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『癸辛雜識』「置士籍」考 ─ 南宋最末期の科挙改革 ─

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『癸辛雜識』「置士籍」考 ─ 南宋最末期の科挙改

革 ─

著者

村田 岳

雑誌名

集刊東洋学

118

ページ

40-60

発行年

2018-01-24

URL

http://hdl.handle.net/10097/00129939

(2)

40

﹃癸辛雜識﹄

﹁置士籍﹂考

││

南宋最末期の科挙改革

││

   

一、はじめに 中国史上に於いて科挙制度は、宋代におおよそが完成さ れ、 そこから生まれた士人層は、 唐代以前の貴族層に代わっ て歴史の主役となり、さらにその後の近千年の中心にいつ づけたとされ る ︶1 ︵ 。そのため、 かかる中国史上の意義により、 早くより宋代科挙の制度面への研究はもちろ ん ︶2 ︵ 、科挙その もののみならず、科挙がもたらした社会的な影響に関する 研究な ど ︶3 ︵ 、多方面からの成果が蓄積されている。しかしな がら、これら先行研究を見ていくと、社会史面では文集や 宋元期に編纂された地方志などを用いての通時代的な研究 が続けられているのに対し、制度史面では史料上の不足に より、南宋後半期、特にその最末期の様相についてはほと んど言及されておらず、研究の空白が生じている。宋代全 体を通してみても、最末期を除けば基本史料の充実もあっ て、 かなり詳細に制度面の理解は進んでいるのであるから、 当 該 時 期 は 宋 代 科 挙 制 度 史 を 理 解 す る 上 で 唯 一 の 欠 落 と 言ってもよいであろう。 南宋期には科挙に参加する人間が増加し、正確な統計は もとより望むべくもないが、予備軍も含めて百万人近くに 達したという推測も存在す る ︶4 ︵ 。それならば当然のことなが ら、制度的変更は単なる技術上の問題にとどまらず、彼ら 巨 大 な 士 人 層 を 中 心 と し た 科 挙 社 会 へ 影 響 を 与 え る も の、 も し く は 彼 ら か ら の 何 ら か の 強 い 要 請 に 基 づ い て の も の だったはずである。そのため、南宋期社会を理解するため にも、この科挙制度面での研究の空白を埋めることは有効 かつ必須である。 そこで本稿では、南宋最末期から元初期にかけての史料 で あ る﹃ 癸 辛 雜 識 ﹄﹁ 置 士 籍 ﹂ を 手 が か り と し て、 当 該 時 期の科挙制度に存在していた問題点を指摘し、改革の実体 集刊東洋学 第一一八号 平成三十年一月 四〇 −六〇頁

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41 『癸辛雜識』「置士籍」考(村田) を解明することを試みる。そして、そこからさらに当該時 期の社会的特質の一端を探ることにしたい。 二、周密﹃癸辛雜識﹄について ﹁ 置 士 籍 ﹂ の 分 析 に 入 る 前 に、 ま ず 本 稿 の 基 本 史 料 と な る ﹃癸辛雜識﹄ とその撰者について考察することにしたい。 撰者は湖州呉興の人である周密︵一二三二∼一二九八、一 三〇八 ? ︶5 ︵ ︶であり、先行研究に於いては、彼が南宋末期の 太学状況と文教政策に詳しかったことから、二十歳ごろの 太学在学が予想されてい る ︶6 ︵ 。その後、臨安府幕属等を経る も、宋滅亡後は元に仕えず遺民となり、他の宋遺民と交流 を保ってすごした。その際、中興の名将楊沂中の子孫であ る大受と姻戚関係であったことから、彼の邸第があった杭 州癸辛街に寓 し ︶7 ︵ 、これが書名の由来となった。なお、癸辛 街は都城の西、両浙転運司の北東の地名であ る ︶8 ︵ 。 そして周密が著した﹃癸辛雜識﹄は、前・後・續・別の 全四集からなる筆記史料であり、その執筆時期は至元十八 年 ︵一二八一年︶ 以降とされる。なお、 本稿で着目する ﹁置 士籍﹂を所収する別集の執筆時期は、元貞二年︵一二九六 年︶以降と考えられてい る ︶9 ︵ 。その内容は幅広く、周密が見 聞したり、友人から聞いたものを来源として、南宋最末期 の 政 治 や 文 化 に 関 わ る 数 多 く の 出 来 事 が 記 載 さ れ て お り、 当時の社会状況を知る上で重要な史料となっている。 ところで周密の記述態度については、趙翼が﹁彼の立論 は多く賈似道の無罪を訴えるものであり、それは常日頃か ら 彼 の 贔 屓 を 受 け て い た か ら で あ る ︶10 ︵ 。﹂ と の 見 解 を 示 し て おり、当時の専権宰相であった賈似道を擁護するために記 し た 著 作 と し て い る。 一 方、 李 慈 銘 は、 ﹁ 賈 似 道 が 国 富 を 盗み、忠賢を陥れたことを再三述べており、どうして隠し た り 遠 慮 し た 跡 が あ る の だ ろ う か ︶11 ︵ 。﹂ と 反 論 し て い る。 周 密 は 賈 似 道 の 公 田 法 に 逆 ら っ た た め に 帰 郷 し て い る の で ︶12 ︵ 、 そのことを考えれば、彼の記述態度は個人的なことは別に して客観的であったといえよう。また、現代に於いても理 学流行に流されなかった人間として注目されてお り ︶13 ︵ 、全般 的 に 言 っ て 彼 の 著 述 は 公 平 性 を 信 頼 で き る も の だ と 言 え る。 三、 ﹁置士籍﹂について ﹁置士籍﹂は、 ﹃癸辛雜識﹄別集下に所収されている。そ して当該史料は情報がほぼ皆無である南宋最末期の科挙制 度を記すのみならず、当時の郷隣社会の様相をも示す貴重 な史料である。実際のところ、関連史料は他にもないわけ

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42 で は な い が、 ﹃ 癸 辛 雜 識 ﹄ が 最 も 詳 細 で あ る た め、 本 稿 で はこの史料を内容に応じて、 Aから Gに適宜分割して検討 を加えていくこととする。 ︻史料一︼ A.咸淳辛未、正言陳伯大建議、以爲科場之弊極矣、欲自 後擧始、行下諸路運司、牒州縣、先置士籍。 ︵﹁咸淳辛未 の年に諌官の陳伯大は建議して、科挙試験場の不正があ まりにも多発しているので、次回の科挙より、諸路の転 運司に命令を下し、牒文を州県に発して、あらかじめ士 籍を作らせようとした。 ﹂︶ B.編排保伍、取各家戸貫、三代年甲、娶誰氏、兄弟男孫 若干之數。其有習擧業者、則各書姓名、所習賦經。憑所 書年甲、如十五以上實能擧業者、自五家至二十五家而百 家、百家而里正許其自召其郷之貢士、結罪保明、批書擧 曆、然後登士籍。 ︵﹁郷隣にて︵士人の家を対象に︶保伍 を編成して、各家の戸貫、父と祖父の年齢、誰氏を娶っ たか、兄弟と子どもはいくらいるのかの数を調べる。受 験 勉 強 を し て い る 者 が い た の な ら ば、 そ れ ぞ れ の 姓 名、 詩賦と経義いずれが専門かを書く。書かれた年齢が十五 歳以上で、本当に受験をしようとする者がいたのならば ︵保証人手続きが必要となり︶ 、五家単位で確認し、それ から二十五家で、百家で確認し、百家から里正に報告し た後、 里正が地元の受験経験者を召いて、 連名で保証し、 受験履歴書に署名してもらうことを許し、その後に士籍 に登録す る ︶14 ︵ 。﹂ ︶ C.一樣四本、縣州漕部、各解其一、仍從縣給印曆、俾各 人 親 書 家 狀 於 曆 首、 以 爲 字 跡 之 驗。 不 許 臨 期 陳 狀 改 易。 ︵﹁各郷隣は同じ士籍を四部作り、県・州・転運司・礼部 にそれぞれ一部を送る。 県から暦を受験予定者に発送し、 それぞれ自ら家状を暦の冒頭に書かせておき、筆跡検証 の根拠とした。受験の直前になって理由を述べてその家 状を変更することは許さない。 ﹂︶ D.或有隨侍子弟合赴曹牒・諸色漕試者、各令 賫 曆先赴縣 批鑿、前去各處狀試。 ︵﹁現役官僚に随っている子弟で国 子監牒試に参加するもの・転運司で開かれる様々な漕試 に参加する者がいたのならば、各人が暦を持ってまず県 に行き確認をしてもらった後に、各受験場に行って文書 を確認して試験する。 ﹂︶ E.毎遇唱名後、重行編排保伍取會。 ︵﹁合格者発表をする ごとに、再度保伍を編成して確認を行う。 ﹂︶ F.如有新進可應擧者、續照前式保明付籍。或有事故服制 者、 並 畫 時 申 聞 批 鑿、 或 毀 抹。 如 虛 增 人 名、 妄 稱 擧 子、 其犯人與里正保伍、并照貢擧條例施行。 ︵﹁もし新しく科 挙を受験しようとする者がいたのならば、前述の規則に

