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真宗研究52号 010安藤章仁「新発見の古写本『三河念仏相承日記』について」

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新発見の古写本

について

高 田 派 安

﹃三河念仏相承日記﹄は、初期真宗教団の成立過程を伝える現存唯一の古記録として著名なものである。内題に ﹁三河国専修念仏根源事﹂と書き始められるように、愛知県東部にあたる三河地方において初めて専修念仏の教え が伝えられた事情と、その後どのように相承されていったのかが記されている。その奥書には、﹁貞治三年︵一一一一 六 四 ︶ 肝 九 月 二 日 ﹂ の 年 紀 が 記 さ れ る 。 ﹁三河念仏相承日記﹄唯一の写本は、愛知県岡崎市の上宮寺に所蔵されている。書写年代は、南北朝期以降と考 えられている。上宮寺の佐々木月樵が発見し、佐々木月樵三十六歳の代表作﹁親驚聖人惇﹄︵東京無我山房、一九 一

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年︶の中で取り上げたことにより、初めて江湖に紹介された。しかしながら昭和時代最後の晩夏に火災に遭い、 原形は大きく損ない、現在は修復技術の確立を待つ状態にある。 ﹁三河念仏相承日記﹂は、上宮寺本の書写年代の問題や成立時期の問題、そもそも奥書に記される﹁貞治三年﹂ が、親鷲聖人が往生されて約百年後にあたる時代的隔たりの問題等々が付随した。 新 発 見 の 古 写 本 ﹃ 一 二 河 念 仏 相 承 日 記 ﹄ に つ い て 七

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新発見の古写本﹁三河念仏相承日記﹂について 初 1 上宮寺蔵 愛知県 『三河念仏相承日記』(権災前) 七 四 の史料的価値が再検討さ れ る 中 、 二

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六年八月十九日に同朋大学仏教文化研究所によっ 孤 本 が 催 災 し 、 三 一 河 念 仏 相 承 日 記 ﹂ て行われた愛知県岡崎市の束泉寺法宝物調査によって、古写本 ﹁三河念仏相承日記﹂が確認された。注目すべき点は、古様の仮 名遣いが用いられていることと、濁点が使われていないことであ る。したがって、その書写年代は南北朝期の同時性が考えられ、 ﹃ 三 河 念 仏 相 承 日 記 ﹄ の成立時期やその史料的価値に関する問題 に示唆を与える二十一世紀初頭における真宗史上最大の発見と言 い う る べ き も の で あ る 。 本論では、新発見の古写本﹃三河念仏相承日記﹄ の書誌的内容 および上宮寺本との異同を紹介するとともに、その史料的価値を 明示し、さらに袖書に記される﹁主唯偽﹂について未公開史料か ら、その人物について一案を提示したい。

に対する批判について ﹁三河念仏相承日記﹄に関する先行研究は、山上正尊﹃南国の 原 始 真 宗 ﹄ ︵ 其 弘 堂 書 店 、 一 九 三 六 年 ︶ 、 福 間 光 超 ﹁ 三 河 念 仏 相 承 日 記 の 成 立 に つ い て ﹂ ︵ ﹃ 印 度 学 仏 教 学 研 究 ﹄ 五 一 九 六

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年 ︶

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一 九 八

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年︶、脊古真哉﹁三河念仏相承日記の史 料的検討﹂︵﹁同朋大学仏教文化研究所紀要﹄二五、二

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六年︶等があげられる。そして安藤弥﹃新編安城市史 1 通 史 編 ﹄ ﹁ 第 八 章 南 北 朝 時 代 第 三 節 ﹂ ︵ 一 一

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七年︶においてこれらの諸説がまとめられている。ここでは、 発表の主目的から﹃三河念仏相承日記﹄の史料的価値について問題を絞り、三河真宗の起源については稿を改めた 小 山 正 文 ﹁ 三 河 念 仏 相 承 日 記 の 一 考 察 ﹂ ︵ ﹁ 日 本 歴 史 ﹄ 三 九 一 号 、 し、

