『悪魔と神』について : 仕草 (ジエスト) か,行為
か
著者
岡村 雅史
雑誌名
年報・フランス研究
号
16
ページ
36-58
発行年
1982-12-25
URL
http://hdl.handle.net/10236/9114
岡
『悪魔 と神』について
―一仕 草 か
,行
為 か――
I
SARTREの
演劇 は,
彼 自身 が そ う 呼 ぶのだが,「
状況 の演劇」(th6atre de situatiOns)であ る。 内容か らす ると,そ
れ は「 自由の演劇」 とい うべ きもの で あ る。 す なわ ち人間が本来 自由な存在である以上,そ
の 自由を舞台上 に提示 す ることが 目的なのだが,自
由 とは説 明不可能 な ものであ り,定
義す ることの で きぬ概念であ るゆ えに仁ヽ これ を示すためには,一
つの状況の中で人間がい か に して 自由な意志 によ って 自己 を選択す るか を劇化す る必要がある。 これが 状 況 の演劇 であ る。 しか し,
こ うい った劇 に も大別 して二 つの表現 の型があ る よ うに思 われ る。一 つは主人公が 自由な選択 によ って行動 をなす,そ
の瞬間 を 描 く方法 である。ttθs ν ο%θttθsや
二ιs ν αれs sαJθsな
どは この タイ プの作品 と考 え られ る。 これ はSARTREの
次 の言葉 に即 した もの とい えよ う。Ce que le th6atre peut montrer de plus 6mouvant est un caractёre en
train de se faire, le moment du choix, de la libre d6cision qui engage une
morale et toute une vie。(2)
もう一 つ は
,す
でに挫折 して しま ってい る人間や,
自由 を もはや行使 で きぬ 限界状況 にある人間 を示す ことによ って,逆
説的 に望 むべ き本来 の 自由を描 こ うとす る ものであ る。 H%づs
εJοs, ν ογ′s sα%sS″
″Jノ%γθ, 二θs Sノg%θsιγノsα'ИJ′ο%α な どが この タイ プの作品 として挙 げ られ よ う。後者の作品群が積極的
『悪魔 と神』について
37
も最後 には 自由な 選択 に基づ いた 行動が 結局無効 にな ることが しば しばであ る。Oreste(二θs y。%θんθs)は王位纂奪者 を殺 し,町
の人 々に 自由を与 え,王
子 と して美 しい魂 を演 じるが,町
に とどま ることはせず,再
び孤独 な旅 に出 る。Hugo(二
θs yαれs sαJθs)は
真 の行動 を夢見 なが ら果 たせず 自殺 同様 の死 を求 め る。 このためにSARTREは
好んで 人間の挫折的姿勢 を取 りあげ,
行動へ の 指 針 をなん ら描 いていない と批判 され る。確 かに彼 の多 くの戯 曲や小説 は,人
間 が決断 し行動す るが,現
実 の中でその行動 の結果が有効 にな らない状態 を示 し,問
題 を提起す るだ けで結論 は下 さない。解答 を出すのは常 に観客や読者 の 役 日で あ る。 しか しこれ は現実世界 にお ける自由実現 の可能性 に対す る危惧 の 念 を示 してい るのであ って,
これ を否定す る目的による ものでない ことは状況 の演劇 に関す るSARTREの
言葉 か ら も察せ られ よ う。 演劇が 世 の中の様相 を 映 し出す鏡 であ るな らば,SARTREの
劇 は現代 にお ける自由の具体化 の困難 さ を反映 してい る もの と考 えられ る。今 日の世界 は複雑化 し分裂 し,人
格 の 自由 な発展 を妨 げ る要因に満 々てお り,行
為 は こ うい った状況 の中で常 に無効 に帰 す る とい う危機 に 瀕 してい る。 この ことが 現 実の問題 と深 くかかわ りを持 つSARTREの
劇 において肯定的な行動 の舞台化 を阻 んで きたのであ る。 だが徐 々 に彼 の劇 は現実的な行動成立へ の進展 を見せ る。 Lθs yο%ελθsに
おいて は 自 由 の現 実化 は意 図の段階 に とどま るが,二
θs yα れs sαJθsで
は一つの行為 に意 味 を持 たせ るために 主人公 は 自 らを 殺すので あ る。 そ して ここで 取 りあげる 二θDづαbJθ θι Jθ Bο%Djθ%で
は 自由は,は
っ き りと具体的な行為 の中で初 めて 肯 定 され るのであ る。 この作 品 は従 って 二θs yο%εんθsや
二θs yα れs sαJιsの 延 長線上 にあ る。Cette piёce peut passer pour un comp16ment, une suite aux ν αづ%s Sαノθs, bien que l'action se situe quatre ans auparavante{3)
しか しこの 作品の 後には
,
積極的な 行動を描いた ものは見 られず
,
再び
註 ① 創作劇 か らは遠去か って しま う。 それ ゆえ現実性 の中で開花す る行動 を描 いた 戯 曲は この作 品のみ とい うことにな る。 ではなぜ
,そ
していかに して この劇 が肯定的な行動 を描 きえたのか,ま
た, そ こに描 かれ た行動 は真 の行動 なのか。かか る疑問点か らこの作 品を検討 して み たい。」. ―Po SARTRE,二'Eιγιθι′θ%ノαπι,p。 513。 La libert6 se fait acte et nous
l'atteignons ordinairement a travers l' acte qu'elle organise avec les motifs,
les mobiles et les ins qu'il implique.(..・)Comment donc d6crire une e対 s―
tence qui se fait perp6tuellement et qui refuse d'etre enferm6e dans une d6flnition. La d6norrlination meme de《 libert6》 est dangereuse si l'on doit
sous―entendre que le mot rcnvoie a un cOncept, conllne les mots font a
l'ordinaire. Ind6flnissable et innonlmable, la libert6 ne serait― elle pas indes‐ criptible P (2) J. _Po SARTRE, 1り% ノんιαιγθαι sづιπαιづο%s, p。 20。 (3) Ibid., p。 272. Ⅱ ア リス トテ レスが『 詩学』 を書 いて以来,「演劇 (悲劇
)は
行動 (action)の 模倣 (imitation)」 と信 じられ て きた。近代 にな って この理念 は次第に崩 され, 二十世紀 にいた って,
これ を根底か ら くつが えすnouveau th6atre,ぁ るいは anti一th6atreと ぃ った劇 の出現 を見 た。 しか し, こ うい った演劇が否定 の対象 としたのは,ア
リス トテ レス的 な行動 の理念 であ り,そ
の意味では この言葉 は 今 尚生 きてい るわけであ る。 また この「 詩学」 の演劇観 に反対す ることな く, これ に従 ってい る作劇態度 において さえ も本質的な意味での行動の とらえ方の 相異 は作 品に大 きな影響 を与 えてい る。SARTREは
行動 と仕草 (geste)を 区別 す る。行動 とは常 に志 向的 (intentionnel)で なけれ ばな らず,一
つの 目的に向『悪魔 と神』について
39
う もので あ る。gesteと