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43 『癸辛雜識』「置士籍」考(村田) 照らして保証した後に士籍に登録する。事故があったり 服喪したりで受験できなくなった者は、みなその際に報 告して確認してもらい、士籍上から文字を削る。人名を 偽って増やしたりして、妄りに受験者を称したりした場 合は、その犯人は保証した里正と保伍とともに、貢挙条 例に照らして処罰する。 ﹂︶ G.大意如此。御筆從行遍牒諸路、昭揭通衢。 ︵﹁大意はこ のようである。御筆で通知し、あまねく諸路に牒文を送 り、街角に掲示させた。 ﹂︶ ﹃癸辛雜識﹄別集下、置士 籍 ︶15 ︵ 以下、分割した A∼ Gの検討を行っていく。 Aでは士籍作成に到った背景が記されている。まず時期 に つ い て で あ る が、 ﹃ 癸 辛 雜 識 ﹄ で は 咸 淳 辛 未、 す な わ ち 七年︵一二七一年︶とされている。だがこの制度開始の時 期については諸史料にて一致を見ていない。まずこの咸淳 七年を支持する史料としてはこの他に﹃宋史﹄ 、﹃通鑑續編﹄ があり、特に同年の十二月と明記されてい る ︶16 ︵ 。だが一方で よ り 詳 細 に 士 籍 制 度 の 開 始 に つ い て 記 し て い る﹃ 錢 塘 遺 事﹄ 、﹃宋季三朝政要﹄などでは六年としてい る ︶17 ︵ 。これらの 矛盾をどのように解釈すればよいであろうか。 まず確認しておきたいのは咸淳七年は省試実施の年であ り、これは言いかえるならば解試が実施されたのは同六年 秋ということになる。後述するように今回の改革は解試で の改革を主とするものであることから、七年から実施され たということはありえず、 制度実施は六年からとなる。 ﹃癸 辛雜識﹄のように、 ただ七年とだけ記しているのは、 省試 ・ 殿試が開催された年に合わせた記述のためであろうが、そ れ で も 殿 試 開 催 は 五 月 で あ る た め ︶18 ︵ 、﹃ 宋 史 ﹄ な ど に あ る 十 二月とは合致しない。これについては何らかの誤りという 可能性もあるが、それよりも士籍そのものが最終的に完成 し、中央まで届けられた月が十二月であった、と捉えるべ きであろう。 では制度実施が咸淳六年からであったとして、発議その ものはいつだったのであろうか。これについては特定する こ と は で き な い が、 関 連 史 料 の 一 つ、 ﹃ 宋 季 三 朝 政 要 ﹄ で は咸淳六年の士籍作成の記事の冒頭を﹁馮夢得が中書舍人 と な っ て、 士 籍 を 置 く こ と を 請 う た ︶19 ︵ 。﹂ と 始 め て、 陳 伯 大 の建議につなげている。馮夢得が中書舍人となった時期は 景定五年︵一二六四年︶十二月であることか ら ︶20 ︵ 、士籍を作 成するという案自体は、この頃より存在していたのであろ う。そして実際に作成が決定されたのは、陳伯大の建議に よるが、全国的な実施であったことから考えても、咸淳六 年の数年前に建議があった、と考えるべきである。本文に ﹁後擧﹂とあるのを本当に次回の科挙からだとするならば、

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44 その前回科挙があった咸淳四年より前に建議があり、そし て作成が開始されたこととなる。 そして直接の建議者である陳伯大であるが、彼について は詳らかにしえず、その官歴についてはわずかに咸淳七年 五月の省試の際に守右正言兼侍講という肩書で詳定官を務 め た こ と が 分 か る 程 度 で あ る ︶21 ︵ 。 た だ し、 ﹃ 宋 史 ﹄ で は 賈 似 道の与党として挙げられていることか ら ︶22 ︵ 、士籍作成そのも のが賈似道の差し金であったことを予想させる。事実、そ の他の関連史料も実施者は賈似道としてい る ︶23 ︵ 。 そして士籍作成に到ったそもそもの理由としては、不正 多発が挙げられている。ここでは具体的な不正内容につい ては触れられていないが、関連史料では﹁解試は合格した が省試で筆跡が同じでない者がおり、また既に死んでいる 人 と 偽 っ て、 ︵ 彼 の 受 験 経 歴 を 利 用 し て ︶ 解 試 免 除 の 恩 典 を得ている者がい る ︶24 ︵ ﹂という事態があったことが記されて いる。この他の関連史料でも﹁この時、宰相の賈似道は挙 人 が み だ り に 多 い こ と を 患 え て い た ︶25 ︵ 。﹂ の が 士 籍 作 成 の 原 因ともしているが、具体的には単純な数というよりも、不 正受験者の数を問題にしているのであろう。もともと南宋 後 半 期 で は こ の よ う な 替 え 玉 受 験︵ 仮 手 ︶ が 横 行 し て お り ︶26 ︵ 、さらには南宋前半期の史料となるが﹁最近の受験者で 知州や知県の知人であることを利用して、不動産を一時的 に購入して、本貫を偽って受験する者、もしくは本貫では ない他処の士子でありながら、当該地の学校の教官に知州 が不正な命令を出して本貫だと保証させる、といったこと が あ る ︶27 ︵ 。﹂ な ど と あ る よ う に、 官 僚 と 結 託 し た 上 で 身 元 を 偽っての不正受験なども存在していた。無論、部分的な対 応策は採られつつも、結局は咸淳年間にまで不正は存在し つづけていたのであり、だからこそ次なる解決策として士 籍 作 成 が 提 案 さ れ て い る の で あ る。 す で に 南 宋 後 期 で は、 国 子 監 試 の 例 で は あ る が、 ﹁ 中 央 官 僚 に 命 じ て、 そ れ ぞ れ 宗支図三部を作成させ、誤っていたら罪に問うとして、尚 書省・御史台及び礼部に提出させた。その官僚が所属する 官司では簿籍を置き、保存して適宜確認する。⋮それで国 子 監 試 の 不 正 受 験 に 対 策 し た ︶28 ︵ 。﹂ と あ る よ う に、 言 わ ば 一 種の﹁士籍﹂を作成させて、本人確認を行っていた。この 咸淳六年の士籍制度はこれをさらに一般化させて、通常の 科挙の解試以前の段階から行い、様々な不正を根絶しよう とする試みであった。 Bでは士籍作成手続きについて記されている。まず作成 過程であるが、郷隣で戸を単位とした調査を行うのを始め とする。ここで言う戸とは明言はされていないものの、実 施をしていく際の手間から考えて、全戸対象というよりも 士人層の戸を念頭に置いたものであろう。そしてこの時の

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45 『癸辛雜識』「置士籍」考(村田) 調査内容としては、それ以前の制度で受験時に提出してい た家状の内容に相当するものが対象となるが、単なる家族 情報だけではなく、受験予定者が経義進士か詩賦進士かも 調べることにしている。そしてこの調査の後には、受験予 定者のみを抽出、当人が十五歳以上だったならば各保伍か ら報告していく。ここで出てくる各家の五、二十五⋮とい う部分は﹃周禮﹄に拠っているのであろう が ︶29 ︵ 、やや読みづ らい箇所でもある。だが南宋期の他の史料でも、この段階 性が郷隣内の戸の集合単位として利用されているのを確認 可能であるた め ︶30 ︵ 、ここでは下部から上部へと報告を上げて いく、という意味であろう。そして段階的に里正まで報告 していき、受験経験者の保証とともに士籍に登録する、と いう流れにな る ︶31 ︵ 。そのため、最終的には里正の責任が重大 と な る わ け だ が、 何 故 里 正 が 必 要 か、 と い う 理 由 と し て、 南宋期の登科録などにあるように、受験者の本籍地は州県 のさらに下の里まで把握されてい た ︶32 ︵ 、ということが挙げら れよう。すなわち、受験者が所属する最小単位は里以上で も以下でもないため、その当該受験者に対して保証するの は必然的に里正となるのである。また、以上から分かるこ ととして、士籍は確かに﹁籍﹂ではあるが、その登録は受 験予定者という個人が対象であり、また単なる自薦他薦で はなく郷隣全体での作成だということも確認できよう。 Cにあるのが士籍作成後の流れである。まず士籍は四部 を作成し、礼部以下各級にそれぞれ一本を送付・保管させ る。 特 に こ の 中 で も 県 は 提 出 を 承 け て 暦 を 当 人 に 発 送 し、 受験予定者はそれに家状を記入することとなっている。こ こで言う暦とは、咸淳年間の前より﹁解試合格の挙人はそ れぞれ地元の役所から帖をもらって後、 尚書省に赴いて暦 を給付してもらう。印紙の法のように、解試合格の年と年 齢・父祖の名・保証する官僚名を記させる。それを持って 礼 部 に 赴 く、 あ る い は 国 子 監 に 赴 き、 ︵ 試 験 を 受 け て、 も し不合格だった場合で条件に合致するならば︶将来の解試 免除や省試免除を記してもらい、殿試に到った場合でも同 じである。官僚となるのを待って、吏部に赴いて暦を返上 する。印紙に交換してもらい、差遣を与えられ、告身を給 付 さ れ る ︶33 ︵ 。﹂ と あ る よ う に、 解 試 合 格 者 が 持 つ 公 的 な 略 式 身分証明書として存在したものであり、それは﹁士人は暦 を得たならば、それを本人であるとの証拠とし、有司はそ れを用いて確認を行える。以前までいた替え玉受験者はし り ぞ け ず と も 自 ら い な く な る で あ ろ う ︶34 ︵ 。﹂ と あ る よ う に、 受験時に於ける本人確認のための文書としても存在してい た ︶35 ︵ 。士籍制度以前で暦を給付されていた該当者は解試合格 者であり、いわば官僚予備軍であったわけだが、今回の制 度変更によって、士籍登録手続きの一環として受験を予定

