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体蝋画敏論争再訪(1)
福 田 敏 浩 はじめに 1 収敏説 一ティンバーゲンのばあい一 豆 収勲説批判論 〔1〕 体制非両立論者の批判論 1、ヘンゼルのばあい 2.東のマルクス=レーニン主義者のばあい は じ め に 1960年代の経済体制論の分野で論争の的となったのは収敏説(convergence theory)であった。周知のように,この説は60年代に入る前後に登場したが, ティソバーゲン(」.Tinbergen)やガルブレイス(」. K。 Galbraith)やワイルス (p.」.D. Wiles)やべ1・ヒャー(E. Boettcher)やソローキソ(P. Sorokin)とい った著名な経済学者および社会学者がほぼ時を同じくしてこれを唱えたことに よって一躍クローズアップされ,学界はむろん,ジャーナリズム界においても 国際的なスケールで論争が展開されることとなった。この論争に参加したのは 西側の論者ばかりではなかった。東のマルキストも積極的にこの論争に参加し ている。後者の目には収敏説は容認すべからざる「国家独占資本主義のイデォ1) 2)
ロギー」,「反共宣伝の道具」と映ったのである。かくて,収敏説は東のマルキ 1) HrH, H6hmann, G. Seidenstecher, Sowjetische Politische Okonomie und Kon− vergenztheerie, in, W. F6rster, D. Lorenz (Hrsg.), Beitrllge x“r Tkeorie und Praxis x,on Wirtschaftssystemen, Festgabe fth’r Karl C. Thalheim xum 70. Geb”rtstag, Berlin 1970, S. 108. 2) L. Leontiev, Myth About the “Rapprochement” of the Two Systems, in, J. S. Prybyla (ed.), Comparative Economic Systems, New York 1969, p. 47820 彦根論叢第243号 ストによってきびしく糾弾されることとなった。一方,西側ではこの説にたい する評価は東のぼあいよりもはるかに多彩であった。収高説に同意を示す者も おれば,これを批判したり否定したりする者もいた。しかも,賛否の論拠は論 者ごとにさまざまであった。そのなかでとくにわれわれの注意を引くのは批判 論のほうである。われわれの理解によれば,批判論は大きく二つに分けられる。 ひとつは新自由主義者のもの,いまひとつは実証的比較経済体制論者一とくにソ 連・東欧研究者一のものである。いまこれらをドイツ語圏についてみるならば, 前者はフライブルク学派に属するヘンゼル(K.P. Hensel)をもって,後者はベ ルリン自由大学の東欧研究所にいたタールハイム(K.C. Thalheim)をもって代 表される。ヘンゼルの批判は東のマルキストと好一対をなす。後説のように, かれは収敏感をきびしい批判のもとに置いた。その論調の手厳しさには東のマ ルキストに勝るとも劣らぬものがあった。これに対しタールハイムの批判はと くに東側諸国の事実動向の観察を踏まえたより穏健なものであり,東西諸経済 体制の基本的構成の面での接近および収敏はこれを否定するものの,広義の技 術的な諸要素のあいだの接近もしくは類同化はこれを認めるものであった。 60年代の経済体制論はこのような収敏論争を軸にしつつ展開されたのである が,今から振り返ってみると,それは経済体制論の発展にとって多大な貢献を なしたといわねばならない。それは丁度,20年代から30年代にかけて展開され た計画経済論争と同じような役割を演じたといえよう。計画経済論争は社会主 義における合理的な経済計算の可否をめぐる論争であったが,これによって資 本主義対面会主i義という形での比較経済体制論が徐々に成立をみたことは周知 ののごとくである。今世紀の両大戦間の時期は「経済体制地山生の時代」をもっ て特徴づけられるが,計画経済論争はこのような時代を創出した契機のひとつ に数えることができよう。第2次大戦以後,経済体制論は飛躍的に発展した。 東欧諸国や中国などの国ぐにが社会主義陣営に加わり,経済体制論の対象領域 が戦前とは較べものにならぬほど拡大したたあである。かくて戦後は東西諸経 3) 拙著『比較経済体制論原理一形態論的アプローチー』, ジ。 晃洋書房 1986年,33ペー
体制収録論争再訪 (1) 21 済体制の比較研究や資本主義論や社会主義論などが多彩に展開されることとな った。収黒馬はこのような流れの中で二つの貢献をなしたといわねばならな い。 ひとつは比較経済体制の方法にひとつの範型を提供したことである。戦後の 体制比較の方法は大きく二つに区捌される。すなわち,静態的比較と動態的比 較がこれである。前者は,現存の諸経済体制について,ある時点での横断面を 比較するものである。これに対して後者は,現実に並存する諸経済体制の体制 的変動の内容とその方向を比較するものである。この動態的比較の典型をなす のが翠黛説なのである。この説は,現存する東西両経済体制の構成諸要素の類 同化,両者の相互接近ならびに第3の体制への収束を説くものだからである。 これを批判もしくは否定する論説も当然,動態的比較の範疇に含められる。こ れらの論説にはさまざまのものがあるが,しかしいずれも東西諸体制の変化の 方向を問題にし,それは第3の体制への収束の形を取っていないとすることで は共通しているからである。こうして60年代以降,動態的比較論が多彩に展開 されるようになったのである。 