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教育史上における水戸藩彰考館の意義
鞘学研究室 樫 村 勝
序 言
従来日本教育史上においては,水戸藩彰考館の存在意義は,あまり認められていなかつ た。これは大日本史が史学研究上重視された結果,主眼がつねに大日本史編集という点に のみ注がれ,彰考館そのものの機能が,単なる編集所としてのみ解釈されていたためであ る。さらに,教育史上からは藩校としての弘道館が,その規模の雄大さにおいて,教学精 神の顕著性において代表的のものとしてとりあげてきた関係上,これが成立の基礎を培つ
た彰考館め活動が,みのがされてきた傾向がある。
しかし,彰考館が江戸時代の初期において,すぐれた一種の編集所的性格を示しなが ら,他方また一種の学問所として,広く国内の学者を招聴して研究の場たらしめるととも に,有為の学者を養成し,水戸学成立の基盤を培つた点,或は散逸秘蔵の文献資料を各方 面より蒐集して,貴重な蔵書をもつ文庫を成立させた点など,江戸時代において発達した 教育文化機関の諸形態を包含しているのである。
即ち彰考館は,日本史の編集という一定の目的を保持しながらも,他方に複雑な文化的 機能を発揮しつつ弘道館という藩校に発展させ,水戸学という学派を成立させているので あつて,その過程のうちに,江戸時代特有の未分化的文化機関の性格の一端を伺うことが できるのである。従つて,図書編集史上,学校発達史上,或は図書館史上などからも,改 めてその歴史的意義を検討してみる必要があるものと思われる。
1 彰考館の変遷とその性格
水戸藩の史局として第2代藩主義公(光囹)によつて設立されて以来,二百数十年の歳 月を維持してきた彰考館は,明治維新後廃藩置県という大変革によつて,明治4年7月水
』 戸城内から旧藩校弘道館の一隅に,さらに,その年の冬柵町中御殿に移され,翌5年には,
階楽図の東南隅に移されるという有様で,明治初期における彰考館は,藩の廃止という変 革にともなつて,廃館の危機にさらされたのであつた。幸にも,栗田寛の如き熱心な館員 の進言があり,かかる波瀾のなかにも修史活動が継続され,明治39年遂に水戸藩多年の念 願とする大日本史編集事業の完成をみたのである。従つて,その後の彰考館は,専ら過去
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における文献資料を保管する文庫として,その使命を維持し,その歴吏的生命を存続する ことになつたのである。
明治40年当館所蔵書保存のための補助金として,とくに明治天皇,皇后両陛下より御下賜 金を賜つたので,同45年常磐神社境内に文庫を新設し,これを「彰考館文庫」と称し,全
く文庫的性格をもつことになつたのである。爾来,当館は旧藩校弘道館と並んで,水戸藩 の歴史的精神を象徴する存在となつたが,昭和20年8月の戦火にあい,建物とともに多く の蔵書を焼失し,その後は水戸市見川町の徳川邸に移され,ようやくその存在が忘れられ
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ようとしている。
以上は主として明治維新以降における彰考館の位置の変遷について述べたのであるが,
明暦以来凡そ300年の生命を維持してきた彰考館は,はたしてどのような活動をなし,ど のような使命をはたしてきたのであろうか。
第一に当館の活動である修史事業をみるに,編集のために消費した時間及び経費におい て,或はこれがために動員した人数において,或は完成された編集物の価値について・わ が国における図書編集史上注目すべきことは当然のことであるが,第ごにこの修史事業に 伴つて,これ迄全国に散在し,秘蔵された文献資料が蒐集され,保管されて,学問研究に 貢献することができたことは,わが国文庫史上からも注目すべきことである。第三に注日 すべきことは,当館が当時代における学問所として多くの学者を招聰し,学問研究の場た らしめたことである。当館の講釈は世に「史館講釈勤」と唱えられ,義公の時代より続い て行われ,藩の役人子弟のほか,百姓町人にまで及んだのである。即ち史館を中心とした 講簿は,やがて藩校弘道館教育への基礎を培つたもので,わが国学校発達史の究明から
も,みのがすことのできない存在である。
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彰考館は本来義公の日本史研究の動機から出発したものであるから,藩の機構としては 一史局に過ぎないものであつたが,義公としては極めて重要視した存在であつた。当時は 徳川幕府もようやく文化活動に力を注ぐ時代となつたので,義公は襲封後専ら史館活動に 全力を傾倒し,全国より有為の学者を招聰して館員となし,かれらを各地方に派遣して広 く資料を蒐集し,編集事業の基礎をかためたのである。義公以降代々の藩主も,よくこの 修史事業を以つて藩の一一大使命となし,第13代囲順氏に至るまで継続して,明治時代にご
d 黷ェ完成をみたのである。勿論経過の全体を通観すれば,時に栄枯盛衰はまぬかれない
が,各世代を通じて修史事業を一貫してきたことは,他藩にその例をみないのである。
当館の活動を史的に考察すれば,ほぼ五つの時代に分けることができる。
第一期は義公を中心として史局の開設,学者の招聴,文献資料の蒐集など,主として史 館の基礎をつくりあげた時期。
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第二期は創設時代の有為の人材が世を去り,これに代る適当な館僚に乏しく,加うる に,江戸史館が火災等にあい,修史活動が沈滞に陥つた時期。
第三期は文公及び立原萬らを中心として,沈滞した館の修史事業を再生させた時期。
第四期は水戸藩出身の有為の人材が輩出し,烈公を中心として,彰考館修史活動から弘 道館教育に進展させた時期。
第五期は明治維新の大変革をのり越えて,大日本史の編集を完成し,史館から文庫へ転 換した時期。
教育史上から水戸9学問教育を代表するのは藩校弘道館であるが,弘道館の存在は天保 12年から明治に至るまで僅かに20年の歴史をもつに過ぎないのに対し,彰考館は明暦3年 から今日に至るまで,凡そ300年の生命を存続しているのである。弘道館は江戸時代にお
