茨城大学大学院人文社会科学研究科
修士論文要約集
令和元年度
2020
年7
月茨城大学人文社会科学部
学術委員会
目次
文化科学専攻
論文題目 氏 名 頁
磐城平藩鍋田三善の郷土研究
― 『晶山蘭臭』を中心に ― 有馬 花苗 1 戦時期における大谷武一の体育思想と実践 金澤 大樹 2
鷹見泉石の対外観
― 泉石収集の北方関係資料を中心に― 佐藤 和明 4 戦国期伊達氏の権力構造 佐藤 湧太 6
戦時期日本における子どもの戦争動員
― 軍人援護の教育・実践を中心に― 杉浦 果奈 8
中国人技能実習生の異文化への対処
― 生活構造の視点から見る心理的変化 ― WU YUN DA LAI 10 18世紀朝鮮の知識人洪大容の思想研究
― 士としての生き方と科学思想を中心に ― GUAN QIANYUN 11
社会科学専攻
論文題目 氏 名 頁
国際協力NGOと連携したESD実践の可能性と課題は何か
― 茨城での実践を事例に ― 田中 玲子 12
台湾の教育政策に関する一考察
― 1945年から1949年までを中心として ― 張 金波 13
中国民営自動車メーカー吉利汽車のサプライヤーシステムによる研究
―戦略転換とボルボ買収による変化に着目して― ZHOU JUNJIE 15
シビックプライドを醸成させるシティプロモーション手法の研究
―茨城県常陸大宮市を事例として― 宇野 武寛 17 子どもの車内放置に対する法的考察 滝澤 真衣 19
渋沢栄一の社会事業活動の研究
― 財政運営を中心として ― KONG QI 21
中国自動車産業におけるイノベーション能力の構築
― ポーター仮説の視点から ― ZHOU BINGDI 23
中国における農民組織の実態とその持続性
― 湖州市を事例に ― MO YONG QIANG 25
内モンゴルにおける生活様式の変化に関する一考察
―アルホルチン旗におけるモンゴル族を中心に― MENGGEN CHAOGETU 27 茨城県鹿行地域における産直施設の存立基盤とその持続性 YANG YINING 29 都市空間におけるジェンダーに関する人文地理学的研究
―武漢市を事例として ― LIU JINGYI 30
1
磐城平藩鍋田三善の郷土研究
―
『晶山蘭臭』を中心に―
18LM101G 有馬 花苗
本研究では、磐城平藩の鍋田三善(1778~1858)に焦点をあて、近世史研究のなかで知識人と
呼ばれている人々の学術研究を経て、どのような交流関係が築かれていったのか見ていく。鍋田 三善とは、磐城平藩の中老として藩政の中心にいただけでなく、いわき地方の歴史や文化をまと めた『磐城志』(1826 年)や『磐城四郡彊界路程全図』(1814年)を著した人物としても知られ ている。本研究では、彼の書簡集をまとめた『晶山蘭臭』(天保9年~安政3年、無窮会神習文庫 所蔵)を用い、鍋田三善の交友関係、交流のなかでやりとりされた情報の内容分析、が鍋田の郷 土研究・書物編纂に与えた影響を明らかにすることで、学術的な交流の実態を解決するものであ る。
第一章「鍋田三善の編纂活動の変質」では、鍋田の編纂物の書誌情報から特徴について論じた。
鍋田の活動は、天保6年(1835)、筆禍により職を解かれたことを機に前期と後期に分かれる。前 期はいわき地方の地誌『磐城志』や『磐城名勝略記』、『岩城文書』など、いわき地方の歴史や文化 を中心に編纂していた時期である。後期は、『赤穂義人纂書』およびその続編や鍋田家系譜の編纂 を行っており、鍋田家のルーツ及び忠義に興味を抱いていた時期である。鍋田は磐城平藩外の家 譜・家伝を多く書写しており、鍋田家の本拠地でもあった三河に由来をもつ家や、鍋田家の出自 である新田氏にかかわりのある家の家譜を集めていた。第2章「鍋田の人脈と自己認識」では、
鍋田の書簡集『晶山蘭臭』のやりとりから、『赤穂義人纂書』編纂と鍋田家系譜編纂に関わる記述 を取り上げることで、鍋田の人間関係の構築について論じた。鍋田は両書の編纂において水戸藩 の学者である青山延光・会沢正志斎とのかかわりが深く、史料の貸借を行う関係であった。『赤穂 義人纂書』の序文には、藩校や昌平黌で儒学を教えていた人物が序文を執筆しており、儒学を媒 介としたネットワークがあった。また、家系譜の編纂では会沢に序文の執筆を依頼しており、そ の文面からは、会沢が鍋田のルーツを語るうえで相応しい人間であるという強い信頼がうかがえ る。第3 章「鍋田の海防と尊王思想」では、天保山をはじめとする海防情報の交換と書簡内に出 てくる言葉から鍋田の思想を論じた。親戚の土浦藩家中関豊をはじめ、在阪の人物と天保山近海 の海防について情報交換を行っていた。また、書簡内では水戸藩の会沢・豊田天功とのあいだで
「神州」・「皇州」といった文言が頻出しており、異国船渡来や異国の行為について「神州を軽蔑 するような行為」などと異国船渡来に関する文脈で使用していた。「神州」という言葉は会沢正志 斎が著した『新論』にも出てきており、鍋田の尊王思想がうかがえた。
このように、鍋田の研究の方向性は筆禍事件を機に変わっていったように思えるが、対外危機や 水戸藩学者筆禍事件があったからといって研究への意欲を失うのではなく、同じ熱意で忠義や海 防と向き合っていた。鍋田の興味は、筆禍事件によって職を奪われたことを機に、興味の対象が いわきから鍋田家、日本の海防に変わったことは先述した通りであるが、これは単にいわきへの 興味を失ったのではなく、郷土の対象が広がったのではないかと考える。
戦時期における大谷武一の体育思想と実践
18LM102Y 金澤 大樹
本研究は体育指導者の体育思想と実践について、戦前から戦後にかけての体育思想の特質や近 現代日本の変化の過程に注目して検討するものである。
体育政策は時局に合わせて立案、改正を繰り返したが、その主導的立場にいたのが体育指導者 たちであった。そこで、彼らは国策に呼応するかたちで政策を打ち出していったのか、それとも 体育指導者自身の主義主張を貫いていったのかについて検討し、特に戦争とどのように向き合っ ていったのかを明らかにする。
