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中世末期村落の自治と領主の支配 : 近江国菅浦村について

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中世末期村落の自治と領主の支配

    一近江国菅浦村についてi

隔 は  し  が  き  近江国浅井郡聖母村︵現滋賀県伊香郡西浅井村大字菅浦︶は平安時代又はそれ以前に、隣接せる大浦庄から分れて成立した と思われる村落であって、菅浦文書によれば寺門円満院領たりし大浦庄との対抗上、平安末期には村をあげて竹生島へ寄 進しており、建長四年︵酉暦一二五二年︶には山門檀那院領となっていた。鎌倉時代には禁裡供御入として活躍し、南北朝 時代以後は守護代伊香郡奉行目賀田左衛門入道浄西の殿軍の支配にも属した。更に大永・享禄年代には京極氏、天文・永 禄年代には浅井氏の支配下にあった。その後近世に入って暫く不明であるが、慶安四年︵一六五一年︶本多下総町康次が伊 勢の亀山より膳所に移封されてより後は膳所藩領となり明治維新に至った。  この村には在地の史料としての鎌倉時代以降明治時代に至る多数の古文書が大字の共有文書として今日に伝えられてい ゆ る。これらの中、特に近世文書を主たる史料としてさきに近世村落の自治機構とその機能、及びそれらと領主の支配との        関係について考察した軌そこで本稿に於ては同じ菅浦村につき更に遡って中世末期における同様な問題を取上げてみたい と思う。    中世末期村落の自治と領主の支配      二三

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 中世末期村落の自治と領主の支配       二四 ①現在これらの古文書はすべて本学史料館に於て保管されている。 ②拙稿﹁近世村落の自治と領主の支配﹂本誌第三十六号。以下近世に関する記述については宝器参照。 二 宿老制度とその変遷  菅浦村の自治的役員として江戸時代には﹁忠老役﹂なる制度があったが、この制度は寛保三年の代官と百姓との争論に       あ   へ   た       も   で   マ 関する文書によると﹁往古6忠老役と聖者弐拾人有之﹂︵傍点筆者、以下同じ︶とある如く、その起源は近世以前にあり、現 存する史料によって知り得る限りでは室町時代にまで遡って辿ることができる。          室町時代における菅浦村に於ては﹁おとな﹂衆が外に対して一村を代表するものであったことは、多くの場合﹁惣庄﹂ 若しくは﹁惣中﹂宛になっている年貢・料足等の請取状が﹁おとな﹂・﹁老﹂宛となっている場合も少なくない事によっ て知られる。又内に対しては村落の自治的規制の担い手でもあったことは、例えば﹁惣庄として定処﹂であった文明二年 六月の﹁前田内徳置文﹂案の末尾に﹁菅浦惣庄乙名共在判﹂と記されていて、恐らくその本書には各乙名達の署名花押が あったものと考えられるのによってその一端が窺われる。  然し乍ら最高の役員としての﹁おとな﹂には一定の人数が定まっていたらしい。即ち二十人の﹁乙名﹂がこれである。 尤も役員としての二十人以外になお﹁おとな﹂が存在したのか、或は﹁おとな﹂といえばこの二十人のみであったのか、 という点については十分には詳かになし得ない。そこで先ず二十人という人数を伴なって菅浦文書中にあらわれてくる事 例の中、年代が分明なるもののみを列挙すると次の如くである。       こ  寛正二年七月十三日       上廿人乙名・次藩中乙名叉末の若衆・⋮:廿人乙名中   ︵一四七〇︶      ︵ママ︶  文明二年四月十三日       管浦年老廿人御中

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同 文明二年四月廿日 同    @ヒじ 交明三年十二月 (一 l八︸︶ 文明十三年十二月十八日 (一 ワ一九︶ 永正十六年十一月五日 ︵﹁五,六七︶ 永禄十年五月十九日 (一 ワ六八︶ 永禄十一年十二月十四日 地下年老廿人連署状⋮⋮菅浦年老廿人之中 廿人宿老在判 惣庄廿人宿老之申へ⋮⋮︵同文二通︶ 宿老名︵二十人署名︶ ︵文明四年書之︶ 菅浦骨入乙名連中へ 菅浦老廿人中. 廿人老中⋮⋮老中廿八使節 十六入之長男・東西之中老・廿人 e  ここにあらわてくる廿人の乙名・老・宿老等の呼称については従来二通りの解釈がなされている。その一は牧野信之助       ②       ② 氏の編纂にかかる﹃滋賀県史﹄に説かれている所であり、他は林屋辰三郎氏及び永島福太郎氏の所説である。まず﹃滋賀 県史﹄は﹁庄内のことは中老。溺二+人のものが主として談合したのであるが、猶その外に乙名藁があり、霧一部の協      ④