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46 している段階の者へ与えることとなった。 そしてこの暦に記載する家状については、詳しくは後掲 するが、これは﹁年齢及び受験回数・到達段階・本籍地を 記 す ︶36 ︵ 。﹂ ものであり、 また梅原郁氏が ﹁科挙の題名録その他、 多 く の 宋 代 の 簡 略 な 履 歴 書 の 標 準 的 な 形 式 と な っ て い る ︶37 ︵ ﹂ と 指 摘 し て い る よ う に、 こ の 他 に 父 祖 三 代、 存 命 か 否 か、 戸主なども記すものであったと思われる。ただしこの士籍 について記す関連史料では容貌についても記させたとある た め ︶38 ︵ 、 既 存 の 家 状 と は 異 な っ て い た 可 能 性 も あ る。 ま た、 これらの情報は暦に記載されるのみならず、士籍そのもの にも載せられていたであろう。確かに Bでは家族情報につ いては﹁取﹂という字でしか表現されていないため、士籍 に記載されたか不明瞭であるが、士籍作成への批判として ﹁太学生の蕭某の詞はこう言っている、⋮妻某氏を娶った、 試 験 問 題 は 妻 に ど う し て 関 係 し て い る の だ ろ う か、 と ︶39 ︵ 。﹂ とあって、受験予定者の家族構成などが士籍に載せられて いたことが分かる。そのため、ここから同一内容の情報が 士籍と暦の双方に記載されたと考えられる。また暦は受験 者に発送された後、受験時まで保持され、科挙が開かれた 際に持参することとなってい た ︶40 ︵ 。 ただし、 史料上 Cにもあるように、 そもそも家状とは﹁礼 部貢院は以下のように言った⋮今後は受験者にはみな自ら 出願させて、さらに試験用紙の上に自ら家状を書かせ︵受 験前に提出させ︶る。もし将来の試験と公巻︵受験前に提 出する平素の所業文︶とが全く異なっていたり、試験時の 文字と家状の書体が同じでなかったならば、みな不合格と す る ︶41 ︵ 。﹂ と あ る よ う に 科 挙 試 験 上 で は 題 名 録 作 成 の た め と い う よ り は、 筆 跡 確 認 の た め の も の と し て 機 能 し て い た。 つまりここから、士籍制度とは身元確認と同時に筆跡確認 の二重の本人確認、不正防止策が採られていたと言うこと ができる。 Dは国子監牒試と漕試の扱いについてである。国子監牒 試とは国子生の解試のこと。漕試とは複数あり、これは父 兄に従って本籍地を離れること二千里、試験官が親戚であ る、試験官の門客である、などの場合で転運司にて解試を 受験する別頭試、兵火などにより帰郷に不便な者を対象と した寓試などを指すものである。 そしてこれらの対象者の流れであるが、受験者はまず県 で確認をしてもらう必要がある。これ以前の規定でも﹁転 運司で受験をする者は各々所在の県から証明書をもらった 後にただちに転運司に赴いて出願す る ︶42 ︵ ﹂とあるため、この 部分だけを見れば、 ほとんど流れは変わっていないが、 ﹁官 僚子弟の牒試の問題として、不正受験者がいよいよひどく なってきており、官僚の中には、疎遠の親戚を無理矢理に

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47 『癸辛雜識』「置士籍」考(村田) 近い親戚として受験させている者がい る ︶43 ︵ 。﹂ など身元を偽っ ての不正受験が多発していたことを考えれば、士籍制度開 始によって、やはり一般受験と同じく、保伍での身元確認 などが前段階であったかと思われる。 Eは試験合格後についてであり、まず保伍の再編成が行 われる。ここでの﹁保伍﹂はいわゆる従来の連保制度、す なわち解試合格者によって相互保証を行うために編成され た も の を 意 味 し て い る 可 能 性 も あ る が、 ﹁ 重 ね て ﹂ 編 成 を 行った上で﹁取會﹂している点から見て、合格者の属する 五家からの情報確認を再度行う、といった意味だった可能 性も考えられる。いずれにせよ、煩雑ではあるが、繰りか えし調査を行うことで不正防止を図ったのは間違いあるま い。 以上、 B∼ Eの流れを枠を用いて図式化すると以下のよ うになる。なお、 Dについては全員が該当するわけではな いので、一段下げて表示した。 士籍制度下での受験手続き︵ B∼ E︶ B 士 人の戸を対象にした調 査 ←各家の戸貫、父と祖父の年齢、誰氏を娶ったか、兄 ←弟と子どもはいくらいるのかを調べる。受験勉強を ←している者がいた場合、それぞれの姓名、詩賦と経 ←義いずれが専門かも記入する 保 伍にて段階的に確 認 ←十五歳以上で受験を本当に予定している者を対象と ←して行い、最後は里正へと送る 里 正が受験経験者とともに連名で保 証 ←当人の受験履歴書に署名する 士 籍に登 録 C 士 籍を四部作 成 ←県・州・転運司・礼部にそれぞれ一部を送る 県 は受験予定者へ暦を発 送 ←受験予定者は家状を暦冒頭に書く ← D   漕試参加者の場合、暦を持って県に赴き確認し ←    てもらう 各 書類を持参の上、受 験

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48 E 解 試合格発表 後 ←保伍の再編成、再確認 省 試受験 へ Fにあるのが施行細則である。まず重要なのが新しく科 挙に参加する者も、上記と同様に士籍に登録することが命 じられている。ここから士籍というものは咸淳六年時のみ ならず、継続的に作成されることが想定されていたことが 分かる。 また服喪規定についても定められており、これは従来に 於いても﹁年長者の服喪期間でも三カ月が経てば受験を許 す ︶44 ︵ 。﹂ な ど と あ る よ う に 服 喪 内 は 一 定 期 間 内、 受 験 が 許 さ れないと決まっており、それは連保制度にて保証されるも の で あ っ た ︶45 ︵ 。 一 方 で こ の 士 籍 制 度 で は 喪 が 発 生 す る 度 に、 それを士籍に記載することが命じられているのであり、服 喪期間か否かが受験時の確認ではなく、常時把握されるよ うになったという点で、今までよりも細密な規定となって いる。 そして罰則についてであるが、違反者は﹁貢擧條例﹂に 従って処罰されるとある。これについては具体的には不明 であるが、北宋期では本貫取解規定違反者、すなわち身元 を偽った人間に対して ﹁もし規定の違反があったのならば、 本 籍 地 が な い が 故 の 受 験 を 保 証 し た 官 は 違 制 失 で 論 じ て、 受験者は試験場から引きずりだし、永遠に解試受験を禁止 し、 連 保 者 は 五 回 の 受 験 禁 止 と す る ︶46 ︵ 。﹂ と あ る よ う に 違 反 者は二度と受験ができなくなるよう定められていた。士籍 作 成 の 本 来 の 目 的 と し て 身 元 確 認 が 挙 げ ら れ て い る 以 上、 恐らくは北宋期のこれに類する処罰が下ったであろう。た だし注意しなくてはならないのは、この士籍制度では連帯 保証をした非士人まで処罰対象となっているという点であ る。これによって里正たちも保証をすることに責任を持つ ようになったわけであるが、これについては後述する。 Gは公布についてである。公布状況は他史料に於いても ﹁ 咸 淳 庚 午︵ 六 年 ︶ の 科 挙 で こ の 制 度 を 行 っ た ︶47 ︵ 。﹂ と あ り、 Aの分析でも引用したように﹁賈似道は毅然としてこの制 度 を 施 行 し た ︶48 ︵ 。﹂ と あ っ て、 決 し て 企 画 倒 れ で は な か っ た ことを示す。さらにいえばこれは御筆で施行されたもので あり、ここから政府・賈似道のもとで強力に推進されてい たことが分か る ︶49 ︵ 。だがその一方でこの施行に際して﹁察院 の陳文龍は上疏してなんとか施行を防ごうとしたが、果た せ な か っ た の で 大 理 少 卿 と な っ て 御 史 台 を 辞 職 し た ︶50 ︵ 。﹂ と あって、朝廷内部での批判が存在していたのも事実だった

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49 『癸辛雜識』「置士籍」考(村田) ようであ る ︶51 ︵ 。 以上が当該史料の分析となるが、次に考えたいのは、こ の 士 籍 作 成 と は 純 粋 な 科 挙 の 技 術 上 の 問 題 で あ っ た の か、 それとも何か政治的な背景があったのか、という点につい てである。これに関しては節を改めて検討する。 四、士籍作成の結果とその反応 今までで見てきたように、士籍とは解試受験時からの身 元確認、筆跡確認、複数回確認を行っての抜本的な不正対 策であった。そしてその結果として、当該史料には﹁この 時より士人に籍があることは、厳密に全国で行われ、もし 少しでも瑕疵があったならば、誰もみな科挙を通じての出 世 を 諦 め な け れ ば な ら な く な っ た ︶52 ︵ 。﹂ と あ る。 問 題 な の は ここで言う﹁瑕疵﹂とは一体何を指しているのか、という ことである。そこでまず当時の政治状況、士籍作成の推進 者であった賈似道について確認してみることにしよう。 推進者であった賈似道は当時、専権宰相として権力を掌 握し、進行中であった対蒙戦争に於いては、腹心の将軍で ある呂文德を要衝襄陽の防衛責任者に任命することで防衛 体制を整えていた。だが彼が咸淳五年に病死したことによ り、その構想は崩壊してしまい、以降賈似道は有効な戦略 を打ちだすことができなかったとされ る ︶53 ︵ 。だがその一方で 当時は、皇帝度宗に対して情報遮断をするなどして太平を 演出し、彼にとって不要な発言が生まれないよう気を使っ ていた時期でもあ る ︶54 ︵ 。 ︻史料一︼の B、 C、 Dで見てきたように、 士籍作成によっ て 受 験 予 定 者 は 常 時 詳 細 に 把 握 さ れ る こ と と な っ て い た。 無論、これは官僚子弟の動向も含んでいる。つまりここか ら、士籍とは科挙以外にも賈似道による党禁目的も存在し ていたのではないかと予想されう る ︶55 ︵ 。事実、関連史料では ﹁ 初 め て 士 籍 を 置 い た。 賈 似 道 は そ れ で 東 南 の 士 人 を 制 御 し よ う と し た ︶56 ︵ 。﹂ と い う 史 料 や﹁ 議 者 は、 士 籍 が 存 在 す る の は、 禁 と 何 が 違 う の か、 と 言 っ た ︶57 ︵ 。﹂ と い う 史 料 も 存 在 しており、党禁の思惑があったことを裏付けているように 感じられる。また、 Cや Gにもあるように、家族情報が調 査されることへの不満、朝廷内部からの批判、そして御筆 による強行といったことが確認できる。 だがやはりここで再確認しておきたいのは、 Aにもある ように、陳伯大の建議の中では士籍は純粋に科挙上のもの に留まっている、という点である。そもそも、士籍制度以 前にも受験者は家状の提出が定められていたことは前述し たが、その家状というものは、次に示す︻史料二︼にある よ う に、 士 籍 の 記 載 内 容 と 比 較 し て ほ と ん ど 違 い は な い。