戦時期の体育は国家主義的性格を帯びるようになり、戦地で活躍できる者、出産に貢献できる 者、効率よく労働に従事できる者などの育成を担った。そこで、本研究では体育指導者が打ち出 していった政策を実際にどの程度まで普及していたのかについてもみていく。
戦前から戦後にかけて、体育指導の中心的な立場にいた人物として大谷武一が挙げられる。大谷 武一は1887年、兵庫県に生まれ、1908年に兵庫県姫路師範学校を卒業後、東京高等師範学校文 科兼修体操科に入学し、その後同研究科へ進学している。17年からの2年間、アメリカ留学や西 欧視察を経て帰国した後は、東京高等師範学校の教授に就任する。前任者は永井道明であり、こ の人事は「日本の学校体育界が永井の時代から大谷の時代へと転換したことを意味した」といわ れている。それ以後、体育界は彼の時代ともいえるまで、大谷の存在感が増していった。戦後も 戦争責任に問われることなく、教育刷新に参画している。
大谷は1966年に亡くなり、50年余りの歳月を経た現在では、『大谷武一体育選集』の刊行によ って資料的な追跡も容易になっている。しかし、大谷の体育思想の特質や軌跡の全貌は、いまだ に明らかにされていない。
本研究では、大谷武一が遺した史料と当時の時代背景を交え、国家と体育の関係性や近現代日 本における体育の特質について検討する。
第1章では、大谷が学生時代に影響を受けた野口援太郎と嘉納治五郎の教育方針をみていきな がら、三者の共通性を提示した。野口も嘉納の教え子でもあることから、彼らに流れる教育思想 は嘉納の意思が脈々と受け継がれていったことを意味する。また、大谷は欧米留学でスタッグや マッケンジーの下で学びシカゴで岡部と親交を深めた。その後、岡部は中国で大谷は東京で活動 していく。大谷は欧米で培った合理的な体育の知識の普及に努めていた。また、帰国後、論稿を 介して大谷は東京高等師範学校の教授となり、体育界を大谷の時代へと転換していった。
第2章では、国民の健康状態を背景に大谷は体力向上に関心を向け、これを解決するための実 践を打ち出していく様相をまとめた。正常歩と呼ばれるものを推奨し、運動が得意でない人でも 気軽に運動に取り組めるものであった。アジア・太平洋戦争に突入すると、戦争遂行には一人残 らず戦闘に参加するべきだと説いていることからも、かつての合理的な体育の実践から次第に国 家主義、精神主義へと迎合するような態度の変化がみられた。
第3章では、敗戦に伴い教育界で刷新が行なわれ、体育も例外ではなかった。敗戦後の日本は 民主国家の建設を目指して教育の改革を図っていた。それまでの方針を転換する必要があったた め、民主主義教育の基礎を固めなければならなかった。大谷も例外なく体育の民主化の必要性を 説いた。戦時期からの転換がここでも図られたが、大谷は戦後も体育の本質を修練とみなしてお り、修練の形式を変えただけであった。ここからは戦時期からの戦後にかけての連続性をうかが
3 うことができる。
以上を踏まえると、大谷は大正時代にアメリカで学んだ経験から合理的な体育の推奨を唱えて いたが、満洲事変を契機に国民の体力向上には学校体育から見直す必要があり、行軍に耐え得る 国民の養成や出生率が安定するような対策を講じた。アジア・太平洋戦争が始まると、民族とし ての団結を声高に主張し、戦力強化の観点から、病弱者も含めて戦力であり国のために働くこと に身を捧げるべきだとした。
このように戦争協力に加担したとみえる大谷だが、戦後も教育刷新の主導的立場に立った。こ の時点で、戦争責任問題を放棄したことになり、その後の周囲の人物や彼自身は戦時期について 語ることはなかった。
振り返って大正時代に目を向けると、スポーツによって国民の身体を強健、敏捷にして奮闘的 精神を旺盛にすれば立派な戦士として戦闘的能率を発揮できるといった主張や、民族的な発達が 実現できればアメリカに軽蔑されることがなくなり日本人の優位性を示すことができるという主 張がすでになされていることがわかる。戦時期にみられる国家主義者、民族主義者としての一面 が大正時代にはすでに垣間見えていたのである。
鷹見泉石の対外観
―
泉石収集の北方関係資料を中心に―
18LM103 佐藤 和明
本論文では、江戸時代後期の古河藩士であり、蘭学者としても名高い鷹見泉石に焦点を当てた。
非常に豊富な蘭学関係資料が残されている中、筆者は彼の収集した北方関係資料に注目し、収集 された資料の入手元や特徴、さらには、彼の持つ資料のやり取りなどに注目し、そのような活動 と彼の著作から、彼の抱く対外観について論じた。
研究の基礎的作業として第一章では、泉石の生涯と彼の人的交流関係に関して、いくつかの分 類を行い整理した。泉石は、藩主に近侍の身であったため、生涯のほとんどを藩主とともに過ご したことから、まず彼が仕えた利厚と利位の時代の泉石の役割について説明した。そこから、泉 石の活動、各界の人々との交流や蘭学資料の収集などは、決して泉石の趣味嗜好によるものでは なく、藩主の要請に応える必要性などから、非常に政治的なものであったと述べた。また、藩主 が、大坂城代や京都所司代に任ぜられるごとに、泉石もそれに随行していったため、居住地によ る時代区分も示した。
次に泉石がどのような人々と交流し、情報収集等の活動を行ったのかを明らかにするうえで不 可欠であるため、彼の生涯を通しての人的交流関係を概観した。先論に依拠しながらも、藩主に よる要請を受けての公的なつながりから、蘭学関係の私的なつながりまで非常に広範な人的交流 関係が形成されていたことが分かった。
続いて第二章では、「北冦秘録 魯西亜人ヱトロフ乱妨一件」というこれまで分析が行われてこ なかった史料を中心に、「文化露寇事件」の概要と泉石によって収集された資料の特徴について論 じた。この事件に関わる資料・情報は、幕府によって機密扱いとされていた。しかし泉石は、こ の事件の直接的な原因である、ロシア使節レザノフの長崎来航・通商要求に際し、専管老中であ った利厚に近侍する立場として、高度に政治的でかつ機密性の高い資料に触れることのできる立 場にあり、事件に関わる数多くの資料を筆写した。その資料のほとんどが、事件に直接関わった 藩主レベルの人々からの報告書であり、事件の様子を克明に知ることができるものであった。ま た、国旗図や地図が筆写されていたことも、泉石の収集情報の特徴といえる。
