方の暑気に苦戦し、 呂太后崩御後に撤兵したというのである。この記事から次 のようなことが想定されよう。第一に、漢中央から遠征軍 が出動したことより、長沙王国は南越の攻撃に際して独断 で出兵せずにまず漢中央に報告しているのではないかとい
13 漢初諸侯王国の軍制に関する一考察(佐々木) う点である。この報告を受けて中央は遠征軍を編成したの であろう。つまり、ここから諸侯王国は、原則としてその 管轄下の兵を独自の判断で出兵することができなかったの ではないかということである。これはおそらく ﹁虎符の制﹂ とも関連があろう。 第二点は、漢の遠征軍の行軍路である。この場合南越遠 征であるから、その行軍路は長沙王国内であった可能性が 高い。そして、当然長沙王国軍も漢中央軍に組み込まれて 南越攻撃に加わったことであろう。これより、漢中央軍が その遠征に際して諸侯王国内を行軍することもありえたわ けで、かつて高祖劉邦がしばしば諸侯王国の軍を動員して 親征した時も諸王国内を通過したであろうことは容易に想 定されるところである。 さて上の南越遠征の事例から、長沙王が独断で出兵せず に、まず漢中央に事態を報告したのではなかろうかと推定 した。しかしここで留意すべきは、この報告如何はすべて 諸侯王の意思にかかわっているということである。すなわ ち、諸侯王がその抱懐する政治の実現にむけて管下の軍を 自在に動員、 出兵することも不可能ではなかったのである。 実際、諸侯王がその国境を越えて大きな作戦遂行能力のあ ることを示したのが、呂太后死後に諸呂打倒を名目にした 斉 王 の 挙 兵 で あ る。 ﹃ 史 記 ﹄ 巻 五 十 二 斉 悼 恵 王 世 家 に は 次 のようにある。 以て諸呂を誅し、 因りて斉王を立てて帝となさんとす。 斉王、既にこの計を聞き、乃ちその舅父駟鈞・郎中令 祝午・中尉魏勃と陰かに兵を発せんことを謀る。斉相 召平、 之を聞き、 乃ち、 卒を発して王宮を衛る。魏勃、 召 平 を あ ざ む き て 曰 く﹁ 王、 兵 を 発 せ ん と 欲 す る も、 漢の虎符の験有るに非ざるなり。而れども相君、王を 囲むこと、固より善し。勃、請うらくは君のために兵 衛を将いて王を衛らん﹂と。召平、之を信じ、乃ち魏 勃をして兵を将いて王宮を囲ましむ。勃、既に兵を将 い、 相府を囲ましむ。 召平曰く ﹁ああ、 道家の言に ﹃当 に断ずべきに断ぜざるは、 反りてその乱を受く﹄とは、 乃ち是なり﹂と。遂て自殺す。是に於て斉王、駟鈞を 以て相となし、 魏勃を将軍となし、 祝午を内史となし、 悉く国中の兵を発す。 斉王は挙兵にあたって、反対する宰相召平を排除し、周囲 を側近で固めた後、ことごとく国中の兵を発したのであっ た。ここで﹁ことごとく﹂とあるように、この時斉王国に 戦時編成下の軍制が布かれたのであった。なお、 ここで ﹁虎 符﹂の話がでている。さらに﹃史記﹄斉悼恵王世家には続 けて 祝午をして東のかた琅邪王を詐らしめて曰く﹁呂氏乱
14 を 作 し、 斉 王、 兵 を 発 し て 西 し て 之 を 誅 せ ん と 欲 す。 斉王、 自ら児子年少にして兵革の事に習わざるを以て、 願わくは国を挙げて大王に委ねん。大王、高帝より将 なり。戦事に習う。斉王、あえて兵を離れず、臣をし て大王に請わしむ。幸わくは、臨 菑 に之きて斉王に見 えて事を計り、并せて斉兵を将いて以て西のかた関中 の乱を平らげんことを﹂と。琅邪王、之を信じ以て然 りとなし、廼ち馳せて斉王に見ゆ。斉王、魏勃等と因 りて琅邪王を留め、祝午をして尽く琅邪国に発し、并 せてその兵を将いしむ。 とある。 これをみれば、 軍兵の動員はそれぞれ国ごとに個々 に行われていたことが分かる。 