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ムンダ語もその前段階が

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(1)

『人文コミュニケーション学科論集』9, pp. 85-115. © 2010

茨城大学人文学部(人文学部紀要)

藤井 文男

「はじめに」

 ナグリ方言に限らず,現代ムンダ語に於ける文表現では一般に,

“agreement” とか “con- cordance” と呼ばれる,「主語」とそれに呼応する動詞定形の間で特定の形態素による,いわ

ゆる「文法上の

“一致”」が観察され,その厳格さにモン語やクメール語など,

他のオース トロ・アジア語族のメンバーとの著しい対比を見せつけられる。1)

ムンダ語もその前段階が

系統的にはモン・クメール諸語で一般的なように,そうした “agreement” を欠く,より孤立 語的特性の強い言語だったと仮定すると,この言語はその歴史的発展の何れかの段階で,何 らかの要因によってこの現象を後天的に獲得したことになるが,その要因を特定して当該プ ロセスを白日の下に晒す作業は当然ながら,そう容易いものではない。2)

それにしても,ム

ンダ語に於ける “agreement” はいわゆる “Subject Agreement” のみならず “Object Agreement”

まで

“完備”

していて,上でも暗示したようにその徹底した運用は厳格を極める。要するに,

この現象はムンダ語文法の骨格部分を占める,極めて重要な要素となっている,と理解しな ければならないわけだ(cf. 藤井 2008; 2009)。3)

 しかしながら,現代ムンダ語の,この agreement 現象は,重要な局面に於いてその適用を 完全に止揚することが知られている。その時,動詞定形は

“主語”(もしくは “主格”)をマー

クする人称語尾を欠き,4)

実際,「主語」と解釈される名詞表現自体が当該文中に現われない

のである。そうした構文が持つ文法的機能はさておき,形態的側面だけに着目して言えば,

この現象はまさしく,現代英語では既に消滅してしまったものの,5)

同じゲルマン系言語のひ

とつであるドイツ語では現代語でも今だに保持されている,いわゆる「非人称表現」と呼ば れる構文を示すものに他ならない。6)

本稿の目的は,第一義的には現代ムンダ語ナグリ方言

に於ける「非人称表現」の実態をその形態的特質および当該文法のカテゴリーの構造上の位 置付けを明らかにすることにある。

 以下で詳しく見ていくように,現代ムンダ語ナグリ方言に於ける非人称表現の,機能上,

典型的な特質は,対立する人称表現が多くの場合,主語として機能する

(名詞)

表現の指示 対象の「属性」を描写するのに対し,対応する非人称表現の方は表出する命題をひとつの

“event” として叙述する点にある。「属性」の描写は一般に,

主に形容詞的表現との親和性が

認められるが,対立する「イベント」の描写は多分に

“アクション”

が中核となることが多 いのが特徴だ。要するに,非人称表現はその意味では「典型的動詞構文」ということになる

(2)

のである。結局,両者の対立は「形容詞構文」

vs. 「動詞構文」の文法上の機能分布に帰せら

れることが基本,と考えられるわけだ。

 しかしながら,特定の個別言語に於ける「品詞区分」を文法上,体系的に明らかにする作 業は,実はさほど簡単な営みではない。個別言語の文法体系を明らかにしようとする研究者 にとっては正に「古くて新しい問題」となるわけだが,「形容詞」「動詞」共に繋辞を用いる ことなく,文表現の述語として機能させることのできる,ムンダ語を含むアジアの諸言語に 於いて,このことは殊の外,やっかいな作業を余儀なくされる。つまり本稿では必然的に,

ムンダ語の「動詞」

vs. 「形容詞」の品詞的対立について,少なくとも「非人称表現」の実態

解明に必要な視点については前もって明らかにしておかなければならないわけだ。

 この両者の distribution で大きく異なるのが,いわゆる「未来時制」に於ける挙動である。

具体的には,形容詞に関してのみ「現在時制」と「未来時制」の対立が認められるのに対し,

動詞表現はこの対立を示さないのである。こうした言語事実は,非人称表現の問題とどのよ うに関わってくるのだろうか? 本稿ではまず,現代ムンダ語ナグリ方言に於ける,文法のカ テゴリーとしての「時制」を概観することを通し,“品詞” としての形容詞がこの言語内で 体系的に担う基本的機能を「対象の

“現状”

の描写」であることを確認し,つまり「現在形 に特化した品詞」であることを理解した上で,その他の時制に関しては独自の叙述能力を持 たないことから何らかの助動詞的表現の力を借りること,実質的には

“動詞化”

されて初め て述語的機能を担えることを明らかにする。

 この認識をベースにして我々は「非人称表現」の語用論的機能の解明に取り組むことにな るが,結論的にそれは,上でも暗示したように人称表現との対比をある種の discourse func-

tion として理解することになるはずである。第一義的には,非人称表現はいわゆる「主語な

し文」の叙述に資する点にその存在意義があるのである。文字通り,実質的に「主語を欠く 文」なのだから,主語との agreement を構成する人称語尾も欠落しても一向におかしくはな いわけだ。

 こうした,一種の defectiveness が許容される言語体系の実態をどう評価するか? 本稿では,

ムンダ語の構造原則の基本は “animacy” に拠っている,との見方を提案したい。そもそも,

ムンダ語の “agreement” の現象全体が,それが “subject agreement” であれ “object agreement”

であれ,いずれも “animacy” にコントロールされていることは周知の事実である。要するに,

主語や目的語として機能し得る名詞表現は,

[+ animate] が担保されて初めて,文表現の陳述

対象たる “term” としての位置付けを与えられるのである。これを欠く [– animate] の名詞表 現はいくら重なっても,全体としては comment を構成するだけで自ら陳述の対象,つまり

「主題」として機能することはできないのではないか? 「非人称表現」とは結局,“animacy”

が賦与されている名詞表現に関し,これを文法的に “inanimatise” するメカニズムなのでは ないか,と考えるのである。

 言うまでもなく,「記号の恣意性」に基づく体系性を示す個別言語 (cf. Saussure 1916) は,

(3)

基本的には個々の体系がそれぞれ独立した機能性(「言語の相対性」,cf. Whorf 1956)を保 持しながらも,現実にはその語彙や文法のカテゴリーの如何を問わず,かなりの精度での実 質的な相互翻訳 (cf. Quine 1960) も可能であることを我々は経験的に認識している。しかし ながら,具体的に例えば,同じ命題を表出するにしても,描写対象をある特定の「人物の属 性」として表現するか,あるいはそうした接点を明示せずに単なる「イベント」として描写 するのかを文法的に区分するに際し,その判断基準に “animacy” を置く言語とそうしない言 語との間では,言語による

“現実世界の捉え方”

にはやはり,自ずと違いがあるのではない か? ムンダ語に於ける「非人称表現」の実態を明らかにすることで,本稿をそうした意味で の「言語の相対性」に迫るための基盤構築の一助としたい。

1.

私の「フィールド・ノート」から

:

確かに表出される“命題”自体に違いはないが

...