そしてこの章で扱った「文化露寇事件」に関わる資料収集が、今後の泉石の活動に大きな影響 を及ぼしたことを指摘した。これ以後、泉石の蘭学関係の活動は、ロシア語やロシア国の地図な どの北方情報を中心としたものへとなっていく。また、蘭学者と呼ばれるような人々との交流も 活発化していくことから、筆者は、ここでの泉石の活動を、彼の蘭学研究の原点であると指摘し た。
それを受けて第三章では、文化露寇事件後に、泉石が収集した北方関係資料の種類や入手経路 について分析し、それがどういった人々へ提供されたのかを考察した。
泉石は、様々な人物から資料や情報を得ていたが、その主流は直接的にロシア人と関わったこ とのある大黒屋光太夫と足立左内であった。当時の日本国内でいえば、最先端のロシア関係情報 を持つ人々から泉石は教示を受け、資料・情報の提供を得ていた。
そのようにして集められた資料は、大久保加賀守とのやり取りに見られるように、古河藩内部 でも藩の公的資料として扱われるような性格を持ち、非常に重要視されていたことが分かった。
それが、川路に代表されるような幕閣や実際に蝦夷地に赴く役人へ提供されていたという事実は、
5
泉石の収集した北方関係資料が、同時代的に見ても非常に高く評価されていたことを示す事例で あると考えられる。
そして第四章では、泉石晩年の著作である「新訳和蘭国全図」と「愚意摘要」を中心に、彼の対外 観について論じた。
彼は、「新訳和蘭国全図」の識語に見られるように、長年通商関係にあったオランダを高く評価 していた。そして、「愚意摘要」の中では、幕府への軍事顧問としてのオランダ人の登用を提案お り、言うならば、オランダに頼りつつ、開国を進めていくことを主張していた。
そして、「愚意摘要」にも見られるように、彼の対外観の中心として意識されていたのは、彼が 若いころから、職務として必要性に駆られ、資料収集を行っていたロシアであった。これは、泉 石の蘭学研究の原点も、生涯を通じての活動の多くも北方関係資料の収集であったことに起因す ると考えられる。これまで指摘されてきた「愚意摘要」の先見性はもちろん泉石の評価として重 要である。しかし、筆者は彼の生涯を通しての活動から導かれる対外観の中心にロシアという国 が意識されていたことが、非常に重要な視点であると考える。
戦国期伊達氏の権力構造
18LM104L 佐藤 湧太
本論文は伊達稙宗から晴宗にかけての伊達氏が、戦国大名権力として確立していく過程につい て、知行制の成立を指標として考察したものである。
第一章第一節では、奥州探題大崎氏の公権力が動揺を始めたことにより、伊達氏が、在地の要 請を受けて紛争解決の場に呼び出されるようになった経緯を概観する。伊達氏は地域秩序を担い うる権力体として、軍事力の安定的な確保が必要となった。この課題に積極的に取り組んだのが 十四代稙宗であった。
第二節では、稙宗が地頭領主の所領売買に対して安堵状を発給することによって、知行制確立の 基礎を構築したことについて考察した。このような方法での知行地の把握はかえって所領売買の 激化を促す要因となったため、稙宗は、陸奥国守護を獲得し、その職権による段銭や棟別銭の徴 収権を梃子として領国全体に税の賦課を行った。これにより、知行地総体の把握が可能となった ことを確認した。
第三節では、所領売買に関与するかたちで実現した知行地把握の方策は、稙宗によって制定さ れた『塵芥集』でも意識されていることを確認した。『塵芥集』は、稙宗の施策を支えるとともに、
それによって惹起される課題への対応も企図していた。しかし、境相論の条文にみえるように、
地頭層の自力救済的側面が完全には否定されずにいた。稙宗期の権力は、戦国大名としての政策 を打ち出し、知行制の確立を図るなど、進歩的側面が多くみられるが、領国内では未だ中世的な 自力救済秩序が否定されていない。このような領国の抱えた矛盾の激発が、次章で見る伊達氏天 文の乱につながることを確認した。
稙宗が推し進めてきた知行制の整備は強権的であり、『塵芥集』に記された土地規定もまた、その 知行制を補完するものであったが、『塵芥集』の境相論の項目を見ると、いまだに中世的・自力救 済的側面が否定しきれていない部分があるという前章第三節の結論から、第二章第一節では、稙 宗の麾下にいた地頭層には、稙宗への不満を持つ要因があると考えた。天文の乱において、晴宗 方の主力として活動した諸氏のほとんどが伊達家に稙宗以前から仕えている家であり、「段銭古帳」
において徴税対象となっている土地に本拠をおくものであることからも、稙宗への不満が募って いたことがわかる。
第二節では、前節でみたような要因を抱えて勃発した伊達氏天文の乱の経過を概観し、伊達氏 家中の支持を得た晴宗の勝利で幕を下ろすことを確認した。
第三章第一節では、晴宗は、稙宗政権に対して不満を持っていた地頭層の支持を受け、天文の 乱を乗り越えた晴宗には、稙宗政権が抱えていた矛盾に対応する必要があったことを確認した。
そこで、行われた事業が「采地下賜録」の作成である。「采地下賜録」作成の意図は、天文の乱の 中で濫発された判物を破棄して、新たな判物を支給することによって、地頭とその知行地を一括 して把握することにあった。この判物一斉支給によって、地頭の本領や買得地、加恩の地のすべ てが伊達氏の安堵や宛行の対象となったのである。反対に、地頭の側から見ると、自身の所領す べてが伊達氏に把握されたことになり、伊達氏の保証という恩恵に預かることができる。ここに、
戦国大名伊達氏の知行制確立を措定することができると評価したい。
第二節では、「采地下賜録」には特権が付与された地頭が多く存在していたことに着目した。そ の点をもって、これまでは晴宗政権は後退的な政権であると位置づけられてきた。しかしこのよ
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うな特権は所領の安堵と並列の“御恩”であり、地頭層への譲歩という消極的な政策ではなく、伊達 家中の安定化を企図した政策と捉えるべきであると考える。
