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仏教文化研究所紀要49 006児玉, 識「防長から見た明治維新期における本願寺教団 : 森竜吉史学の再評価とその批判的継承を目指して」

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第七十五回

仏教文化講演会記録

防長から見た明治維新期における本願寺教団

ーーー森竜吉史学の再評価とその批判的継承を目指して││

水産大学校名普教授・元龍谷大学教授

司 会 仏教文化研究所主催 第七十五回仏教文化講演会を始めさせていただきます。本日は水産大学校名誉教授、元龍谷大学文学部教授の児玉識先 生から、﹁防長から見た明治維新期における本願寺教団﹂と題してお話をしていただきます。ご講演に先立ちまして、本学文学部教授・平田厚 志より、ご講師の先生の紹介を兼ねて、ご挨拶をいただきます。よろしくお願いします。 平 田 皆さん、龍谷大学仏教文化研究所主催の仏教文化講演会にょうこそお出でいただきました。本日は、遠路山口県防府市からお越しいただきま した児玉識先生にご講演を賜りたいと思います。児玉先生は、かつて龍谷大学文学部で仏教史学の教授として教壇に立ち、熱心に学生指導に当 ってこられました。四年間という短い在職期間にも拘らず、先生の薫陶を受げた幾人かの若き研究者が育っています。先生は、近世・近代の真 宗教団史がご専門です。先生のご功績は、何といっても、戦後の長い期間、辻善之助の近世仏教堕落論が近世仏教史研究史上に重くのしかかっ ていたのですが、それを児玉先生が長年の地道な研究で覆されたことです。近世仏教がいかに近世民衆の宗教生活と結びつき、近代に向けて大 きな足跡を残し、その上に現代の仏教教団があることを、ご自身の足で史料を発掘して、辻史学の近世仏教堕落史観をひっくり返された。その 一点にこそ先生のご功績があるといっても過言ではありません。現在、近世宗教史研究が盛況なのはご存知だと思いますが、こうした研究状況 防長から見た明治維新期における本願寺教団 二 四 五

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防長から見た明治維新期にお砂る本願寺教団 二 四 六 を切り拓かれたのは間違いなく児玉先生であることは、研究者仲間では誰も認めているところであります。 きて、本日の先生のご講題は掲示の通りですが、副題にもあるように、﹁森竜吉史学﹂の再評価を絡めたお話をしてくださるそうです。それ は、本学の大先輩で、経済学部の教授も歴任された故森電吉先生の人となりと研究業績について、後輩の私たちにぜひ知ってほしい、伝えてお きたいとの児玉先生の強い想いがお有りだからと思います。森史学から多くのものを批判的に継承されて、﹁児玉史学﹂なるものを打ち立てら れた児玉先生から直接的に、森史学についてのお話をお聴きできることは千載一隅の機会だと思います。先生、それではよろしくお願いいたし ま す 。 は じ め

ー副題追加のおことわり│

ご紹介いただきました児玉でございます。久しぶりに龍谷大学に帰ってきて、この場でみなさんにお話をする機会を与えていただき、大変に 嬉しく存じております。ただ、学問的刺激の乏しい田舎で生活しておりますし、それに日々頭も体も老化が進行しておりまして、ピント外れの 話になるのではないかと心配ですが、そこのところはみなさんの聞き上手でカバーしていただきますよう、 よろしくお願いいたします。 ところで、本日の題名は、最初は﹁防長から見た明治維新期における本願寺教団﹂ということにしていましたが、、副題に﹁森竜吉史学の再 評価とその批判的継承を目指して﹂と追加いたしました。それは、先々週、山口で龍谷教学会の大会がありまして、 そこで講演した内容を少し ばかり違う角度から論じるだげにしようと思っていたのでしたが、もう一つそれとは別に、この機会に森竜吉という人の研究業績についても龍 谷大学のみなさんにぜひ知ってほしいという思いが強くなり、その両方をくっつけようと考えたからです。しかし、内容の異なるものを二つ繋 げて話すのは難しいことで、昨日も夜十二時までかかってレジュメをつくりながら苦労したんですが、うまくいきません。そこで、最初と最後 に、森先生が生きておられたらこんなことを話してみたいと思うようなことを少しばかり付け加えて述べさせていただくことといたします。