もうひとつは,東西の経済体制論者間に意見の交流を促し,かつ深める契機 となったことである。それは,なによりも東のマルキストが収敏説論争に積極 的に参加してきたことに端的に象徴されている。やや極端にすぎるかもしれぬ が,あえて言えば,収敏説の登場によってはじめて国際的レベルでの経済科学 的な経済体制論争に東のマルキストが参加するようになったのである。このこ とによって60年代以降,経済体制論は従来にも増していっそう多彩かつ多様に 展開されることとなったのである。60年代は,このような意味で第2の経済体 制論群生の時代といえよう。 しかし,70年代に入ると,収敏説論争そのものは徐々に低調になり,ひとこ ろは東西の経済体制論者の視界から消えてしまってさえいた。70年代の東西に おける経済体制の変化が必ずしも翠苔説を有利にするものではなく,むしろ批 判論を勢いずかせる.ものであったので,論争は後者が優位に立つ形で一応の決 着をみていたのである。ところが,こめ数年前から再び野馬説を扱った論説が
22 彦根論叢 第243号 登場してきている。むろん,数のkでは60年代に比すべくもなく,また議論の 規模や論調の多彩さも往時に較べるとはるかに見劣りがするが,しかし大規模 な論争という形を取っていないだけに返って現実に即した冷静な収評説の評価 が展開されているといえる。なかでもわれわれの注目を引くのはコルナイ(J. Kornai)の論説である。周知のように,コルナイは市場社会主義の道をたどっ ているあのハンガリーを代表する改革派の経済学者であるが,そのかれが収敏 説に対して批判的な評価を下しているのである。市場社会主義の出現は収一説 の有力な根拠となっていただけに,その市場社会主義の国の人からの批判には 真に興味深いものがある。 以下では,最近の批判的論説を加えて60年代以降の収敏論争に整理を施し, その上に立って収流説に対するわれわれの見解を提示することにしたい。 1 収敏説 一ティンバーゲンのばあい一 一口に収歯面といっても単一の説があるというのではなく,さまざまな立場 の よりするさまざまの説がある。東西両経済体制の構成諸要素の類同化のみを説 くものあり,両体制の相互接近を説くものあり,第3の体制への両体制の収束 を説くものありといった具合である。そのなかでもっとも体系的かつ明瞭な形 で東西両経済体制の第3の体制への収束を主張したのは,オランダのティソバ ーゲソであった。かれの説はもっとも収敏説らしい収敏説だったのであるgそ れだけにそれは国際的な反響を呼び,反対論者や批判者の格好の標的とされた のである。そこでわれわれはティンバーゲソ説をもって皇弟説を代表させ,そ の特徴を明らかにしていくことにしよう。 (1)ティンバーゲンが東西両経済体制の収敏をはっきりと主張し始めるのは 1961年に上梓された“Do Communist and Free Economies Show a Converging Pattern?” (in, Sowiet Stttdies, vo1. XII, no.4)においてであった。これ以後かれはよりいっ そう積極的に自説を展開することになるのだが,それは次の二つの論文にはっ 4)収敏説の概要については次の書を参照。野尻武敏『経済体制のゆくえ』, 1980年。 晃洋書房
体制二巴論争再訪 (1> 23 きりと示されている。ひとつは1966年に出たドイツ語の論文“Die Rolie der Planungstechniken bei einer Anntiherung der Strukturen in Ost und West”(in, E. Boettcher(Hrsg。), VVirtschaftsplanung im Ostblock, Beginn einer Liberalisierung?ノ Stuttgart・Berlin・K61n・Mainz)であり,もうひとつは1967年に刊行されたリン ネマン(H.Linnemann)およびプロソク(J. P. Pronk)との共著“Convergence of Economic Systems in East and West”(in, E. Benoit(ed.), Disarmament and World の Ec・nOmic JnterdePeitdence, Osl・)である。61年論文は,現実動向を踏まえつつ:東西 両経済体制の相互接近を論証しようとしたものである。この論文の段階ではま だ両体制の第3の体制への収束は説かれていない。ところが66年論文になる と,両体制の第3団体制への収束がはっきりと主張されるようになる。デェー のル(J.v. d. D・e1)の言葉を借りると「完全収敏」(v・llstandige Konvergenz)の提 唱である。そればかりではない。収敏の原動力も明示されているのである。67 年論文は61年論文をより体系化する形で東西両体制の接近化を論証しようとす ると同時に,両体制が将来行き着く第3の体制とは何かについて答えようとし ている。以下,これら三つの論文を中心にしてティソバーゲンの収敏説を検討 することにしよう。 (2)われわれはまず,ティソバーゲンにおける経済体制(econ・mic regime) とは何か,という問題からみていくことにしよう。この問いに対するティンバ ーゲン自身の解答は次のごとくである。 アラ まず,経済体制は「その経済の秩序あるいは制度」と定義される。ティソバ ーゲンによれば,このような経済体制には二つの事柄が含まれている。すなわ 5)本稿ではM.Bornstein, D. R. Fusfeld(eds.),7■he Soviet Econonzy, A。80説of Readings, Third Edition, Homewood 1970に再録されたものを参照した。 