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ッる教育機関としては,その規模の宏大さにおいて代表的のものであり,またその教学精 神も,弘道館記として簡潔雄勤に示され異彩を放つたのである。この点から弘道館は教育 史上高く評価されることになつたのであるが,それ以前における水戸藩の彰考館活動を離 れては,弘道館教育の本義を理解することができないのである。しかも,世上水戸学と称 する学風は,この彰考館における史学研究から発足し,次第に政治,経済,道徳,国防論 にまで拡大し,いわゆる政教学に発展したもので,その中核は,あくまで復古の指南,勤 王の侶首といわれた義公の修史精神につらぬかれているのである。
彰考館は弘道館に比すれば,その建物,人的組織事業の内容等いずれも規模の小さい
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機関であつて,寛政8年文公時代に建てられた水戸城内の史館をみても,文政12年烈公時
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代に建てられた江戸後楽園邸内の史館をみても大きいものではなかつた。また修史事業の 活発な時代においても,館員として参加した人員は40名程度に過ぎなかつた。しかし,当 館の修史活動が直接間接江戸時代の学問教育の振興に影響を及ぼしたことは明らかであ
る。
義公がはじめて彰考館を開いた明暦3年(1657年)前後は,江戸時代学問興隆の初期で あつて,林鳳岡が幕府の援助によつて,上野忍岡の書院を湯島に移して,湯島聖堂として 学問所的性格を発揮することになつたのは元緑3年(1690年)であり,藩学としても岡山
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藩の花畠教場や,会津藩の日新館,尾張藩の明倫堂その他二三に過ぎなかつた時代で,義 公の彰考館開設も当時における文化活動の先駆であつた。
既に述ぺた如く彰考館開設の目的は修史事業にあつたが,それは単なる編集所的性格の ものではなく,十分に学問所的性格をも具備した。それは義公が史局を開設すると同時 に,学派,学閥にとらわれず,全国より有為の学者を招聰し,学問研究に対して充分その 学識を発揮させたことである。このことは一方に,史学研究に対して客観性をもたしめる
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と同時に,他方水戸藩独自の学風を建設させることになり,後世水戸学と称する学派を成 立させる基盤をつくつた。水戸学が明治維新の指導原理となつた所以も,幕府における異 学の禁の如きものにおそれず,明治天皇が「名分を明らかにし志を筆削に託し,正邪を弁 じて意を勧懲に致せり」と仰せられたように,事の是非曲直を明らかにするという原則に 立つて,研究討議が行われた成果である。当館の館員たちが日本史の編集という領域にの みとらわれず,自己の学識経験の上にたつて,多くの著述を後世に残していることによつ ても,史館が彼等の自由研究の場であつたことが伺われるのである。
当館におけるこの学問所的性格は,やがて水戸藩に多くの人材を輩出する結果となつ た。第一期における安積覚・佐々宗淳・三宅績明・栗山懸・人見伝等諸学者の研究態度 は,やがて第三,四期において立原萬・藤田一正・同彪・青山延干・同延光・豊田亮・会 沢安・栗田寛・同勤など有為の学者を輩出することになつたもので,幕末封建制度の打破 に参画した人物は,いずれも彰考館の学風を基盤として輩出した人材である。
「方義公創為紀伝,関西英髪威集府下」 といわれた所以も,義公が学問を尊重
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し,学者を尊敬したからである。義公は従来儒学者たちが武士階級に対して下位に扱われ ていたのに対し,学問は君子のこと,儒者の私業にあらずとして蓄髪初服に還らせて身分 の向上をはかり,さらに幕府にも建言して,儒学者の待遇改善をはかつている。
また彰考館員たちは,日時を定めて順番に講釈をつとめて自己の研修をはかると同時 に,講簿を設けて広く百姓町人にまで講釈を解放しているのであつて,一方学問研究の機 関であるとともに,他方一種の教育機関でもあつた。即ち史館の講釈は,水戸藩の士民教 育ともいうぺきものであつた。
以上彰考館の学問所的性格を考察してきたのであるが,さらに,当館の文庫的性格につ いて検討してみよう。
江戸時代の初期家康の遺言によつて,徳川幕府親藩と称された水戸・尾張・紀伊の三家 には,駿河御譲本によつてはやく文庫が設けられたのであつたが,水戸藩の彰考館文庫は 尾張・紀伊二藩の文庫とは異つて,修史事業という目的から必然に成立した文庫であつた から,かなり学術的価値の高い文庫となつた。
義公は史局の開設と同時に,招聰した諸学者を四方に派遣して古書・旧記など多くの文 献資料を捜索蒐集させたのであるが,各藩割拠の時代であつたから,散逸秘蔵の資料を入 手することはすこぶる困難であつた。文化17年(1810年)大日本史紀伝26巻を光格天皇に
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」上した際の叙「修史の志を立て上は実緑に根拠し下は私史に採撫し労く名山の逸典を捜 ていしう
閨C博く百家の秘記を索め,綴績すること数十年」と述べているように,史館における資 料蒐集の苦心が伺われるのであるQ
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これら蒐集の資料が整理されて,はじめて目録がつくられたのは元録5年のことで,
「大串雪欄の公命を受くるや参考斜酌,損益折衷して,更に新意を構へ,十二部八部の目 を立てて内外の群籍を類別せり。」とあるように,当時の館員大串元善(雪欄)が義公の命 をうけて,十二支,八卦による分類法を採用して整理し,文庫の体系を整えたのである。
もと彰考館は江館(江戸の彰考館)と水館(水戸の彰考館)の二つに分れていたから,蔵 書もおのずからニヵ所に所蔵されてきたのであつたが,江戸大火などから,しばしばその 保管が問題とされ,明治の初期栗田寛らのすすめにより,これを水戸に合併し,現在の彰 考館文庫の設立をみることになつたのである。義公以来蒐集した資料は約7万冊にのぼ り,しかもその蔵書中約3分の2が写本であることを思う時,往時の館員たちの努力のほ どを察することができる。
以上のように,水戸藩の彰考館は現在はその名の示す通り,文庫として存在するのであ るが,その活動内容を歴史的に考察してみれば,編集所として,或は学問所として,或は 文庫としての複雑な性格を包含しながら,幕末に至つて,これを教育面には藩校弘道館に 発展させ,学術面には水戸学として発展させているのである。
2 編集所としての彰考館