インフォーマント・インタビューを中核とする,いわゆる「フィールドワーク」の手法に基 づいて特定の自然言語の実態を明らかにしようとすると,本稿が対象とするムンダ語のよう に,いわゆる

“単語”

が細かい形態的交替を繰り返す言語が対象の場合,研究者は調査の初 期段階ではかなりの苦労を強いられることになるのが常だ。例えば具体的に,述語動詞の形 態的特性を明らかにしようとしても,「述語」として動詞定形を構成する形態素には実に様々 な文法のカテゴリーをマークするものが存在し,「定形」が形態論的に如何なる

“スロット”

を有するものなのか自体がそう簡単に特定できないからである。しかもムンダ語の場合,少 なくとも動詞構造は膠着語的な特性を有し,動詞定形もマークする文法のカテゴリーを積み 上げ式に増加させることさえ可能である。7)

 ひと度,動詞の基本構造が明らかになったとしても,次には「同じ

“命題”

を表出するに も複数の表現方法が存在する」という,単に表現形式だけの操作では事足りない作業が待ち 受けている。もちろん,それは言語データの記述では基本中の基本の作業なのだが,本稿で 取り上げる「人称表現」

vs. 「非人称表現」の文法的対立も,そうした文法のカテゴリーを母

語に持たない研究者にとっては頭の痛い問題を突き付けてくることになる。

1.1.

「非人称表現」の形態的特質  次に掲げる (1a-b) の例文はどちらも,意訳すれば簡単 には ‘Mangra will be ill tomorrow’ と表わされる,共通の命題を表出する,一見,単純な未来 時制による構文である:

(4)

(1) a. Mangra gapa urui -o -a -e. (cf. 1b, 2a-b) Mangra tomorrow ill -itr -ind -3sg/sbj

b. Mangra -ke gapa urui -y -a - φ (cf. 1a, 2a-b) Mangra -obj tomorrow ill -3sg/obj -ind -sbj

‘Mangra will be ill tomorrow. ’

違いは取りあえず動詞定形の構造に見て取れるが,意味論的な機能上の対立は動詞語幹に続 く -o vs. -i

/- y に集約されている。要するに,表出される命題の枠組み上, urui- という語幹が

同様に「病気」を意味しながらも,(1a) の urui-o が「発症する」という風に自動詞的に用い られるのに対し,(1b) の urui-y の方は -i

/ -y が三人称単数をマークする object agreement の接

8)

であることからも判るように,構文上,他動詞構造を示しているのだ。

9)

にも拘わらず,

それが意訳上,何故 ‘Mangra will be ill tomorrow’ となるのか?

 (1a) と (1b) の syntactical な差異は,動詞定形の形態論的屈折の違いより寧ろ構文上の con-

stellation にある: すなわち, (1a) の動詞定形 urui-o-a-e が主語である Mangra との文法的一致

を示す人称表現であるのに対し,

(1b) の定形動詞 urui-y-a- φ は直説法のマーカーである -a

に続く人称語尾を完全に欠き,

“Subject Agreement” が止揚されている。

10)

つまり, (1b) はそ

の意味で,いわゆる「主語なし文」なのだ。ではこの文で,

(1a) の場合と同様,文頭に立つ

Mangra(-ke) の文法的位置付けはどうなっているのか?

また,他動詞的に用いられ,目的語

が三人称単数であることをマークする -i/

-y は具体的にどの表現を指し示しているのか?

実は,

この接辞に呼応しているのが,

(1b) の文頭にある Mangra(-ke) なのだ。

 上で述べたことからも窺えるように,

(1b) に於いて Mangra(-ke) は (1a) の場合と異なり,

「主語」としては機能していない。そのことは,この名詞表現が -ke という接尾辞をとって

文法的には「目的語」として位置づけられていることからも判るが,11)

何よりも動詞定形が

“Subject Agreement” を表示する人称語尾をとらならことが動かぬ証拠だ。そして逆に,動詞

語幹 urui- に続く -i/

-y がこの名詞表現との一致を示すことを “目的語マーカー”

である -ke の存在が如実に物語っているのである。12)

1.2.

他動詞構造に於ける「非人称表現」  このように,ムンダ語に於いて文表現中,動詞定 形が人称語尾を示さない構文のことを本稿では「非人称表現」と呼ぶことにする。もちろん,

上でも記しているように,狭義の動詞定形が人称語尾を表示しないだけでなく,何れの文要 素も agreement marker の “floating affixes” をとらないことが非人称表現の条件になるが,こ の条件を満たす構文は上の (1a-b) のような,一般には語彙的に

“自動詞”

として捉えられ,

且つ実際にも文要素としてたったひとつだけの名詞表現しか含まないような文だけでなく,

動詞表現が語彙的にも他動詞的なものも同様に存在する:

(5)

(2) a. Mangra Somri-ke dulzarz -i -a -e.

13)

(cf. 2b, 1a)

Mangra Somri -obj love -3sg/obj -ind -3sg/sbj

‘Mangra loves Somri.’

b. Mangra -ke Somri -loq dulzarz mena -g/q (-a) - φ . (cf. 2a, 1b) Mangra -obj Somri -com love exist -ian -ind -sbj ‘Mangra is in love with Somri.’

c. * Mangra -ke Somri -loq dulzarz mena -i -a - φ . (cf. 2b, 2d-e, 1b) d. * Mangra - φ Somri -loq dulzarz mena -i -a - φ . (cf. 2b-c, 2e, 1b) e. * Mangra - φ Somri -loq dulzarz mena -g/q -a - φ . (cf. 2b-d, 1b)

(2a) の動詞定形が,“Object Agreement” の「三人称単数」をマークする -i と “Subject Agree-

ment” の,やはり「三人称単数」をマークする -e を伴う通常の “人称表現”

であるのに対し,

(2b) の動詞定形 mena-g/ q(-a) はそもそも,強いて言えば inanimate の “主語”

との一致を示

す形態素 -g

/ -q を内包しており,当然ながら文法的一致を示す名詞表現は理論的にも文中に

存在しない。(2b) の場合はすなわち,(1b) で見た “Object Agreement” すら止揚されているの であって,

(1b) と同じく -ke をとる文頭の Mangra も動詞定形とは一切の一致現象から断絶

されているのである。

 当然ながら,

(2b) の mena-g/ q(-a) を人称形の mena-i-a で置き換えた (2c) も,また本来な

ら人称形と一致するはずの,目的格表示 -ke を文頭の Mangra から外した (2d) も文法的に成 り立たない。同様に,

(2d) の動詞定形を当初の mena-g/ q(-a) に戻した (2e) も非文法的であり,

非人称表現としては唯一,

(2b) が可能なことが判る。逆に言えば要するに, (2b) のような非

人称表現にあっては,動詞定形との一致を示さない目的格マーカー -ke の存在こそがその文 法性を支えている,としか判断できないのである。

1.3.

ムンダ語に於ける「非人称表現」への最初のアプローチ  このように,ムンダ語に於け る非人称表現は極めて生産的なことが窺える。「はじめに」でも暗示したように,現代ムン ダ語ナグリ方言に於けるこうした非人称表現の実態を明らかにすることが本稿の第一義的な 目的だが,「人称表現」

vs. 「非人称表現」の対立は意味論的にはどのような差異を体現してい

るのだろうか? 次節では,この点を見極めるための予備的作業として,まずムンダ語に於け る「時制」の概念に焦点を当てた議論を展開することとしたい。

2.

いわゆる「未来時制」について

:

ムンダ語

(Nagri Dialect)

に於ける時制の概念

言語研究に従事する者であっても,母語が「人称表現」

vs. 「非人称表現」の文法的対立を知

(6)

らない場合,上で何度も暗示してきたように,その構造的差違を的確に捉えることはさほど 容易なことではない。また実際,具体的には例えば前節で取り上げた (1a-b) などが示す機能 的差異をインフォーマントに説明させようとしても,それを英語など,非人称表現を文法の カテゴリーとして体系化していない言語による lingua franca で置き換えようとすると,そ の典型的差異はやはり構造的には失われてしまう場合がほとんどだ。それこそ正に「文法の カテゴリー」の神髄であることを裏書きするようなものだが,研究者泣かせであることに違 いはない。

2.1.