議に与った﹂・述べ写るのに対し、林屋氏は﹁整の行政は﹃上芙乙名﹄罐難が主・なり、盗﹃中乙名﹄墾紳

書があり、更に﹃末ノ若衆﹄と呼ばれる乙名には至らぬ人々が居て之に当った﹂と考えておられる。即ち前者は自治の中 く 心が中老H宿老二十人なりとするに対し、後者は中老の上に上心入乙名若しくは宿老がいて、これが惣庄行政を主として 司るとされた。永島氏も﹁かの近江菅浦庄は南北朝時代から村落自治を展開しているが、それは上の二十人の宿老︵乙名︶、 次の中老︵中乙名︶、 末の若衆という自治機構をもつており、 ︵中略︶村政は上場・中老までの寄合で評定され、・若衆はそ       ⑥ の執行にあたったものであろう﹂と考えておられる。  何故に﹃滋賀県史﹄の宿老11中老二十人という説が現れたのであろうか。恐らくこれは永禄十一年の左の如ぎ文書がそ の根拠となるものであろう。    申世末期村落の自治と領主の支配      ご五

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   中世宋期村落の自治と領主の支配       ご六      書   当所控所誓事、守謹不入自検断之所也、然者西二一二人六郎三郎・孫四郎・源三、東一二入衛門尉二郎、是四人在所之背置目、縦地頭   号一 一不可然行在之間、於末代在所之参会野分、村人長男・中老此等之参会興行之仁於単彩者、田津入を堅可致政道三石、猶以其   仁躰之事者不及申者也、循而為後日如件、        +六人之長男       ’     東西之中老      ・      永禄十一年十二月拾四日       ﹂        廿 人       サヘカ   この署名を﹃滋賀県史﹄では十六人の長男と、その他に東西之中老廿人なりと解している。即ち﹁永禄十年十ご月には、 庄内東西の中老二十人、十六人の長男の名を以て﹃守護不入自検断甲所﹄たる庄内の壁書、即ち掟を破った旧名のものに、         長く会合出仕を禁め、乏を許容せんとするものと共に所の政道により処置すべき旨を言明している﹂と述べている。これ に対し、永島氏は﹁永禄十一年︵一五六八︶の文書によると、二十人としていながら、その二十人は十六入のオトナと東西         の中老としている。おそらく中老は東二、西ごであろう。﹂と解釈しておられる。この点は文書の書様から見て決定的な 判定を下す事は困難であるが、ここから説が分れて、前者は﹁庄内のことは中老︵11宿老︶二十人のものが主として談合 した﹂とし、後者は結局﹁村政の大部分は二十人のオトナで評定されたものであり、それも月行事のように四・五名が運        営にあたったものであろうし、中老は重大事のさいに寄合つたもの﹂と見るに至っている。  何れにしても本来は二十人の﹁乙名﹂が役員になっていて村政に当り、対外的には村を代表する機関であったことは疑 ない。その初見は次に掲げる菅浦惣庄置文である。 菅浦諸沙汰之事

  定

常或ハ盗入ゆふとも、 雑物を引下、或ハ額のかミをとり、        へ   も   ヤ   た   し      カ   ヘ   ヘ      ミ   へ 支難中鏡の有事ハ上廿入乙名・次之中乙名又末の若衆相ともに如法致可沙    〆

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   汰、敵人傍悪、寄事左右、以電着力損入を、いわれ無者を過躰被行協事、更々無勿躰次第是也、但麦証ある事ならハ、惣庄相ともに    過躰百行、若背此旨ぬけかけに成、寄合不仕、養魚事私事を後向地下煩輩お返当惣豆飯見こりき玉とりの為二堅罪遍可行者也、傍置    文状如件、       為 善︵略押︶    正阿ミ︵略押︶     惣庄置文所定      廿人乙名中       宗円坊︵略押︶    清 介︵略押︶ 、       為 清︵略押︶    正 信︵略押︶      寛正弐年七月十三日  これによって寛正二年︵一四六一年︶頃には既.に十人の乙名が盗賊処分の如き重大事に際しては﹁中乙名・末の若衆﹂と 共に衆議によって法の如く沙汰すべきことが規定されている。又天文十一年︵一五四二年︶の菅浦惣村契状に左の如きもの がある。      “    ︵ウワ書︶    ﹁すかうらのそうちうよりのしやうなり﹂       ︵浅井亮政︶    態以.書状申入怖、伽新三郎殿様より公事舟断碑被仰付協処二、各々無沙汰仕施処二、堅可被加御糺明之由承怖、南中余二迷惑存知、  、 @其様御奉行出雲怖問、各々致砥候、鯉山仕、御二連申砺処仁、被成御馳走、被相果下憂事、各々御芳念之段忘申間髪砺、上之御用之    儀者不及申施、其様於御用ハ何時出て・も協へ、なんぞ成共串重爆内耳、若無沙汰仕盛者、何時成共可被加御糺明協、惣別加判可進之処       へ   も   へ      た   へ      ぬ   ぬ      く    へ共、おとな二人・中老二人・若衆一い人以上六入加判進協上ハ、於以後少も如在有間敷協、働為後日証文状如件、        西之      ︵別︶         東はま        まこ大郎へん当︵略押︶    新三郎大夫︵略押︶