彰考館が水戸藩の史局として開設をみたのは後西天皇の明暦3年(1657年)第ご代藩主義 公の時で,大日本史として編集の完成をみたのは明治天皇の明治39年(1906年)で,水戸 藩の修史事業はじつに250年を費して完成したのである。この間における歴代の藩主は義
みつくに つななが むねたか むねふみ はるやす ぼるのり なりのぶ
公(光囲)粛公(綱条)成公(宗尭)良公(宗翰)文公(治保)武公(治紀)哀公(斉脩)
なりあき よしあつ あきたけ あつよし くにゆぎ
烈公(斉昭)順公(慶篤)節公(昭武)定公(篤敬)濤公(囹順)の12世代に及んでお
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り,館の総裁も初代の人見伝以下40数名の交代をみている。しかも,この長年月にわたる 編集事業の継続中には,編集方針に対する意見の対立,館僚問における学問的見解の相 異,派閥的の対立,大日本史の名称に関する論議,或はその内容についての論議,水館と 江館との関係,史館維持運営に対する問題,水戸藩に対する幕府の干渉など,さまざまな 波瀾曲折があつたのであるが,水戸藩の伝統精神はよくこれらの障害を克服して,修史事 業の完成に努めたのであつた。
義公がはじめて史局を開いた明暦3年正月には江戸大火があり,しかも水戸藩の江戸藩 邸もこの災禍を蒙つたのであつたが,義公はこの年の2月17日意を決して駒込の別荘に史
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局を開いたのである。小石川の本邸内に史局を移し,これに「彰考館」と命名したのは寛 文12年春で,明暦3年を去る16年後のことである。かくて,内容の整備をはかるととも に,館員の日常心得として館警五則を制定して督励したQ
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ぴつじのこく
一,館に会する者は辰の半を以つて入り,未刻に退く可し。
一,書策は謹んで汚壊紛失すべからず。
ご5ガん
一,鴛談浄論は宜しく最も之を戒むべし。
一,文を論じ事を考え各々当に力を掲すべし,若し他の駁する所あらば,則ち虚心之を 議し,独見に執する勿れ。
一,席に在りては怠惰放騨なることなかれ。
最初修史事業に参加したものは京都の人見伝・中村顧言・田犀,周防の吉弘元常,武蔵 の板垣矩,讃岐の岡部以直,常陸の松田敷・小宅生順らのほか筆生10名程度であつた。元 和3年に人見伝(時に小納戸役緑高300石)が最初の総裁にあげられ,館の事業を統轄す
ることとなつた。これ以後,史館は明治に至るまで総裁制を継続した。
貞享元年(1684年)には史館を邸内天神上勝景の地に新築し,文昌星の像を安置し,史 館の権威を一段高めることになつた。義公は63才を以て封を粛公に譲り,居を太田郷西山 に移すに及んで,修史事業継続のため史館を水戸邸におくことになり,以後彰考館は水 館・江館の二つに分かれて存在することになつた。義公は将来子孫がその遺志をついで修 史事業を完成すべきことを念願し,「我れ今日に至りて志願畢る復た何をか言はん。唯史 館の修撰壮より創むる所。而して猶ほ未だ成るを告げず。是を憾むべしと為すのみ。夫れ 孝は父の志を継ぐより大なるは莫し。君善く諸を思へ。」(水藩修史事略)と粛公を愉し ているが,この義公の志は後世水戸藩の家訓となつて一貫されることになつた。
義公は日本史の編集に当つて,紀伝志表の完成をまつてこれを朝廷に献上し,朝廷より 書名を賜わる意図であつたため,あらかじめ書名を定めなかつたのであるが, 正徳5年
(1715年)第3代粛公の時に紀伝の脱稿完成をみるに及んで,その名称が問題となつた。
水館側は「皇朝新史」案を,江館側は「大日本史」案を提唱し,相互にその是非を論議し たが,粛公は後者を採用し,ここに編集の書名ははじめて「大日本史」と命名され,第4 代成公に至つて,本紀73巻,列伝170巻並に序因修史例,引用書目各1巻凡そ250巻を幕 府に献じた。これによつて,義公以来の修史事業は一応完了したことになつたのである が,これを機会として,藩内には彰考館廃止論が拾頭した。加うるに,当時は義公・粛公 時代に比して人材乏しく,ようやく沈滞の情勢を示すに至つたのである。いわゆる彰考館 第二期とみられる史館活動の衰頽期を出現することになつたのである。
この沈滞期を挽回し館の再生をはかつたのは第6代文公及び文公の信任を得た立原萬で あつた。立原派から出て後に反対派となつた藤田一正も,「紀伝の書,之を高閣に束ねる もの,幾んど五十年。修志の任,名ありて実無く,抄書纂録,歳月を遷延し,総裁の職 亦経を執りて待続し,顧問に備わるに過ぎざるのみ。臆今公の好文と立原総裁の任職と微
樫村:教育史上における水戸藩彰考館の意義 7
すむし
かりせば,日本史其れ轟魚に供せん乎。」 (修史始末巻之下)と,文公・立原萬の功績を たたえている。
立原萬は宝暦…13年20歳で史館に入り,43歳で総裁に任ぜられ,前後43年間にわたつて史 館勤めをなし,史館の再建に努めたのである。義公が修史事業を開始して以来既に百余年
を経過しているにも拘らず,その後の事業はさらに進捗せず,藩の有司間にも史館の存廃 が論議されていた際であつたから,立原は,「義公百年の遠忌は,己未の歳に在り,相去 ること僅かに三年。紀伝を板刻して以て先君の志を成す。必ず此の期を瞼ゆべからず。」
(修史始末巻之下)と,館僚を督励して編集に精進させたのである。この努力の結果寛政 11年(1799年)12月6日義公一百年の遠忌に大日本史紀伝浄写本80巻を義公の廟に献じ,
その遺言に報ゆることができたのである。
しかし,立原萬が大日本史の校刻を急ぐの余り「夫れ義公の志は専ら紀伝に在り。今宜 しく精細検討,速に諸を人間に布くべし。修志の如きに至りては則ちただ其の余事の み。」という方針をとつたのに対し,藤田一正らは「日本史をして編年の体たらしめば,
則ち志表無しと殿も可なり。既に創めて紀伝の体を為す。決して志無かる可からず。歴代 の史,紀伝ありて志無きもの,唯三国・南北五代諸史にして止むのみ。」 (修史始末巻 下)と反対し,編集方針上にはげしい対立論争を生ずることになり,これが一契機となつ て,将来水戸藩内に内証党争の禍根を残すことになつた。
かように,彰考館における修史事業は水戸藩にとつては極めて重要であつて,「水戸藩 の名を海内に伝播し重きを天下に為さしめたるは日本史なり。水戸藩をして朋党争闘の結 果支離滅裂に終らしめたるも日本史なり。水戸藩党禍の惨烈なるは古今東西に絶えて類例
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を見ざるものなるが,其原因は全く修史の体裁に関する議論の衝突に外ならず。」といわ れろほど,根深い論争を含みながらも,二百数十年の歳月を持続したのである。