6) これはJ.van d. Doe1, Konvergentie en evolutie, Assen 1971で使われたものであ るが,ここではJ・Tinbergen, Menschlicher Sozialismus, in, U. Gtirtner, J. Kosta (Hrsg,), Wirtschaft und Gesellschaft, Festgabe fab’r Ota Sik 2um 60. Geburtstag, Berlin!979, S.242から引用した。 7) J. Tinbergen, The Theory of the Optimum Regime, in his Selected Papers, Amsterdam 1959,ヤソ・ティンバーゲン,「最適体制の理論」,加藤寛,古田精司監訳 『最:適体制の経済学』,東洋経済新報社昭和51年,/33ページ。
24 彦根論叢 第243号 8) ち,「行為」(action)と「組織」(organisation)とがそれである。行為は自然的行 :為と制度的行為とに二分される。前者は自然的行為者たる生産単位や消費単位 の行う行為,すなわち生産,交換,消費を意話する。これに対して後者は,制 度的行為者(たとえば国家,地方公共団体,社会保障機関,カルテルならびに労働組合) が行う行為,すなわち政策手段の行使,二二払い,独占価格設定などにほかな らない。以上2種類のものを含む行為はまた,経済過程(economic process)とも の呼ばれている。他方,組織についてはくわしい説明はな:されていないが,ティ ソバーゲンはその具体例としてたとえぽ租税制度,消費財の分配制度,価格制 ユの 度および賃金制度などを挙げている。これらからしてここに組織とは,経済体 制の制度的構成要素であることが知られるであろう。 (3)次にわれわれは,ティンバーゲンの収敏説を問題にすることにしよう。 上述のように,かれの説の主要な論点は東西両体制の相互接近の証明,三山の 原動力の確定,第3の体制の説明の3点に集約される。以下この順にそれぞれ について検討を加えていくことにしよう。 第1の論点は61年論文と67年論文でくわしく取り上げられT(いる。個々にみ ていこう。まず61年論文であるが,ティンバーゲンはこの中で現実動向の観察 を通して東西両体制が互いに他からの影響を受けつつそれぞれ変化しつつある こと,しかもその方向が相互接近の道をとりつつあることを指摘した。かれが 挙げた東西両体制の変化の態様は次のごとくである。 東の共産主義……①経営の専門化,②賃金の差別化の実施,③貨幣,価格お よび費用の重要性の承認,④費用要素としての利子の承認,⑤消費選択の自由 化,生産目的としての消費の重視,⑥計画の数学的方法の承認とその導入,⑦ 国際貿易の意義の承認。 西の資本主義……①公共部門の拡大,②租税の役割の増大および公共部門の 8) ティソバーーゲソ,「最適体制の理論」133ページ。 9) ティンバーゲン,「最適体制の理論」134ページ。 10) J.Tinbergen, Eeonomic Polic y:Principles and Desig’n,4th revised printing, Amsterdam 1967, p.4, pp.149−!50.
体制収敏論争再訪.(1) 25 貯蓄の割合の増大,③自由競争の制限,④反トラスト法による企業の自由の制 限,⑥教育の機会の拡大および義務教育の拡大,⑥不安定市場における市場勢 力の規制および国際的な商品協定の増大,⑦私的大企業および国家の経済政策 における計画の意義の増大,⑧インフラストラクチュアへの公共投資の増大, ⑨一定の価格・賃金規制の実施。 しかしながら,61年論文におけるティンバーゲソの筆致はきわ融て慎重であ り,他方で東西旧体制のあいだに横たわる懸隔はいぜんとして大きいと指摘す ユ ることも忘れてはいないのである。 (4)次に67年論文であるが,これは先のとおりリンネマンとプロソクとの共 著であるとはいえ,明らかにティンバーゲンの考えを基調にして書かれてい ユね る。この論文は,61年論文の公刊から6年経っていることと,共著の形を取っ たためか,相互接近にかかわる事実の羅列という印象の強かった61年論文に較 べて,論証の仕方がより体系的になっている。その要点を記すと次のとおりで ある。 ① まず,ティソバーゲンらは考察の対象を経済的諸局面に限定しているこ とに注意しておかねばならない。「二つの体制はその経済的諸局面に関するか ユのぎりたしかに『収敏しつつある』」という発言がこのことを裏書きしている。 したがって,ティンバーゲンらのぼあいにはイデオロギーや政治の問題は最初 から考察の外に置かれているのである。 ②さて,ティンバーゲンらは東西における経済的諸局面の変化をどのよう な視点をもって捉えようとするのか。これについてのかれら自身の回答は次 の一文に集約されている。r用いられる主要基準は経済政策の理論から取られ る。このことは,その政策目的および手段が体制とその変化を主として特徴づ 11) J. Tinbergen, Do Communist and Free Economies Show a Converging Pattern?, in, Sowiet Studies, vol. XII, no. 4, April 1961, pp. 335−336. 12) リンネマンとプロンクは当時,ティンバーゲンが所長を努めていたNetherlands Economic Institute at Rotterdamの所員であった。 ユ3) H.Linnemann, J。 P. Pronk, J. Tinbergen, Convergence Qf Economic Systems in East and West, p. 441.