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50 確かに家状と比較して、士籍には姻戚情報が追加されたの は事実であり、これが反発を招いたのかもしれない が ︶58 ︵ 、こ こから受験者の情報を把握した上で党禁を行っていくのは 困難であろう。 ︻史料二︼ 具 官 姓 名 男 或 孫 名︵ 餘 親 則 某 色 親、 異 姓 則 稱 姓 年 月、 下准此︶ 本貫某州縣郷里   某人爲戸 一、三代    曾祖某︵ 有官則云見任某官、亡則云故任某官、曾 封贈官者、仍云封或贈某官、無官則云未 仕、或故不任、祖父准此、餘式依此︶    祖某    父某 一、合家口參︵若偏侍則云合家口貳、父母 俱 亡、則云 合家口壹︶    父年若干︵亡則不開、母准此︶    母年若干︵有封贈、亦聲説︶    某年若干 右件狀如前、所供前項郷貫三代年甲、並皆詣實、如後 異同、甘伏 朝典、謹狀。   年   月   日   具官姓名男或孫   名   狀 ﹃慶元條法事類﹄巻十二薦擧式蔭補親族家狀 そしてこれの傍証となりうるのが、咸淳七年科挙の探花 となった陳鉞である。彼の科挙合格時の逸話として﹁咸淳 七年の科挙の三位である。殿試では剛直に主張し、時事問 題に適切であった。賈似道が権力を握り、陳鉞の依附を欲 して、あの手この手で懐柔しようとした。旧例では科挙に 合格したならば、陛下には表で感謝の言葉を、宰執には手 紙で挨拶をした。状元の張鎭孫が陳鉞を誘って一緒に賈似 道 へ の 手 紙 を 書 こ う と し た が、 毅 然 と し て 断 り、 ﹃ 天 子 が 自ら選んでくださったのだから、宰相にどうして感謝をし なくてはいけないのか﹄と言った。賈似道はこれを聞いて 不 愉 快 に 思 っ た ︶59 ︵ 。﹂ と い う 話 が 存 在 し て い る。 こ こ か ら 陳 鉞は合格以後に賈似道に﹁依附﹂しておらず、また賈似道 の不興を恐れていないことが分かる。探花となった人間で すらこのようであるのだから、党禁が存在していたと考え ることはできない。 つまり士籍作成とは当時横行していた不正への防止対策 で あ り、 純 粋 に 科 挙 の 技 術 上 の も の で あ っ た。 ﹁ 瑕 疵 ﹂ が 意味するものとは、身元上の問題で受験ができない者を指 していたのであり、前述したように不正受験者が多数存在 していた以上、 不満が出てくるのはある意味当然であろう。

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51 『癸辛雜識』「置士籍」考(村田) そして彼らが排除されたとある以上、士籍作成の本来の目 的は十分に果たされたと言えるが、一方で人々は前掲した ように士籍に対して党禁を招くものと予想した、というの が真相だと思われる。元初の成書だと考えられる﹃宋季三 朝政要﹄でも賈似道が行った士籍が人心を失った一因とさ れ、ひいては南宋滅亡の遠因ともされてい る ︶60 ︵ 。結果論とし ても党禁があったというよりも、輿論紛糾で人心を失った というのが、士籍のもたらした政治史上の結果であったの であ る ︶61 ︵ 。 五、科挙社会史上の位置づけ 前節までで見てきたように政治上で混乱をもたらしつつ も、 科挙の不正対策としては、 士籍は有効に機能していた。 だが、咸淳六年といえば首都臨安が元軍に対して開城する 四年前であり、当然のことながら、この士籍制度も間に二 回の科挙をはさみつつも南宋政権とともに消滅したと考え られる。ならば士籍制度とは科挙社会史上に於いてほとん ど何の意味も残さなかったのであろうか。そこで本節では その位置づけを考えていくことにしたい。 ここで注目したいのは士籍制度に於いて保証をする人々 の 存 在 で あ る。 ︻ 史 料 一 ︼ の Fに あ る よ う に、 士 籍 の 保 証 をするのは里正など郷隣の人々であり、違反があれば連帯 処罰されると明記されている。それ以前では受験者の人的 保証をするのは原則としては官僚か同じ受験者同士による 連保制度であ り ︶62 ︵ 、試験の前に郷隣の人々に受験者の確認を することはあった が ︶63 ︵ 、科挙開始前にあらかじめ連帯保証を しておくというのは士籍制度によって初めて行われたこと である。これは南宋中期を生きた朱熹の言葉として﹁もし 一二人を捕まえて、真に厳しく罰したならば、誰が規定を 犯すだろうか。このことは受験者同士による保伍中より行 うのが良いが、むしろ保正や社首といった地域の長より保 明状を求め、五家を単位として保として、互いに保証させ る の が 良 い。 も し 当 人 が 優 秀 な 受 験 者 で な か っ た な ら ば、 保の中に入れてはいけない。もし名前を偽って二人分三人 分の受験をしようという者を捕まえ、保証人を厳しく罰す る よ う に す れ ば、 誰 が 規 定 を 犯 す だ ろ う か ︶64 ︵ 。﹂ と あ る こ と からも、郷隣の人々は連帯保証のような形で科挙に関わっ てはいなかったことが裏付けられ、そしてもしそれをする ならば、規定を遵守させるのに有効である、と認識されて い た こ と が 分 か る。 事 実、 北 宋 期 の 史 料 と な る が、 ﹁ 解 試 合格者は首都開封に到着して、はじめて保をつくるが、身 元 を 偽 っ た り、 不 利 な 経 歴 を ご ま か し た り し て い る ︶65 ︵ 。﹂ と いう報告があるように、受験者同士による連保制度という

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52 ものは、不正受験者だけで互いに保証しあっている可能性 を排除しきれない。であるからこそ、士籍制度が有効に機 能した要因を、郷隣の人間を保証制度に組みこんだ、とい う点に見いだすことが可能であろう。また、あくまで想像 となってしまうが、この朱熹の提案が科挙問題の解決案と して広まり、咸淳年間の士籍に影響を与えた、という可能 性も指摘できよう。ただし、これについては後考に期した い。 この他に着目するべき点として、関連史料にある士籍制 度への批判詞﹁郷隣は誰かを上へ挙げる際に、連帯保証を し な く て は い け な い が、 口 を 開 け ば 銭 の こ と ば か り だ ︶66 ︵ 。﹂ という部分である。すなわち、郷隣の人々は受験者を連帯 保証する際に一定程度の心づけを求めていたのである。無 論、これは士籍制度への批判として存在している史料であ るため、これがどこまで正確に実態を反映しているのかは 不明である。とはいえ、すでに官戸となっている家を相手 にするのならばともかく、無位無官でこれから受験をしよ うという人間に対して、里正などから何らかの要求があっ たとしても不思議ではない。 や は り 朱 熹 の 言 葉 と な る が、 ﹁ お 上 は 明 ら か に 盗 賊 扱 い を 士 人 に し て い る ︶67 ︵ 。﹂ と あ る よ う に、 官 は す で に 受 験 者 へ の信頼を喪失していた。今回の士籍登録での保証は、問題 対策を官単独で行うのを諦め、 ﹁盗賊﹂ 同士の保証に加えて、 郷隣の人間による保証も必要とするようになった点が画期 的である。そしてこのように、士籍に登録される、すなわ ち士人であると認定される、というのは先述したように決 して科挙が開催されるたびに行われるのではなく、不断に 更新されていくものであった。もし南宋政権がさらに延命 していたのならば、これは宋代科挙制度史上、一大転換点 となっていたであろうが、これは言いかえるならば、この 制度のもとで士人は継続的に郷隣の人々からの保証のもと で、公的に士人たりえたのであり、士人仲間の内側だけで はそれは不可能であったということになる。士人と郷隣の 人 々 と の 間 に 金 銭 的 な 授 受 が あ っ た か ど う か は と も か く、 この士籍制度を成立させうる両者の関係というものには注 意するべきである。 そして当然のことながら、この南宋末期の社会は王朝が 代わろうとも継続したはずであり、元初に於いてもその実 体は同様であったと考えられる。例として元代に存在した 儒籍の作成経緯が挙げられ る ︶68 ︵ 。これは士籍のような科挙受 験を念頭に置いたものとは異なり、徭役に関するものであ るため、両者の単純な連続性を見てとることには慎重であ るべきだが、その経緯については関係する部分がある。至 元二十八年︵一二九一年︶に記された、平江路一帯での儒