は 目的 を持 たぬ無効 の行動,
目的か ら逸脱 した似非行 動 であ る。彼 に とっては 自由は行動 によってのみ開示す るの だか ら,演
劇 は行 動 を描 かね ばな らない と考 え られ る。 しか るに,I%づ
s εJοsに
代表 され る否定 的 な状況劇 では行動 は全 く描 かれてお らず,筋
(action)さ ぇ見 られ ない。 ま た 二ιs ν ο%θttθsの
よ うな作 品の主人公達 が劇 中で展開 させ る一連 の行動 は諸 々の障害 に出会 い,
また 自己の意志 の 曖昧 さのためにgesteに
変 わ って しま う。 しか し彼等 の行動がgesteに帰す る本当の理 由は一つであ る。 それ は彼等 が行動 を夢見 たか らであ り,行
動 を模倣 しよ うと努 めたか らに他 な らない。L'incarnation de la libert6 dans ttθ s ifθ%θttθs demeure ainsi au niveau de la silnple intention de s'incarner: 1'acte s'y change en geste(… 。)(1)
行動が一つ の 目的 に向か うものな らば
,
その行動 その もの を 目的 とす るこ とは二重 の 目的 を持つ結果 とな り,
行動 は 演技 に 変 わ って しま う。そのためSARTREの
主人公達 は多かれ少 なかれ道化 とな る。 Lθ DづαわJθ θι Jθ Bο%Dづθ%
の主人公Goetzと
て その例外 ではない。 ではなぜ彼 だけが行動へ の一歩 を踏 み 出すのか。 これ は一つにはその背景 に作者 の思想 的変化が あ る。作 中人物が 作者 の投影 であ るな ら, Goetzは SARTREの
肯定 的 な思想 の 反映 で あ る。彼 は この劇作 を創作 してい る頃,ス
ター リン主義 を批判 しつつ,現
代 にお け る有 効 な哲学 はマル クス主義以外 にはない とい う見地か ら,
これ に大幅 に接近 す る とい う決断 を行 な った。 もう一 つ彼 の考 えを 大 きく変 えさせ た ものに, Jean
GENETの
発見 が あ る。 この一私生児 の作家が現実世界 の中で 自由を具現化 し た事実 に彼 は驚嘆 した。 そ して実存主義的精神分析 と自ら呼ぶ方法でSARTRE
はGENETを
分析 したが,他
の作家 に対す る場合 と違 ってGENETの
分析 は分 析者 自身 の思想 に大 きな影響 を 与 えたのであ る。 か くしてSARTREは
この私 生児 の作家 を念頭 に人間の 自由 と行動 の問題 を再検討す ることにな る。 (ちな み に Sαづ,o″ Gθ%θノ,θο%ノαづθ%θノ%αγ″γ の干J行は,
二θDづαbJθ θ′Jθ Bο%Dj%
『悪魔 と神』について
た悲観主義か ら楽観主義へ と彼 は方 向 を変 えることにな る。
Goetzの
行動 を肯定的 に させ てい る要因は,基
本的 には この作者 の思想的変 化 にあ るが,そ
れが具体的に劇作において どのよ うに現 われてい るだろ うか0。作者 は この劇 を一人 の個人の 冒険物語であ ると 述べ てい る。 実際
, Goetzは
un caractёre en train de se faireそ の ものであ り
,
彼 が その 冒険 によ って 一 人前 にな るまでの試 行錯誤が この劇 の基本軸 とな ってい る。 この点では この 劇 は先 行す るSARTREの
他の劇作 とは趣 を 異 にす る。 他 の劇 では人は一個 の 明晰 さであ り,客
観的 に状況 を分析 しよ うとす る知性派 であ る。 そ こへ「 突然 自由が襲 いかか る0。」根源的 自由が爆 発 し一挙 に舞台 は熱 を帯 び大 団円へ 向か う。劇 は静的 (statique)な 状態 か ら急 に動的(dynamique)と
な る。人間 の 自由が瞬間的な行為 の中で とらえ られ る時,そ
の劇構成 は明快 で凝縮 され,三
一 致 の法則 に従 って さえい る。 だがGoetzの
場合,
彼 の 自由は継続せ る行動 の 中で とらえ られ,
劇 中の 経過時間 も一年 に及ぶ。F.JEANSONは
SARTRE
の全作 品には青年か ら大人へ の移行が示 され てい る0と
指摘 してい るが,そ
う い った過程が瞬間 においてでな く,
段階 を追 って 描 かれ るのはGoetzの
場合 だ けであ る。Oresteも
,Hugoも
Garcinも それ ぞれ年 令 の差 はあ る ものの青年期 に属す る とみなせ る人間 であ る。世界 を認識す るが認識 を超 える行為がで きない,あ
るいはで きなか った ことを悩 む。青年 とは具体的現実性 を前 に して,そ
の抵抗 を受 け,
これ に圧倒 され そ うにな りなが ら逃がれ よ うとす る自由の姿である。SARTREの
言葉 を もってすれ ば,
それ は 人間 の意識=自
由の 姿 であ り,
対 自 (pour soi)の 受難 であ る。 こ うい った 青年 によ って象徴 され る意識的な姿勢 は インテ リの立場 で もあ り,
ひいてはSARTRE自
身 の姿 であ る。 だが Goetz の場合 は違 う。彼 はインテ リで も悩 め る青年期 の人間で もない。 む き出 しの意 志 で あ り欲望 (d6sir)な のであ る。例 えてい えば,そ
れ は青年 とい うよ り,む
しろ幼児 に近 い ものであ る。 Goetzを 説 明す るにあた って,そ の最 も特徴的な る ものは彼が私生児 (batard)『悪魔 と神』について 41 で あ ることであ る。
SARTREは
この言葉 に多 くの意味 を持 たせてい る。第一 に 私生児 は社会 か ら除外 され た存在 であ り,す
べ てに対 して正当性 を持 たない。 私生児 とはその存在 を 認 め られ ていない者 で あ り,
所有す る 権利 も義務 もな い。 つ ま り在 って在 らぬよ うな存在 であ る。GOETZ
(…)Nous ne sοπ%θS PaS et nous n'αυο%s riene Tous les enfants 16gitimes peuvent jouir de la terre sans payer. Pas toi, pas moi。 {6)
そ して所有す ることな く
,た
だ与 えられ る。GOETZ
Parce que j'ai trop recuo Pendant vingt ans, ils lrl'ont tout donn6 gra‐ cieusement, jusqu'a l'air que je resPiraiS: un batard, il faut que ca baise la main qui le nourrit。
第二 の私生児 の特性 はその二重性 であ る。農民 と貴族 の間 に生 まれ た Goetz は
,そ
の両要素 を持 ち,そ
して双方 の側 か ら疎外 され,憎
まれ る。 その代 わ りどちらに対 して も自由であ り
,
どちらの保護 も受 けず,ま
た東縛 もされ ない。GOETZ
(…)Moi,je suis agent double de naissance:ma mё re s'est donn6e a un croquant et je suis fait de deux moiti6s qui ne collent pas ensemble(… 。)(8)
このよ うに見 て くると私生児 とは
SARTRE流
の存在論 によ って図式化 され, 象徴化 され た人間存在 であ ることがわか る。 人間の意識 とは常 に 自己 に対 して 在 る もの (etre_pOur一soi)であ り,意
識 は 自己 の外倶1にあ る。 それ は在 って無 き ものに等 しく,一