26 彦根論叢 第243号 14) けるものであることを意味する」。 これから明らかなように,かれらは経済政 策論的な目的一手段の視点をもって,体制的変化の方向を確定しようとしてい る。かれらにあっては,目的一手段関係は経済体制を特徴づけるもっとも重要 なメルクマールなのである。 かくて,ティンパーゲンらによれば目的は基本的目的と派生的目的に区別さ れる。前者はその体制の究極的な目的であり,後者はこの目的を達成するため の手段であるが,それは同時に中間的目的でもある。かれらは,東の体制の基 本的目的は搾取の排除,より具体的には不労所得の排除であり,これに対して 西のそれは福祉の最大化,より具体的には高消費+分配の平等(または社会的公 正)であると捉える。一方,これらの実現手段たる派生的目的は東については 生産手段の共有,高投資,資本財生産の優先,高教育が,西については高度安 定雇用,高投資,所得の不平等の是正,物価の安定,最大限の自由が挙げられ 15) ている。 他方,手段のほうは質的手段と量的手段とに区別されている。ティンバーゲ ンはかねてより政策手段の投下対象に応じて経済政策を質的政策(qualitative エの policy)と量的政策(quantitative policy)とに区別してきたが,この手段の区別 はこのような区別に照応する。ここに質的手段とは制度(inStitution) t/こほかな らない。これはさらに,具体的制度と抽象的制度に区別される。前者の例とし ては,生産単位,交通機関,銀行,政党,労働組合,計画機関などが挙げられ ている。後者は法的ルールであり,所有権,市場,生産の決定および価格形成 における分権化の程度などがその代表例である。量的手段は用具(instrument) とも呼ばれるが,これは利子率や税率のような文字どおり量的な:用具にほかな らない。 ③さて,ティンバーゲンらは以上の視点をもって東西両体制の変化傾向を 確定しているが,その結論をわれわれなりに整理し直して示しておくと次のこ 14) 15) 16) Ibid., p. 441. lbid., p. 443. Tinbergen, E’conomic Policy, op. ctt., p. 7.
体制収敏論争再訪 (1) 27 とくである。 まず,基本的目的についてのティンバーゲンらの結論は,次の一文に尽くさ れている。「もっとも重要な:ことは,おそらく,定義は異なっているにしても, 東と西の基本的諸目的は最近ではそれほど掛け離れていないということであ る。搾取の排除は,根本的に所得分配の変更をもたらすが,このように定義す ると,それは西の社会においても高いランクを占めている。違った手段によっ てではあるが,これらの社会は東の経済におそらく匹敵しうる(税引後の)所 得分配に到達している。高い平均消費はだんだんと東の経済においても主目的 ユつ となりつつある」。要するに,東西の基本的目的は実質的に接近しつつあると いうのである。 次に派生的目的であるが,これについては上述したもののうち次の目的に関 してのみ接近化が確認されている。東西ともに高投資が実現されていること, 西では税引後の所得分配の不平等が減少しつつあること,東西ともに高教育が 実現されつつあること。 次に,質的手段であるが,ティンバーゲンらは所有権については東西間に大 きな隔たりがあること(東では私有権は消費財と資本財のわずかな部分についてのみ 認められている),また市場の活用の度合いや規制の程度についても東西間に差 異があること(市場の活用の度合いはユーゴでは高くソ連では低いが,規制の度合いは 西よりも高い),さらに生産および価格形成の分権化の点でも東西のあいだに隔 たりがあることを認めつつも,いくつかの点では接近化の傾向が認められると している。その結論だけをごく簡単に示しておくと以下のごとくである。 性格は違うにしても東西ともに国民経済計画を制度化していること,しかも その果たす役割は東では小さくなり,逆に西では大きくなりつつあること。 東西ともに国際的な経済統合,つまり国際的集権化を推進していること(東 ではコメコン,西ではEEC, EFTA)。 農業については東では,MTSの廃止,ポーランドおよびユーゴでの集団農 17) Linnemann, et al., op. cit., pp.443−444.
28 彦根論叢 第243回 忌の廃止,家庭菜園の奨励などによって分権化の傾向が生じているが,これに 対して西では農産物価格支持や補助金を通して農業に対する政府規制が強化さ れていること。 最後に量的手段についてみておこう。これについては投資,教育,分配が取 り上げられている。まず投資であるが,これは東の経済政策のもっとも重要な 量的手段であり,その水準は国民所得の25%を占めているが,一方,西のそれ e }L 15一=20%である。教育については東のその普及の度合いはアメリカ並みとな っている。次に分配についてであるが,東では西と同様プレミアムや出来高払 いが導入されていること,また西では公有の増大(生産手段の2(ト25%),累進所 得税の導入および教育水準の向上によって平等化の傾向が生じていることが述 べられている。 ④ディンバーゲンらは以上の事実のほか,東における費用および投資の計 算の方法が西のそれと同じになりつつあること,東の企業マネージャーの自由 は拡犬されつつあるが,西のマネージャーのそれは逆に狭められつつあるこ と,総体的にみて東は分権化,西は集権化の道をたどりつつあることを指摘し, 東西両体制は第3の体制に収敏しつつあるという結論を下している。その第3 の体制については後にみることにしよう。 〔5)さて,われわれは次に,収敏の原動力を問題にすることにしよう。これ は66年論文のテーマである。この論文は,1965年に開かれたドイツ東欧学会 (Deutsche Gese11schaft ftir Osteuropakunde)でティンバーゲンが口頭発表したも のを活字にしたものである。収話説に批判的なタールハイムらが出席して活発 な質疑応答がなされたためであろうか,ティンバーゲソは自己の考えを実にス トレートに開陳している。その要旨をわれわれなりに整理して示せば次のごと くになろう。 ① 66年論文におけるティソバーゲンの主張のポイントは次の一文に尽くさ れている。 「東と西の社会政策および経済政策の諸目標は一私見によれば一 互いにますます接近しており,しかも考えられ,うる数多くの構造のうち最適構 造はただひとつしか存在しないことからして二つの構造は徐々にこの構造へ進