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53 『癸辛雜識』「置士籍」考(村田) 籍状況について﹃廟學典禮﹄儒戸照抄戸手收入籍には﹁至 元十四年には儒籍があったが、 元朝に帰附した当初であり、 官庁は出来たばかりで十分ではなく、ただ区域内の里正ら が 報 告 し て き た 書 類 に 基 づ い て い る ︶69 ︵ 。﹂ と あ っ て、 こ こ か ら南宋政権が滅亡したその翌年には儒者の名簿である儒籍 が完成していたが、それは士籍作成と同じく里正などの報 告に拠っていたものであった、ということが分かる。この 他、儒籍とは異なる部分でも例を挙げることができる。至 元 十 九 年︵ 一 二 八 二 年 ︶、 新 た に 江 南 領 域 を 獲 得 し た 元 朝 は元南宋官僚を登用していくことを考えたが、その際に官 歴がないのにそれを偽った人間が多数出現するといった事 態に悩まされた。そこで如何に彼らの身分を確認するかと いう問題について、集賢直學士兼秘書少監であった程鉅夫 は ︻史料三︼ 取會江南州縣城郭郷村鄰甲、保明詣實元在亡宋有官人 員姓名、一 槩 置籍、明書本人郷貫三代及入仕根脚、⋮ 遇有求仕者、合與行下本郡、令郷都鄰甲保明本人是何 出身。 ︵﹁江南の州県城郭郷村鄰甲に問いあわせて、今 は亡き宋朝の時に官僚であった人間の姓名を保証させ た上で、全員を登録し、本人の本籍地と三世代の祖先 及び入仕にいたった経緯を明書し、⋮登用されること を 求 め る 者 が い た な ら ば、 所 属 の 州 に 文 書 を 送 っ て、 郷都鄰甲に本人が何の出身であるかを保証させる。 ﹂︶ 程鉅夫﹃雪樓集﹄巻十、吏治五事、取會江南仕籍 と上奏し、朝廷によって採用され た ︶70 ︵ 。ここでもやはり元官 僚、すなわちほぼ同義としての士人の身元確認・保証を郷 隣の人間に拠っていたことが分かる。 これらの例より、士人の保証は士人ではなく、郷隣の人 間が行う、このような両者の関係性が南宋末から継続して いることを確認できる。確かに、士籍制度そのものは南宋 とともに消滅したため、科挙受験時に郷隣の保証が必要と い う こ と は な く な っ た が、 両 者 の 関 係 性 は 継 続 し て お り、 まさに士籍制度とは、この宋末元初の社会様相を切りとっ たものだったのである。 六、終わりに 前 節 ま で で 分 析 し て き た﹃ 癸 辛 雜 識 ﹄﹁ 置 士 籍 ﹂ は す で に見てきたように、科挙関係はおろか、全面的に史料の少 な い 南 宋 最 末 期 を 伺 う こ と の で き る 貴 重 な 史 料 と 言 え る。 そして本稿は当該史料を分析し、以下の知見を得たと考え る。すなわち、士籍制度は不正受験者を排除することを目 標としたものであり、これは有効に機能した。だが、人々

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54 はこれに対して主導者の賈似道による党禁を予想したため に輿論が紛糾し、 これが人心を失った要因の一つとなった。 そして士籍作成過程の重要な要素として、郷隣の人々によ る連帯保証が挙げられるが、このような士人と郷隣の人々 との関係性は宋代を越えて元代にまで確認することができ る。 はじめにで述べたように、科挙制度はそれ自体が存在し ている社会と密接な関係性を有している。今回見た士籍も 朱熹の言葉にあるように、郷隣の人々による保証が必要と されている社会に登場したものであり、それが士籍制度が 有効に機能した要因でもあった。だがこれまで士人自らが 相互に保証していた、いわば官に準じる人々が超郷隣的に 果たしてきたその役割を郷隣に譲り、士人はより郷隣に密 着していく、という傾向は一体何を指すのだろうか。すで に 南 宋 期 の 士 人 社 会 を 論 じ る 際 に 北 宋 期 と の 対 比 と し て、 より士人が地域化していくとされてい る ︶71 ︵ 。無論、このよう な一般化論に対して様々な形での批判があるのも事実であ る が ︶72 ︵ 、それでも我々が史料を読む際に両宋で明らかな違い を感じるのもまた事実であり、そして今回扱った史料も士 人の地域化を裏付けているように感じられる。すでに地域 社 会 内 に 於 け る 士 人 の 立 場 に つ い て は 多 く の 研 究 が あ り、 特に﹃清明集﹄の分析によって彼らの立場はかなり明らか となりつつあ る ︶73 ︵ 。とはいえ、繰りかえしとなるが、南宋後 半期については史料的限界から明らかとなっていない部分 が多い。今回得られた新知見は当時の郷隣社会を考える新 たな手掛かりとなりうる。 しかしながら、上述した傾向が果たしてどれだけ一般的 であったのか、そもそもこの傾向は何によって引きおこさ れたのかについては、本稿にて明らかにしえなかった。ま た、元代についても軽く触れることはできたが、やはりか かる傾向の中国史上での連続性については、本格的な検討 は行えなかった。これらについては今後の課題としたい。   注 ︵ 1︶   宮 﨑 市 定﹁ 科 挙 史 ﹂︵ 同﹃ 宮 﨑 市 定 全 集 ﹄ 第 十 五 巻、 岩 波 書 店、 一 九 九 三 年、 所 収、 初 出 は﹃ 科 挙 ﹄、 秋 田 屋、 一 九四六年︶ ︵ 2︶   荒 木 敏 一﹃ 宋 代 科 挙 制 度 研 究 ﹄︵ 東 洋 史 研 究 会、 一 九 六 九年︶など。 ︵ 3︶   Thomas H.C. L ee,

Government Education and the Examina

-tions in Sung China

, Hong K

ong, The Chinese University

Pr ess, 1 98 5.  H ilde D e W eer dt, C om pe ti ti on ove r C on te nt :

Negotiating Standards for the Civil Service Examinations in I

m -perial China 1127 -1279 ︶, Cambridge, Har var d University Asia Center , 2007. な ど を 参 照 の こ と。 ま た、 近 藤 一 成 氏 は

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55 『癸辛雜識』「置士籍」考(村田) ﹃ 宋 代 中 国 科 挙 社 会 の 研 究 ﹄︵ 汲 古 書 院、 二 〇 〇 九 年 ︶ 四 頁 に て 科 挙 が 社 会 の 流 動 化 を も た ら し た こ と、 大 量 に 存 在 し た 落 第 者 を 納 得 さ せ た 仕 組 み が あ っ た こ と を 指 摘 し つ つ、 ﹁ 伝 統 社 会 体 制 の 再 生 産 シ ス テ ム に 科 挙 が 組 み 込 ま れ て い ﹂ た こ と を 指 摘 し て い る。 こ の よ う に、 近 年 で の 宋 代 科 挙 研 究 は そ の 多 く が 広 範 囲 な 視 点 を 持 っ た 研 究 と な っ て お り、 むしろ制度史面での研究は減少しつつある。 ︵ 4︶   何 忠 礼﹁ 科 挙 制 度 与 宋 代 文 化 ﹂︵ 同﹃ 科 挙 与 宋 代 社 会 ﹄、 商務印書館、二〇〇六年、所収、初出は一九九〇年︶ ︵ 5︶   周 密 の 卒 年 に つ い て は 大 德 二 年︵ 一 二 九 八 年 ︶ と 至 大 元 年︵ 一 三 〇 八 年 ︶ の 二 説 が 存 在 し て い る。 詳 し く は 何 忠 礼 ﹁周密卒年献疑﹂ ︵鄧広銘 ・ 王雲海 [主編] ﹃宋史研究論文集﹄ 、 河南大学出版社、一九九三年、所収︶を参照のこと。 ︵ 6︶   夏 承 燾﹃ 唐 宋 詞 人 年 譜 ﹄︵ 中 華 書 局、 一 九 六 一 年 ︶ 三 二 七頁 ︵ 7︶   ﹃宋史翼﹄巻三十四、本伝 ︵ 8︶   南 宋 期 の 杭 州 に つ い て は 梅 原 郁﹁ 南 宋 臨 安 坊 廂 橋 梁 図 ﹂、 同﹁ 南 宋 臨 安 官 署 軍 営 官 宅 図 ﹂︵ 梅 原 郁[ 編 ]﹃ 中 国 近 世 の 都 市 と 文 化 ﹄、 京 都 大 学 人 文 科 学 研 究 所、 一 九 八 四 年、 別 刷 附 図 ︶ が 参 考 と な る が、 癸 辛 街 に つ い て は 記 載 さ れ て い な い。 そ こ で﹃ 西 湖 遊 覧 志 ﹄ 巻 十 三、 南 山 分 脉 城 内 勝 蹟 に あ る﹁ 自 井 亭 橋 而 北、 過 甘 泉 坊、 至 清 湖 橋。 其 街 之 東 爲 洪 福 橋・ 鞔 鼓 橋・ 馬 家 橋。 西 爲 鮑 生 姜 巷・ 清 風 坊・ 清 河 坊・ 癸 辛 街。 ﹂ と い う 記 述 と 合 わ せ る こ と に よ っ て そ の 位 置 を 判断した。 ︵ 9︶   前注 6の夏著作に拠る。 ︵ 10︶   ﹃ 陔 餘 叢 考 ﹄ 巻 四 十 一、 葉 夢 得 周 草 窗﹁ 其 立 論 多 爲 似 道 訟冤。想平日亦嘗受似道之盼 睞 故耳。 ﹂ ︵ 11︶   ﹃ 越 縵 堂 日 記 ﹄ 咸 豊 戊 午︵ 一 八 五 八 年 ︶ 六 月 十 八 日﹁ 至 似道專盜陷害事、言之不一、何嘗有掩諱迹耶。 ﹂ ︵ 12︶   朱 存 理﹃ 珊 瑚 木 難 ﹄ 巻 五、 弁 陽 老 人 自 銘﹁ 景 定 限 民 田、 毘 陵 數 最 夥、 朝 命 往 督 之、 至 則 除 其 浮 額 十 之 三、 大 忤 時 宰 意、禍且不測。會母病、即日歸養醫藥。 ﹂ ︵ 13︶   何忠礼 ﹁従 ︽齊東野語︾ 一書看周密的反理学傾向﹂ ︵同 ﹃科 挙 与 宋 代 社 会 ﹄、 商 務 印 書 館、 二 〇 〇 六 年、 所 収、 初 出 は 一九九八年︶ ︵ 14︶   該 当 部 分 に て、 中 華 書 局 本 は﹁ 子 孫 若 憑 所 書 年 甲 ﹂ と す る が、 ﹁ 子 孫 若 ﹂ の 三 字 を 校 勘 記 に て﹁ 義 長 ﹂ と し て い る。 ここでは四庫本に従い、この三字を削った。 ︵ 15︶   当 該 史 料 は 引 用 し た 制 度 面 で の 記 述 の 後 に、 世 間 の 反 応 を 載 せ て い る が、 行 論 の 関 係 上 こ こ で は 省 略 し、 以 下 で 適 宜引用していくこととする。 ︵ 16︶   ﹃ 宋 史 ﹄ 巻 四 十 六、 度 宗 本 紀 咸 淳 七 年 十 二 月 辛 亥・ ﹃ 通 鑑 續編﹄巻二十四咸淳七年十二月 ︵ 17︶   ﹃ 錢 塘 遺 事 ﹄ 巻 六、 繫 籍 秀 才・ ﹃ 宋 季 三 朝 政 要 ﹄ 巻 四。 な お、 後 者 で は 同 巻 咸 淳 九 年 の 部 分 で も 士 籍 の 記 事 が 記 載 さ れ て い る が、 六 年 の 記 事 と 簡 略 で は あ り つ つ も ほ ぼ 同 内 容 で あ る。 恐 ら く で は あ る が 九 年 に も 同 じ く 士 籍 制 度 が 行 わ れたための重出であろう。 ︵ 18︶   ﹃宋史﹄巻四十六、度宗本紀咸淳七年五月乙酉