森竜吉史学の特色

まず、なぜ森竜吉という名を挙げたかについて申し上げましょう。私は、近世真宗史の研究を五十年近くもやっていますが、それ以外の歴史

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についてはほとんど勉強らしい勉強もしていない、誠に恥ずかしい研究者です。にもかかわらず、この姿勢をいまもって続砂ているのは、手広 く研究する能力が自分にないことをよく知っているからでもありますが、 いまひとつの理由は、これを通して、真宗を知るだけではなく、日本 文化というものに、他の人とは若干違う側面から光を当てることができないだろうかという気持があるからです。そして、実はそれには森竜吉 という偉大な先達があったからです。真宗といっても、私は近世の真宗だけですが、森さんは親驚から近代、現代に至るまでの真宗を一貫して やってこられた、すばらしい方でした。そして、最後は龍谷大学で教鞭をとられたんですが、今はもう森さんの業績について龍谷大学でも知る 人が少なくなり、あまり話題になってもいないようです。しかし、この偉大な学者をもう一度再評価し、それを学ぶだけではなく、 できること ならば森さんの学問の批判すべき部分は批判しながら克服していく方法を考えてみたいと私はいつも思っており、そのことを龍谷大学の皆さん にも伝えたいという気持から、このような副題を敢えて追加した次第です。 森竜吉さんは、三重県のお生まれで昭和五十五年に六十二歳で亡くなられました。当時、仏教史をやるのは寺の出身者が多かったんですが、 寺とは関係のない人で、龍谷大学に進んで社会学を専攻されました。有名な堅田の本福寺文書を世に出すのにも大きく貢献された方です。若い 時分、軍隊から帰られて夕刊京都新聞の記者をされていたんですが、昭和二十五年の朝鮮動乱当時、森さんは政治的にも革新的な活動をしてい たということで、公職追放、 レッドパージになりました。そのため生活が非常に苦しくなったのでしたが、それまで森さんと親しかった革新陣 営の学者連中は誰も森さんを助けてくれず、食うことができないんで自転車に乗って古本を売って回っていたようです。これはある人から聞い たことですが、﹁革新陣営と偉そうにいっているが、 いざとなったら冷たいもんだよ。古本もろくろく買ってくれなかった﹂と涙ぐんで話され たこともあるようです。そんなとき、たった一人、面倒を見てくれたのが龍谷大学の二葉態香先生だったんだそうです。二人は龍大で同級だっ たようです。そういう経済的苦しさと同時に、森さんは長い間、結核に悩まされたのでした。しかし、そんな大変な環境の中で真宗史の研究を 続けられました。これは直接、本人から聞いたんですが、食うことができないから、東大の笠原和男先生に就職を頼んだら﹁就職まで世話はで きないけど、代わりといっては失礼だが、東大の﹃史学雑誌﹄に論文を書いたら少しは金が出る﹂といわれて、﹃史学雑誌﹄に論文を書いて巻 頭論文に載ってなにがしかのお金をもらったこともあったそうでした。そうした苦境の中で研究を続け、その後、平安女学院大学に行かれて、 最後は龍谷大学経済学部に迎えられたのでした。 防長から見た明治維新期における本願寺教団 二 四 七

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防長から見た明治維新期における本願寺教団 二 四 八 その森竜吉史学の学問的特色はどこにあったのでしょうか。我々が学生時代、日本では仏教が日本の近代化に関係するなんてことはまったく なかったという見解が常識となっていました。 マイナス面で影響することはあっても、プラス面で影響するようなことは絶対にあり得なかった という見方が圧倒的だったのです。これに対して、森さんはあくまでプラス・マイナス両方あるんだという視点で研究を続けられていました。 ま た 、 日本には一神教的なものは育たず、多神教的なものがずっと続いてたという考え方に対して森さんは、 そうじゃないんだ、 もう一つ別 の見方ができるのではないかと主張してきました。もちろん真宗も完全な一神教とはいえませんが、しかし、多神教とはかなり違う部分がある のは確かです。真宗だけではなく、室町時代には日本にはキリスト教という一神教的な宗教が猛烈なスピードで広がっていったが、これも、日 本にも一神教的な信仰を受け入れる素地があったからではないか、また、キリスト教を布教しようとした人たちが真宗を警戒したのも、真宗と キリスト教に共通の一神教的な要素があったからではないか。さらには幕末から明治にかけての天理教その他の新興宗教も、 いってみれば多神 教とはかなり違うものだった。そういう一神教的な信仰が日本の変革期に広がったということは、日本の宗教は単に多神教的だったと言えるも のではないことを示唆しているのではないか。多くの民俗学者は、日本人は多神教だという見方で日本文化を単純に論ずるのですが、 それとは 違う考え方もすべきではないかということを森さんは一貫して言ったのでした。 さらに日本の政治史研究では、宗教をまったく無視しているが、日本でも宗教が政治と関係することも多かったのではないかロもちろん中世 では政治と宗教の関係を問題にするが、 それ以降はまったく言わない。しかし、近代だって政治に宗教が大きく影響したということがあったん だということを森さんは言ってきたわけです。今からみれば、 それはすばらしい見方だったと思われます。 ただ森さんの研究には欠陥もありました。幅広く地方の史料を収集するとか、丹念に習俗を調べるという面では、体力的に限界があったし、、 それに歴史の研究に取り組んだのが三十代後半からということもあって、自分でもそれは認めておられまして、﹁民俗学を批判はするけど、民 俗学とは違う事例を発掘してくるようなことまでは手が団らん﹂と言っておられました。したがって、森さんの研究を発展させていく場合には、 その点を良く考慮しておく必要があると私は若い頃いつも感じておりました。 また非常に温厚な人でしたが、 それもあってか、人と論争することをあまり好まれなかったようでしたが、もっと森さんには論争してほしか ったと思います。学問的論争に加わることに積極的でなかったことも森史学の短所だったといえましょう。私は論争を好み、しょっちゅうみん