﹃三河念仏相承日記﹄に関する一番の史料的問題は、その成立時期である。孤本である上宮寺本は、本文中に濁 点が用いられることから、その書写年代は近世以降と考えられる。しかも末尾に﹃高田親驚聖人正統伝﹂︵五天良 空著、正徳五年刊行︶の影響ともとれる﹁高田専修寺開山親驚聖人﹂という一文が付記されていることによって、 ﹁三河念仏相承日記﹄は、高田門徒による三河真宗の起源を強調する作為的なもの、ないし成立時期を宗派の独自 性が顕著となる三河一向一撲の時代に見るイメージが付着された。 先 述 の 脊 古 真 哉 氏 の 論 考 は 、 ヲ 一 一 河 念 仏 相 承 日 記 ﹂ の詳細な史料論的検討を行い、三河地方における初期真宗教 団の動向を明らかにした注目すべきものである。しかしながら、次に示す論題である三三河念仏相承日記﹂ の 史 料論的検討﹂の結論に関しては、その根拠とともに大いに問題が指摘される。 このような高田教団関係寺院のみを対象とした三河真宗成立史がそれなりの説得力を持ちえた時期としては、 永禄六年︵一五六三︶に勃発する三河一向一挟の戦後処理として、徳川家康によって、本願寺教団に所属した真宗 寺院が三河から放逐されていた時期︵二

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年 に 及 ぶ ︶ が 想 定 で き る の で は あ る ま い か 。 こ の 時 期 に は 、 コ 一 河 の 真 宗寺院はすべて高田教団に所属するものであり、また真智派に所属していた。この時期まで、﹃三河念仏相承 日 記 ﹂ の成立年代を引き下げれば、ここまで本稿で指摘してきた内容上の問題点もほぼ解決できるものとなる。 ﹃三河念仏相承日記﹄はその文中に記される年紀のものではなく、三河の初期真宗を考察する際に、直接的 新 発 見 の 古 写 本 ﹁ ゴ 一 河 念 仏 相 承 日 記 ﹄ に つ い て 一 七 五

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新発見の古写本﹁三河念仏相承日記﹂について 一 七 六 にその記述内容を利用することはできない史料である。 はたしてこの結論が、史料論的検討によるものと言えるであろうか。ことにコ一河地方は、真宗史の動向に関する 史料が豊富なことで有名な場所である。戦国期の動向に注目しすぎ、安易に高田派対本願寺派という対立構造の中 に問題の整合性を求めるのは、史料の本来的価値を失する危険性があると言わざるを得ない。

二、新発見の

について 脊古氏の﹃三河念仏相承日記﹄に関する史料的価値の検討結果の是非は、新発見の﹃三河念仏相承日記﹄により 明 白 と な る 。 二

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六年八月十九日、同朋大学仏教文化研究所による東泉寺︵愛知県岡崎市︶の調査によって古写本つ一河念 仏相承日記﹄が発見された。続いて、同年十二月二十二日、真宗高田派教学院第四部会︵平松令三主任︶によって 調査が行われた。そしてその結果は、同朋大学仏教文化研究所の了承を得て、﹁教学院紀要﹄第十五号︵真宗高田 派教学院、二

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七年︶に影印とともに報告され、さらに真宗連合学会で発表する運びとなった。 東泉寺は、古利満性寺に隣接する真宗高田派の寺院で、三河在住の郷土史家として有名な教山︵二ハ四一一七 二五年︶を出した寺院である。東泉寺にヨ一一河念仏相承日記﹄古写本が所蔵されることは、すでに﹃高聞の寺々﹄ ︵ 真 宗 高 田 派 宗 務 院 、 一 九 八

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年︶によって紹介されていたが、その所在は不明であった。 束泉寺本は、縦二三・二四横一四・