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56 ︵ 19︶   ﹃ 宋 季 三 朝 政 要 ﹄ 巻 四、 咸 淳 六 年﹁ 馮 夢 得 中 書 舍 人、 請 置士籍。 ﹂ ︵ 20︶   ﹃ 南 宋 館 閣 續 錄 ﹄ 巻 七、 官 聯 一 に は 馮 夢 得 が 景 定 五 年 十 二 月 に 秘 書 丞 兼 直 舍 人 院 兼 權 侍 右 郎 官 と な っ た こ と が 記 さ れ て い る。 前 注 19に あ る よ う に、 ﹃ 宋 季 三 朝 政 要 ﹄ で は 馮 夢 得 が 就 い た の を 中 書 舍 人 と す る が、 こ れ は﹃ 建 炎 以 來 朝 野 雜 記 ﹄ 乙 集 巻 十 三、 直 舍 人 院 に あ る と お り、 南 宋 後 期 で は同じものを指している。 ︵ 21︶ 劉壎﹃隱居通議﹄巻三十一 ︵ 22︶   ﹃ 宋 史 ﹄ 巻 四 十 七、 瀛 國 公 本 紀 德 祐 元 年︵ 一 二 七 五 年 ︶ 三月丙子 ︵ 23︶   ﹃通鑑續編﹄巻二十四・ ﹃西湖遊覽志餘﹄巻五など。 ︵ 24︶   ﹃ 錢 塘 遺 事 ﹄ 巻 六、 繫 籍 秀 才﹁ 有 發 解 過 省 而 筆 迹 不 同 者、 有冒已死人解帖免擧者⋮﹂ ︵ 25︶   ﹃宋季三朝政要﹄巻四﹁時賈相患擧人猥衆。 ﹂ ︵ 26︶   例として﹃宋史全文﹄巻三十二、 端平二年︵一二三五年︶ 正 月 辛 亥﹁ 詔 曰、 國 家 進 士 之 科、 得 人 爲 盛。 比 年 場 屋、 循 習 寛 縱、 易 卷 假 手 傳 義 之 弊、 色 色 有 之、 深 恐 真 才 實 能 無 以 自 見。 ⋮﹂ 、 同 書 巻 三 十 六 景 定 五 年 八 月 甲 辰﹁ 詔、 壬 戌 別 院 董 試、 臺 臣 縱 游 士 假 手、 物 論 喧 嘩。 今 春 銓 闈 復 然、 尤 爲 無忌。⋮﹂などが挙げられる。 ︵ 27︶   ﹃ 建 炎 以 來 繫 年 要 錄 ﹄ 巻 一 六 三、 紹 興 二 十 有 二 年︵ 一 一 五 二 年 ︶ 十 有 二 月 癸 酉﹁ 近 士 子 有 因 守 令 親 識、 旋 置 田 産、 臨 時 便 作 本 貫 應 擧、 或 守 臣 直 以 他 處 士 子 姓 名、 冒 令 教 官 以 次保明。 ﹂ ︵ 28︶   ﹃ 宋 史 ﹄ 巻 一 五 六、 選 擧 志 二﹁ ︵ 寶 祐 四 年 ︶ ⋮ 命 在 朝 之 臣 ⋮ 各 具 三 代 宗 支 圖 三 本、 結 立 罪 狀、 申 尚 書 省・ 御 史 臺 及 禮 部、所屬各置簿籍、存留照應⋮以革胄牒冒濫之弊。 ﹂ ︵ 29︶   ﹃ 周 禮 ﹄ 地 官 大 司 徒﹁ 令 五 家 爲 比、 使 之 相 保。 五 比 爲 閭、 使之相受。 ﹂ ︵ 30︶   黄 榦﹃ 勉 齋 集 ﹄ 巻 二 十 二、 漢 陽 條 奏 便 民 五 事﹁ 臣 嘗 爲 臨 川 令、 當 開 禧 用 兵 之 後、 隅 官 之 法 未 盡 廢。 其 法 以 五 家 爲 一 小 甲、 五 小 甲 爲 一 大 甲、 四 大 甲 爲 一 團 長、 一 里 之 内、 總 數 團 長 爲 一 里 正。 一 郷 之 内、 總 數 郷 官 爲 一 隅 官、 一 縣 之 地 分 爲四隅、 毎隅之内總數郷官爲一隅官。以察姦慝、 以護郷井。 行 之 三 年、 人 以 爲 便。 ﹂ な お、 こ の 上 奏 文 は 版 本 間 で そ れ ぞ れ で 微 妙 な 差 異 が あ る が、 こ こ で は 元 祐 二 年 重 修 本 に 拠 っ た と い う﹃ 全 宋 文 ﹄ 巻 六 五 二 六 に 載 せ ら れ て い る も の に従った。 ︵ 31︶   里 正 と は 村 落 の 長 に 相 当 す る 職 役 の こ と。 そ の 本 来 的 な 任 務 は 催 税 で あ り、 村 落 内 の 有 力 者 が こ れ に 当 た っ た。 し か し な が ら そ の 負 担 が 重 か っ た た め に 破 産 す る 者 が 続 出 し、 至 和 二 年︵ 一 〇 五 五 年 ︶ に 公 的 に は 廃 止 さ れ て い る。 だ が 北 宋 中 期 以 降 も 基 本 二 百 五 十 戸 を 以 て 組 織 さ れ る 都 保 の 長 で あ る 保 正 を 里 正 と 呼 ぶ 例 が 存 在 し て お り、 こ こ で 言 う 里 正 と は 保 正 を 意 味 し て い る 可 能 性 も あ る。 し か し 高 橋 芳 郎﹁ 宋 代 の 士 人 身 分 ﹂︵ 同﹃ 宋 │ 清 身 分 法 の 研 究 ﹄、 北 海 道 大 学 図 書 刊 行 会、 二 〇 〇 一 年、 所 収、 初 出 は﹁ 宋 代 の 士 人 身 分 に つ い て ﹂、 ﹃ 史 林 ﹄ 六 九 │ 三、 一 九 八 六 年 ︶ が 述 べ て い る よ う に、 た と え 挙 人 身 分 で あ っ て も 丁 役 は 免 除 さ れ