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なからこてんぱんに叩かれています。それは私の論がスキだらけで、批判しやすいからですが、しかし、学問はいくら叩かれでもかまわないと いつも自分に言い聞かせて今日までやってきているのです。お陰でいつも恥をさらしているのですが、これもひとつには森史学を批判的に継承 するにはこういうことも必要だと若い頃によく感じていたためかとも思っています。 そんな次第で、本日もみなさんの前でお組末な私見を述べ、恥の上塗りをすることと思いますが、 おかしい、賛成できないと感じられる部分 があったら、あとでいくらでも遠慮なく疑問をぶつつげてください。森さんの研究についてはまたあとで少し述べることにして、以下、森さん に話しかけるつもりで大急ぎで本題に入らせていただきます。 幕末動乱と防長の真宗 ( 1 ) 吉田松陰と真宗 防長の真宗は、幕末期から明治維新期にかりで全国的に大きな影響を与えているわけですが、 しかし、その防長の宗教、文化を語るためには、 まずなんといっても吉田松陰が大きな影響力をもっていたので、これについて考えなければなりません。そこで、吉田松陰は仏教というものを どう考えていたのか。史料 1 を見てください。 これは松陰が四国の金比羅さんに参ったときの詩ですが、傍線部に﹁仏法の興るは皇道の衰なり﹂と言っているように、松陰は仏教は国にと って好ましからざるものと考えていたようです。したがって、これだけ見ると、松陰は強烈な排仏論者と思われそうですし、事実、そう主張す る人もあります。しかし、ここでいう仏教は﹁仰を以て神に混ず汝何の意ぞ﹂とあるように神仏混請ですね。金比羅きんですから当然です。 ところが、真宗は仏教の中でもこの神仏混清と最も遠いところにある宗派です。 では、その真宗に対して松陰はどう考えていたのか。それを 端的に示しているのが史料 2 で す 。 月性という長州藩の真宗僧が、外国からの侵略を防ぐためには仏教を盛んにしなくてはいけないと村々を説いて回るのですが、吉田松陰はこ の月性の行動を激賞します。そして、 やがて月性は本願寺に招かれ、 そこで﹁仏法護国論﹂という本を上梓します。その本願寺に行くときに、 松陰が月性を励まして送ったのがこの文章です。﹁浄土真宗清狂師﹂というのは月性のことです。 防長から見た明治維新期における本願寺教団 二 四 九

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防長から見た明治維新期における本願寺教団 二 五

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﹁僚慨にして義を好み、天下を以て己が任と為し、其の法をもって村里を激励す。村里信従して、廷に繁く徒あり﹂とあるように、月性を信 奉する人聞がたくさんいたようですが、彼を信奉するとはどういうことか。説教のたびに彼が説いたのは、外国が攻めてくるとき、まずキリス ト教をもって近づいてくる。そこで日本を守るためには、大砲で守ることも必要だが、それと同時に日本人はキリスト教に侵きれないように仏 教、特に教えのもっとも民衆に浸透している真宗を強くしておくことが必要だということでした。キリスト教で、やんわりと入ってきて、その うちに民衆が外国に精神面から廃くようになるので、まずキリスト教に侵されないようにしなくちゃならないということで﹁仏法護国論﹂を説 くわげです。その﹁仏法護国論﹂を本願寺で説くために京都に出発する際に松陰がこの文で月性を激励したのです。その中で、傍線部分から分 かるように、﹁今清狂の行事は酷だ此の禁を犯すものあり﹂と言っていますが、禁というのは仏教者が政治にかかわることは好ましくないと僧 尼令に密かれていることを指しているんです。ところが、その僧尼令で﹁禁ずる所は、禅・律の諸宗﹂であって、月性は滞土真宗であり、浄土 真宗には父もあれば奥さんもあって、世捨て人の生き方ではなくて現実を説く教えなんだと言って、松陰は月性の行動を肯定する姿勢を示して いるんです。月性のように困難に際して、国のために戦う。そのために仏教を強めようとすることは大変結構なことだと言うわ貯です。松陰は 神仏習合を嫌うが、神仏習合でない、こういう仏教なら大いに結構だという立場だったと私は解します。 この﹁仏法護国論﹂を月性のように民衆の聞に説教の場で話す、これは効果があるわけですね。武士が民衆の聞に入って説くということは、 当時なかなかできなかったのですが、説教の場でならそれが説けたのです。民衆の聞にどんどんこれが広がっていき、吉田松陰も松下村塾の塾 生に聴かせようと努めていたということを記した史料もあります。これは大変効果をあげたようで、後に鳥羽伏見の戦いの時も、他のものは討 幕派に味方しなかったのに、真宗の門徒は味方したといわれています。そして、これは﹁仏法護国論﹂が広がっていたからだということを書い た本もあります(神根怒生﹃維新の勤王僧﹄︿輿教書院、 一九三六年﹀)。それがどれだけ真実か分かりませんが、そういわれるほどに﹁仏法護 国論﹂が読まれたことは確かです。さらに月性は﹁仏法護国論﹂で仏教の強化を説くだげではなく、僧兵隊や農兵隊をつくろうということもい ち早く主張しています。そして、それはあとで申しますように、月性没後に起こった幕長戦争の際に実際に結成され、実戦に参加しました(拙 稿﹁月性と真宗教団﹂、三坂圭治監修﹁月性の研究﹄︿マツノ書房、 一 九 七 九 年 ﹀ ) 。 ところで、吉田松陰に月性以上に大きな影響を与えた真宗僧がいます。それは宇都宮黙震という安芸の人物です。この人は今でいう聾駆者で、