「人称表現」

vs.

「非人称表現」

...

その意味論的対立  しかしながら,

(1a-b) に比べれば (2a-b) が示す両者の差異は幾分なりとも意訳の違いに反映されていると考えてもいい。通常

の人称表現である (2a) が ‘Mangra loves Somri’ と理解されるのに対し,

(2b) の非人称表現の

方は ‘Mangra is in love with Somri’ となっていて,こちらはどう考えても主語である Mangra の指示対象が持つ属性もしくは彼の行為に関する陳述だとは理解できないからである。つま

り,

(2b) は Mangra と Somri の関係にのみ焦点を当てていて,

この文表現を発話する話者は

一般に,ある意味で両者から等距離を保っており,二人が恋人関係にあるという,言うなら ば

“客観的な事態”

を描写しているに過ぎない,と考えられるのである。

 対する人称表現の,

(2a) の方は一般にどのような使われ方をするか?

いわゆる “discourse

function” が関わってくるのでもちろん一概には言い切れない部分もあるが,少なくともこ

の文を,聞き手が主語 Mangra の指示対象である Mangra という人物のことを全然,知ら ない状態でいきなり discourse の初っ端に発話することはできまい。つまり,少なくとも

Mangra の存在に関しては聞き手との間に共通理解が成立していて,続く discourse に於いて

彼を陳述の対象とすることができるだけの条件が整っていることが発話の前提となるわけだ。

要するに,

(2a) の Mangra は発話文表現の topic として確立されている,ということである。

2.2.

語彙カテゴリーとしての「形容詞」とその陳述機能  そうした発話表現に典型的に使

われるのが「形容詞」と呼ばれるカテゴリーに属す語彙表現である:

(3) a. Jap. 太郎は

4賢い

。 ( *

太郎が4賢い

。)

b. Jap. 太郎は

4バカだ

。 ( *

太郎が4バカだ

。)

c. Jap. 太郎は

4学生だ

。 ( *

太郎が4学生だ

。)

日本語では,

(3b) のように「形容動詞」と呼ばれる品詞も同じ働きをするが,名詞表現が述

語として機能する,いわゆる「名詞構文」も基本的にはそうした陳述に特化した語彙カテゴ リーだと考えていい (cf. 3c)。14)

 こうした,topic を擁して当該表現の指示対象の持つ

“属性”

について陳述する文表現に

(7)

於いては,日本語は主題 (topic) をマークするのに典型的に〈は〉という副助詞を使うのが 特徴であり,当該コンテクストで同じく「主語」を表示するとされる格助詞の〈が〉を用い た文表現は基本的に許容されない。15)

2.3.

「動詞構文」の典型的談話機能  これに対し,述語に動詞語彙が使われると,事情は

だいぶ変わってくる。一般に,少なくとも形容詞や名詞を述語にした場合に比べると,〈が〉

を伴って無主題で陳述する文表現も発話コンテクストとしてほとんど限定的なものを要求し なくなるのである:

(4) a. Jap.

太郎は4 本を読んでいる

b. Jap.

太郎が4 本を読んでいる

c. Jap. ?

太郎が4 本を読む

。 d. Jap. ?

太郎は4 本を読む

e. Jap.

太郎は4毎日,本を読む

。( *

太郎が4毎日,本を読む

。)

現在進行形の「読んでいる」は無標の「読む」に比較すると発話コンテクストをより限定的 にした,確かに marked なものになるが,それでも〈は〉による「主題

-

陳述」構造による 発話も〈が〉による「無主題文」も,どちらも問題なく発話可能である。16)

また,単純現在

の (4c-d) を受け付けない日本語話者であっても,

(4e) のように〈毎日〉などの,当該陳述の

恒常的妥当性を強調する表現を補い,その有効性が一過性なものでないことを明確にするこ とで許容度がずっと高かまることが確認できる。ただしこの場合,述語全体が当然ながら「毎 日,本を読む」という,特定の人物の(恒常的に続く)属性を描写する内容となって,“主語”

の表示には必然的に〈は〉が期待されるようになる。要するに,「読む」という同じ動詞語 彙を使いながらも,〈毎日,本を読む〉という述語としては寧ろ「賢い」や「バカだ」「学生 だ」といった,形容詞的な用言に近くなるのである。結果,

(3a-c) と同様, (4e) を〈が〉で

表現しようとするとほとんど非文となってしまう。

 ここまで,ムンダ語に於ける「人称表現」

vs. 「非人称表現」の対立を,日本語などでも観

察される「判断文」と「現象文」の違いに置き換えて把握しようと努めてきたわけだが,も ちろんムンダ語に於ける「非人称表現」がそのまま日本語の〈が〉の持つ語用論的機能に一 対一で対応するわけではないにしても,非人称表現が描写内容を全体として

“イベント”

的 に捉える表現方法であることを踏まえれば,述語としての動詞表現が対象の

“一過性”

を強 調する,より「動詞性」の強いものである点は確認しておいていい。だとすると,ムンダ語 に於いても,「人称表現」は形容詞的陳述に,そして「非人称表現」は動詞的陳述に対して より高い親和性を持つことになる,と考えていいのだろうか?

(8)

2.4.

ムンダ語に於ける時制としての「未来」

vs.

「現在」  統辞体系全体から見て両方の語彙 カテゴリーの差異として典型的なのは,上の議論でも暗示してきたように時制・アスペクト に対する挙動の違いである。ムンダ語ではこの点に大きな特徴があるので,ここで包括的に 押さえておきたい。

 まずは,「文」という表現レベルに於いて「述語」として機能する語彙に対する総称の「用 言」の中でも代表格と目される「動詞」についてだが,ムンダ語ナグリ方言ではいわゆる「現 在形」と「未来形」を文法のカテゴリーとして区分することはない:

(5) a. Mangra φ manzdi jom(e) -a -e. ‘Mangra will eat rice.’

Mangra rice eat -ind -3sg

b. Mangra gapa manzdi jom(e) -a -e. ‘Mangra will eat rice tomorrow.’

c. Mangra naqa manzdi jom(e) -a -e. ‘Mangra will eat rice now.’

d. Mangra naqa manzdi jom tan -a -e. ‘Mangra is eat ing rice now.’

Mangra now rice eat dur -ind -3sg

英語の意訳では何れも will などの未来を表わす助動詞を付けて表現するので,差し当って「未 来時制」と捉えるしかないが,

(5a) のように別段,未来を指し示す時間表現が含まれない文

表現にあっては,ムンダ語の場合「単純現在」と「単純未来」を区分する形態的マーカーは 存在しない。そして,gapa ‘tomorrow’ のように明らかに未来時制としか共起しないような 時間表現が用いられても,動詞語彙は基本的にそのままで別段,未来をマークする助動詞な どの補助表現が使われるわけではない。17)

 このことは,

naqa ‘now’ にもそのまま当てはまる。つまり,英語の now も多分にそうし

た特性を示すが,この表現は何も発話時に対して限定的に用いられる,言わば「現在進行形 専用」の temporal deixis ではなく,日本語で言えば「これから」,英語では to be about to で 表現されるような,あくまでも未来時制に対しても広く開かれた時間表現だと考えるしかな いのである。18)

 それでは,発話時に既に進行している jom ‘to eat’ のアクションについて描写する時はど うなるか? 英語の学校文法で言う,いわゆる「現在進行形」のことだが,このアスペクトは 助動詞 tan- によって表出される。上の (5d) がその例で,“単純現在” もしくは

“単純未来”

で定形の語幹を構成していた jom は「本動詞」としての位置付けに変わりはないものの,動 詞定形の語幹からは放逐され,狭義の定形の語幹は tan- に取って代わられる。そして,この アスペクトとも naqa ‘now’ は全く問題なく共起するのである。

2.5.