諸呂誅滅後の混乱を収拾して帝位についた文帝は、軍政 上 の 施 策 と し て、 ﹁ 虎 符 の 制 ﹂ を 制 定 し た。 こ れ は 文 帝 二 年九月のことであって、上記の斉王挙兵に鑑みての施策と 考えられるが、 ﹃史記﹄巻十孝文本紀には ︵ 二 年 ︶ 九 月、 初 め て 郡 国 守 相 に 銅 虎 符・ 竹 使 符 を 為 りて与う。 と あ る。 ﹁ 虎 符 ﹂ と は、 発 兵 の 際 に 必 要 な も の で あ っ て、 布目潮渢氏はこれをもって漢初の諸侯王は勝手に兵を発す ることが禁止されていたとの見解を示 す ︶30 ︵ 。しかし、 ﹁虎符﹂ はすでに以前より多人数の発兵を行う際に用いられる銅虎 符が中央と県とで分有されており、かつまた前記のように 斉王挙兵時に魏勃の言中に見えるのである。この点に関し ては布目氏も認めており、文帝二年の記事は銅虎符が正式 に定められたとの認識を示す。しかし、布目氏の説く﹁虎 符の制﹂が存在するために、諸侯王の発兵権が完全に控制 せられていたと断ずるわけにはいかない。何故ならば斉王 は国中の兵をことごとく発して大きな作戦遂行能力を示し ているし、さらに文帝二年以後においても呉楚等の諸国は い と も 容 易 に 挙 兵 し て い る か ら で あ る。 ﹁ 虎 符 ﹂ が そ の 機 能を十全に発揮していたと認めるわけにはいかない。その 機能を発揮するか否かは、やはり諸侯王の意思にかかって い た と い わ ざ る を え な い の で あ る。 ﹁ 虎 符 の 制 ﹂ は、 諸 侯 王の出兵権に掣肘を加えようとする政策から制定されたの で あ る が、 し か し 侯 王 の 軍 兵 徴 発 を 否 定 し た も の で は な かったであろう。王国内における常備軍編成のための徴発 は認められていたと解すべきである。これより、原則とし て王国内の常備軍は王国内の警備を主とし、王国外への出 兵は﹁虎符の制﹂によって漢中央の同意が求められていた と解することも可能である。漢中央の意図とはこのような ものであったのではなかろうか。 それでは次に、文帝治世二十三年間に漢中央軍の出動に 諸侯王国がいかにかかわったかを検討してみよう。文帝治
15 漢初諸侯王国の軍制に関する一考察(佐々木) 世下、史書より確認できる漢中央軍の出動は前後四度に及 ぶ。このうち三度は匈奴との関係が緊張した時であり、一 度 は 済 北 王 劉 興 居 の 謀 反 に 際 し て で あ っ た。 ﹃ 史 記 ﹄ 巻 十 孝文本紀よりこれを確認してみよう。 ◎︵孝文三年︶五月、匈奴北地に入り、河南に居して 寇をなす。帝、 初めて甘泉に幸す。六月、 帝曰く﹁漢、 匈奴と約して昆弟となし、辺境を害せしむることなか らしむ。匈奴に輸遺すること甚だ厚き所以なり。⋮⋮ 辺吏 を陵轢し、入りて盗み、甚だ敖にして無道なるは 約にあらざるなり。それ、辺の吏騎八万五千を発して 高奴に詣らしめ、丞相潁陰侯灌嬰を遣わし、匈奴を撃 たしめよ﹂と。匈奴去り、中尉の材官を発して衛将軍 に属して、長安に軍せしむ。辛卯、帝、甘泉より高奴 に之き、因りて太原に幸す。故の群臣を見、皆、之に 賜う。功を挙げ、賞を行い、諸の民里に牛酒を賜う。 ◎︵孝文三年︶済北王興居、帝代に之き、往きて胡を 撃たんと欲するを聞き、乃ち反し兵を発して滎陽を襲 わんと欲す。是に於て詔して丞相の兵を罷め、棘蒲侯 陳武を大将軍となし、十万を将いて往きて之を撃たし む。祁侯賀を将軍となし、 滎陽に軍せしむ。⋮⋮八月、 済北軍を破りて、その王を虜とす。 ◎十四年冬、匈奴謀りて辺に入り寇をなし、朝那の塞 を攻め、 北地都尉卬を殺す。上、 乃ち三将軍を遣わし、 隴西・北地・上郡に軍せしめ、中尉周舎を衛将軍とな し、 郎 中 令 張 武 を 車 騎 将 軍 と な し て 渭 北 に 軍 せ し む。 車千乗、騎卒十万なり。帝、親しく自ら軍を労い、兵 を勒し、教令を申べ、軍の吏卒に賜う。帝、自ら将と し て 匈 奴 を 撃 た ん と 欲 す。 群 臣、 諌 む る も 皆 聴 か ず。 皇太后、 固く帝をさえぎる。帝、 乃ち止む。是に於て、 東陽侯張相如を以て大将軍となし、成侯赤を内史とな し、 欒布を将軍となして匈奴を撃たしむ。匈奴遁走す。 ◎後六年冬、匈奴三万人上郡に入り、三万人雲中に入 る。中大夫令勉を以て車騎将軍となし、飛狐に軍せし め、故の楚相蘇意を将軍となして句注に軍せしめ、将 軍張武を北地に屯せしめ、河内守周亞夫を将軍となし て細柳に居せしめ、宗正劉礼を将軍となして覇上に居 せしめ、祝茲侯を棘門に軍せしめ、以て胡に備う。数 月にして胡人去り、亦罷む。 特に匈奴との三たびの緊張は前面衝突に発展せず、両軍 の撤収で終結をみるが、いずれの場合も諸侯王国軍の動員 を史料上より確認することができない。かつて高祖代に多 くの諸侯王国軍の動員事例を確認したのであるが、文帝代 のそれにはほとんど認めることができないのである。しか し、皆無であったと速断すべきでもなかろう。既に挙げた
16﹃史記﹄巻百二馮唐伝のなかに文帝時、 唐が車騎都尉となっ て郡国の戦車隊の指揮をとったとの記述がみえるからであ る。とはいえ、 それも限定的であったといわざるをえない。 このことを示唆するのが、上記文帝三年と後六年の史料上 より推測できるからである。これらの記述を詳細に検討し て み る と、 匈 奴 撤 収 後 に 文 帝 は、 ﹁ 太 原 に 幸 し て、 故 の 群 臣を謁見して論功行賞を行った﹂ ︵孝文三年︶とあるから、 文帝三年の匈奴侵入に際して、代王国群臣さらにはその兵 も動員されたと解されるのである。そして、この時の代王 は、文帝の皇子武であり、かつまた太原王もまたその皇子 参であった。つまり両王国ともに文帝にとっては親近の皇 子王国であった。さらにまた、後六年の事態に対処するた めに﹁大夫の令勉を車騎将軍として飛狐に陣どらせた﹂と あり、この﹁飛狐﹂を如淳は﹁在代郡﹂と注するが、この 注の如くであれば当時代郡は代王国内︵王は太原王から代 王に遷った参の子・恭王登︶と想定されるから、その王国 内に漢中央軍が陣を布いたことになる。以上から文帝治世 下、漢中央軍の大規模動員にあたっては帝親近の王国に限 定されていたのではないかという推定が成り立つ。北辺の 緊急に際して、地理的関係より代や太原王国が漢中央に協 力するのは当然であろうという見解も可能であるが、ここ で重要なことはこのような要地に親近の皇子王国を建てた 文帝の政治的感覚の鋭敏さであろう。もとより文帝は代王 として北辺にあること十八年、 北境の状況は知悉していた。 高祖以来、 北方は常に安定を欠いていた。燕王臧荼の謀反、 それを継いだ盧綰や韓王信の匈奴逃亡、趙の相国陳 豨 の反 乱等、北辺は常に不安定であっ た ︶31 ︵ 。このような状況を文帝 は十分に認識しており、これに対処するために代と太原に 皇子王国を設置したのであろう。以上より文帝治世下、漢 朝の大規模動員にあたっては帝親近の王国に限定されたの ではないかと推定される。それでは何故このようになった のであろうか。周知のように文帝は、諸呂誅滅後に代王よ り迎えられて帝位につく。従って即位当初はその権力基盤 も極めて脆弱であった。そのため、いままで同格であった 諸侯王への配慮も欠かせない。 ﹃史記﹄巻十孝文本紀には ︵ 孝 文 元 年 正 月 ︶ 有 司 曰 く﹁ 予 め 太 子 を 建 つ る は 宗 廟 社稷を重んじ、天下を忘れざる所以なり﹂と。上曰く ﹁ 楚 王、 季 父 な り。 春 秋 高 く し て、 天 下 の 義 理 を 閲 す ること多く、 国家の大体に明るし。呉王、 朕の兄なり。 恵仁にして以て徳を好む。淮南王、弟なり。徳を秉り て以て朕に陪す。⋮⋮﹂ とあって、楚・呉・淮南王に配慮すべきことを示唆してい る。一般的に文帝は賈誼の分国策を用いて諸王国の分国化 を推進したとされているが、一方で多くの恩愛も施与して
17 漢初諸侯王国の軍制に関する一考察(佐々木) いるのであって、分国策のみでとらえるのは一面的であろ う。文帝による王国政策は、極めて宥和的な現状維持政策 ということができ、かかる政策のもと約二十年間にわたっ て平穏な時代が続けば、諸侯王がその封域内で権力の集中 化をはかるのはいうまでもない。そして、その王権の中核 をなす権限こそ兵権なのであった。兵の動員が帝親近の王 国に限定されたのはこのような背景が進行しつつあったか らではなかろうか。このように推定するのである。 前一五四年、呉楚七国の乱が勃発する。この乱に際して 景帝が頼りとしたのも、やはりその親近の王国であった。 ◎乃ち ︵衛︶ 綰を拝して河間王太傅となす。呉楚反す。 綰 に 詔 し て 将 と な し、 河 間 の 兵 を 将 い て 呉 楚 を 撃 ち、 功有り、拝して中尉となす。 ︵﹃史記﹄巻一百三衛綰列 伝︶ ◎梁孝王に事え、 中大夫となる。呉楚反する時、 孝王、 安国及び張羽を将となし、呉兵を東界に扞がしむ。張 羽力戦、安国持重し、故を以て呉、梁を過ぎるあたわ ず。 ︵﹃史記﹄巻一百八韓長孺列伝︶ 梁 王 と 河 間 王 が 漢 側 に 立 っ て 戦 っ た こ と が 述 べ ら れ て い る。梁王は景帝の弟であり、 河間王は景帝の皇子であって、 やはり帝親近の王であった。 本節は、次のように概括できよう。漢初、郡国制の下で 諸侯王国は漢中央の兵制と同様に管下から兵を徴発し、兵 種も多様な独自の王国軍を編成しえた。そして、漢中央と 諸侯王国の軍事的相互関係を検証すると、高祖の治世下に あっては皇帝が王国軍を徴発し、それを指揮・統帥下にお く体制が確立されていたと想定される。次の呂太后称制時 代、劉氏諸王国との緊張をはらみながらも軍事力発動の事 例は南越遠征以外は認められず、比較的平穏のうちに推移 する。呂太后没後、その一族の専権に異を唱え管下の軍を 動員・出兵したのが斉王であり、侯王がその国境を越えて 大きな作戦遂行能力のあることを示す。呂氏誅滅後の混乱 を克服して即位した文帝は、 斉王挙兵に鑑みて﹁虎符の制﹂ を正式に制定して、出兵権に掣肘を加えようとするが、そ の機能が十全に発揮されたかは疑わしい。さらに文帝治世 下、匈奴との緊張に際して軍の動員を行うが、かつて高祖 が全域的に王国軍を徴発し指揮・統帥下においたのに対し て、極めて限定的な皇子王国軍であったことは、その王国 政 策 が 極 め て 宥 和 的 で あ っ た こ と の 一 証 左 と な る で あ ろ う。かかる政策のもと約二十年間にわたって平穏な時代が 続けば、諸侯王がその封域内で自己の権力集中化を図るの は言うまでもなかろう。そして、その王権の中核をなす権 限こそ兵権にほかならなかったのである。