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獄中にいた吉田松陰とも筆談で話を交わしています。こうした﹁黙雷・松陰往復書簡﹂は何通も残っています。吉田松陰が黙媒に送った手紙に 対し、それを読んだ黙採が、その意見につてそれぞれに賛成とか反対とか松陰の文章の横に朱で小さく記して、それをまた吉田松陰のところに 送 り 返 す の で す 。 こういうやりとりを通して黙震は松陰にしきりに討幕を説いたのです。はじめは、松陰は幕府を倒せという思想ではなく、幕府が武士身分を 正したら世の中はよくなるという考えで、﹁幕府を倒せ﹂とまでは言わなかったのですが、それに対して黙森は﹁幕府を倒さないと世の中はよ くならない﹂と言います。僧侶身分だから気安く言えたのかもしれませんが、最後に、松陰は﹁右、黙霧は一向宗の僧なり。耳、 一 向 に 聞 え ず 。 言舌不分りなれども、志は至って高し。漢文を以て数度の往復これあり候処、終に降参するなり﹂(﹃吉田松陰全集﹄第八巻)と述べています。 俺は参った。この耳も聞こえない、ものもいえない僧侶に議論して打ち負かされたという気持でしょう。それまで松陰は、幕府を諌めるべきだ という諌幕論だったのが討幕論に大きく変わったのでした。これ以後、松陰は門下生に討幕論を説き、そこから高杉晋作以下の志士がたくさん 出てきて、幕末に討幕活動を展開し、これが効を奏するわけですが、それまでの松陰は、そうではなかった。松除の﹁コペルニクス的転回﹂と いわれていますが、それをさせたのは真宗僧の黙隷であったということですね。 さて、以上に述べたことからだけでも、吉田松除は真宗僧黙寮と深い交わりをもち、その影響を強く受けていたことはご理解いただけると思 います。そこで、次に黙霧はどのような思想をもっていたかということですが、この点に関してまだ十分な勉強をしていません。ただ、黙一森は 若い頃に安芸蒲刈島の円識という真宗僧の塾で学ぶのですが、その円識は国学にも造詣が深かったと言われており、黙霧も円識を通して国学へ 目覚めていったのではなかろうかと今漠然と考えていることだけ述べて次に進みます。 ( 2 ) 僧叡(石泉)学派とその影響 円識について述べましたが、私が最近問題にしたいと考えているのは、この円識が師事した安芸の僧叡(石泉) の影響力についてです。僧叡 は当時の仏教者の中で特に倫理性を強調した僧です。僧叡は三業惑乱の際に活躍しますが、その後、僧叡(石泉)学派と呼ばれる学派を形成し て幕末期の真宗学界に新風を吹き込んだ人物です。三業惑乱とは、ご存知の方も多いでしょうが、十八世紀末から十九世紀初頭にかけて西本願 防長から見た明治維新期にお砂る本願寺教団 二 五

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防長から見た明治維新期におげる本願寺教団 二 五 ニ 寺教団において見られた、江戸時代最大の教学論争で、衆生が救われるためには身・口・意の三業をもって一心不乱に仏に帰依しなくてはなら ないと説く三業帰命説派(新義派)と、これを自力として否定する派(古義派)とで論争を展開し、最後は幕府が介入し、古義派が正義と認め られたのでした。その古義派の中心勢力は安芸で、最高指導者は僧叡の従兄の大獄でした。そして、僧叡も大読を補佐して活躍しました。とこ ろが、三業惑乱が終結した直後に僧叡は大誠学派の学説を批判して物議を醸しました。なぜそうなったのかについて、史料

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に掲げた文章から これを考えてみたいと思います。 これは、大績が江戸で客死の前に国元の老母に送った﹁かたみの文﹂と呼ばれている文書です。 一読して分かるように、行いが悪くても、念 仏が浮かばなくても、有難く思う心がなくても救われるんだ、これが他力の真宗の教えだということを言っているんですが、果たして大獄がこ んな手紙を本当に書いたのでしょうか。この文書の写しは安芸方面には多く出回っておりまして、実際に大瀦はこうした文章を書いたんだと主 張する人が多いんですが、私は前々からこれは偽文書ではなかろうかと思っていました。いくら他力といっても、こんなアナーキーなことを大 績は言わなかったに違いないと思ったからでした。そこで、最近調べてみましたら、大識の母親は大滅が十三歳の時に死んでいることが判明し ました(今回三哲﹃竿水漫録﹄︿大誠事綴研究会、二

