熊本学園大学 機関リポジトリ
『六代勝事記』の周辺と藤原定家
著者
尾崎 勇
雑誌名
熊本学園大学文学・言語学論集
巻
27
号
2
ページ
108(332)-136(360)
発行年
2020-12-25
URL
http://id.nii.ac.jp/1113/00003365/
熊本学園大学 文学・言語学論集 第27巻第2号(2020年12月25日)
﹃六代勝事記﹄の周辺と藤原定家
尾
崎
勇
はじめに︱︱﹃平家物語﹄成立から﹃六代勝事記﹄作者へ︱︱ 現 在 の 京 都 市 西 京 区 大 原 野 の 山 陵 に 三 鈷 寺 が あ る。 慈 円 在 世 の 往 時 で は 往 生 院 と 称 さ れ て い た。 執 政 の﹁ 臣 ﹂ として廟堂を領導していた甥の九条良経の頓死と兄の九条兼実が引き続いて寂したこともあり、洛西西山の中腹 に位置している往生院の院主であった慈円は閑雅な西山の空間へ引き籠る。その空間で、有縁の人材を呼集して 原﹃ 平 家 物 語 ﹄ の﹃ 治 承 物 語 ﹄ を 創 出 さ せ た。 承 元 四 年 ︵ 一 二 一 〇 ︶ か ら 建 保 末 年 ︵ 一 二 一 九 ︶ 頃 で あ っ た。 慈 円 圏 の 内 実 で あ る。 良 経 の 娘 の 立 子 か ら 生 誕 し た 懐 成 親 王 が 建 保 六 年 ︵ 一 二 一 八 ︶ 十 一 月 二 十 六 日 に 立 坊 ︵ 皇 太 子 に な る。 ︶ し、 承 久 元 年 ︵ 一 二 一 九 ︶ 六 月 二 十 五 日 に は 良 経 の 嫡 男 の 道 家 の 子 で あ る 頼 経 ︵ 三 寅 ︶ が 四 代 鎌 倉 将 軍 継 嗣 と な る。 承 久 三 年 ︵ 一 二 二 一 ︶ 四 月 二 十 日、 懐 成 親 王 は 八 十 五 代 仲 恭 天 皇 と し て 即 位、 道 家 が 摂 政 に 就 く。 二 つ の 慶 事 を 見 据 え、 末 代 の 道 理 と 揚 言 す る た め に﹃ 治 承 物 語 ﹄ を 取 用 し な が ら、 最 初 の 史 論 で あ る﹃ 愚 管 抄 ﹄ を 成 立 さ せ た 。 翌月には承久の乱が勃発して、仲恭天皇から後堀河天皇へ交代してしまった。末代の道理の一つが通らない時局 に 陥 っ て し ま う。 そ の 後、 貞 永 元 年 ︵ 一 二 三 二 ︶ 十 月 四 日 に 道 家 の 女 の 子 か ら 生 誕 し た 秀 仁 親 王 が 四 条 天 皇 と し て 即 位、 三 男 の 頼 経 も 嘉 禄 二 年 ︵ 一 二 二 六 ︶ 一 月 二 十 七 日 に 四 代 鎌 倉 将 軍 の 宣 下、 寛 喜 二 年 ︵ 一 二 三 〇 ︶ 十 二 月 九 日 に 結 婚 し て 名 実 と も 幕 府 を 領 導 す る。 嘉 禎 三 年 ︵ 一 二 三 七 ︶ 頃 か ら 仁 治 元 年 ︵ 一 二 四 〇 ︶ に か け て 道 家 は、 慈 円 圏 に 参画していた藤原定家をも氏寺の法性寺に呼び入れ、 ﹃愚管抄﹄ をも摂取しながら、 ﹃治承物語﹄ を六巻本 ︵延慶本 ﹃平 (360) ― 136 ―熊本学園大学 文学・言語学論集 第27巻第2号(2020年12月25日) 家物語﹄の祖本︶ に再編したのであった。これが慈円周辺圏の内実なのであっ た 。 ﹃ 愚 管 抄 ﹄ 成 立 の 二 年 後 の 貞 応 二 年 ︵ 一 二 二 三 ︶ 五 月 か ら 翌 年 の 三 年 十 一 月 頃 に 第 二 番 目 の 史 論 の﹃ 六 代 勝 事 記 ﹄ が成立する。 ﹃勝事記﹄ ︵以下、 ﹃六代勝事記﹄を略称。 ︶ の﹁序﹂は、 昔は莱の月にかげをまじへ、今は蓮台の雲に望をかけたる世すて人侍り。応保の聖代に生て、高倉の明時 につかまつりしかば、年齢やうやくかたぶきて、六十余廻の星霜をかさね、朝儀しきりにあらたまりて、七 代帝王の即位にあへり。六条院の御ときは、いとけなくすぎはべりき。安元の比より 貞応の今にいたるまで の事は、夢うつゝともおもひわかぬほどながら、 見もし聞もせしこと、さまかえへ衣をそめ 、弥陀を念じ極 楽をねがふにふた心なくなりにし後は、世事すべていとはれ、文筆ながくさしおきてしを、 普天かきくもり しゆふだちの神なりにおどろきて 、其事のわすれざるはし〴〵ばかりをかきあつめ侍。心は権実の教法にあ ひて、善悪二の果をさとり、和漢の記録をつたへて、治乱二の政をつゝしむ。ゆゑに、いさゝか先生の得失 をのこし□、おのづから後生の官学をすゝめむ事、身のためにしてこれをしるさず、世のため民のためにし て是を記せり。 ︵六二∼三ページ︶ で あ る か ら、 応 保 ︵ 一 一 六 一 ∼ 六 三 ︶ の 七 十 六 代 二 条 天 皇 の 在 位 し て い る 治 世 に 生 誕 し、 八 十 代 高 倉 天 皇 の 在 位 の 仁 安三年 ︵一一六八︶ 頃から源平の争乱が勃発した治承四年 ︵一一八〇︶ 八月の頼朝の旗揚げ以前に出仕し、 施線の﹁貞 応の今にいたるまで﹂であるからには、六十余歳に綴っているとみなされる。二重施線は抽象的で意味が取り難 い の で 次 章 で ふ れ る と し て、 波 線 部 か ら、 高 倉 天 皇 か ら 八 十 六 代 後 堀 河 天 皇 在 位 の 貞 応 年 間 ︵ 一 二 二 二 ∼ 二 四 ︶ 頃 の 世までに見聞した様々な事象を、出家の身ながら取り上げて描いた。そのような表現主体者像が浮上してくるで あろう。 この小論の目的は、藤原摂関家の九条家に仕えている藤原定家が﹃勝事記﹄成立に関与していたことを明らか にしようするところにある。 (359)― 135 ―
『六代勝事記』の周辺と藤原定家 ︵一︶ ﹃勝事記﹄作者像について ﹃ 勝 事 記 ﹄ の 前 掲 し た﹁ 序 ﹂ の 二 重 施 線 の﹁ 普 天 か き く も り し ゆ ふ だ ち の 神 な り に お ど ろ き て ﹂ と は 具 体 的 に はどうようことなのか、その解釈を﹃愚管抄﹄と﹃勝事記﹄の先行研究とからませてみていこう。 承久の乱に接した衝撃をもとに、乱勃発の当時については、 ﹃吾妻鏡﹄承久三年 ︵一二二一︶ 六月十三日条に、 十三日 丙寅 雨降る。 ︵中略︶ 官軍矢石を發つこと雨脚のごとし。 とあって、さらに翌日の十四日条には、 十四日 丁卯 霽る。雷鳴数聲。 で あ る の で、 ま ず 悪 天 候 の 事 実 か ら 作 者 は 文 飾 し た と 解 釈 さ れ て い る 。﹃ 勝 事 記 ﹄ 構 成 全 体 か ら 窺 え ば、 跋 文 の 最末尾は、 六十年よりこの□、好文重士の君まれにして、政道過□にみだるゝたびに、其身あすからず、其心くるしぶ ゆゑに、一人よろこびあり□、兆民かうぶらむ事をねがふばかり也。 ︵九八ページ︶ との一文で括っているので、 ﹁序﹂にあった﹁六十余廻の星霜をかさね、 ﹂と照応させたのであった。この文を意 訳すれば、これまでの六十余歳を回顧すると、現今の治世は、 文を好み、士を重んじる帝王はまれであり、政道が奢り乱れるたびに、その身が安らかではないし、心も苦 しめる。 となる以上、 ﹃新楽府﹄ ︵第十二・捕蝗︶ の﹁文皇仰天呑一蝗、一人有慶兆民頼﹂ ︵意味は、天子に喜び、万民にその喜びを蒙る こ と を 願 う の み で あ る。 ︶ の 句 に 跋 文 の 当 該 の 文 章 は 依 拠 し て い る。 こ の 社 会 批 判 や 風 刺 の 性 格 を も つ 中 国 古 典 籍 は、 ﹃ 愚 管 抄 ﹄ 付 録 に も﹁ 文 選・ 文 集・ 貞 観 政 要 コ レ ラ ヲ ミ テ 心 ヱ ン 人 ノ タ メ ニ ハ ﹂ ︵ 巻 七 ︱︱ 三 一 九 ペ ー ジ ︶ と あ り、 ﹃ 勝 事 記 ﹄ 跋 文 に は、 作 者 自 身 が﹁ 心 有 人 答 て い は く、 ⋮⋮ ﹂ ︵ 九 六 ペ ー ジ ︶ と し て、 ﹁ 心 有 人 ﹂︵ こ の 語 彙 も﹃ 愚 管 抄 ﹄ に あ り、 次 の 章 で 後 述。 ︶ を 介 し て、 ﹁ 海 内 の 財 力 つ き ぬ れ ば、 天 下 泰 平 な ら ず。 ﹂ 九 六 ペ ー ジ ︶ 等 と 悲 嘆 し な が ら 自 問 自 答 で (358) ― 134 ―
