五 浦 論 叢 第 18 号
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附論:天心はなぜ五浦海岸を選んだのか
茨城大学美術文化研究所 副所長
小泉 晋弥
はじめに
熊田由美子氏による一連の論考によって、六角堂の意味付けに関しては、ほぼ定説が固まった と考えられる。熊田氏の画期的な論考1)によって、私たちはそれまでの夢殿模倣説から脱却し、
岡倉天心の思想の中枢的な場所に六角堂を位置づけることができた。それゆえに、東日本大震災 による六角堂の流失とその再建の重要性も、これまでになく増すことになったといえる。
今回の安藤寿男理学部教授による本論文は、五浦について多くの論者が語ってきた「奇岩」に ついて、初めて科学的な眼差しを向けたものである。筆者もこれによって、目が開かれた思いが し、これまで大きな謎であった「なぜ天心は『ホーこりゃ大したものだ』2)を連発して五浦海岸 を選んだのか」という問題に、かなり重要なヒントを与えてくれるものであると考えるに至った。
ここでは、六角堂前に広がる奇岩そのものが、天心をこの地に定着させたのではないかという筆 者の仮説を提示し、諸氏の意見を賜りたいと思う。
文人庭園と六角堂
安藤氏の論文によって、五浦で天心が発見したものは、日本国内でも極めて稀な「炭酸塩コン クリーション」という特殊な経過でできた岩石群だったことが明らかとなった。安藤教授から、
その成り立ちをうかがいながら、六角堂前で目前の岩石をじっと眺めていたとき、形態そのもの が、中国で珍重される「太湖石」そっくりであることに気付かされた。天心は、文化財調査で日 本全国を旅して歩いている。風光明媚な場所ならば、いくらでも候補地はありそうなものだ。な ぜ五浦を選んだのかという疑問が氷解するのを感じた。そしてそれはなぜここに六角堂が必要 だったのかという問いへの答えも用意していた。
熊田氏は、 創建時の棟札)が示す「観瀾亭子」という言葉に着目し、六角堂が波の動きに世 界を感じる思想の現われであると指摘した。さらに天心が中国で目にしたであろう杜甫の草堂も 直接の動機になっただろうと推測している。「中に〔浣花亭〕があって誠に心持ちの宣い所で、
昔の〔月山〕か〔子昂〕でも画きさうな趣であります」と幻燈を使って説明する天心の言葉が、
風景に画趣を認める感性を示している。杜甫草堂には、碑亭とは別に、「一覧亭」という三層の 六角建造物があるためか、「寺観庭園の祠堂付属庭園」と分類されている。)しかし、天心の訪れ た当時は「一覧亭」に比べれば、天心が五浦に建築した「観瀾亭」はもっと簡素な、中国庭園史 で「文人庭園」(後期文人庭園)と称している庭園のための六角堂であった。)
中国庭園の歴史年表を参照すると、中国において、私邸の庭園が独自の発達を遂げて、明代末 には「後期文人庭園」としてスタイルが確立していたことがわかる。文人庭園の中で蘇州の名園 として知られる「獅子林」は、宋代に禅寺であったため寺観庭園と私邸庭園の性格をもっている というが、元来は「築山を中心とした山水風景ではなく、もっぱら石それ自身が観賞対象になっ ていた」)という。海中に林立する奇岩の群れを眺めるために六角の東屋を備える点は、そのま
五浦海岸六角堂の海食地形と炭酸塩コンクリーション
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ま「獅子林」と「五浦」が重なるのである。
天心の時代にはもっと簡素であったらしい「獅子林」や石濤が築いたという「个園」などのイ メージが、天心の望んだ庭園に最も近いのではないだろうか。逆にいえば、このような文人庭園 のイメージが天心に六角堂を作らせたのだろう。
文人庭園と石の役割
文人庭園の条件として石は必需品であったが、とりわけ太湖石はその筆頭として珍重されてき た。太湖の波打ち際で石灰岩にたくさんの弾窩(穴)が形成される。それを水中で切り出して船 で運搬するというのが太湖石の歴史的採掘法だったようだ。それが枯渇して入手困難になった明 代の『長物誌』には人工的に山の石に穴を空ける方法が記されているという。「水中にある太湖 石が何より優れている」のである。ひるがえって五浦の海を眺めてみれば、水中に太湖石が林立 しているという状況と酷似していることが分かる。天心は、文人の垂涎の岩がそのまま眼前にあっ て、足りないものはそこを眺める亭子のみであるということが即座に理解できただろう。
文人が石を好む僻について明代のアンソロジー『酔古堂剣掃』は、『清閑供』を再録し、次の ようにまとめている。
「門内に径あり。径は曲らんことを欲す。径転ずれば屏あり。屏は小ならんことを欲す。屏よ り進めば階あり。階は平らかならんことを欲す。階畔に花あり。花は鮮やかならんことを欲す。
