日(毎月1回25日発行)IS倒 的194843
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乙べる刊行会NO. 183
「部落解放運動への提言J
を読む③ー下 古い衣装を脱ぎ捨てて、新しい舞台へ 山下 力+藤田敬一 自分史のこころみ② 京都 ・学習施設とわたし 一「主体性J
と「責任jのはざまで 中 西 仁 いのちを生きる⑪ 桜 再 会 長 谷川洋子 光る風を見たー写真と文 小 林 茂写真と文一小林茂 び、わこ周歩のひととき一木漏れ日 「京都・水俣病を告発する会」でともに活動していた友人、江口和憲さん(写真中央) は滋賀県の重症心身障害児施設「第二びわこ学園j に就職した。担当は強い行動障がいの ある人たちだった。私たちも手伝いにかりだされた。長い年月の歩行練習を経て、七泊八 日の「びわこ周歩」の旅に出るとき、私は写真を依頼された。それを「ぱんぱかぱんj と いう写真集に編んだ。 その写真集のあとがきで、江口さんは「彼らと寝食を共にし、苦楽を共にする喜び」を 語ったあと、「『共感』って一体何だろう。何で、彼らは『動く重症児』と言われ続けてき ているんだろう。彼らをみつづけている自分とは一体なんだろう」と書いている。 二十年後、その学園が取り壊されるとき、「彼らの人生を映画にしてほしいj と江口さ んから私は頼まれた。数年後、「わたしの季節
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という映画が完成した。彼はそれを見届 けるようにして、がんのため五十三歳の若さで逝った。 (1983年撮影)﹁ 部 落 解 放 運 動 へ の 提言﹂を読む③ l 下
古い衣装を脱ぎ捨てて、
山
下
力十藤田敬一
生き方が間われたか 藤 田 敬 一 一 九 七0
年代の中ごろ、表向きは華々しい運 動にもかかわらず、﹁部落問題とは何か。部落解放とは 何か。部落解放運動とは何を目指す運動なのか﹂という 肝心かなめのところがほとんど議論されないままになっ ていることに気づいてね。信じられないことだけれど、 それが実態でした。師岡佑行﹃戦後部落解放論争史﹄ ︵ 全 五 巻 、 柘 植 書 房 、 別 − 9 j 出・ロ︶の最終章は、﹁部 落解放理論の再構築をめざして﹂と題されでいる。師向 佑 行 ・ 大 賀 正 行 ・ 沖 浦 和 光 の お コ 一 方 に よ る ﹁ 解 放 新 開 ﹂ 紙上での論争︵七九年︶が紹介・批評されたあと、総括 するかたちで﹁部落解放運動の現状に切り込む論争を| 藤田敬一による師岡・大賀論争批判﹂がおかれ、清水一 彦の筆名で書いた私の文章が取り上げられている。しか し私の意見については梅沢利彦さん︵﹁背景にある部落解 放 論 争 史 ﹂ 、 ﹁ 同 和 は こ わ い 考 を 読 む ﹄ 所 収 ︶ 以 外 、 反 応 は まったくなかった。部落解放同盟の活動家は、朝田善之 助さんの理論で十分だ、議論の必要などないと思ってい たんです。議論が起こらないのは、いまにはじまったこ とゃない。そこでね、山下さんは、部落解放とはどうい うことだと考えてます? 山下力私は、自信を持って﹁自分は﹁部落民﹄や﹂ と名乗り、あるいは﹁部落民か﹂と聞かれたら﹁そうだ よ﹂と答えられる自分をつくることだと思う、個人的に 言 え ば 。 藤田﹁たじろがず、新しい舞台へ
向 き 合 っ て 、 引 き 受 け る ﹂ こぺる 人 間 。 1そこで大事なのは、﹁人間をどう見るか。人とどう向き 合うか。どう生きるか﹂でしょう。この三一つを、私は人 権問題に向き合うための人間論的基礎と呼んでる。それ がほとんど問われなかった。たとえば﹁社会的立場の自 覚﹂なんていう言葉が使われ、子どもたちが学校で﹁私 は部落出身です﹂と宣言したけれど、﹁自分は何者であ るか。どう生きるか﹂は、そう簡単にわかるはずがない。 大人でも容易に答えられないテ l マなんだから。それを 生徒に求め、宣言した生徒を賞讃する。とても直視でき なかったなあ。そんな形で生徒に宣言させた活動家や教 員が人聞を深く考えていたとは、とうてい思えない。ど うしてあんなことが平然とおこなわれたのか。それは、 部落解放運動の思想と理論の人間論的基礎を問うことが なかったからです。今回の﹁提言﹂にもそれがない。だ から底の浅い、薄っぺらなものになる。 山下若者の結集が悪いから、もっとちゃんと人材育成 をしなければならないとか。 藤田頑張れと一言うだけでね。 山下特別措置法ができてから一一