つ の否定的能力 としてある。 これが 自由の特性であ る。一 方人間 は現実 的存在 で もあ る。 あ るが ままの存在 (etre_en_soi)で あ りなが ら, 在 るべ き もの としての存在,即
ち意識的存在 であ るとい う二重 の存在 であ る人 間 を,私
生児 の在 り方 に重 ねて見 ることは 容易であ る。 またSARTRE独
自の 他者論 で あ る対他 (pour autrui)も,
この私生児 は示 してい る。我 々人間は こ『悪魔 と神』について の世 に生 まれ 出たその 日か ら他者 の眼差 しに さらされ る。 そ して人間の仲間入 りをす るために教育 を受 ける。 他者 の存在 な くして人間 は人間 た り得 ない こと は狼 に育 て られ た少女 の例 を見 ず と も明 らかであ る。 しか し子供 はすべ て を与 え られ ることか ら始 め る。食物 や衣服 ばか りでな く
,言
葉 も,考
え方 もすべ て 一 方的 に先 ず与 え られ るのであ って,大
人 の世界 は子供 に とってすでに存在 し て い る ものであ り,
自分がいな くと もそ こに 存在 してい る 充実 した 世界 であ る。 子供 はその世界 を「鍵穴か ら覗 いてい る0」 に過 ぎない。彼 は恰 も存在 し な いかの よ うであ る。 子供 に とっては 自己 の存在 その もの も大人 によ って存在 せ しめ られ た もので しかない。 そ して あ る時,
この他者か ら与 え られ た 存在(1'etre_pOur―autrui)を 奪 い返す(reprendre)こ とによ って大人へ と変貌す る。
この子供 と大人の中間的な存在が青年 であ り
,Goetzの
物語 は他 のSARTREの
劇作 にお けるよ うな青年期 の一時期 ではな く,幼
児か ら青年,そ
して大人へ の 経 過 を示 してい る。SARTREは
人間 の成長過程 を,存
在論的 に子供 の等価物 で あ る私生児Goetzに
よ って描 いた と考 え られ る。 以上 のよ うな見方か らすれ ば OresteもHugoも
,
さらには人間すべ てが私 生 児 であろ うが,SARTREが
舞台 にのせ た時 に,人
に私生児 と呼 ばせ てい る私 生 児 とは,多
くの人間が気づかずにい るか,敢
えて無視 しよ うと努 めてい る自 らの私生児性 (batardise)を 認識 してい る者,
もし くは認識せ ざるを得 ない状 態 におかれ た者 を意味 してい る。Goetzは
除外 され た半端者であ るゆ えに,人
間 の持 つ宿命的 な私生児性 に 目を向 け ぎるを得 なか った。 その代 わ り彼 は絶対 的 に 自由であ り,人
々の 日か ら,彼
等 の私生児性 を覆 い隠 してい る自己欺晰 を 鋭 く見破 る透徹 した 目を持 つ。Goetzと はSARTREに
よ って,Oresteや
Hugo
以上 に徹底 して純粋培養 され た人間の 自由であ り意志であ る。 彼 が Heinrich
に呼 びか ける次 の台詞 は同時 に我 々に も向 け られ てい るのであ る。
GOETZ
『 悪 魔 と神 』 につ い て 註
(1) Francis」 EANSON,Sαγιγθ夕α″J%グー%み∂%ι ,p。 25。
(2)J.― Po SARTRE,二うむιγθθ″′θ%ια%ι,p。 708。
(3)Michel CONTAT et Michel RYBALKA,二θs Eθγづιs αθ Sαγ″θ,
θ′Jθ 拓)ο%Dづι%, c'eSt l'histoire d'un individu.》 (4) J.―Po SARTRE,二ιs ifθ%θttθs,p。 112.
Oreste.― (…)Mais tout a cOup,la libert6 a fondu sur
la nature a saut6 en arriё re. et je n'ai plus eu d'age,
〈6) (7) (8) (9) ① 43 p.239。 《二ιDグαb′θ
moi et rn'a transi,
et je me suis senti tout seul,(¨・)
Francis JEANSON,Sα γιγι夕αγ J%グー%0%ι,p。 16.
(・…)nous tenons ici une pr6flguration de toute l'oeuvre de Sartre, qu'on pourrait asscz valablement pr6senter en efet, sous le signe du passage de la jeunesse a l'age adulte, de l'6tat d'innocence et de chaude intilnit6 avec le
monde a l'angOissante d6r61iction de l'hornlne responSable, engag6 dans le monde et cependant s6Par6 de soi par toute l'6paisseur du monde.
cet age adulte, c'est《1'age de l'homine》 auquel Hoederer,dans Les Mains
sales, voudra faire acc6der Hugo.
J。 ―Po SARTRE,二ιDブαb″θι′Jθ Bο%Dづι%,p.64.
Ibide, P。 76。 Ibid。 , p. 64。
Ibid., pe 64。
Goetz.― (.¨)Depuis mon enfance,je regarde le monde par un trou de la
lbid。, P. 64. Ⅲ 二θDづαb′θθι Jι Bο%Djθ
%は
挫折す ることのない真 の 自由者 に到 る人間 の成 長 過程 を劇化 した もの と思われ るが,そ
の過程 を この劇 の中で辿 ってみ ること 脅こす る。 第 一幕 では最初Goetzは
登場 していない。他 のSARTREの
劇 では主人公 は 開 幕後す ぐに現 われ る。彼 は大 司教 に反乱 を起 こした ヴ ォル ムスの町 を攻 囲中で あ るが
,舞
台 は大 司教 の陣営 と,反
乱 の指導者Nastyの
陣営 とが同時 に示 され,そ
れ ぞれ の側 の台詞 の中でGoetzの
人間像 が 語 られ る。 そのいわん と す るところは彼 の行動 の掴み どころのな さで あ る。 それ は方 向性がな く,裏
切 行為 の連続 であ り,何
者 に も帰属す る気配 が ない。L'ARCHEVEQUE
A vrai dire,je ne sais pas troP ce qu'il(Goetz)est.(・ ¨)Il est d'humeur
changeante, c'est le moins qu'on puisse diree(1)
私生児 は何者 に も帰属せず
,所
有 もせず価値基準 もない。Goetzは
本質 を持 たない。彼 は確乎 た る実存 にまで成長 していない人間であ り,そ
の関心 はいつ も自己 の実存 に向 け られ てい る。 だか ら彼 の冒険 は 自己 の本質 を探究す る ドラ マであ り,そ
れ は先王殺害 の犯人 を探す とい う行動が 自己 の出生 の秘密 を明 ら か に してい くことにな るオイデ ィプス王 や,人
間 の可能性 を追求 して悪魔 と手 を結 ぶ フ ァウス トの ドラマに表 われ てい るの と同 じ人間探求 の精神であ る。 根 無 し草 の,こ
の私生児Goetzが
その 根底 のな さを超克 して 他者 に対抗す るに は,
自分 を人 と違 った次元 に置 く必要が あ った。 そ こで彼 は悪 をなす。地上 に お ける悪魔 とな ることで別格 の 存在 たろ うとす る。 第一幕 はGoetzの