18 四、王国の中尉・都尉について 前節においては、発掘資料や史書を通して前漢初期の諸 侯王国の軍事的側面について検討を加えてみた。ここから 諸侯王は﹁虎符の制﹂によって発兵権に制約がかけられて いたとしても、封域内において兵の徴発権を認められてお り、 自前の軍を持ち得たことを確認した。そして時として、 その﹁虎符の制﹂も漢中央の意図と相違してその機能を十 分には発揮しなかった。このような状況は呉楚の乱後のこ ととはいえ、淮南王安がその臣に 今、吾国小と雖も然れども兵に勝える者、十余万を得 べし。 ︵﹃史記﹄巻一百一十八淮南王列伝︶ と話したり、呉王濞が挙兵にあたり 敝国、狭と雖も地方三千里、人少と雖も精兵五十万を 具うべし。 ︵﹃史記﹄巻一百六呉王濞列伝︶ と豪語しているのをみれば明らかであろう。またこれらの ことから軍権が王権の重要な構成要件をなしていたことが 認識できよう。そこで、本節ではその軍権の一翼を担う王 国の中尉、都尉についての私見を展開したい。 中 尉 が 武 職 を 掌 る こ と は、 ﹃ 漢 書 ﹄ 百 官 公 卿 表 で す で に 確認した。またその人事も丞相以外の官はすべて王自らの 任命によってい た ︶32 ︵ 。従って、武職を掌る中尉は枢要の官で あ る か ら 王 親 近 の 人 物 が そ の 職 に あ っ た と 考 え て よ か ろ う。それは、文帝が即位後ただちに代の中尉であった宋昌 を衛将軍に任命して、南北 軍 ︶33 ︵ を鎮撫させたことによっても 明らかである。 しかし、 いかに中尉が王国中枢の要官といっ ても、 その職務も ﹁衆官をすべる﹂ 王国丞相の管轄下にあっ たのであり、出兵に必要な﹁虎符﹂は、国相が掌握するも のとされていた。そこで、国相と中尉の統属関係を諸呂討 滅 を 名 目 に 挙 兵 し た 斉 王 挙 兵 時 に そ の 一 端 を み て み よ う。 斉王挙兵時の状況は前掲の﹃史記﹄巻五十二斉悼恵王世家 のなかに詳細に記されているが、これをみると斉王はまず 挙 兵 に あ た り、 そ の 側 近 に あ た る 舅 父 駟 鈞、 郎 中 令 祝 午、 中尉魏勃らと謀議していること、これを知った国相の召平 がこれを防止するため士卒を動員して王宮を衛るも、中尉 魏勃は召平をあざむき、召平もこれを信用して兵の指揮を 魏勃に移譲していること、結局召平は自決し、その後斉王 は駟鈞を宰相とし、魏勃を将軍とし、祝午を内史とした後 ことごとく国中の兵を発したことがわかる。ここで留意す べきは、謀議を知った召平がまず士卒を動員して王宮を守 衛していることである。この時動員された士卒はおそらく 王都近辺に駐留する部隊と思われる。その後動員された士 卒は、 召平をあざむいた中尉魏勃の指揮下にはいっている。 武職を掌る中尉の魏勃が士卒を指揮することに何らの問題
19 漢初諸侯王国の軍制に関する一考察(佐々木) もない。また、国相たる召平が中尉を飛び越えて士卒を動 員しているが、しかし衆官を統べる国相の地位よりすれば これも問題ないであろう。より重要な点は、召平自決後に 斉王が親信の駟鈞を宰相とした後にことごとく兵を発した ことである。これより指摘できるのは、国中の兵を発する に は 国 相 の 同 意 が 必 要 で あ っ た と い う 点 で あ る。 ﹃ 史 記 ﹄ 巻一一八淮南王列伝に 孝 景 三 年、 呉 楚 七 国 反 し、 呉 の 使 者 淮 南 に 至 る。 淮 南王兵を発して之に応ぜんと欲す。その相曰く ﹁大王、 必ず兵を発して呉に応ぜんと欲せば、臣、願わくは将 と な ら ん ﹂ と。 王、 乃 ち 相 に 兵 を 属 す。 淮 南 の 相、 已に兵を将い、因りて城守し、王に聴かずして漢のた めにす。 とみえるのは、直接的ではないが以上の状況を示唆するで あろう。