• 検索結果がありません。

Godzilla:The locus of oblivion (Part I) Nobuya H

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2021

シェア "Godzilla:The locus of oblivion (Part I) Nobuya H"

Copied!
20
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

1.はじめに

  「ゴジラ」は,日本が生んだ世界に名だたる映画スターであり,いわゆる「怪獣」の代名詞でもあ る。1954 年に『ゴジラ』が公開されてから,今日までに,東宝によって日本国内向けに制作された ゴジラ映画は 28 作品あり,そのほかに海外での再編集版やオリジナル版も存在する。現在のところ ゴジラ映画の最終作は 2004 年に公開された『ゴジラ ファイナルウォーズ』で,作品は 1954 年以 来半世紀に渡って作り続けられてきたということになる。

 ゴジラと言えば,まず浮かぶのは怪獣対怪獣の怪獣対決ものである。50 年という歳月は映画の観 客層も親―子―孫に渡っており,ゴジラのみならず,モスラ,ラドン,キングギドラといった怪獣 の名前は,多くの日本人の間ではある種の 常識 となっている。しかし,そもそもの 1954 年の

『ゴジラ』では,怪獣はゴジラしか登場しない。度重なる水爆実験によって海底の安住の地を追わ れたジュラ紀の生物であるゴジラは,水爆によって 水爆大怪獣 となって日本を襲う。日本は持 てる兵力を注ぎ込んで立ち向かうがゴジラには歯が立たない。ゴジラは東京を蹂躙し破壊の限りを 尽くすが,ついには原水爆を超える強力な兵器となり得るオキシジェンデストロイヤーによって開 発者の科学者とともに東京湾の海底に消える。娯楽作品ではあるが,反戦・反原水爆・科学への期 待と不安等のテーマが読み取れる作品となっている。

 1 作目の『ゴジラ』がそうであったように,その後のゴジラ作品の多くで,怪獣と並んでゴジラ と幾度となく戦ったのは,実は日本の保有する戦力,軍隊であった。28 作品中の数本を除いて日本 の軍隊は必ず出動し何らかの戦闘を行っている。ところで近年の作品,とりわけ新世紀シリーズと 呼ばれる一群の作品において,ゴジラ映画が カッコいい軍隊 , カッコいい兵器 を描き,町中 をライフルをもった兵隊たちが当たり前に闊歩する映像を繰り返す軍隊映画,武力映画のように なってしまっているのではないか,という印象がある。ゴジラ映画は娯楽映画であり,娯楽映画は 往々にしてその折々の時代の雰囲気を反映し,人々が観たいと望むものを描き出す。ゴジラ作品

ゴジラ〜忘却の軌跡〜(その 1)昭和期シリーズ

林 延哉 *

(2007 年 11 月 30 日 受理)

Godzilla:The locus of oblivion (Part I)

Nobuya H AYASHI * (Received November 30, 2007)

茨城大学教育学部(〒 310-8512 水戸市文京 2-1-1)

*

(2)

も,個々の作品の作られた時代を反映しながらその内容,作風を変えてきた。上記のような武力の 露出もまた,現代の日本のいわゆる保守化・右傾化を敏感に反映した結果かもしれない。人々は強 い軍隊を見たいと願っているのかもしれず,逆にゴジラ作品によって観客である子どもたちは軍隊 や武力が町中に当たり前にある世界に馴染んでしまうのではというような杞憂とも言える不安も又 そこには感じざるを得ない。

 そこで,本論文では,シリーズ継続 50 年,観客動員数延べ 9925 万人というゴジラ作品における,

ゴジラ と武力・軍隊の描かれ方の変遷を辿ってみたい。そこには我々日本人の,戦争や武力へ の態度が映し出されており,そしてそれはおそらくは,戦後 60 年に渡るアジア太平洋戦争の惨禍と 教訓の忘却の軌跡でもあると思われるからだ。

2.ゴジラ作品の制作年代について

1)

 東宝によって国内向けに製作されたゴジラ作品は現在のところ, 1954 年の『ゴジラ』から 2004 年 の『ゴジラ ファイナルウォーズ』までの 28 本である(表 1) 。単純計算すれば大体 2 年に 1 本の 割合で制作されていることになるが,実際には制作時期によって大まかにいくつかのグループに区

表 1 ゴジラ作品

観客動員数 脚本 (人)

特技監督等 監督

封切り 作品名

9,610,000 円谷英二 村田武雄

(特殊技術)

本田猪四郎 1954. 11. 3

ゴジラ

8,340,000 村田武雄

円谷英二 小田基義

1955. 4. 24 ゴジラの逆襲

12,550,000 関沢新一

円谷英二 本田猪四郎

1962. 8. 11 キングコング対ゴジラ

7,200,000 関沢新一

円谷英二 本田猪四郎

1964. 4. 29 モスラ対ゴジラ

5,410,000 関沢新一

円谷英二 本田猪四郎

1964. 12. 20 三大怪獣地球最大の決戦

5,130,000 関沢新一

円谷英二 本田猪四郎

1965. 12. 19 怪獣大戦争

4,210,000 関沢新一

円谷英二 1966. 12. 17 福田 純

ゴジラ・エビラ・モスラ南海の大決闘

3,090,000 関沢新一・

斯波一絵 有川貞昌/円谷英二 福田 純 (監修)

1967. 12. 16 怪獣島の決戦ゴジラの息子

2,580,000 馬場 薫・

本田猪四郎 有川貞昌/円谷英二

本田猪四郎 (監修)

1968. 12. 20 怪獣総進撃

1,480,000 関沢新一

東宝特殊技術部(特 殊技術)/円谷英二

(監修)

本田猪四郎 1969. 12. 29

ゴジラ・ミニラ・ガバラ オール怪獣 大進撃

1,740,000 馬淵 薫・

中野昭慶(特殊技術) 坂野義光 坂野義光

1971. 7. 24 ゴジラ対ヘドラ

1,780,000 関沢新一

中野昭慶(特殊技術)

1972. 3. 12 福田 純 地球攻撃命令ゴジラ対ガイガン

980,000 福田 純

中野昭慶(特殊技術)

福田 純 1973. 3. 17

ゴジラ対メガロ

1,330,000 福田 純・

中野昭慶 山浦弘靖 1974. 3. 21 福田 純

ゴジラ対メカゴジラ

970,000 高山由紀子

中野昭慶 本田猪四郎

1975. 3. 15 メカゴジラの逆襲

3,200,000 永原秀一

中野昭慶 橋本幸治

1984. 12. 15

ゴジラ

(3)

分することができる(以降の,昭和期・平成・新世紀の区分は藤川(2004)によっている) 。  最も大きな区分は,1984 年に公開された第 16 作『ゴジラ』以前と以降の区分である。 『ゴジラ』

(1984,以降作品名の後のカッコ内の西暦は作品の公開年を示す)とその前作 1975 年公開の『メカ ゴジラの逆襲』との間には 9 年の間隙がある。1975 年当時,既に時代は映画からテレビへと移って おり,映画は全般に不振に喘いでいたし,とりわけ子どものヒーローはテレビの中に存在した。 東 映マンガ祭り , 東宝チャンピオンまつり といった,夏・冬・春の学校の休みの時期に上映され た子ども向け企画も,テレビの実写・アニメ作品を劇場用にリメイクしたものを中心に構成されて いた。東宝チャンピオンまつりの枠内で 1 年 1 作の新作を作り続けてきた東宝もこの作品でゴジラ シリーズにいったん終止符を打ったのだ。

  『ゴジラ』 (1984)は,それまでのゴジラ作品を,物語として継続する一連のシリーズとして見る とするならば,1954 年版『ゴジラ』以降の全ての作品をいわばなかったものとして,1954 年の『ゴ ジラ』に物語を直結している。また,1954 年版『ゴジラ』同様,1984 年版『ゴジラ』には怪獣はゴ ジラしか登場しない。このような特徴は, 『ゴジラ』 (1984)が意識的にゴジラの 原点 への回帰を 目指したために生まれたものである。