体制収敏論争再訪 (1> 29 んでいくであろう。このような収敏は,社会的諸力のよりよき認識 したがっ 18) てまた使用される計画技術によって推進される」,と。この文よりして東西両 体制は,「社会的諸力のよりよき認識」(eine besg. ere Kenntnis d6r Sozialkrafte) と「計画技術」(Planungstechnik)とによって最:適構造つまり第3の体制へ収敏 してゆくと考えられていることが分かる。一見,2動因説の印象を受ける。た しかに表面上はそのとおりなのだが,しかしながらティンバーゲンの議論を注 意深く検討すると,これら二つの原動力は同一平面上にないことが分かる。す なわち,われわれの解釈によれば,計画技術のほうがより根本的かつ決定的な 原動力と考えられているのである。われわれの解釈は次のごとくである。 まずここに社会的武力のよりよき認識とは,社会的諸機構や人びと相互の行 動態度に関する(教条的あるいはイデオ・ギー的でない)合理的かつ科学的認識と いったほどの意味である。ティンバーゲンによれば,このような認識態度がま さに東西の経済学者のあいだで醸成されつつあるのであり,この傾向がいっそ う進展するならぽ,言い換えると脱ドグマ化や脱イデオロギー化が進むなら ば,東と西の経済学者のあいだで科学的な意見交換がいっそう活発となり,こ のことによって両体制の収敏が推進される,という。では,何がこのような合 理的態度を醸成せしめているのか。それは計画技術である。東西における計画 技術の類同化こそが,東西の経済学者のあいだに意見交換の道を開いたのであ る。そして,東西双方における計画技術の改善の努力こそが効率中心の合理的 発想を普及せしめるに至ったのである。 ② では,計画技術とは何か。ティンバーゲソはこの概念を広く捉えてい る。すなわち,これには計画方法ばかりでなく計画管理組織も含められている。 また,このばあい計画は東の伝統的な指令的計画のみならず西のいわゆる指示 ユ ラ 的計画をも含んでいる。 18) J. Tinbergen, Die Rolle der Planungstechniken bei einer Anntiherung in Ost und West, in, E. Boettcher (Hrsg.), W’irtschaftsPtanung im Ostbtock, Beginn einer Liberalisierung?, Stuttgart . Berlin . K61n . Mainz 1966, S. 35. 19) A. a. O., S, 36.
30 彦根論叢 第243号 さて,ティンバーゲンによれば,東の計画は伝統的にミクロ経済志向および 経験的方法(試行錯誤)をもって,西のそれはマクロ経済志向および科学的方法 (とくに計量経済学的方法)を・もって特徴づけられる。歴史的にみると,東の計画 と西のそれはしばらくのあいだ没交渉のまま独立した形で発展したが,ティソ バーゲンによると50年置半ぼごろから両者のあいだに交流がみられるようにな った。その決定的な契機となったのは西の「投入一産出分析の方法」と東の「バ ランス化的方法」との内容的同一が確認されたことと,いわゆるリニアプログ の うミソグに対する東西双方の関心が双方で一致をみたことであったという。こ れ以後,計画技術をめぐる東西間の交流が活発になり,東では西の科学的(こ とに計量経済学的)方法に注意が向けられ,西でも東の経験に学ぼうとする気運 が高まりつつある。かくてティンバーゲンによれば,計画技術の面でのこのよ うな接近によって東西間で学問的交流がいっそう推進されて科学的経済理論の 認識が普及し,このことを通して東西双方で最適体制について合意が形成され ることになるだろう。これとともに東西間の社会経済目標の差異も狭まって コつ 「全国民の福祉」が東西共通の目標となるであろう。こうしてティソバーゲン 22)は,これらを通して東西両体制は収照すると結論づけている。 以上のところがら,ティンバーゲンのぼあいには技術がその学説の中心の地 位を占めていることが知られよう。かれのばあい技術がそのときどきの経済体 制の形状を規定すると同時に,経済体制を一定の方向に変型せしめる原動力と 考えられているのである。この意味で技術と経済体制との関係がいわぽ動的に 捉えられているのである。われわれが別の機会にティンバーゲン説を動的規定 ラ 説因と呼んだゆえんである。 (6)最後にわれわれは,東西両体制が将来行ぎ着くとされる第3の体制の内 容を問うことにしよう。結論を先取りしていうと,67年論文によれば,その第 20) A、a.0., S.39−42. 21) A.a、 O., S、47. 22) A.α.0.,S.47−48. 23)拙著『比較経済体制論原理』,212ページ。