戦時期日本における子どもの戦争動員
―
軍人援護の教育・実践を中心に―
18LM105F 杉浦 果奈
本論文は戦時期の日本における子どもの戦争動員について、軍人援護の教育と実践に焦点を当 て、総力戦体制のなかで子どもに求められていたものや子どもが果たした役割、その意義を検討 するものである。本論文における「子ども」は、軍人援護の「美談」などの資料に頻出していた国 民学校初等科から高等科くらいまでの年齢の男女児童としている。
戦時期の子どもについて、その生活の実態や学校教育等に関する研究は膨大な蓄積がある。山 中恒氏の『ボクラ少国民』シリーズ(1974年~)は子どもを対象として戦時期を検討することの 重要性を明らかにし、学童集団疎開50周年と戦後50年に向けては学童集団疎開についての研究 も進展した。大門正克氏(2009年)は、戦時期の子どもたちを単に戦争に巻き込まれるだけでな く「戦争を主体的に担うことを求められた存在」と位置づけ、「困難を抱えた子どもたち」がそれ ゆえに一層「少国民」であろうとしたのではないかと指摘している。軍事援護については一ノ瀬 俊也氏(2004年)や郡司淳氏(2004年)などに詳しい。一ノ瀬氏は日中戦争期に「経済的支援」
と「精神的支援」の総称として「軍事援護」という言葉が誕生し、これ以降援護が活発化したこ とや、精神的援護として、日中戦争勃発後に全国の市町村で「銃後後援会」などの軍事援護団体 が設立され、歓送迎や慰問などの活動が展開されたが、これは兵士の遺族・家族や兵士本人の不 満や悲嘆の抑制、あるいは士気の高揚といった無視できない効果を有していたことを指摘してい る。さらに、軍人援護教育については、前田一男氏(1987年)や青木章二氏(2008年)、斉藤利 彦氏(2019年)の研究が挙げられる。ここで前田氏は、軍人援護教育を「総力戦体制の下で学校 が家庭や地域と一体となって、あらゆる学校活動を軍人援護のために組み立てていった教育実践」
であると定義づけている。これらの先行研究をふまえ、総力戦体制のなかで子どもがどのように して戦争に動員されていたのかを、軍人援護の「美談」や子どもによって書かれた慰問文などの 資料から分析し、子どもならではの意義を検討した。
第1章では、国家権力の中枢にいた人々と教育関係者たちを対象に、満州事変勃発以降の著作 物や発言などから彼らがどのような子ども観を持っていたのかを検討した。それらに共通してい たのは、現在行っている戦争が「東亜ノ安定ヲ確立シ世界平和ニ寄与」するという重大な目的を 持っており、その達成のために「高度国防国家」を建設することが急務であること。それには多 くの困難を伴うが、時局を「正しく」認識して「前線も銃後も」一丸となってこの困難に打ち勝 たなければならないという考え方である。そのなかで青少年は将来の国家の担い手であり、責任 重大な立場にある、国の中核であると位置づけられている。この「将来の国家の担い手」という 考えにおいては、朝比奈策太郎の捉え方が年代ごとに変化していること、つまり「青少年の本質」
が将来の兵士であることから「労力給源」としての青少年へと変わっていることを指摘した。
第2章では、子どもの教育で重要視されていた「実践」のなかでも、出征軍人やその遺族・家 族に対する慰問、労働奉仕といった「軍人援護」に注目し、その教育の体制が「軍人援護ニ関ス ル勅語」の発布や国民学校の成立とともに整備された過程を追った。茨城県の『軍人援護教育指 針』から、教材・訓練・行事のそれぞれにおいて指導要項が細かく定められており、それらを全 て軍人援護へと結び付けようとしていたことや、子どもたちが学んだことをもとに、実生活にお いても勤労奉仕や慰問などの実践を継続して行うことが求められていたことを明らかにした。
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第3章では、軍人援護の実態を「満州事変勃発後」と「国民学校成立後」の2つの時期に区分 し、美談集や表彰された事例、慰問誌を用いて検討した。前半では献金・慰問についての美談が ほとんどであったが、時代が下るごとに慰問文・慰問品の発送や陸軍病院への慰問などといった 記述の種類が増え、出征軍人の遺族・家族に対する労働奉仕も積極的になされていることが分か る。戦況の悪化とともに軍人援護が小規模になっていくことはなく、様々な実践が行われるよう になっていた。このような実践やその記録のされ方を検討し、子どもによる軍人援護で求められ た役割と子どもならではの意義を以下のように考察した。第1に、国民学校での教育を受けてい る子どもを通じて、家庭、延いては社会にも軍人援護の思想を浸透させ、教化する役割である。
これによって軍人援護の実践が、社会全体として広がるようにするという狙いがあったと考える。
第2に労力不足を補う役割である。戦局の悪化とともに厳しい環境に追い込まれる家庭のなかで、
子どもたちが「自分も何とかしなくては」、「親を喜ばせたい」と考えるようになることは自然に 起こり得るだろう。また身の周りの出征軍人の遺族・家族に対しても、学校で学んだりしたこと をもとに労働奉仕を行った事例も存在している。第3に大人たちを見張る、監視する役割である。
美談に頻出する文言から、子どもは本来であればか弱く保護されるべき存在であるにもかかわら ず、この非常時局において「立派な働き」をしているという考え方が伺える。そしてこのような 弱い存在でも活躍をしているのだから、大人たちはなおさら「立派」であらねばならないと思わ せる作用があったと考える。第4に、「純真さ」や「自由さ」によって兵士たちを癒す役割である。
戦場という過酷な状況に身を置き、周囲にも大人しかいないような兵士たちにとって、慰問品か ら垣間見えるそのような「子どもらしさ」は貴重なものであり、故郷を懐かしく想ったりそれを 守るために戦わなければならないという気持ちにさせる効果があったと考える。