    委土年正昇百 

同源三郎︵略押︶ 同平四郎︵略押︶

       同      同        兵 衛 三 郎︵略.押︶    藤     介︵略押︶      柴三左衛門尉殿参人々御中       曾  即ちこれらの文書によると﹁廿人乙名・中乙名・若衆﹂又は﹁おとな・中老・若衆﹂というような明らかに年齢的秩序に基     中世末期村落の自治と領主の支配      二七

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   中世末期村落の自治と領主の支配       二八 く階層別が存在し、而もそれが村の重大な事柄を決定したり、或は村として何らかの契約をしたりする場合に特定の役割 を果しており、就中﹁廿人乙名﹂の占める地位が最も重要なものであったことがわかる。  然しこれらの二十人といえども常に全員で一々事に当ったわけではない。そのことは一々の文書についてみても、十人 の代りに四人乃至六人の署名しかないことによって推測される。叉場合によっては一老・ご老・三老といったような順序 が称せられたこともある。この順序が当時何を基準としたかについては史料的には未だ確がめ得ないが、宿老は高齢者で あって、宿老同士の中での順序も年齢順ではないかと思わせる史料がないではない。例えば文明三年の菅浦惣庄置文案に 於て宿老二十人の署名の筆頭に記されている道清がその前年惣庄†人宿老に宛てた寄進状がある。即ち、   寄進申料足之事     合弐貫文者       ヘ  ヤ  ヘ  ミ  も   右用途者、道清之為後生菩提、面前廿人宿老之中へ寄進蒸器処実正也、但此料足協以前分、毎年一度宿老而訪に念仏を御申しあるへ    く怖也、伽為後日寄進状如件、     丈明二年庚寅卯月廿日        すかの5ち       寄進主      道 清︵花押︶ これによると弐貫文寄進の理由は後生菩提の為とある。もとよりこの史料だけでは筆頭の宿老であった当時道士が最高齢 者たりしことを十分に立証することはできない。  .      ・  次に中老は果して如何なる性格のものであろうか。天文五年九月七日付料足情状署名や年代不詳上浦惣村銭遣日記によ ると、老と中老、宿老と中老は夫々区別しているが、老と宿老とを区別して並記することはない。即ち老と宿老との区別 は殆んど無く、これちが﹁おとな﹂であろうが、これらと中老とはかなり判然と区別されているのである。場合によって

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は﹁おとな﹂ の中に含めて考えられたのであろうか、 ﹁中乙名﹂といわれることもあるが、大体において﹁おと−な﹂と 若衆との中間位にあるものと考えてよい。  ,         この中老の中から出る役員としての﹁中老﹂は永島氏の指摘された如く、地域代表的性格を有していた。 ﹁中老﹂なる語 の初見史料たる天文四年︵一五三五年︶ の文書には﹁老衆﹂と﹁両中老衆﹂とが記載されている。即ち﹁老衆﹂にはつい ていない﹁両﹂の文字が、中老の方のみに冠せられているのは、後者が東西両地域からの代表としての性格を担っている からに外ならない。永禄十年の料足借用状には﹁東ノ中老衆﹂と﹁西ノ中老衆﹂各二百計四重が署名しており、永禄十一年 の文書には﹁東西之中老﹂、天正十年の算用状覚には﹁中東中老﹂とある。この中老が年代の記載ある文書に現れてくる のは天文四年︵一五三五年︶以降であって而も東西両地域を代表していると考えられる点は頗る注目に値する。即ち従来 は年齢的秩序たる﹁おとな﹂廿人が主として村政に当っていたのであるが、この旧秩序に対する新しい秩序として地域的 代表が出現して村政に参加したことは、村内の東・西両地域が新たな意味をもつようになったことを示すと考えられない であろうか。そしてこの新しい秩序の担手が﹁おとな﹂の中の、或は﹁おとな﹂につぐ若年層によって占められているの である。ここで再び前掲永禄十一年の文書が見直されるべぎであろう。この署名が東西之中老四人を意味するか十人を意 味するか、文書自体としては判定困難の旨既に述べたが中老廿人という記載例は他に一回もないのに対して、中老亀入の 署名例は永禄十年のものがある点からしてこれは中老四入説が恐らく正しかろう。そこで永島氏の説かれる如く、地域代 表がここで始めて﹁おとな十入﹂の中に加わったことになる。前述の如く近世の忠老役は当初から十人であったようであ るから、漸次年齢的秩序に対し、地縁的秩序が蓬頭しつつある傾向をここに読みとることができるように思われる。 ①﹁おとな﹂は又例えば応永翌年二月九日生母庵より惣庄に対する林の売券に﹁惣異見乙名達より依此林所望云々﹂とあり、或は文明  二年卯月廿日の前田百週中置文に﹁地下乙名達﹂とある如く﹁乙名﹂とも記されている。長享弐年卯月三日付の代官公事銭請取状の  中世末期村落の自治と領主の支配      二九