体制収敏論争再訪 (1) 31 24)3の体制とは混合秩序(mixed order)である。しかもこの混合秩序は,厚生経 済学の角度よりして最適の秩序(optimurn・rder)なのであって,そこにおいて のみ社会的厚生が極大化されるのである。 ところで,ティンバーゲンはすでに1959年に出た論文“The Theory of the Optimum Regime”(in his Seleeted Papers, Amsterdam)においてこのような最適体 制論を展開している。この論文はかれの論文集のなかに収められた形で世に問 われたためであろうか,59年当時にはほとんど注目されなかったが,ティンバ ーゲソが細意説を提唱するようになってようやく経済学者の注意を引くに至っ たものである。ティンバーゲンはその後も折りに触れてかれ独特の厚生経済学 ゐラ的最適体制論を披歴している。ここではこのような最:適体制論に立ち入る余裕 はないが,それは要するに,「制約条件を考慮しつつ最大限の厚生に寄与する ラ ー組の諸制度を発見すること」を目的としている。こうしてかれは,社会的厚 生関数の理論をもって制度的条件の解明にあたり「公企業および徴税国家」と 「私企業」とが並存した混合経済のみが社会的厚生を極大化しうることを論証 z7) していた。 67年論文に戻ろう。ここでは混合秩序の内容が従前にも増してより明瞭な形 で定式化されている。次のごとくである。 「a)大規模な公共セクターはなにがしかの重要性をもつ外部効果または不 可分性を示す活動に当るが,これらの特微をもたない活動は私的セクターによ ってなされる。後者は少なくとも中小規模の単位を含むべきである。 b)社会経済政策の用具を用いるさいに集権化の程度は,どの用具も著しい 24) Linnemann, et al., oP. cit., p. 455. 25)たとえば次の文献参照。J. Tinbergen, Some Suggestions on a Modern Theory of the Optimum Regime, in, C. H. Feinstein (ed.), Socialism, CaPitalism and Economic Growth, Essays ptesented to Maurice Dobb, Cambridge 1967, J. Tinbergen, Produc− tion, lncome, and VVelfare : The Seareh for an Optimal Social Order, Whistable lg85, Part rSr. 26) Tinbergen, Some Suggestions, oP. cit., p. 127. 27) lbid., p. 128. 28) Linnemann, et al., oP. cit., pp. 454−455.
32 彦根論叢 第243号 ’外部効果を示さないものであるべきである。この原則は,政策業務をさまざま の『レベル』の当局に配分する。 c)総需要・総投資・不安定市場・所得再分配の規制は1公共セクターの仕 事である。所得再分配は,各人の限界効用め一様化をめざすべきであり,限界 努力には税を課してはならない」。 ところで,このような最適秩序はあくまでも理論的モデルであることに注意 しておかねばならない。つまり,それは現実動向の観察の中から導出された, つまり現実傾向のいわば延長線上に描き出された,言うなれば広い意味での現 実型ではないのである。われわれの解釈によれば,ティンバーゲンには東西の 両体制が上の最適秩序に収束するという主張はあっても,その現実に即.した論 証はないように思われる。上述のティソバーゲンによる両体制の接近化の論証 は,必ずしも最適秩序への収束の必然性を保証するものではないのである。テ ィンバーゲン説の弱点といわねばならない。 (7)さて,如上のところがら知られるように,テaンバーゲンの収敏説は, 収赦の原動力を計画技術にみるという意味で技術論的である。このような特徴 は,他の収敏説にもあてはまる。すべてではないが論者の多くは,生産技術・ 経済組織・管理技術などの広義の技術に着目し,東西におけるその類同化から 両体制の虚礼を説いている。たとえば,ガルブレイスやワイルスが典型的にそ うである。このように,忌辰説の主流は技術論的もしくは社会工学的な色彩を 強く帯びている。また,収録論者はほとんど例外なしにいわゆる混合経済支持 の立場に立ち,計画と市場,公的セクターと私的セクターなどの共存を擁護す るのが普通である。しかも,ティンバーゲンをはじめ収敏論者の多くは,経 済体制の捉え方においてプラグマティヅクな立場を取る.といわねばならない。 すなわち,かれらには経済体制およびその構成要素を合理的操作の対象とし て手段化しようとする態度がみられる。収敏説に批判的な態度をとっている 新旧主義者ハルム(G.N. Halm)の言葉を借りれば,「市場と計画は互いに排 除しあう組織化原理ではなく,これら二つは同時に使用可能な経済的道具であ
体制収敷論争再訪 (1) 33 る」とするのが収敏論者の基本的態度なのである。「用具論者」(instrumentalist) と称されるゆえんである。
皿 面面説批判論
われわれは次に,収敏説に対する批判論に目を向けることにしよう。先に触 れたように,批判論にはさまざまなものがあるが,われわれの見るところでは これは大きく三つに区別することができる。ひとつは体制非両立論(Unverein− barkeitslehre)の系譜に連なる論者の批判論である。この系譜の論者の立場は, 一口でいうと,資本主義(または市場経済)の基本的構成要素と社会主義(また は中央管理経済)のそれとは共存しえないとすることをもって特徴づけられる。 たとえば,市場と計画は共存しえないのである。市場は資本主義の,計画は社 会主義の体制原則なのである。「原則論者」(fundamentalist)と呼ばれるゆえん う である。この体制非両立論を代表するのは新自由主義者とオーソドックスなマ ルキストである。ここでは前者の代表としてヘンゼルの批判論を,後者の代表 として東のマルクス=レーニン主義者のそれを取り上げることにしよう。 第2は,西の実証的比較経済体制論者の批判論である。タールハイムの批判 論がこれを代表することは前述のとおりである。 第3は,いわゆる東の改革派に属する論者の批判論である。われわれの理解 ではコルナイの批判論がこれを代表する。コルナイはハンガリーを代表する経 済理論家であるが,かれは保守的なマルクス=レーニン主義者と違っていわゆ る市場社会主義タイプの混合経済を支持していることは周知のごとくである。 