総力戦体制のもと、子どもたちは国家権力や教育者たちから「国家の将来を担う責任重大な立 場にある」と位置づけられ、また戦局の重大化とともに「労力給源」であることも求められてい た。軍人援護教育はその指針において指導の方法が細かく定められており、子どもたちが学んだ ことを実生活でも継続して実践することを重視していた。そして「美談」や慰問文にも表れてい るように、子どもたちが軍人援護を実践することは意義深いことだと捉えられ、実際に戦時体制 を支える役割を果たしていたのである。
中国人技能実習生の異文化への対処
―
生活構造の視点から見る心理的変化―
18LM108H WU YUN DA LAI(ウ ウン タ ゙ライ)
日本は外国人を様々な形で受け入れている。外国人を多く受け入れているのは、日本の少子高 齢化がその背景にある。日本の労働力の補完となっている現実は、マスメディアや研究の中で指 摘されてきた。スイスの作家であるマックス・フリッシュの「我々は労働力を呼んだが、やって きたのが人間だった」という言葉がある。技能実習生が「技術の習得」「出稼ぎ」をする中、日本 での生活も相応にしたいということが軽視されてきた。そこで本研究では生活構造の視点を用い、
日本で働いている技能実習生が日本という異境の中でどのような葛藤を抱え、どのような影響を 受けているのか、また日本人や社会とどのように関わっているのかを明らかにする。本研究では 生活構造を、「本人を取り巻く状況およびその中での比較的安定した行動パターン」と定義する。
2017年の3月から2019年の10月にかけて、筆者は上記の研究目的を達成するため、会社や 工場に比べてより技能実習生との関わりが多いと考えられる、技能実習生が働いている農家でフ ィールドワークやインタビュー調査を重ねた
以上の調査を通して以下のことが明らかになった。1 つ目は、技能実習生たちが来日してすぐ直 面する課題は言葉の壁であるということである。日本人と会話ができないことや日本人からの指 示も十分伝わっていない場面もある。2 つ目は、日本語に自信がないため孤独感から母国にいる 家族への思いがより強くなるということである。3つ目は、仕事や生活の中で感じるストレスを、
同期の友人などのネットワークを通じて解消される場合が多く見られるが、ストレスの解消がで きなくやむを得ず途中帰国を選択する場面に至ることもあるということである。4 つ目は、技能 実習生同士のネットワークがあまり強すぎるとすべてがその仲間同士の中で完結してしまい、日 本人や日本社会に関わろうとしないということと、一方で、ネットワークの弱い技能実習生は、
最初の頃は他人より辛い思いを感じるが、慣れていくことによってより日本人や日本社会と接触 する行動を起こしやすいことである。
本研究の協力者は全員既婚者の男性であった。今後の課題としては、未婚の人や既婚の女性の 場合日本で生活者としてどのように振舞うのかを検討することが挙げられる。また、今回は中国 人技能実習生だけに絞っているため、生活文化の違う他国の技能実習生は、どのように日本で生 活者としてどのように振舞うのかを今後検討する必要もある。
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世紀朝鮮の知識人洪大容の思想研究―
士としての生き方と科学思想を中心に―
18LM109A GUAN QIANYUN
本論文は、朝鮮時代の実学思想家、科学者でもある洪大容(1731-83)を対象に、主に彼の士 としての生き方及び科学思想を論述したものである。洪大容の生涯を辿る際、彼自身が官僚にな ることに執着しなかったものの、科挙受験にはかなりのこだわりを持っていた観念に注目した。
その理由は、彼の故郷に錦を飾ろうとする思いが強かったためであり、それゆえ洪大容は生涯科 挙に及第できなかったことを後悔していたと結論付けた。
科学思想については、従前の研究で正確に捉えられていなかった、洪大容の天文体系の全容を 整理・分析してきた。それは、宇宙モデルとしてティコ・ブラ-エの折衷天文体系を基礎にしな がらも、「地球は宇宙の中心」という説を否定し、また地球自転説を主張していることでは、ティ コと大きく異なっている。さらに本論では、洪大容が接触した可能性があると思われる西洋の天 文学と丁寧に対照し、彼の天文学思想における西洋天文学受容の実際を究明しており、科学者と しての洪大容の学問を明らかにした。
章立てについては、第一章で、洪大容の生涯について概説を行う。第二章の第一節では、洪大 容が、後に親交を深めることになる清人と交際するきっかけである「眼鏡」について、当時の中 国や朝鮮における製造・流通の状況について論述していく。第二節では、中国人との筆談や書信 を分析し、洪大容が科挙や仕途に対し如何なる見解を持っていたのか、またその考えに如何なる 変化が起こったのかについて明らかにしていく。第三章では「毉山問答」に収録されている、洪 大容の北京天象台及び観象台における見聞を詳細に考察し、彼が最終的に、伝統的な天動説や、
ティコ・ブラ-エが築いた折衷天文理論とも相違する、独自の宇宙体系を仕上げた経緯について 究明していく。
筆者は、今回、本論文で洪大容の士としての生き方及び科学思想を考察してきたが、これが今 後の洪大容思想研究に寄与することを願っている。
国際協力
NGO
と連携したESD
実践の可能性と課題は何か―
茨城での実践を事例に―
16LM203S 田中 玲子
本論文の目的は、ESDに環境平和学を取り入れることで、開発途上国の課題をどこまで自分ご ととして捉えることが出来るようになるか、国際協力 NGO と連携することで、どこまで実践が 可能で、残る課題は何かということを明らかにすることである。
現在、日本で展開されているESDは、これまでの開発教育と環境教育を実践的に統一し、取組 んでいこうとしている段階にある。開発教育は、開発途上国の貧困問題や南北における格差問題 を知り、彼らのために自分たちに出来ることは何かということを考え取組むことである。一方で 環境教育は、公害問題、環境破壊、地球温暖化現象などを学び、地域レベルで取組むことである。