悪 の局 面 で あ る。 大司教 と反乱軍 の両陣営 か ら同時 に次 の台詞が発せ られ る。 L'ARCHEVEQUEC'est un batard de la pire esPёCe: par la mere. 1l ne se plait qu'a faire
le male
GERLACH
C'est une tete de cochon, un batard: il aiine a faire le mal.(2)
だが悪 とは実体 のない ものであ り
,単
な る否定 の態度 で しかない。一 つの 目 的 に向か って善 を行 な う場合,
これ を阻 む ものが悪 であ り,Goetzの
い う悪 の た めの悪,即
ち絶対悪 とは無意味 であろ う。悪 とは善 に対 して付随的であ り,『悪魔 と神』について
45
る悪 は もはや客体 であ る。 それ は悪役 とい う一つの 役割 であ ってGoetzは
こ れ を演 じてい るに過 ぎない。 彼 の暴走 に周 囲の者が右往左往す るところへ,Goetzは
大見得 を切 って登場 す る。 彼 の ヴ ォル ムス攻撃 をや め させよ うと大 司教 の代理 やNasty自
身が来 て嘆願す るが,当
人 は 自分 の演技 に悦 に入 るばか りであ る。 そ もそ も悪が存在 感 のない役割 であ る以上,
悪 の行為 はいずれ も身振 り (geste)に似 てい る。 そ してGoetzの
悪 の演技 は もっば ら暴力 とい う形 で示 され る。彼 は兄Conrad
に対す る 忠誠 の誓 い を破 ることで 大 司教 と結 び,
兄 の土地 を受取 る 約束 をす る。 このよ うな行動 も人間 に恐怖 を起 こさせ,人
々を嘲弄 し,人
が彼 に期待す るの と正反対 の ことをなす ことのみ を 目的 としてい る。 これ はすべ て を与 えら れ て きた私生児が所有す るための反撃 であ る。GOETZ
(・¨)Cur6,je me suis fait moi― meme:batard,je l'6tais de naissance,mais
le beau titre de fratricide, je ne le dois qu'a mes m6rites.(3)
こ うい った態度 は彼 の情婦
Catherineに
対 す る場合 も 同 じで あ る。 彼 が暴 力で ものに した女 が彼 を憎悪す る,そ
れ ゆ えに彼女 を愛す る。 そ して彼女が 自 分 を殺 そ うと 考 えてい ると思 うと 一 層彼女へ の愛 が 強 ま るとい った 具合 であ る。 これ らはすべ て奪 うことで 自己 の存在感 を得 るためであ る。具体的な 目的 へ 向か う暴力はその遂行 と共 に暴力的でな くな るが,
自己 の存在感 を得 るため の暴力 には際限がない。 自己 の存在 とは在 って在 らぬよ うな ものであ り,把
握 した瞬間 にまた 遠去か って しま うものだか らであ る。 この 目的喪失感 ゆ えにGoetzの
暴力 は行為 ではな くgesteな
ので あ る。Oresteや
Hugoは
その明晰 さで世界 を見 つ め,
自分 の 自由に窒息 し,お
とな しく暮す こと ■ler dOuxOに
焦燥 を感 じるbonne foiの
人 々で あ るが, Goeztの
人生 はmauvaise fOiで
始 ま ってい る。 だが彼等 には共通 した部分が あ る。行動 したい,人
々の注 目を 引 くことで 自己 の 存在 を定着 させ たい。 そ こでOresteや
Hugoは
劇的な行動 によ って これ を果 たそ うとす る。 そ こで選 ばれ る行為 はいつ も暴力的 なので あ る。一方
Goetzは
無 目的 な暴力 に 悦 に入 っていたが 最近生彩 を欠 いて きて い る。Catherineは
彼 を愛 し始 め,
自分 を城へ連れ て行 って くれ と願 う。 そ も そ も彼 の悪が人間 を対象 としてい る以上,人
間 の もつ愛 や気粉れ によって彼 の 悪 は絶対 の もの とな らない。 そ こで彼 は神 を相手 にす る。 第一幕 は神へ の挑戦 と して ヴ ォル ムス市 民虐殺 を彼が敢行す る寸前 の ところであ る。 絶対者 と人間 の関係 は この劇 の主題 であ るが0,
それ はまた見 る もの と見 ら れ る もの との相剋 で もあ る。悪 を演 じるGoetzに
とって神 は視線 (regard)で あ り0,偉
大 な観客 で あ る。演技者に とって必要 なのは観客 の 日であ り0,そ
し て それ によ って形成 され る 対他存在 (etre_pOur一autrui)を媒体 として,役
作 りが行 なわれ る。Goetzの
役 は絶対悪 であ り,そ
のために絶対善 た る神 の 目を 必 要 とす る。今夜Goetzは
虐殺 によ って神 を追 いつ め,
自分 の芝居 を 頂 点 に 持 ってい こ うとしてい る。だが ここに,
もう一人 の 私生児Heinrichが
現 わ れ,神
はGoetzな
ど見 てはいない と うそぶ く。反乱軍 を裏切 ってGoetzの
陣 営 にや って きた この僧侶 は貧 しい人 々 と教会 の間 にあ って双方 に裏切 りをな し て い る私生児的人間であ る。 彼 は善 を行なお うとす るに もかかわ らず悪 をな し て しま うGoetzの
陰 画的存在 であ る。 彼の言 うには,
この地上 で 善 はあ りえ ず人間 は悪 よ り他 はで きぬよ う神 自身 の意志 によ ってそ う創 られ たのだか ら, 神 の敵 役 な ど道化 に過 ぎない。 そ こで この世 に善 が不可能 な ら,神
の意 に反 し て これ をなそ うとGoetzは
,賭
を し,負
けた ら 善 をす ると決 め る。彼 はいか さまを して,わ
ざと負 け,善
人 にな る約束 をす る。ここで第一幕 は終 わ る。この 劇 の主要 な筋 (action)│ま,い
ささか遅す ぎると思 われ るのだが,
ここに到 っ て初 めて展開 を見せ る。第一幕 は hors―d'oeuvreで しか ない③。観客 は Goetz が善 を行 な うか ど うか とい う関心 を もってactionを
追 う。第二幕 か らこの劇 は行動 の模倣 としてのdrameと
な るのであ る。註
『 悪魔 と神』 について 47
(2) Ibid., p。 20。
(3) Ibid。, p. 66。
準) J.―Pe sARTRE,二θsユグοπεんιs,P. 70。
Oreste.――Alors..。 c'est ca le BienP Filer dOux. Tout doux.Dire toujOurs
《Pardon》 et《Lrerci》.¨ c'est 9aP
(5) J. 一Po SARTRE, び%ノ乃ιaιγθαθ sづ J%αガο%s,p. 272。
《La piёce traite entierement des rapports de l'horrllne a I)ieu, Ou, si l'on veut, des rapports de l'homlne a l'absOlu.… 》
(6)J.― P. SARTRE,二θs%ο′s,p:83。
Une seule fois,j'eus le sentiment qu'11(Dieu)existait.J'aVais jou6 avec des allumettes et bru16 un petit tapis; j'6tais en train de maquiller mon
forfait quand soudain Dieu me vit, je sentis Son regard a l'int6rieur de ma
tete et sur mes mains(… )
(7) Ibid。, p。 80.