ムンダ語に於ける「時制」と「アスペクト」  次に,いわゆる

“過去時制系”

のアスペ クトに目を転じてみたい。十分,予想できるように,中国語などと違ってムンダ語はさすが

(9)

に “tenseless” な言語ではない:

(6) a. Mangra φ manzdi jom(e) -a -e. ‘Mangra will eat rice.’

Mangra rice eat -ind -3sg

b. * Mangra hola manzdi jom(e) -a -e. (‘Mangra ate rice yesterday.’) c. Mangra hola manzdi jom ken -a -e. ‘Mangra ate rice yesterday.’

d. Mangra hola manzdi jom tain -a -e. ‘Mangra was eating rice yesterday. ’ e. Mangra hola manzdi jom laq -a -e. ‘Mangra had eaten rice yesterday. ’

これらのアスペクトは何れも助動詞によって表現され,本動詞がそのまま語幹として居座る ことはできない。(6e) は

“完了時制”

で,英語では現在完了形にすると一般に時間表現を伴 えないのに対してムンダ語はそれが可能だが,「昨日」を表わす hola ‘yesterday’ をそのまま 英語で表現すると不自然になるので,ここでは便宜的に過去完了を用いておいた。19)

 本稿の射程内で詳しく取り上げることはできないが,ムンダ語の時制およびアスペクトの システムに関して特質すべきは,理論的にはそれぞれ独立しているべき両方のカテゴリーが 実際にはかなり強度の相互依存を示している,という点だ:

(7) a. * Mangra gapa manzdi jom ken -a -e. (‘Mangra ate rice tomorrow. ’)

b. * Mangra gapa manzdi jom laq -a -e. (‘Mangra will have eaten rice tomorrow.’)

(7a) のように,ある意味で “純粋”

な時制のカテゴリーである「過去」が「未来」と共起

できないのは尤もであるにしても,英語では問題とならない「未来完了」をムンダ語で再現 することは,少なくとも (7b) のようなメカニズムでは不可能である。20)

2.6.

ムンダ語に於ける動詞・形容詞間の構造的対立  上でも暗示し続けたように,未来時

制に於ける品詞間の “syntactic irregularity” は,次のように

“動詞”

“形容詞”

の間で典型 的に顕在化する:

(8) a. Nia kitab naqa maila -q -a - φ . ‘This book is dirty (now).’

this book now dirty -ian -ind (-sbj)

b. * Nia kitab gapa maila -q -a - φ . (‘This book will be dirty tomorrow. ’ ) c. Nia kitab gapa maila(q) tai -n -a - φ . ‘This book will be dirty tomorrow.’

d. Nia kitab hola maila(q) tain-ke -n -a - φ . ‘This book was dirty yesterday.’

「はじめに」でも既にポイントを明らかにしておいたし,本節でも詳しく見てきたように,「動

(10)

詞」という語彙的カテゴリーが「現在時制」と「未来時制」を文法的には区分しないのに対 し,「形容詞」に対してはこの対立が体系的に厳格に構造化されているのだ。(8b) の非文法 性が具体的に示すように,

maila(q) ‘to be dirty’ が品詞として動詞であるなら全く問題になら

ないはずなのに,“形容詞” として機能するこの語彙は,

gapa ‘tomorrow’ のように未来時制

のコンテクストでしか用いられない時間表現が使われると,tai-n- という

“助動詞”

の介添 えなしに maila(q) を述語とすることはできないのである。21)

 念のために敢えて動詞構文を例示するとすれば,gapa ‘tomorrow’ など未来時制のコンテ クストでしか用いられない時間表現を伴う文表現に於いて tai-n- を付したものは,そのコン テクストに於いては非文となるはずである: 22)

(9) a. Mangra gapa manzdi jom (-e) -a -e. ‘Mangra will eat rice tomorrow.’

b. * Mangra gapa manzdi jom tai -n -a -e. (‘Mangra will [be] eat[ing] rice tomorrow. ’)

要するに,同じく

“用言”

を構成する「動詞」と「形容詞」だが,少なくとも未来時制に関 しては syntactic behaviour が大きく異なるのである。この言語事実は,本研究での解明を目 指す「非人称表現」とどのように関わっているのだろう?

3.

ムンダ語ナグリ方言に於ける「動詞」

vs. 「形容詞」の対立について

前節では,「未来時制」に対して「動詞」と「形容詞」という語彙カテゴリー間に横たわる 統辞的差異について述べたが,現代ムンダ語ナグリ方言に於ける「動詞」と「形容詞」の

syntactic opposition とはそもそも如何なるものなのか?

あくまでも,この問題が本稿の目指

す「非人称表現」の実態解明との接点を視野に... ということだが,本節ではその内実に迫っ てみたい。

3.1.

「未来時制」と

tain- (lit. ‘to stay’)  アジア地域でもよく見られる「形容詞」と「動詞」

のカテゴリー対立の曖昧さについての議論で問題となるのは,統辞的には

“形容詞”

も自動 詞と同等の syntactic behaviour を見せる,という論点である。23)

と言うことは,

前節で見た 動詞語彙と形容詞語彙が

“未来時制”

に於いて必要とする tai-n- という補助動詞が共起しな かったのは,動詞語彙として選んだ表現が jom ‘to eat’ のような他動詞的なものだったからで,

仮に自動詞的語彙を充てていたとしたら,“純粋” の形容詞と同様,

tai-n- との共起も可能だっ

たかも知れないことになる。これは早速,試してみるしかない:

(11)

(10) a. Mangra naqa φ raqa -e -a -e. ‘Mangra is about to cry (now). ’ Mangra now cry -tr -ind -3sg

b. * Mangra naqa φ raqa tai -n -a -e. (‘Mangra is about to cry [now]. ’)

この企てはしかし,残念ながら予想を覆す結果をもたらす。(10a-b) が示すような,raqa ‘to

cry’ は語彙的にはある意味で典型的な自動詞であるにも拘わらず,

24)

未来時制のコンテクス

トではやはり tai-n- と共起することは基本的にあり得ないようだ。

 それでは別の例,例えば sen(og) ‘to go’ ならどうか? こちらの方は,発着や移動を表わす 動詞として,ヨーロッパの諸言語などでも伝統的に完了形を be 動詞で構成するなど,ある 意味では先の raqa ‘to cry’ 以上に典型的な

“自動詞”

と見なせなくもない:

(11) a. Mangra naqa φ sen -o -a -e. ‘Mangra is about to leave (now).’

Mangra now go -itr -ind -3sg

b. * Mangra naqa φ sen tai -n -a -e. (‘Mangra is about to leave [now].’)

しかしここでも,“未来時制” のコンテクストに於いて tai-n- との共起は少々ムリのようだ。

“典型的”

な自動詞であっても,自動詞もやはり「動詞」のカテゴリーに属す,と考えなけ ればならないのだろうか?

3.2.