第三期は文公を中心として立原萬・藤田一正らによつて彰考館の修史活動は活発となつ たのであるが,その反面編集上にさまざまの問題がとりあげられるに至つたが,その論争 の中心はほぼ次の三点に要約されるであろう。
第一は,既に述べたように大日本史編集体系における紀伝と志表との関係である。
第二は,「大日本史」と称する書名の是非に関する問題である。
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第三は,紀伝の論萱削除の可否に関する問題である。
第一の紀伝と志表の論争についは,志表の完成をまつて大日本史編集の体系とするとい う高橋広備・藤田一正らの意見が採用されることになり,引続いて志の研究を進めること になつたのである。
第二の書名については,一正らは大日本史と称することに強く反対し,「夫れ大日本史
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フ名には四つの不可有り」として不可論を提唱したので,時の藩主武公は関白鷹司政熈に 書を送り,朝廷の内意を伺つた結果,「旧により大日本史と称して可なり。」との許可を 得,ここに正式に大日本史の書名を使用することになつた。
第三の論萱については高橋広備は,「凡そ史の論賛ある。是れ皆勝国異代の得失を論 ず。国を極めて是非す,固より妨げざる所。独り吾が天朝百王一姓,古今の世,至尊垂 撲,政を関東に委ぬと錐も,君臣の名分,厳乎として乱れず,四海の内,皆正朝を奉ぜざ るは莫し。上世遠しと錐も,之を均うするに祖宗。今其の得失を論じて忌揮する所なし。
事体己に宜しとする所に非ず。安ぞ先公の意に背かざるを知らんや・寡人の意は悉く之を il:1法せんと欲す,宜しく評議すべし。」(修史復古紀略)と,君臣の分厳として存する万 世一系のわが皇朝に対し,天皇・竪子・諸臣に対する批判を付することは妥当でないとそ の削除を正三張した結果,文化7年朝廷に献上した大日本史においては論萱を削除したので
ある。
以ヒのような経過を経て編集【二の基本原則は次第に確立したのであるが,かかる論争の なかに,派閥的傾向が次第に濃厚となり,修史事業も容易に進捗しなかつた。
やがて立原萬・藤田一[E・高橋広備ら世を去り,藤田彪・会沢安・青山延干らと交代す ることになつた。藤田彪は当時の青山・川口両総裁に史館の大弊五事をあげて,改革を要
望.した。
口く,心術正しからざるもの,宜しく館職に預るぺからず。
日く,正人実学宜しく廃棄すぺからず。
日く,摂職の撰,宜しく彪に在るぺからず。
曰く,史業の督責,宜しく迫豊すぺからず。
日く,虚文紛飾,宜しく助長すぺからず。
文政12年(1829年)烈公が第9代の藩ヒとなるに及んで,館局の改革を志ざし,まず江 戸邸の史館を廃し,会沢安を総裁にあげて修史」環を督励した。しかし,当時の内外の情 勢は,紀伝に続く志の編集をさらに進捗させなかつた。青山延寿の如きは会沢総裁に書を 送り「万難を排して大日本史を完成すぺし。」「若しこの大典成らずんば先生宜しく総裁
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辞すぺし。」などと激励している。また豊田亮の如きも「唯だ国史,紀伝の若きは則ち 尽く成る。其の成らざる者は何ぞ。日く志なりし表なり。志表ならざる所以は何ぞ。頃者 臣籍に其の故を究め,其の端悦を得たり。蓋し儒者諸論を好み,一事ある毎に轍ち紛絃と
して之を争ひ,議論繁くして実敷少なく,作りて道辺に舎くが若く,三年成るなし。国史
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フ成らざる所以は是に座するなり。」と,鋭く当時の館僚態度を批判して,史の完成を烈 公に進言しているのである。
樫村:教育史上における水戸藩彰考館の意義 9
けだし,彰考館における修史事業不振の原因は,ただに館僚間の派閥的論争のみによる ものではなく,内には藩政全般の改革問題,雄大な構想による藩校設立の企図があり,外 には尊王撰夷運動と,それに伴う幕府の圧力等があつたためである。
幕末藩の内外騒然としている際にあつても,修史事業に熱意をもつ人々によつて,義公 以来の水戸藩の使命は忘れられなかつたが,烈公時代に遂に完成をみることができず,明 治維新を迎えることになつたのである。とくに水戸藩は幕末において烈公はじめ,藤田 彪・会沢安・豊田天功等の人材を失い,さらに元治甲子の乱において多くの人材を失つた
から,彰考館の修史事業は,まさに危機に遭遇したのである。
この明治初期における修史事業の危機を救つて,完成の功をもたらしたものは栗田寛で あつて,彼が「今日用途多端とは,毎日聞く所なり。然れども,西山公以来の大業を成就 することなれば,他の費用はいかにも節約せられ,修史の方へ増加あらんことを,切望に 堪えず。果して此の請の如くなるを得ば,津田信存も,県庁を辞して,専ら史事に当るを 得,又適材の人物も挙げて,助力せしむることを得ん。」(水藩修史事略)と長谷川家令 に懇請している点をみても,その誠意のほどが伺われるのである。彼が完成の日をみるこ とができず,明治32年に没したことは,まことに遺憾であつた。清水正健が,「前に澹泊 先生あり,後に栗田先生あり,義烈両公の志願粗々果せりと云ふも敢えて盗美の言に非ざ
る可し。」と,大日本史編集ヒにおける両人の功績をとくにたたえているが如く,本紀・
烈伝編集についての安積覚の功,志・表編集についての栗田寛の功績は,編集事業とにつ いては確に顕著なものであつた。
3 学問所としての彰考館
義公が史館を駒込の別荘から小石川本邸に移し,彰考館と命名して本格的に修史事業を 行うことになつたのは寛文12年,第4代将軍家綱の時であり,幕府が林家の私塾忍岡書院
を湯島に移し,これを湯島聖堂として学問所的性格に発展させたのは元緑3年,第5代将 軍綱吉の時で,彰考館の命名におくれること20年の後である。
しかも,その翌年の延宝元年に,義公は中村顧言を林家に遣わして,上野忍岡の書院を 水戸藩駒込別邸に移すよう進言しているのである。これに対し林家は事極めて重大として 承諾しなかつた。また義公は朱之喩(舜水)を師として聖堂を別邸に設け,釈彙を行つて いるのである。義公行実には「延宝元年癸丑五月藩に就く。公将に大成殿を府下に造らん
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とす。仮に殿堂を江戸駒込の別邸に設け,家士をして朱之喩に就き釈食啓聖公の祭及び祠 堂墓祭の儀節を習はしむ。又梓人をして之喩が説を受け,闘里の制を模倣せしむ。」とあ る。元緑3年に営んだ湯島の聖堂は義公に招聰された朱之喩の聖堂図によつたものといわ