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57 『癸辛雜識』「置士籍」考(村田) る が、 保 正 の よ う な 戸 役 が 免 除 さ れ る わ け で は な い。 そ の た め、 こ の 里 正 を 保 正 と す る と 両 立 し か ね ず、 保 証 の 実 が 失 わ れ て し ま う。 そ の た め、 こ こ で い う 里 正 は そ れ よ り 抽 象 的 に、 一 定 地 域 内 で の 長 と い う 意 味 で あ ろ う。 里 正 に つ い て 詳 し く は 周 藤 吉 之﹁ 宋 代 郷 村 制 の 変 遷 過 程 ﹂︵ 同﹃ 唐 宋 社 会 経 済 史 研 究 ﹄、 東 京 大 学 出 版 会、 一 九 六 五 年、 所 収、 初出は一九六三年︶を参照のこと。 ︵ 32︶   現 存 す る 南 宋 登 科 録 は 紹 興 十 八 年︵ 一 一 四 八 年 ︶ の と 寶 祐 四 年︵ 一 二 五 六 年 ︶ の 二 つ が あ り、 例 と し て 前 者 の 第 一 位、 状 元 で あ っ た 王 佐 は 紹 興 府 山 陰 県 禹 会 郷 広 陵 里 の 人 間 と記されている。 ︵ 33︶   ﹃ 吏 部 條 法 ﹄ 印 紙 門︵ ﹃ 永 樂 大 典 ﹄ 巻 一 四 六 二 六、 第 三 十 葉 表 ︶ 侍 郎 左 右 選 通 用 申 明、 寶 祐 二 年 十 一 月﹁ 應 擧 發 解 士 人、 各 從 所 司 給 帖、 赴 省 給 曆。 如 印 紙、 批 書 發 解・ 年 甲・ 三 代・ 保 官。 執 赴 禮 部、 或 赴 國 子 監、 批 書 將 來 免 解 免 省、 到 殿 亦 如 之。 候 出 官 日、 赴 吏 部 繳 納。 換 給 印 紙、 以 憑 注 闕 給告。 ﹂ ︵ 34︶   ﹃ 宋 史 ﹄ 巻 一 五 六、 選 擧 志 二﹁ 寶 祐 二 年 ⋮ 士 子 得 曆 可 爲 據證、有司因曆可加稽驗。日前僞冒之人、可不却而自遁。 ﹂ ︵ 35︶   た だ し 暦 は 科 挙 受 験 者 に の み 関 係 す る も の で は 決 し て な い。 中 国 歴 史 大 辞 典・ 宋 史 巻 編 纂 委 員 会[ 編 ]﹃ 中 国 歴 史 大 辞 典・ 宋 史 巻 ﹄︵ 上 海 辞 書 出 版 社、 一 九 八 四 年 ︶ 二 十 八 頁 で は 汪 聖 鐸 氏 に よ る﹁ 暦 ﹂ の 説 明 と し て﹁ 各 事 務 類 を 登 記 し て 記 録 と し、 以 後 の 調 査 に 備 え る た め の 文 書 の 総 称 の こと。 ﹂ とし、 また中嶋敏 [編] ﹃宋史選擧志譯註 ︵一︶ ﹄︵東 洋文庫、 一九九一年︶五頁には﹁暦紙﹂の説明として、 ﹁﹁印 暦 ﹂ と と も に﹁ 印 紙 暦 子 ﹂ の 略 称 で、 官 員 の 勤 務 日 誌 の こ と。 ﹂ と す る。 た だ 官 員 に と っ て、 実 際 に は 単 な る 勤 務 記 録 に 留 ま ら ず、 身 分 証 明 書 的 な 意 味 も 有 し て い た 点 で は 同 じ で あ る。 ﹃ 宋 會 要 輯 稿 ﹄ 職 官 八 之 十、 建 炎 四 年︵ 一 一 三 〇 年 ︶ 二 月 二 十 八 日 に は、 靖 康 の 変 に よ る 混 乱 を 承 け て の 対応として、 ﹁臣僚言、近來州軍多有官員於他處毀失告身 ・ 料 曆、 召 到 保 官、 難 以 檢 察。 欲 乞 令 保 官 同 齎 印 紙 赴 長 吏 廳 批 書、 仍 於 保 狀 内 結 除 名 罪。 從 之。 ﹂ と あ っ て、 こ の 場 合 は そ の 官 員 の 俸 給 が 記 さ れ て い た 料 暦 が、 告 身 と 並 ん で 扱 わ れ て お り、 官 員 と し て の 身 分 を 証 明 す る 機 能 を 果 た し て い る。 こ れ ら に つ い て は 小 林 隆 道﹁ 官 の 化 体 │ 宋 代 告 身 の 紛失と再発給│﹂ ︵同﹃宋代中国の統治と文書﹄ 、 汲古書院、 二 〇 一 三 年、 所 収、 初 出 は 二 〇 一 二 年 ︶、 お よ び 魏 峰﹁ 宋 代 印 紙 批 書 試 論 │ 新 発 見 の〝徐 謂 礼 文 書 〟を 例 と し て ﹂︵ ﹃ 史 滴﹄三十五、二〇一三年︶などを参照のこと。 ︵ 36︶   ﹃宋史﹄巻一五五、 選擧志一﹁署年及擧數、 場第、 郷貫。 ﹂ ︵ 37︶   梅 原 郁﹃ 宋 代 官 僚 制 度 研 究 ﹄︵ 同 朋 舎、 一 九 八 五 年 ︶ 四 九 三 頁。 ま た、 中 嶋 敏 氏 も 家 状 が 同 年 小 録 の も と と な っ て い る と い う 認 識 を 示 し て い る。 ︵﹁ 宋 進 士 登 科 題 名 録 と 同 年 小 録 ﹂、 同﹃ 東 洋 史 学 論 集 続 編 ﹄、 汲 古 書 院、 二 〇 〇 二 年、 所収、初出は一九九四年︶ ︵ 38︶   ﹃西湖遊覽志餘﹄巻五﹁親書年貌世系及所肄業于曆首⋮﹂ ︵ 39︶   ﹃ 錢 塘 遺 事 ﹄ 巻 六、 繫 籍 秀 才﹁ 太 學 生 蕭 某 有 詞 云 ⋮ 娶 妻 某氏、試問於妻何與焉。 ﹂

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58 ︵ 40︶   ﹃西湖遊覽志餘﹄巻五には暦を﹁執以赴擧﹂とある。 ︵ 41︶   ﹃ 宋 會 要 輯 稿 ﹄ 選 擧 三 之 七、 景 德 二 年 十 二 月 五 日﹁ 禮 部 貢 院 言 ⋮ 請 自 今 並 令 親 自 投 納、 仍 於 試 卷 上 親 書 家 狀。 如 將 來程試與公卷全異、 及所試文字與家狀書體不同、 並駁放之。 ﹂ ︵ 42︶   ﹃ 宋 史 ﹄ 巻 一 五 六、 選 擧 志 二﹁ 嘉 煕 元 年︵ 一 二 三 七 年 ︶ ⋮試于轉運司、各從所寓縣給據徑赴司納卷⋮﹂ ︵ 43︶   ﹃ 宋 史 ﹄ 巻 一 五 六、 選 擧 志 二 に あ る 嘉 煕 年 間 後 半︵ 一 二 三 九、 一 二 四 〇 年 ︶ の 記 事﹁ 臣 僚 言、 國 子 牒 試 之 弊、 冒 濫 滋甚、在朝之士有 强 認疎遠之親爲近屬者。 ﹂ ︵ 44︶   ﹃ 宋 會 要 輯 稿 ﹄ 職 官 一 三 之 三、 煕 寧 三 年︵ 一 〇 七 〇 年 ︶ 十一月二十一日﹁詔貢院、聽期喪滿三月者應擧。 ﹂ ︵ 45︶   解 試 受 験 時 に 連 保 し て は な ら な い 人 間 と し て﹁ 令 試 于 州 者 相 保 任。 所 禁 有 七、 曰 隱 憂 匿 服、 曰 嘗 犯 刑 責、 曰 行 虧 孝 弟 有 状 可 指、 曰 明 觸 憲 法、 兩 經 贖 罰、 或 不 經 贖 罰 而 爲 害 郷 黨、 曰 籍 非 本 土 假 戸 冒 名、 曰 父 祖 犯 十 惡 四 等 以 上 罪、 曰 工 商 雜 類、 或 嘗 爲 僧 道。 皆 不 得 預。 ﹂︵ ﹃ 續 資 治 通 鑑 長 編 ﹄ 巻 一 四 七、 慶 曆 四 年 三 月 乙 亥 ︶ が 挙 げ ら れ て お り、 服 喪 中 で あ る こ と を 隠 し て い る 人 間 は 保 証 さ れ な い、 す な わ ち 受 験 で き な か っ た。 ま た、 当 然 服 喪 以 外 の 受 験 禁 止 者 に つ い て も、この士籍作成の時点で確認されていたであろう。 ︵ 46︶   ﹃宋會要輯稿﹄選舉一五之七 ・ 八、 天聖七年︵一〇二九年︶ 十一月十九日﹁如有違犯、 保官以違制失論、 擧人勒出科場、 永不得取應、同保者殿五擧。 ﹂ ︵ 47︶   ﹃錢塘遺事﹄巻六、繫籍秀才﹁咸淳庚午科、已行之矣。 ﹂ ︵ 48︶   ﹃西湖遊覽志餘﹄巻五﹁似道毅然行之。 ﹂ ︵ 49︶   御 筆 に つ い て は 徳 永 洋 介﹁ 宋 代 の 御 筆 手 詔 ﹂︵ ﹃ 東 洋 史 研 究 ﹄ 五 七 │ 三、 一 九 九 八 年 ︶、 お よ び 方 誠 峰﹃ 北 宋 晩 期 的 政 治 体 制 与 政 治 文 化 ﹄︵ 北 京 大 学 出 版 社、 二 〇 一 五 年 ︶ 第 四章﹁徽宗朝的権力結構﹂に詳しい。 ︵ 50︶   ﹃ 癸 辛 雜 識 ﹄ 別 集 下、 置 士 籍﹁ 察 院 陳 文 龍 上 疏 頗 有 沮 抑 之意、遂以理少出臺。 ﹂ ︵ 51︶   た だ し 彼 が 言 職 を 免 ぜ ら れ た こ と は﹃ 癸 辛 雜 識 ﹄ 同 巻 襄 陽 始 末 に も 載 せ ら れ て い る の だ が、 そ の 原 因 は 襄 陽 戦 に 関 し て の こ と で あ る。 そ の た め こ れ ら の 情 報 を 総 合 す れ ば、 彼 が 台 諌 を 辞 め る 契 機 と し て は 士 籍 作 成 が 伏 線 と し て あ っ たのであろうが、 より直接的には襄陽戦についてであろう。 ︵ 52︶   ﹃ 癸 辛 雜 識 ﹄ 別 集 下、 置 士 籍﹁ 自 是 士 之 有 籍、 嚴 行 天 下、 或稍有瑕疵、皆不敢有功名之望。 ﹂ ︵ 53︶ 寺 地 遵﹁ 賈 似 道 の 対 蒙 防 衛 構 想 ﹂︵ ﹃ 広 島 東 洋 史 学 報 ﹄ 十 三、二〇〇八年︶ ︵ 54︶   ﹃ 宋 季 三 朝 政 要 ﹄ 巻 四、 咸 淳 六 年﹁ 上 一 日 問 似 道 曰、 襄 陽 之 圍 三 年 矣、 奈 何。 對 曰、 北 兵 已 退 去、 陛 下 得 臣 下 何 人 之言。上曰、 適有女嬪言之。似道詰問其人、 誣以他事賜死。 自是邊事無人敢對上言者。 ﹂ ︵ 55︶   賈 似 道 に よ る 士 人 へ の 抑 圧 政 策、 懐 柔 政 策 に つ い て は 宮 﨑 市 定﹁ 南 宋 末 の 宰 相 賈 似 道 ﹂︵ 同﹃ 宮 﨑 市 定 全 集 ﹄ 第 十 一巻、 岩波書店、 一九九三年、 所収、 初出は﹁賈似道略伝﹂ 、 ﹃東洋史研究﹄六│三、一九四一年︶に詳しい。 ︵ 56︶   ﹃ 通 鑑 續 編 ﹄ 巻 二 十 四、 咸 淳 七 年 十 二 月﹁ 初 置 士 籍。 賈 似道欲以箝制東南之士也。 ﹂