つまり、王国全体の軍務を統括していたのが国相 であったのである。また﹃史記﹄巻五十四曹相国世家には 斉 の 相 国 を 以 て 陳 豨 の 将 張 春 の 軍 を 撃 ち、 之 を 破 る。 黥布反し、参、斉の相国を以て悼恵王に従い、兵・車 騎十二万人を将い高祖と会して黥布の軍を撃ち、大い に之を破る。 とあり、斉の相国曹参が斉王国の車騎兵十二万を率いてい たことが分かる。さらに、 ﹃史記﹄巻九十八傅寛伝には 一月にして、徙りて代の相国となり将として屯す。二 歳にして代の丞相となり、将として屯す。 とあり、 ﹁索隠﹂には、 ﹁如淳云う﹃漢の初め、諸王の官属 漢朝の如し。故に代に丞相あり﹄と。案ずるに孔文祥云う ﹃辺郡に屯兵あり。寛、代の相国となり兼ねて屯兵を領す。 後 に 因 り て 将 屯 将 軍 を 置 く な り ﹄ と。 ﹂ と 見 え 北 方 の 匈 奴 と対峙する代王国の辺郡に駐屯兵の存在していたこと、そ して代の相国・丞相であった傅寛がその屯兵を兼領してい た状況がうかがえる。これらより国相が王国の軍務を統轄 するうえで重要な位置にあったと認識してよかろう。 それでは、武職を掌る中尉はいかなる兵卒を統括してい た の で あ ろ う か。 先 に あ げ た 斉 王 挙 兵 時 の 史 料 に よ る と、 挙兵以前に中尉であったのは魏勃であった。しかし、魏勃 は﹃史記﹄巻五十二斉悼恵王世家によると ︵ 曹 ︶ 参、 以 て 賢 と な し、 之 を 斉 の 悼 恵 王 に 言 う。 悼 恵王、召見し則ち拝して内史となす。始め悼恵王、自 ら二千石を置くを得。悼恵王卒し、 哀王立つに及んで、 ︵魏︶勃、用事すること斉相より重し。 とあるように内史の地位にあって国相よりも重用されてい たのであった。そして斉王挙兵時の謀議にくみした中に当 然入るべき王親近の内史が見えないのは不可解であり、さ らにまた内史の官職が国相自決後に祝午に与えられている
20 ことなどを考慮に入れれば、この時魏勃が中尉と内史の両 官職を兼任していたとの推測も可能であろう。何故このよ うなことが可能なのであろうか。考えられることは、この 兼官に意義があるからであって、内史と中尉の官職がしば しば一体的な関係としてとらえられていたからである。こ のような内史と中尉の関係を端的に示す史料が﹃漢書﹄巻 八十六何武伝に見える。呉楚七国の乱後のことであるが、 ︵ 何 武 ︶ 御 史 大 夫 司 空 と な る に 及 び、 丞 相 方 進 と 共 に 奏して言う﹁往者、諸侯王、断獄治政す。内史、獄事 を典り、相、綱紀を総べて王を輔け、中尉、盗賊に備 う。 今、 王 断 獄 与 政 せ ず。 中 尉 の 官、 罷 め ら れ、 職、 内史に并せ、⋮⋮﹂ 呉楚の乱後、諸侯王の権限が大幅に削除され、王官を任命 する主体が漢中央に移ったとしても、官の職掌内容に特別 の 変 化 が 認 め ら れ な い わ け で あ る か ら、 ﹁ 中 尉 の 官、 罷 め られ、職、内史に并﹂すとあるのは、明らかにこれ以前に おいて内史と中尉とが一体的関係にあったことを示してい る。 そ し て、 こ こ で 想 起 す べ き は 漢 中 央 の 官 職 で あ ろ う。 諸侯の王官は﹁群卿・大夫から都官まで漢の朝廷のとおり であった﹂ ︵﹃漢書﹄百官公卿表︶からである。漢中央の中 尉の職掌は京師すなわち三輔の治安維持を掌り、また内史 は京師の行政権を掌握していた。