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年ほどたって、奨学 資金で大学を出る。東京などの都市へ出ていく。そのと き、﹁お前ら同和対策を使、つだけ使ってムラ捨てて逃げ ていくんやろ﹂と、後ろから砂をかけた。教育の機会均一 等・職業選択の自由と言うてたのにね。それが何よりも一 大事や言いながら、いざとなったら、﹁逃げていくんか。一 出ていくんか﹂という話でしょ。そうゃない。出ていく− もよし、残るもよし。少なくとも部落に生まれて部落解一 放運動に触れて学んだことが外へ出たときに活かされ、一 そこらじゅうにある差別の問題、人権侵害の問題に黙っ一 てられへん自分になっていることが大切で。そこをはっ一 きりせんとあかんかった。残ったもんは、出ていった奴一 の親の面倒をみる。それでこそ、ほんまにぬくもりのあ回 る地域ということになる。﹁人の世の冷たさが、どんな一 に冷たいか知っているからこそ﹂とか、﹁差別を受けて一 きたからこそ﹂と、口では都合ょう言うてきたけれど、一 それをほんまに実行してきたのか。ムラに残ったものが一 誇りを持ってそれができるようにならんとね。それは生一 き 方 の 問 題 や と 思 う 。 一 藤田口では立派なことを言っておきながら、生き方を一 まちがえたために人間的堕落の坂道を転げ落ちる、みつ一 ともない人の話を聞くと辛い。﹁それが人間の弱さだ﹂一 い た わ 一 などと言ってすますわけにはいかない。﹁人間を勅るか一 の如き﹂対応になれてしまって、生き方︵人生への態一藤田敬一編集長 ﹁提言﹂は﹁露骨な差別体験が次第に一 部落民としての連帯意識の希薄化が進ん一 さらに特措法時代における物的改善事業や個人給付− 事業のような目に見えるメリットがなくなると、部落の一 若者たちのアイデンティティさえも急速に希薄化してき一 ている﹂と言っている。そんなことはずっと以前から指一 摘されてきたことです。何をいまさらと思う。ところが、一 現実には、指導部は﹁部落民であること﹂と﹁部落民と一 し て の 意 識 ﹂ を 強 調 し て き た 。 一 山 下 共 通 利 害 ・ 共 通 感 情 の 強 調 。 一 藤田そう。しかし同和対策事業は、﹁どこが同和地区一 で、誰が同和関係者であるか﹂を指定する、いわゆる属一 地・属人主義を前提に実施される仕組みになっているか一 ら、﹁共通利害・共通感情﹂にもとづく帰属意識が希薄一 3 度︶をまちがえたんだから。﹁部落解放とは何か。人間 の解放とは何か﹂を考え、議論をしてこなかった結果な んです。それは、行政の現業部門における﹁行儀の悪い 職 員 ﹂ の 問 題 に も つ な が る 。 人と人との関係を変えたか 藤田ところで、 減 っ て く る と 、 だ 。 力さん 山下 こべる
になっているにもかかわらず、﹁部落民﹂という括り方 だけは手放せない。京都府連のある幹部のように、﹁所 得は関係ない。部落民であれば高校奨学資金は無償でい いんだ﹂という乱暴な議論がまかり通る一方で、個々人 の内面では、﹁自分は何者か﹂という聞いはたえず繰り 返 さ れ て き た と 思 う 。 当 た り 前 の こ と だ け れ ど 。 あ な た は 、 ﹁人生のなかで、これと思うような差別に出会うのは二、 三回だ﹂とよく言うよね。いまでは、それすらもほとん どないわけです。部落民や部落に対するマイナスイメ
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うわさ ジの噂話はありますよ。﹁あいつら、まじめに働きよら へんのや﹂とか、﹁安い家賃なのに、それすらも踏み倒 しているんや﹂とか。そんな話に出くわすことはあるけ れど、面と向かって﹁お前、これやろ﹂と指を出される わ け で も な い 。 山下ほとんどなくなった。あれをなくしたのは水平社 以 来 の 運 動 や と 思 う な 。 藤田そんな﹁しぐさ﹂が消えた意味は、別に考え・なけ ればいけないと思う。ところが事業の要求や、教育・啓 発の必要性を強調するときは、﹁差別を受けている部落 民﹂として自分を前面に押し出す。本人のなかに違和感 はなかったのかどうか。都合のいいときは﹁部落民﹂を 名乗り、都合の悪いときは素知らぬ顔をする。そういう こ 万 流 が 、 私 は 気 に 入 ら な い 。 山下そういうの、結構いましたな。 藤田﹁部落とは何か。部落民とは何か。部落問題とは 何か。部落の解放とは何か。部落解放への道は。人間解 放とは何か﹂という根本的な事柄についての議論がなさ れないままに、できないままに、朝団菩之助さんの主張 や同対審答申をかかげて、﹁事業の積み重ねと啓発・教 育によって部落問題の解決は可能だ﹂という考え方にそ ってやってきた。すべては善意で取り組まれたのだと思 う。もちろん途中で﹁どうも道をまちがえたようだ﹂と 気づいた人もいたし、疑問を呈した人もいたけれど、多 勢に無勢。﹁そら行け、ゃれ行け、行け行け、どんど ん﹂状態が広がり、おかげで同盟員二O
万と称される巨 大な組織ができた。しかし他方で、部落解放運動の人間 論的基礎、生き方の問題、解放主体の問題が見失われて しまった。そういう認識が﹁提言﹂にはほとんどない。 もう一つは、﹁人と人との関係を変える﹂という視点 がまったくないということ。﹁人と人との関係の中に存 在する差別﹂を解決するには、関係を変えるしかないん だ。関係を変えるための主体になりえたのか。そこは非常に大事なところなんだけれども、﹁提言﹂は切り込ん で い な い 。 山下この間、あちこちで話してることだけれど、部落 内外の共通の要求、共通の課題を共同で解決していくこ とを根気よく続ける中でしか﹁関係を変える﹂ことは実 現できへんと思、つんです。部落解放同盟の居場所がなく なっていることを、これ幸いとして部落解放同盟を解体 すればいい。