 しかし『ゴジラ』 (1984)は『ゴジラ』 (1954)のリメイクではない。映画の舞台は映画公開当時の 現代であるし,舞台の日本は,かつて一度ゴジラに遭遇したことのある日本である。そしてこの 『ゴ ジラ』において,ゴジラと戦う相手として「自衛隊」がはっきりと描かれ,定位されている。これ もまたこの作品の大きな特徴となっている。

 通常, 『ゴジラ』 (1984)を含んで,次作『ゴジラ VS ビオランテ』 (1989)から『ゴジラ VS デスト ロイア』 (1995)の 7 作品は,それ以前の「昭和期シリーズ」に対して「平成シリーズ」として括ら れる。 『ゴジラ VS ビオランテ』から『ゴジラ VS デストロイア』までの 6 作品はいずれもゴジラと 対戦相手の怪獣の名前が「VS」で繋がれるために「VS シリーズ」と呼ばれることもある。

2,000,000 大森一樹(原案,

小林晋一郎)

川北紘一 大森一樹

1989. 12. 16 ゴジラ VS ビオランテ

2,700,000 大森一樹

川北紘一 1991. 12. 14 大森一樹

ゴジラ VS キングギドラ

4,200,000 大森一樹

川北紘一 大河原孝夫

1992. 12. 12 ゴジラ VS モスラ

3,800,000 三村 渉

川北紘一 大河原孝夫

1993. 12. 11 ゴジラ VS メカゴジラ

3,400,000 柏原寛司

川北紘一 1994. 12. 10 山下賢章

ゴジラ VS スペースゴジラ

4,000,000 大森一樹

川北紘一 大河原孝夫

1995. 12. 9 ゴジラ VS デストロイア

2,000,000 柏原寛司・

鈴木健二 三村 渉 大河原孝夫

1999. 12. 11

ゴジラ 2000―ミレニアム―

1,350,000 柏原寛司・

鈴木健二 三村 渉 手塚昌明

2000. 12. 16 ゴジラ×メガギラス G 消滅作戦

2,400,000 長谷川圭一・

横谷昌宏・

金子修介 神谷誠(特撮技術)

金子修介 2001. 12. 15

ゴジラ モスラ キングギドラ 大怪 獣総攻撃

1,700,000 三村 渉

菊地雄一(特撮技術)

手塚昌明 2002. 12. 14

ゴジラ×メカゴジラ

1,100,000 手塚昌明

浅田英一(特撮技術)

手塚昌明 2003. 12. 13

ゴジラ×モスラ×メカゴジラ―東京 SOS―

1,000,000 三村 渉・

浅田英一(特撮技術) 桐山 勳 2004. 12. 4 北村龍平

ゴジラ ファイナルウォーズ

(4)

 平成シリーズは,個々独立した作品ではあるが,一連の連続したシリーズとしても構成されてい る。即ち,新作が常にそれまでの作品を参照・引用することで,世界観の緩やかな共有がなされて いる。 『ゴジラ』 (1984)は,いわば平成シリーズのプロローグにあたる。 『ゴジラ VS ビオランテ』は

『ゴジラ』 (1984)でゴジラによって破壊された東京の場面から始まる。1991 年の『ゴジラ VS キン グギドラ』 ,1992 年の『ゴジラ VS モスラ』は『ゴジラ VS ビオランテ』と同じ大森一樹脚本の作品 で,それぞれに趣向は異なっているが,共通する登場人物を配し,作品の連続性を保っている。

1993 年の『ゴジラ VS メカゴジラ』は監督・脚本とも大森一樹の手を離れるが,ゴジラと対する人 間側兵器であるメカゴジラの基幹部分は『ゴジラ VS キングギドラ』で海底に沈んだサイボーグキ ングギドラから回収された技術を利用しているという設定になっている。共通する登場人物も継続 して登場し,それまでの平成シリーズ作品との連続性を意識的に演出している。1994 年の『ゴジラ VS スペースゴジラ』は内容的にまったく『ゴジラ VS メカゴジラ』の続編である。1995 年の『ゴジ ラ VS デストロイア』は脚本に再び大森一樹が復帰,一連の平成シリーズの最終作にふさわしい集 大成作品となっている。この作品も『ゴジラ』 (1954)との連続性を強く打ち出し,一連の VS シリー ズをまとめあげている。この作品でゴジラは死ぬことになるのだが,単にゴジラを殺すことで終え なかった点も,この作品がこれに続く作品と比して,ゴジラとはどのような存在なのかを意識して いたといえるであろう。

  『ゴジラ VS デストロイア』で平成ゴジラシリーズはいったん閉幕する。次作は 1999 年の『ゴジ ラ 2000 ミレニアム』になるのだが,この間にハリウッド製『Godzilla』が公開されている。この作 品は,設定的には日本のゴジラ作品とはまったく関係がない。

  『ゴジラ 2000 ミレニアム』以降, 『ゴジラ×メガギラス G 消滅作戦』 (2000) , 『ゴジラ モスラ  キングギドラ 大怪獣総攻撃』 (2001,通称『GMK』と呼ばれることが多い。本論文でも以降字数の 関係から『GMK』と表記する) , 『ゴジラ×メカゴジラ』 (2002) , 『ゴジラ×モスラ×メカゴジラ―東

京 SOS―』 (2003) , 『ゴジラ ファイナルウォーズ』 (2004)までは新世紀シリーズ(あるいはミレニ

アムシリーズ)と呼ばれる。 『ゴジラ 2000 ミレニアム』が平成シリーズの『ゴジラ』に当たる新世 紀シリーズのプロローグ的作品, 『ゴジラ×メガギラス』 『ゴジラ×メカゴジラ』 『ゴジラ×モスラ×メ カゴジラ―東京 SOS―』は手塚昌明監督作品で共通したテイストを持つ新世紀シリーズを代表する 作品群( 『ゴジラ×モスラ×メカゴジラ―東京 SOS―』は『ゴジラ×メカゴジラ』の続編で,内容的 にも連続している) , 『GMK』は平成ガメラ三部作の金子修介監督による異色作,そして『ゴジラ  ファイナルウォーズ』は作品制作年としては新世紀シリーズの流れの中にあるが,内容的にもテイ ストとしても新世紀シリーズとは異なる新たな可能性を見せた作品となっている。

  『ゴジラ VS ビオランテ』は,新たに大森一樹監督,川北紘一特技監督を登用,原案は公募し,音 楽も伊福部昭ではなくゲーム音楽の制作等で人気のあったすぎやまこういちが担当するなど,新た なゴジラ作品を生み出すべく企画された。残念ながら,興行的には期待された成績を上げるにはい たらなかったが,平成期以降のゴジラシリーズの全ての作品は, 『ゴジラ VS ビオランテ』がゴジラ シリーズの中に持ち込んださまざまなもののいずれかの部分を誇張した作品であると言えるのでは ないかと筆者は考えている。ただし, 『ゴジラ ファイナルウォーズ』は『ゴジラ VS ビオランテ』

も無視した昭和期の作品をも取り入れて陽性の SF 活劇となっている。ゴジラ作品の新たな可能性

を伺わせる作品であるが,残念ながらこの作品も興行的には振るわなかった。

(5)

  『ゴジラ』 (1984)以前の 15 作品は,通常,昭和期シリーズとしてひとくくりにされるが,もちろ んその 20 年余りの歴史の中にはいくつかの転機がある。

 大きな区切りとなるのは,1969 年の『ゴジラ・ミニラ・ガバラ オール怪獣大進撃』である。こ れ以降の『ゴジラ対ヘドラ』 (1971) , 『地球攻撃命令ゴジラ対ガイガン』 (1972) , 『ゴジラ対メガロ』

(1973) , 『ゴジラ対メカゴジラ』 (1974) , 『メカゴジラの逆襲』 (1975)は, 「東宝チャンピオンまつり」

の中の一作品として上映されている。以前の作品でも,家族向け作品として子どもの観客も想定し て制作されていたのはまちがいないが,東宝チャンピオンまつりの枠内で『巨人の星』や『みなし ごハッチ』等のテレビの人気アニメとの同時上映となれば,今まで以上に低年齢の観客を想定して 作品を作ることが必要になってくる。この時期には制作費も厳しく切り詰められるようになってき ている。また『オール怪獣大進撃』の前々作から特技監督であった円谷英二が特技監修に移ってお り,監修としてもゴジラ作品では『オール怪獣大進撃』が最後の作品となっている(円谷英二は 1970 年 1 月に逝去) 。