花外に牆あり。牆は低からんことを欲す。牆内に松あり。松は古からんことを欲す。松底に石あ り。石は怪ならんことを欲す。石面に亭あり。亭は朴ならんことを欲す。」)
これはそのまま、五浦の長屋門から天心邸へ向かう山道のようなたたずまいを表していない だろうか。さらに「怪石を実友となし、名琴を和友となし、好書を益友となし、奇画を観友とな し…」と説明される文人の生活を、天心は五浦で実体化したことが分かる。このような中国趣味 が、五浦の大観邸にあったことも報告されている。)
私たちは、太湖石に珍重された「痩、透、漏、皺」といった形状の特質や、中国で古代以来信 仰されてきたとされる「洞天福地」(名山の奥のユートピア)を太湖石にみる思想にまで触れず、
近代に中国の文人の生活をそのまま生きようとした天心の思想を、五浦の天心住居の構成物、と りわけ六角堂と眼前の岩が担っていたことが確認できればよいだろう。)
クルナスによれば、天心が意識したように、人々が庭園を「美的なもの」として認識するよう になったのが、1世紀末であるとされるからである。その時代にようやく庭園は地図上の「領地」
ではなく「絵画の慣例に由来する美学的なフレームワーク」の中で理解されるようになったのだ と指摘されている。10)同時にクルナスは、明代において庭園が、絵画と同様にぜいたく品の一つ となったからには、「自然についての美学的言説においては所有権を隠蔽したり偽装したりする」
ものになったという。そして「庭園」は、「金銭を天然のものであるかのように見せる方法」だっ たと皮肉な指摘をする。すべてのものを消費しようとする近代と個人の自己実現の自由が保証さ れた近代の間のジレンマこそ、天心のジレンマであり「絵画における近代の問題」という講演で も、『茶の本』でも問題とされていたことであった。その観点からみれば五浦は、ほとんど恣意 的に作る必要のない願ってもない天然の庭園だった。天心は六角堂を加えるだけでよかった。そ のような文人庭園を天心はただ隠棲のために必要としていたわけではないだろう。
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五浦とシャンティニケタン
天心が国際的な飛躍をするキャスティングボードとなったのがインド旅行だった。そこで『東 洋の理想』を脱稿し、一躍国際的な日本美術研究家としてのデヴューをする。加えて、インド帰 国後に天心が、日本美術院を五浦に移転するきっかけとしてタゴールとの出会いがあると、ルス トム・バルーチャは指摘している。タゴールは天心がインドに渡った頃に私学校「シャンティニ ケタン」の経営に奔走していた。タゴールは
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年カルカッタでの講演で、次のような教育思 想を披瀝している。「もしわれわれが、模範となる一つの学校を建てるなら、まず、込み合った都会からはるかに 離れた静かな場所を選び、広々とした大空、野原、木々などという大自然の恵みを満喫できる ようにすべきだ。その学校は、教師も学生もただ学問にだけ専念して暮らせる超俗の場所であ る」。11)
一方の天心は、インドから帰った翌年の
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年には、大観と春草をインドに送り出している。さらにアメリカとヨーロッパでの
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年に渡る営業旅行-もしくは絵画遍歴に連れ出し、ようやく 帰国した二人に、日本美術院の移転先として赤倉と五浦を併置して選ばせている。その結果四人 の画家が、家族ともども五浦に越してくるのが10
年であった。大観の証言から五浦とバルビ ゾンについては語られがちだが、天心とタゴールのこのような響き合う行動を並べてみると、都 会から離れた脱俗の場所で、少人数での教育というイメージの一つに、中国の文人思想に加えて、タゴールが「理想の学校」で実践していたことがあったと仮定しても不思議ではない。
天心は、ボストン美術館での通年の勤務を固辞して、最後まで半年勤務という非常勤の立場を 通した。ほぼ同時に東京を離れて、茨城の五浦と新潟の赤倉に家を構え、ボストンから帰るとそ こでくつろいだ。「都会は人間本来のすまいではない。人間の物質的要求を満足させるために造 られたものである。…都会はわれわれを大自然の懐からもぎ取り、その貪欲な坩堝の中で精も根 も尽き果てさせる」と語るタゴールの思想は、かつてインドで天心とも語り合っていたものだろう。
注