そして部落解放運動の中で、もっと言えば 水平社宣言以来大切にしてきたものが地域の共通課題を 解決するのに役立てられるように、これまで部落解放運 動をしてきた者が一翼を担う。部落の外ででもいい、中 ででもいいじゃないか。隣のムラと一緒にやれる課題が 現 実 に あ る ん や か ら 。 実際に隣保館や児童館を使う子ども会が部落内外でや られようとしている。高齢者の介護がしんどいのは、部 落だけとちがう。私らのムラ全体が高齢化社会になって 大変なんや。高齢者介護・支援の問題について一緒にや っていく。もちろん障害者問題について言えば、三宅町 みたいな人口七千人の町ではどうしようもできないなら、 広域行政の中で、しかも部落内外を貫いてやらなあかん 問題や。一緒にやっていけばええ。そのときに部落とい う枠を、こっちがいつまでも構え続けていたらだめやと 回 出 、 つ 〆 o 藤田このあいだ、三宅町の高齢者通所介護施設﹁ぽか ぽか﹂に寄り、あなたのお母さんともお会いしました。 いまはまだ﹁橋の向こう﹂から来てくださる人はいない という。しかし﹁橋の向こう﹂から﹁ぽかぽか﹂に来て くださる日が必ずあるはずだ、その日を気長に待つ。職 員 は そ う 言 、 つ て は っ た 。 山下それしかないと思うな。 藤田﹁人と人との関係﹂を変える主体になるというこ とは、自分から動くということですよ。﹁私の町は、ゴ ミが散らかっていて困る。いろんな人がいるもんで﹂と 嘆く人に、﹁あなたが拾うたら九えんやないの。あなた がゴミを拾う姿をみて誰かが一緒に拾うかもしれない。 嘆くより自分で動いた方がええよ﹂とアドバイスしてお いたんだけどね。そういう人と人をつなぎ、関係を変え ていける自主的で自立した人間、自己規律のある人間、 そういう人たちが出てくることが大事だと思う。逆に言 えば、これまでそれができなかったということ。すぐに ﹁ わ れ わ れ ﹂ 、 一 人 称 複 数 に な っ て し ま う 。 山下しかも部落に特化する。同対審答申路線の最大の こべる 5
ま ち が い や ね 。 藤田人と人との関係を変える視点なんか答申・特措法 か ら は 出 て こ な い 。 山下部落解放運動は、﹁自立意識を持ち、補助に頼ら ない人間をつくれ﹂と行政に要求しただけです。 藤田それも経済的自立だけで。 山下﹁制度を取れ、制度をつくれ﹂というだけの話で す 。 藤田それが部落の人びとを受益者、利益を受け取るだ けの存在にしてしまった。もう一つは、地域として、町 として、確固とした自治共同体にならない限りだめだと いうこと。それは、部落解放同盟支部という形では無理 だと思う。地域という生活空間で生ゴミを指定日以外に 出す人がいたら、﹁それはだめですよ﹂と言える。路上 駐車していたら、﹁やめてください﹂と言える。そんな 共同性を回復しないとあかんでしょう。しかし部落解放 同盟支部は任意の民間団体であって、町の自治にかかわ る 責 任 も 、 な け れ ば 義 務 も な い 。 山下それはやっぱり高い敷居を自分らでつくってきた ことの表われです。敷居をつくってきたことに気づかな いのだから、取り除く話にはならんわな。 り が ど
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伝ヱ し て しミ る 藤 田 だ か ら 、 ﹁ 人 権 ま ち づ く旧来の発想と闘争形態を捨てる
藤田ところで、 は 、 ど う で す か 。 山下今日の段階で、﹁再生の道﹂は、部落解放同盟と いう組織を生きながらえさせることを意味しない。運動 の中で求めようとしたこと、あるいは獲得した成果を今 後に活かす場は、もはや﹁部落解放運動﹂ではない。そ れは部落の枠を取り払った住民運動です。そう思うね。 藤田私は、部落解放同盟の部外者ですから、今後の組 織のあり方について口をはさむつもりはない。ただね、 それが存在していることのカサブタ的な意味、問題点だ けは指摘しておかなければいけないと思ってる。部落解 放同盟という組織、団体の名称が存続するだけで、これ までの負の遺産が引き継がれることが確実だからです。 部落解放同盟の役職を名乗って、私的利益や便宜供与を 要求する連中はなくならないと思うよ。だからこそ、共 通の課題を共同の課題にしていく方向性が大事なんだ。 ﹁ 提 圭 一 己 の 言 う ﹁ 再 生 の 道 ﹂ についてその先に、﹁両側﹂という言葉・区分けを取っ払った、 共同・協働の道筋が見えるかもしれない。ところが、中 央本部への﹁提言﹂も、奈良県連への﹁提言﹂も、行政 交渉︵行政闘争︶を相変わらず堅持すると言っている。 山下どういう要求をもって行政交渉すると言うのか、 わからない。部落に特化する要求なんてないですよ。 藤田﹁なら解放新聞﹂︵奈良県部落解放同盟支部連合会、 町 ・ ロ −