 ゴジラの歴史は本田猪四郎監督・円谷英二特殊技術による『ゴジラ』 (1954)から始まる。この作 品が興行的に大きな成功を納めたことで,すぐさま続編の『ゴジラの逆襲』 (1955)が制作される。

この作品では,ゴジラはアンギラスという怪獣と戦っており,ゴジラ作品における怪獣対決の歴史 がここから始まる。

 この作品のあと,1962 年の『キングコング対ゴジラ』までゴジラ作品は途絶えるが,この間本田 猪四郎監督・円谷英二特技監督のコンビは, 『空の大怪獣・ラドン』 (1956) , 『地球防衛軍』 (1957) ,

『美女と液体人間』 (1958) , 『ガス人間第一号』 (1960) , 『モスラ』 (1961)等の作品を制作している。

後にゴジラ作品の常連となる怪獣ラドンとモスラは,それぞれ単独の主演としてこの間に登場して いる。

 1962 年の『キングコング対ゴジラ』は東宝創立 30 周年記念作品として,アメリカを代表する怪 物キングコングをゴジラとの対戦相手として招聘して制作された。30 周年記念作品にふさわしく,

明るいお祭り騒ぎ的な作品となっている。1964 年には『モスラ対ゴジラ』が公開, 『モスラ』 (1961)

で単独デビューした巨大な蛾の怪獣モスラがゴジラの対戦相手として登場している。同年に『三大 怪獣地球最大の決戦』も封切られ,この作品以降『怪獣大戦争』 (1965) , 『ゴジラ・エビラ・モスラ 南海の大決闘』 (1966) , 『怪獣島の決戦ゴジラの息子』 (1967) , 『怪獣総進撃』 (1968)と毎年新作が公 開された。1954 年の『ゴジラ』は,1 本での封切り, 『ゴジラの逆襲』から『ゴジラの息子』までは 二本立て, 『怪獣総進撃』は『海底軍艦』 (1963 年公開)と短編アニメの三本立てでの公開であった。

併映にはモスラ作品で小美人を演じた双子の人気デュオ,ザ・ピーナツ主演のミュージカルドラマ

『私と私』や仲代達矢主演の戦争もの『蟻地獄作戦』 ,あるいはクレージーキャッツ主演の無責任シ リーズや,加山雄三主演の『エレキの若大将』など必ずしもいわゆる子どもだけを対象とした公開 ではなく,若者向け,あるいは家族で楽しめる番組として組み合わされている。そして 1969 年の

『ゴジラ・ミニラ・ガバラ オール怪獣大進撃』からは東宝チャンピオンまつりの中の一作として 上映されるようになる。

 冠木(1993)は,ゴジラ作品を「1950 年代ゴジラ映画創造期」 ( 『ゴジラ』と『ゴジラの逆襲』 ) ,

「1960 年代ゴジラ映画変貌期」 ( 『キングコング対ゴジラ』から『オール怪獣大進撃』 ) , 「1970 年代ゴ

ジラ映画分身期」 ( 『ゴジラ対ヘドラ』から『メカゴジラの逆襲』 ) , 「1980 年代ゴジラ映画原点期」 ( 『ゴ

(6)

ジラ』 (1984)と『ゴジラ VS ビオランテ』 ) , 「1990 年代ゴジラ映画再生期」 ( 『ゴジラ VS キングギド ラ』以降。冠木の文章は 1993 年のもので『ゴジラ VS メカゴジラ』までが含まれている)と区分し 命名している。1950 年代は特殊技術を主役とした作品としての『ゴジラ』を生み出した時期,1960 年代は変貌する日本人,大人から若者,そして少年へと変化する客層にあわせて映画が変貌を重ね た時期,1970 年代は善玉と化したゴジラが,かつての猛々しく憎々しい自分自身のイメージを持つ 悪玉怪獣と戦うことになった時期としている。分身期の作品群は,進化した未来文明と現代の地球 文明との戦いを描き文明批評をも描き得る内容であったが,ゴジラ自身は人間の味方として現代文 明を無思慮に肯定してしまっていると冠木は指摘している。

 次章以降では,先の時代区分に沿って(冠木の区分も参考としつつ) ,本論の主題である武力・軍 隊の描かれ方の変遷を見ていくが,実は,武力・軍隊の描かれ方の違いもまたこの時代区分を反映 したものとなっている。

3. 『ゴジラ』 (1954)〜全ての始まり〜

3.1.   概要と第 1 作の内包する意味

 ジュラ紀の生物の末裔とおぼしき身長 50m,体重 2 万 t の怪獣が,度重なる水爆実験のために太 平洋の海底の安住の地を脅かされ浮上,日本に向かう。防衛隊の攻撃にもびくともしない怪獣(最 初の上陸地である大戸島に古くから伝わる伝説にちなんでゴジラと呼ばれることになる)は,東京 に上陸,放射能の熱線を吐き散らしながら首都を焦土と化して東京湾に消える。防衛隊の兵力では 太刀打ちできないゴジラに対して,化学者芹沢大助青年は,密かに開発していた水中の酸素破壊剤 オキシジェンデストロイヤーを用いて,自らの命共々ゴジラを東京湾の海底に葬る。

 これが,日本初の特撮怪獣映画『ゴジラ』のあらすじである。1954 年 11 月 3 日の封切りととも に絶大な人気を博し,観客動員数は 961 万人に至った。この数値は後の全てのゴジラ作品を通して も第 2 位の記録である。

 もともとは, 1954 年 4 月にクランクインを予定していたインドネシアとの合作映画の企画が頓挫 しその穴を埋めるために急遽考えられた企画だった。前年米国でヒットした『原子怪獣現わる』に ヒントを得て,プロデューサーの田中友幸がインドネシアからの帰路の航空機内で考えたという

『海底二万哩から来た大怪獣』のアイディアが元になっている。 「人間が作り出した核に,人間が復 讐される。その恐怖を映像にする」というコンセプトの作品である(テレビマガジン,2007) 。   『ゴジラ』は,その後のゴジラ作品の原点となるにふさわしく,その後の作品の中で変奏される 様々な要素をすでに含んでいる。

 あらすじは先のように「放射能を吐く大怪獣が日本を襲う」というものであるが,まずこの大怪 獣ゴジラは,房総半島沖の孤島大戸島に古くから伝えられている伝承の生き物とされている。長く 時化の続く時には若い娘を生け贄として捧げ,現在も厄払いとしてその際の神楽舞いが残ってい る。ゴジラは荒ぶる神であり,アニミズム的な自然現象と一体のものでもあった。

 一方発見後のゴジラについては,古生物学者によって「ジュラ紀から白亜紀にかけて棲息してい

た海棲爬虫類から陸上獣類への進化の途上の中間型の生物」とされる。海中でも陸上でも棲息でき

(7)

るこの生物は長い年月海底の洞窟で生きながらえてきたものが,繰り返される水爆実験によって生 息環境を破壊され海上・地上へと上がってきたのだとされる。 「自然」 「神」に対して,こちらはあ くまでも一個の「生物」という捉えである。

 水爆によって安住の地を奪われたゴジラは,水爆という人間の生み出した兵器の被害者であり,

科学の犠牲者でもある。人間の戦争や科学への自然の側からの報復でもあり,神の怒りとも捉えら れる。と同時に水爆のエネルギーによって口からは放射能を含んだ白熱線を吐き,5 万ボルトの電 流にも耐える無敵の強靭さを獲得した,人間の科学が生み出した大怪獣でもある。