Charles Schweitzer 6tait trOP cOm6dien pour n'avoir pas besoin d'un Grand Spectateur mais il ne pensait guё re a I)ieu sauf dans les moments de pointe
(…)
(8) J. ―P. SARTRE, こ「%ιttι′ιγθαθ sづι%αιづο%s, p。 276-277。
Au premier acte, la question est: fera― t_il le malP Au deuxiё me et au
troisiёme: fcra―t―il le bienP ]En fait le premier est un hors一 d'oeuvre.
Ⅳ
Oresteや
Hugoが
自己 の存在実現 のために暴力へ 向か ったの と逆 に,無
差 別 な暴力 を繰 り返 して きたGOetzは
愛 を もって 善行へ と転換す る。 彼 の この 変 身 は信仰獲得法 としてPASCALが
用 いた賭 の論理 を想起 させ る。 神があるとい う方を表にとって損得を計ってみよう。 もし君が勝てば君は全部もう ける。 もし君が負けても,何
も損 しない。それだからためらわずに,神
があると賭け たまえ。(¨。)彼 ら(信仰を持つ者)が
,まずや り始めた仕方に習 うといい。それはす でに信じているかのようにすべてを行なうことなのだ。聖水を受け, ミサを唱えても らうなどのことをするのだ。そうすれば,君
はおのずから信じるようにされるし,愚
かにされるだろう。0
『悪魔 と神』について
Goetzも
また聖人 の真似 をす る。 彼 は 自分 の領地 を農民 に与 えると粗末 な衣 服 に身 を包み,友
愛 と平等 を説 いて まわ る。 召使 い達 を兄弟 と呼 び,足
を洗 っ てや る。 これ はキ リス ト教的救済者の大 ざっばな模倣 であ り,パ
ロデ ィー とな ってい る。 悪役 を演 じていた時 以上 に彼はgesteを
しな けれ ばな らない。Goetzが
善 を説 くに当 って他者 と接 す る態度 は愛 で あ り,善
をす ると決 める 前 の彼の他者に対す るそれ は暴力であ った。 しか し,
この愛 も暴力 と同 じ自己 中心的 な ところか ら発 してい る。 人 の意志 を無視 して暴力で相手 を自由に して きた彼の愛 は,同
じ く他者 を自分 の ものにす ることが 目的であ る。 そのよ うな 彼 の善行 は当然,民
衆 に全 く受 け容れ られ ず,挫
折す るか に見 えるのだが,か
つ て彼が 善 をす るためと 称 して捨てたCatherineが
,死
に瀕 して魂 の救済 を 求 めてい るのを前 に彼 はキ リス ト教的善 を行 なお うと最後 の試 み をす る。 彼 は 神 に聖痕 を求 めるが空 しく,結
局 自 らの手 で傷 をつ くり,女
の心 を救 う。 また して もGoetzは
第一幕 の最後 と 同様 にいか さまをや って しま う。 だが彼女 を 救 ったのは,い
か さまを して まで女 を救お うとした彼の誠意 であ った。 CATHERINETon sang, G∝ tz, ton sang. ′ru l'as donn6 pour moi.
GOETZ
Le sang du Christ, Catherine.
CATHERINE
Ton sang… . E′′θπθ%γ′.鯰ト
この偽 の奇蹟 は遂 に民衆の心 をつかむ。
Goetzの
gesteはここに到 って一つ. の効果 を 持 って しまった。 《Ne leur fais pas de mal》0と
い うHildaの
言 葉 も耳 に入 らず,彼
は言 う。 《1lS SOnt a moio Enin.》0こ
れが 第二幕 の終 わりで あ る。
悪 のた めに悪 をなす とい ったよ うな無 目的 な暴力 は行為 ではな く
,何
の効果 ももた らさないが,善
をなす とい う目的の もとに行 な った救済者 の模倣 は,そ
の 目的がいかであれ,一
つの効果 を持 ち,そ
れが大 きな悲劇 を呼 び起 こす。『悪魔 と神』について
49
Goetzは
自己 中心 的な愛 を拡大 させて友愛 と平等 の「 太陽 の町」 を建設す る が,そ
れ は他 の村 の農民 を無視 しての ことであった。 農民戦争が始 まると,キ
リス ト教的隣人愛,戦
争 の悪 を説 くGoetzの
町 の 農民 は,
領 主 に対す る戦争 に参加す ることを拒否す るために虐殺 されて しま う。個が全体か ら分離 してい る時,個
人 の行為 が 予想 しない 結果 を もた らす ことをGoetzは
知 らされ る。 か くして彼 の善行 は多 くの死者 を産 み,破
綻 す るが,彼
の意識 は徐 々に全体性 へ と向け られてい く。 これに手 を貸すのがHildaの
愛 であ る。 この劇 を肯定的な作 品に してい る一つの要因に この愛がある。他者 を所有せ ん とす るGoetzの
愛 と違 って,愛
の化身 であ るHildaの
愛 は無償 であ る。 彼 女 は裕福 な娘 であ り,尼
僧 にな る決意 を していたが,飢
えが民衆 を苦 しめ始 め る と,
これ を断念 し,苦
しみ を分かつために人 々の中に入 った。民衆 の心 を, そんな彼女 はひ きつ けずにはおかない。悪 をなす にせよ善 をなす にせ よ他人 の 意 志 を無視 して行 な うGoetzも
,彼
女 の 純粋 さに対 しては 素直 にな らぎるを えない。 彼女 は特別 な思想 や神へ の信仰 とい った ものに従 うことな く善 を行 な い,
この地上 において人 々 と共 に在 る。(…)tu(Goetz)es seul comme
blessures qu'on t'a faites(….)
Mais je soufre dans tous les meurs de toutes les morts(… )幅}
HILDA
un riche et tu n'as jamais soufert que des
corps, on me frappe sur toutes les joues, je
この愛は
SARTREの
描 く最 も美 しい愛であろ う。 しか し多 くの場合,
彼の 劇 にあらわれ る愛は,特
に女性の愛は無効で不毛なのである。 どの作品に も他 者へのかけ橋 としての愛が見 られはす るがそれは自己欺臓や状況認識の誤 りに よって無残な結果 となる。 そこでは愛は劇中に示 され る挫折の悲劇を一層浮 き 彫 りにす るための道具立て となっている感がある。Electreの
愛 もLucieや
JeSSiCaの 愛 も,い
ずれ も自滅 してい く他ない。 愛は自己 と他者の間に関係 を 打 ち立てる基本であ り,
もしその 現実性が 認 められればSARTREの
作品に も光 明が さす。 L'enfer,c'est les AutrcsOは
Le paradis,c'est les Autres
と もな りうるであろ う。 自己 と 他者 の 関係 は 相剋 (connit)でぁ ると考 えるSARTRE流
の存在論 において愛 は矛盾 を含みなが ら も,
自他 の間 に 自由 を阻 む ことな く関係 を樹立 させ る もの とみな され る。 この劇 においてのみ,愛
は作 品: 全体 に波及す る劇的要素 とな り得 てい る。Hildaの
愛 はCatherineか
ら受 け 継 がれ,Goetzに
連帯す ることで,彼
の積極的 な行動実現 の補助 とな る。 この 自由者 同士 の連帯 を肯定す る唯一 のSARTREの
劇 では他 の戯 曲にない nOus力 ゞ あ る。GOETZ
Nous prenons la d6cision ensemblePHILDA
Oui. Ensemble.