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年﹀)。したがって、私の予測が当たっていたのですが、それにしてもこういう偽文 書が広く出回っていたということは、=一業惑乱後、道徳を守ることも念仏を唱えることも必要ではなく、真宗は他力だからなにもしなくても救 われるという信何がかなり広く安芸方面で誌がっていたことを物語っていると一吉えましょう。 しかし、こういう信仰が広まれば社会秩序が乱れるのは明らかで、為政者だ貯でなく、民衆としても自分たちの世界の自治を維持していくこ とが困難になることから、これを好ましくないと考える人が増加してきたであろうことは容易に推測されるところです。倫理、称名念仏を重視 する能動的信仰態度を僧叡が強調するようになったのは、当時のこのような真宗門徒の風潮に歯止めをかける必要があると感じたからだったと 私は考えます。 実は、先々週山口で講演したときもこのことについてしゃべりました。ところが、講演のあと、真宗学のある高名な先生が私のところへ来ら れて﹁あなたの考え方はおかしい。あの大瀦和上の﹃かたみのお文﹄は大変に有難い﹂とおっしゃいました。その理由を尋ねますと、﹁広島に ある偉い和上がいらっしゃる。その人は今、声が出ない。そういう人が、これを読んだら喜ぷに違いない。声が出ない人にとっては、南無阿弥

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陀仏を唱えなくても救われるという教えは非常に有難いのではないか﹂ということでした。﹁はあ、そういう論理があるのか﹂と、私はびっく りしました。真宗学の人はすごい発想をするもんだなあと感心しました。 しかし、同時に反発も感じずにはおれませんでした。たしかにこういう考えを喜ぶ人も必ずいるでしょう。真宗学の先生が言われるのも一理 あるとは思いますげども、しかし歴史学はもうちょっと庶民目線でとらえるべきではないでしょうか。多くの庶民は、こんな文章を見たら﹁何 もしなくてもいいんだ、念仏を唱えなくてもいい、勝手にしていたらいいんだ、それで救われるというなら、そうしよう﹂と思い、その方向に 流れていくことでしょう。その流れを断つために僧叡は倫理を強調したのではないのでしょうか。実はこの時期、北陸方面でも頓成という人が 出て﹁念仏を唱えなくてもいい。ありがたく思わなくても救われる﹂というようなことを言い、それがものすごい勢いで加賀、越中、能登に広 がるんです。教団はこんなものが広がったら困るので一生懸命これを抑えようとしますが、なかなかおさまらず、大変な異安心事件となりまし た。他力を説く真宗には常にこういう騒動が起こる可能性があったわけですが、三業惑乱直後には称名念仏や倫理を重視するだげで三業派に近 い立場と教団中枢からみなされる危険性があり、それを怖れて極端にこれを軽視する傾向が教団全体に強かったと思われます。そうした風潮の 中で、教団権威を気にせず、倫理、称名念仏を強調したところに僧叡教学の存在意義があったと私は考えるのです。教団では、このような能動 性の強い学派を能行派、これに反対して行動よりも信心を重視すべきことを説く学派を所行派と呼んでいました。そして、あくまで所行派が正 統派として扱われ、能行派の学僧にはさまざまな圧力が加えられましたが、しかし、僧叡(石泉)学派に共鳴するものも多く、豊前学派、筑前 学派、越後学派など、各地に能行派が誕生していきました。吉田松陰もこうした能行派で教団から弾圧された真宗僧を評価した文章を書いてい ます。松陰が月性や黙霧と深く交わったのも、かれらが能行派に近い人物だったからかもしれません。こうしたことから、私は能行派と明治維 新との関係を考えてみたいと思っているのです。これについて先般の山口での講演の際にわずかばかり私見を述べたのですが、それはまだ十分 に煮詰めた内容ではありませんので、ここでは維新前から活躍を始め、 のちに明治仏教界をリードしていった長州出身の島地黙雷も能行派に近 い立場にあったことだ砂を指摘して、次に移ります。

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討幕戦争と防長真宗僧 防長から見た明治維新期における本願寺教団 二 五 三