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中世末期村落の自治と領主の支配 三〇  宛名は﹁菅浦老砂中﹂となっているが、この﹁老﹂は﹁ロウ﹂叉は﹁オトナ﹂と読まれたものと思われる。 ﹁おとな﹂は又﹁長男﹂  とも記されたことは年不詳五月廿五日海津西浜惣中よりの書状の宛名が﹁姫蒲長男中﹂となっており、又永緑十一年十二月十四日付  文書の署名に﹁十六人之長男﹂とあるのによって知られる。 ②林屋辰三郎氏著﹃中世文化の基調﹄。 ③永島福太郎氏著﹃中世の民衆と文化﹄。 ④﹃滋賀県史﹄第三巻一八三一四頁。 ⑤林屋氏前掲書一〇七頁。       , ⑥永島氏前掲書二六i七頁。 ⑦﹃滋賀県史﹄第三巻一八三頁。 ⑧⑨⑩永島氏前掲書二七頁。         三 宿老制度の史的意義  次に如上の﹁廿入宿老﹂ ・コ一十人乙名﹂又は﹁年老廿人﹂等とよばれる村落の役員組織が中世末期の村落に覧て占め る史的意義について考えてみたい。この点については考察すべき二つの面がある。その一は村落の内部的な問題であって、 かかる村落の自治的役員が如何なる﹁百姓﹂の代表であるかということである。言い換えれば廿人の﹁宿老﹂ ︵乙名・年老︶ をその代表者又は自治的役員として有するところの村落構造如何という問題である。そのこは村落の外部的な問題であっ て、村落の自治機構としての﹁十人宿老﹂︵本心・年老︶が村落を外から支配せんとする領主権力と如何なる関係にあった かという問題である。          ω 村落構造との関係  室町時代の村落構造については遺憾乍ら菅単文書中にこのことを示す史料が十分にあるとはいえない。従ってこの問題 に対する十分な解答を得ることは困難であるが、然しこの点に関して若干の示唆を与えてくれる二・三の史料をあ.げるこ

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とは出来る。       .  まず室町期における菅浦住民の総数と彼らの貢租負担地積の大凡の規模について見よう。菅浦文書中年貢納帳と秋成帳        や ︵又は春成帳︶とが共に同一年代について現存するのは永正十五年︵一五一入年︶ の年貢納帳と秋成山畠帳で.ある。而して 一般に年貢納帳には面積・石高及び登録入落、秋成山畠帳︵春成山畠帳︶には面積・貫高及び登録人名が記載されている。 而も永正十五年の年貢野帳所載の面積を総計すると四町九反四畝十四歩となり、古来菅浦唯一の水田地たる日差・諸河の        広さにほぼ相当する。このような点からして年貢納帳は田租に関するものであり、秋成帳︵春成帳︶は畠の地子に関する ものであって両者を合すれば貢租負担地積の全部に亘ると見てよい。翠雲帳には登録尊名のみの記載もあるので、貢租地 に全くかかわりなぎ者も登録されていることがわかる。従ってこれら記帳の登録人を合せれば大凡菅浦村の構成員数が明         らかにされることになる。右側帳に示された登録人別の持地の総計によって、その規模別戸数表を作成すると左表の如く になる。これによってその渡世を少からず漁業に依存していた菅浦住民の貧富の階層分化の実態を直ちに推しはかること はできないが、四反以下の貢租負担地を有する者が主であり、特に二反未満の者が多く、何ら反別を登録せざる者が十六         即いた。合計して百歩ご名となる。もとよりこれが身締住民の総戸数であると断言することは必ずしも出来ないが、当ら 永正15年貢租負担  地積別戸数表