環境教育においては、学習者は当事者意識をもって学び、取組むことが出来ている。しかし、開 発教育においては、学習者は開発途上国の課題を他人事として捉えたまま学び、あくまで援助者 の立場としてアクションを考え出そうとしている。第一章では、その開発教育の現状について記 述している。
第二章では、開発途上国の課題を他人事として捉えたままで、「誰一人取り残さない」持続可能 な開発のための教育は成立するのだろうかという問いに対し、環境平和学の視点で捉えることに よってそのことが成立しないことを明らかにした。そして、「誰一人取り残さない」持続可能な社 会づくりのための教育を展開していくために、ESDに取り入れるべき環境平和学の視点と方法に ついて取り上げている。
第三章から第五章は、筆者がこれまでに取組んできた茨城県内の国際協力 NGO と連携した ESD実践を紹介し、それぞれの実践事例に対し、環境平和学の視点を取り入れたことで明らかと なった意義と課題について述べている。
結論では、環境平和学の視点を取り入れることで可能となるESDの展開と、そのESD実践に おいて欠かすことのできない国際協力 NGO との連携によって可能となる取組みと課題について 明らかにした。
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台湾の教育政策に関する一考察
― 1945
年から1949
年までを中心として―
16LM208H 張 金波
本論文の目的は、 主として1945年から1949年までにおける台湾教育政策の実態を明らかに することである。
第1章では、本論文の背景にある問題意識、目的および先行研究の概要について述べる。
第2章では、文化の変容という視点から、戦前から戦後にかけての台湾の教育方針に注目しな がら戦後初期の台湾人の文化を変容させた要因と教育方針の因果関係を見ようとする。まず、日 本統治から国民党支配への移行とともに、台湾の文化と台湾人のアイデンティティはどのように 変化していくかという文化変容の過程を考察した。
第3章では、戦後初期の教育に関する文献を網羅して、戦後初期の教育政策の実態を詳細に明 らかにする。具体的に、戦後初期の小学校と中学校の中国語教科書を用いて戦後初期が中華民国 政府は中華民族への一体感の醸成を図るために実施した教育の実態を考察した。
第4章では、これまでの調査から得られた知見をまとめて、研究目的と調査結果の整合性につ いて議論する。本論文の結論、成果および今後の課題について述べた。
以上の検討から、本論文では、4つの成果を得ることができた。
第一に、50年間以上の植民地支配に基づいた戦時教育体制期の教育政策の効果を示した。戦時 教育体制期の教育政策は、台湾人の言語と文化を破壊することで、台湾人のアイデンティティを 日本人化させようとした。自らの台湾文化を否定されて、名前まで日本人のように改名して日本 に帰化した台湾人も少なくない。戦後初期、大半の若年層は中国語を話せなく、中国語教員とし てふさわしい者も非常に少ないという点からみると、戦時教育体制期の効果は非常に高いことが 言える。
第二に、戦後初期の政策の目標は、脱日本化と台湾人のアイデンティティの再構築である。日 本統治の影響を取り除くための脱日本人化に関する一連の政策が過激的で、台湾人の反発を受け た。一方、台湾人のアイデンティティを強制的に中国大陸のアイデンティティに移行させるため の政策も戦時教育体制期の政策の本質であったため、大きな成果をえることができなかった。な ぜなら、文化、言語およびアイデンティティを形成・変容させるためには、きわめて長い時間が 必要であるためである。
第三に、国民党は台湾人を日本統治から解放したが、日本統治期とほぼ似かよった方針で台湾 の住民を統治していることがわかった。台湾住民の地位がほとんど変わらないことが考えられる。
これまでの考察からみればわかるように、日本統治期には、台湾住民の地位は日本人より低い。
それと同様に、中華民国統治の時期には、台湾住民の地位は大陸から来た人より低かった。両時 期は同じく、台湾住民の政治への参画を厳しく制限し、従事できる業種も制限をかけている。
したがって、戦後初期には、中華民国政府は日本統治期と同じく、台湾人を差別しながら、同 化教育を推進し続けていた。ただし、異なる点に関しては、戦時教育体制期の場合、台湾住民は 改姓することで地位を高めることが可能であった。一方、戦後初期の台湾住民は様々な領域で差 別待遇を受けていたが、教育を受ける権利だけは制限されていなかった。
第四に、国民党の過激な教育・文化の改革は逆効果をもたらしたことがわかった。
台湾には、50年間の日本統治により、完全植民地になる危機、つまり民族存続の危機に直面して
きた。国民党はこのような危機感を抱き、日本統治の影響を取り除くために一連の教育・文化に 関する推進策を実施した。しかし、これまでの日本統治の影響が根強く残ており、短期間で根本 的に改善することが不可能であった。ますます過激となる文化、教育政策の実施と深刻化してき た大陸人との対立を無視した結果、台湾の住民は大陸人への優遇と官僚の網紀の崩壊により不満 が頂点に達し、二・二八事件という戦後初期の最大規模の内乱が発生した。多くの民衆はそれに したがって蜂起した。戦時体制期の台湾には、民生安定政策などの効果的な政策の実施により、
農民の反乱はほとんどなかった。しかし、国民党支配により、大規模な内乱が発生した。
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中国民営自動車メーカー吉利汽車のサプライヤーシステムによる研究
―
戦略転換とボルボ買収による変化に着目して―
17LM218G ZHOU JUNJIE(周 峻頡)
本稿の主題は、中国民営自動車メーカーの成功事例である吉利汽車が、どのようなサプライヤ ーシステムを構築し、それは、なぜ、どのように変化したのか、という問いである。この問いに アプローチするため、本稿では、先行研究の状況を踏まえて、戦略転換と成長性を基準とした新 しい3つの時期区分に即して、創業から現在に至る吉利汽車の戦略転換とサプライヤーシステム の変化の全体像について、ボルボ買収後のサプライヤーシステムへの影響も含めて、明らかにす ることを課題としている。