以下,上に挙げた順序で批判論を検討していくことにしよう。 2g)G. N Halm, Will Market Ecomomies and Planned Economies Converge?, in, E.Streissler(ed.), Roads to I7reedom, Essays in Honour of Friedrich A. von Hayek, London 1969, P・76. 30)KW. Rothschild, Socialism, Planning, Economic Growth, Some Untidy Remarks on an Untidy Subject, in, C. H. Feinstein(ed.), o汐. cit., p.162. 31) 1bid., p.!62,34 彦根論叢 第243号 〔1〕 体制非両立論者の批判論 1.ヘソゼルのぼあい 3Z) ヘソゼルの批判論の内容は次の3点に集約される。 (1)第1は,ティソバーゲソ説に代表されるような技術論的な立論方法に対 する批判である。すなわち,東西における広義の技術の類同化から東西両体制 の収敏を導くやり方に対する批判がこれである。一口でいうと,収話説には技 術の類同化の証明はあっても,両体制の基本構成諸要素の類同化の証明はない というものであった。ヘンゼルによれば,二二説の体制概念は総じてあいまい であり,東と西の生活全体を漠然と体制に等置している。これでは両「体制」の 収敏を証明することはできないという。これは,いわば体制論不在の収赦説と でもいうべき批判であり,タールハイムやその弟子のクニルシユ(P.Knirsch) 33) の論難に通ずるものであった。 (2)第2は,ティソバーゲン説に象徴される混合経済擁護に対する批判で ある。ヘンゼルは混合経済の合理的編成の可能性すらこれを否定する。その論 拠は次の二つである。ひとつは,分権的諸要素と集権的諸要素との混合は経 済全体の機能麻痺を招かざるをえないという論拠である。ヘンゼルのこの見方 は,明らかにミーゼス(L.von Mises)一オイケン(W. Eucken)一ハイエク (EA. von Hayek)の流れの体制非両立論の考えを引いている。レーシュ(D. L6sch)によれば,この二二立論は不安定テーゼ(lnstabilittitsthese)を柱として 34) いる。すなわち,市場的調整と中央管理的調整との混合もしくは並存は実現不 32) Vgl. K. P. Hensel, Strukturgegensatze oder Angleichungstendenzen der Wirt− schafts−und Gesellschaftssysteme von Ost und West?, in, ORDO, Bd. XII, 1960/61, 拙稿「体制収敏説批判一K.P.ヘンゼルの批判を中心に一」.「社会科学論集』(大阪 府立大学)第4・5合併号,昭和48年5月をも参照。 33) Vgl. K. C. Thalheim, Bedeuten die Wirtschaftsreformen in den Ostblocklandern einen Systemwandel?, in, E. Boettcher (Hrsg.), a. a. O., S. 56−59., P. Knirsch; Neuere Beitrljge zur Konvergenztheorie, in, E. Boettcher (Hrsg.), Beitrdge 2zam Vergleich der Wirtschaftssysteme, Berlin 1970, S. 87−88. 34) D. L6sch, Zur ldeologiekritik des traditionellen bipolaren Ordnungsdenkens, in, Hamburger J盈プ伽ゐルブTVirtschafts−und Gesellschaftspolitik,20. Fahr 1975, S.
体制鋭敏論争再訪 (1) 35 可能であるか,可能だとしてもそれは永続化しえず,時の経過とともに必ず前 者の崩壊と後者の全面支配をもたらすという見解がこれである。混合経済は要 するに不安定であり,絶えず中央管理経済への傾斜を示すがゆえに機能障害が 生じてこざるをえないのである。このような見解の起源はミーゼスのいわゆる 統制波及の理論に遡ることは周知のごとくである。 もうひとつは,より原理的論拠である。ヘンゼルの経済秩序論は,一口でい おら うと相互調整一元論をもって特徴づけられる。つまり,経済秩序を経済秩序た らしめる本質的構成要素を需給の相互調整方式に求めようとするものである。 ヘンゼルによれば,この相互調整方式には二つのものしかない。分権的計画体 制(いわゆる市場機構)と集権的計画体制(いわゆる計画機構)とがこれである。 前者は需給の調整が市場価格をもって行われることをもって,後者はそれが中 央機関の物財バランスによって行われることをもって三二づけられる。それぞ れの計画体制において需給の調整を行うには財の稀少度を表示するものが不可 欠となるが,前者では市場価格が,後者では中央機関の策定する三二バランス 表の左右に表れる計画残高(Planungssaldo)がこのような表示器の役割を演じ る。稀少度表示器なしには計画体制はありえず,計画体制なしには経済秩序は ありえないのである。かくてヘンゼルは,二様の計画体制に応じて二つの経済 秩序を確定する。市場経済と中央管理経済がこれである。 さて,ヘンゼルは以上の説をもって混合経済を批判するのだが,その要点 は,合理的で有効な第3の経済秩序を主張するのであれば,市場価格および計 画残高以外の第3の稀少度表示器を示さねばならないというものであった。収 敏論者たちは,第3の稀少度表示器を提示しえず,したがって第3の計画体制 をも提示しえず,それゆえ混合経済の理論的根拠づけに成功していないではな いか,というのである。経済秩序二分法の立場からする典型的な批判といわね ぽならない。 96., D. L6sch, K. Bolz, H. Clement, Wirtschaftssblsteme: Marktwirtschaft/Kapital− ismus−Planzerirtschaft/Sozialismus, Mtinchen 1978, S. 34−35. 35) このようなヘンゼルの学説については拙著『比較経済体制論原理』第4章を参照。