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れ,水戸駒込邸のものに模したものともいわれる。
彰考館は修史事業を目的とした機関ではあるが,実質的には学者を集めて研究を行わ せ,講莚を開き,聖堂を設けて釈彙を行うなど,当時においては,学問研究の一機関でも あつたともみられる。ことに義公は史館を開くに当つて,全国から学派学閥にとらわれる ことなく多くの学者を招聰し,修史を中心として自由に研究討議を行わしめ,彼らの才能 学識を充分に発揮させたのである。
最初招聰された人物をみるに,吉弘元常は周防,佐々宗淳は大和,酒泉弘は筑前,森尚 謙は摂津,中村顧言・人見伝・鵜飼真昌・三宅緯明・栗山想・大井貞広は京都出身であ
り,またこれを学派的に見れば中村顧言・人見伝は朱子学派の林門下,鵜飼真昌・三宅組 明・栗山想は神道学派の山崎門下,大井貞広は古学派の伊藤門下で,これらの学者たちは 学派を超越して水戸藩に仕え,義公の修史事業に参画したのである。義公紀伝を創為する に当り,関西の英髭威府下に集るといつたことも,蓋し過言ではなかつた。
義公は学者を招くに当つて「多く諸生を養うは耗費に似たりと雛も編集事埃り,各々 命ずるに職を以てせば,熟れか一職に堪うる能はざる者あらんや。」と,みずからは清貧 に甘んじながら,人材を厚扶をもつて迎いたのである。江戸時代の儒学者間にはかなり派 閥的な対立があつたから,彰考館員の採用についても異論のあつたことは事実である。例 えば京都の大井貞広,美濃の多湖直などは古学派の伊藤門下であつたから,その採用には 反対が強かつたが,義公は推薦者の言を信じ,「今書生を招き,以つて修撰の用に供せん とす。筍しくも才の録すぺきあらば,何ぞ学術の同異を問うに暇あらんや。」といい,或 は「筍くも其の異学の徒を以て之を斥けば,一才士を失わん。豊に惜からずや。」(修史 始末巻之上)といつて,天下の人材は派閥にとらわれず採用したのである。「寛文五年乙 己,公三十八歳。秋八月,舜水を聴して師と為し,学を講ずる道を問い,自ら弟子の礼を 執り,終始解らす。」 (義公年譜)とあるように,舜水を遠く長崎から招き,これに師事 したのが公の38才の時であり,舜水の66才の時であるから,学問的に円熟した舜水の感化 を受けたことも明らかである。舜水は学派的には朱子学派的傾向ではあつたが,義公は学 派にとらわれることがなかつた。
かくの如く,諸学者が学派学閥を超越して日本史の究明に精進したところに,既に大日 本史という大編集事業の基盤が築かれたのである。また義公が修史事業完成という大目的 のもとに,異学の徒の学説をも抱容したところに,既に水戸政教学への発展の基盤が培わ れたのである。清水正健が,「寛永5年,人見卜幽・儒者を以て,来任して以降。儒生文 人接踵して至る。義公襲封。彰考修史館を開くや,四方の学士相率いて来会し燥乎たり,
燦然たり,遂に東方の文府となる。其人。皆土著にあらず。師を異にし。学を殊にし。互
樫村:教育史上における水戸藩彰考館の意義 11
に協和し得べからざるが如くに見えて。其の実は。悉く皆公の典型に入。専心一意。努め
α7)
て止まず。他を顧るの逞あらざるを以て。乖離反目の憂,絶えて無かりしが如し。」とい つている如く,彰考館第一期の活発な修史活動は,義公を中心とするかかる学者たちの協 力態勢にあつた。
・ また水戸藩が全国から有為の学者を招聰し,これらの人々をして修史事業に精進させ得 たことは,義公の学者に対する尊信の態度にあつたこともみのがしてはならない。当時学 者は武士の待遇が与えられず,剃髪,僧服をつけるのがつねであつたが,義公は,「学問 は君子のこと,儒者の私業にあらず。」として延宝4年旧習を改め,畜髪初服を許すこと にしたのである。湯島聖堂の林家は,江戸幕府初期における文教の功労者であつたが,祝 髪縫抜で法印の官を受けていたが,後に大学頭に任ぜられ,武士と同等の待遇を受けるこ
とになつたが,これも義公の建言によるものという。
さらに,彰考館においてはつねに学者の自主的研究を認め,十分研究討議を行わせ,
「筍くも探究精択するに非ずんば,則ち棘く用を為し難し。」という態度をとつている。たやす
安積覚の大日本史論賛や,三宅組明の大日本史論賛駁語などの出た所以も,かかる研究態 度からである。寛文12年につくられた史館警のうちにも「文を論じ事を考え,各々当に力 を娼すぺし。若し他の駁する所あらば,則ち虚心之を議し,独見に執する勿れ。」として,
あくまで独断を戒めているが,これがおのずから大日本史編集に実証性や科学性をもたし めることになつたのである。
以上のような館員の研究態度は,他方史館講鑓への発展となつた。史館において館員た ちが自己研修として日時を定めて経書の講釈を行うかたわら,藩の子弟に対しても経書の 講釈を行つているが,これらの点は修史事業の活動の側面として,みのがされている。史 館識奎には身分の軽いもの,或はよそ者といわれるものも聴聞が許されており,また初心 者には,とくに理解し易い講釈を行わしめているところなど,まさに一つの教育機関でも
あつた。
一,寛文十二年壬子五月より史館(彰考館)にて一ケ月六度経書の講釈始り申候。毎月 三七の日申の上刻より始め御家中軽き者迄聴聞被仰付候。又者たりとも袴着用し来り候分
は史館へ入れ聴聞為致候様にと被仰付候。
一,江戸史館にて寛文年中より打続き勤来候月次経書の講釈初心の者もよく承り届け候 様に随分細密に為申聞候様に史館勤の面々へ申渡し候様にと貞享二年丑四月朔日被仰出
候。
江戸にて講釈の覚
一,史館月次 編修勤の族順番に勤γ之
12 茨城大学教育学部紀要第十一号
一,御前月次 史館総裁勤レ之
一,御次月次 編修勤の族順番に勤レ之 一,御次読書指南 編修勤の族順番に勤レ之
ものかき ⑱ 物書の内学力有之者も「常上下」御免にて次々出勤レ之
義公が太田郷西山に隠居されたのは元緑4年5月であるが,その後義公はさらに太田馬 ,
⑲
場に講笹を開いて,地方民衆の啓蒙に尽力されているのである。史館が水戸に移されてか ら,江戸の講釈はおのずから衰微したが,「史館水戸へ御引被成候に付御家中聴聞之講釈 一松又之進一人に相成申候如何可仕哉と伺候処左候は窟一・ケ月六度之御講釈二度に可仕由 若病気等候は軍閾に可致申由場所は史館にて講釈可致由被仰付候事」とあり,江戸にあつ ても,僅かながら講釈が継続されていたようである。