GOETZ
Et nous en porterons les cons6quences ensembleP
HILDA
Ensemble quoi qu'il arrive。 (η
この二人 の間の連帯が前提 とな って
Goetzは
全体へ と目を開いてい く。自分 が いか な る位置 におかれ てい るのか,愛
す るとは ど うい うことなのか を知 る。 さてGoetzの
善行 はす でに 破 局 に 終 わ ったわ けだが,
この劇 の基本軸 であ る,「Goetzは
善 を なすか」 とい う筋actionの
結末 は,
これ を 裁 きに きたHeinrichの
登場 で大詰 を迎 える。 この男は Goetzと 同 じ く世界か ら除外 され た存在 であ ったため,世
界 を透徹 した 日で眺 め,神
の不在 を知 った。 だが人間 の裁 きか ら逃れ るために虚妄 を信 じ,信
仰 のgesteを
続 け る自己欺購(mau_
vaise foi)そ の ものであ る。 彼 においては意識 と現実性が分離 してい る。 きわ めて現実的であ りなが ら虚妄 の世界 に生 きよ うとす るHeinrichと
は一つの分 裂病 であ る。彼 の言葉 によって逆 にGoetzは
虚 の世界か ら 脱 す る。 そ して 自 由 を奪 う最大 の視線 であ る神 を 否定す ることで 彼 は完全 に 自由にな る。 彼 のgesteは
一転 して行為へ と向か う。 いか さまをや って善 をや ったの も,偽
の聖『悪魔 と神』について
51
痕 を作 ったの もすべ て 自分 であ る。 人間が存在す るな ら,神
は存在 しない。 彼 は神 の視線か ら自己 を解放す ることで,道
化 で あ ることをや め る。 他者 の,そ
して神 の視線 によって芝居 をさせ られていた私生児 は,他
者 を超 克 す るた めに,そ
の役 をすすんで演 じた。 だが最初 に彼が演 じた悪 は,人
間 の 本性 に悪が あ る以上,
この役 は 自分 と区別 で きぬ ものであった。 自己 と役 の区 別 もつかず 自己陶酔 していたGoetzは
明確 に 自分 とは 違 う善玉 を 演 じること で 自己の役割=対
他存在 との距離 を認識す る。神が死んだ今,全
き孤独 の中で 彼 は 自己 と正面 か ら向い合 う。喜劇 は終 わ った。 だが彼 は役者 をやめるのでは ない。 ヘボ役者 をや めるのであ る。人間の中の,た
だの人間 にな りたい と望 む 彼 は一兵卒 としてNastyの
軍隊 に入 ることを申 し出 るが 断 わ られ る。 Goetz の役割 は軍 の指揮官以外 にはない。彼 は 自分 に用意 され た役 を引 きうける。反 対者 を殺 し,人
と共 に在 るために殺人者 とな ることを肯定す る。全体 の中での 自己 の客体性 を了解 した上 で,彼
が行動へ の一歩 を踏 み出す この場面 で舞台 は 幕 とな る。 註 (1)パス カル,『 パ ンセ』,p.165-167。 (2)J.―Po SARTRE,二θDグαbJθ θ′Jθ Bο%Dグθ%,p。 194。 (3) Ibid。, (4) Ibid., (→ Ibid.,p。 185。 (6) J. ―Pe SARTRE,〃%づs,εノοs,p. 182。 (7)J.― P.SARTRE,二 ι Dグ αb′θ ι′ ′ι Bο%Dグθ%,p。 144。V
SARTREの
演劇は虚妄 と現実の倒立 した芝居であ り,劇
中の人物は演技 をし ている。 そして,そ
の演技が 自滅 し,瓦
解す るのを見せ ることで真の行動の意 味を説 くのが,
この作家の手法であることは,す
でに見た通 りである。彼の示す
actionの
時間的経過 は常 に現在 か ら未来 で あ り,そ
れ は未来へ 向か う投企(projet)の 芝居 であ るとい える。 彼 は 近代 の ブル ジ ョワ演劇 を 性格 の 演劇 (th6atre de caractё
res)で
あ るとして拒否す る。 つ ま りそ うい った劇 は行動 を示 すのではな く,過
去 の行為 の結果形成 され た諸性格 の間 の葛藤 や衝突 を示 す に過 ぎないか らで あ る。 それ は過去か ら現在 の時間 をた どる演劇 であ る。 し か し演劇 はあ らゆ る芸術 の中で最 も現存 (pr6sence)と かかわ り,現
在進 行形 で描 かれ る時間的空間的芸術 であ る。SARTREに
とって問題 なのは現在か ら未 来 で あ り,過
去 の結果 で あ る性格 は対象 にな らない。 彼 の演劇 の出発点 には, この性格,
あ るいは 性質(nature)へ
の否定が ある。 しか し この否定 は 二ιs y。%ελθsそ
の他 の状況劇では充分 ではない。 私生児 とい う設定 を用 い ること で初 めて彼 は 舞台か ら性格 を 放逐す ることに 成功 したのであ る。 これが この 二θDづαbJθ θι″θ Bο%Djθ%を
肯定 的 な作 品に してい る。 そ して もう一 つ重要 な 点 は私生児 は必然的 に役者 にな るとい うことで あ る。 他者か ら与 え られ,私
生 児 とい うレッテル を貼 られ て他者 の視線 に さらされ る時,彼
はその役 を演 ず る こ と以外道 のない役者であ る。Oresteや
Hugoが
それ と気 づかずに演技 して い るのに対 し私生児 は演 じてい ることを自覚す る。虚 と実 の逆転 したSARTRE
の劇 で,
この虚妄 を打 ち くず して行為者 とな る役 日は,虚
の荷 い手 であ る役者を お い て 他 に な い 。 Goetzも Kean(SARTREが DuMASの 作 品 を 翻 案 し て 書
いた劇Kθα
%の
主人公)も
,現
実への一歩をしるす二人はいずれ も私生児であ り,また役者である。 そして自己の対他存在を奪い返 して作家 となったGENET
も Comёdien et martyメ⇒である。
Goetzの
ドラマは正反合の弁証法的構成をな している。第一幕は自分を拒絶 した世界への壮大な復讐 としての悪,暴
力。第二幕は一転 して愛による他者の 我有化 (appropriation)を 試み る善行。第三幕は他者の 存在 を認 めた上で, 自分 を空 しくす ることな く自己の対他存在 を引 き受 ける善悪の彼岸の立場であ る。しか しこの劇では,は
っきりと対象化で きるよ うな行動は描かれていない。 そ こには行動をなす とい う企ての もとに多 くの試行錯誤が示 され,gesteに
終『悪魔 と神』について
53
わ るのだが最終的 にすべ ては 逆転 し一つの 行動 の 誕生 を見 る。 この点か らす れ ば この 劇 は 行動 を 描 いた もの とい うことが で きる。ttθs yο
%θλθsや
二θsyα
れs sαJθsに
おいて到達 で きなか った真 の行動 に この劇 だけがか ら くも達す ることがで きたのであ る。 それ はひ とえに 虚 か ら現実べ と向か うGoetzの
役 者 性 によ る ものであ った。 彼の劇 中の変遷 は,俳
優 の弁証法 的 な形成過程 に相 通 じる ものが あ る。 この劇 の初演 を演 出 したLouis JOUVETは