地 積」戸x

16 R5 R3 P3 P1

P1

2

なし

工反未満 1反∼2反 2・一3

3−4

4一一5 5一一6 6一一7 II2戸 、計 ずと錐も遠からざる数字であることは先ず間違ない。  而してこれらの菅浦住民が全く同等の立場に立つものであったとは考え難 、い。これは少々年代が遡るが、莚武二年︵二二三五年︶の供御人等置文を掲げ ると左の如くである。     左衛門少尉︵花押︶ 中世末期村落の自治と領主の支配 ご二

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    中世末期村落の自治と領主の支配       三二        近江国菅浦住人等供御八役・事    右当聾者為竹生嶋神領、往昔以来敢無三越、難然依少田畠闘鶏上之漁而渡世之処、墜田浦歯入揺動致違乱詰問、為断絶恋煩号其身於供    御人煙参拾喉懸盤龍鵬減・習弊石菖斗四升襟鍛贋捷二宇口・枇杷弍駄京進定 ・大豆堅石参右四弔慰鰍薩雛鮭縁㌫針妻壁年令濱進者也、    馳走為高家也、尤可被垂御哀訴者也、但麦井大豆等者依在家増減着雪多少、在家増減之.惑者可墨書検見、且此等次第末代為無異論、    此状両通内;逓者被召置公方、 一通者被加御証判所ド賜也、の証状如件、       建武弍年八月  日      ,       菅野供御人等 これによると建武二年当時供御の負担者として在家七十二宇、或は漁人五字を差引いて六十七宇が定められていた。右は 鎌倉時代の史料であるが、室町時代に入って明応九年︵一五〇〇年︶の菅忠心公文所役公事定書によると、    定公文殿諸公事条々    一、 留果ト幽麦ハ山ハ十四人宛    一、油ハ  三にんなり    一、 几μ五文醗竣ハ山ハ十人    一、七交銭ハ地下の定使    そろへ協て渡可申者也、    循所定如斯、        庚     明応第九年十二月十四日        串 とあって、若干減少してはいるが殆んど鎌倉時代の在家と同じ規模の六十四人という公事負担者が室町時代にも維持され       紳 ていたことが知られる。これに対して康安元年︵二二六一年︶の二二庄地下置文を見ると、          へ  も  も  ヘ  ヘ  へ          すかのうらのうしろさいけの事

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   かみよりすてをかれ協うゑハ、くし事いちりうもんかけ申ましく協、この5ゑハき・たきものれうにをとこ入穿をくへし、よてのち    のためにところしやうくたんのことし、        しや5みたふ ︵略押︶       康安元十二月三日      たうほう房   ︵略押︶        さいくわんはう︵略押︶        けんあミたふ  ︵略押︶        しやうけんはう︵略押︶        しあミたふ   ︵略押︶       .       しあミたふひかしの︵略押︶      ’        しやうみたふ ︵略押︶ 即ち公事のかからぬ後在家の存在が窺われる。而してこれら在家・後在家は供御又は公事についての文書に現れてくるの であって、両者の間に隷属的階層関係を認め得る如き史料は存しない。  以上は領主に対する村民の負担を通じ、村落構成員について一瞥したにすぎないが、廿人の宿老 ︵乙名・年老︶ たり得 たものはこれら村民の中、恐らく在家若しくは公事負担者たる者より出でたかと思われる。然し年貢・公事負担の大小と 村落自治における地位の軽重とは必らずしも正比例するとは限らない。何れにしてもこの点を史料によって明らかにする ことは現在の処困難な為、これ以上の追究は後日に譲らざるを得ない。         回 領主権力との関係       ・  次に対外的関係、即ち宿.三等村落の自治的役員をその主たる執行機関とする所の村落の自治とその村落を支配する領主 権力との関係についてである。今この点を能う限り明らかにする為に、若干の史料を掲げてみよう。  先ず領知関係であるが、江戸時代に較べて室町時代のそれはかなり複雑な性格を持っている。菅浦は鎌倉時代以来一方    中世末期村落の自治と領主の支配       三三