「現在時制」と

mena- (lit. ‘to exist’)  形容詞を統辞的に見分ける方法は,ムンダ語で

は実はもうひとつある。それは,もちろん

“単純現在”

で使用する場合に限定されるが,語 彙的には「存在」を表わす動詞 manag(a) “inanimate”; menanya “1st pers. singular”, menaia “2nd

pers. singular”, ... を定形として助動詞的に使っても,

これらを介在させずに形容詞単体を定

形の形で単独に用いても,基本的に意味が変わらないかどうかを確かめることである。存在 を表わす動詞 mena- ‘to exist’ の併用が可能であれば本動詞は形容詞だし,逆に動詞の場合は 非文に終わる:

(12) a. Nia kitab naqa maila -q -a - φ . ‘This book is dirty (now).’ (= 12b) this book now dirty -ian -ind (-3sg)

b. Nia kitab naqa maila(q) mena -g/q (-a) - φ . ‘This book is dirty (now).’ (= 12a)

(12b) のように,この “テスト”

に合格した maila(q) ‘to be dirty’ はムンダ語に於いても

“形

容詞” と考えていいことになる。25)

 しかしそれでも,まだ若干の不安は残る。それは,形容詞と位置づけられるのは,単に

mono-valent predicates の一部で,

尚かつ inanimate nouns を主語とするような制限が存在す

(12)

るかも知れないからだ:

(13) a. Mangra naqa kus -a -e. ‘Mangra is happy (now).’ (= 13b, cf. 12a) b. Mangra naqa kus mena -i -a - φ . ‘Mangra is happy (now).’ (= 13a, cf. 12b)

しかし幸い,

(13a-b) の kus ‘to be happy’ のような語彙も上述のテストに合格し,形容詞だか

らと言って陳述の対象が必ずしも inanimate nouns に限定されているわけではないことが確 かめられる。実際:

(14) a. * Mangra naqa raqa mena -i -a - φ . (‘Mangra is about to cry [now].’) b. * Mangra naqa sen mena -i -a - φ . (‘Mangra is about to leave [now]. ’)

先ほどの raqa ‘to cry’ や sen ‘to go’ などの語彙は単純現在に於いても mena- (‘to exist’) とは 共起できないことからも,こうした表現は形容詞ではなく,“動詞” として認識しなければ ならないことが再確認できるのである。

 しかし,動詞語彙がこうしたオペレーションを許容しないのなら,動詞を述語とした上で 尚かつ現在時制に特化した文はどのように表示されるのか? 動詞語彙を定形として用いると,

(5a-d) を例にして述べたように単純未来との対立軸が示せないという憾みがあるが:

(15) uyug ‘to drop’ Inanimate: Animate:

a. Simple Future: uyug-a (*uyug tai-n-a) uyug-a-e (*uyug tai-n-a-e)

b. Simple Present: uyug-a uyug-a-e

c. Present Emphatic: * uyug mena-g(-a) *uyug mena-i-a

これが形容詞であれば:

(16) maila ‘to be dirty’ Inanimate: Animate:

a. Simple Future: maila(-q) tai-n-a maila(-q) tai-n-a-e

b. Simple Present: maila-q-a maila-e-a-e

c. Present Emphatic: maila(-q) mena-g(-a) maila(-q) mena-i-a

未来形は tai-n- の存在により,主語が animate であれ inanimate であれ,明確に現在時制か ら区分でき,しかも現在形は mena- ‘to exist’ を助動詞的に使うことで更に強調することまで 可能となるのである。

(13)

3.3.

動詞語彙と 現在性   

「形容詞語彙と mena- ‘to exist’ が共起できるのは現在時制に限

定される」と上で述べた。述語として形容詞を使う (13a) を出発点とし,更に mena- を助動 詞的に加えて (13b) のようにしても,ある意味で

“現在性”

が強調されはしても意味論的に 形容詞単体で述語とした場合との違いが出ないのは,形容詞の語彙的意味が元々,「描写対 象の変化しない状態」に特化しているからだ,と考えられる。

 これに対し,動詞語彙を述語として用い,未来的用法から区分した,現在に特化した表現 法とは如何なるものなのか? 動詞語彙は典型的には動作を描写するが,対象の動作には様々 なアスペクトを想定することが可能である。しかしながら,描写対象が時間軸に沿って変化 しないことを前提にその状態を記述するのが基本的機能である形容詞的語彙との典型的な差 異は,何と言っても「時々刻々と変化する状態」の総和を語彙化した点にあると考えていい と思われる。

 そうした動詞語彙を,描写対象の発話時に於ける pin-point 状態に限定して表現するアス ペクトと言えば,いわゆる「現在進行相」「現在持続相」以外にあるまい。要するに,形容 詞語彙で mena- ‘to exist’ を用いる

“現在強調形”

に対応する動詞バージョンは,ムンダ語で

ta-n- を使って構成する「現在進行形」ということなのだ:

(17) a. * Mangra naqa raqa mena -i -a - φ . (‘Mangra is cry ing [now]. ’) (cf. 17b; = 14a) b. Mangra naqa raqa ta -n -a -e. ‘Mangra is cry ing (now).’) (cf. 17a)

こうすれば,

(14a-b) で mena-

との共起に失敗した raqa ‘to cry’ や sen(og) ‘to go’ などの典型 的動詞語彙も

“現在時制”

に特化し,対応する単純未来形と形態的にも機能的にも対立する 現在形を構成することができる。

3.4.

形容詞語彙と「現在進行相」  それでは,形容詞語彙を mena- の代わりに ta-n- と使い,

動詞語彙の「現在進行形」を模してみるとどうなるか? ここではもちろん,発話時の状態を 描写するものとする:

(18) a. Mangra naqa kus mena -i -a - φ . ‘Mangra is happy (now).’ (cf. 18b) b. Mangra naqa kus ta -n -a -e. ‘Mangra is making [someone] happy (now).’

結果は意外にも,例えば (18a-b) の kus ‘to be happy’ のような形容詞を使役化してしまうこ とになる。(18b) のように,確かに現在進行相での使用は可能なのだが,この構文では形容 詞語彙の形態自体に変化はないまま,kus は “to make [someone] happy” という風に他動詞と して認識されてしまうのである。

 当然ながら,元々は形容詞語彙であっても統辞的に他動詞なのであれば,

tai-n- を伴うこ

(14)

となくそのまま単純未来時制のコンテクストに埋め込むことができる:

(19) a. Mangra gapa kus -i -a -e. ‘Mangra will make [someone] happy tomorrow.’

b. Mangra gapa kus -o -a -e. ‘Mangra will get happy tomorrow.’

そして他動詞として機能する kus ‘to make [someone] happy’ は,アスペクト表示の助動詞を 使わずにそれ自体が動詞定形となる場合,“Object Agreement” を起動して,目的語が実際に 表示されるされないに拘わらず,対象が三人称単数であれば -i

,三人称双数であれば -kin と

いうふうに,一致先の文法的人称・数に従って活用する。

3.5.

他動詞語彙とその 自動詞化 メカニズム  このように,動詞的に用いられる kus は 基本的に

“他動詞”

と位置づけられるが,意味的に見ると (19b) はどう考えても自動詞とし か解釈できない。実際,ムンダ語には object agreement で人称接辞が -o となるような人称は 存在しない。未来時制のコンテクストで tai-n- を伴わずに定形として機能することから既に 形容詞と見なすわけにはいかなくなっているので,こうした事態は若干,問題ではある。た だ,「他動詞」という枠組みを維持しようとすればこれは「再帰用法」として解釈が可能だし,

一致先の目的語を敢えて特定しない汎用型他動詞形,もしくは object agreement が脱落する,

inanimate の目的語を想定する kus-e-a-e ‘(he/she) makes happy’ との対比を強調するのであれ

ば「自動詞派生接辞」のどちらかで対応できるので,さほど頭を悩ます必要はなかろう。

 実際,そのまま動詞的枠組みで用いられる形容詞は基本的に他動詞扱いとなるので,接辞 的に付加される -o(q) を「自動詞化」を導く “derivational suffix” と見なすのは悪い選択肢で はない:

(20) a. Mangra naqa kus ta -n -a -e. ‘Mangra is making [someone] happy (now).’

b. Mangra naqa kus-o(q) ta -n -a -e. ‘Mangra is getting happy (now).’