義公によつて開かれた史館講釈は粛公においても,相当力を注いだらしく,彰考館総目 録をつくつた大串元善もその序文のうちに「羽林大君閣下,治を励み政を初め,経麺の講 頻りに開く。英材を教育し,絃諦を近侍に督し,維れ夙志を成す。」と述ぺており,また 享保元年申八月廿九日の書状には「史館講釈致方能しく候ゆへ聴聞の者段々相加り候由達 高聞御本望被為思召此以後精出し説聞せ可申由」とある。史館に開かれたこの講釈は以 後「史館講釈勤」として継承され,館員の重要な研修の機会となつたのである。
⑳
水戸紀年によれば,第6代文公時代において「享和三年十一月二十四日今日布衣以上の 長子次男史館に於て講釈或は素読吟味の命あり大場弥衛門・立原翠軒をして聴かしむ。」と あり,或は第7代武公の時代において「文化八月正月士人の子弟史館に入て講釈,素読,
考試の命あり総裁之を司る。執政,参政,監察等席に臨むべき命あり。」とあり,史館が 単に編集所のみでなく,一種の学問所であり,教育所であつたことが明らかである。
彰考館第一期は,既に述べたように修史活動においても,学問研究においても極めて活 発で,その成果もみるべきものがあつたが,人見伝・佐々宗淳・中村顧言・鵜飼真昌・栗 山 ・安積覚・酒泉弘ら相次いで残するに及び,館内次第に人材に乏しく,沈滞期といわ れる第二期を迎えることになつたのである。第6代文公時代に入り,立原萬・藤田一一正ら が出で,文公を援けて彰考館の修史活動を復活させることになり,ここに再生期ともいう 〆 ラき第三期を迎えることになつたのである。
しかし,第三期の彰考館は大日本史編集方針を中心として,派閥反目の憂が次第に濃厚 となり,清水正健が,「文武二公の世に至りては。他来の学人。漸く跡を絶ち。本土の供 学。褒然蔚起して,一時隆盛を極めたれど。互に相輯睦すべくして。輯睦の実を見る能は ず。却て議論紛興。彼我相和せざるもの有りしが如し。」といつているように,水戸藩内 証抗争の因が館員たちによつてつくられることになつたQ
樫村:教育史上における水戸藩彰考館の意義 13
第四期烈公時代は水戸藩において,最も人材を輩出した時代であり,従つて学問研究も 最も旺盛を極め,いわゆる水戸学を完成した時代である。烈公が襲封後彰考館に臨んで,
家の風今も薫りの尽きぬにぞ文好む木の盛り知らるる
と,わが藩風としての好学精神の旺盛をたたえたように,烈公を中心として立原萬・藤田 一正・同彪・会沢安・豊田亮・青山延干・同延光。国友尚克・松山忠亮などの人材が続出 幕末の学界に異彩を放つたのである。水戸藩の学風が遠く九州方面にまで及んだことは,
横井小楠が藩匠田中元勝を水戸藩に推薦したことなどによつてもその一端が伺われる。こ の書簡は嘉永3年6月19日小楠が熊本にあつて,藤田彪に送つたもので,その終りに次の
ようなことを述ぺている。「藩匠田中元勝と申もの近年征西将軍の御事蹟を考究仕御伝を書 認申候右元勝本朝の事には博相渉り且又考証に長じ申候上此吟味十年来之日月を懸け申候 間随分行届候様に奉存候是又御用に被為在候はばさし出可申候十年余来之心事千緒萬端言 上仕度候へ共一旦に尽し得不申此節は先前条心底之表白迄呈上仕候何分奉期後鴻候頓首。」
しかし,烈公時代における史館の学者は,義公時代のそれと異なり,全く水戸藩出身者 をもつてかためられ,しかも,立原派,藤田派のいずれかに属するものであつたから,お のずから派閥的対立を激化させる結果となつたのであるQ
立 原 (翠 軒) 派 立 原 杏 所 一 立 原 百 里 藤 田 幽 谷
桜 井 龍 渕 藤 田 北 郭
小宮山楓軒一媒山驚
吉 田 愚 谷 岡 野 蓬 原
友 部 松 里 一 友 部 忍 虚 一 友 部 鉄 軒
木 村 礼 斉
S 司 筑 海 青岬弦一o鎧鷺
佐 藤松渓
青山拙斎 u佐妹柳苓_佐妹香窓
[青山鉄槍
ノ
14 茨城大学教育学部紀要 第十一号
藤 田 (幽 谷)派 蜘東湖_/鶴東舞 t原伍軒_
綿 引 東 海 栗 田 勤 豊 田 小 香
清 水 正 健 豊 田 天 功 一
栗 田 栗 里 一 菊 池 仙 湖
鵬墜モ) (鋪周行)
岡 崎 枕 陰
塩 沢 昌 貞 吉 田 活 堂 一 吉 田 瑛 堂
雨 谷 毅 杉 山 復 堂 (古賀精里ニモ師事ス)
飛 田 逸 民 (太田錦城ニモ師事ス)
秋 山 静 正 (高橋坦室ニセ師事ス)
大 竹 雲 夢 一 吉 成 南 園
国 友 善 苓 高 橋 抽 門 会 沢 璋
(高橋坦室ニモ師事ス)
茅 根 寒 緑(国友善電ニモ師事ス)
ム 沢 士 斉ム ♂巳、 寺 門 謹 内 藤 碧 海 石 河 明 善
(高須芳次郎著水戸学徒列伝による)
烈公時代は幕末の世相騒然たる際であつたから,修史事業はやや不振を呈し,:豊田亮の 如きは「中興新書」を草してこれを烈公に送り「日本史は必ず完成せざるぺからず。これ 先君義公,畢生精力の存する所,大義の著はるる所なり。」と,勧言しているのである。
烈公襲封当時は,派閥ようやく膏盲に入り,大改革の必要に迫られていたから,烈公は 天保元年正月「文武は武士の大道にて人々出精可致事依之時々不相達候精不精は追て可及 沙汰候条以来左様可存事」という文武奨励の諭書を発している。また以上の諭書と相並ん で,次のような書状を家老に申し伝えて,講釈に対する精励を一段と強化しているのであ
る。
「是迄毎月於舜水堂二七の定日には館中の者講番に当り罷出家中一統は全く聴候のみに 候へは自ら講釈致候程には有之間敷候依ては二七の外にて一月に三度つつ何日にても定日 に立置右の内二度舜水堂にても史館にても宜候間家中は誰にても罷出順講致候者には為仕 候様i可申付候
樫村:教育史上における水戸藩彰考館の意義 ⊥5
扱又右の内一日は総裁初史館之者にて順講為致是又家中一統の内誰にても承り度と存候 人には為承可申候讐へは八月廿八日は家中の者順講(但し家中の者順講の節には館中の者 出席有之候と申誤候事も有之候はは教可申候事)十八日は総裁より初館中者の順講致家中
21}
誰にても承り度者は罷出候事」
烈公は藩政の改革をまず文武奨励に求め,弘道館を開く以前において義公以来の史館講 釈勤を一段と強化しているのであつて,これらの事が前提となつて,遂に天保12年弘道館 の開館をみるに至つたものである。従つて,彰考館という歴史的背景なくしては,かかる 大規模の学園も実現されなかつたかもしれないのである。この点について栗田勤も「義公 が斯の如き大見識,大抱負を以て,天下万世の鑑とも云ふべき大日本史を作られた其精神 を受けて子々孫々十一世二百年間受継いで来た所の旧水戸藩の其学問文章は烈公の時に弘
囲 道館と云うものを建てて,此教の精神に於て,最も立派に発揮されたのであります。」と 述べている。
弘道館が開かれた後も史館はそのまま継続され,藤田彪・会沢安・川口長嬬・松山忠亮