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   中世末期村落の自治と領主の支配       三四 では山門檀那院領又はその末寺としての竹生嶋領であると同時に蔵人所所管又は内.蔵寮領として供御人でもあったことは 菅浦文書中多くの文書がこれを物語っている。而して山門の支配については、鎌倉時代の文書であるが建久三年︵=九二 年︶十一月の檀那院検校実遍解状案に、    一、近江国浅井郡内竹生嶋        ヤ  も  へ  も  た  あ     件嶋者、弁才天女垂跡之霊地、行基菩薩建立之精舎也、菅浦在家田畠海難是皆難為狭少之所、依為往古施入之陣所、所注載也、 と記されていて、山門の領知は田畠にまでその支配が及んでいたことが明らかである。これに対し蔵入所又は内蔵寮の供 御人としての支配は前掲建武ご年の供御人等置文に見られるように、 ﹁供御﹂又は供御を負担する入に対する支配を主と するものの如くであって、山門の支配の如く田畠にまで直接その支配が及んではいなかったようである。  これらの種々の領知関係の異質性については尚考究を要するが、文安三年︵一四四六年︶ の檀那院衆徒事書には﹁江州 浅井郡内菅福者自天智天皇以降内裏供御料所井当堂︵山門本院東谷檀那拝堂⋮−筆者︶旧領也﹂とあり、又同年の内蔵寮雑掌       も   モ   ヘ   へ   た 申状案には﹁日差・諸河者、為菅浦之内、耳塞御役、山門・裏松家、三方子爵行之条明鏡也﹂と示されていて常にいくつ かの菅浦に対する領知関係が並存したことが知られる。尚この外にも日吉神人を称したこともあり、嘉元三年置︵;一〇五 年︶ 日吉八王子宮兼二宮神人等申状案には、        も  あ  む  ヘ  へ   菅浦者、為山門御油弁備芝地、備進八王子宮長日燈油井二宮二季彼岸糠油等量上、為王子宮神人、祭礼之時於惣政所、備御供、将叉        も  へ        あ  も  ヨ   為濫僧寮領、令勤仕区裏御方勧降所長日之供御役、半不輸之地也、価住人等亦忘八也、供御鼠賊、重役無讐而菅浦旧領等往昔以来曾   不及他所之濫妨、 と記されていて当時の菅浦をめぐる支配関係の複雑さを物語っている。かかる重複せる領知関係の存在によって、近世の         一藩支配の場合に較べると、村落に及ぼされる支配権力の強度は遙かに弱い事が当然考えられる。

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 近世におけるが如く中世に於ても領主権ヵが村落に及ぶのは直接村落に接触を持っている代官を通じてである。浮州文 書の中から中世末期に菅浦に関係した代官の名称を挙げてみると、代官・定使・政所・公文・雑掌・沙汰人・目代等があ る。これらの荘官が村落に対して有した権限について詳細は明らかになし得ないが、公文の所務については左の如き延徳 元年︵一四八九年︶の文書がある。   菅浦公文之所務之次第事     米年貢 弍石也     アワムキ・霧ハ騨董藪隠綴警跡癒り     本所地豆ノ引別不可有也各々也、   廿五文銭        都合壷貫五百文上協、   七文.銭   宮値姓ハ五人油三入政所一入地下使一人   残テ百文ハつるきちの取也、   右定如件、      惣庄之定也     延徳元年十二月廿八日 この外、右の如き荘官の名前が現れてくる文書は年貢料足請取状はじめ殆んど年貢に関するものであり、その他のものと 難も領主が菅浦村の内部の日常生活に干渉する如きものは見当らない。関係史料が存在しないからといって直ちにかかる 事実の存在まで否定することは出来ないであろうが、少くとも室町期における荘官の主たる任務は年貢徴収にあったこと は推論され得よう。即ち当時における領主の支配は経済的支配を主とするものであって、政治的支配の方は比較的稀薄だ ったのではなかろうか。即ち領主権力が村落の内部に及ぼす影響はそれだけ弱かったと言えるであろう。従って相対的に 村落生活における自治的法規範の占める役割が重大なものであったと考・κられる。    申世末期村落の自治と領主の支.配       三五

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   中世末期村落の自治と領主の支配      三六  そこで魚町時代における村落の自治の強さは﹁惣﹂が村落生活において占める役割によってこれを窺い知ることがでぎ る。貞和二年︵二二四六年︶菅浦庄惣村置文には、 ところおきふミの事 一、日野・諸河田畠をいて、一年・二年ハうりかうといふとも、永代おうることあるへからす、 てハ、そ5のしゆんしをととめらるへく拓、よんてところのおきふミの状案件、   貞和二年九月  日 、 正阿ミた仏︵略押︶