 ゴジラを,自然や神として捉える視点は,ゴジラが水爆によって生み出された点と相まって, 『ゴ ジラ』を反戦・反原水爆映画と捉える視点を生む。環境問題を提起しているという解釈も可能であ る。一方,ゴジラをあくまでも「生物」として捉える視点は,後の『ゴジラ VS ビオランテ』にお いてバイオメジャーによるゴジラ細胞争奪戦として十全に展開されることになる。

 怪獣の登場する特撮部分に対して本編と呼ばれる人間の役者によるドラマの部分の主な登場人物 は,南海サルベージの青年所長の尾形秀人,彼の恋人の山根恵美子,恵美子の父で古生物学者の山 根恭平,山根恭平が娘の婿にと見込んでおり本人も密かに恵美子に心を寄せる青年化学者芹沢大 助,防衛隊の武力を持ってしても制圧できないゴジラを撃退することのできる発明を芹沢が行った ことを聞きつける新聞記者萩原らである。

 芹沢は恵美子に密かに思いを寄せているが戦争で受けた顔の傷を苦にしてか,その気持ちを恵美 子には明かさない。恵美子は芹沢を兄のように慕ってはいるが尾形という恋人が居る。芹沢自身も 恵美子と尾形との関係には気づいている。恵美子の父の山根恭平は恵美子の婿に芹沢をと考えてい て,恵美子に尾形という恋人が居ることを知らない(あるいは知っていて無視している) 。尾形と山 根恭平とは面識があり,山根の自宅に上がることもある関係であるが,尾形も恵美子も自分たちの ことを山根に切り出せないでいる。

 芹沢と恵美子と尾形の三角関係は,本編の重要なテーマとなっている。芹沢がゴジラと共に自ら の命を断つのは,一つには恵美子へのかなわぬ恋情のためである。後のゴジラ作品では,観客年齢 の低下もあってか,テーマとして恋愛が取り上げられることはあまりない。 『怪獣大戦争』における 宇宙人と地球人との悲恋, 『メカゴジラの逆襲』における宇宙人に協力する地球人の娘と地球人との 悲恋が挙げられる程度であろう。しかし,美しいヒロインは欠かせぬ存在となり,主人公格の男性 との間のほのかな慕情はしばしば描かれることになる。平成期に入るとヒロインは主人公のアシス タント的な役回りだけでなくキーパーソンや主役を演じるようになり,新世紀シリーズの『ゴジラ

×メガギラス』 , 『ゴジラ×メカゴジラ』 , 『ゴジラ×モスラ×メカゴジラ―東京 SOS―』は戦闘美少女 ものとしても展開されている。

 ゴジラ作品には科学者が欠かせない。役割の軽重はあっても何らかの形で必ず科学者が登場す る。 『ゴジラ』では,山根と芹沢という二人の科学者が中心人物として登場する。

  『ゴジラ』では,ゴジラは,人間の科学が生み出した怪獣であるが,人間の持つ武力によっては制

圧できず,最終的に科学の力によって撃退される。人間の科学が生み出した暴力を,人間は自分た

ちが保有する暴力で制御できず,結果的に再び科学の力に頼るという構造になっている。科学に対

する批判,科学が 悪用 されることへの批判,そして 善用 される科学への期待と不安,そう

したテーマがここからは導びかれる。

(8)

 ゴジラを消滅させるオキシジェンデストロイヤーを発明した芹沢は,黒いアイパッチという風貌 や最終的にゴジラと共に自死するという悲劇的な結末からマッドサイエンティスト的に扱われるこ とも多いが,実際には,自らが研究の途上で偶然生み出してしまったオキシジェンデストロイヤー の破壊力の凄まじさに,それが武器として用いられることを怖れ,また,自らの人間としての弱さ 故にそれを武器として使用してしまう可能性を否定できないことに苦悩する,悩める若き善良な科 学者である。この人物像は『ゴジラ VS ビオランテ』の若き遺伝子工学者である桐島一人の人物像 に重なる。一方の山根は,大戸島と東京へのゴジラの上陸でその破壊力の恐ろしさを目の当たりに しながらなお,科学的研究の生きた素材としてのゴジラの抹殺に反対し, 「ゴジラは日本人に今なお 覆い被さる水爆そのものだ」とゴジラ抹殺に賛成する尾形を家から追い出してしまう。この科学至 上主義的な態度は,そのエゴイスティックな側面から見ればやはり『ゴジラ VS ビオランテ』に登 場する遺伝子工学の権威白神博士に重なるであろう。白神博士は自らの娘の 命 を守るためにビ オランテを生み出してしまう。科学至上主義という点で言えば山根や白神こそがマッドサイエン ティストである。

  『ゴジラ』には,政治とジャーナリズムも登場する。山根らを調査隊として大戸島に派遣するのは 国会であり,調査結果を国会専門委員会で報告するシーンでは,与党と野党の議員がゴジラの存在 の報道の是非を巡って対立する場面を前に沈黙する山根ら科学者とあきれ顔で眺める新聞記者萩原 が映る。後の『ゴジラ』 (1984)ではゴジラ対策の中心となる政府機関も『ゴジラ』においてはほと んど無力な存在として描かれ,紛糾する国会の様子や「バカヤロー」発言など,現実の国会での出 来事を思わせるシーンを含んでちらっと揶揄するのみである。

 ジャーナリストは本来,大衆への 真実 の報道のために,武力・科学・政治のいずれの側に属 することなく,かつその奥にまで侵入してゆく存在であり,時には物語全体の進行に関わる重要な 役割を担わせやすい存在である。 『ゴジラ』では,芹沢が秘密裏にゴジラに対抗可能な発明をしてい るという話を恵美子の耳に入れるのは新聞記者の萩原であり,これをきっかけに芹沢が恵美子にそ の秘密を見せてしまうことが物語を悲劇の結末へと導いていく。萩原は映画冒頭の漁船遭難のシー ンから大戸島でのゴジラとの遭遇,そしてラストのオキシジェンデストロイヤーによるゴジラ攻撃 の船上まで常に登場しており,物語の全てを目撃した人物でもある。 『モスラ対ゴジラ』 , 『怪獣島の 決戦ゴジラの息子』 , 『ゴジラ』 (1984) , 『GMK』ではジャーナリストが主人公となっている。一方,

『ゴジラ×モスラ×メカゴジラ―東京 SOS ―』では,漂着した怪獣の中継報道をしているレポー ターを自衛隊員が「万一のために下がっていただいています」と追い出そうとし「我々には報道の 自由があります」と反論するレポーターに対して「無制限の取材等認められません」と兵士 2 名に よって現場から強制的に排除されるシーンが,肯定的に描かれている。昭和期のゴジラシリーズに おけるジャーナリストの姿と見比べると,この 50 年の間の,ジャーナリズムの正義への期待が如何 に失われ失墜していったかが象徴されていて面白いが,同時期の『GMK』では,超常現象専門の弱 小デジタルテレビ局のレポーターが命がけで報道する姿が描かれている。

  『キングコング対ゴジラ』 , 『モスラ対ゴジラ』で中心となってくる 企業 は, 『ゴジラ』ではまだ

登場してこない。 『キングコング対ゴジラ』 , 『モスラ対ゴジラ』では,怪獣を日本に呼び込むのは利

潤の追求を最優先とする企業の論理であり,本編の主人公も企業の人間であったり,企業と対立し

たりするのだが,やはりこれは 1960 年代に入ってからのテーマである。

(9)

3.2.  『ゴジラ』における武力描写  

  『ゴジラ』は終戦後 9 年目の 1954 年に作られた。未曾有の怪獣に襲われる首都東京の描写は,空 襲によって破壊される東京の姿そのままに描かれている。木原(2001)は『ゴジラ』で本多猪四郎,