その俳優論 の 中 で俳優 を三つの局面 に分 けて精緻 に分析 してい る。 俳優の第一の局面とは天職,即
ち俳優が自分自身について 全 く無知の状態にある 時,つ
まり彼の誠意という局面である。他の者にな りたいとい う迷夢が彼の人格と存 在とを動揺させるのである。新 しい身分を得るために,彼
は自分自身から逃れ脱出し ようと努め,オ
レス トやハムレットやアルセス トを生々とさせるためには,自分の魂 を彼等に提供 しなければならぬと素直にも信 じているのである。(…)俳
優は演劇と い うものに関するいっさいの事柄は彼から始まり彼によって始まるのだと信じてい る12LGoetzが
最初悪 を演 じるのは私生児 とい う境偶 か ら脱 したいためであ り,他
者 にな ろ うとい う願望 ゆえであ る。 GOETZ(.¨)Qu'importe d'ailleurs:monstre ou saint,je m'en foutais,je voulais etre
inhumain.{3) しか し悪 をな した ところで道化 に しかな らぬ ことを指摘 され る。俳優 の第一 の局面 とは感性 の局面 である。役 を直感で感 じと り
,役
にな った と思い こみ, 自分 の魂 を役 に提供す る。役 の中で没我 に生 きた と信 じるとそ こに快感が と も な う。 だが客観的 にはそれ は何 も演 じていない ことなのだ。 そ こでGoetzは
自分 とか け離れ た役 に挑 み,善
をなす。 これ は第二 の局面 であ る。 俳優の第二の局面とは第一の局面の必然的且つ論理的帰結に他ならない。化物じみ たエゴイスムとか充血 した誠意とか,その中で俳優が生きるという没我の境などとい うものは余 り長時間我慢することはできないであろう。こうして幻滅し,疲
労 し,不
平満々とな った俳優は彼 自身か ら他の者への移行 とい うこと
,即
ち人物の所有なるも のが幻覚に過 ぎないとい うことに気づ き始めるのである。俳優の情熱的ではあるが分 別に欠ける熱意は自我認識にではな く一種の他我認識に席を譲 る。0
第 二 幕 のGoetzの
善 行 は悪 戦 苦 闘 で あ った。 そ して 自己 と他 者 の距 離 に気 づ き,
さ らに第 三幕 にい た って は 自分 を知 るの で あ る。GOETZ
(0¨)Il n'y avait que l■ oi: j'ai d6cid6 seul du Mal; seul, j'ai invent6 1e Bien.
C'est inoi qui ai trich6, moi, 1'hornine(5)
ここで
Goetzの
到達 したのは 俳優 の第二 の局面 の 最終段階 であ り,幻
想性 の認識,嘘
の発見 であ る。 ここに彼 自身 の喜劇 は終 わ る。 俳優は自分が落ち着 くべ き嘘の世界を発見する。 彼は自らの 不誠実を認め告白す る。つまり彼は自分が強いられた分解の中で本来あるものと,見
られるものとの間に 生 きるものであり,叉
彼が自らの芸術と称するものは先ず実際行動であり仕事である とい う自分自身の二重性を理解するのである。国Goetzは
指揮官 とい う役 を理性的 に演 じることを決意す る。第二 の局面 とは 理 論的側面 であ る。 そ して第三 の局面 についてはJOUVETは
次 のよ うに述べ て い る。 第二の局面とは極めて稀にしか到達されない ものである上に極めて理解 して頂 くこ との難かしい ものなのである。それは演奏者が遂に自分自身の感覚を支配するに至る 局面なのである。 彼が第二の 局面で経験 したいっさいの ものが 直観的ともいいうる 程,高
度な熱い感覚の極致まで蒸留され昇華するのである。この様な一種奇妙な独立 性の中に,俳
優は劇的感情とい うものに近づ くのである。0
G∝tzは
この劇中では この局面 には 達 していない。 それ は彼 の未来 の 姿 で あ る。 しか し,
これ に 達 した と見受 け られ る人間像 は,
二θs yα れs sαJθsの
Hoedererに
見 ることがで きる。Hugoや
JessiCaが彼 について語 る言葉 の中 には一人 の人間が 自己のすべ て を支配 し,
しか も自由であ る姿 を思わせ る もの『 悪魔 と神』 について が あ る。
HUGO
Tout ce qu'il(Hoederer)touche a l'air vraieQ JESSICA
Vous(Hoederer)etes vrai.Un vrai homme de chair et d'os,j'ai vraiment
peur de vous et je crois que je vous ailne pour de vrai。 (9)
俳優の第三の局面 とは
,い
うまで もな く名優の境地である。SARTREが
最 も 肯定的に描いたHoedererと
は,
けだ し名優であろう。Goetzの
自己創造の ドラマは人間探究の劇であ り,役
者に も似たその成長過 程 はアナロジーによって人間の形成 に還元で きる。 なぜな ら,
この世界に生ま れた時か ら我々人間は他人によって与 えられた自己を背負 って生 きる私生児だ か らである。 その結果,人
は好むと好まざるとにかかわ らず,
自己を演ず る役 者 となる。 だが役 を演 じることに妹気が さし,人
は役者であることをやめて脱 自を図 るが,結
局 また別な役 を演ず ることになる。演ず ることをやめることは で きない,ただ役柄が変わるだけである。Goetzが
役者であることが,この劇 を 肯定的な行動の ドラマに した理 由なのである。一つの役 として定 まった 性 格 を舞台上に描 くことは人間を描いたことにはならない。 そ ういった 性 格 は, 作家によって評価の定 まった対象化 された人間の姿であ り,歴
史の中に入 った 人間で しかない。人間が役者であるな ら,人
間を描 くには役者 を舞台にのせね ばなるまい。Goetzは
自分の役か ら脱 したい と望んだが,そ
の役その ものが役 者であった。つま り彼は演ず ることをやめたいと欲す るのであって,役
を変 え たいのではない。 だが他者がいる限 り対他存在か ら逃れ ることはで きない。 そ こで役者を否定 しつつ,
役者であることを受諾す る。それは 名優への道であ る。 なぜなら名優 とは自らの役者性 を完全に否定で きた役者だか らである。Oresteか
らHugoへ
と引 き継がれて きた人間の自由探究は,Goetzに
おい て明確化 された。 ‐方,Electreか
らInёs,Garcinと
つなが る挫折の姿勢,『悪魔 と神』について る。 彼 は
Goetzよ
りは一歩先 に己れ の 私生児性 に 気づいた人間であ り,そ
の た めやは り役者であ る。 だが彼 は俳優 にお ける第一 と第二 の局面 を往復 してい る。 いいか えれ ば,二
つの局面 は彼の中で並存 しかつ分離 してい る。 つ ま り, 感 性 と知性 が,分
裂 してい る二重人格者であ り,一
種 の狂気 であ る。彼 はいつ も分身 として悪魔 を連れ てい る。 それ は時 には彼 の感性的側面 であ り,時
には 知 性的側面 なので あ る。二 つの面 を往復す るために,彼