熊本学園大学 文学・言語学論集 第27巻第2号(2020年12月25日) 諫 言 し て い る。 ﹃ 愚 管 抄 ﹄ 付 録 の 中 間 の 文 章 で は 後 鳥 羽 院 に 詰 め よ っ て 諫 言 し た あ と、 後 半 の 文 章 に 及 ん で は 人 材 論 を 開 陳 す る。 そ こ で は﹁ 十 五 バ カ リ ハ 心 ア ル 人 皆 ナ ニ ゴ ト モ ワ キ マ ヘ シ ラ ル ゝ コ ト 也。 コ ノ 五 年 ガ ア イ ダ、 コレヲミキクニ、 スベテムゲニ世ニ⋮⋮﹂ ︵巻七︱三五〇ページ︶ と説きおこし、 ﹁闘諍誠ニ堅固ナリ。 ﹂ ︵巻七︱三五六ペー ジ︶ と閉塞した時局に悲嘆して、 物ノハテニハ問答シタルガ心ハナグアムナリ。 問、サレバ今ハチカラヲヨバズ、カウテ世ニナヲルマジキカ。 答、分ニハヤスクナホリナム。 ︵巻七︱︱三五六ページ︶ 等と以下、さらに六つの自問自答を添えて付録の文章すべてを括っていたのと同趣向である。 さて﹃勝事記﹄作者像をめぐって、先行研究を窺っていこう。 弓削繁は﹁隆忠の経歴は序文の記述と実に合致し、矛盾をきたす点はいさゝかも見受けられないのである。た だ、 目 下 の 所、 彼 に は 文 事 に 関 し て 格 別 の も の が 見 出 せ な い 。﹂ と し て、 執 政 の﹁ 臣 ﹂ に 就 い た 藤 原 基 房 の 嫡 男 の 隆 忠 ︵ 一 一 六 三 ∼ 一 二 四 五 ︶ を 提 唱 し た 。 た だ し、 施 線 で 隆 忠 は﹁ 文 事 ﹂ 方 面 で は 特 別 の 事 が な い と も 断 っ て い る。 他方、高橋貞一は﹁ 文筆の才能があった事が明らかである 。以上によりて、筆者は、長方の二子、長兼をその著 者に推定するのである。また 母は入道信西の女 9 9 9 9 9 9 9 9 ﹂として、二重施線のように論じていた。弓削は、高橋のその言 説 を 念 頭 に 置 い た か ら 施 線 の よ う に 表 明 し た と も 憶 測 さ れ よ う。 藤 原 長 方 ︵ 一 一 三 九 ∼ 一 一 九 一 ︶ を 父 に、 圏 点 を 付 し た よ う に 信 西 ︵ 一 一 〇 六 ∼ 一 一 五 九 ︶ す な わ ち 藤 原 通 憲 の 女 を 母 と し て い る 藤 原 長 兼 を 作 者 と し た 。 長 兼 の 父 で あ る 長 方 は、 定 家 の 従 兄 で あ る ︵ 信 西 の 孫 の 聖 覚 と 定 家 の 法 脈 と 縁 戚 関 係 図 は 後 掲。 ︶ 。 伊 藤 敬 も、 前 掲 し た﹃ 勝 事 記 ﹄ の﹁ 序 ﹂ の﹁貞応の今にいたるまで﹂と、阿波院天皇 ︵順徳天皇︶ の条に、 建 久 元 年 丙 寅 三 月 七 日、 摂 政 太 政 大 臣 良 経 頓 死。 後 京 極 殿 と 申 に や。 文 操 人 に す ぎ、 理 政 民 を な で、 諸 道 に 浅 深 を さ ぐ り て 浮 沈 を は か り、 万 機 に 補 佐 し て 親 疎 な か り き。 ︵ 中 略 ︶ 前 大 僧 正 慈 円 、 つ ひ に 行 べ き 道 な れ ど、 一 日 も 二 日 も う ち な や み て、 お も ふ 事 を も い ひ つ ゝ、 か ゝ る べ し 共 か ね て お も は な く は、 よ の つ ね な れ ば、 (357)― 133 ―
『六代勝事記』の周辺と藤原定家 なぐさむかたもありぬべし。職事・弁官も道にくらく、文峰・歌苑に主をうしなへるとかきくらして、 秋の夜の風と月との友はみな春の山路に迷ひぬる哉 とよみ給ひければ、 太上天皇 その友のうちにや我を思ふらん恋しき袖の色をみせばや 三 明 六 通 の 羅 漢 も 不 免、 幻 術 変 化 の 権 現 も 無 み ち な れ ど も、 有 為 無 常 の 悲 き、 こ と わ り す ぎ て ぞ 侍 り し。 ︵七六∼七ページ︶ とある﹃勝事記﹄の一節をもとに、 六代勝事記の成立が序に言うように貞応の今とすると、 まだ 慈円の没年前である 。 ︵中略︶ 当代一流の文人政 治家良経に仕えた作者が、主人の死をとくに哀悼 ︵中略︶ 長兼の可能性がより大のように思 う 。 施 線 で 慈 円 が 寂 す る 嘉 禄 元 年 ︵ 一 二 二 五 ︶ 九 月 二 十 五 日 以 前 に 成 立 し た と し て、 長 兼 作 者 説 を 唱 え た。 久 保 田 淳 も ﹁ 隆 忠 作 者 説 に 対 し て 抱 く 疑 問 は、 豊 富 に 故 事 や 詩 文 を 踏 ま え た﹃ 六 代 勝 事 記 ﹄ の ご と き 作 品 の 叙 述 が 果 た し て 隆 忠 に 可 能 で あ っ た か と い う こ と で あ る。 そ の 点 で は、 長 兼 は ほ と ん ど 問 題 な い で あ ろ う。 ﹂ と し て い る 。 定 家 の日録の﹃明月記﹄嘉禄三年 ︵一二二七︶ 閏三月七日条に、 前大進兼高朝臣慮はずも来臨。当世に於て適々稽古の人なり。清談自熱に移漏。日入るに及び、 厳 藤原長方 親 黄門 の 長女 ︵未だ嫁せず。両納言の姉︶ 年六十九、猶存命。和漢の才智・公事・故事・家の秘説、 連 宗隆長兼 枝 に超過す。 施線に藤原長方と長兼の父子の文才を摘記しているのを配意して、 ﹃明月記﹄全体をもとに、 ﹃ 六 代 勝 事 記 ﹄ の 作 者 と 定 家 の 教 養 や 思 考 が か な り 類 似 し て い る ら し い こ と を 示 唆 す る も の で あ ろ う。 ︵ 中 略 ︶ ﹃ 六 代 勝 事 記 ﹄ の 作 者 が 誰 で あ る か と い う 問 題 に つ い て は、 な お 保 留 し た い。 た だ、 そ れ は 長 兼 に よ っ て 書 かれても 、また他ならぬ 定家 9 9 によって書かれても当然であったと考える。 と長兼と併せて圏点で定家をも作者の候補者に挙げたのである。この施線と圏点の言辞は興味深い。あらためて ︵ 五 ︶ の 章 で 作 者 像 を 展 開 し よ う と 思 う。 ち な み に、 施 線 と 圏 点 と は 筆 者 尾 崎 が 付 し て い る こ と を こ と わ っ て お (356) ― 132 ―
熊本学園大学 文学・言語学論集 第27巻第2号(2020年12月25日) きたい。 ︵二︶ ﹃愚管抄﹄から﹃勝事記﹄へ 九条良経の女の立子かから生誕した懐成親王は八十五代仲恭天皇として即位、立子の弟の道家が摂政に就いた ので﹃愚管抄﹄皇帝年代記に仲恭天皇紀を布置して、最初の史論の﹃愚管抄﹄は成立した。その翌々年の貞応二 年 ︵一二二三︶ 五月から翌年十一月頃に第二番目の史論の ﹃勝事記﹄ が成立してくる。別帖の後鳥羽天皇の条には、 祖父の後白河院の崩御の事象を承けて、院の行実の特色を、 同 三 年 三 月 十 三 日 ニ 法 皇 ハ 崩 御 ア ル 。 マ ヘ ノ 年 ヨ リ 御 ヤ マ イ ア リ テ、 ス コ シ ヨ ロ シ ク ナ ラ セ 給 ナ ド キ コ ヘ ナガラ、大腹水ト云御悩ニテ、御閇眼ノ前日マデ、御足ナドハスクミナガラ、長日護摩御退転ナクヲコナ ハ セ ヲ ハ シ マ シ ケ リ。 御 イ ミ ノ 間 ノ 御 佛 事 ナ ド ハ チ カ コ ロ ハ キ カ ズ、 ア マ リ ナ ル マ デ ニ ゾ キ コ ヘ ケ ル。 大 方コノ法皇ハ男ニテヲハシマシヽシ時モ、袈裟ヲタテマリテ護摩ナドサヘヲコナハセ給テ、御出家ノ後ハイ ヨ〳〵御行ニテノミアリケリ。 法華経ノ部数ナド、数萬部ノ内ニ百部ナドニモヲヨビケリ 。ツネハ舞・猿楽 ヲコノミ、セサセツヽゾ御覧ジケル。御イモウトノ上西門院モ持経者ニテ、イマスコシハヤクヨマセ給ケレ バ、ツネハ読アイマイラセンナド仰ラレケリ。 ︵巻六︱︱二七八ページ︶ ﹃ 法 華 経 ﹄ 書 写 行 に 精 励 し て い た と し、 他 方 で は 舞 楽 や 猿 楽 そ し て 今 様 な ど を 熱 愛 し て﹁ あ そ び 心 ﹂ を 抱 く 華 麗 な 趣 き を 呈 し て い た と 批 評 し た。 す な わ ち﹁ 花 4 や か さ ﹂ が あ っ た と 叙 述 し て い る。 ﹃ 勝 事 記 ﹄ の 隠 岐 院 天 皇 ︵ 後 鳥 羽天皇︶ の条にも、後白河院の崩御を、 無常の春の風、 花 4 のすがたをさそひき。 極楽往生はあさ夕の御のぞみ也ければ 、 臨終正念みだれず 。 ︵七四ページ︶ と描いているので、 ﹃愚管抄﹄ の施線部から二重施線へ及ばせるのと全く同質の筆致なのである。 ﹃勝事記﹄ は ﹃愚 (355)― 131 ―
『六代勝事記』の周辺と藤原定家 管抄﹄を簡約したような文章になっている。 ﹃愚管抄﹄皇帝年代記に、 承久二年十月ノ此記 之了。 後見之人此趣ニテ可 二 書続 一 也 。 ︵巻二︱︱一二三ページ︶ とか、別帖の跋文に相当するところで、 ソノヤウヲ又カキツケツヽ、 心アラン人ハシルシクハヘラルベキ也 。 ︵巻六︱︱三一八ページ︶ として、書き継ぐことを慈円は求めた。後者の枠で括った﹁心アラン人﹂とは、 ﹃勝事記﹄に、 ①心有人かくのみなげきあへるほどに、 ︵八二ページ︶ ②心ある人申あひたりし。 ︵八八ページ︶ ③心有人答ていはく、 ︵九六ページ︶ とやはりあって、この三例を弓削繁は﹁韜晦された作者﹂と解釈し た 。さらに、 抑も﹁心有人﹂を措定して政治の当為を説く﹃勝事記﹄には、一つに慈円の﹃愚管抄﹄に答えようとする思 いが込められていたのではなかろうか。 と推定してい る 。この弓削の言説は看過できない。確かに ﹃愚管抄﹄ 別帖の八十三代土御門天皇の条に於いては、 後 白 河 院 の 霊 を め ぐ る 事 象 を 叙 述 し て、 そ の 対 処 を 開 陳 し た 慈 円 ︵ 第 三 者 の 立 場 に 自 己 を 置 い て い る。 ︶ を﹁ 心 ア ル 人 ハ コ レ ヲ カ ン ゼ ズ ト 云 コ ト ナ シ。 ﹂ ︵ 巻 六 ︱ 二 九 三 ペ ー ジ ︶ と あ り、 表 現 主 体 者 は 慈 円 で あ る の で 自 賛 し た こ と に な っ て いる。八十四代順徳天皇の条にも、 九条殿ノ子ニ良輔左大臣、日本国古今タグヒナキ学生ニテ、左大臣一ノ上ニテ朝ノ重宝カナト思タリキ。昔 師尹小一条左大臣、 一条摂政右大臣ナリケルニ似タル物カナト、 心アル人 思ケリ。君モイミジト思食タリキ。 ︵巻六︱︱三一〇ページ︶ と叙述されているし、 (354) ― 130 ―