円谷英二が見せたかったのは東京大空襲の再現だと指摘している。同様の指摘は藤川(2004)にも あるが,指摘通り作品中随所に戦災的表現が散りばめられている。

 事件の発端となる漁船三隻の連続遭難を報道する新聞の見出しには「浮流機雷か? 海底火山脈 の噴出か!」とあるし,ゴジラについての報道を読む電車の中の男女は,

  女   「やなこった。せっかく長崎の原爆から命拾いしてきた,大切な身体なんだもの」

  男1  「そろそろ疎開先でも探すとするかな」

  女   「私にもどっか探しといてよ」

  男2  「あ〜あ,また疎開か,まったくやだなぁ」

といった会話を交わす。

 ゴジラ上陸後の炎上する銀座の街角で,逃げ遅れた母親が幼い 3 人の子どもを抱きながら「お父 様のそばに行くのよ,ね,もうすぐ,もうすぐお父様のところに行くのよ」と子どもたちに言い聞 かせる。当時この映画を見た者は誰もが,この子どもたちの父親は先の戦争で死んだのだと自然に 思ったに違いない。機雷,原爆,疎開といった言葉が日常の中にリアルな経験の一部として残って いる時代である。

 1954 年は自衛隊法が施行され自衛隊が発足した年である。自衛隊の前身は保安隊,その前は警察 予備隊であるが,映画の中でゴジラと戦う軍隊は防衛隊と呼ばれている。映画冒頭には「賛助 海 上保安庁」とクレジットされ,物語の発端となる貨物船の連続遭難事故に際して,詰めかける乗組 員の家族達に対して誠実に対応する海上保安庁職員の姿が描かれている。一方,自衛隊・防衛庁に 関連するものは一切クレジットには出てこない(映像中には自衛隊の実写フィルムが一部登場す る) 。映画の中での武力は,海上保安庁と防衛隊とは区別して描かれていない。が,ゴジラ登場後の 戦力は,戦闘機,戦車など海上保安庁のものとは考えられないものが主となり,対ゴジラ戦を担う 武力の中心は防衛隊のものであると考えて間違いないであろう。

 ゴジラの本土接近に対してはフリゲート艦隊が出動し爆雷による攻撃を行う。上陸しようとする ゴジラに対しては陸上からは機関銃による銃撃,上陸後は戦車による攻撃,また戦闘機からのミサ イル攻撃を行っている。が,機関銃は何の足しにもならず,戦車もゴジラの吐く白熱線で炎上,戦 闘機のミサイルも叩き落とされて,結局ゴジラは海に逃れる。ゴジラ対策全般の指揮をとる「特設 災害対策本部」は 5 万ボルトの電流を流した有針鉄条網を海岸線に張り巡らし,上陸したゴジラを 感電死させようという作戦をたて官民一体で防衛線を完成させるがあっけなく突破されてしまう。

 攻めて来た巨大な敵に対して,艦隊・戦車・戦闘機は当然の如く登場し攻撃する。が,当然であ るが故にことさらに強調されもせず,美化されて描かれるわけでもない。合計にして 9 分余りの攻 撃時間であり,描かれるのはゴジラを前にした時の武力の無力さである。

 ゴジラが東京を襲い海に去って一夜明けた対策本部は,被災した人々の臨時の収容所となってい

る。屋内は負傷者で埋まり,子どもがガイガーカウンターで被爆状況を測定されている。看護婦が

(10)

忙しく行き来し,衛生班が次々と負傷者を運び込み,遺体を運び出す。母を失った子どもが突如大 声で泣き始め,恵美子は思わずその子を抱きしめる。その情景は,空襲後の状況なのだと言っても 違和感はない。 「平和の祈り」の合唱が流れ,被災地と被災者の姿が映し出される。それはそのまま 反戦を祈願する姿になっている。

 ゴジラに対して人間の保有する武力はまったく歯が立たない。結局,ゴジラを倒したのは科学に よる発明であったが, 『ゴジラ』では防衛隊と科学者とは距離を置いている。これはその後のゴジラ 作品,とりわけ新世紀シリーズとは大きく異なる部分である。新世紀シリーズでは,科学は武力を 生み出すための技術として武力の一部として取り込まれてしまっている。芹沢は,そもそも軍事転 用を怖れて世間からオキシジェンデストロイヤーを隠しているし,山根も防衛隊のゴジラ抹殺の方 針には反対の立場を取っている。 『ゴジラ』には, 「原水爆のような科学の 悪用 を警戒しつつ(し かしゴジラという未曾有の災害から人類を救ったのも科学の力である) ,武力に頼ることなく(自然 の怒り,人間の生み出した驚異的な暴力に対して,武力は結局無力なもの) ,平和な世界を築いてい こう」というメッセージを見いだすことが出来るが,このメッセージは科学が武力に取り込まれ,

科学が武力に奉仕する新世紀シリーズでは見いだしにくい。

  『ゴジラ』を反戦映画・反原水爆映画とすることの是非については様々な論評が行われているが,

山根の「あのゴジラが最後の一匹だとは思えない。もし,水爆実験が続けて行われるとしたら,あ のゴジラの同類がまた世界のどこかに現れてくるかもしれない」という言葉からも,少なくとも武 力を称揚したり,原水爆を肯定的に描こうとしているとは読めない。当時の観客の中の消しようの ない戦争の記憶を想起させながら,広島・長崎を経験しながらもなお原水爆を作り続ける人間,そ れを止めることの出来ない人間の愚かさを娯楽映画の枠内で描いたものであることは間違いない。

したがって,武力に対しても肯定的ではありえず,ただし一方では,攻撃に対する反撃は当然のこ ととして,ことさらに否定しているわけでもない。これが当時の,時代の持つリアリティであった のだろう。

4. 『ゴジラ』以降の昭和期シリーズ

  『ゴジラ』 (1954)以降の昭和期シリーズは, 『ゴジラの逆襲』 (1955) , 『キングコング対ゴジラ』

(1962) , 『モスラ対ゴジラ』 (1964) , 『三大怪獣地球最大の決戦』 (1964) , 『怪獣大戦争』 (1965) , 『ゴジ ラ・エビラ・モスラ南海の大決闘』 (1966) , 『怪獣島の決戦ゴジラの息子』 (1967) , 『怪獣総進撃』 (1968) ,

『ゴジラ・ミニラ・ガバラ オール怪獣大進撃』 (1969) , 『ゴジラ対ヘドラ』 (1971) , 『地球攻撃命令 ゴジラ対ガイガン』 (1972) , 『ゴジラ対メガロ』 (1973) , 『ゴジラ対メカゴジラ』 (1974) , 『メカゴジラ の逆襲』 (1975)の 14 作品となる。

4.1.  『ゴジラの逆襲』〜怪獣対決と自己犠牲のヒロイズム〜  

 第 2 作『ゴジラの逆襲』は,第 1 作『ゴジラ』の成功を受けて作られた続編で『ゴジラ』の半年

後に公開された。本作の眼目は,ともかくもゴジラを登場させることであったと思われるが,前作

で東京を襲ったゴジラは今回は大阪を破壊する。新機軸は新たな怪獣アンギラスで,この作品で怪

(11)

獣同士の対決という形式が登場する。

  『ゴジラの逆襲』本編の主人公は,漁業会社に所属する二人のパイロットで,魚群探索中にゴジラ とアンギラスを発見する。人間側の対ゴジラ戦力は 防衛隊 のとりわけ戦闘機隊である。二人の 主人公が戦闘機隊の隊員と旧交を温めるシーンがあるが,彼らはアジア太平洋戦争中の航空隊の戦 友である。

 大阪を壊滅状態にしアンギラスも倒したゴジラは,次に北海道沖の孤島に上陸する。この島での 戦闘で,主人公の一人小林はゴジラの熱線を受けて飛行機もろとも崖に激突する。しかし,その際 に起きた雪崩がヒントとなり,ゴジラを雪崩で埋めてしまう作戦が立てられる。残る主人公の月岡 も志願し,防衛隊戦闘機隊による決死の雪崩作戦が展開,犠牲を出しながらも作戦は成功し,ゴジ ラは雪崩とともに氷中に消える。戦闘機隊の攻撃が,ゴジラに接近し背後の山にミサイル弾を打ち 込むという一歩間違えば特攻となるような命がけの攻撃であったり,犠牲となってゴジラ撃退の きっかけを示すことになる小林が,フライトの前に恋人へのプレゼントを同僚に相談していたり,