慈願房︵略押︶

仏念房︵略押︶

上等彌陀仏︵略押︶

正信房︵略押︶

現阿彌陀仏︵略押︶     ナカハマ 善阿ミた仏︵略押︶     タウノマエ

西念房︵略押︶

とあり、これによると田畠永代売買の禁を犯した者は惣の出仕を停止されたことが分る。 四六一年︶の菅浦惣庄置文には、      軒 ノ このむねをそむかんともからにおい

西阿ミた仏

道  念  房 ︵略押︶ 善阿ミた仏︵略押︶

正現房︵略押︶

芝屋にも掲げた.が寛正二年︵一 菅浦諸沙汰之事  定 右寄ハ盗八ゆふとも、雑物を引下、或ハ額のかミをとり、麦妻子鏡の有事ハ上廿八乙名・次之中乙名又末の若衆相ともに如法致可沙 汰、敵八善悪、寄事左右、以惣庄力損人を、いわれ無音を過躰被行議事、更々無勿論次第是也、但支証ある直ならハ、惣庄相ともに 過躰可行、砦画然旨ぬけかけに成h寄合不仕、惣職事私事を後向地下煩輩お返当言庄当麻こりき&とりの為二堅罪過可行者也、循置 文状如件、       為 善︵略押︶    正阿ミ︵略押︶   惣庄置文所定    十人乙名中     宗円房︵略押︶    溝 介︵略押︶ ’

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為溝︵略押︶ 正 信︵略押︶ 寛正弍年七月十三日 とある。即ち盗人の処罰の如きも、証拠が明らかであるならば﹁上廿人乙名・次之中乙名紬縞の若衆﹂が寄合協議の上で 執行することが許されていた。即ち惣庄が上†人乙名以下の衆によって代表されて、かなり大幅な村落の自治が行われて いたと見るべぎである。  更に文明十五年 ︵一四八三年︶ 八月十日付の地下置文は、地下に干て死罪に,処せられ、又は追放の刑に処せられた者の 跡はその子に相続せしむべぎ事その他.を規定した上で、若しこれらの点について新儀を申す者あらぽ﹁地下として罪祥た るへく肺﹂と述べている。又延徳三年︵一四九一年︶九月八日付の同じく地下置文は親の子に対する﹁ゆつり宛証文もち いす﹂、或は﹁親のしてわたされ峰支証等﹂に背くともからは﹁地下として堅罪祥あるへくい﹂と宣言した。これらの惣 の掟によってみるに、中世においては領主権力から比較的独立した村落自身の村民に対する法的規制力、又は自治的制裁 権を強固に持っていたことが分る。  而して菅浦は天文・永禄年代には湖北の戦国大群浅井氏の支配下におかれることになったが、この頃から村落に対する 政治的支配の浸透が見られるようになる。即ち永禄十一年 2五六入省︶八月の菅浦惣中より浅井氏の奉行浅井木工助宛 契状に左の如ぎものがある。 今度者不慮二不相届緩怠仕、被成御門鑑片影二、御詫言申二付て、御免なされ断節“、然者向後御耳へ煙硝刷子紬者、為地下糺明申 事有間敷怖、可為御異見次第恥、就其清徳庵親類之者共四人、今度之子細西館てハ、地下より違乱歯間樹液、引出状画題、

  永禄+餌+合       菅喪中

浅井木工助 殿参 中世末期村落の自治と領主の支配 三七

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   中世末期村落の自治と領主の支配       三八 これによると如何なる内容であるか詳細は不明であるが、 ﹁向後御物へ入差糠子細者、為地下糺明申事有間言い、可為御 異見次第肺﹂ということになった。地下に対する領主の政治的支配の強力な波及の一端と見るべきであろう。ところがそ れにもかかわらず当時に於ては村落の自治的制裁は依然として行われていた。それについては同じく永禄十一年十二月の 前掲文書を再び左に掲げよう。        つ   当所壁前之事、守護不入自検断之所也、然者西二三八六郎三郎・孫四郎・源三、東一二入衛門尉二郎、耳目潜在前之背置目、縦地頭   号﹁一︻不可然行在之閥、於末代在所之参会執分、村人長男・中老此等之参会興行之仁定在之者、先其人を堅甲出口道者也、猶以其   仁躰之事者不及申者也、伽而為後日如件、       +六入之長男       東西之中老     永隷十一年十二月拾四日       廿,入 相憎肝心な箇所が虫喰欠字で不明であるが、何れ地頭の名を籍りて在所の置目に背く行をした四人の者に対し末代まで会 合出仕を禁じ、いわぽその在所における正当な権限を剥奪せんとするものであろう。以て村落の自治が戦国大名の村落支 配下にあっても尚強固な姿を維持していたことを察するに足る。  然るに近世に於ては膳所藩領として本多氏のみの単一的支配を受けるに至り、而も寛保三年の文書によると、 ﹁山法度 之外村法度田儀ハ私︵心事代官⋮⋮筆者︶へ窺峰而、得心之上村中江触流﹂すべぎ定めであった。而も村法中の制裁規定の 如きも領主法の規定に抵触する場合は無効とされた。即ち室町期菅浦村に対する領主的支配が経済的支配を主とするもの であったのに対して膳所藩の場合には政治的支配をも確立しており、且つ中世の複数的支配が一跨支配に統一されたので ある。その結果は領主権力、或はその代理者たる代官の村落に対する権限の強化を齎すことになった。かくて近世村落の 自治は領主の支配権力との相対的な関係に於て、室町期に比し著しい制約・限界を有するに至ったと考えられる。