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︶に、﹁対県交渉の終結を宣言﹂という見出 しの記事で、あなたは﹁このような形での県との交渉は 今回で締め括りにしたい﹂と発言したとある。 山下部落に特化した交渉はやめるということ。今年も 障害者のための要求はしませんでした。それは障害者団 体がちゃんとやっでる。動員要請が来たらいけばええ。 われわれが担うべき部落差別に特化した問題は、発生し たら、そのつど県と交渉する。 藤田奈良県幹部の反応はどうでした? 山下行政というのはね、力関係で判断するんです。そ して、﹁片方だけの意見でやめるわけにはいかない﹂と そ ろ いうバランス感覚。私らに川口グループと足並みを揃わ せる必要はまったくない。自分たちの方針として﹁これ ま で の よ う な 行 政 交 渉 は や め る ﹂ と 宣 一 三 一 目 し た わ け 。 藤田組織内の反響はどうです? 山下異論はあったよ。しかし﹁これまでの答申路線を 継承し、内外の格差を取り上げて行政責任を追及する﹂一 と い う 意 見 は 予 想 に 反 し て 少 な か っ た ん で す 。 一 藤田行政交渉をやめるというのは県連段階では最初や ないかな。交渉という言葉を使わずに、いろんな名称を一 使っているようだけれども、この三十数年間、当然のよ一 うに続けられてきた。テーブルの並べ方からして糾弾会一 と雰囲気が似ている。昔は、刑冠旗、黄色いゼッケン、一 鉢巻姿。これは、行政の人にとってはものすごい重圧だ一 っ た み た い で す 。 山 下 そ う ら し い ね 。 一 藤 田 七O
年以来、何回か全国行進隊に同行し、今思い− 出すだけでも冷や汗が出るような振る舞いをしたことが一 ある。行政のみなさんは想像以上に緊張してはったんだ。一 もう一つは糾弾闘争。﹁差別にたいする糾弾は、部落一 解放運動にとって生命線であると言われ、︵略︶歴史的一 にも社会的にも差別撤廃・人権政策確立のうえで大きな一 成果をあげてきている。さらに、糾弾を通じて個人的に一 も多くの人間変革を遂げた事例がある。今後とも、部落一 差別を撤廃していく上で、糾弾闘争が引き続き重要な役一 こべる 7割を果たしていくであろう﹂と言う。 山下糾弾については、これまでいろいろ言われてきま ど , つ か っ した。社会性、説得性、公開性とか。あるいは何喝的な ことはあかんのやとか。しかし問題は関係を変える、あ るいはおたがいにそのことを通して変わっていくことで す。しかし実際にはそうはならなかった。ほんまに人間 として共鳴し合うには、部落差別発言をした人を個人と して糾弾する場合、たとえば﹁部落民もまた人を差別す る。障害者差別もあります。在日朝鮮・韓国人に対する 差別もあります。男の女に対する差別もあります。それ に対して、私たちはこうしてきたんですよ﹂と言えなけ れば、﹁なるほどな﹂とはならない。失敗談を含めて自 らをさらけ出さないと、﹁立場を共有する﹂ことはでき へんし、﹁おたがいに変わっていこう﹂という気にはな れ ん 。 ﹁正しい部落問題の認識﹂や﹁正しい部落差別の歴 史﹂を繰り返し教えたら差別意識がなくなると思ってき た。そんなことで差別意識がなくなるんやったら、差別 する人なんているはずがない。人間は差別したり、され たりするもんです。そういう関係をどうするのかを話し せんと。つまり、部落差別の問題だけを選んで糾そうと しているかぎりだめだということなんです。 藤田それなのに、相変わらず差別糾弾闘争を﹁生命 椋﹂と位置づけ、堅持すると言う。 山下それで人が変わり、関係が変わると思ってるんで す わ 。 藤 田 水平社以来の歴史をたどれば、糾弾が﹁マイナス イメージの記憶と伝承の連鎖﹂と深く関連していること がわかる。﹁集団で押しかけてくる﹂、﹁言動が粗暴であ る﹂、﹁同和地区の人はこわい﹂というイメージは、﹁徹 底糾弾﹂の負の反応だと思う。 山 下 七
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年からこの間、糾弾闘争をやってきたからわ かるのやけれども、私と数名の者が糾弾をリードするわ け で す 。 藤 田 山 下 同 盟 員 は 後 ろ に 座 っ て 。 糾弾で、人は変わるんやと思ってました。もしそ うなら、何も﹁一対多﹂でやる必要はない。﹁一対こ でやればええんです。それとね、糾弾は、する側から言 えば、指導者の代行主義だったということ。一人ひとり がという話ゃなしに、リーダーが一吉うてることに、﹁そ や!﹂と賛同するかたち。その場はええんやけれど、同 じような差別事象に出くわしたときに、個人としてどうするんや。それがない。だから、糾弾闘争もまた部落民 を鍛えあげていく、強くしていく、変えていく、そうい う も の に な ら ん か っ た 。 藤 田 で も 四
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年前、あなたがこの運動にかかわったき っかけは糾弾闘争だったんでしょ?︵笑い︶ 山下そうそう。教育長の差別事件ゃった。政治的な理 由で同和教育に熱心な先生を飛ばそうとした。﹁どこそ この学校やったら同和地区がないから楽やで﹂と勧めた。 そこで、﹁俺ら、なんで差別されんならんのや。一言うて みい!﹂と。それが言うてみたかった︵笑い︶ 0 藤田告発・糾弾型の運動は社会的に問題の所在を明ら かにすることはできても、持続的な共同の取り組みへと 進むことはむずかしい。現在の情況は、そういう運動の し ゅ う え ん 終需を示していると思いませんか。 山下そらそうです。人間変革の闘いというものは、基 本的には個人がするもんです。本を読んで思考するのは 一人。それと同じです。個人に返さないとあかんのに、 いまだに糾弾にノスタルジアを感じてしまう。水平社以 来の闘争形態をまだ引きずっている。それが自立を妨げ て い る 。 自力自闘と言、つけれど、それは一人で権力と闘うこと ではない。日常生活で起こってくるさまざまな差別的な一 事象や人権侵害を日の前にして、﹁おい、何してるねん。一 何言うねん。そんなん、ちゃうやろ。俺はそう思わへん一 で﹂という話ができる、そんな人間をつくっていくこと一 が大事なんやと思う。私は、それを﹁人権文化﹂と言う一 て る ん で す け れ ど 。 一 藤田一九五五年一二月一日、アメリカ合衆国アラパマ一 州モンゴメリi