忘れていった手帳に恋人の写真が挟まれていたりと,本作品は「水爆大怪獣の恐怖」ではなく,強 敵に挑む命知らずの飛行機乗り達のヒロイックな活躍を描いた。

 前作同様科学者も登場するが,アンギラスの種の特定と,ゴジラを照明弾で誘導できる可能性を 示唆する程度で,前作のような科学力の活躍は描かれない。この作品では,前作のような科学の暴 走に対する危惧や人間に対する不信感は描かれない。冠木(1993)は, 『ゴジラ』では「見えない恐 怖にかられて身を守ろうとする人間のドラマ」が描かれたが, 『ゴジラの逆襲』では人間は「ゴジラ の襲撃から身を守るのではなく,積極的にゴジラに戦いを挑」んでおり,第 1 作が「戦争や科学や 恋に傷つく」人間を描いたとすれば第 2 作は「それらを意に介さず生きてゆく者」を描いていて両 者は補完関係にあると指摘している。

  『ゴジラ』 が東京大空襲後の惨状を思わせる姿を描いて戦争の悲惨さを想起させたのに対して, 『ゴ ジラの逆襲』が特攻隊を思わせる戦闘機乗りのヒロイズムを描いてみせたのは好対照であるが,い ずれの作品も,先の戦争を身近な体験とする中で作られているのは同様であった。

4.2.  『キングコング対ゴジラ』から『怪獣総進撃』へ〜手なずけられる暴力と記号化する武力〜  

 戦争の影をひきずった「創造期」の 2 作品であったが,7 年後の『キングコング対ゴジラ』 (1962)

ではかなり雰囲気が変わってくる。

 本編の主人公となるのは,テレビ局の社員(カメラマンと録音技師)である桜井と古江,彼らの テレビ局に番組を提供しているパシフィック製薬の宣伝部長多湖,桜井の妹ふみ子,ふみ子の恋人 で繊維会社社員の藤田といった企業人である。提供番組の視聴率を上げるため,スポンサーのパシ フィック製薬によって南方の島ファロ島に「巨大なる魔神」探索に派遣された桜井と古江は,そこ で巨大なゴリラの怪物キングコングを発見,日本に連れ帰ることにする。一方北極にはゴジラが出 現し,帰巣本能によって日本にやってくる。二頭の怪獣は日本で対決,決着のつかないまま海に落 ちて姿を消す。これが大まかな筋である。

 映画は,本編,特撮ともにコメディタッチの作品となっている。桜井,古江,多湖には高島忠夫,

藤木悠,有島一郎というコミカルな演技を得意とする東宝俳優陣を配し,軽妙な掛け合いが演じら

れる。キングコングとゴジラの戦いもプロレス観戦の雰囲気で,主人公たちは自社の宣伝用に連れ

(12)

てきたキングコングを応援する。特撮の側もそれまでの重々しい恐怖の象徴としてのゴジラではな く,勝てば諸手を上げて飛び跳ねて喜ぶゴジラや胸毛を焼かれて頭を掻きながら逃げ出すキングコ ング,あるいは二頭が岩をサッカーボールのようにして蹴り合うなど,擬人化されたコミカルな動 作を繰り返す。 『キングコング対ゴジラ』の撮影にカメラマンとして参加した有川貞昌は,特技監督 の円谷英二は子どもが楽しめる映画という営業的なセンスを優先し,その点は,本編部分はコミカ ルでも特撮部分はシリアスなものをとイメージしていた本編監督の本多猪四郎とも意見が食い違っ ていたと回想している(田中ほか 1993) 。

 桜井,古江,藤田ら企業人達は,自衛隊の指揮所にも入り込み,時には作戦も進言する。キング コングを眠らせるのはパシフィック製薬が開発した新薬で,眠り込んだキングコングの輸送の際に 使われるのは藤田の会社が開発した新繊維である。桜井,古江は常に撮影用のカメラと録音機を回 し続けているし,宣伝部長多湖は自衛隊・警察の制止もものともせずどこまでもキングコングを追 いかけている。高度成長期を担う企業人の彼らは皆,生き生きとして元気である。

 自衛隊の作戦立案には 2, 3 名の科学者が参加しているが,全体に陰が薄い。ゴジラが北極海で生 きていたのは「冷凍冬眠」 ,ゴジラが日本に来るのは「帰巣本能」 ,キングコングは 100 万ボルトに 感電したショックで「帯電体質」になって強靭な力を獲得,と説得力のない解説をするばかりであ る。ラストシーンで海に消えたゴジラの生死を問われて答える重沢博士の 「今の僕に言えることは,

人間はあらためて,動植物の自然に適応する力に学ぶべきだ,これだけしか言えないね」という言 葉も何を指していっているのか良く分からない。 『ゴジラ』 (1954)とは打って変わって科学は何の力 も発揮せず,曖昧な言葉を繰り返すばかりである。

 この作品で怪獣に対して出動する軍隊は一度も名称では呼ばれない。しかし,庁舎の入り口の

「防衛庁」のプレート,ヘリコプターの側面や兵士の帽子に「自衛隊」と読み取れる文字が写るシー ンがあるため, 「自衛隊」と理解して構わないであろう。

 自衛隊はまず,ゴジラ上陸に伴って出動するが,いたずらに攻撃はせず,警察と協力しながら避 難民の生命保護に努め,科学者グループを集め作戦を検討する。国連からは水爆の使用の検討依頼 が入るが,それを斥け,毒ガスを充満させた落とし穴に落とす埋没作戦と 100 万ボルトの電流で感 電させる作戦を実行する。キングコング上陸に際しても即応して部隊を展開するが無闇な攻撃をす ることなく状況を冷静に監視する。キングコングが東京に入ってからも,人命優先で砲撃をとどま る。しかし,結果的には作戦は失敗に終わり,最後は,キングコングとゴジラを対決させて共倒れ を図ろうという科学者の提案の作戦に乗って,キングコングをゴジラのもとへ輸送する運送係と なっている。

 前 2 作品に比較して,ゴジラに対して 2 つの作戦行動を行っていることもあって兵士が画面に映 る場面は多く,全体に冷静で的確な判断をする軍隊として描かれているが,映画の見せ場はキング コングとゴジラの対決であり,自衛隊はその前座の役回りである。本編主人公として活躍するのは 陽気で前向きでしたたかで生きのいい企業人達であり,自衛隊の姿は,格好のいいものでも,ヒロ イックなものでもない。

 1960 年には池田内閣の国民所得倍増計画が閣議決定され,日本は高度成長期へと入る。日米安全

保障条約も改定・締結され,人々の関心は戦争や平和の危機から,平和を前提とした経済の成長へ

と向かっていく。そもそもこの『キングコング対ゴジラ』自体が東宝創立 30 周年映画としてアメリ

(13)

カを代表するモンスターであるキングコングを呼んで日本を代表する怪獣ゴジラと戦わせようとい うお祭り企画であり,ゴジラ作品中最高の 1255 万人の観客を動員した。未曾有の経済成長を体験し 始める中で,平和は自明のものとなり,戦争の恐怖も科学の暴走への不安も遠ざかり,時代の主役 はマスコミや企業,気分は陽性で,巨大怪獣の対決も風変わりなプロレスとして楽しんでしまう,

そんな時代の風潮を『キングコング対ゴジラ』ははっきりと描き出した。

 シリーズ第 4 作となる『モスラ対ゴジラ』でも時代の雰囲気は変わらない。この作品の本編で活 躍する主人公は新聞記者酒井一郎とその助手の女性カメラマン中西純子,それに科学者三浦の 3 人 である。彼らが対するのが,モスラの卵を見せ物にして一儲けを企む悪徳興行社の社長熊山とその 黒幕の興行界の実力者虎畑次郎。特撮では,成虫・幼虫の二形態のモスラとゴジラとの戦いが見せ 場となっている。