熊本学園大学 文学・言語学論集 第27巻第2号(2020年12月25日) 又院ハ八月ノコロヲイ、御悩ハヅライヲハシマシヽニ、 ﹁ヨク〳〵シヅカニ物ヲ案ズルニ、此忠綱ト云男ヲ、 コ レ ラ ナ ド ニ 殿 上 人 内 藏 頭 マ デ ナ シ タ ル ヒ ガ コ ト コ ソ、 イ カ ニ 案 ズ ル モ 取 ド コ ロ モ ナ キ ヒ ガ コ ト ナ リ ケ レ ト、サトリ思フ也﹂トテ、ヤガテ解官停任シテ、御領国サナガラメシテステラレニケリ。スコシモシモ 心ア ル 人 々 ハ 殊 勝 〳〵 ノ 事 カ ナ ト ヲ モ ヘ リ ケ レ バ ニ ヤ、 其 悩 無 為 無 事 ニ 御 平 愈 ア リ ケ リ。 ︵ 中 略 ︶ 萬 ノ 事 ト リ ア ツ メテ忠綱ガウセヌルコト、不カ思ギノ君ノ御運、御案ノメデタサト、 心アル人 ハコレラノミメデタクゾ思タ リケル。 ︵巻六︱︱三一六∼一七ページ︶ と し、 前 章︵ 一 ︶ に 掲 出 し た 付 録 の 後 半 の 人 材 論 に﹁ 心 ア ル 人 ﹂ ︵ 巻 七 ︱ 三 五 〇 ペ ー ジ ︶ が あ っ た よ う に、 右 文 の 施 線部にもあるからには、同一の語彙を襲用したのである。 さらに弓削は、 ﹃愚管抄﹄の文章との相似があることにふれながら、 慈 円 ︵ 九 条 家 ︶ と は 政 治 的 に 近 い 距 離 に あ る も の と 考 え ら れ る。 ︵ 中 略 ︶ ﹃ 勝 事 記 ﹄ の 作 者 の 見 当 を 慈 円 の 周 辺 に つけることは 、さして無稽な所為でもあるまい。 として、二重施線では﹃勝事記﹄作者を慈円周辺に想定してい る 10 。さらに、弓削は、 定家の嘆きは直接後鳥羽院へとは向かわないが、彼の心底には院周辺に対して漠然たる不安が存したのでは なかろうか 。﹃平家物語﹄は、 当今ハ御遊ニノミ御心ヲ入サセ給テ、世ノ御政ヲモ知セ給ハズ。九条殿御籠居之後ハ 9 局ノマヽニテアレ 9 9 9 9 9 9 9 9 バ 9 、人ノ愁歎モ通ラズ。 ︵延慶本、第六末﹁卅六 文学被流罪事﹂ ︶ こ の﹃ 平 家 物 語 ﹄ に 描 か れ て い る 卿 局 範 子・ 卿 二 位 兼 子 等 の 一 族 に よ っ て 壟 断 さ れ た 政 治 状 況 を 危 惧 す る 声 ★ は、 当時の知識人の間に伏在していたものであろうと論じてもい る 11 。圏点は筆者尾崎が付した。 〇 ★ ﹃平家物語﹄の圏点﹁ 局ノマヽニテアレバ﹂は﹃愚管抄﹄別帖の順徳天皇の条に、 京ニハ 二位ヒシト世ヲトリタリ。 女人入眼 ノ日本国イヨ 〳〵 マコト也ケリト云ベキニヤ。 ︵巻六︱︱三〇四ページ︶ (353)― 129 ―
『六代勝事記』の周辺と藤原定家 と み え て い る こ と を 指 し、 ﹁ 女 人 人 眼 ﹂ と は 政 治 で 重 要 な 役 割 を 女 人 が 果 た す と い う 政 治 思 想 で あ る︵ 拙 著﹃ 第 三 部 第 十 一 章 ﹂︵ ﹃ 愚 管 抄 の 創 成 と 方 法 ﹄ 波 古 書 院・ 二 〇 〇 四 年 ︶。 兼 子 の 姉 の 範 子 と 後 鳥 羽 院 と の あ い だ に 為 仁 親 王︵ 土 御 門 天 皇 ︶ が い た。 院 政 を 開 始 し た 時 局 のもとで、 ﹃明月記﹄建仁三年︵一二〇三︶正月十三日条に、定家は仕えている執政の﹁臣﹂の九条良経の権限を侵食しているので、 権門の女房偏へに以て申し云ふ。殿下の御力及ばざるか。 兼子に怯えている。範子の妹であるから﹃愚管抄﹄に、 実朝母ハ熊野ヘ参ラントテ京ニ上リタリケルニ、 二位タビタビユキテヤウ 〳〵 ニ云ツヽ、 ︵巻六︱︱三一〇ページ︶ と あ っ て、 三 代 将 軍 実 朝 に 嫡 子 が 生 ま れ な か っ た の で、 上 洛 し て き た 北 条 政 子 に 自 分 が 養 育 し て き た 頼 仁 親 王 を 実 朝 の 跡 継 ぎ す す め た。 兼子は院の討幕政策にも積極的であった。 〇 弓削の前掲した言説のなかの二重施線﹁ ﹃勝事記﹄の作者の見当を慈円の周辺﹂は正鵠を射ていよう。 ︵三︶ ﹃愚管抄﹄の﹁ウルハシキ﹂から﹃勝事記﹄との相違へ ﹃愚管抄﹄皇帝年代記の後堀河天皇紀に、 今年天下有 二 内乱 一 。コレニヨテ、俄ニ主上執政易、 世ノ人迷惑 云々 。 一 院 遠 流 セ ラ レ 給 フ。 隠 岐 国。 七 月 八 日 於 二 鳥 羽 殿 一 御 出 家、 十 三 日 御 下 向 云 々。 但 ウ ル ハ シ キ ヤ ウ ニ ハ ナ クテ令 二 首途 一 給 云々 。 ︵巻二︱︱一二五ページ︶ 施線と二重施線との言辞についてみていこう。まず施線の言辞をめぐって弓削は、 ﹃ 愚 管 抄 ﹄ の﹁ 世 人 迷 惑 ﹂ と い う 文 字 こ そ、 心 あ る﹃ 勝 事 記 ﹄ の 作 者 に と っ て、 原 体 験 に 外 な ら っ た 9 9 9 9 9 9 9 9 9 と 思 う のである。 と解釈し た 12 。施線について、 久保田淳も ﹃愚管抄﹄ と比較対照しながら、 慈光寺本 ﹃承久記﹄ を論じて ﹁⋮⋮ ﹁世 (352) ― 128 ―
熊本学園大学 文学・言語学論集 第27巻第2号(2020年12月25日) 人 迷 惑 ﹂ の 四 字 に は、 著 者 慈 円 の 無 量 の 思 い が 籠 め ら れ て い る の で あ ろ う。 ︵ 中 略 ︶ 慈 光 寺 本 は 傍 観 的 に す ぎ る よ うな気がする。 ︵中略︶ 極めて楽天的な叙述をもって満たされているのである。 それは ﹃六代勝事記﹄ や古活字本 ﹃承 久 記 ﹄ の 悲 愴 な ま で の 慷 慨 調 と は、 著 し い 対 照 を み せ て い る の で あ る。 ︵ 中 略 ︶ ﹃ 愚 管 抄 ﹄ や﹃ 六 代 勝 事 記 ﹄ な ど の 作者の、いわば 直線的な承久の乱認識 9 9 9 9 9 9 9 9 9 9 とは明らかに位相を異にしている。⋮⋮﹂と解釈し た 13 。弓削は﹁原体験に 外 な ら っ た ﹂ と し、 久 保 田 の 言 説 も﹁ 直 線 的 な 承 久 の 乱 認 識 ﹂ と し て お り、 施 線 の﹁ 世 ノ 人 迷 惑 云 々 ﹂ を 慈 円 の 率 直 な 感 慨 が 露 呈 し た と 理 解 し て い る。 ﹃ 愚 管 抄 ﹄ の モ チ ー フ が 霊 告 で あ る こ と に 照 ら し て、 弓 削 と 久 保 田 と の 見解には従えない。 ﹃ 愚 管 抄 ﹄ 皇 帝 年 代 記 の 仲 恭 天 皇 紀 に 承 久 三 年 ︵ 一 二 二 一 ︶ 四 月 二 十 日、 九 条 良 経 の 女 の 立 子 か ら 生 誕 し た 懐 成 親王が仲恭天皇として即位したので良経の嫡子の道家が摂政に就任した事象に﹁道理必然﹂の言辞を嵌入して史 論 を 成 立 さ せ た。 そ れ は、 す で に 九 条 家 の 僥 倖 と し て 四 天 王 寺 別 当 の 慈 円 の 許 に 建 保 四 年 ︵ 一 二 一 六 ︶ 正 月 に 聖 徳 太 子 の 霊 告 と し て 予 言 さ れ た こ と が 承 久 三 年 四 月 二 十 日 に 符 合 し た か ら で あ っ た。 ﹃ 愚 管 抄 ﹄ の モ チ ー フ は 太 子 の霊告なのであって、霊告符合の気配の時運を直視して皇帝年代記に後堀河天皇紀を書き継いでい る 14 。摂関家の 九条家興隆を道理として史論を展開させており、そのため、もう一つの摂政関白に就ける摂関家の近衛家につい て、別帖の後鳥羽天皇の条で、 近 衛 殿 攝 簶 モ ト ノ ゴ ト シ ト 被 仰 ニ ケ リ。 一 定 平 氏 ニ グ シ テ 落 ベ キ 人 ノ ト マ リ タ レ バ ニ ヤ。 又 イ カ ナ ル ヤ ウ カアリケン。サレド近衛殿ハカヤウノ事申サタスベキ人ニモアラズ。スコシモヲボツカナキ事ハ右大臣ニ問 ツ ヽ コ ソ ヲ ハ シ ケ レ バ、 タ ヾ 名 バ カ リ ノ 事 ニ テ、 ︵ 中 略 ︶ 大 方 攝 簶 臣 ハ ジ マ リ テ 後 コ レ コ レ 程 ニ 不 中 用 ナ ル 器 量ノ人ハイマダナシ。 カクテコノ世ハウセヌル也 。 ︵巻五︱︱二五六∼五七ページ︶ と あ っ て、 平 家 一 門 が 都 落 ち を し て い く 寿 永 二 年 ︵ 一 一 八 三 ︶ 七 月 二 十 五 日 の 当 時、 廟 堂 で 九 条 兼 実 に 何 か と 政 治 上のことを尋ねなければ執政の﹁臣﹂として役目を果しえない近衛基通の不器量を詰っている。施線は、平家衰 亡の事態と先の見通しがない時局と近衛家が執政の﹁臣﹂に就いている廟堂との両面から、憤慨に堪えないとの (351)― 127 ―