の行動 はめま く゛る しく 変 わ り,裏
切 りの連続 であ る。 この世 に絶対的 な善 も悪 もないな らば,
この男 は,
この地上 にお ける悪 の最 た る ものである。知性 と感性 の分離 ゆえに こうい った人間 は必ず状況 の選択 を誤 ま る。知性 で選べ ば感性が受 けつ けず,感
性 で 選 べ ば知性が反発す る。誤 まった状況 にい るために彼 のす ることは,す
べ て悪 に な る。│の こ うして見 ると人間には三つの可能性が ある。一つは己れ の私生児性 に気づ か ず死ぬ まで道化 で暮 らす道。 それか らGoetzや
Heinrichの
よ うな私生児 性 に 目覚 めた者が それ ぞれ示 した,二
つの可能性である。Heinrichの
た どっ た道 とは,す
なわ ちJシい′裏切 り,二
重性,分
裂 そ して行 きつ くところは 自殺 で あ る。 それは 自己の二重性 を解消す るために行なわれ る。 自分 の中の相反す る一方が他方 を抹殺す るのであ る。Heinrichの
場合 は,
自分 と同一 の人物 と 思 えるGoetzに
殺意が向け られ たに過 ぎない。そ して最後 に残 され た 可能性 はGoetzに
よ って示 され る,
自己 の奪還 によ る自由へ の道 (Les chemiris de la libert6)な のであ る。 註 (1)J.―P.SARTREの
作 品 Sαれι Gθπθ′の 副題 。 (2)Louis JOUVET,rι π。づgθS s%γ ″θ rλι″γθ 《Pγψ οS Sπγ′ιの 多ιαづθπ.》 (梅 田晴 夫 訳),P.30。 (3)J.― Po SARTRE,二θDづαbノθθ′″θ Bο%Dづθ%,pe 263。(4)Louis JOUVET,Tι ποづg,oα gιs sπγ′θ rttιaιγθ《Pγψ οs s%γ ′θ Cο%ιググι%.》 (梅 田晴
“ ) (6) (7) 181 ω) l101 『悪魔 と神』について 57 J.―Po SARTRE,二θDグαbノθ ιノ′θ Bθ%Dづθ%, p.267。
Louis JOUVET,膨πOグg%αgθs s%γ ′ι rん ι′ιγι 《Pγ ο夕οS S%γ Jθ Cοπιググι%.》 (梅 田 晴
夫 訳 ),p。 31.
Ibid。, p. 32.
J. 一Po SARTRE,二θs」ワ「αグπs sαJθs, p。 132。
Ibid., p. 238.
J. ―P. SARTRE, 17% ι力ι′ノγιαι sグι%αガθ%s, p. 73。 《.“ce que j'ai voulu faire du
personnage d'Heinrich dans ttθ DグαbJθ θ′Jθ 」Bο%Dづθ%: quelqu'un de complё te―
ment perdu par sa situation, quelqu'un qui fait toujours le mal quoi qu'il
fasse parce qu'il est dans une situatiOn fausse.¨ 》
Ⅵ
以上 に見 て きた ことは
,現
代 にお け る行動 の演劇化が困難 であ ることを示 し てい る。全体 として統合 され た,肯
定 的 な時代 ではない現代 においては,演
劇 は否定的で,椰
楡 を手段 とす るよ うな喜劇 で しか あ りえず,真
のdrameの
実 現 は難 しくな ってい る。 演劇 にお けるSARTREの
斬新′陛は, gesteと
action の倒立 した作劇法にあ り,形
式面 においては,むしろ古典的であ る。従 って彼が 従来 の,行
動 の模倣 としてのdrameを
創 るには複雑 な設定 を必要 とす る。 主 人公 を私生児に したて,そ
の陰画 としての (あるいは反証 と もい うべ き)も
う 一人 の私生児Heinrichの
存在,
ドイ ツ農民戦争,神
の問題,女
性 の愛等 々を 配 す ることに よっては じめて行動 を描 くことがで きたのであ る。主役に役者性 を持 たせ た ことが 大 きなポイン トとな ったわけだが,
将来SARTREは
この手 法 で作劇 を進 めてい く意 向であった と思われ る。実際,そ の後書かれたDuMAS
の翻案劇, Kθ α%で
は1主人公 は英 国の 役者であ り,
不評 であった Nθんγαssου で はNekrassovを
演 じる詐欺師が主役 であ る。 しか し後者の作品の不評の原 因 は ブル ジ ョワ体制 にあ るとして,SARTREは
役者 を主人公 とす る方 向性 では 三度 と芝居 は書かずに終 わ った。 従 って 二θDづαb″θθ″Jι Bο%Dづθ%は
彼 の劇 作 の頂 点 をなす作 品で ある。 この劇 には先行す る彼の戯 由に示 されたあ らゆ るテーマ
,す
なわ ち自由,他
者,役
割,神
な どが盛 りこまれ,そ
れ までの彼の思 想 の集大成 とな ってい る。彼 の劇作品は常 にその思想 と相関関係 にあったのだ が,現
実性 を持 つ行動 を この劇 で しか表現 しなか ったのには,思
想上 の問題 が あ る。 彼 の劇 では終始個人の 自由が扱われ てお り,個
と全体 の関係 は明示 され ていない。彼が追求 してい ったのはま さに この全体化 (totalisation)で あった が,そ
の思想 は遂 に演劇 に反映す ることはなか ったのであ る。 あ るいは この全 体 化 の思想が演劇 に現 われ るまで 究 め られ なか ったのか もしれ ない。SARTRE
の演劇 と彼 の思想 はそれ ほ ど密接 に結 びついてい るのであ る。 この点 を指摘 し て彼 の演劇 は しば しば観念劇 (thёatre d'id6es)で あるとみな され る。確 か に 彼 の劇 には,彼
の哲学 が直接 あ らわれ てい る。 その意味 ではな るほ ど,そ
れ は 観 念劇 であろ う。 だが しか し,彼
の観念 その ものが演劇的なのであ る。 参 考 文 献 J.―Po SARTRE,二θ Djαb″θθι′θ Bο%Dづθ%,Gallimard(Paris,1951). 一 ― ,二 θs ν οπεttθs,Gallimard(Paris,1944). ― ,″πづs εJοs,Gallimard(Paris,1944) 一一一,二θs fИαづπs sαノθs,Ganirrlard(Paris,1948). 一――,二'Eιγθθ′Jθ %ια%′,θssαグsα'ο%ιο′οgづθ夕λι%οπι%ο″οgづg%θ,Gallimard(Paris, 1943) 一 ,二θs%ο′s,Gallimard(Paris,1970). 一一―,び%ι λι′ιγθαθ s夕παιづο%s,Gallimard(Paris,1973). Francis JEANSON,Sα γJγι夕αγ′%づ―協θ%ι,Lc Seuil(Paris, 1970).Michel CONTAT et Michel RYBALKA,二 ′s ιεγグιs αθ Sαγιι,Gallimard(Paris,1970).
ル イ・ ジ ュヴ ェ,『 俳 優 論 』 梅 田晴 夫 訳 (未来 社).