 静の浦という海岸に巨大な卵が漂着する。 「この浜でとれたものは魚だろうが卵だろうが全部俺 たちのものだ」と主張する網元がこの卵を引き上げる。興行社の社長熊山は,引き上げた漁民から 卵を買い取り見世物にして一儲けを企む。実はその卵はインファント島の守り神モスラの卵で,卵 の返却を求めてインファント島からは二人の小美人 (身長 30cm と設定されている。当時人気のあっ た双子の歌手ザ・ピーナッツが演じていた)がやってくるが,熊山と虎畑は,卵の返却を頼む二人 も捕まえて卵と並べて見世物にしようとする。酒井・純子・三浦らとは心を交わす小美人だが,人 間全般に対しては不信感を抱き,インファント島へと帰る。その後,日本はゴジラに襲われ,坂井 らの上司であるデスクの発案で,坂井・純子・三浦の三人はインファント島にモスラの応援を仰ぎ にゆく。案の定, 「あなた達の世界が信用できない」と援助を断られるが, 「我々だって人間不信のな い世の中は理想なんです。でも,人間が多ければどうしても難しい問題が起きてくるんです。しか し,我々はあきらめません。その理想を実現するために努力していきます。どうか長い目で見てく ださい」という酒井の言葉にほだされて,モスラは日本へ向かうことを承諾する。インファント島 より飛来したモスラはゴジラとの戦いで力尽きてしまうが,卵から孵ったモスラの幼虫 2 体がゴジ ラを撃退する。一方,ゴジラの襲来で事業に失敗した熊山と虎畑は仲間割れをし,熊山は虎畑に射 殺され,虎畑は金を持ち出そうとして逃げ遅れゴジラに建物毎つぶされてしまう。

 視聴率向上を求めて明るく元気に動き回っていた企業人たちを描いた『キングコング対ゴジラ』

とは対照的に,この作品での儲けを求めて右往左往する漁民や興行主,後ろで糸を引く黒幕の姿の 描かれようは醜い。 『キングコング対ゴジラ』が経済成長の明の部分を描いたとすれば, 『モスラ対ゴ ジラ』は暗の部分に着目したと言えるだろう。

 しかしそれでも,本作の本編主人公もまた,新聞記者と見習いカメラマンという民間企業の社員

である。今回は彼らとともに行動する主人公の一人として科学者も登場する。この三浦博士は, 「卵

を返してくれという頼みは断っておきながら自分たちが困ったから助けてくれというのは虫がよす

ぎる」とインファント島へ向かうことを嫌がる酒井に対して, 「困るのは国民なんだから,虫がよす

ぎると軽蔑されてもそれは甘んじて受け,誠意でぶつかってみよう」とインファント島行きを引き

受ける,良識的で人間味のある存在として描かれ,この人間性において主人公足り得ている。言い

換えれば,科学力によって主人公となっているわけではない。科学そのものよりも,ジャーナリズ

ムの持つ社会正義への思いや,科学者の持つ冷静さや良識がこの作品では価値あるものとして描か

れている。ちなみに本作では政治は登場してこない。漂着した卵を調査していた三浦は,熊山に所

(14)

有権を主張され追い返されてしまう。憤慨して関係当局に掛け合ったらどうだと進める酒井に対し て三浦は, 「 『すぐ』で半年, 『よかろ』で二年,審議審議で五,六年」という戯れ歌を披露し,政府 は当てにならないと一笑する。登場シーンはここだけである。

  『モスラ対ゴジラ』に登場する軍隊は「警備隊」である。 「中部,近畿,関東,各軍管区に対し,

第三緊急出動発令,すみやかにゴジラを海岸線に誘導,撃滅を期す。尚,各部隊はできうる限り住 民の生命財産を損なわないよう人口密度の希薄な地点を選んで作戦を実施するよう留意すること」

という指揮官の命令のもと作戦行動に移るが,民間人による発案のモスラをゴジラと戦わせる作戦 に期待したり,自ら立案した電撃攻撃作戦を自らの失策によって失敗させたりと影が薄く,登場 シーンも前作に比べて少ない。 「怪獣が出現すれば,当然何らかの武力が出動して攻撃するはずだ」

という演出・観客双方の認識を満足させるためだけに戦闘を行う記号的存在,怪獣対決の前座的存 在となっている。時代の主役は民間企業人である

2)

 1964 年の『三大怪獣地球最大の決戦』は,ゴジラの宿敵にして人気怪獣であるキングギドラのデ ビュー作として特筆されるが,本編も活劇仕立ての入り組んだストーリーを持ち, 『キングコング対 ゴジラ』以降の昭和期シリーズの成熟を示す作品である。

 王位継承問題から命を狙われ殺し屋の目を逃れるために密かに日本を訪れたセルジナ公国の王女 とそのボディガードを命じられた進藤刑事,北アルプスに落下した巨大隕石とその調査を行う村井 助教授,突如現れて日本各地で怪獣の出現を予言する金星人を名乗る女と彼女を追う東洋放送「2 0 世紀の神話」の取材記者,テレビ番組に出演するために日本に招待されてきたインファント島の小 美人の二人,映画後半では王女を追って日本にやってきた殺し屋や金星人の謎に挑む精神科医まで が加わって展開する本編ドラマに,宇宙から飛来した怪獣キングギドラに,モスラ,ゴジラ,ラド ンの地球怪獣が挑む特撮が絡む。アクションあり,ほのかなロマンスありの本編だけでも楽しめる が,モスラに説得されてゴジラとラドンが渋々地球を守るためにキングギドラと協力して戦うとい う展開も,当時の観客を喜ばせたに違いない。

 しかし,怪獣の擬人的表現が進んでいるのも間違いなく,また,この作品ではついにゴジラは,

モスラという仲介者を置いてではあれ,人間の依頼を聞いて宇宙怪獣と戦う人間の味方となってい る。人間を脅かす恐怖の具現化としてのゴジラは,ここに至って少なくとも地球を守る者としての ゴジラへと,その性格を変え,人間の都合と同期し始めている。

 この作品ではついに,怪獣に対して軍隊の出動場面はなくなってしまう。怪獣の出現に対して,

国会では「国防会議」が開かれ,議員から政府が対策を問われる。 「防衛軍といたしましては,目下 全力を挙げて,ゴジラ,ラドンの行動を厳重に監視しつつ,キングギドラに対しましては,国際合 同軍と緊密なる連絡のもとに,人力の及ぶ限りこれを速やかに撃滅いたすべく行動中でございま す」と 防衛大臣 が答弁する。 「言い訳を聞いているのではない」と責められると「諸君は,ゴジ ラ,ラドンに対して,核兵器を使用せよという勇気がございますか」と開き直り,最後には,モス ラに頼んでゴジラ,ラドンを説得し,飛来した宇宙怪獣キングギドラと戦ってもらうという提案に 国防会議議長共々乗ってしまう。軍関係の人物が登場するのはこのシーンのみである。人々にとっ て軍隊は,防衛のためのリアリティを感じさせる存在ではなくなっている。

 シリーズ第 6 作『怪獣大戦争』 (1965 年)は SF 仕立ての作品で,異星人の侵略ものとなった。前

作でもキングギドラは宇宙から飛来した怪獣ということになっていたが,今作では地球を植民地化

(15)

しようとする異星人のコントールする怪獣ということになっている。

 今回の本編主人公は,地球連合宇宙局所属の宇宙パイロットである。富士一夫とグレンのふたり は,新たに発見された X 星調査に出向くが,そこで,キングギドラのために地上に住むことが出来 ず地下生活を余儀なくされている X 星人に遭遇する。彼らは,富士とグレンに,ゴジラとラドンを キングギドラ撃退のために貸して欲しいと申し出るが,実はそれは X 星人がキングギドラとともに ゴジラとラドンを電磁波でコントロールして地球を植民地化するための策略だった。一度はX 星人 に騙された地球人であったが,地球連合宇宙局は X 星人の怪獣コントロール電磁線を妨害する方法 を開発,また富士の妹の恋人で市井の発明家哲男が開発した防犯ブザーの発生する音が X 星人の弱 点であることが分かり,富士らの活躍によって X 星人は撃退,キングギドラもコントロールから解 放されたゴジラとラドンによって撃退される。