『六代勝事記』の周辺と藤原定家 思いで慈円は叙述している。近衛基通が﹁臣﹂に就いているので、右文の施線に摘記しているように﹁コノ世ハ ウ セ ﹂ て し ま う の だ と の 批 難 の 言 辞 は、 付 録 の 前 半 の 文 章 で あ る﹁ 史 ﹂ の 論 で、 善 政 を 敷 い て い た 執 政 の﹁ 臣 ﹂ 在任中の三十九歳の若さで九条良経は頓死したことを取り上げて、 タヾシバシコノ院ノ後京極殿良経ヲ攝簶ニナサレタリシコソ、コハメデタキ事カナトミヱシホドニ、ユメノ ヤウニテ頓死サラレニキ。近衛殿ト云父子ノ、 家ニハムマレテ 、 職ニハ居ナガラ、 ツヤ〳〵トカイハライテ、 ︵ 中 略 ︶ イ マ ダ ウ セ ズ シ ナ デ ヲ ハ ス ル ニ テ 、 ヒ シ ト 世 ハ 王 臣 ノ 道 ハ ウ セ ハ テ ヌ ル ニ テ 侍 ヨ ト、 サ ハ 〳 〵 ト ミ ユ ル也 。 ︵巻七︱︱三三五∼三六ページ︶ 施 線 で 九 条 家 に 対 照 さ せ な が ら、 波 線 は 天 福 元 年 ︵ 一 二 三 三 ︶ 五 月 十 九 日 に 七 十 四 歳 で 基 通、 そ の 子 家 実 は 仁 治 三 年 ︵ 一 二 四 二 ︶ 十 二 月 二 十 七 日 に 六 十 四 歳 で 没 す る わ け だ が、 史 論 を 展 開 さ せ て い る 当 時 の 承 久 年 間 ︵ 一 二 一 九 ∼ 二 一 ︶ は 生 存 し て い た。 二 重 施 線 で 現 今 の 廟 堂 に 居 座 っ て い る 近 衛 基 通・ 家 実 父 子 を も と に、 君 臣 の 道 は 破 綻 し てしまっていると慈円は熾烈に糾弾している。それが前掲した別帖の﹁カクテコノ世ハウセヌル也。 ﹂であった。 ﹁世ノ人迷惑 云々 ﹂の﹁云々﹂との言辞には、 承久の乱後の混迷している世の混乱で戸惑っている人のことを下 敷 き に し て は い よ う が、 ﹃ 愚 管 抄 ﹄ の 本 質 か ら は 廟 堂 で 跳 梁 し て い る 執 政 の﹁ 臣 ﹂ で あ る 近 衛 家 実 の 所 業 を 世 人 が 厭 わ し く 思 っ て い る と の 意 味 を 込 め た 判 断 さ れ る。 そ れ が 本 章 の 最 初 に 掲 出 し た﹁ 世 ノ 人 迷 惑 云 々 ﹂ と 慈 円 が 摘 記 し た 理 由 で あ っ て、 ﹃ 新 古 今 集 ﹄ の 歌 人 慈 円 の 修 辞﹁ 見 立 て ﹂ や 掛 詞 等 が 介 在 し て い る と 推 定 し た い。 万 感 こもごもの思いを託している。 ﹃ 愚 管 抄 ﹄ 皇 帝 年 代 記 の 後 堀 河 天 皇 紀 に 二 重 施 線 を 付 し た よ う に 後 鳥 羽 院 ら 流 刑 の 事 象 を め ぐ っ て﹁ 但 ウ ル ハ シキヤウニハナクテ令 二 首途 一 給 云々 。﹂との文に籠る慈円の真意を探ってみよう。 ﹃ 愚 管 抄 ﹄ 別 帖 の 同 時 代 史 を 終 結 し て 跋 文 に 及 ば せ る 直 前 で 後 鳥 羽 院 に﹁ 不 カ 思 ギ ノ 君 ノ 御 運、 御 案 ノ メ デ タ サト、 心アル人 ハコレラノミメデタクゾ思いヒタリケル。 ﹂ ︵巻六︱︱三一七ページ︶ としていることと同じ視座であっ た。ちなみに十三世紀中頃から以後の成立の﹃平治物語﹄にも﹁⋮⋮﹁いかなる宿縁にてか、二代の君をば守護 (350) ― 126 ―
熊本学園大学 文学・言語学論集 第27巻第2号(2020年12月25日) し奉るらん﹂と 心ある人は申けり 。﹂ ︵上・三条殿へ発向事︶ と描かれて、 ﹁ものの道理をわきまえているほどの人は噂 しあった。 ﹂ ︵小学館・日下力訳︶ ・﹁この種の語りは、 ﹃日本書紀﹄以来﹃愚管抄﹄にもみられる。 ﹂ ︵三弥井書店・山下宏明 の頭注︶ があり、 ﹃勝事記﹄ を介して ﹃愚管抄﹄ と ﹃平家物語﹄ 初期生成をみていくうえで参考になるであろう。 ﹃愚 管抄﹄の本質からは後鳥羽院への﹁負﹂の視座はない。そのことは皇帝年代記の当該の施線・二重施線は霊告符 合への思いを抱きながら書き継いだからであって、後鳥羽院の﹁御運﹂すなわち運命と﹁御案﹂すなわち政治的 配慮を別帖では讃えているためであ る 15 。 ﹃愚管抄﹄ 皇帝年代記の ﹁世ノ人迷惑 云々 ﹂ には、 末代の道理として仲恭天皇が即位し、 九条道家が執政の ﹁臣﹂ に就いたが、道理がくずれて現今では執政の﹁臣﹂には近衛家実が就いている。前掲した﹃愚管抄﹄の﹁不中用 ナ ル 器 量 ノ 人 ハ イ マ ダ ナ シ。 カ ク テ コ ノ 世 ハ ウ セ ヌ ル 也 。﹂ ・﹁ 家 ニ ハ ム マ レ テ 、 職 ニ ハ 居 ナ ガ ラ、 ツ ヤ 〳〵 ト カ イ ハ ラ イ テ、 ︵ 中 略 ︶ イ マ ダ ウ セ ズ シ ナ デ ヲ ハ ス ル ニ テ、 ヒ シ ト 世 ノ 王 臣 ノ 道 ハ ウ セ ハ テ ヌ ル ﹂ の 道 理 史 観 が 通 底 し て い る。 当 該 の﹁ ウ ル ハ シ キ ⋮﹂ の 一 節 は 付 録 に﹁ 諫 言 ﹂・ ﹁ 人 材 論 ﹂ を 書 き 継 い だ と き の 率 直 な 筆 致 で は な い。霊告信仰が回復したときの慈円の思いが籠る。それは、次のような理由からである。皇帝年代記の後堀河天 皇紀の後鳥羽院らの配流を二重施線で﹁但ウルハシキ⋮﹂の末尾に﹁云々﹂の言辞が添えられている。この﹁ウ ル ハ シ キ ⋮﹂ を、 配 流 は 流 刑 で あ っ て、 罪 人 を 遠 く 離 れ た 土 地 に 追 放 す る 刑 罰 で あ る。 ﹁ 愁 い ﹂ か﹁ 憂 い ﹂ の 意 味を籠めて﹁ ウレハシ 4 4 4 4 キ⋮﹂とでも摘記した方が実情からは適切のように思われるかもしれない。にもかかわら ず、漢文訓読体の仏などへの端麗・華麗な美しさ、和文脈でのきちんと整っている、礼儀正しいという意味を濃 く 保 っ て い る 形 容 詞 の﹁ ウ ル ハ シ キ ﹂ を 用 い た 16 。 そ こ に は、 承 久 の 乱 勃 発 に と も な っ て 仲 恭 天 皇 が 退 位、 九 条 道 家 も 摂 政 を 辞 任 し た の で、 詞 を 重 層 さ せ る 歌 人 の 慈 円 は 貞 応 二 年 ︵ 一 二 二 三 ︶ に 四 天 王 寺 聖 霊 院 の 絵 堂 の 再 建 を 行い、新たなる聖徳太子の霊威を祈請した。翌三年正月には太子から﹁重祚・上皇帰洛・摂政之還補・将軍之成 人﹂ ︵ ﹃聖徳太子願文﹄ ︶ の霊告がくだって、別帖を叙述していた筆致に立ち戻って、 ﹃愚管抄﹄皇帝年代記に堀河天皇 紀を書き継いでいくなかで後鳥羽等の配流を摘 記 ★ したからであっ た 17 。 (349)― 125 ―
『六代勝事記』の周辺と藤原定家 〇 ★ ﹃愚管抄﹄ では承久の乱にともなって後鳥羽院らの配流には ﹁十三日御下向云々。但ウルハシキヤウニハナクテ 令 二首途 一給云々 。﹂ とあっ て、 ﹁ウルハシキ﹂の形容詞を用いて簡略であったのに対して、 ﹃勝事記﹄の佐渡廃帝の条では、 同 十 三 日 に 隠 岐 国 へ う つ し た て ま つ る に、 も の ゝ ふ 御 こ し に 立 そ ひ て 先 途 を す ゝ め も う せ り。 か た ぶ く 月 の を し か る べ き 御 名 残 な れ ば、 さ い ぎ り て 見 た て ま つ り し 人 々、 朝 恩 に ほ こ り し も 朝 恩 に も れ し も、 涙 を お と さ ず と 云 事 な し。 消 ゆ く も み ゆ き の ふ り に し あとをたづぬれば、 鳥羽より西はさだまれる式にて、ものゝふのありきをまなび給しぞかし 。 ︵八八∼九ページ︶ と 詳 細 に 描 か れ て い る。 ﹃ 愚 管 抄 ﹄ の 二 重 施 線﹁ 令 二首 途 一給 ﹂ は 簡 略 す ぎ る が、 ﹃ 勝 事 記 ﹄ の 二 重 施 線 か ら﹁ 定 ま っ た 方 式 で 武 士 の 行 為 を 模倣して出立された﹂と理解されてくるのは確かであろう。 ﹃愚管抄﹄を敷衍したような文章になっている。その一方、 ﹃勝事記﹄の﹁序﹂ に 認 め て い る よ う に﹁ 安 元 の 比 よ り 貞 応 の 今 に い た る ま で の 事 は、 夢 う つ ゝ と も お も ひ わ か ぬ ほ ど な が ら、 見 も し 聞 も せ し こ と ﹂ を、 承 久の乱後の余燼がくすぶる治世のもとで起筆し、 ﹁六十年より⋮⋮兆民かうぶらむ事をねがふばかり也。 ﹂と史論を括った。 ﹃愚管抄﹄皇帝 年 代 記 に 後 堀 河 天 皇 紀 を 書 き 継 い だ の は 霊 告 信 仰 の 回 復 後 で あ っ た。 貞 応 二 ・ 三 年 の 当 時、 慈 円 は 霊 告 へ の 懐 疑 を い だ い た。 そ の 当 時 の 成立である﹃勝事記﹄は、乱を引き起こした後鳥羽院の指弾で貫ぬかれていた。これが﹃愚管抄﹄との相違点なのである。 