市で、白人の乗客のために後ろの席に移一 れと運転手に命じられたロ l ザ・パ l クスさんは一 ﹁ ノ l ﹂と言った。彼女が、あそこで﹁ノ l ﹂と言うに一 は、彼女自身の歩みもあるけれど、それまでの多くの黒一 人の﹁ノl
﹂が前提になっている。それが、彼女の一 ﹁ ノ l ﹂という一言と座り続ける行動に凝縮してる。だ− からこそ、人ぴとを動かす。ところが、すぐに﹁われわ一 れ ﹂ に な っ て し ま っ て 。 一 山下二一OO
万 の き ょ う だ い 。 藤田すべてを﹁われわれ部落民﹂や﹁部落﹂に還元す一 る発想にはほとほとウンザリする。﹁それは、やっぱし、一 ちゃいまっせ﹂とおたがいに言い合えるような関係をつ一 く っ て い く の で な い と 。 一 そ れ し か な い 。 一 こベる 山 下 9藤田﹁提言﹂には、水平杜宣言の﹁勤るかの如き運動 は、かへって多くの兄弟を堕落させた﹂という一節にひ そんでいる﹁人と人との関係﹂への洞察がない。だいた い全文三万字の長い文章を誰が読むんですか。行政や企 業なんかの担当者が一番読むのではないか。 山下組織を今から変えると言うても、同盟員は動かな い だ ろ う な 。 藤田 ﹁提言﹂を出した人びとだけが﹁ええことを言う け ん 二 う たった﹂と意気軒昂で、部落解放同盟の幹部は中央本部 以下、しらけているみたいです。ただ、忘れてならない のは、いかに形骸化しようと名称と組織が存続するかぎ り、それを使って私的利益や便宜供与を要求する手合い は生き残り、﹁同和はこわい﹂意識が存続するかぎり、 ﹁部落出身﹂をふりかざし、﹁一屑をいからせて世間を歩 く﹂連中はなくならないということ。 そこで、山下さん。今後、どうしていきますか。 山下組織を整理して、部落解放同盟とはちがったもの を打ち立てたいと思うてますねん。
NPO
なら人権情報 センターを母体として。部落問題は、研究会をつくって 情報の収集と発信をしていく。 藤田困難な状況におかれている人びとには、どういう 紹介山下力︵やました・っとむ︶一九四一年大阪市一 生 ま れ 。 四 五 年 父 の 故 郷 ・ 奈 良 県 磯 城 郡 三 宅 村 上 但 馬 に 一 帰 る 。 東 京 工 業 大 学 中 退 。 六 九 年 、 部 落 解 放 同 盟 上 但 馬 一 支 部 結 成 に 参 加 。 七 二 年 よ り 部 落 解 放 同 盟 奈 良 県 連 合 会 一 専 従 と な り 、 書 記 長 、 副 委 員 長 、 委 員 長 を 歴 任 。 八 三 年 、 一 奈 良 県 議 会 議 員 に 初 当 選 。 現 在 、 奈 良 県 議 会 議 員 ︵ 七 期 一 目 ︶ 、 奈 良 県 部 落 解 放 同 盟 支 部 連 合 会 理 事 長 、 民 主 党 奈 一 良 県 総 支 部 連 合 会 常 任 幹 事 、 NPO なら人権情報セン一 タ i 副 理 事 長 。 著 書 に ﹃ 被 差 別 部 落 の わ が 半 生 ﹄ ︵ 平 凡 一 社 新 書 、 二OO
四 年 ︶ 。 ふ 、 つ に ? 山下それは政治の世界での解決を目指します。政治と 結びついた市民運動、住民運動として取り組んでいくと い う こ と で す 。 藤田あなたが部落解放運動に加わって四O
年。これま での経験と思索が存分に活かされる舞台は必ずあるはず です。要は、﹁人間の問題﹂を手放さないこと。ご活躍 を念じます。今日は、ありがとうございました。 ︵ 二 O O 八 年 一 月 八 日 、 奈 良 県 田 原 本 町 。 奈 良 県 部 落 解 放 同 盟 支 部 連 合 会 事 務 所 に て ︶自分史のこころみ②
京都・学習施設とわたし
﹁ 主 体 性 ﹂ と ﹁ 責 任 ﹂ の は ざ ま で中
西
仁 ︵ 立 命 館 大 学 ・ 京 都 市 在 住 ︶ ﹁ 金 の た め に 来 て る ん や ﹂ 私が教員に採用されて︵一九八七年︶から七年間在籍 した京都市立A
中学校では、二つの同和地区にあるそれ ぞれの学習センター︵学習施設︶で、地区生徒を対象に 夜の七時から九時までセンター学習︵学力保障事業︶が 行 わ れ て い た 。 新採一年目か二年目だったと思う。ある晩、センター 学習の時間にT
という生徒が﹁なんで先生は、学校の仕 事が終わってからわざわざセンターに来てんの?﹂と訊 いてきた。虚を突かれて一瞬答えに迷っていると、すか さず隣に座っていたM
が﹁そんなん金のために決まって るやろ﹂と冗談めかして言った。M