かつて紙谷正和氏は、王 国の内史は王都所在地の一郡の行政を掌るとの見解をしめ し た ︶34 ︵ が、漢中央の内史と中尉が京師の各々行政権・軍事権 を分かち合っていること、及び先の斉の魏勃が内史と中尉 との兼職を想定させるがごとき状況より類推すれば、おの ずから王国内にあっても中央同様に王都の郡の行政は内史 が、軍権は中尉が各々分かち合っていたと言うことができ るであろう。すなわち、基本的に中尉は王畿の一郡から徴 発される兵を統轄したものと考えられ、あるいはそれは王 の衛兵としての性格を有していたのかもしれない。かの魏 勃が、国相召平より指揮権を移譲された士卒とは、これら の衛兵だった可能性がある。そして中尉官にある者は時に 将軍号を侯王より得て、勢威他を圧するものがあった。そ れは魏勃の例にも見られ、さらにまた﹃漢書﹄巻四十七文 三王伝に 四方の豪桀を招延し、山東より游士至らざるなし。斉 人、羊勝・公孫詭・鄒陽の属なり。公孫詭、奇なる邪 計多く、初めて見ゆる日、王、千金を賜う。官、中尉 に至り、号して公孫将軍と曰う。 とあるがごとき状況を呈したのである。それでは丞相の軍 務 と は な に か。 そ れ は す で に 見 た と お り﹁ 衆 官 を 統 べ る ﹂ とある以上、原則として中尉を含めた王官すべての統轄で あり、そのなかに軍務も当然含まれていたと考えられるの
21 漢初諸侯王国の軍制に関する一考察(佐々木) である。 さて、王国中央で武職を掌る中尉について検討を加えて きたが、 次に王国の地方軍はいかなる状況になっていたか。 ここで馬王堆三号漢墓出土の﹁駐軍図﹂より読み取ってみ よう。この﹁駐軍図﹂には先にみたように “ 周都尉軍 ”・“ 周 都 尉 別 軍 ”・ “ 徐 都 尉 軍 ”・ “ 司 馬 得 軍 ”・ “ 桂 陽 郡 軍 ”な ど の 九個の部隊が明示されていた。そして中央には指揮所が置 かれ、南方の第一線には “ 徐都尉 ”の三部隊、その後方第二 線には “ 周都尉別軍 ”と “ 徐都尉 ”の部隊が、そして中央指揮 所の近辺に “ 周都尉 ”の部隊が配置されていた。この中央指 揮所でこれらの部隊を指揮していた人物こそ三号墓の被葬 者 で あ る と さ れ て い る。 ﹁ 駐 軍 図 ﹂ を 読 み 取 る う え で 留 意 しなければならないのは、長沙王国の置かれていた地政学 的位置である。当時、長沙王国は南越と境を接し、呂太后 晩年には遠征軍が派遣され、 実際に軍事衝突も起きている。 そ の 後、 文 帝 治 世 下 に は 緊 張 関 係 も 解 け 小 康 を 得 て い る。 ﹃史記﹄巻十孝文本紀に 南 越 王 尉 佗、 自 ら 立 ち て 武 帝 と な る。 然 れ ど も、 上、 召 し て 尉 佗 の 兄 弟 を 貴 と し、 徳 を 以 て 之 に 報 ず。 佗、 遂に帝を去り、臣と称す。 とあって、三号墓主が埋葬されたとされる文帝十二年前後 は、漢と南越との関係は比較的安定していた。しかし、関 係改善がはかられたとはいえ境を接するために、防備を怠 り な く 行 う こ と は 必 要 で あ っ て、 ﹁ 駐 軍 図 ﹂ の 第 一 線 に 三 都尉部隊が配置されているのもこのためであろう。従って こ の 図 に み る よ う な 部 隊 配 置 が、 他 の 諸 侯 王 国 も 同 様 に とっていたと一般化して想定することもできなかろう。し か し、 ﹁ 二 年 律 令 ﹂ の 条 文 に﹁ 亭 障 ﹂ の 文 字 が 見 え る こ と より、 諸侯王国内にも亭障が存在していたことは疑いなく、 そうであれば部隊も亭障を中心に配置されたと想定される ので、この﹁駐軍図﹂はそれを知るための一助となるので はなかろうか。 さて、部隊配置もさることながら、次に指摘すべき点は 九個の部隊がいかなる性格の軍隊かということである。