〇 ﹃ 愚 管 抄 ﹄ の モ チ ー フ は 霊 告 で あ る。 そ れ に 則 っ て 後 堀 河 天 皇 紀 に 後 鳥 羽 等 の 配 流 に 際 し て﹁ ウ ル ハ シ キ ﹂ と の形容詞を記す。甥の九条良経そして慈円自身も後鳥羽院が情熱を傾けた﹃新古今集﹄寄人であるので、歌論の ﹃ 後 鳥 羽 院 御 口 伝 ﹄ に﹁ う る は し く た け あ る 姿 あ り ︵ 中 略 ︶ 今 初 心 の 人 た め に 初 心 者 の た め に 略 し て ﹂・ ﹁ う る は し くして 、 ︵中略︶ うるはしく やさしき様﹂等と頻出し、しかも同歌論では式子内親王と良経につづけ、慈円を、 ⋮⋮ 吉 水 大 僧 正、 こ れ ら 殊 勝 な り。 ︵ 中 略 ︶ 大 僧 正 は、 お ほ や う 西 行 が ふ り な り、 す ぐ れ た る 哥、 い づ れ の 上 手にもおとらず、⋮⋮ 讃 え て い る。 建 暦 二 年 ︵ 一 二 一 二 ︶ 頃 よ り 承 久 元 年 ︵ 一 二 一 九 ︶ 以 前 の 院 の 歌 論 で あ る と の 説 に 従 え ば、 院 の 文 言 を 追 体 験 し て﹁ 愚 痴 無 智 ノ 人 ﹂ に 道 理 を 説 く 史 論 に 転 用 し た こ と に も な る で あ ろ う。 他 方、 ﹃ 新 古 今 集 ﹄ 切 り 継 ぎ (348) ― 124 ―
熊本学園大学 文学・言語学論集 第27巻第2号(2020年12月25日) に も 熱 意 を 傾 け て い っ た 後 鳥 羽 院 へ の 追 懐 の 心 情 が、 ﹃ 愚 管 抄 ﹄ に 後 堀 河 天 皇 紀 を 書 き 継 い で い る 際 に 慈 円 の 場 合 は 湧 出 し た。 そ こ に﹃ 勝 事 記 ﹄ と の 決 定 的 な 相 違 が 介 在 す る。 ﹃ 愚 管 抄 ﹄ に あ る﹁ ウ ル ハ シ キ ﹂ は﹁ よ く 整 っ て 調 和 あ る 美 し さ ﹂ を 意 味 し て い る と す れ ば、 院 は 慈 円 を﹁ う る は し き 歌 人 ﹂ と み て い た こ と に も な ろ う。 ﹁ 世 ノ 人 迷 惑 云 々 ﹂ の 直 後 が﹁ 七 月 八 日 於 二 鳥 羽 殿 一 御 出 家、 十 三 日 御 下 向 云 々。 ﹂ で あ っ た。 こ の 一 文 に 直 結 さ せ て い る の が﹁ 十 三 日 御 下 向 云 々。 但 ウ ル ハ シ キ ヤ ウ ニ ハ ナ ク テ 令 二 首 途 一 給 云 々。 ﹂ な の で あ る か ら、 時 間 の 推 移 を 追って事態を列挙している。三つの文の間には、歌人として評価してくれていた後鳥羽院への追慕の情が籠もっ ている。 歌の修辞の ﹁見立て﹂ が無意識にはたらいて、 皇帝年代記の後堀河天皇紀にある院の流刑に ﹁ウルハシキ﹂ の形容詞を配した。後堀河天皇紀を布置したのは、霊告符合への思いが歌人の慈円に甦ったからに他ならない。 ︵四︶構成と方法 小著ですでに次のようなことを論じた。 ﹃聖徳太子伝暦﹄を熟読していた慈円は、 聖徳太子自身が編纂した﹃天 皇記﹄は蘇我入鹿誅殺のときに烏有に帰してしまっている。そこで、蘇我馬子と物部守屋との争いの際に、戦勝 祈 願 に よ っ て 創 立 さ れ た 由 来 が あ る 四 天 王 寺 へ の 信 仰 を 深 め て、 承 元 元 年 ︵ 一 二 〇 七 ︶ 十 一 月 三 十 日 に 当 寺 の 別 当 に 就 く。 建 永 元 年 ︵ 一 二 〇 六 ︶ 三 月 七 日 に 甥 で あ る 九 条 良 経 が 執 政 の﹁ 臣 ﹂ 在 任 中 に 頓 死、 翌 年 の 承 元 元 年 四 月 五 日 に は 兄 の 兼 実 も 逝 去 し た 七 ヶ 月 後 で あ っ た。 信 仰 す る の は﹃ 荒 陵 寺 御 手 印 縁 起 ﹄ ︵ ﹃ 四 天 王 寺 縁 起 ﹄ ︶ に は 太 子 の 教 えを遵守していくならば子孫の繁栄がもたらすと説かれているからであった。承元三年三月二十三日に良経の女 の立子が入内した三ヶ月後に﹃慈鎮和尚夢想記﹄を西山で起草した。これは﹃愚管抄﹄別帖・付録﹁史﹂の論の 雛 形 に な る も の で あ っ た。 承 元 四 年 頃 に は 慈 円 圏 を 組 織 し て、 ﹁ 頼 朝 の 物 語 ﹂ を 内 実 と す る 原﹃ 平 家 物 語 ﹄ で あ る﹃ 治 承 物 語 ﹄ を 企 画 し、 有 縁 の 人 材 を 呼 集 し て 創 出 さ せ て い く。 建 暦 二 年 ︵ 一 二 一 二 ︶ 正 月 十 六 日 に 天 台 座 主 に 還補されて、 ﹃荒陵寺御手印縁起﹄ の教えをもとに太子の編纂した ﹃天皇記﹄ を現今に復活させる。 これが ﹃愚管抄﹄ (347)― 123 ―
『六代勝事記』の周辺と藤原定家 の 皇 帝 年 代 記 を 編 纂 し た 営 為 な の で あ っ た、 と 18 。 他 方、 ﹃ 明 月 記 ﹄ 承 元 元 年 二 月 二 十 六 日 条 に﹁ 壇 所 に 於 て 大 僧 正御房に見参す。 ﹂、承元二年七月十八日にも﹁僧正御房御戒の後﹂とみえており、承元元年頃から九条家の後退 をはかなんだ慈円が西山隠棲をしはじめる心情を定家は弁えている。そのことを付言しておこう。 太 子 讃 仰 が 功 を 奏 し て、 建 保 六 年 ︵ 一 二 一 八 ︶ 正 月 十 六 日 に 八 十 四 代 順 徳 天 皇 と 立 子 と の あ い だ に 懐 成 親 王 が 生 誕した。そして同親王は既述したように八十五代仲恭天皇として即位する経緯を慈円は叙述していく。同年十一 月 二 十 六 日、 右 大 臣 九 条 道 家 が 皇 太 子 傅 に 就 く の が 立 子 の 弟 の 九 条 道 家。 翌 年 の 承 久 元 年 ︵ 一 二 一 九 ︶ 六 月 二 十 五 日 九 条 道 家 の 子 の 頼 経 ︵ 三 寅 ︶ が 四 代 鎌 倉 将 軍 継 嗣 と な っ た。 こ の 二 つ の 事 象 を 末 代 の 道 理 と し て﹃ 愚 管 抄 ﹄ 別 帖で総括する。四代鎌倉将軍継嗣の事象を、 二歳ナル若公、祖父公経ノ大納言ガモトニヤシナヒケルハ、正月寅月ノ寅ノ歳寅時ムマレテ、誠ニモツネノ ヲサナキ人ニモ似ヌ子ノ、占ニモ宿曜ニモメデタク叶ヒタリトテ、ソレヲ、終ニ六月廿五日ニ、武士ドモム カヘニノボリテ、クダシツカハサレニケリ。京ヲ出ル時ヨリクダリツクマデ、イササカモ〳〵ナクコヱナク テヤマレニケリトテ、 不可思議ノコトカナト云ケリ 。 ︵巻五︱︱三一五∼一六ページ︶ 施 線 の よ う な 寸 言 を 慈 円 は 添 え た。 ﹁ 冥 顕 二 法 ﹂ の﹁ 冥 ﹂ す な わ ち 聖 徳 太 子 の 計 ら で あ る と の 思 い が 行 間 に 介 在 している。別帖に続いて付録を慈円は書き継ぐ。将軍継嗣の事象を批評するのが﹁史﹂の論の主旨である。そこ で は、 あ ら た め て 別 帖 の 全 容 を 俯 瞰 し な が ら、 永 承 七 年 ︵ 一 〇 五 二 ︶ に は 仏 法 が 廃 れ る 時 代 す な わ ち 末 法 の 世 へ 突 入したとして、その一世紀後の同時代﹁武者ノ世﹂へ及ばせて、 末 代 悪 世、 武 士 ガ 世 ニ ナ リ ハ テ ヽ 末 法 99 ニ モ イ リ ニ タ レ バ、 タ ヾ チ エ ウ バ カ リ コ ノ 道 理 ド モ ヲ 君 モ ヲ ボ シ イ デヽ、コハイカニトヲドロキサメサセ給テ、サノミハイカニコノ邪魔悪霊ノ手ニイルベキトヲボシメシ、近 臣ノ男女モイサヽカヲドロケカシトノミコソ念願サラレ侍レ。 ︵巻七︱︱三四〇ページ︶ 戦 乱 や 貪 欲 や 嫉 妬 さ ら に は 怨 霊 が と り つ く の で、 治 世 を 領 導 す る 廟 堂 に い る 人 々 を は じ め 院 の 近 臣 等 に 呼 び か け、 (346) ― 122 ―