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団。三ッ孔袋綴で一冊。料紙は、蓑交椿紙七枚。表紙は、本文と同筆で 中央に﹁三河念仏相承日記﹂と外題を墨書し、左下に﹁主唯悌﹂と袖書を記す。本文は、一頁六行の片仮名交じり 文で、ほとんどの漢字に片仮名で振り仮名をつける。奥書には、上宮寺本にはない﹁ツキノミノトシヨリヒラタノ

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タウチヤウハシマル タツノトシマテ百八年也﹂の文が記される。そして末尾に﹁貞治三年間九月二日﹂の年紀が 嘉禄二朗建立親鷲聖人五十四歳 下 記される。ただし、上宮寺本でこの後にある﹁人王八十五代後堀河院御宇 野園大内庄 高田山専修寺開山親鷲聖人﹂の四行は書かれていない。 東泉寺本の新発見によって明らかになったことは、上宮寺本で不明個所三点が判明したことである。まず上宮寺 ヲ ト ヲ ト ワ ウ コ セ ン 本で﹁乙王御前一人ミナ﹂とあるのは、﹁乙王御前一人ミナユウクンナリ﹂であることがわかった。ここには三人の女 性が列記されるが、みな﹁ユウクン﹂、すなわち白拍子の遊女であったことがわかる。遊女への教化は、法然聖人 の絵伝に描かれるところで、この点は、法然聖人在世時の原初的教団の様相を伝えるものとして注目に値する。次 、 、 ヵ ハ タ カ タ に、上宮寺本では﹁一、三一河ヨリ高田へマイルヒト/\ノ事﹂と判読されていた一文が、﹁マタ三河ヨリ高田へマ イルヒト/\ノ事﹂であることがわかった。上宮寺本では、﹁マタ﹂の﹁タ﹂が写し忘れていたわけである。最後 ヒ カ シ ト ノ コ セ ン ヲ ン ト シ サ に、上宮寺本で理解が難しかった﹁東殿ノ御前御年十歳御ワキ捷一一昨﹂の部分が、﹁東殿ノ御前御年十歳御ト キ 鵠 む ﹂ で あ り 、 ﹁ 御 ワ キ ﹂ ︵ 人 名 ︶ で は な く ﹁ 御 ト キ ︵ 時 ︶ ﹂ で あ る こ と が 判 明 し た 。 ﹁ ユ ウ ク ン ﹂ の 使 用 例 と と も に 、 ﹃ コ 一 河 念 仏 相 承 日 記 ﹄ の成立年代および書写年代を解く鍵となるのは、﹁ヒラ タ﹂という道場名の使用例である。﹁ヒラタ﹂の使用例は、貞和三年︵一三四七︶の光薗院本﹃親鷲上人門侶交名 牒﹂に、慶念|慶願系に﹁ミカワノクニヒラタ﹂と傍書される。また、慶念は正和三年︵一三一四︶の妙源寺太子 堂修理棟札写には﹁奉加修理太子堂上茸廊等満、干時正和三季八月六日平田住持慶念﹂と記される。ところで上宮 寺本に記されず、東泉寺本に記されるものに割注﹁イマクワコセンソ也﹂﹁イマハリサキセンソ也﹂がある。この 二個所の割注については、筆跡がやや乱雑で、しかも本文と﹁セ﹂の字体が異なるので別筆と判断されるが、﹁ク ワコ﹂の使用の上限は、妙源寺文書に観応二年︵一三五二道広が太子堂敷地として﹁平田荘桑子名畠﹂ 一 反 を 寄 進するものがある。﹁ハリサキ﹂については、﹁新編岡崎市史中世

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﹂ に 新発見の古写本﹁三河念仏相承日記﹂について 七 七