36 彦根論叢第243号 (3)第3は,収敏説における経済体制変動の原動力に対する批判である。ヘ ンゼルによれぽ,出島説はこの原:動力を非人間的(an・nym)な諸礼に見ている。 つまり,技術および産業の同方向への発展によって東西両体制が類同化の方向 へ変化すると考えられている。これに対してヘンゼルは,非人間的諸力によっ て両体制が変型化せしめられるのであれば,それらは秩序ある第3の道へ収束 するのではなく,むしろカオスに陥らざるをえないと批判する。かれの考えで は,秩序ある第3の道たる混合経済を実現するには人為によるほかないのであ る。つまりは,経済政策によってこれを形成するほかないのである。しかし, この道さえも閉ざされている。「なぜなら,先に示した形態論的根拠〔第3の稀 少度表示器は存在しない〕からして第3の道,つまり『黄金の』道は存在しない からである」。 2.東のマルクスニレーニン主義者のばあい われわれは次に,東のマルクス=レーニン主義者の批判論を取り上げること にしよう。収敏説に対するかれらの評価は非常に厳しい。批判というよりも否 定といったほうが適切である。資本主義の必然崩壊,社会主義の必然到来を確 信するかれらにとって,両体制の第3の体制への収束を認めることは自己を否 定することに等しいからである。かくてかれらは,体制論的な批判ばかりでな く,イデオロギー的な批判をも加え,収旧説を社会主i義イデオPギーの無力化 37) を図ろうとする新手の国家独占主義のイデオロギーと規定した。 経済体制論の角度よりすると,かれらの批判の主要な内容は次の3点に集約 することができる。 (1)まず,収敏説の立論の方法に批判の鉾先が向けられる。マルクス=レー ニン主義者によれば,収敏論者は生産技術や計画技術などの生産高力の類同化 をもって両体制の収束を説くが,このような方法は技術主義であって,社会経 済体制を原理的に基礎づけている生産関係,とりわけ生産手段の所有方式や階 36)Hense1, a. a.0., S.328.〔〕は筆老の挿入である。 37) Hdhmann, Seidenstecher, a. a. O., S. 108.
体制収敷論争再訪 (1) 37 き 級関係を問題にしていない。商体制の収束を説くのであれば,東西におけるこ のような生産関係の類同化を論証するのでなけれぽならない。にもかかわら ず,収赦論者はこのような努力を怠っている。このような批判の論理はヘソゼ ルと同様である。 (2)第2は,収敏説の体制変動観に対する批判である。それは丁度,ヘンゼ ルのぼあいと逆になる。すなわち,マルクス=レーニン主義者は,収敏説では 人為によって体制が形成されたり,変型されたりすると考えられている,と捉 える。この意味で,収附説は社会主意説(sozialer V・luntarismus)だというので ある。東ドイツのマイスナー(H.MeiSSner)は次のようtlこ述べている。「この 理論の基礎には決定的な方法論的欠陥がある。社会の発展は,客観的な歴史法 則に従って考察されるのではなく,人間の恣意的な決定領域に帰せられる…… 人間は絶えずよく既存の体制の長所と短所を認識し,絶えず大きな成功を収め つつ欠陥を除去し,長所をさらに伸ばそうとする,とされる。こうして徐々 に,人問の意識的および目的的な決定によって最適に機能する社会が生まれる という。このような観念論的思考方法は現実に対応するものではない。人間の 決定の余地はたしかに大きい。だがそれは無制限ではない。人間の決定領域は ……給ヌ,物質的に制約される。生産諸力とこれに依存する生産関係は,人間 お または入間集団(階級)に対して……一定の行動をとらせるのである」,と。 われわれの理解では,少なくともティンバーゲンやガルブレイスらの説に徴す るかぎり,このような捉え方は誤りであるといわねばならない。先に述べたよ るのうに,かれらの説は技術決定論的な色彩を強く帯びているのである。 (3)第3は,収劔説の事実確定に対する批判である。収敏論者は東について 38) H6hmann, Seidenstecher, a. a. O., S.117−118., Leontiev, op. cit., p. 48!., H. Mei− ssner, Marxismus und Konvergenztheorie, in, T)Virtschaftswissenschaf.f, Jg. 16., 5, 1968, S. 712. 39) Meissner, a. a. O, S. 713. 40)ちなみにミードは,ガルブレイス説を技術決定論と決めつけている。次の箇所参照。 J. E. Meade, ls “The New lndustrial State” Inevitable?, in, Economic Journal, vol. LXXVIII, no. 310, 1968, p. 375.
38 彦根論叢 ac 243号 は分権化を,西については集権化の傾向を確定していることはティソバーゲン を例にとってすでに見たとおりである。マルクス=レーニン主義者は,そのよ うな東西の事実傾向について収敏論者とは違った解釈を行っている。まず,西 の集権化は資本主義の没落の徴候,つまり社会主義への移行開始を示すものと 解釈されている。他方,東の分権化(計画・管理の分権化,利潤・利子の利用など) は,資本主i義への接近を示すものではなく,むしろ共産主義への移行のための る 布石と解されている。 41) Leontiev, oP. cit., p. 483.