熊本学園大学 文学・言語学論集 第27巻第2号(2020年12月25日) 神武ヨリケフマデノ事ガラヲミクダシテ思ヒツヾクルニ、コノ道理ハアサスガニノコリテ侍ル物ヲトサトラ レ 侍 レ。 ︵ 中 略 ︶ 最 眞 實 ノ 眞 實 ノ 世 ノ ナ リ ユ ク サ マ、 カ キ ツ ケ タ ル 人 モ ヨ モ 侍 ラ ジ ト テ、 タ ヾ 一 ス ヂ ノ 道 理 ト 云コトノ侍ヲカキ侍リヌル也。 ︵巻七︱︱三四三ページ︶ として、順徳天皇の在位する治世で顕現した四代鎌倉将軍継嗣を道理と揚言したのであった。これが﹁史﹂の論 す な わ ち﹃ 愚 管 抄 ﹄ 付 録 の 前 半 の 趣 旨 な の で あ る。 他 方、 別 帖 の 承 久 元 年 ︵ 一 二 一 九 ︶ 六 月 二 十 五 日 に 九 条 良 経 の 女の立子から生誕した懐成親王の立坊をめぐっては、 十月十日寅ノ時ニ御産平安、皇子誕生思ノゴトクノ事出キニケリ。上皇コトニ待ヨロコバセ給テ、十一月廿 六日ニヤガテ立坊有ケリ。清和ノ御時ヨリ一歳ノ立坊サダマレル事也。カヽルメデタキ事世ノ末ニ有ガタキ 事カナ、猶世ハシバシアランズルニヤナド、上中下ノ人々思タリケリ。 ︵巻六︱︱三〇六ページ︶ 後鳥羽院が喜悦したと象り、末代の現今はなお維持される時運の到来であると批評した。この論調は付録の前半 の ﹁史﹂ の論までの文章では踏襲されていた。ところが、 この ﹁史﹂ の論に続く付録の中間部の文章に及ぶと、 ﹁カ ネ テ ヨ リ 心 得 フ セ テ ﹂ ︵ 巻 七 ︱︱ 三 四 六 ペ ー ジ ︶ い た 院 の 討 幕 計 画 そ の も の を 見 据 え て 率 直 な 慈 円 の 思 念 が 充 溢 し は じ める。当該の文章の趣旨は院への﹁諫言﹂なのである。付録の後半の文章は、激昂した心情が鎮静したあと、悲 哀 の 感 情 が 浮 き 出 さ せ て﹁ ト カ ク ヨ キ 人 ト モ、 ワ ロ キ 人 ト モ 云 ニ タ ラ ヌ 事 ニ テ 侍 也。 ﹂ ︵ 巻 七 ︱︱ 三 五 二 ペ ー ジ ︶ と か、 ﹁ 大 方 心 ア ル 人 ノ ナ サ コ ソ 申 テ モ 〳 〵 カ ナ シ ケ レ。 ﹂ ︵ 巻 七 ︱ 三 五 五 ペ ー ジ ︶ と 悲 憤 慷 慨 し て 、﹁ 言 語 シ ス デ ニ 道 断 侍 リ ヌ ル ニ ナ ム。 シ ヽ モ テ マ カ リ テ ハ、 物 ノ ハ テ ニ ハ 問 答 シ タ ル ガ 心 ハ ナ グ サ ム ナ リ。 ﹂ ︵ 巻 七 ︱︱ 三 五 六 ペ ー ジ ︶ と し て 付 録 全 体 が 閉 じ ら れ た。 付 録 の 後 半 の 内 容 は﹁ 人 材 論 ﹂ と な っ て お り、 ﹁ 諫 言 ﹂ と 同 質 の 論 調 で あ る 19 。 末 代 の 道 理からは、 ﹁諫言﹂ ・﹁人材論﹂そのものはまさしく付録であった。 次に、 ﹃愚管抄﹄と﹃勝事記﹄とを対比してみよう。 ﹃勝事記﹄の構成は、 一、序文 付皇代目録 ︵序論︶ (345)― 121 ―
『六代勝事記』の周辺と藤原定家 二、歴史叙述部︵本論︶ 三、歴史評論部︵結論︶ で あ る の で、 序 論 の﹁ 序 文 付 皇 代 目 録 9 9 9 9 ﹂ は﹃ 愚 管 抄 ﹄ に 皇 帝 年 代 記、 本 論 の﹁ 歴 史 叙 述 部 ﹂ は 神 武 天 皇 よ り 順 徳 天 皇の在位する治世を叙述した別帖、結論は付録の﹁史﹂の論にそれぞれ重なっている。 承 久 元 年 ︵ 一 二 一 九 ︶ 六 月 二 十 五 日 道 家 の 三 男 の 頼 経 ︵ 三 寅 ︶ が 将 軍 継 嗣 と し て 下 向 し た こ と を 批 評 す る た め に 付 録の﹁史﹂の論を書き継いで、 ﹁今ハ正道ヲ存ベキ世ニナリタル也。 ﹂との言辞に直結させて、 コノ東宮、コノ 将軍ト云ハワヅカニ二歳ノ少人ナリ。コレヲツクリイデ給フ事 ハヒトヘニ 宗廟ノ神ノ御サタ アラハナル 。 ︵巻七︱︱三四二ページ︶ とした。施線で懐成親王の立坊と道家の子である藤原頼経の将軍継嗣を二重施線にあるように﹁冥顕二法﹂の道 理に則って、批評したのであっ た 20 。将軍継嗣の事象も﹃勝事記﹄の佐渡廃帝 ︵順徳天皇︶ の条に、 右府の母室二品禅尼、 将軍を申に、三代の余流むなしからず 、後京極の孫右大臣家の末子をくだしつかはさ れぬ。 ︵八一ページ︶ とやはりある。 ﹃勝事記﹄の文章には、 ﹁冥顕の擁護﹂ ︵七一ページ︶ ・﹁仏法をおこし、 王法をつぎ﹂ ︵七三ページ︶ 等との言辞がある。 ﹁冥顕二法﹂の道理・仏法王法相依の道理を説諭する慈円の史論からの影響は明白であろう。 ︵五︶ ﹃勝事記﹄作者と縁戚と法脈 ﹃勝事記﹄の阿波院天皇 ︵土御門天皇︶ の条に、次のような場面が描かれている。すなわち、 建 久 永 元 年 丙 寅 三 月 七 日、 摂 政 太 政 大 臣 良 経 頓 死。 後 京 極 殿 と 申 に や。 文 操 人 に す ぎ、 理 政 民 を な ぜ、 諸 道 に 浅深をさぐりて浮沈をはかり、万機に補佐して親疎なかりき。 (344) ― 120 ―
熊本学園大学 文学・言語学論集 第27巻第2号(2020年12月25日) 花尚昔花 留 笛 有露 宅斯旧宅廃無人 金谷のはなのにほひ、南楼の月のかげ、袖をかはしてみしともをこひ、ゆかをひとつにしてながめし人を忍 ぶ る に、 春 ゆ き 秋 き た れ 共、 む な し く 年 を 記 し て、 い た づ ら に お も ひ を い た ま し む る に や 。 前 大 僧 正 慈 円 、 つひに行べき道なれど、一日も二日もうちなやみて、おもふ事をもいひつゝ、かゝるべし共かねておもはな くは、よのつねなれば、なぐさむかたもありぬべし。 ︵七六∼七ページ︶ 九条良経の漢詩をもとに、施線では﹃本朝文粋﹄ ︵巻一四 ・﹁為謙徳公修報恩修善願文﹂ ︶ を踏まえて良経を追悼してい る 21 。 さらに良経の叔父の慈円が﹁死は世の常ではあるにしても、このような異常な死に方に何とも慰められようもな い﹂と追慕の情を横溢させた。九条家への親愛の情を行間にたたえつつ、抒情性や哀傷性のともなった精彩な形 象でくまどった。 ﹃ 勝 事 記 ﹄ 作 者 の 候 補 と し て は、 今 の と こ ろ 信 濃 前 司 行 長・ 葉 室 定 経・ 藤 原 長 兼・ 源 光 行・ 藤 原 隆 忠 が あ が っ ている。このうち ︵一︶ の章で既述したように高橋説の藤原長兼を擬し た 22 のに左袒したい。それは伊藤説も、 ﹃勝 事 記 ﹄ の 序 文 の﹁ 貞 応 の 今 に い た る ま で ﹂ と 阿 波 院 天 皇 ︵ 土 御 門 天 皇 ︶ の 条 で、 執 政 の﹁ 臣 ﹂ と し て 活 躍 し て い た 良経の頓死につづけて、前掲したように形象されていることに着眼して、 六 代 勝 事 記 の 成 立 が 序 に 言 う よ う に 貞 応 の 今 と す る と、 ま だ 慈 円 の 没 年 前 で あ る。 ︵ 中 略 ︶ 当 代 一 流 の 文 人 政 治 家 良 経 に 仕 え た 作 者 が、 主 人 の 死 を と く に 哀 悼 し て わ ざ と 書 き 入 れ た の で あ る ︵ 中 略 ︶ 、 私 案 で は、 長 兼 の 可能性がより大のように思う⋮⋮ と論じてい る 23 。さらに刮目しなければならないのは、久保田説も前掲したように﹁それは長兼によって書かれて も、 ま た 他 な ら ぬ 定 家 99 に よ っ て 書 か れ て も 当 然 で あ っ た と 考 え る。 ﹂ と し て、 長 兼 と 併 せ て 定 家 の 名 を も 記 し た こ と で あ る 24 。﹃ 勝 事 記 ﹄ 作 者 は 長 兼 と 定 家 の い ず れ か で あ ろ う と の 含 み の あ る 筆 致 で も あ ろ う が、 両 人 列 挙 の 久 保 田 の 言 説 そ の も の に 感 興 を 誘 わ れ て な ら な い。 理 由 は、 長 兼 の 父 の 長 方 は 定 家 の 従 兄 で あ っ た ︵ 西 山 の 慈 円 圏 の 人 脈 は 後 述、 相 関 図 は 後 掲 す る。 ︶ の で、 ﹁ 長 兼 と 定 家 と が 歩 調 を あ わ せ て﹃ 勝 事 記 ﹄ を 成 立 さ せ た ﹂ と の 思 い が 筆 者 尾 崎 (343)― 119 ―
『六代勝事記』の周辺と藤原定家 に は 湧 出 す る。 そ れ は﹃ 愚 管 抄 ﹄ の 現 形 態 に な る ま で に は ︱︱、 皇 帝 年 代 記 に 緻 密 に 事 象 を 時 系 列 に 刻 み 入 れ、 別帖・付録の日本全域の多様な事象を仮名で逐次書き継いでいく︱︱。多岐をきわめている。後鳥羽院へ進講し た学匠にして九条良輔の師であり、慈円とも交わっている菅原為長の協力を道理を構築するために推定したから であっ た 25 。 定 家 は 西 山 の 慈 円 圏 に 参 画 し て 行 長 や 宇 都 宮 入 道 蓮 生 ︵ 定 家 の 嫡 子 の 為 家 の 妻 に 蓮 生 の 女 を 迎 え た。 ︶ と す で に﹃ 治 承 物 語﹄創出していることに配意したならば、最初の史論﹃愚管抄﹄の成立から二年後に成立させていった第二番目 の史論﹃勝事記﹄も二人三脚であったのではあるまいか。六十余歳の老境に入った藤原長兼であったことを顧慮 し た と き、 本 章 の 冒 頭 に 掲 出 し た 阿 波 院 天 皇 ︵ 土 御 門 天 皇 ︶ の 条 も そ う で あ っ た が、 安 徳 天 皇 の 条 に 描 か れ て い る 平家一門の西海漂泊をめぐる一節が、 保 元 の 春 の 花、 寿 永 の 秋 の 葉 と お ち は て、 八 条 の 蓬 壺、 六 原 の 蓮 府、 暴 風 ち り あ げ、 煙 雲 ほ の ほ を は け り、 龍頭鷁首を海中にうかべて 、 波上に行宮しづかなる事なし 。いそべのつゝじの紅は、そでの露よりさくかと うたがひ、さ月のとまのしづくは、ふるさとをのきのしのぶにあやまる。月をひたすうしほの、ふかきうれ へにしづみ、しもをおほへるあしのはの、もろき命をあやぶみ、洲崎にさわぐ千鳥の声は、あか月のうらみ をそへ、そばにかゝるかぢの音は、夜半に心をくだき、白鷺の遠松にむれゐるを見ても、えびすはたをなび かすかとあやしみ、夜雁の遼海になくを聞ても、つはもの舟をこぐかとおどろく。青嵐膚をやぶりて、翠黛 紅顔の粧やうやくおとろへ、蒼波眼うげて、懐古望郷の涙おさへがたし。 住なれし都のかたはよそながら袖になみこす磯の松風 ︵六九∼七〇ページ︶ き わ め て 絢 爛 な 格 調 の 高 い 彫 琢 が な さ れ て お り、 し か も 躍 動 す る 抒 情 性 の あ ふ れ た 清 新 さ が み な ぎ っ た 文 章 に なっている。 ﹃明月記﹄建暦二年 ︵一二一二︶ 一月二十一日条に、 廿一日。辰の時に雨降る。終日濛々たり。天明に華洛を出で、孤舟を棹す。雨脚滂沱たり。漸く黄昏に及び て、神崎の小屋に着く ︵静快律師、同じく此所に宿す︶ 。 (342) ― 118 ―