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新 発 見 の 土 口 写 本 ﹁ 三 河 念 仏 相 承 日 記 ﹄ に つ い て 七 八 . 絵系図類では、赤渋から上和田に移り、さらに明応四年︵一四九五︶に得度した十一代了顕の時代に現在の 針 崎 へ 移 転 し た と い う 。 と あ る 。 いずれにしても本文中に十四世紀に呼称される﹁ヒラタ﹂の道場名が使われていることは、注目に値する。 以上のことから、東泉寺本の成立時期は、奥書に記される﹁貞治三年︵一三六四︶﹂と同時代と措定できる。こ のことは、東泉寺本に古様の仮名遣いが用いられている点、﹁キ﹂﹁コ﹂﹁ユ﹂﹁マ﹂の文字に古態の仮名が用いられ ている点、濁点が使用されていない点等、仮名文字の特徴も時代的に矛盾しない。

の内容の信恵性について

の 内 容 の 信 愚 性 に つ い て 考 え て み た い 。 新 発 見 の 東 泉 寺 本 に よ り 、 ﹃ 一 一 一 河 念 仏 相 承 日 記﹄の成立が戦周期に下げるものでなく、奥書の年記を妥当することは明らかである。佐々木月樵︵一八七五

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一 次 に ﹃ 三 河 念 仏 相 承 日 記 ﹄ 九二六年︶により初めて江湖に紹介された﹃三河念仏相承日記﹄が、その記述内容から最初期の真宗教団の様相を 伝える史料的価値の高いものであることは、以下の点によって明白である。その一つは、﹁権守﹂の用例である。 権守の定義は、複雑で確定しがたいが、現地で非常に権力があった中世の下級荘官や有力名主層が名乗っているこ とが多い。その使用例は、鎌倉末から南北朝に顕著であるから、登場人物から﹁三河念仏相承日記﹄の成立年代が 推 定 さ れ る 。 な お 、 真 宗 高 田 派 本 山 専 修 寺 の 宝 物 館 に は 、 顕 知 日 筆 ﹁ 西 方 発 心 集 ﹂ と い う 古 聖 教 が 現 存 す る 。 下 巻 の み の 零 本 で 、 念 仏往生の義を十六の問答から解説した書である。注目すべきは、末尾に本文と同筆で﹁円善之﹂と記されていること である。すなわちこの顕智自筆の﹁西方発心集﹄は、円善が実在の人物であり、しかも顕智と円善の関係が聖教を書

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新発見の古写本﹃三河念仏相承日記﹄について J¥ 0 慈信一房善驚義絶後の報告のためと考えられるし、現存する親驚真蹟の名号本尊四幅が、康元元年︵一二五六︶十月 二十五日、二十八日の両日に書かれ、上洛の四人に与えられたことは、大いに考えられる。また、顕智は足掛け三 年後の正嘉二年に結城称名寺に下向している。これは、その年の三月八日に真偽が五十歳で亡くなっているから、 その病気あるいは死去の報に接したためと考えられる。 そして本文中の年記の記述にも﹃三河念仏相承日記﹄の史料的信想性の高さを読み取ることができる。すなわち 本文冒頭は、﹁建長八年嗣十月十三日一一、薬師寺ニシテ念仏ヲハシム﹂と始まっている。しかし建長八年は、十月 五日に改元されているので、正しくは﹁康元一冗年﹂と書き改めなければならい。けれどもここで旧年号が使用され ているということは、本書の記録者が八日前の改元の事実を知らなかったことを意味し、奥書の年記が記される臨 場感を伝えている。また、三一河念仏相承日記﹄が記されたその日、京都に所在する親鷲聖人は法然聖人の一百行録 である﹃西方指南抄﹄の上巻を筆写していていたことが判明している。その奥書には﹁康元元年間十月十三日愚 禿 親 驚 臥 酎 書 之 ﹂ と 新 年 号 を 用 い て 年 記 が 記 さ れ て い る 。 こ の 年 月 日 が 同 じ ﹃ 一 一 一 河 念 仏 相 承 日 記 ﹄ と ﹃ 西 方 指 南 抄 ﹄ と の 違 い は 、 改 元 が 伝 達 さ れ る 京 都 と 一 一 一 河 の 地 域 差 を 示 し て お り 、 そ の こ と は ﹃ 一 二 河 念 仏 相 承 日 記 ﹂ が 、 ま さ し く 当時当地の人によって直接記録されたものであることを証明している。したがって、﹁貞治三年︵二一一六四こ成立 の﹃三河念仏相承日記﹄は、三河地方に初めて専修念仏の教えが伝えられた﹁建長八年︵康元元年 ら約百年後の著作であるか、当時以来の確実な史料に基づいて記録されていることがわかる。 一 二 五 六 ︶ ﹂ か