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防長から見た明治維新期における本願寺教団 二五四 月性が﹁仏法設国論﹂を説いただけでなく、僧兵隊や農兵隊を組織すべきことを提唱していたことは先に述べましたが、それは月性没後、討 幕戦争の際に実現しました。幕府と長州が対決し、幕府軍が長州に攻め込んできた、 いわゆる幕長戦争が起こると、長州各地に農兵隊が結成さ れますが、このとき大洲鉄然らを中心に護国団、僧練隊、金問隊といった真宗僧を主力とする隊やパトロン隊という、 真宗寺院の婦女子によ って弾薬製造に従事する隊なども組織されました。また、名称は分かっていませんが、下関方面でも真宗僧の隊が馬関戦争に参加しています。 これらがどれだ防実戦において効果を発揮したかは分かりません。おそらく大きな戦果をあげることはなかったでしょうが、しかし、寺院僧侶 が郷土防衛のために戦闘態勢に入ったというだけでも、民衆の戦意高揚という点では大いに効果があったのではないでしょうか。 また、こうした実戦参加とは別の運動も展開しています。それは、藩が推進していた排仏政策に対する反対運動です。長州藩では神道興隆の 気還に乗って、①明倫館での儒祭式を神祭式に改正、②火葬の禁止、③遥拝所の設置等々が発せられ、排仏的風潮が強まっていました。こうし た藩の姿勢を座視するにたえなかった真宗僧たちは、﹁宗風改正﹂を叫んで立ち上がり、総力を結集して藩政府に対して神道重視の宗教政策の 変更を迫る運動を展開しますが、その中心になって活躍したのが島地黙雷と大洲鉄然でした。 その後も藩の神道重視政策は続きますし、この反対運動がどれだけ成果を上げたかは分かりません。しかし、仏教が各宗派とも強固な幕藩宗 教行政の末端組織としての機能を果たすのみで、固定化、形骸化して民心から遊離していく傾向が強かったと言われている時代に、防長では以 上に見たように現実の政治世界に対してきわめて積極的な行動をとる真宗僧が沢山いたことは歴史学的にも注目すべき現象だったといえましょ う。そこで、これが可能であったのは真宗にのみそれだ砂の活力があったからか、それとも防長にだけそれだ貯の政治的事情があったのかが次 に問題になりましょう。これについては、江戸時代後期の真宗優勢地帯には防長に限らず信仰面でかなりの活気があったことはここ二十年くら い前からの研究で明らかになっているところであり(奈倉哲三﹃真宗信仰の思想史的研究﹄︿校倉書房、 一 九 九

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年﹀、有元正雄﹃真宗の宗教社 会 史 ﹄ ︿ 吉 川 弘 文 館 、 一九九五年﹀、拙著﹃近世真宗と地域社会﹄︿法蔵館、ニ

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五年﹀などてそれに幕末防長独自の政治的危機状況が重なっ て、防長の真宗においてとくにこのような政治参加という現象が顕著に見られたのではなかろうかと考えるのですが、いかがでしょうか。 その解釈の是非はともかくとして、幕末段階で政治参加した防長の真宗僧の多くは、幕府の瓦解と同時に京都の本山に乗り込み、教団改革に 着手し、さらに新政府を相手に真宗教団だけでなく、仏教界全体を代表してその主体性確保のための要求をつきつげていくまでに至りました。

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維新後の教団と防長真宗

( 1 ) 防長グループの中央進出 僧侶隊や﹁宗風改正﹂運動で活隠した連中は、明治元年には早くも大挙して京都に登り、本願寺を取り仕切るようになました。防長グループ と言われていますが、なかでも島地黙雷、大洲鉄然、赤松連城、香川諜晃の四人がとくに有名で、彼らが主となって教団だ貯でなく日本仏教界 をリードしていきます。 教団改革としてかれらが最初に主張したのは、これまで本山の内政をほしいままにしていた下問家などの坊官・家司の独占を打破し、末寺僧 侶を宗政に参画させることでした。これは本山にとってきわめて革新的な要求だったにもかかわらず、この改革草案が大きな抵抗もなく採用さ れたのは、かれらのパックに同じ防長出身の新政府高官がいたのと、門主明如の開明性とによるものであったと言われていますが、ともかくか れらは、たちまちのうちに教団宗政の実権を握ることに成功したのでした。 しかし、このころ本願寺教団だ付でなく、仏教教団全体が廃仏殿釈の嵐の前に未曾有の危機にさらされていました白というのは、新政府は王 政復古の思想的基盤として神道を重視し、神道国教主義による祭政一致の国家を理想としたからです。そのための施策として、政府は神宮、神 社を仏教の支配から独立させようとして明治元年三月に神紙官再興の布告を、 ついで神仏判然令を発して神道優先の政策を打ち出しましたが、 これに便乗した国学者の中から極端な排仏論が現れ、廃仏毅釈の運動が全国的に起こったのでした。 こうした状況の中で仏教各宗教団は、新政府の中枢とのつながりをもっ西本願寺の防長出身僧の力を借りる以外に解決の道がありません。そ のなかでもリーダー格の島地黙雷の手腕に期待が寄せられ、ここに黙雷は全日本仏教界の代表として新政府の仏教弾圧政策に抗するためにさま ざまな工作をすることとなりました。たとえば、神祇省を廃して教部省の設置をはかったりしますが、政府は本腰をあげず、実質的には神仏混 渚の状態から脱することはできませんでした。そこで、西本願寺では外国の宗教事情視察のために黙雷をヨーロッパに派遣させます。明治五年 のことで、この外遊により黙雷は強い自信を得ました。 ヨーロッパで第一に黙雷が知ったのは、日本人が怖がっているキリスト教がすでにヨーロッパでは合理主義の前に矛盾を露呈し、斜陽化して 防長から見た明治維新期におげる本願寺教団 二 五 五