には大して悪気はな かったに違いないけれども、この言葉は効いた。確かに センター学習には夕食代プラス日の補習費が特別施策と して出されていたが、﹁金のため﹂というにはちょっと 中途半端な額だ。しかし学習センターでの指導は、﹁当 番﹂と呼ばれていて、校内体制で曜日・担当地域が決ま っており、自発的という言葉は当てはまらない。T
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とのやりとりをきっかけに、改めて自分と同和教育との 関わりについて考えざるをえなかった。 そのころから全国同和教育研究協議会︵全同教︶ 加するようになった。奈良や兵庫、高知や福岡などの熱 心な教員の言動からは、﹁自分たちは自分自身の運動と して主体的に部落解放に関わっている﹂というメッセ l 参 ジがあふれ出ていた。そのような姿は二O
代の私にとっ ても随分刺激的ではあったが、﹁自分とは違う﹂という 違和感を抱いた。この違和感は私だけのものではなかっ たようである。とある全同教の会場で、滋賀の教員のレ ポートを﹁発表者自身が部落問題をどう認識しているか し つ よ う 伝わってこない﹂、﹁熱がない﹂と執劫に攻撃する福岡や 奈良の若手教員の発言を興味深く聞いていた私に、﹁な ぜみんな正義の味方になろうとするのだろう。本当に議 論するべきなのは、滋賀の先生の取り組みがどれだけ子 こぺる 11どもの学力向上に効果があったかなのに﹂と同和教育二
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年の先輩教員が諭すように話したことを思い出す。 結局のところ、自分にとって同和教育は同和校に勤務 している教員であるからこその課題であり、学習センター での学習指導もその延長線上でしかないという結論に達 した。﹁何と義務的な﹂と感じられる方もおられると思う が、実は私のこの結論には、京都市における行政主導型 の同和教育のあり方、すなわち、運動体の要求を受けて 行政が施策の大枠を策定し、学校現場はその大枠を地道 に具現化するという構造が強い影響を及ぼしていたと考 えている。そのような構造の中では、全同教で見られた ﹁自分たちは自分自身の運動として主体的に部落解放に 関わっている﹂熱い教員よりも、﹁公務員の責務として﹂ 学力向上に実直に取り組む教員こそが必要とされていた のであり、私はその構造に心身共に組み込まれていた。 京都市教育委員会の﹁同和教育方針﹂︵一九六四年︶ は、﹁教育の全分野において、それぞれの公務員がその 主体性と責任で同和地区児童生徒の﹁学力向上﹂を至上 目標とした実践活動を推進する﹂としている。時代背景 がこのような方針を必要としたと言えるだろうし、この 方針が目に見える変化を部落や部落の子どもたちにもた らしたことは理解しているつもりだ。しかし同時にこの 方針は﹁主体性﹂と﹁責任﹂という一一つの言葉を並び立 たせることによって、同和教育に関わる多くの人々の意 思決定のパターンと仕事ぶりを三六五日、二四時間がん じがらめに縛り上げてきたのである。﹁主体性﹂と﹁責 任﹂のどちらかを取りリ去れば、あるいは二つの言葉の順 序を入れ替えても、随分ニュアンスが変わってくる。 冒頭に紹介したようなエピソードがあったころ、雑誌 ﹃ 部 落 ﹂ ︵ 引 ・ 4 ︶に、京都教職員組合の活動家たちと部 落問題研究所の東上高志氏による京都市の同和教育につ いての座談会が掲載されている。補習費が支給されてい ることに対して、東上氏が﹁出世︵笑︶のコ l ス で 、 し かも金になる、これでは、京都市の教育が駄目になるの は必然︵笑︶だ、といわざるを得んですね﹂と茶化じて あ め いるが、補習費は東上氏が茶化すような﹁教員への飴 玉﹂ではなく、﹁学力保障事業は行政サイド主導の施策 だから税金から支出する﹂、つまり﹁教員は同和教育の 中核ではなく、同和教育行政の末端だ﹂というメッセー ジ の 役 割 を 果 た し て い た 。当時、学期末になると学校と運動体支部との聞で交渉 が行われていた。その場では、地区の子どもの定期試験 の成績を数字であらわした資料だけをもとに、﹁なぜこ んなに低い数字しか出せないのか﹂と学校側が常に責め られ、それに対して学校側は常に前向きの努力を約束さ せられた。交渉の翌日から、絞っても何も出てこない乾 いたタオルをさらに絞り上げるように学力保障の取り組 みを積み上げたのは、まさしく教員が﹁同和教育行政の 末端﹂であったからだと思う。 学習施設とは何だったのか 北村淳さんの﹁同和教育の成果をなぜ活かさないの か ﹂ ︵ ﹃ こ ぺ る ﹄ 恥