﹃ 三 河 念 仏 相 承 日 記 ﹄ の 袖 書 に 記 さ れ る ﹁ 主 唯 偽 ﹂ が 、 いかなる人物かは諸説あるが、釈然としない。妙音院了

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祥は、﹁異義集﹄の中で﹁又末燈紗講録ニ、桑子唯悌一房ノ記、題ニ三河念仏 相承日記トアリ、浄信一房高田ヘマイルコトヲ記ス﹂と言い、山上正尊は﹃南 園 の 原 始 真 宗 ﹄ ︵ 其 弘 堂 書 店 、 一九三六年︶の中で、滋賀県坂田郡長沢福田 寺に所蔵する乗専書写﹁選択集延書﹄ の奥書﹁暦応四年︵一三四一︶願主稗 『浄土真宗三国侮来系図」(部分) 唯悌﹂に出る唯悌に当てはめ、その説を、細川行信が﹁真宗成立史の研究﹄ において、福田寺宗竣の請いによって蓮如が奥書した﹃御伝紗﹄が上宮寺に 伝世している両寺の関係から補強している。 ところで、東泉寺本の識語には、上宮寺本にない﹁ツキノミノトシヨリヒ ラタノタウチヤウハシマルタツノトシマテ百八年也﹂の一文が記されてい る。この一文によって、﹃三河念仏相承日記﹄は平田道場の関係者によって 制作されたことは、明白である。とすれば、先ず、乗専の﹃選択集延書﹄に 出る唯偽は、時代の整合性と上宮寺との関係は認められるにしても、地域や 平田道場との接点が見られず、説得力に欠ける。また﹁桑子唯傍房﹂説につ いても、今日、桑子妙源寺には唯仰の伝承がなく、また史料的に確認するこ と が で き な い 。 そこで今回、新説として提起したいのは、法雲寺旧蔵の未公開史料﹁浄土 真宗三園傍来系図﹂に記載される﹁唯悌﹂である。﹁浄土真宗三園侍来系図﹂ は、真智︵一五

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四|一五八三年︶が自筆で釈迦弥陀二尊|善導

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法然|親 鷺|真悌|顕智|専空にいたる相承を各門弟とともに列記したもので、奥書 新 発 見 の 古 写 本 ﹁ 一 二 河 念 仏 相 承 日 記 ﹄ に つ い て J¥

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新 発 見 の 古 写 本 ﹃ 三 河 念 仏 相 承 日 記 ﹄ に つ い て j