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防長から見た明治維新期にお砂る本願寺教団 二 五 六 いるということでした。これにくらべ、因果律にもとづく仏教は、近代科学によっても否定されないものをもっていると彼は感じたようでした。 さらに、斜陽化しつつあるキリスト教の中にあって、プロテスタントのみはなお近代社会で発展の能力を有するが、日本仏教の中でそのプロテ スタントのように抵抗力をもち、しかも一神教であるのは真宗以外にないと感じ、真宗への自信をますます強めていきました。 また、先進国においてはいかなる権力も﹁信教の自由﹂を侵すことは不可能であり、﹁政教の分離﹂が鉄別であることを知り、これに基づい て政府の宗教政策を厳しく批判しました。そして、最終的には、条件付きながらともかくも﹁信教の自由﹂、﹁政教分離﹂を明治新政府に認めさ せることに成功し、仏教各宗ともなんとかその独自性を確保したのでした。このあたりのことについては多くの人が書いていますので、ここで はこれ以上は述べず、次に進みますが、その前に一つだけ述べておきたいことがあります。 それは、新政府の宗教政策を変更させることができた原動力についてです。これに関し、新政府の中枢も同じ防長出身者で、その人脈をうま く利用したからという説明もあります。たしかにどちらも防長出身であり、それが教団にとって有利に作用したことは否定できないところです。 しかし、それだけではなく、新政府の強引な宗教政策には民衆も強く反対しており、それが背景にあったからこそ、献雷たちも新政府に積極的 に迫ることができたのでした。実はこの点について、森竜吉さんも早くに言つてはいたのでしたが(森竜吉﹃本願寺﹄会二新替、 一 九 五 九 年﹀)、このことをもっと明確に示したのは安丸良夫さんの﹃神々の明治維新!神仏分離と廃仏段釈

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﹄ ( 岩 波 新 書 、 一九七六年)という本でし た。これは、神仏分離と廃仏殿釈の前提、展開、結果を追跡すると同時に、それがその後の日本社会に与えた影響について論じたもので、広く 研究者の注目を集めました。なかでもとくに人びとを驚かせたのは、新政府が行った廃仏殿釈の暴挙に対して各地の真宗僧や門徒が強い抵抗運 動を展開して、その政策変更に甚大な影響を与えたことを多くの史料を駆使して明らかにしたことでした。そして、その強い抵抗は﹁真宗信仰 の固有性と強靭さ﹂によるもので、それが﹁﹃信教の自由﹄ への道をきり拓いた深部の力であった﹂と論じ、学界に多大の衝撃を与えました。 私も前々から真宗の固有性と強靭さに注目し、 いろんな角度からこれを取りあげていたのでしたが、それが獣雷らの運動の背景にもなっていた ことを具体的に知らされ、大いに勇気づけられたことでした。本書を読んで近世、近代真宗史に興味をもった人は多かったようです。もう三十 年以上も以前に出た本ですが、今読んでも非常に新鮮な感じを受ける好著ですので、こういう問題に関心のある方はぜひお読みになるようお勧 め し ま す 。

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( 2 ) 反防長グループの台頭とその後の教団 以上からもお分かりのように、防長グループは西本願寺教団だけでなく明治仏教界全体をリードする勢いをもっていたのでした。しかし、そ れだ砂に防長闘を形成しているとして、各方面からの反発があったことが当然予測されますが、事実、自由民権運動が広がり、藩閥政府への攻 撃が強まるにつれ、防長グループに対する批判の声は教団内で高まっていきました。その攻撃の口火を切ったのは、黙雷が﹁願クハ死生以テ法 主ニ事へ、長ク法城ノ股肱タラン﹂とまで尊敬していた法主明如を中心とする本願寺内のグループで、その首謀は和歌山県出身の北畠道龍とい う僧でした。北畠は幕末の幕長戦争の際に紀州藩士として長州に攻めてきたこともある人物ですが、かれがまず島地黙雷の書いたものには、先 ほど申しました称名念仏を重視する能行派の傾向が強いし、また大洲や赤松、香川らの防長グループもこれに近いが、これは教団の正統教義に 反する異安心(異端教義)ではないかと、信何面から防長グループを厳しく批判したのでした。明如もこれを支持します。そして、明治十二 (一八七九)年六月十四日、突知明知は教団革正運動の一環として管長の公選制実施、檀家制の廃止、本願寺の東京移転を発表して、実際に居 を東京に移し、島地、大洲、香川ら長州派でかためた在洛役員を全員解職して、あらたに北畠を革正事務局総理に任命して社会を驚かせました D これがいわゆる﹁北畠騒動﹂といわれる事件です。しかし、この明知を中心とする反長州閥グループのクーデターに対して防長グループは、新 政府の力を借りて三条実美、岩倉具視らに明如を説得させ、この革新的な計画を全部中止させてしまいました。そして、明知は京都に帰り、教 団はなにもなかったかのように従来通りの形態で存続することになったのでした。ただ、これを機に教団内での防長グループの発言力が弱くな っ た の は 確 か で し た 。 ところで、この事件について今では多くの研究がされていますが、最初にこれを学問的に取りあげたのは森竜吉さんで(﹁一八七九年七月十 四 日