第1章では、模倣による自動車産業への参入が行われた1998~2002年を対象として、次の点 を明らかにした。
当時の吉利汽車は他社の自動車を模倣し、低価格戦略で大衆車市場に参入したものの、吉利汽 車の自動車生産には限界があった。それは手作り方式と二輪車部品の調達である。このような生 産方式によって、自動車の品質問題が相次いで発生したのである。この問題を克服するため、
2000年に、寧波工場という生産拠点を建設し、車体プレスの自動化を実現し、手作り方式から 脱出した。しかし、二輪車部品で生産した自動車の品質は大きな課題として残っている。
第2章では、模倣と技術開発が並行した2003~2007年を対象として、次のことを明らかにし た。
2004年に、吉利汽車は経営改革を行い、長江デルタの部品サプライヤーとの取引関係を構築 したものの、自動車市場における低価格車に対する需要が根強かったため、部品を長江デルタの 中小部品サプライヤーから調達し、低価格車「自由艦」「遠景」を生産した。長江デルタの中小 部品サプライヤーから調達部品の品質は劣化しやすかったため、品質問題が発生し、市場から安 かろう悪かろうと評価された。
また、2007年から、国有・外資合弁自動車メーカーによる大衆車市場への進出が加速した。
大衆車市場において、国有・外資合弁自動車メーカーの低価格・高品質の自動車との競争によ り、吉利汽車は販売低迷になった。
第3章では、戦略転換による高度成長が続いている2008年~現在を対象として、以下のこと を明らかにした。
2008年に、吉利汽車は市場環境に対応するため、「戦略転換」を実施した。長江デルタの中小 部品サプライヤーから外資大手部品サプライヤーに切り替えて、自動車の品質問題が改善され た。さらに、ボルボ買収を通して、ボルボ系の部品サプライヤーとの取引関係を構築した。
以上のように本稿で明らかにしたことの意義は、吉利汽車はサプライヤーシステム再構築の成 功例と位置付けることができる。この一連の変化の中、段階的なサプライヤーシステム構築経験 は、吉利汽車の成功の要因になったのである。他の民営自動車メーカーは吉利汽車を見習う際 に、価格戦略とデザイン模倣に注目するだけではなく、吉利汽車の段階的なサプライヤーシステ
ム構築経験を注目すべきである。
吉利汽車は品質を向上させるために、外資大手部品サプライヤーから調達せざるを得なかった が、このことは同時に、ローカルの中小部品サプライヤーにとっては、吉利汽車のような自動車 メーカーと合同開発や研究などの連携の機会が少なくなり、結果的に、低付加価値の部品を生産 し続けることを余儀なくされていることを意味している。ローカルサプライヤーはいかに品質を 向上させ、高い付加価値の部品の生産に移行できるのかについては、今後の研究課題としたい。
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シビックプライドを醸成させるシティプロモーション手法の研究
―
茨城県常陸大宮市を事例として―
18LM201T 宇野 武寛
我が国の総人口は2008年の1億2,808 万人をピークに減少に転じ,今後も人口減少が見込ま れるなど「人口減少社会」に突入したといえる。このような背景から,政府は「まち・ひと・しご と」創生法を制定し,人口急減・超高齢化という我が国が直面する大きな課題に対して政府一体 となって取り組む中,地方自治体では「地方版総合戦略」において,「地方創生」の取り組みを推 進しているところである。しかしながら,我が国の人口減少の傾向に変化は見られず,全国の市 区町村の約8割で人口が減少しており,特に若い世代の転出超過が多いことから,多くの自治体 では人口が定着していない状況である。
少子高齢化の進展や社会増が見込まれないなど,自治体では地方創生やまちづくりの取り組み により地域の魅力を高め,“選ばれるまち”として,「まち」を売り込む必要がある一方で,”住み続 けたいまち“として,人口を定着させるため,その地域に住む人たちのシビックプライドを醸成す ることが必要である。
このように自治体に向けられる多くのニーズに対応しながら,”選ばれるまち“”住み続けたいま ち“として,シビックプライドを醸成し,地方創生をはじめとしたまちづくりの実現に有効な手段 として考えられるのが,シティプロモーションである。しかし,近年,シティプロモーションに 取り組む自治体が増加している中で,シティプロモーションに取り組む意図が不明確なまま,シ ティプロモーションを行うことが目的となってしまい,成果を上げられない自治体も多くみられ る。
以上を踏まえ,本研究では,シティプロモーションの変遷や現状から,シティプロモーション の考え方を整理したうえで,シティプロモーションとシビックプライドの関係性を明確にし,シ ビックプライドの醸成やまちづくりにおける有効な手段として,シティプロモーションを推進さ せる手法の研究を目的とした。そのうえで,事例対象とした茨城県常陸大宮市においてシティプ ロモーションの活用についての提言を行った。
シティプロモーションに関しては,明確な定義がない現状を確認した。つまり,シティプロモ ーションに取り組む自治体が増える中で,その定義は多様化しており,それぞれの自治体では,
総合計画やまちづくり,政策の中でシティプロモーションを位置づけ,目的を明確にしたうえで 取組を行っていることを明らかにした。そのうえで,シティプロモーションはまち(その地域)
が抱える弱みや課題の解消,解決を図るため,まちが有する強みを活用し売り込むという手法で あった。このようなことから,シティプロモーションは「自治体における『まちづくりの延長』
と捉え,総合計画やまちづくりの経過を『見える化』して,まちが抱える課題を解消,解決する ための『まちの売り込み』である。