から永正七年︵一五一

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︶に書かれたものであることがわかる。問題の唯備の名は、真偽門下二二名中の四番目に 記されている。ちなみに顕智門下二二名中には、﹃三河念仏相承日記﹄に記載される円善や信願の名前が見受けら れる。越前専修寺としての法雲寺に真智自筆で相承が記される中で出てくる真偽門下唯偽の名は、非常に興味深い。 後筆であるが、その唯悌には﹁滑方弘法寺﹂と註が記される。したがって、関東の門弟であることがわかる。 そもそも﹃三河念仏相承日記﹄に記される﹁主唯悌﹂の﹁主﹂とは、付属の作法であり、持ち主のことを意味し ている。小山正文﹁三河念仏相承日記の一考察﹂︵日本歴史三九一号︶によれば、 寂静によるコ一河和田門徒の高田離れを憂慮して、昔を偲びつつ成されたものこそがほかならぬ日記であった。 と ﹃ 三 河 念 仏 相 承 日 記 ﹄ の成立事情が考察されている。確かにこの時期、存覚との三河の関わりが強まり、それを 憂いて関東門弟の代表である唯備が平田道場主に﹁三河国専修念仏根源事﹂のことを見聞し所持をしたことは推測 に難くない。それが、コ一河でも写されて伝持されたのが、東泉寺本、上宮寺本であるとも考えられる。推測の域を 出ないが、新説として諸賢の教示を仰ぎたいと思う。 以上、新発見の古写本﹃三河念仏相承日記﹄の検討を通し、﹁三河念仏相承日記﹄ の偽作説を否定するとともに、 新知見を述べた。また﹁三河念仏相承日記﹄ の表紙に記される﹁主唯偽﹂についても﹁浄土真宗コ一園停来系図﹂に 基づき、その人物について一案を提示した。 付記 本 発 表 に 関 し て 調 査 撮 影 を 快 諾 い た だ き ま し た 東 泉 寺 様 、 発 表 を 許 可 し て い た だ き ま し た 同 朋 大 学 傍 教 文 化 研 究 所 関 係 各 位 、 真 宗 史 の 立 場 か ら ご 指 導 い た だ い た 平 松 令 三 高 田 本 山 宝 物 館 主 幹 に こ の 場 を 借 り て 深 謝 申 し 上 げ ま す 。 ま た 、 発 表 後 、 沙 加 戸 弘 大 谷 大 学 教 授 か ら 国 文 学 の 見 地 か ら 有 意 義 な 助 言 を い た だ き 、 資 料 の 翻 刻 に あ た っ て は 、 湯 谷 祐 三 愛 知 県 立 大 学 非 常 勤 講 師 に 校 正 を 見 て い た だ き ま し た 。 合 わ せ て 御 礼 申 し 上 げ ま す 。

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新発見の古写本﹃三河念仏相承日記﹄について 資 料 ︻ 東 泉 寺 本 ︼ 三 河 念 品 開 相 承 日 記 主唯偽 ロロロクニセンシユ 子 ム 7 チコンクエンノコト 三 河 園 専 修 念 偽 根 源 事 四 専 セ 念 子 建Z A デ竺辱;.~

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新 発 見 の 古 写 本 ﹁ 一 二 河 念 仏 相 承 日 記 ﹂ に つ い て トキ顕智ヒジリノ御ス、メニテ権守殿ノ嫡子 ケ 袈裟太郎殿出家シテ信願房念仏法名出家トモニ 顕智聖人相侍ナリソノホカ御居住ノア ︵ 姓 ︶ イタニ念二入人数名性事 監帳次郎二人三郎大夫二人庄司太郎二人 回 侠 四 郎 二 人 渡 次 郎 二 人 検 校 太 郎 二 人 賓成坊二人 弥王次郎二人権次郎二人 光信坊二人 善性坊一人 入願坊一人 光因坊二人 藤四郎二人 弥五郎一人 女 性 ハ 弥勅御前 弥四郎一人 弥藤次一人 ヲ ト 乙王御前一人ミナ 夕、シ乙王御前シサイアリカミノ袈裟太郎殿トモ 鶴宮御前 ニソウシテ三十五人也コノナカニ庄司太郎殿顕 智上人ヲ平旧イレマイラセテ道場タツ 正 嘉 元 年 己 ツキニ信願御一房アッウミノ庄アカソブニ 九

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新 発 見 の 古 写 本 ﹁ 一 二 河 念 仏 相 承 日 記 ﹄ に つ い て タカタヘオンマイリノ事 レキセン也シタカイテアマ性空ノオンパウ 念偽サウテンニヨリテ顕智ヒジリノミ エイアンチノ事レキセン也、ンカレハ寂静 ノオンハウニイタルマテシサイアリシ事 トモ也 建長八年開ヨリ貞治三年甲辰マテ 百九年法然上人辰マテ百五十三年 親 貞 鷺 治 聖 三 人 年 辰 辰 甲 マ

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