熊本学園大学 文学・言語学論集 第27巻第2号(2020年12月25日) 沙堤雨の裏行人少なし。 纔に漁舟を伴ひて宿を問ひて来たる 月黒く雲陰りて 徐ろに 夜ならんと欲す 猶江水を望みて独り徘徊す はるさめのあすさへふらばいかがせんそでほしわぶるけふのふな人 と定家は記していた。同日の条は、平家一門の西海漂泊を描いた﹃勝事記﹄の文章とほぼ呼応するであろう。そ れにひきかえ長兼が作者とみなせる可能性があるにしても、平家一門の西海漂泊のような場面を描くことを証拠 立 て る 長 兼 の 文 才 そ の も の が 具 体 的 に 管 見 に は 入 っ て こ な い。 ﹃ 勝 事 記 ﹄ の 成 立 に 定 家 が 協 力 し て い た と 憶 断 さ れてくる。そこで定家と長兼との縁戚関係と法脈との相関図を掲出してみよう。すなわち、 [相関図] ︵実線は血縁関係、点線は法脈。 ︶
藤
原
俊
忠
藤
原
顕
能
藤
原
通
憲
俊
成
定
家
覚
俊
子
長
方
顕
長
顕
能
女
證
憲
女
観
性
慈
円
長
兼
︵ 信 西 ︶ である。 この相関図から知られることは、長兼の父の長方は定家の従兄であるわけだが、長方の従兄弟には慈円の師で あった第二代の西山の往生院院主が観性であることに注目せねばならない。観性の弟子が慈円であり、西山に慈 (341)― 117 ―『六代勝事記』の周辺と藤原定家 円圏を組織したとき慈円自身は第三代往生院院主になっている。法脈からつながる。 さらに相関図から判然とすることは長兼と聖覚とはおたがいに従兄弟同士であった。慈円圏で創出した原﹃平 家物語﹄ ﹃治承物語﹄を遺存している屋代本に、 園 別 当 澄 憲 法 印、 其 比 未 権 大 僧 都 ニ テ 御 坐 シ ケ ル カ、 名 残 テ 奉 レ 惜、 泣 々 粱 津 マ テ 送 奉 ラ ル。 自 レ 其 澄 憲 暇 申 テ 被 レ 返 ケ ル ニ、 明 雲 僧 正 年 来 己 心 中 ニ 残 サ レ タ リ ケ ル 天 台 円 宗 秘 法、 一 心 三 巻 ノ 法 門 并 ニ 血 脈 相 承 ノ 譜 ヲ授ラル。此法ハ釈尊ノ付属ヲ、波羅奈国ノ馬鳴比丘、南天竺ノ竜樹菩薩ヨリ次第ニ相伝シ来レルヲ、今 日ノ情ニ澄憲ニ是ヲ受ラル。我国ハ粟散辺地境、濁世末代トハ云ナカラ、 澄憲 ヲ付属シテ、法衣ノ袂ヲ押ヘ ツヽ、被 レ 返ケルコソ哀ナレ。 ︵巻二﹁先座主明雲罪科儀定 同配流事﹂ ︶ と描かれている。施線にある ﹁一心三巻ノ法門并ニ血脈相承ノ譜﹂ を授けたとなっている。他の語り本系では ﹁一 心 三 巻 の 血 脈 相 承 を 授 け ら る。 ﹂ ︵ 覚 一 本 ︶ 等 と か﹁ 一 心 三 巻 ノ 相 承 血 脈 ヲ 授 ラ ル。 ﹂ ︵ 盛 衰 記 ︶ と 仏 事 善 行 を し た と 不 自然な場面構成になってしまっている。屋代本の施線のように﹁譜﹂すなわち文書だけを手渡したと描く方が悲 境に立つ慌ただしい流罪に際しては実情にかなってい る 26 。二重施線の﹁澄憲﹂は安居院流の祖、しかも子が聖覚 であっ た。 ﹃明月 記﹄建 久三年 ︵一 一九二︶ 三月 十六日の 条より 嘉禎元年 ︵一 二三五︶ 四月二 十二日 の条ま でには、 ﹁聖 覚﹂の名が八十例ほど頻出している。定家が三十一歳から寂する八十歳の六年前にあたっており、終生、 ﹁聖覚﹂ とは親密な交わりをしてい た 27 。屋代本は、西山の慈円圏で創出した﹃治承物語﹄を遺存させていることに照らし て、聖覚との法脈から﹃勝事記﹄成立に関与する定家が推定されよう。 相関図をもとにしたとき、西山の第三代往生院院主である慈円が慈円圏を組織して原﹃平家物語﹄の﹃治承物 語﹄創出に定家が参画していたことを顧慮したならば、その慈円圏での本物語創出があった建保末年より五年後 の 貞 応 二 ・ 三 年 の 文 事 で あ る﹃ 勝 事 記 ﹄ 成 立 に 長 兼 と 定 家 と が 歩 調 を あ わ せ て も 不 自 然 で は な い の で は あ る ま い か。 (340) ― 116 ―
熊本学園大学 文学・言語学論集 第27巻第2号(2020年12月25日) ︵六︶平重盛の形象をめぐって 慈円圏で創出した原﹃平家物語﹄である﹃治承物語﹄を遺存している屋代本では、平重盛の死に際して、 此 大 臣 ハ、 文 章 端 ク シ テ 忠 ニ 思 ヲ 存 シ、 才 芸 正 ク シ テ 詞 ニ 徳 ヲ 兼 タ リ。 サ レ ハ 世 ニ ハ 良 臣 ヲ 失 エ ル 事 ヲ 歎 キ、 家ニハ武略ノスタレン事ヲ悲ム 。 ︵巻三﹁同内府病事同死去事﹂ ︶ 重盛の器量を讃えながら、 平家一門の ﹁武略﹂ が廃れてしまうことを世人が悲嘆したと描き、 ﹃愚管抄﹄ ・﹃勝事記﹄ をも取用して慈円周辺圏で再編された六巻本﹃治承物語﹄の延長線上にある延慶本では、 凡ソ此大臣文章 ウルハシクテ 9 9 9 9 9 9 、心ニ忠ヲ存ジ、才芸正クシテ、詞ニ徳ヲ兼タリ。サレバ世ニハ良臣失ヌル事 ヲ愁ヘ、家ニハ 武略ノスタレヌル事ヲ歎ク 。心アラム人、誰カ嗟歎セザラム。 ︵二本・二三﹁小松殿大国ニテ善ヲ修シ給事﹂ ︶ 潤 色 が 濃 厚 に な っ て お り、 増 補 さ れ た の は 確 か で あ る。 圏 点 か ら も﹃ 愚 管 抄 ﹄ と﹃ 治 承 物 語 ﹄ の 影 響 が あ ろ う。 一方、 ﹃勝事記﹄の安徳天皇の条には、 入道大相国薨ぬ。其家嫡小松内府の さいぎりて薨ぜし 、世には賢相の名誉を を しみ、家には 武将の兵略をう しなへり 。 ︵六八ページ︶ とあって、平清盛の死に直結させて、二重施線で平家一門の嫡男である重盛は﹁先だって﹂死去したと描いてい る。屋代本・延慶本そして﹃勝事記﹄とを比較した冨倉徳次郎は、 ﹁屋代本﹂の詞章が﹁六代勝事記﹂の詞章の影響を受けて成ったものであることを認めなくてはならない。 との見方をし た 28 。この言説に留意して、定家が参画した慈円圏で創出した﹃治承物語﹄を遺存させている屋代本 の重盛像の特質を探っていこう。 ﹃百錬抄﹄治承三年 ︵一一七九︶ 八月一日の条にも、 ﹃勝事記﹄と同じように、 入道内大臣重盛公薨。入道前太政大臣嫡子。 武勇雖 軼 二 時輩 一 。 心操甚穏也 。去比参 二 熊野 一 有 二 祈請 一 。 (339)― 115 ―
『六代勝事記』の周辺と藤原定家 施線で重盛は武勇について他の連中よりは突出しているとし、二重施線には心性はたいへん穏やかで熊野参詣を するほどであったと記載している。殊に留意したいのは、施線にあるように﹁武﹂の側面が添えられていること である。 ﹃愚管抄﹄別帖の二条天皇の条にも、 平 氏 ガ 方 ニ ハ 左 衛 門 佐 重 盛 清 盛 嫡 男 ・ 三 河 守 頼 盛 清 盛 舎 弟 、 コ ノ 二 人 コ ソ 大 将 軍 ノ 誠 ニ タ ヽ カ イ ハ シ タ リ ケ ル ハアリケレ。重盛ガ馬ヲイサセテ、堀河ノ材木ノ上ニ弓杖ツキテ立テ、ノリカエニノリケル、ユヽシク見ヘ ケリ。鎧ノ上ノ矢ドモオリカケテ各六波羅ニ参レリケル。 ︵巻五︱︱二三五ページ︶ 平 治 の 乱 で 奮 闘 し て い る 重 盛 が ひ と き わ 精 彩 を 放 っ て 象 ら れ て い る。 ﹁ 武 ﹂ の 側 面 が き わ め て 具 体 的 の 叙 述 さ れ ており、さらに別帖の高倉天皇の条では、 小松内府重盛治承三年八月朔日ウセニケリ。 コノ小松内府ハイミジク心ウルハシクテ 、父入道ガ謀叛心アル ト ミ テ、 ﹁ ト ク 死 ナ バ ヤ ﹂ ナ ド 云 ト 聞 ヘ シ ニ、 イ カ ニ シ タ リ ケ ル ニ カ、 父 入 道 ガ 教 ニ ハ ア ラ デ、 不 可 思 議 ノ 事ヲ一ツシタリシナリ 。子ニテ資盛トテアリシヲバ、基家中納言婿ニシテアリシ。サテ持明院ノ三位中将ト ゾ申シ。ソレガムゲニ若カリシ時、松殿ノ攝簶臣ニテ御出アリケルニ、忍ビタルアリキヲシテアシクイキア ヒテ、ウタレテ車ノ簾キラレナドシタル事ノアリシヲ、フカクネタク思テ、関白嘉応二年十月廿一日高倉院 御 元 服 ノ 定 ニ 参 内 ス ル 道 ニ テ、 武 士 等 ヲ マ ウ ケ テ 前 駈 ノ 髻 ヲ 切 テ シ ナ リ。 コ レ ニ ヨ リ テ 御 元 服 定 ノ ビ ニ キ。 サル 不思議 アリシカド世ニ沙汰モナシ。次ノ日ヨリ又松殿モ出仕ウチシテアラレケリ。 コノフシギコノ後ノ チノ事ドモノ始ニテアリケルニコソ 。 ︵巻五︱︱二四六∼四七ページ︶ 二重施線で重盛の心性を讃美し、施線では﹁不可思議﹂なこととして重盛による執政の﹁臣﹂藤原基房への暴挙 の 顛 末、 ﹁ 武 ﹂ そ の も の を 具 体 的 に 押 し 出 し て、 ふ た た び﹁ 不 思 議 ﹂ と 批 評 し な が ら 波 線 の 言 辞 の な か で﹁ コ ノ フ シ ギ ﹂ と の 寸 言 を 添 え て い る。 同 意 語 を 三 回 も 繰 り 返 し た。 ﹃ 百 錬 抄 ﹄ に﹁ 武 勇 雖 軼 二 時 輩 一 ﹂ 記 載 さ れ て い るので、重盛の強烈な﹁武﹂が当該の文章では顕著である。それは、既存の﹁世継物語﹂の﹃今鏡﹄が語り終え た嘉応二年を引き継いで慈円圏で創出した新奇な﹁世継物語﹂である﹁いくさ物語﹂すなわち﹃治承物語﹄をは (338) ― 114 ―