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本願寺教団改革の政治史的意義│﹂︿﹃日本宗教史研究﹄ 1 、 一九六七年﹀)、これまでの宗教史研究には見られなかった鋭い考察をして学 界に大きな一石を投じました。森さんは、大谷家家扶三島了忠の記した﹁光尊上人血涙記﹂に基づいて、この事件の概要をたどると同時に、こ れには教団人だけでなく、移しい数の財界人、政界人、軍人、質族が関係していたことを指摘しました。そして、ここから森さんは、明如、北 畠の背後には当時の藩閥政府に反発していた陸奥宗光、大限重信らがおり、両勢力の対決には、二年後の﹁十四年政変﹂を予報するものがあっ たと解し、﹁そこには、絶対主義体制の形成過程における、もっとも深い意味での危機を通して、ダイナミックな政治と宗教(とくに仏教)の 防長から見た明治維新期におげる本願寺教団 二 五 七

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防長から見た明治維新期における本願寺教団 二五八 関係が浮彫りにされてくるのである。この点は従来の政治史においてまったく看過されてきた問題であるとおもう﹂と、仏教史を無視したこれ までの政治史研究を鋭く批判しました。これは、研究視野の広い森さんならではのすぐれた批判だったといえましょう。 その後の研究で、この森さんの紹介した﹁光尊上人血涙記﹂の記述内容の信想性を疑い、この事件は単なる教団内の主導権争いに過ぎなかっ たのではないかという意見も出されたりして、 いろいろ論じられました。しかし、さらにその後、東大の大学院生で狐塚裕子という方が、当時 の多くの新聞を小まめに調査し、これについて脅かれた記事を分析した結果、﹁大筋において﹃血涙記﹂の記述には信磁性がある﹂という結論 を出されており(狐塚裕子﹁明治十二年西本願寺寺務所移転事件と新聞報道﹂︿﹃日本歴史﹄四四九号、 一 九 八 五 年 ﹀ ) 、 私 は や は り 森 さ ん が 言 っ たように、この事件の背後に﹁政治と宗教﹂が絡まった大きな動きがあったのは確実で、それを浮き彫りにしようとした森さんの方法は素晴ら しいものだったのではないかと思います。 私は若い頃にこの論文を読んで非常に感動しました。そして、 いつか真宗史を通してこういうスタイルの研究、 つまり宗教現象からその背後 にある政治的動向を嘆ぎ取るような研究をしてみたいと強く思ったことを記憶していますが、残念ながらそれらしきものはなにひとつ書くこと もなく今日に至ってしまいました。しかし、それだけに龍大のみなさんには、こういうスケールの大きい研究をしていただきたいと期待してお ります。最初に申しましたように、このたびは予定を変更して急逮副題を入れ、森史学についても話すことにさせていただきましたが、それは ひとつには今言いましたような私の思いをみなさんに伝えたかったからです。 まだまだ話したいことはいろいろありますし、これで終えたのでは尻切れ下ンポのようで申し訳ないのですが、時間になりましたので、これ にて閉じさせていただきます。とりとめのない話で失礼いたしましたが、ご清聴有難うございました。 史料 l ﹁笑丑遊歴目録﹂(﹃吉田松陰全集﹄第十巻、原漢文)) ( 前 略 ) 山稜寂奨いま如何 仏を以て神に混ず汝何の窓ぞ 神か仏か人争ひて詣で 名教千歳陸陀を為す

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娼家酒楼華者を担にす 爾後名分蕩として地を掃 下敵すれば鱗々たる千戸の市 王法仏法また科を同じうす 口に糊す惣ぺて是れ金比羅 仏法の興るは皇道の衰なり 山を下れば寺あり普通といひ 槍漠何れの日にか奔波を廻らさん 説く是れ弘法此の阿に生ると 史料 2 ﹁丙辰幽室文稿﹂(﹁吉田松除全集﹄第四巻、原漢文) 浄土真宗清狂師の本山に応徴するを送る序 浄土真宗の清狂師、糠慨にして義を好み、天下を以て己が任と為し、其の法を以て村里を激励す。村里信従して、寒に繁く徒あり、蓋し聞く、 其の徒、内本朝を崇ぴ、外夷秋を憤り、入りては家に孝に、出でては郷に義にして、禍福を愉れず、死生を顧みず・・(中略)世に拘儒あり、 之を椅して日わく、﹁凡そ僧尼の兵書を習読し、語国家に及ぶを得ざるは、令に名文あり。今清狂の行事は酷だ此の禁を犯すものあり。創判到 法の必ず裁するところなり﹂と。余謂へらく、然らず、令の禁ずる所は、禅・律の諸宗なり。今師は浄土真宗なり。浄土真宗には君父あり委事 ありロ所謂世を捨てし人と同じからず。 史料 3 ﹁伝大減和上﹃かたみのお文﹄﹂写(文政五年、広島県廿日市市蓮教寺蔵) 身の行ひあしくとも、心さまは悪くとも、称名ハうかまぬとも、有がたき心わおこらぬ共、是では往生いかがと疑をべからず、此ものをたすげ んと有て御苦労まします本願よと、安堵の思ひに任て御入候へ、私安心かくのごとし、かたみとおぼしめしてあけくれご覧候へかし 防長から見た明治維新期における本願寺教団 二 五 九

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