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59 『癸辛雜識』「置士籍」考(村田) 57︶   ﹃ 宋 季 三 朝 政 要 ﹄ 巻 四、 咸 淳 六 年﹁ 議 者 謂、 士 而 有 籍、 與禁何異。 ﹂ ︵ 58︶   た だ し﹃ 寶 祐 四 年 登 科 錄 ﹄ で は 合 格 者 そ れ ぞ れ の 姻 戚 情 報 が 記 載 さ れ て い る。 こ の 点 か ら 考 え て、 受 験 時 に 提 出 さ れ た 家 状 は︻ 史 料 二 ︼ に あ る も の と 一 部 異 な っ て い る、 と い う 可 能 性 が 考 え ら れ る が、 そ れ で は 姻 戚 情 報 が 追 加 さ れ た こ と へ の 反 発 を 説 明 で き な い。 恐 ら く は 提 出 さ れ た 家 状 が そ の ま ま 登 科 録 に な る わ け で は な く、 登 科 録 作 成 時 に 姻 戚 情 報 が 追 加 さ れ た の で あ ろ う が、 一 連 の 流 れ に つ い て 現 時 点 で は 不 明 瞭 な 部 分 が 多 い。 こ れ に つ い て は 今 後 の 課 題 としたい。 ︵ 59︶   ﹃ 至 正 金 陵 新 志 ﹄ 巻 十 四、 摭 遺﹁ 宋 咸 淳 辛 未 第 三 人、 廷 對 鯁 直、 切 中 時 弊。 賈 似 道 當 國、 欲 其 依 附、 百 計 牢 籠。 舊 例、 登科上表謝恩、 作啓見宰執。狀元張鎭孫、 請公同作啓、 毅然不從、曰天子親擢上第、宰臣何以謝爲。賈聞之不説。 ﹂ ︵ 60︶   ﹃ 宋 季 三 朝 政 要 ﹄ 巻 六、 祥 興 二 年︵ 一 二 七 九 年 ︶ に 賈 似 道 が 行 っ た こ と と し て﹁ 好 䛕 惡 直、 進 佞 退 賢、 粉 飾 太 平、 諱 言 邊 事。 殺 功 臣 以 失 士 大 夫 之 心、 行 公 田 以 歛 江 浙 之 怨、 主 推 排 以 騷 動 東 南 之 民、 造 士 籍 以 鉗 制 東 南 之 士、 庇 敗 將 則 將 校 之 心 離、 吝 軍 劵 則 軍 旅 之 心 叛。 日 積 月 累、 無 非 失 人 心 之事。 ﹂と挙げられている。 ︵ 61︶   な お、 こ の 他 に も﹃ 錢 塘 遺 事 ﹄ 巻 六、 繫 籍 秀 才 に﹁ 時 人 有 詩 曰、 戎 馬 掀 天 動 地 來、 襄 陽 城 下 哭 聲 哀。 平 章 束 手 全 無 策、 却 把 科 場 惱 秀 才。 ﹂ と あ る よ う に、 激 戦 が 続 く 襄 陽 城 を救援しないでいることへの不満もあったとみられる。 ︵ 62︶   ﹃宋會要輯稿﹄ 選擧一五之七 ・ 八、 天聖七年︵一〇二九年︶ 十 一 月 十 九 日、 同 一 五 之 一 二、 慶 曆 四 年︵ 一 〇 四 四 年 ︶ 六 月二十八日 ︵ 63︶   試 験 前 の 時 点 に 於 い て は 紹 定 年 間︵ 一 二 二 八 年∼ 一 二 三 三 年 ︶ の 後 半 の 記 事 だ と 思 わ れ る が、 受 験 者 一 人 が 複 数 人 分 の 答 案 を 提 出 す る 事 態 が 頻 発 し て い る た め、 ﹃ 宋 史 ﹄ 巻 一 五 六、 選 擧 志 二 に﹁ 命 諸 郡 關 防、 於 投 卷 之 初、 責 郷 鄰 覈 實、 嚴 治 虛 僞 之 罪、 縱 容 之 罰。 ﹂ と あ る よ う に、 郷 隣 へ の 確認を厳にするようにという指示が出ている。 ︵ 64︶   ﹃朱子語類﹄巻一〇九 ・ 十四条﹁若捉得一兩箇、 真箇痛治、 人 誰 敢 犯。 這 箇 須 從 保 伍 中 做 起、 却 從 保 正・ 社 首 中 討 保 明 状、 五 家 爲 保、 互 相 保 委。 若 不 是 秀 才、 定 不 得 與 保 明。 若 捉出詭名納兩副三副卷底人來、 定將保明人痛治、 人誰敢犯。 ﹂ ︵ 65︶   ﹃ 宋 會 要 輯 稿 ﹄ 選 擧 三 之 三 四、 嘉 祐 二 年︵ 一 〇 五 七 年 ︶ 十二月五日﹁擧人至京師始結保、多欺冒隱匿。 ﹂ ︵ 66︶   ﹃錢塘遺事﹄ 巻六、 繫籍秀才 ﹁郷保擧那、 當著押開口論錢。 ﹂ ︵ 67︶   ﹃朱子語類﹄巻一〇九 ・ 十四条﹁上之人分明以賊盜遇士。 ﹂ ︵ 68︶   元代の儒戸 ・ 儒籍とその作成経緯については、 蕭啓慶﹁元 代 的 儒 戸 儒 士 地 位 演 進 史 上 的 一 章 ﹂︵ 同﹃ 元 代 史 新 探 ﹄、 新 文 豊 出 版、 一 九 八 三 年、 所 収、 初 出 は 一 九 七 八 年 ︶、 大 島立子 ﹁元代の儒戸について﹂ ︵﹃中嶋敏先生古稀記念論集﹄ 、 汲 古 書 院、 一 九 八 一 年、 所 収 ︶、 太 田 彌 一 郎﹁ 元 代 の 儒 戸 と 儒 籍 ﹂︵ ﹃ 東 北 大 学 東 洋 史 論 集 ﹄ 五、 一 九 九 二 年 ︶、 森 田 憲 司﹁ 元 朝 社 会 に つ い て の 筆 者 の 理 解 と 石 刻 資 料 研 究 の 現 況﹂ ︵同﹃元代知識人と地域社会﹄ 、 汲古書院、 二〇〇四年、

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60 所 収、 初 出 は 一 九 九 七 年 ︶、 牧 野 修 二﹁ エ ケ モ ン ゴ ル 時 代 に お け る 儒 人 戸 の 差 発︵ 差 役 ︶ 免 除 に つ い て ﹂︵ 藤 野 彪・ 牧 野 修 二﹃ 元 朝 史 論 集 ﹄、 汲 古 書 院、 二 〇 一 二 年、 所 収、 初 出 は 二 〇 〇 〇、 二 〇 〇 一 年 ︶ な ど の 先 行 研 究 が あ り、 本 稿もそれに負うところが大きい。 ︵ 69︶   ﹁ 至 元 十 四 年 有 籍、 歸 附 之 初、 官 司 草 創、 止 憑 坊 里 正 人 等應報須知。 ﹂ ︵ 70︶   ﹃ 元 史 ﹄ 巻 一 七 二 本 伝。 な お、 ︻ 史 料 三 ︼ に つ い て は、 植 松 正﹁ 元 代 江 南 の 地 方 官 任 用 に つ い て ﹂︵ 同﹃ 元 代 江 南 政 治 社 会 史 研 究 ﹄、 汲 古 書 院、 一 九 九 七 年、 所 収、 初 出 は 一 九八九年︶にも言及がある。 ︵ 71︶   R ober t P . Hymes,

Statesmen and Gentlemen

: The elite of F u -Chou, Chiang -His, in Northern and Southern Sung, New York.   Cambridge University Pr ess, 1986. を参照のこと。 ︵ 72︶   前 注 71に 挙 げ た い わ ゆ る ハ イ ム ズ テ ー ゼ へ の 批 判 は 複 数 存在しており、 代表としては包偉民 ﹁精英們 〝地方化〟 了 嗎 ? │試論韓明士 ︽政治家与紳士︾ 与〝地方史〟 研究方法│﹂ ︵﹃唐 研究﹄十一、二〇〇五年︶が挙げられる。 ︵ 73︶   前注 31の高橋論文などが代表的である。

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