熊本学園大学 文学・言語学論集 第27巻第2号(2020年12月25日) じ め て 叙 述 す る 慈 円 の 思 念 が﹃ 愚 管 抄 ﹄ の 当 該 の 文 章 に は 充 溢 し た と 判 断 さ れ る。 換 言 す れ ば、 ﹃ 治 承 物 語 ﹄ の 発端を取り込んで、以下では頼朝の旗揚げへ及ばせ、壇ノ浦に海戦を経て、王法と仏法とが安寧になっていく治 世の推移を、 ﹃治承物語﹄の内実である﹁頼朝の物語﹂に依拠しながら叙述していくからであっ た 29 。 ﹃山槐記﹄治承三年 ︵一一七九︶ 五月二十五日条に、 前 内 大 臣 正 二 位 平 重 盛 年 四 十 二 、 依 病 出 家、 干 時 厳 親 入 道 太 政 大 臣 見 存 、 日 来 不 食 云 々、 去 二 月 東 宮 御 百 日 出 仕、 其後籠居、 三月被参熊野□申後世事云々 病により出家したとある。その二ヶ月前、施線部の熊野参詣をめぐる事象については屋代本に、 其 比、 熊 野 参 詣 ノ 事 有。 本 宮 証 誠 殿 ノ 御 前 ニ 参 給 テ、 大 臣 終 夜 祈 請 申 サ レ ケ ル ハ、 ﹁ 父 入 道 相 国 ノ 体 ヲ 見 候 ニ、 一期ノ栄花猶アヤウシ 。 無道ニシテ動レハ君ヲ奉 悩。 ︵中略︶ 重盛カ運命ヲヅヽメテ来世ノ苦輪ヲ助給ヘ。 両 ケ 愚 願、 偏 ニ 仰 二 冥 助 一 ﹂ ト、 摧 二 肝 胆 一 テ 祈 念 セ ラ レ ケ レ ト モ、 人 是 ヲ 不 知。 灯 炉 如 ナ ク ル 物 ノ、 大 臣 ノ 御 身 ヨ リ 出 テ、 バ ト 消 ル 様 ニ シ テ、 失 ニ ケ ル。 ︵ 中 略 ︶ 然 ニ 此 君 達、 無 程 実 ノ 墨 染 ノ 色 ニ ナ ラ レ ケ ル コ ソ 哀ナレ。 ︵巻三﹁小松内府熊野参詣事﹂ ︶ 平家一門の衰亡から重盛の死去を先取っている。頼朝勢の攻撃によって、重盛の孫である六代も二十六歳で処刑 されたことへと展開させ、 遂 ニ 被 切 ケ リ。 十 二 ヨ リ シ テ 廿 六 マ テ 持 ケ ル ハ、 長 谷 観 音 ノ 御 利 生 ト ソ 聞 ヘ ケ ル。 其 ヨ リ シ テ 平 家 ノ 子 孫 ハ絶終ケリ。 ︵巻一二﹁六代御前干時三位御前被誅之後平家一門跡絶事﹂ ︶ 六代が延命ができたのは観音菩薩の利生であったとの一文を添えたのは﹃愚管抄﹄にある﹁コノフシギ﹂と類同 する。 ﹁冥顕二法﹂の道理から本章段は括られたのであった。この文の直後には、 平家物語第十二之終 と記され、物語はすべて終わった。屋代本と慈円の史論とは軌を一にしている。 西 山 の 慈 円 圏 で 創 出 し た﹃ 治 承 物 語 ﹄ に 形 象 化 さ れ た 重 盛 は、 ﹃ 勝 事 記 ﹄ に 描 か れ て い っ た。 慈 円 圏 に 参 画 し (337)― 113 ―
『六代勝事記』の周辺と藤原定家 ていた定家が、 ﹃勝事記﹄にも筆を入れたからであろう。 定家の歌と﹃勝事記﹄︱︱結びにかえて︱︱ 定家の歌に着目し、第二番目の史論である﹃勝事記﹄成立へ関与する定家を、最初の史論﹃愚管抄﹄と慈円圏 から慈円周辺圏での文事をあらためて俯瞰して、たどりなおして結ぶことにしよう。 定家は、 いはへどもわがため露ぞこぼれそふ藤のさかりを松はふりつゝ ︵二六七三︶ ﹁ 松 ﹂ に 自 己 を 掛 け な が ら﹁ 藤 の さ か り ﹂ に は 藤 原 摂 関 家 の 正 嫡 で あ る 九 条 良 経 の 頓 死 に と も な っ て 遺 児 と な っ た 嫡 子 の 道 家 ら 九 条 家 一 族 が と も ど も に﹁ さ か り ﹂ が も た ら さ れ る こ と を 願 っ た 歌 で あ る。 ﹃ 勝 事 記 ﹄ の 隠 岐 院 天皇 ︵後鳥羽天皇︶ の条には、建久三年 ︵一一九二︶ 三月 9 9 十三日の後白河院の崩御に関連して、 大 宮 人 は、 さ く ら 色 に 染 し た も の と、 お し な べ て 卯 月 を ま つ に さ き か ゝ る 藤 の 衣 に た ち か へ き 。 慈 悲 の 恵、 一天の下をはぐくみ、平等の仁、四海の外ながれき。 風ふかぬ御世にも猶ぞおもひ出る入にし月の春の面影 ︵七四ページ︶ 廟 堂 の 人 々 は 桜 色 に 染 め 抜 い た 衣 の 袖 に 三 月 99 の 翌 月 の 卯 月 に﹁ 待 つ ﹂ を か け、 ﹁ ま つ ﹂ す な わ ち 松 に 咲 き か か る 藤の衣すなわち﹁喪服﹂に着替えたとし、後白河院の慈悲の恵みは、世の人々をはぐくみ、平等の仁慈は世の中 の 外 ま で 流 れ で ま し た と 追 懐 す る 一 節 と 定 家 の 二 六 七 三 番 歌 と は 類 同 し て い よ う。 ﹃ 勝 事 記 ﹄ の 歌 で は、 上 の 句 で は 当 院 に よ っ て 治 世 が 安 穏 で あ っ た こ と を 思 う と 明 言 し て、 極 楽 に 往 生 さ れ た 当 院 の 面 影 が 偲 ば れ る と 詠 じ た。 ﹃ 源 氏 物 語 ﹄ の﹁ 藤 裏 葉 ﹂ 巻 で、 内 大 臣 が 光 源 氏 の 子 の 夕 霧 を 自 邸 に 招 い て、 我 が 娘 の 雲 居 の 雁 を 夕 霧 に 妻 としてすすめる場面で、 御 時 よ く さ う ど き て、 ﹁ 藤 の 裏 葉 の ﹂ と う ち 誦 じ た ま へ る、 御 け し き を 賜 は り て、 頭 の 中 将、 花 の 色 濃 く、 (336) ― 112 ―
熊本学園大学 文学・言語学論集 第27巻第2号(2020年12月25日) ことに房長きを折りて、客人の御盃に加ふ。取りてもてなやむに、大臣、 紫にかことはかけむ 藤の花まつより過ぎて うれたけれども 宰 夕 霧 相 、盃を持ちながら、けしきばかり拝したてまつりたまへるさま、いとよしあり。 いくかえり露けき春を過ぐし来て花のひもとくをりにあらなむ 頭 柏 木 の 中将に賜へば、 たをやめの袖にまがへる藤の花見る人からや色もまさらん 次々順流るめれど、酔ひのまぎれにはかばかしからで、これよりまさらず。 内大臣が、 わが家の藤の花のひとしお色深い夕暮に、 いく春のなごりを求めておいでになりませんかと詠じると、 夕霧は謝意を籠めて、拝舞は優雅でしたと和し、夕霧から柏木へ盃をさしだした。柏木も、藤の花に雲居の雁を か け て 美 女 の 袖 の 色 に も 似 た 藤 の 花 は、 賞 美 す る 人 に よ っ て 一 層 美 し さ を ま す こ と で し ょ う と 和 し た と あ っ た。 この﹁藤裏葉﹂巻の物語を本説として、定家の二六七三番歌そして﹃勝事記﹄の後白河院崩御を回顧し、施線部 のように描かれている。要するに、ともに本説取りの修辞がこらされた。後鳥羽院の条を描いた﹃勝事記﹄の歌 には慨世憂国の怒りも重層する。 定 家 が 六 十 二 歳 か ら 六 十 三 歳 に か け て﹃ 勝 事 記 ﹄ が 成 立、 七 十 六 歳 か ら 七 十 九 歳 頃 に か け て 六 巻 本﹃ 治 承 物 語﹄ の再編がなされる。その時期は、 後鳥羽院の隠岐配流から崩御の前年にあたる。 ﹃明月記﹄ 寛喜元年 ︵一二二九︶ 十二月二十八日の条では、 又云ふ、 故 9 中納言長兼 三男 ︵前八省輔。名忘る︶ 去る比、謀書の聞え有り ︵謀りて国司に任じ任ずる料銭を取る︶ 。 と 記 載 さ れ て い た。 嘉 禎 三 年 ︵ 一 二 三 七 ︶ 頃 か ら 仁 治 元 年 ︵ 一 二 四 〇 ︶ 頃 よ り 十 年 前、 定 家 六 十 八 歳 の 時 に 圏 点 に あ るように故人長兼としているので、長兼と親交があった証憑の一つになるはずである。 ﹃ 治 承 物 語 ﹄ を﹃ 愚 管 抄 ﹄ に 取 り 込 み、 す で に 慈 円 圏 に い た 宇 都 宮 入 道 蓮 生 は 慈 円 周 辺 圏 に も 参 画 す る。 蓮 生 は﹃平家物語﹄初期生成に深く関与した人材であっ た 30 。蓮生の女を嫡男為家の正妻にした定家は、蓮生と同じよ (335)― 111 ―