(20a) の kus がこのコンテクストでは他動詞の “to make happy” であるのに対し,-o(q) を伴っ

た kus-o(q) の方は対応する自動詞であり,“to become/

get happy” で意味論的枠組みもキチン

と対応しているわけだ。26)

3.6. “Animacy”

とアスペクト  しかしながら,主語が inanimate の場合,この種の

“派生”

は不必要であり,例えば maila(-q) は inanimate のコンテクストでは形容詞的な “to be dirty”

と動詞的な “to get dirty” の間で ambiguous であり,動詞的用法では当然ながら ta-n- を助動 詞的に用いることで「現在進行相」を表示することが可能である:

(15)

(21) a. Nia kitab naqa maila(q) ta -n -a - φ . ‘This book is getting dirty (now).’  (cf. 21b) b. Nia kitab naqa maila-o( q) ta -n -a - φ . ‘This book is getting dirty (now).’  (cf. 21a)

結果として,

(20a-b) の場合と異なり, (21a) と (21b) はお互いにバリエーションの関係にし

かないことになる。

 しかし,ここで何故,“animacy” が問題となるのか? 具体的には,

inanimate のコンテクス

トでは形容詞的用法 (mailaqa ‘to be dirty’) と自動詞的用法 (mailaqa ‘to get dirty’) がシームレ スなのに,どうして animate のコンテクストでは自動詞的用法がブロックされてしまうのか,

ということである:

(22) a. Nia kitab naqa maila(q) ta -n -a - φ . ‘This book is getting dirty (now).’  (cf. 22b) b. Mangra naqa maila(q) ta -n -a - e . ‘Mangra is making dirty (now).’  (cf. 22a)

このことは,本稿の対象とする「非人称表現」の問題と何らかの関係を持っているのだろう か?

4 .いわゆる「非人称表現」と現代ムンダ語 (Nagri Dialect)

に於けるその語用論的機能 前節に於ける議論では,“animacy” の問題が本稿の対象とする「非人称表現」の実態とどの ように拘わっているかという点に関しては決着が着かなかったが,少なくともムンダ語ナグ リ方言に於いては「形容詞」と「動詞」とは,mono-valency の自動詞に限っても,両者のカ テゴリー間には統辞的にも無視し得ない大きな差異があり,どちらも単独で文表現の述語と なり得るから

... などといった単純な理由で一緒くたにはできない,という認識を新たにした。

 第二節冒頭でも取り上げたように,ムンダ語ナグリ方言で文法化している「人称表現」

vs. 「非人称表現」の対立が,他にも日本語などで観察される「判断文」と「現象文」の差異

に通じる部分があり,しかも前者が中核として timeless 的側面を有する形容詞的述語を基盤 に持ち,後者が主として発話時に焦点を当てた,ある意味で典型的動詞構文が基軸になって いることが確認できる以上,非人称表現の語用論的機能を明らかにする上で,ムンダ語に於 ける「形容詞」と「動詞」の統辞論的位置付けと時制とのそれぞれの関係を整理しておくこ とは必須の準備作業だったと考える。

 本節ではこうした準備作業を通じて明らかになった諸点を踏まえ,いよいよムンダ語ナグ リ方言における「非人称表現」の実態へのアプローチを試みることになるが,以下ではまず,

改めて形容詞と動詞が時制に対してどのような行動様式をとるかの確認から始めたい。

(16)

4.1.

形容詞語彙と存在を表わす動詞

mena-

の親和性  前節の (15) - (16) で明らかにしたよ うに,形容詞は「現在形」と「未来形」を形態的に明確に区分し,単純現在は更に mena- ‘to

exist’ を付加することである種の強調形を示すことができる:

(23) a. Mangra naqa kus -a -e . ‘Mangra is happy (now).’ (= 13a) b. Mangra naqa kus mena -i -a - φ . ‘Mangra is happy (now).’ (= 13b) c. Mangra naqa kus tain -a -e. ‘Mangra will be happy (every moment).’

 これに対し,動詞語彙が述語の場合は「単純現在」と「単純未来」は形態的には区分でき ず,単純現在を mena- ‘to exist’ で強調することもできない:

(24) a. Mangra naqa raqa -e -a -e . ‘Mangra will cry (every moment). ’ (cf. 23a) b. * Mangra naqa raqa tai -n -a -e . (‘Mangra will cry [every moment]. ’) (cf. 23c) c. * Mangra naqa raqa mena -i -a - φ . (‘Mangra is cry ing [now].’) (= 17a, cf. 23b, 24d) d. Mangra naqa raqa ta -n -a -e ‘Mangra is cry ing [now].’ (= 17b, cf. 23b, 24c)

動詞を述語とする文表現に於いて,発話時に焦点を当てた言い方は実質的にはいわゆる「現 在進行形」であり,これは形容詞構文で

“現在性”

を強調する mena- を ta-n- で置き換えた 形態をとる。こうした,形容詞語彙と動詞語彙の統辞的差異は何に起因しているのか?

4.2.

「非人称表現」とその 動詞性   このことを検証するために,以下では命題上,それ ぞれ対応する「人称表現」と「非人称表現」の比較対照を試みたい。まずは人称表現から だが,次の例で urui

(原義は “to fever, to have a fever”)は (25a) では取りあえず形容詞的に,

そして (25b) では動詞的に機能していると考えていい:

(25) a. Mangra gapa urui tai -n -a -e. ‘Mangra will be ill tomorrow. ’ (cf. 1a, 2a-b) Mangra tomorrow ill fut -itr -ind -3sg/sbj

b. Mangra gapa urui -o -a -e. ‘Mangra will get ill tomorrow.ʼ (cf. 1a, 2a-b) Mangra tomorrow ill -itr -ind -3sg/sbj

(25a) は形容詞による陳述の例で,主語が指し示す対象である「Mangra が発熱し,結果とし

て病気になる」という予想を示す。対して (25b) の方は「単純未来」で,述語として用いら れている,

(25a) と語彙的には “同じ” urui が -o を伴って自動詞化しており,「自らを病気に

する」という,ある意味では

“他動詞の再帰用法”

に当たる,と考えることもできる。

 ということは,先に「 (25b) の述語は語彙的には (25a) と

“同じ” urui」としたが,厳密に

(17)

言えば (25b) の urui 自体は「病気にさせる」という使役的他動詞であって,

(25a) で「発熱

した」という意味の

“形容詞的”

な意味合いの urui とは自ずから異なっている,と判断し なければならない。この例の urui のように,ムンダ語ナグリ方言には自動詞(もしくは「形 容詞」)としても他動詞としても用いられるような動詞語彙が数々あるが,「非人称表現」で 使われる動詞は,結果から言うと基本的に他動詞的用法の方だ。

  (25a-b) の場合は,結果としてどちらを使ってもほとんど同じような意味 (‘Mangra will

get ill tomorrow’) になるが,常にそうなるわけではないことは,非人称表現を生成してみれ

ばすぐに判る:

(26) a. * Mangra -ke gapa urui tai -n -a - φ . (cf. 25a, 26b) Mangra -obj tomorrow ill fut -itr -ind -3sg/sbj

b. Mangra -ke gapa urui -y -a - φ . (cf. 25b, 26a) Mangra tomorrow ill -3sg/obj -ind -3sg/sbj ‘Mangra will get ill tomorrow.’