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①永仁三年目﹁菅里庄庄宮苑行状﹂には﹁日覆・師河﹂の田は合せて﹁賑町伍段﹂と記載され、また文和二年の﹁口指・諸河田地帳注  文﹂によると﹁田数蝉町伍段半百玖拾弐歩﹂とある。 ②春成帳と秋成帳との関係については、年代の最も接近した両帳の登録の仕方を比較してみると、春と秋の相違はあったにせよ、その  記載はほぼ共通するものと見てよいことがわかる。従って本文に記した如く年貢帳と秋成山畠帳の両蓋の記載を併せれば永正十五年  の菅浦における住民及びその保有せる貢租負担地積の概数を把握し得るものと考えられる。 ③この貢租関係蚊帳の登録人が如何なる性質のものであるかが確定されなければ、この数字は意味の薄いものになってしま5のである  が、この点に関する決定的な史料は存しない。ただ永正十五年中﹁前田年貢納帳﹂に﹁筆だけ、        弓削兵庫助     三畝廿弐分三升九合        作人 清介  とあり、又永緑九年の﹁公方年貢帳﹂にやはり一筆のみ、        平大夫作ノ分     三畝二斗一升       ご郎兵衛  とあるのは、他の各賞一名だけの登録人が貢納責任者にして且つ作人であることを推測せしめるものである。又天文十二年四月十五  日の孫大夫請山畠下地注文によると、      天文拾弐年卯月十五日上庄孫大夫請山畠下地帳之事     ゑひすか谷

     珊二文 清検校・作  五十文 九郎兵衛作

       さくろゑ      五十文  源 三 さ く    五十文  四郎大夫さく

    扇蟻麦小浜   珊二交地内藻鷲二さく

    あかさき宮道より南畠       同道より北畠

     景二交 大浦新三郎  計二文 又次勤め

    あかさきハけわく谷      十六文 四郎大夫め  とあって、上庄の孫大夫請の山畠が清検校以下の人々によって耕作されていた乙とが分り、前掲年貢帳の記載例はこのような場合の  ものではないかと思われる。       . ④支配関係の重複が菅浦の村落自治の発展に影響を与えたことについては既に永島福太郎氏も指摘しておられる︵前掲開銀〇頁︶。   中世末期村落の自治と領主の支配       三九

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中世宋期村落の自治と領主の支配 四〇 四 む す び  以上を要するに中世末期の菅浦村には本来ご十人の宿老 ︵乙名.老中︶ という役員が定められており、村内に於ては統 制の最高責任者となり、村外に対しては村落を代表する機関となった。而してこれは年齢的秩序であったと考えられるが、 これに対し永禄年代には﹁中老﹂なる地域代表的性格をもつ役員が新たにご十入の中にその地位を占めるに至ったものの 如く、徳川時代になると遂に中老のみで以て二十人全体を構成するようになり﹁忠老役弐拾人﹂の制度となったρ然し乍 ら中世末期における村落の自治機関又はその機能は、惣の掟を通じて知られる如く、近世のそれに比してその村落に於て 占めている比重が著しく大であった。その主たる原因は村落を支配する力の強弱との相対的関係、即ち近世の菅浦村に対 する領主の支配が、膳所藩のみの且つ村落内部にまで深く喰込んだ強力な政治的・経済的支配であるのに対し、中世末期 の荘園的支配に於ては経済的支配を主とし、而も一村草聖浦が同時に複数の領主的支配その他の支配関係の下にあった点 にあるのではないかと考えられる。 ︹後記︺ 本稿を草するに際しては特に江頭恒治先生・永島福太郎先生及び畏友秀村選三民の御懇篤なる御指導を頂いた。 く感謝の意を表したい。 弦に記して深

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