シティプロモーションの推進に向けては,まず,シティプロモーションの基礎を確立させるた め,地域を捉えるアプローチ・分析手法を明確にした。地域を捉えるアプローチや分析の手法に ついては,都市規模やシティプロモーションの取組類型による大きな相違はないことを確認した。
そのうえで,住民アンケート調査を軸とした域内からの「内の目」,全国から地方に向けられるニ ーズや情報技術などを活用した域外からの「外の目」,この「内」と「外」の両方の視点を活用す ることにより,アプローチ・分析手法に正当性をもたせ,その結果に真正性を持たせることが可
能となった。
シティプロモーションの推進手法については,地域分析を十分に行なったうえで,まちを売り 込むために,域内外に対して,他自治体と差別化を図り,印象的・魅力的に発信,訴求していく ことが望ましいといえる。
シティプロモーションとシビックプライドの関係性については,「まちづくり」という共通した 目的・目標を持つ中で,それぞれの役割の中で,「まちづくり」を形成するうえでの有機的なつな がり(関係性)であり,シビックプライドを醸成するためには,シティプロモーションは有効な 手段であることを確認した。
このように,シティプロモーションを推進させる手法とは,すなわち,まちづくりにおける政 策の過程を「見える化」し,「内」と「外」の両方の視点を活用して地域の課題や弱み,強みを捉 えて分析する。そして,そこから得た課題を解決するため,強みを活用した「まちの売り込み」
として,関連する取り組みを実施するとともに,他自治体と差別化を図りながら,「まちを売り込 む」ために域内外に対して印象的・魅力的に発信・PRをすることで多くの人に訴求され,ひいて は住民に認知されることにより,シビックプライドが醸成されることである。
以上を踏まえ,常陸大宮市の地域分析を行い,弱みや課題,強みを明らかにしたうえで,常陸 大宮市のシティプロモーションの活用(まちの売り込み)として,「女性が楽しい,楽しめる里山
(satoyama)」を提言した。
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子どもの車内放置に対する法的考察
18LM203G 滝澤 真衣
子どもの車内放置の問題はマスメディアなどにおいて報道させるようになって久しいが、その 問題関心は一過性になりがちである。毎年のように車内放置によって子どもが死亡したという報 道が流れては非難の声があがるということを繰り返しているにもかかわらず、この問題に対して 立法的対応などが進んでいるとは言い難い。本論文の問題関心はそういったサイクルを打ち切る にはどういった方法がとられるべきかという点にある。本論文ではその問題関心に基づき車内放 置の状況を整理すると共に、その危険性について検証したうえでどのような対応が望まれるかを 法的に検討した。
第二章では子どもの車内放置について検討する社会的必要性を明らかにするため、その危険性 について検討した。子どもの車内事故の中で車内放置がどのような位置づけになるのか、また車 内放置によって起こりうる危険性について検討し、車内事故と比較すると頻度は相対的に低いも のの、子どもが死亡する可能性があるにもかかわらず、軽い気持ちで車内放置が行われているこ とを明らかにした。その一方で、子どもを同乗させていることを「失念」し、降ろすことも「失 念」し、その結果として、子どもが死亡する事案があることも明らかにした。
第三章では平成19年7月9日名古屋地方裁判所判決、平成30年2月16日静岡地方裁判所浜 松支部判決、平成30年5月23日山口地方裁判所判決及び控訴審判決、平成30年7月18日大阪 地方裁判所判決及び控訴審判決を用い、車内放置によって子どもが死亡した場合の刑法上の扱い について述べている。またここでは「子どもへの危険性の認識の有無」、「事件以前にも車内放置 をしていた場合その放置をどのように扱っているか」の二点についての比較を加え、その傾向に ついて考察を行った。
第四章では刑事裁判では車内放置による結果が発生してからの対応となるという難点を踏まえ、
車内放置を児童虐待として取り扱い、児童虐待防止法などの社会保障法的に対応していく可能性 について検討した。その中で新聞記事をもとにして明らかになった一般的な児童虐待と異なる車 内放置の特殊性を考慮し、児童虐待の通告で対応することの困難性を示した。また車内放置発見 時に一刻も早い対応が望まれる中で個人がとりうる行動の一つである窓ガラスを破壊する行為が 刑法上、民法上どういった扱いになるかについてもここで言及している。
以上のように検討を踏まえ、第五章で私見を論じた。すなわち、まず、これまで中心となって きた刑法的対応について、刑事裁判の主目的が刑法などに違反した者を罰することである以上事 後的な対応になってしまうという問題から、筆者は子どもの福祉を考えた場合には、現状の刑法 的対応には問題が多いと考える。そのため、児童虐待として社会保障法的に対応することについ て検討を加えた。その結果、児童虐待として対応しようとしたとしても、現状の制度では通告を 受けて対応するまでに時間を有し問題があることを明らかにした。すなわち、車内放置の場合に は、短時間で子どもの身体や生命への危険が発生する性質上有用性に疑問が残るのである。その 上、平成30年2月16日静岡地方裁判所浜松支部判決 のように、それまで子どもに対して虐待 を行っていたこともなく、車内に放置したことも初めてだったというケースもあることを見ても、
虐待の予兆を見つけて事前に対応することも難しい。このように、現状の制度では刑法的対応を とるにせよ児童虐待として扱うにせよその有用性には疑問が残り、子どもの身体や生命を守るの に不十分であるという結論に至った。それゆえに、私見としては車内放置にある程度特化した対
応策が取られるべきであると考える。この点について、具体的に法的にどのように対応していく べきかの詳細な検討は今後の課題としたい。ただし、報道などがされる度に関心が寄せられてい る一方で危険性の認識が甘く車内放置をしてしまうという現状は、その危険性の認識の周知を図 ることによって改善の余地が残されていることを指摘した。