このように,形容詞語彙は非人称表現では原則として使われないのだ。体系的に見ると,こ の違いは極めて大きい。

4.3.

「非人称表現」とその談話機能  結局,少なくともムンダ語ナグリ方言に於いては,「非 人称表現」で中核的な位置付けにあるのは動詞語彙なのだ,と考えられる。そこで「人称表 現」と対応する「非人称表現」を直接,対比させると次のようになる:

(27) a. Mangra naqa urui -o -a -e. (=ˆ 25b; cf. 27b) b. Mangra-ke naqa urui -y -a - φ . (=ˆ 26b; cf. 27a) ‘Mangra will become ill every moment.’

(27a) で,述語の urui-o は確かに他動詞ではないが, (25a) と違って形容詞ではないので,語

彙上,意味的な差異はさほど大きくないかも知れない。しかし文頭の名詞表現 Mangra は,

形容詞が述語の時と同様,動詞定形の urui-o-a-e との一致を明確に表示し,この名詞表現 が

“主語”

であることを白日の下に晒している。27)

要するに,「人称表現」とは通常の Topic-

Comment Structure,

あるいは「主語

-

述語構造」を示す構文,ということになるわけであ

る。28)

 これに対し,対応する「非人称表現」の方はある種の,いわゆる

“無主語文”

であって,

文中に陳述の対象が特定されていないに留まらず,そうした対象をそもそも根本的に欠いて いる。(27b) でも Mangra(-ke) は確かに (27a) と同様,文頭に立ってはいるが,文法的な位置

(18)

付けは全く異なるのだ: (27a) の Mangra があくまでも urui-o-a-e という述語が示す陳述内容 の対象となっているのに対し,

(27b) の方の Mangra はそれ自身,陳述表現を構成しているに

過ぎない。陳述の対象は,少なくとも Mangra 自身ではあり得ないのである。

 それでは,「非人称表現」はそもそも何を陳述の対象としているのか? それは一般に,発 話時に於ける,話者の意識が向いた

“包括的対象”

で,通常は特定の個人や個々の物体や概 念ではない。日本語でも「主題」を欠く「現象文」は話者の意識が向かう対象が当該現象 全体であって,その現象を構成する,あるいはその現象に巻き込まれた個人や物体・個別の 概念ではないからこそ,“現象” を冠した「現象文」と呼ばれるのである。29)

ムンダ語に於い

て,「非人称表現」が個別の陳述対象を持たないことは,非人称表現で使われる動詞定形が

“Subject Agreement” を完全に止揚させることからも明らかである。このことは,具体的に

は例えば (27b) に於いて対応する人称表現 (27a) と同様に文頭に立つ Mangra が主題・Topic としては機能しないことを形態的に担保することを意味する。要するに,非人称表現 (27b) は (27a) と違って「Mangra に関する陳述」とはならないのである。

 上でも繰り返して暗示したとおり,陳述文あるいは「判断文」と呼ばれる文表現の構文は 主題として特定された名詞表現の対象が示す

“属性”

を述べ立てるのが基本だから,一般に 述語は形容詞的なものになる。逆に,「現象文」の方は主題の対象が持つ永続的な属性に対 する陳述が主眼ではなく,発話時の,話者を取り囲む状況全体,あるいは未来に於いて出現 すると話者が認識する状況全体が,強いて言えば「陳述の対象」となることから,述語はい きおい,その状況全体を描写する

“動詞構造”

をとることが予想される。

 こうした述語の語彙的分布は何も現代ムンダ語に固有の現象ではなく,「人称表現」

vs. 「非

人称表現」の対立を文法的に保持する,例えば現代ドイツ語などでも典型的に現われる:

(28) a. Ger. Ich bin hungrig. ‘I’m hungry.’ (= 24a, cf. 28b) 1sg/nom be/2sg hungry

b. Ger. Mich hunger -t. ‘I’m hungry.’ (= 24b, cf. 28a) 1sg/acc hunger -3sg

(28a) のような人称表現での “陳述”

が形容詞的に,そして (28b) のような非人称表現が動

詞語彙を述語として行なわれるのは偶然ではない。

4.4.

存在表現と「非人称表現」  同様に,ムンダ語ナグリ方言でも「非人称表現」は描写 すべき対象を

“イベント”

的に表現する動詞構文が好まれ,動きのない

“静止画的状況”

の 描写には存在を表わす動詞 mena- ‘to exist’ を助動詞的に用いた表現が使われる:

(19)

(29) a. * Mangra(-ke) Somri -ke dulzarz -i -a - φ . (cf. 29b) Mangra-obj Somri -obj love -3sg/obj -ind -3sg/sbj (‘Mangra loves Somri. ’)

b. Mangra-ke Somri -loq dulzarz mena -g/q (-a) - φ . (cf. 29a; = 2b) Mangra-obj Somri -com love exist -3sg/obj -ind

‘Mangra is in love with Somri.’

c. * Mangra-ke Somri -ke dulzarz mena -g/q (-a) - φ . (cf. 29a-b, 29d) Mangra-obj Somri -obj love exist -3sg/obj -ind

(‘Mangra is in love with Somri. ’)

d. Mangra-ke Somri -ke dulzarz hoba -o -a - φ . (cf. 29a-c) Mangra-obj Somri -obj love become -itr -ind

‘Mangra will have to love Somri.’

非人称表現の構造上の特質は,

1) 動詞定形の “Subject Agreement” が止揚され,人称接辞も

形態的に脱落していること,及び 2) 対応する人称表現では特定の “Case Marking” を示さず に無標のままだった名詞表現を -ke を用いて topic の座から追い落としていること,の二つ が認められるが,

(29a-d) のように可能性のある名詞表現が複数,存在する場合,意味上の混

乱が生じないよう,

-ke

でマークするのはひとつだけに絞るのが一般的だ。しかし,動詞定 形を「存在を表わす動詞」

menag/ q ‘to exist’ から「出現を表わす動詞」 hobao ‘to emerge’ へ

と変更すると,どうやらそうした制約も外れてしまうらしい。非常に微妙な irregularity で はあるが,非人称表現を構成する述語の

“動詞性”

がより強く認識されるデータとして,こ の言語事実は極めて興味深い。

 動詞定形として存在を表わす動詞 menag/

q ‘to exist’,あるいは出現を表わす動詞 hobao(q)

を助動詞的に用いる構文には「義務」を表わす,英語の have to に相当する表現形式も存在 するが,構造的に見ればこれも広義の非人称表現だと解釈していいと思われる:

(30) a. Mangra Somri -ke goj -i -a -e. (cf. 30b) Mangra Somri -obj kill -3sg/obj -ind -3sg/sbj ‘Mangra will kill Somri.’

b. Mangra-ke Somri -ke goj mena -g/q (-a) - φ . (cf. 30a) Mangra-obj Somri -obj kill exist -itr -ind -sbj

‘Mangra has to kill Somri.’

(30a-b) のような実例を見れば一目瞭然なように,この構文では -ke でマークされる名詞表

現が二つ以上存在しても一向に問題とならないようだ。30)

(20)

4.5.