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︶や人権交流京都市研究集会での議 論が、学習施設での事業を、学校での補習が発展して出 来上がったものとして捉えている点が気になる。即ち ﹁学校での教員の熱意あふれた補習と地域での運動が協 働し、行政を動かし、ついに学習施設が同和地区につく られ、学力保障事業がはじまった﹂というストーリーが 前提となっている。子どもたちの学力向上に多大な労力 を傾けてきた教員からすれば、そのような捉え方は自然 だとは思う。だが、京都市の同和教育の歴史を振り返る と、ことはそう単純ではない。 一九六二年の京都府同和教育研究集会において、京都 市のある中学校教諭は、勤務校において高校教育の機会 均等の実現のために補習に取り組んでいること、学校で の補習には教員の多忙化・諸経費の不足・︵﹁なんであ の子らだけ﹂という︶学級の分裂などの問題点が出てき ていること、そこで学校の補習に加えて部落解放同盟支 部・部落問題研究会の学生による地域でのサークル活 動・学習会もはじまったことを報告している︵京都府教 育庁学校教育課・同和教育研究京都府連合会﹃今日の同 和教育の問題点l
同 和 教 育 資 料 ﹄ 、 一 九 六 三 年 ︶ 。 こ の 発 言からは、学校は学校でできることをやり、地域の運動 は地域でできることをやるという協働の中、教員も地域 の運動も手探りで﹁補習﹂を創り上げていた状況がよく わ か る 。 ところが、行政サイドの証言では、様相は異なってく る。当時の京都市同和教育行政の実務的なトップだった 後藤長次氏は、著書の﹁﹁部落差別に学ぶ﹂教育論﹂︵情 報センター出版局、一九八九年︶で、学校外での本格的 こぺる 13な学力保障事業の始まりである中学校三年生進学促進 ホ l ル︵一九六三年開始︶について、その開設に反対す る教職員組合との激しい対立の中、運動のトップと行政 主導で取り組みを開始した経緯を紹介した上で、学校教 育の外郭で取り組む進学促進ホ l ルとは、﹁合格不合格 の﹁結果﹂がはっきり出るような﹂勇気がいる施策であ ると自画自賛する一方、学校で取り組まれていた補習に ついては、﹁補習はそこまでシビアに答えが出ないから 取り組まれたのと違うかしらん﹂と非常に低い評価しか 与えていない。先ほどの教諭の発言や後藤氏の証言から 考えると、学習施設における学力保障事業とは、学校・ 教員側の取り組みゃ地域との協働を飛び越えた形で、行 政主導ではじまったものだったとも云ヲんそうだ。後藤氏 は、﹁︵部落問題について︶トンチンカンでも、部落の子 どもに︵学習︶指導を徹底してくれる先生の方が評価で きる﹂という朝田善之助氏の言葉を紹介した上で、﹁先 生はまぎれもなく﹁教育公務員﹂であり、︵中略︶権力 によって敷かれたレ
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ルの上を走らされる社会的存在で ある﹂とまで言っており、行政が学習施設における学力 保障事業において教員にどのような役割を期待していた の か が わ か る 。 北村淳さんが言うところの﹁学習コミュニティ﹂は、 学習施設という建物に教員のボランタリ!な意識・行動 や子どもの学びのニl
ズに加えて、何より行政の消極的 な関与という条件がたまたま存在したことによって成立 したように思える。﹁いつまでも学習施設とその事業を 活用することは教員に依存心を生む﹂という発言がいか なる文脈でなされたのかは不明だが、そこまで言われて 学習施設にこだわる必要はないし、むしろ学習施設事業 の廃止を、今まで教員をその末端に位置づけてきた行政 主導の学力保障と決別するチャンスと捉えた方がよいの で は な い だ ろ う か 。 ついでに言わせてもらうと、﹁一人一人の子どもを徹 底的に大切にする﹂などという、誰も反対しょうがない スローガンに、現場教員としてどう付き合っていくのか 戦略的に考える必要がある。美辞麗句だと甘く見ている といつの間にか暴力的な影響力を駆使するようになるか へ ん り ん もしれない。現にその片鱗が見えている気もする。新た な﹁﹃主体性﹄と﹃責任﹄のはざま﹂に落ち込まないこ とが大切ではないだろうか。いのちを生きる⑪ 三月一八日
桜再会
長谷川洋子︵大阪府小学校教員 三 島 郡 島 本 町 在 住 ︶ 日 目 。I
医師から治療計画書を渡される。私のダミーを 使 っ て 実 際 に 一O
回照射して出された膨大なデl
タに驚 く 。IMRT
は、放射線の形態強度を自由に変えて、患 部以外になるべく当てず、それ故に患部により強く照射 し効果を図る最先端治療だ。患部への誤差0
・ 五 四 パ ー セント。治療開始から一週間たった現時点でも、副作用 はほとんどない。治療は一O
回で終わる。入院していた とき、放射根治療の副作用で苦しんでいた同室者の顔が 思い浮かぶ。みんな血便や水下痢、激痛にぎりぎり耐え な が ら 二 一O
回の治療を受け続けた。 こんな最先端技術をなぜ平等に受けることができない のだろう。自由診療ゆえに、私も受け続けることはでき ない。﹁カネの切れ目が命の切れ目﹂という言葉がちら つく。免疫治療にしても、成果が出ているのに、なぜ厚 労省は認めないのか。﹁厚労省はお金を出したくないの が ん ですよ﹂と関係者は語る。保険対象にすれば抗癌剤に頼 りきらず、救える命がたくさんあったはずだ。この国の 憲法には﹁生命、自由、幸福追求に対する国民の権利は ︵略︶最大の尊重を必要とする﹂とあるではないか。病 人や高齢者、弱者につれない固に愛着など持てるわけが 東京でHITV
免 疫 療 法 を 受 け る 。HITV
とは、先 日私から取り出された白血球の樹状細胞を﹁鍛え﹂て、 アジユパントと呼ばれる情報伝達する細胞と共に患部に し ゅ よ う 注入する治療だ。私の腫蕩は体の奥にあるから直接注入 は無理。動脈注射だろうなと思っていた。ところがH