 近未来 SF ものであり,物語の中心は地球連合宇宙局に所属する人々である。彼らは科学者であ り,主人公の二人も優秀なパイロットであると同時に優秀な科学者でもある。X 星人撃退のヒント となる音波を発見するのも民間の発明家であり,本作では,これまで陰の薄かった科学者・技術者 が活躍する物語となっている。今回はカーキグリーンの軍服を来た兵士の姿が頻繁に登場する。飛 来した X 星人の円盤の監視から,X 星人撃退の最終作戦まで無名の兵士たちによって実行される。

しかし彼らは地球連合宇宙局の指揮下で活動しており,その意味では科学者によるシビリアンコン トロールがこの時代には形成されているということであろう。

 すでにゴジラは見慣れた怪獣であり「得体の知れない恐怖」の象徴ではありえなくなってしまっ ている。怪獣同士のプロレスも同じ趣向では飽きられる。前作では宇宙から飛来した強大なライバ ルを登場させたが,そのためにゴジラは地球を守る善玉怪獣の役回りを演じることになった。時代 は米ソの宇宙開発競争のさなかであり,怪獣よりも宇宙人が,そして宇宙へと飛躍する人類の科学 力が,想像上のリアリティを持つ時代になっていた。未知なる恐怖である異星人が人類より遥かに 優れた科学力を持って地球を襲い,地球人は,強大な暴力の象徴である怪獣とともに,自らの科学 力によって危機を切り抜ける。未知なる困難を乗り越えながら,科学技術の発展によって人類の明 るい未来が拓かれていくという物語の中で,ゴジラは,未だ手にすることは出来ないがいずれは自 らのものとなる万能の力の象徴となりつつある。

 次々と未知が既知となり,不可能が可能となっていく高度成長期の最中に 怪獣 の居場所はな いとでも言うかのように,次作,次々作と南海の孤島ものが続く。 『ゴジラ・エビラ・モスラ 南海 の大決闘』 (1966)では,海で遭難した兄の行方を探す漁師の良太,大学生の市野と仁田,そして金 庫破りの吉村の四人は,ひょんなことから盗んだヨットで航海に出ることになる。途中,怪獣に襲 われ,とある島に流れ着く。その島では,世界征服を企む秘密結社「赤イ竹」が原爆を製造してお り,人夫としてインファント島の住民が多数拉致されていた。 「赤イ竹」の秘密基地から逃げ出して きたダヨという娘と知り合った四人は,島民を助け「赤イ竹」の企みを阻止しようとする。偶然島 の洞窟で眠っているゴジラを発見した彼らは,ゴジラを起こして「赤イ竹」をかく乱する作戦を立 てる。作戦は成功,ゴジラは島の近海に棲息するエビラと戦い,四人と島民たちはインファント島 より飛来したモスラによって助け出される。

 翌 1967 年の『怪獣島の決戦 ゴジラの息子』も舞台は海上の孤島である。その島では国連から派

遣された科学者グループが気象をコントロールして島を凍結する実験を行っていたが折しも島に

(16)

あった卵の発するエネルギーに引き寄せられてゴジラが上陸,実験は失敗する。かつて島に訪れた 考古学者の娘で島に取り残されていたサエコは実験に失敗した科学者グループを安全な洞窟へと導 く。卵からはゴジラの息子ミニラが孵る。島には巨大なカマキリの怪獣やクモの怪獣が棲息し,ミ ニラを襲う。気弱で優しげなミニラをゴジラは厳しく鍛えようとする。偶然遭遇したサエコとミニ ラは心を通わせるようになる。怪獣が科学者グループとサエコに襲いかかる。ミニラが応戦,ゴジ ラも加勢する。この間に科学者グループは島の凍結実験を再度実施,実験は成功し島は凍り始め る。ゴジラとミニラを島に残して,サエコと科学者グループは島を脱出する。

 この 2 作品とも怪獣たちがどこともしれぬ南方の孤島で争う物語で軍隊の出動する余地はない。

前者は今様の大学生や金庫破りが力を合わせて秘密組織の悪事を粉砕する活劇仕立て,後者は実験 に失敗した科学者グループが熱病やノイローゼ,怪獣に襲われながら脱出を図る孤島脱出ものと なっている。前者では怪獣たちは偶然舞台となる島近隣に棲息し,人間に上手く利用されている。

後者では怪獣の一頭ミニラは人間の娘と交流を持つようになっている。怪獣は南海の孤島に在って も既に怖れられる存在ではなく,人間に利用され,あるいは人間と交流を持てるほどに擬人化され た存在となっている。

 1968 年には再び異星人侵略ものである『怪獣総進撃』が作られる。ムーンライト SY-3 号と呼ば れる国連科学委員会指揮下にある宇宙ロケットとその乗組員が,怪獣をリモート・コントロールし て地球を征服しようとするキラアク星人と戦い,縦横無尽の活躍をする。舞台は 20 世紀末の 近未 来 ,地球人は月に基地を作り,連日月ロケットが月基地と地球の間を行き来する時代である。これ まで地球上に現れた怪獣も全て小笠原諸島の「怪獣ランド」に集められ,厳重な監視と管理のもと に,科学者による研究が行われている。キラアク星人は怪獣ランドを占拠,リモコン装置で怪獣を 操作し地球を攻撃する。国連科学委員会は SY-3 号を使って敵基地を探索,怪獣の制御を取り戻し,

逆に怪獣を使ってキラアク星人と戦う。今作では久々に軍隊も登場する。設定としてはおそらく国 連の下部組織であると思われる統合防衛司令部の指揮下で活動する「防衛軍」であるが,出動した 戦車隊の車体には日の丸がはっきりとペイントされている。戦闘は,現れた怪獣にミサイルや砲撃 を仕掛けるだけで,結局は怪獣に踏みつぶされて退却するのみである。

 今作で活躍する月ロケット SY-3 号はゴジラの熱線を浴びても動じない。怪獣は人間の制御のも とで外敵と戦い撃破する。ついに怪獣も人間の兵力のひとつとなり科学万能の近未来が描き出され ている。この映画を見た子どもたちの憧れはスーパーメカである SY-3 号と科学によって制御され 人間の味方となった怪獣たちであったろう。

  水爆大怪獣 ,未曾有の恐怖の象徴として登場したゴジラは, 『ゴジラの逆襲』以降『怪獣総進撃』

に至るまでの 10 年余りの間に, 「恐怖」から「驚異」へ,そして高度成長期の中で繰り返し人々の 前に姿を現す中で,見世物化され,馴致され,ついには管理・飼育され人間によって制御される存 在へと変化していった。1963 年には日本で初めての原子力発電が成功, 1969 年には原子力船「むつ」

が進水する。ゴジラという暴力は手なずけられ,それはとりもなおさず,ゴジラが象徴していた原

水爆,人間の制御を越え自らを滅ぼすことになるかもしれない強大な科学力や武力というものへの

恐れや危惧が失われ,それを管理し利用していくことが出来ると信じ始める過程であった。その過

程と軌を一にして,ゴジラとの戦闘に登場する武力・軍隊の描写もまた,戦争の影を引きずるリア

ルな姿から,怪獣が現れたからミサイルを撃つという お約束 を演じるための記号的な存在,記

参照

関連したドキュメント

Orientations are described in terms of functors de- fined on equivariant fundamental groupoids of base G-spaces, and the essence of the theory is to construct an appropriate

が前スライドの (i)-(iii) を満たすとする.このとき,以下の3つの公理を 満たす整数を に対する degree ( 次数 ) といい, と書く..

Part V proves that the functor cat : glCW −→ Flow from the category of glob- ular CW-complexes to that of flows induces an equivalence of categories from the localization glCW[ SH −1

In the second section we summarize several properties of the equivariant cohomology groups that we have found and which we consider of sufficient interest to be pointed out in

The total Hamiltonian, which is the sum of the free energy of the particles and antiparticles and of the interaction, is a self-adjoint operator in the Fock space for the leptons

A partir de ellas se obtienen estadísticas para distintas pruebas de comparación de modelos (logístico vs. saturado, submodelo vs. logístico), con distribución asintótica

向老期に分けられる。成人看護学では第二次性徴の出現がみられる思春期を含めず 18 歳前後から

【通常のぞうきんの様子】