・青山延光・豊田亮らが総裁となつて,修史事業を続けてはいたが,藩の主力は弘道館に 注がれていたから,その完成をみることができなかつた。従つて幕末の水戸藩にあつては 編集機関としての彰考館と,教育機関としての弘道館が並存することになつたのである。
遺憾ながら模範的藩校とされた弘道館は,勤王派,佐幕派の乱闘の犠牲となつて,明治 戊辰10月兵翼にかかつて大部分を焼失したため,僅かに20数年の歴史をもつて終止符をう つことになつたのであるが,これに対し,彰考館はよくこの二派の乱闘をのり越えて,修 史事業を継続することができたのであるが,これは一に水戸藩の伝統精神の然らしめたも
のといわざるを得ない。
さらに,彰考館がつねに学問所的性格を維持し,館僚たちの学識を十分に発揮させてき たことが,文庫に残る彼等の多くの著述のうちに伺うことができるのである。最後の彰考 館員の一人であつた清水正健も,「水藩大日本史の成る。皆此の輩の同心協力。羅勉奮励 する所。余力濫れて公撰の外に及び。私に著述を企つる者。亦甚だ多し。其の汗中充棟。
五車載する能はず。言或は経義に及び。或は史談に入り。或は雑説に渉り。或は発して詩 歌文章となれり。」(増補水戸の文籍)と,彼等の著述の多いことを汗中充棟,五車載する 能わずと形容し,また彼等の学識が経書,史談,雑説,詩歌文章等広汎にわたつているこ
圏
とを賞讃しているように,これらはまた彰考館の一大特色といわなければならない。
4 文庫としての彰考館
彰考館における修史事業はいくたの波瀾曲折を経て明治39年(1906年)完了をみたの
16 茨城大学教育学部紀要第十一号
で,その後は専ら文庫として存在することになり,とくに明治天皇,皇后両陛下より,彰図 考館蔵書保存のための補助金として壱万三千円の御下賜金を賜つたので,明治45年これを 記念して常磐神社境内に文庫を新設し,これを「彰考館文庫」と命名した。
彰考館は本来修史事業を目的とした水戸藩の一史局で文庫そのものの設置が目的ではな かつたが,修史事業と関連して,おのずから文庫を成立させる結果となり,現在において は全く文庫としてその意義を留めることになつた。武居権内氏は近世文庫成立の形態とし て (1)稀書の尊重と保存のため ②学問研究のため (3)編集事業のため ㈱藩の教育のた めの四つの形態をあげているが,この点からみれば,当史館は第三類型に当るものであ圏
る。徳川親藩としての水戸・尾張・紀伊の三藩においては,徳川家康の遺命によつて紅葉
㈱
山文庫から蔵書の分譲を受け,はやく文庫の設立をみたのであるが,水戸藩の場合は他の 二藩とは立場を異にし,日本史編集の手段として文庫を充実発展せしめたものである。
「修史の挙は誠に当代の盛事たり然れども六史より而下載籍備はらず,考拠に資する無 し。又史筆の才に乏し。恐らくは其の成功を保ち難からん。」 (修史始末巻之上)といわ れたように,修史事業は一藩の事業として,その成功を期することは容易でなかつた。当 時日本史編集上の難点として,次の三点があげられた。第一は当時編集されている書籍の 内容は,事実を掩蔽委曲したものが多く,真偽,正邪,曲直を弁明しがたいこと。第二は 戦乱の影響をうけて実録として徴すぺきすぺき資料が乏しいこと。第三は世の変遷に伴 い,長年月にわたる典礼格式の変化推移が不明になつていることなどであつた。
これらの事情から,藩の修史宴業は先づ資料の蒐集から発足しなければならなかつた。
従つて彰考館第一期の活動動は,専ら資料蒐集に力が注がれたのである。義公は史館に招 聰した吉弘元常・佐々宗淳・丸山可澄・大串元善・鵜飼真昌らを四方に遣わし,各藩の了 解と協力を求めながら,散逸或は秘蔵の古書旧記などを捜索蒐集させたのである。彰考館
㈲ 修史事業の裏にはかかる人々の資料蒐集の労苦をみのがしてはならない。
元緑元年にはとくに大串元善を京都内府のもとに遣わし,時の内府藤原公規公(菊亭公)
に書を送り「抜書一巻,謹みて台覧に備ふ。是れ皆世間に無き所なり。某壮歳より発憤志 を立て,本朝の史記を編修せんと欲し,毎に載籍備はらざるに苦しむ。別目に録する所,
皆以て史記の考証に資すぺきもの。若し官庫此の書を蔵するあらば,翼くは公,其の為に 奏請し,借覧を允すを得ん。至願に堪えず。」と,日本史編集の熱意を披歴して,朝廷の 書庫に秘蔵する書籍をも,借覧の申出でをしているなど,資料蒐集の努力と熱意のほどが 伺われるのである。このように彰考館の蔵書は単に文庫として多くの資料を蒐集したもの
ではなく,あくまで日本史編集を目的とした資料蒐集であつたから,学術的価値において 当時の一般文庫と異なるものがあつた。
樫村:教育史上における水戸藩彰考館の意義 17
斉藤徳寛は義公の資料蒐集について,「公若き御時より学問を御好成され夫に付高貴の 〜
御方へは申に及はず下賎の者迄も稀なる書籍所持の聞へ有れは或は金銀を尽して求め玉ひ r隔
又御家士を彼方此方へ遠国他郷へ遣はされ(多くは佐々介三郎を遣はされ候)二半紙へ一行 の反古迄も捨てさせ給はす去るに依つて和漢の珍敷書物共数多く集り候。」 (斉藤徳寛著 西山偉績天)と,その苦心努力をたたえている。
かかる努力によつて蒐集された文献資料が第3代粛公時代大串元善(雪瀾)によつて整 理分類され,初めて「彰考館総目録」がつくられ,文庫としての体裁を整えることになつ
た。当時はまだ図書分類法に対する研究乏しく,一般に支那の経・史・子・集の四分類法 によつていたが,元善はこれに創意を加え,十二部八部の分類法を以つて整理した。清水 正健はこれについて,「宋元明清亦大差あることなしと云へば。本朝の書目。亦宜しく之 に微ふべきが如し。然りと雛も。東西邦を異にし彼此俗を殊にするを以て。其の述作の 書。亦異同なき能はず。故に経史子集の目悉く之に微ふを得ず。大串雪瀾の公命を受くる や。参考斜酌損益折衷して。更に新意を構へ。十二部八部の目を立てて。内外の群籍を類 別せり。」 (増補水戸の文籍付録)と,十二支,八卦を号とし,十二部,八部の分類法を 創意した元善の功をたたえているが,これらの点も,わが国文庫史上注目して然るぺきも のと思われる。
彰考館総目録は三冊よりなり,第一,第二冊は「彰考館和書目録」で,わが国の典籍の みをまとめたもので十二支を以つて号とした。第三冊は「彰考館漢書目録」で,漢土の典 籍からなり,八卦を以つて号とした。
彰考館最初の図書分類を試みた大串元善は,その目録序文に「善命を奉じて解らず,購 勉力を娼して休す。任を受けて当らず,冒昧意に率いて断ず。離合劇改し,気類相求む。
本より異同を尽くし,重複尽く去る。胸中元より藻鑑に乏しく,心地殊に精微を射す。唯 剖折明らかならず,或は混渚弁ずる無きを致さんことを恐る。」と述べているように,総 目録の作製には相当苦心をされたことは明らかである。