ま ず“ 桂陽郡軍 ”について検討してみよう。桂陽郡は、 ﹃漢書﹄ 巻二十八地理志に﹁高帝置﹂と記されており、劉邦によっ て設置されている。これを受けて吉開将人氏は、桂陽郡が 武陵郡とともに長沙王国の支郡としてその南部と西部に設 置されたと推定してい る ︶35 ︵ 。そうであれば桂陽郡は長沙王国 を構成する一郡であり、 “ 桂陽郡軍 ”とは桂陽郡から徴発さ れた郡兵に他ならない。つまり、このことより王国内にも 漢 の 内 郡 同 様 に 郡 兵 の 存 在 が 確 認 さ れ る の で あ る。 “ 桂 陽 郡 軍 ”が 長 沙 王 国 桂 陽 郡 の 郡 兵 で あ る こ と は 疑 い な い。 ま た“ 司 馬 得 軍 ”に 関 し て は、 ﹁ 徐 州 獅 子 山 楚 王 墓 ﹂ よ り﹁ 楚
22 司馬印﹂の印章が発見さ れ ︶36 ︵ 、諸侯王国に司馬の軍職の存在 したことが明らかとなったことより、長沙王国司馬の率い る部隊であった可能性が高い。 問題は “ 徐都尉軍 ”・ “ 周都尉軍 ”である。この都尉軍に関 して、都尉軍は漢中央軍であるからこの両都尉軍は中央派 遣軍であると指摘する論者もい る ︶37 ︵ 。しかし、このように断 ずるには若干の躊躇がある。一般的に ﹁都 尉 ︶38 ︵ ﹂ とは、 ﹃漢書﹄ 巻十九上百官公卿表上に 郡尉は秦官にして、守を佐くるを掌り、武職甲卒を典 る。秩、比二千石。丞、有り、秩皆六百石なり。景帝 中二年、名を都尉に更む。 とあるように漢初の郡尉であって、景帝中二年にその名称 を都尉に改めたのであった。従って﹁駐軍図﹂に見える都 尉は、景帝中二年以後の都尉とは相違する。それでは図に 見 え る 都 尉 と は い か な る 存 在 か、 ﹃ 史 記 ﹄ に 景 帝 中 二 年 以 前の都尉について、多くの記載が確認できる。 ◎項王、乃ち馳せてまた漢の一都尉を斬り、数十百人 を殺す。 ︵巻七項羽本紀︶ ◎武関を攻め、覇上に至り都尉一人を斬り、首十級を あげ、⋮︵巻九十五樊噲列伝︶ ◎王武の別将桓嬰を白馬の下に撃ち、之を破り、将い る所の卒、都尉一人を斬る。 ︵巻九十五灌嬰列伝︶ ◎申屠丞相嘉は梁人にして、材官蹶張を以て高帝に従 い項籍を撃ち、遷りて隊率となる。従いて黥布の軍を 撃ち、都尉となる。 ︵巻九十六申屠嘉列伝︶ ◎梁地を略し、別将、邢説の軍を 菑 南に撃ち、之を破 り、 身 ら 説 の 都 尉 二 人・ 司 馬・ 候 十 二 人 を 得、 吏 卒 四千一百八十人を降す。 ︵巻九十八靳歙列伝︶ ◎燕将臧荼、挙げて以て都尉となす。臧荼後に燕王と なり、布を以て将となす。 ︵巻一百欒布列伝︶ 等の記事がそれである。これらより、都尉は専門の軍職に あたり、しかも楚漢抗争時より諸侯が軍職として設置して いたことを知りうる。そして ﹁徐州獅子山楚王墓﹂ より ﹁楚 騎尉印﹂ ・﹁楚都尉印﹂の印章が発見されてもいる。そして ﹁ 駐 軍 図 ﹂ に 見 え る“ 徐 都 尉 ”・ “ 周 都 尉 ”の 徐・ 周 と は、 姓 を意味し徐某・周某が指揮する都尉軍であったことをうか がわせる。同様の例は、 ﹃史記﹄巻一百六呉王濞列伝に 父絳侯の故の客鄧都尉に問いて曰く、⋮⋮ と見えることから確かであろう。さらに﹃史記﹄には、一 都尉がどれほどの人数を率いたかを示す記述もある。 ◎ 鼂 錯、已に誅せらるるに及んで、袁 盎 、太常を以て 呉 に 使 い す。 呉 王、 将 た ら し め ん と 欲 す る も 肯 ぜ ず。 之を殺さんと欲し、一都尉をして五百人を以て 盎 を軍 中に囲守せしむ。 ︵巻一百一袁 盎 列伝︶