医 師 はCT
のリアルタイム画像を見ながら、腫傷に見事に 注射針を刺した。一五センチ入ったそうな。先端医療に ただただ仰天し、普段は物静かなH
医師が神様のように 見 え た 。 三月二四日 大 阪 の 都 島 。IMRT
︵ 強 度 変 調 放 射 線 療 法 ︶ の 第 一 こベる 15月 九 、 0 ・ f h c u 三月二七日 放射線の機械が故障して時間待ちとなる。﹁ゃったあ。 花見に行こう!﹂と、クリニックの裏道を歩いた。桜宮 から続く大川のほとりの素晴らしい桜並木だ。行っても 行っても、桜。まだ一一分咲きだが、去年の桜を思いだし、 胸がいっぱいになる。去年の桜は希望に輝いていた。し しや かし職場復帰してすぐに逆戻り。今年の桜は灰色の紗が かかっている。しかし、それがどうした!紗がかかろ うと、桜のア
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チを三度、二一度とくぐっていくことが大 事なのだ。冬、病院仲間のK
さんと、一緒にお花見をし ようと約束していた。彼女はいま、血栓止めと痛み止め の医療用麻薬を使い、入院を続けている。横にK
さんが いて一緒に歩いている気がした。 しばらく行くと大きな公園があった。白いユキヤナギ の波をくぐれば、花盛りのコブシが強い香りで私を誘う。 ポプラの老木には根元に大きな穴があいていたが、赤い 芽をつけた銀色の若枝がたくさん空を目指していた。足 下にはクローバーの群生。四つ葉を探しているうちに、 自然に触れるのが久しぶりであることに気づく。柔らか にしめったクローバーが、私の手を抱きしめてくれた。 三月二九日 C さんからメl
ル が 届 く 。Y
さんを見舞ったときの写 や 真が添付されている。Y
さんの、抗癌剤で痩せた顔と ポ l ズのお茶目さとの落差に、彼女の意志の強さが表わ れている。﹁もしよかったら彼女にメールしてあげてく ださい﹂と書いてある。私はY
さんの教育実践の本を読 んだだけで、面識はない。ホスピス行きを覚悟している ひとに何を書けばよいのか。 そういえば、私が再発してから知人、友人からの連絡 が減っている。みんなどう声をかけていいのか困ってい るのだ。私は平常心で暮らしている。Y
さんもきっと同 じだろう。月曜には、桜並木のムービーを撮り、メール に貼りつけてY
さんに送ろう。大分の桜とまたひと味ち がう大阪の桜を楽しんでもらうことにしよう。鴨水記 マ 四 月 二 九 日 夕 刻 、 京 都 市 東 山 区 で 、 ﹁ 新 羅 ︵ し る ら ︶ で 出 会 う 人 々 の 集 い みんなの思いを語ろう﹂が聞かれま し た 。 ﹁ 新 羅 ﹂ は 河 原 町 三 条 に あ る 焼 肉 店。この店のお客さんたちが声をかけ あってもたれた懇親会です。わたしも 案 内 状 を も ら っ て 出 か け ま し た 。 ﹁ た だ し懇親会の前に話題提供者の一人とし て短い話をして!交通費も講師料も で え へ ん よ ﹂ と の こ と 。 も ち ろ ん 了 解 。 あ る じ し ゆ か く 酒場の主を軸にして酒客たちが宴を 開く。そこは学歴・学校歴・職種・職 業・肩書き一切関係ない﹁酒縁の場﹂ 0 若いころから通ったリラ古てその後を 継いだカリン亭での酒縁は、店が閉じ られたあともつづいています。リラ亭 のマスター・木村勝次さん︵一九九 O 年 没 ︶ は 、 ﹃ こ わ い 考 ﹄ の 出 版 を た い そ う喜んで、お客さんに勧めてください ま し た 。 酒 縁 で つ な が っ た 友 人 に は ﹁ こ ぺる﹄の読者も多い。酒もまた人と人 き ず な との出会いとつながりの大切な鮮になら﹂、季刊﹃いま、人間として﹄刊号、 こ み ち りうるのですね。ァッハツハ。一九八四年秋、径書房︶ 0 金住さんの そして、この夜の﹁新羅の会﹂。司文章は鹿野政直﹃﹁鳥島﹂は入ってい 会 の T さんは﹃こぺる﹄を紹介し、女るか﹄︵岩波書店︶で知りました。関 将の金千代さんは購読を勧誘してくだ係性とは﹁人との向き合い方・つなが さいました。おかげで十数人の方からり方﹂のことでしょう。金住さんの指 申し込みがありました。翌日とどいた摘は部落解放運動にもあてはまる。﹁入 金さんのメ 1 ル。﹁来年も皆さんが継問として生きあう可能性を開かない﹂ 続 す る か ど う か は 、 7 ﹂ぺる﹄の内容運動は確かに虚しい。それにしても二 にかかっていることを覚えておいて下四年前に、﹁生きあう﹂という言葉を さ い ね ﹂ o 肝 に 銘 じ ま す 。 使 、 つ 人 が お ら れ た と は 。 マ最近の読書から|﹁共に人間としてマ小特集﹁﹁提言﹂を読むしは今回で終 生きあうことのできる関係性を創造しわりますが、部落解放同盟内の﹁提言﹂ てこそ人権の名に値すると私は考える。論議は驚くほど低調らしい。組坂委員 /また人権とは、︵略︶法をのりこえ、長自身、福岡県連の旗開きで﹁関西方 人々が日常のあらゆる関係性のなかで、面での不祥事﹂と語ったという︵福岡 互いに生きあう生き方、価値を創造す県人権研究所﹃りべらしおん﹄