「非人称表現」と

“Animacy”  ここで興味を惹くのはしかし,必ずしも非人称表現だ

けと関係しているわけではないが,

-ke でマークすると何故,当該名詞表現を主題・主語の

位置から外すことができるのか,という点である。また,例えば次の (31b) に於いて,文頭 の Mangra を -ke でマークして de-topicalise するところまではいいにしても,何故,無標の

kitab ‘book’ が topic として再分析されることがないのか? (31a) の時はまだ,一文中に -ke

でマークされた名詞表現が二つ並ぶにしても,語順や agreement 絡みでの animacy の関係か ら Mangra の方が主題として高い優先順位を誇っていれば,必然的にこちらを主語として解 釈することが担保されているのは容易に想像がつくからである:

(31) a. Mangra hina kitab - φ kiring - φ -a -e. (cf. 31b) Mangra that book -obj buy -obj -ind -3sg/sbj ‘Mangra will buy that book.’

b. Mangra-ke hina kitab - φ kiring mena -g/q (-a) - φ . (cf. 31a) Mangra-obj that book -obj buy exist -itr -ind -sbj ‘Mangra has to buy that book.’

逆に考えれば,Subject Agreement で定形の人称接辞が脱落し,元の主題・主語とのリンクが 切れれば,それだけで「非人称化」が完結したと理解できるようにも思われる。それなのに,

主題・主語だった名詞表現は何故,更に -ke によるマーキングを必要とするのか? そしてそ のことは,ムンダ語に於ける「非人称表現」の実態とどのように関わっているのだろうか?

5 .現代ムンダ語ナグリ方言に於ける「非人称表現」と “Inanimacy”

前節で我々は,現代ムンダ語ナグリ方言に於ける「非人称表現」の語用論的特質を「無主語 文化メカニズム」と捉えた。第四節までの議論を総合すると,この談話機能的メカニズムと 密接に関わっているのが,“品詞” としての構造的機能に関する「形容詞的語彙」と「動詞 語彙」の対立の構図であることを把握している。要するに,人称表現が全体として主題もし くは主語の示す属性に対して陳述するという「判断文」的構文であるのに対し,非人称表現 の方はそうした陳述の対象としての主題もしくは主語を特定せず,描写する対象を全体とし ては

“イベント”

と捉える表現形態,ということになるわけだ。

 しかしながら,両方の表現形態をコントロールしている

“元締め”

は何なのだろう? 談話 機能が対象なので「文法」の概念からどこまで迫れるか問題もあるが,前節で見たように,

特定の名詞表現を -keという後置詞でマークするのが “Impersonalisation” というプロセスに 際して必須な手立てとなっている以上,-ke によるマーキングの実態解明を避けて通ること

(21)

はできまい。

5.1. “Animacy”

と目的語  非人称表現とは直接の関係はないが,一般に -ke でマークされ る名詞表現に共通する特徴は,1) 主語もしくは主題としては機能していないこと,2) 当該 名詞表現は [+ animate] の属性を示すこと,の二点が要件となっている:

(32) a. Mangra naqa kitab prhao tanae. ‘Mangra is reading a book.’ (cf. 32b) Mangra now book read dur

b. Mangra naqa Somri-ke kitab prhao tanae. ‘Mangra is teaching Somri.’ (cf. 32a)

(32b) で面白いのは, (32a) との違いは目的語として Somri-ke が付加されると動詞語彙の意

味が “to read” から “to teach” に変わることだ。31)

また,単純に考

えると (32b) は目的語に

Somri(-ke) と kitab ‘book’ の二つをとる文だとということになるが,そもそもどちらか直接

目的語でどちらが間接目的語なのか? 32)

 しかしながら,

[– animate] を示す名詞表現も -ke によるマーキングを受けることがあり得

る。ただ,それには別な条件があって:

(33) a. Mangra naqa kitab prhao tanae. ‘Mangra is reading a book.’ (cf. 33b) b. Mangra naqa kitab-ke prhao tanae. ‘Mangra is reading the book.’ (cf. 33a)

-ke でマークされた inanimate 名詞は通常,[+ definite] と理解される (cf. 33a-b)。

 周知のように,目的語が -ke をとって [+ animate] を示すと,“Object Agreement” が発生し:

(34) a. Mangra naqa manzdi jom(-e) -ae. ‘Mangra will eat rice now. ’ (cf. 34c) b. * Mangra naqa sim-ke jom(-e) -ae. (‘Mangra will eat chicken now. ’ [cf. 34c]) c. Mangra naqa sim-ke jom-i -ae. ‘Mangra will eat chicken now.’ (cf. 34a)

(34c) のように動詞定形に当該目的語の文法上の人称と数を示す接辞が求められ,これを

欠く (34b) のようなデータは拒否される。ただし,目的語に -ke が付加し,定冠詞付きの解 釈がなされる場合であっても,当該目的語が実際に [+ animate] を示さない限り,実質的な

agreement は要求されない:

(35) a. Mangra naqa kitab prhao-e -ae. ‘Mangra is reading a book now.’ (cf. 35c)

b. Mangra naqa kitab - ke prhao-e -ae. ‘Mangra is reading the book now.’ (cf. 35a)

c. * Mangra naqa kitab - ke prhao-y -ae. (‘Mangra is reading the book now.’ [cf. 35a])

(22)

5.2.

存在を表わす動詞

mena-

の本質と「非人称表現」  前節までも言及してきた「存在を 表わす動詞」

mena- ‘to exist’ の活用は例外的である:

(36) a. Anyaq kitab naqa nitagre mena -g/-q (-a). ‘My book is here now.’ (cf. 36b) my book now here exist -itr -ind

b. Mangra naqa nitagre mena -i -a. ‘Mangra is here now.’ (cf. 36a)

inanimate 形が -g / -q の

語尾をとるのはまだしも,

animate 形の

定形は実質的には Object

Agreement のそれを体現していて,Subject Agreement の接辞は完全に脱落したままだ。そ

れでいて一致先の名詞表現自体は -ke をとらず,統辞論的には「主語」もしくは「主題」と して位置づけられている。33)

 奇妙なのは更に,英語の have to... に相当する「義務」を表わす助動詞として mena- ‘to

exist’ を用いる場合,通常の「存在」を表わす場合と異なり,おしなべて inanimate 形が使

われる点だ:

(37) a. * Mangra-ke Ranci senog mena -i -a. (‘M. has to go to Ranchi.’ [cf. 37b]) Mangra-obj Ranchi go exist -itr -ind

b. Mangra-ke Ranci senog mena -g/q (-a). ‘M. has to go to Ranchi.’ (cf. 37a)

(38) a. Mangra Somri -ke dulzarz -i -a -e. (cf. 38b; = 2a) b. Mangra-ke Somri -loq dulzarz mena -g/q (-a) - φ . (cf. 38a; = 2b) ‘Mangra loves Somri.’

 この「存在を表わす動詞」

mena- ‘to exist’ はまた,

多くの言語でそうであるように,「所有」

を表わす表現でも用いられるが (cf. Isacenko 1974),その時はもちろん所有の対象が主語と なるので,定形の形態は一般に inanimate 形となる。上で触れた「義務」の have to... に相当 する言い方の方もだから,描写対象の

“話者を取り囲む状況全体”

は [– animate] であり,こ ちらも所有表現と同様,inanimate 形が定形となるのだと合点がいく:

(39) a. Mangra -tag -re bohut kitab mena -g/q (-a) - φ . (cf. 39b) Mangra -side -at many book exist -ian -ind -sbj b. * Mangra -tag -ke bohut kitab mena -g/q (-a) - φ . (cf. 39a) ‘Mangra has a lot of books.’

つまり,ムンダ語ナグリ方言に於ける「非人称表現」という構文法は,描写対象を関連する

参照

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