天明7年(1787年)7月2日文公の時江戸藩邸が火災にあつたが,幸にも書庫はこの災 厄をまぬかれ,貴重な蔵書を保存することができた。これらのことから史館蔵書の保管法 が,しばしば館僚間に問題となり,文化元年水館の蔵書をも江戸に移し,とくに江戸藩邸 の一隅に書庫を新設して,保管を厳にすることとなつた。その後文政10年哀公の時,また
また江戸藩邸が火災にかかつたのであつたが,幸にも青山延干の建言によつて,史館を後 楽園邸内に移した後のことであつたため,この災禍をまぬかれた。これについて,哀公は 深く延干の先見の明を賞讃したという。「これより先,青山延干建議して日く,国史創厭 己に成るもの庫中に蔵するものあらず。若し災に罹らば,これを如何に,有司その迂を笑
18 茨城大学教育学部紀要第十一号
ふ延子累りに請うて已まず,有司これを許す。乃ち庫を後楽園の側に建て,悉く遷し畢 る。既にしてこの災あり,執政手を拍つて曰く,何ぞ神なるや。哀公日く,国史災を免れ たるは,延干の功なりと。」(水藩修史事略)以上の一点からみても明らかであるよう に,書籍の重要性という点などについては有司と,館僚との間には見解の相異があつた。
これらの事情から文政12年8月には彰考館の新築なつて修史事業を継続することができ
た。
烈公は義公に次いで学問を尊重した藩主であつたから,自らの室号を以て命名した潜龍 閣文庫というものを設け,これに対し,「潜龍閣蔵書目録」をつくらせた。当目録は彰考 館目録とはやや分類を異にし,十干を以て号とし十部の分類法によつた。この潜龍閣文庫 には,とくに小山田本と称するものが加えられているが,これは館員の一人であり,しか
も蔵書家として有名な小山田興清が,その遺言によつて烈公に献じたもので,その蔵書は圏
約二万巻に及び,当文庫はこれがために,とくに設けられたものである。
廃藩置県に伴つて彰考館の位置も転々と移動したのであるが,明治45年常磐神社境内に 文庫の新築をみて,昭和20年8月の戦火を受けるまで存置したのである。本館の蔵書は長 年月にわたつて蒐集されたものであり,しかも江館,水館の二館に分置されていた関係 上,さらには修史事業が継続され,その文献資料が絶えず活用されていたため,総合され た目録もなく,彰考館総目録・彰考館函次目録・尚古閣蔵書目録・潜竜閣蔵書目録・同函 次目録・同類字書目,江館書目・御下本目録など,時に応じてさまざまの目録がつくら れ,不統一のままに保管されてきたが,たまたま大正7年に至つて,一応総合的目録の完 成をみた。しかし,当目録は殆んど元録時代大串元善によつてたてられた分類法によつた
もので,大正版目録の凡例の中にも,「凡本館図書,元修史の資料として蒐集し,従て其 書目の如き,一に自家編史の用に供せしのみ,故に分類係属の如き,体裁名称の如き一般 の図書目録と梢々其趣を異にするものあり,今之を刊行するに当ても,亦旧観を改めず,
其の旧体に拠れり。」と記るされている。
また清水正健もこの目録を評して,「各種目に分れたるを総合して。一書とせしものな れば。捜索に便なるは。言ふまでもなけれど。学術なき事務員等の集録なれば。亦止むを 得ずとして。其の誤れるものは。姑く瞑目通過せられむことを要す。」といつているよう に,本館の蔵書約七万冊は,文庫としては不完全なままに保存されてきたのである。しか し,本館蔵書の特色はその約3分の2が写本であつて,著者,発行年月日の不明なものが 多く,整理に困難であつたことは事実である。
かように,写本の多かつた点をみても,「朝廷の古実を我独り伝へて家業の資とせんや
すむし ヤ マ
スは又奇書を貯へたる名を誇らんと企んや果は轟魚に損せられ設字の故図となり或は火災
樫村:教育史上における水戸藩彰考館の意義 19
に依りて一時に烏有とならん。去れは往古の書籍奇聞依之滅し今世に伝はらさる事多し悲 しむに堪へたり。関東関西に蔵を置くならば一方は滅するとも一方は伝はるへき事なり。」
(斉藤徳寛著西山偉績天)という義公の古文書蒐集の意図が伺われるのである。
注
(1〕戦災後水戸市見川町徳川邸倉庫が仮彰考館文庫となつていたが,当所に目下新築中故,文庫と して公開される日も近いはずである。
② 第三代粛公の大日本史序に,義公が修史の志をたてた所以が述べられている。
〔3)石川謙著日本学校史の研究には藩学の発達に四種の類型があげられているが,弘道館は綜合学 園型としてとりあげられている。263頁,498頁参照。
㈲⑤ この時の水館,江館の平面図は,栗田勤著水藩修史事略にのつている。
㈲ 笠井助治著近世藩校の綜合的研究第一節藩校の創設参照。
(7)大日本史叙は大日本史紀伝刻本を朝廷に献上するに当つて,彰考館総裁大井広が武公の命によ り稿した序文である。
(8)雨谷毅著 彰考館総裁略伝(藩主,総裁,史員一覧表)参照。
⑨ 当屋敷は第一代威公が三代将軍家光より賜つたもので,義公の時造園して後楽園と命名した が,名称は朱舜水の撰んだものてある。
一
糾ル名は春秋左伝集解晋の杜預の序にある「若夫制作之文,所以章住蔑来・情見一乎辞ノ言 一 _ レ し 一 二
高則旨遠,辞約則義微,此理之常,非隠之也」からとつたもので,義公自ら扁額を親書して館
1! 1!
に掲げた。
鋤 無名居士著 立原両先生12頁参照,立原・藤田の両派に対し,立原派の立場が弁護されている。
働安積覚が粛公の命により修撰したもので一種の人物評論ともいうべきものに当る・成公が享 保5年幕府に献じた大日本史は論讐を付したものである。
⑬ 藤田一正の四不可論は「岡崎正忠撰修史復古紀略」にのつている。
図 青山鉄槍集(彰考館総裁会沢先生に与ふるの書)
㈲ 松岡文鈴(烈公に上り修史を論ずるの書)
㈲釈葵は菜を供え幣をおいで祭るの儀で礼記王制の註に「釈菜莫幣礼先師」とあり,後漢 レ 1! _ 一
以降は主として孔子及びその門人を祭るの称となり,江戸時代儒学の興隆に伴い,藩校教育にお ける重要な行事となつた。
αの 清水正健著 増補水戸の文籍叙言参照。
㈱ 雨谷毅著水戸藩の社会教育参照。
㈲ 水戸光囲正伝義公行実参照。
⑳水戸紀年は石川慎斉の記述したもので,威公以来武公に至るまで凡そ200年にわたる水戸藩 の重要事項を集録したもの。
⑳ 名越漠然著 水戸弘道館大観第三章建学の由来参照。
囲 水戸学講話の栗田勤述水戸学本義83頁。
⑳ 彰考館員の著述については,清水正健著 増補水戸の文籍,高須芳次郎著 水戸学徒列伝,西 村文則著 改訂増補水戸学入門等参照。
図 藤田一正撰修史始末上下巻,岡崎忠正撰修史復古紀略,川口長儒撰史館記事,栗田勤著水藩修 史事略等には,史館の変遷が年次的に詳細記述されている。
飼 武内権内著 日本図書館学史序説。第二章第三節近世文庫の形態参照。
㈱ 小野則秋著 日本文庫史第四章第二節家康の図書政策と親藩の文庫参照。